CHICO 1
- Ⅰ -
振り子が時を刻んでいる。静かに響くその音以外には物音はない。
読んでいたはずの文庫本が手元になかった。見ると床でうつ伏せに倒れている。拾い上げようと体を伸ばすと節々が痛んだ。うたた寝をしていたらしい。折れたページを撫ぜながら、窓の外を見る。
昨夜の豪雨は一転して霧雨となり、今は音もなく降り続いている。雨が止む気配はない。石造りの家並みが雨の飛沫で薄く煙っている。歩く人はまばらで、道の所々で傘が花をつけていた。ほとんどが黒い花だ。その下に見え隠れする顔はどれも俯き加減である。ただ、向いの家の軒先に植えられた紫陽花だけが、たおやかに空を仰いでいた。気の滅入る朝だった。
窓に映るやつれた四十路女の頬には涙の痕が伸びていた。息子の夢をまた見ていたのかもしれない。
薄ぼんやりとしていて腰をあげる気力が湧かない。もう少し体を休めていたかった。普段より重く感じられる頭を安楽椅子の背に預け、再び目を閉じる。膝の上で手を組んだ。一つ大きく息を吸う。眠りに落ちないようにだけは気をつけねば。
時を小さく切り刻む振り子時計の音だけが、私を現実に繋ぎ止めていた。
こつこつ。
こつこつ。
こつこつ。
突然、電話のベルが鳴った。
電話は目の前の電話台に置いてある。だが、手は伸びなかった。誰かと話せる気分ではなかった。
さしずめくだらない商品の電話営業か何かだろう。どこで情報が漏れているのか知らないが、これまでにも何度か女一人で暮らしていることを知った上で架けているような電話にぶち立ったことがある。
それで、そのうち諦めるだろうと鷹揚に構えていたが、電話はしつこく私を呼ばわり続ける。ひどく粘着質である。
ふと、別の可能性に思い至る。火急の報せという可能性はないだろうか。例えば——例えば、息子が見つかったとか。だとしたらぼんやり瞑想に耽っている場合ではない。
私は安楽椅子から腰を上げた。
「……もしもし」
「姉さん? 私」
「あら……」
声が緊張感を失う。
電話の相手は妹だった。話したくない相手というほどではない。けれども特に話したい相手でもなかった。私はまた安楽椅子に身を埋める。
「ごめんね。寝てた?」
「ちょっとね」
大きな欠伸と伸びが出た。段々と目が醒めてくる。
「私ね、明日そっちに帰るんだけど」
「明日? 急な話ね」
曰く、今回の帰郷はバケーションではないらしい。クライアントがこの町の近傍に住んでいるため、仕事上やむを得ず里帰りするのだだと彼女は言った。妹は小さな広告会社を営んでいる。
「近いうちに時間取れる?」
「店を開けながらうたた寝してるパン屋が忙しそうに見える?」
「じゃ決まり。今回は暫くそっちに滞在するから、ランチでも一緒にどう」
「……今、何て言った?」
「いや、だから一緒にお昼でもどう、って」
応えに窮した。一体どういう風の吹き回しなのだろう。
若い頃ならいざ知らず、今とはなってはお互いに良い大人で、それぞれの生活というものがあった。仕事と家事に忙殺され、空いた時間は子育てに費やされる。妹には妹で家族がいるし、私も三年前までは夫と息子の三人暮らしだった。自分の時間がなかなか確保できなかったせいで、妹とは今みたいに思い出したように架かってくる電話で近況を伝え合うのが、関の山だった。
「どうしたの急に」
「どうって言われても……ただの気まぐれよ」
「気まぐれ」
「そう、気まぐれ」
釈然としない部分はあったが、妹の行動はいつも唐突だから、それ以上詮索するのは止めにした。妹が気まぐれを起こすのなら私も便乗して、柄にもない「ランチ」を楽しもうか。
ところが私がいいわよと返事をするよりも早く、受話器から子供の泣き声が漏れ聞こえてきた。
未だに子供の泣き喚く声を聞くと、余計なものを思い出してしまう。
朝の日差し。
泥だらけの姪っ子。
泣き崩れながら姪っ子を抱き締める妹。
神妙な表情のまま私とは決して視線を合わせない警察官。
その警察官の胸倉に掴みかかる夫。
「姉さんごめん。ちょっと」
「……うん。見てらっしゃい」
そっと左胸に手を当ててみる。動悸がした。
落ち着け。
落ち着きなさい。
落ち着くのよ。
大丈夫。何も起こりはしないから。
受話器に耳を当てたまま、何かに縋るような気持ちで窓からの景色を眺めた。
窓の外には小路が広がっている。特筆すべきことは何一つない。吐瀉物と血痕がそこらじゅうに飛び散った通りに、コンテナ型のゴミ箱と放置されたゴミ袋、壊れた自転車、ネズミの死骸、木っ端や紙屑。それらが雑然と打ち捨てられている。身を乗り出すと建物の影に浮浪者が身を縮めているのが見えた。
陰気な通りである。不潔でもあった。そして、雨降りの日にはその陰気さは更に強まり、死の影すらも想起させる。それでもその景色を見ているうちに動悸は治まりつつあったから不思議だ。汚いものを取り繕う事なく開陳するその正直さが、私の性に合っているのかもしれない。思えば、子供の頃から窓の外の景色を食い入るように見つめていた覚えがある。
子供の武器は想像力だ。ある子供は石くれを金塊に、ある子供は箒をギターに見立てた。そして私は窓枠を舞台のステージとした。
ちょうど「下手」から子供の一団が登場した。
子供の数は三人。皆一様に喪服のような衣装を身に纏っている。祭にはまだ日があるというのに子供達は既に仮面まで身につけていた。随分気が早い。
一人は鶏の、一人は蛙、最後の一人は雄羊を模した仮面を被っている。仮面の意匠は例によって禍々しいが、そこはさすが子供といったところか。どこか間が抜けていて一種の愛嬌すら漂わせている。手作りであることが一目でわかった。
子供たちは降りしきる雨をもろともしない。雄羊の子供を先頭にわあわあ歓声を上げながら走り出ると、「下手」を顧みて何かを囃し立て始めた。私の位置からは子供たちの視線の先までは窺い知れない。ただ、子供たちが一様にぴょんぴょん飛び跳ねたり手招きをしていたりしているところから判断するに、誰か親しい人物が後からやってくるのだろう。
その時、耳に当てた受話器から声が響いた。
「ごめんなさい」
「いいわよ。別に退屈してないから」
「そういう意味じゃなくて」
妹が言わんとするところは重々承知した上でとぼけたつもりだったが、意図が伝わらなかったらしい。肝心な時だけ察しが悪い。
「ところで、ランチはどこにするつもり?」
「いいの?」
「喜んでお付き合いするわ」
リップサービスをする。喜んで、だなんて気恥ずかしいにもほどがある。けれども、普段から捻くれた物言いをしている自覚があったから、偶に「素直な反応」を示すと相手が色めき立つことを私は心得ていた。そして大袈裟な物言いが辛気臭い雰囲気をたちどころに吹き飛ばすことにも。
案の定、妹は行きたい店について熱心に語り始めた。こうなると、私は罪人の懺悔に相槌を打つ神父様のようなものだった。適当な相槌を打ちながら、意識は完全に窓の外に向いていた。
「四人目」はまだ現れていない。鶏と雄羊の子供が相変わらず人を呼ばわっている。くぐもった声からは確かに怒気が感じられた。こんなに人を待たせて、何をしているのだろう。
蛙の子供はとうの昔に匙を投げたらしく、雄羊の子供の側にしゃがみ込んでいた。小枝で石畳の隙間をほじくり回している。小枝が折れると蛙の子供はそれを投げ捨て、雄羊の子供を見上げた。羊と蛙が二言三言交わす。やがて羊は小さく頷くと蛙を引っ張り上げた。そして鶏と一緒に「上手」へ退場してしまった。何ということのない光景だった。
電話台の隣に伏せた文庫本を取り上げる。
適当に相手をしているのを知ってか知らずか、妹はまだ与太話を続けている。何かの病気なのではないかと思うくらい妹は饒舌だった。こちらの心中などお構い無しだ。
気づくと文庫本の角で電話台で小突いていた。初めは柱時計が時を刻む音に合わせて拍子を取るが、そのうち柱時計の音の間隙に合の手が入る。
こつ、とん。
こつ、とん。
こつ、とん。
戯れに文庫本を駒のように回転させると、バランスを失った文庫本が床面に墜落した。文庫本を拾い上げる。
そして再び体を起こした瞬間、受話器が掌を滑り落ちた。
窓の外。
雄牛の頭蓋骨がまっすぐにこちらに見据えていた。
「エドワード……」
その出で立ちは、最後に見た息子の姿と寸分の狂いもなかった。黒いローファーに白いソックス、黒いハーフパンツ、そしてダブルのブレザーの下は白いボタンシャツ、そして夫がお面の代わりにとあてがった雄牛の頭蓋骨。
洞窟のように黒々とした眼窩がしかとこちらを捉えている。蛇に睨まれた蛙のように、私はその場で凍りついた。目が離せなかった。
本当にエドワードなのだろうか。
だとしたらなぜそんな遠くから私を見つめているのだろう。
いや、もしかすると別人かもしれない。
私は安楽椅子を蹴飛ばすと店の玄関を出た。針のような雨の洗礼を受けながら店の裏手に回る。そして裏通りに入った瞬間、膝から崩れ落ちそうになった。
雄牛の子供の姿は跡形もなく消えていた。
散乱するゴミを避けながら、子供が立っていたあたりに近づく。そこは雨に濡れそぼった石畳以外に何もなかった。前方に目を凝らすが、人影は見当たらなかった。まるで映写機で映し出した像のように、忽然と、子供の姿はかき消えてしまっていた。
「本当にエドワードなの……?」
どこからも答えはなかった。
CHICO 1