愛家族シンドローム

愛家族シンドローム

 こどもの頃の話。
 わたしが泣いていると、決まってあの人は現れた。
 高校生くらいだろうか。華奢な身体に、色素の薄い肩ほどまでの髪。名前を訊いても「そのうち分かるわ」と曖昧にして。
 そして彼女は黙ってわたしの頭をなで、やさしく微笑むのだ。
 わたしはなんだかあたたかくなって、いつの間にか泣き止んだ顔を彼女に向けて、同じようににっこりと笑うのだった。
 でもある日、彼女はわたしに一言ささやいて、それ以来姿を消した。
「ねぇ、あかね。あなたはいつか、大切なものをなくしてしまうわ。あたしはそのとき、もう一度だけ、あなたに会いにくる」

 ケータイのアラームを止めて目覚めると、部屋はまだ薄暗かった。まだ夜が明けたばかりかなとも思ったが、そんな時間にアラームは鳴らない。ともすれば――
 カーテンをすこしだけ開けてみる。なるほど、やっぱり雨だったか。空一面を覆うどんよりとした雨雲にため息をこぼす。ただでさえすべてが億劫になりがちな月曜日にこの天気。陰鬱ここに極まれりってとこかしら。
 顔を洗って制服に着替え、台所のお母さんにおはようと声をかける。
「……朝ご飯できてるわよ」
 無表情でテーブルの目玉焼きとサラダに目をやるお母さんに返事をし、自分の席に座る。すでに正面に座っていたお父さんに同じように挨拶を放ってみるけど、やっぱり今日も無言が返ってくるだけだった。黒縁めがねを光らせて、難しい顔で新聞を読んでいる父。それを咎めない母。家族三人、黙々と食事を済ませる。
 いつからこうなったかなんて覚えていない。確かなのは、これが現状ってことだけ。
「ごちそうさま。いってきます」
 そしてわたしは、それを受け入れている。

 ほんと、いつからなんだろう。
 お父さんとお母さんが話さなくなって、わたしもそうなった。子供のころは、学校であったことや友達のこと、たくさんしゃべっていたのに。ふたりともちゃんと聞いてくれて、一緒になって笑っていたのに。
 いつからだろう。わたしは、自分の人生がつまらないと思うようになっていた。
 だから、もう諦めていた。どうでもよかったんだ。
「あかね。お父さんとお母さん、別れようと思うんだ」
 夕食のとき、お父さんはそう言って、いつもどおりの難しい顔をわたしに向けた。
「お前はどっちについていきたい? 好きなほうを選びなさい」
 好きなほう? だったらわたしはどちらにもついていけない。どちらも好きじゃないから。
「……もういいよ。疲れた」
「あかねっ? ちょっと待ちなさい!」
 わたしの中で、なにかが爆発していた。今まで溜め込んできたこと。言えなかったこと。
 わたしは、家を飛び出した。

 雨はまだやまない。
 それはまるでわたしの心のようで……って、まるで三流の詩人みたい。変なの。
 傘も持たずに出てきたから、全身ずぶぬれだ。顔に張り付く前髪がうっとうしい。内側まで水の染みた靴がいやな音を立てて気持ち悪い。
 それでも、やんでほしくない。激しく降り続けて、すべてを押し潰してほしい。
 ふと気がつくと、わたしは歩道橋の上で座り込んでいた。眼下に流れる車のライトはひどくまぶしくて、とても見ていられない。向かい来る車はあっという間にわたしを追い越し、ものすごい勢いで背後へと消えていく。わたしもあんなふうにどこかへと消えてしまえたら、どれだけ楽だろうか。
 のそりと立ち上がる。柵に手をかけて、片足を乗り上げる。柵の向こう側に出てしまうと、開放感に包まれた。わたしをここに繋ぎとめておくものは、もうなにもない。
 わたしはそっと、手を離した。
 身体がふわりと浮いて、降り来る雨に背中を押されるように車道へと――
「あかね!」
 柵を離れたわたしの手をつかむ、力強い手。
「お父さん……お母さん……」
 上半身を乗り出して、わたしへと手を伸ばすお父さん。そしてお父さんを支えるように腰にしがみついているお母さん。ふたりともずぶぬれだ。傘くらい差せばいいのに。いい大人がなんとみっともない。
「大丈夫だ、あかね。大丈夫だから」
 なにが大丈夫なんだろう。うわごとのように繰り返しながら、お父さんはゆっくりとわたしを引き上げていく。
「母さん、もう少しだ。もう少しだけがんばってくれ」
「えぇ。がんばって、あなた」
 さすがは二十年連れ添った夫婦といったところか。こんなときは息がぴったりだ。
 そう。こんなときだけ……!
 今さらそうやって仲良さそうに振る舞って、わたしが心を入れ替えるとでも思ってるのっ?
 思い切り歩道橋の端を蹴っ飛ばしてやった。
 わたしの身体が大きく外に飛ぶ。これで終わり。ざまあみろ。
 驚愕の表情を浮かべるふたりににやりと笑い――そして目を疑った。
「なんで……」
 お父さんの手が離れない。手のひらに接着剤でも塗ってあったのかと思うくらい、その手はしっかりとわたしの手を掴んだまま離れなかった。
 自然、お父さんの身体が外へと引っ張られる。
 なんで? なんで離さないの?
 お父さんを見ると、なぜかやさしそうに微笑んでいて。
 馬鹿じゃないの? 死んじゃうよ? なんで? ねぇ、なんで?
 分からない。でも……ほんとは分かってるんだ。それは――
「思い出した?」
 突然、背後から声が聞こえた。
 やさしくて、あたたかくて、ひどく懐かしい。
「……また会えたね」
 わたしが言うと、「約束したからね」と声は笑った。
「あなたがなくしてしまった大切なもの。あなたが忘れてしまった大切なこと」
「うん。思い出したよ」
 そう。思い出した。お父さんとお母さんがわたしを必死に助けようとする理由。
 なんでこんな簡単なことを忘れてしまっていたのだろう。
 それは――家族だからだ。
「また、会えるかな?」
 背中に声をかけると、その人はわたしの頭をなで、あのときと同じように頭をなで、
「あなたはもう大丈夫よ」
 夢から覚めるように、すうっと、消えた。

 気がつくと、わたしは歩道橋の内側に引っ張り戻されていた。
 お父さんは「母さんががんばってくれたから」と言い、お母さんは「お父さんがあかねの手を離さなかったから」と言う。そう言って、目が合って、気恥ずかしそうに視線をそらした。今までのわだかまりとかぎこちなさとか、そういうのを全部雨が洗い流してくれたみたいで。
 空は相変わらず真っ黒なのに、なぜか、ほんのちょっとだけ、明るいかなと思えた。
「でも、あのときちょっと不思議な感じがしたんだ」
 ずぶぬれのまま座り込んで、お父さんは言った。
「あかねの身体が宙に浮いて、でも、それから押し戻されたような感じがしたんだよ。まるで、誰かが反対側からあかねを押してくれたような」
 首を傾げるお父さんに、お母さんは「ひょっとしたら、あの子が来てくれたのかもしれませんね」なんて言って。
「あの子って?」
 わたしが問うと、お母さんはにっこり笑って教えてくれた。
 わたしには姉がいたこと。姉は生まれてこなかったこと。
 そしてわたしは思い出す。こどもの頃、わたしの頭をなでてくれた彼女の顔。どこかわたしに似た、彼女の顔。
「ねぇ、お母さん。お姉ちゃんの名前って考えていたの?」
 その日、わたしはようやく、彼女の名前を知った。

愛家族シンドローム

三題噺「忘れ物」「再会」「雨」

愛家族シンドローム

「あたしはそのとき、もう一度だけ、あなたに会いにくる」

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-06-13

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted