青年党奮闘記

長岡徳治

青年党奮闘記

青年党奮闘記     

目次
第一章 青年党
第二章 新米国会議員
第三章 尖閣問題
第四章 経済混乱
第五章 政権獲得
第六章 外務委員会
第七章 対中政策





登場人物
千房之介 ― 経済学博士、就職難のため青年党から立候補、政治家となる
若狭蔵人 ― 千の指導教授、青年党のブレーンとなる
金香蘭  ― 台湾人留学生、千の秘書となる
夏目克己 ― 青年党々首
吉田寅蔵 ― 青年党幹事長
橘太郎  ― 青年党議員、尖閣列島を守る会々員
清水純子 ― 青年党議員、憲法九条を守る会々員

第一章 青年党

若狭蔵人は老眼鏡のフレーム越しにじろりと千房之介の顔を見上げた。椅子に座った姿は教壇に立っている時よりずっと小柄に見える。東都大学教授でインフレ経済に関しては日本でも指折りの権威である。かたわらのビニール張りのソファーを指さして言った。
「座りたまえ」
研究室の書架は書籍とファイルで一杯であった。教授のデスク上には書きかけの原稿用紙が乱雑に置かれていた。
教授はゆっくりとした動作で、インスタントコーヒーの入ったカップにポットからお湯を注いでくれた。何から言い出そうか迷っている風で、自分のマグカップに注いだコーヒーを飲んでから、おもむろに切り出した。
「君の才能については何の疑問もない。学部生時代には学生運動の指導者として活躍し、院生になってからも剣道部の師範をしながらまずまずの博士論文をものにした。
しかし成績はほどほどでトップクラスとは言えない。どの大学でも入学者の減少で教官の定員を削減し、教授の定年延長で若手研究者の採用を手控えている。いろいろの研究機関も同様で、新規採用数は極端に減ってしまった。
済まないが、私が紹介してあげられる研究者のポストはない。研究者としての就職はあきらめて、民間企業の就職口を探した方が、まだ可能性があるんではないかと思う。しかるべき会社の調査部あたりに良い口がないか、就職部に相談してみてはどうだろう。就職試験を受けさせてくれる会社があったら、私から推薦状を書いてあげよう」
「わかりました。その時はよろしくお願いします」
千房之介は礼を言ってから残ったコーヒーを飲み干した。カップの底にたまったコーヒーの苦さと砂糖の甘さをかみしめながら研究室を辞した。

就職部は管理棟の二階にある。就職相談窓口の事務員が無表情な顔で応対した。
「パソコン画面に社員募集中の会社リストを表示してあるので、まずそれを見て下さい。その中からどこに応募するかは貴方次第です。どれだけ可能性があるかは、就職指導教官が相談に乗ります。成績表は持ってきましたね」
千は新聞広告などでなじみのある幾つかの会社名をメモに書いて相談室に入った。
教官は千に折りたたみ椅子を勧めてから、自分も会議用テーブルをへだてて向かい合って座った。
千の書いたメモと成績表を見比べた教官は説明を始めた。
「海外企業との競争に勝ち抜くためのコスト低減で、どこの会社も社員数を減らそうとやっきになっている。そこにもってきて年金支給開始時期の繰り延べだから、どの会社でもベテランの再雇用を優先せざるを得ない。そういったわけで、今年の新規採用は極端に減っている。そのことは知っているよね」
「はい。承知しております。しかし就職試験は受けさせてくれるんでしょう」
「それは受けさせてくれる。しかしはっきり言ってどの会社も可能性はないね。学部生なら中小企業を推薦するところだが、博士となると会社の方で敬遠するだろうね」
「・・・・・・」
「就職部では斡旋できないが、予備校講師や家庭教師をしながらチャンスを待つ他無いと思うよ」
「・・・就職浪人ですか」
「そういうことだ。そういう学生が五万といるんだ」

ある程度予想していた結果ではあったが、やりきれない思いを抱いたまま管理棟を後にした。七月の太陽の下、照り返しの強いアスファルト舗装路を通ってとぼとぼと正門まで歩いた。
そこでポケットのスマートフォンが鳴った。耳に当てると聞き慣れた声が飛び込んできた。
「もしもし房ちゃん、元気かや」
ふるさとのお袋だった。
「まあ元気だよ。そちらはどう」
「おとうが定年で工場をやめた」
「暇になって、何かやってるかい」
「うんにゃ。一日中うちにいて顔突き合わせてる。例の調子で、お互いに当てこすりやら何やら、好き放題言い合ってるだ」
「そりゃ大変だね。ちょっと待った。一句できた。

当てこすりますます冴える差し向かい

どうだい」
「そんなひどいことはねえ。あれでも本人は幾らか気を使っているつもりらしいよ」
「そうか。そんならこんなのはどうだい。

定年後ちょっと気配りするあなた

なんてね」
「それほど気を使ってるわけでもねえ。お互いに軽口言って笑い合ってることの方が多い」
「結構なことじゃない。

老眼鏡あちこち探し笑いあう

 こんな具合かな」
「まあ、そんなとこだな。そちらはどうだね」
「体は元気だけどね。気分は最低だよ」
「どうしたね。いい日よりじゃねーけ」
「就活で苦労してるんだよ」
「しゅーかつ? 何だね、それ」
「就職活動だよ。どこの大学も会社も、老人優先で若い者を雇ってくれないんだよ」
「他の衆はともかく、房ちゃんは博士なんだもの、どこに行ったって引っ張りだこだっぺ」
「その博士だから、余計大変なんだよ」
「まあ、あれだけ勉強したんだから、見る人はチャント見てくれてるって。オラ、全然心配してねえ」
「ったく。わかってないな。ともかく当分は就活で忙しいんだ。じゃ、切るよ」
「都会の者はせっかちだな。じゃ、就職決まったら連絡してな」

正門前の広場は大学と俗世間の境界線である。学生の頭もそこでマックスウェーバーからマクドナルドに切り替わる。
広場の中ほどに停めたミニバンの屋根に乗って中年の男が演説をしていた。二〇一二年の衆議院選挙以来四年、二〇一三年の参議院選挙以来三年が経過し、自民党内閣が衆参両議院同時選挙を行うことを決定し、現在行われている選挙運動であった。
どこかで見た顔だな。そうそう新聞でも話題になっている新興政党の青年党々首だ。夏目某といったな。信号を待つ間、千は背中で演説を聞いていた。迫力満点の演説である。しだいに千は夏目の方に向きを変えていった。信号が青になっても聞き続けた。
演説のテーマは年金の世代間格差であった。夏目は若い世代がどれだけ不利な立場に置かれているかを訴えた。
「この問題を解決するには、君たち若者がもっと発言しなければなりません。その代表として青年党は立ち上がったのです。今の日本は老人に支配されています。このままでは若者の声は国会に届きません。もっと若者の代表を国会に送り込もうではありませんか」
千はもっともだと思った。しかし周りを行く学生は誰も立ち止まらない。信号が青に変わると、次々に通りを向こう側に渡って行くばかりであった。若者は試験や就職のことで頭が一杯なのだ。
 ふと気がつくと、顔見知りの台湾人留学生金香蘭が千の傍らに立っていた。香蘭が話しかけてきた。
「二〇年三〇年先の社会に生きるのは、今の若者です。しかし現在の政治を動かしているのは老人ばかりです。他の国では若者が政治を動かそうと立ち上がっているのに、日本の若者は自分のことにしか関心がありません。これではいけないと思います」
夏目が演説を終えた時、香蘭は拍手をして「青年党ガンバレ」と声をはりあげた。千は気恥ずかしさも感じたが、香蘭につられて一緒に拍手をした。
青年党のスタッフは、そこでの街頭演説を終えて次の会場に向かう様子だったが、一人が千と香蘭の所まで来て、「ご声援感謝します」と言った。演説台の高い位置からも二人の声援がめだったのだろう。
「この後、個人演説会場に移りますが、お差し支え無かったらご一緒願えませんか」
どうせ暇なのだ。二人は青年党一行の乗るミニバンに同乗した。

二〇二〇年の東京オリンピック開催に向けて首都高速道路の改修工事が始まっており、道路はいたるところで渋滞していた。一五分ほどかかってやっと行き着いた個人演説会場は、歩いても大差ない時間で行ける近所の公民館だった。夏目が演説をし、何人かの若者が声援をして演説会は終わった。ここでも関心を示した若者数人が加わって、懇親会が始まった。
「本当はビールくらい配りたいんですが、それをやると選挙違反になりますので、飲みたい人は向かいのコンビニで買ってきて下さい」という主催者側の声に促されて、何人かがビールを買いに行った。節電で冷房の効きの悪い公民館の室内は、まさにビールを飲みたくなるような環境だった。        
懇親会に参加したメンバーは、千や香蘭と同じような若者たちであった、夏目の話術に多くの若者が引き込まれた。演説よりも座談の方が人を引き付ける人物だった。多くの若者にかこまれながら、夏目は浮かれていなかった。
「街頭演説会で関心を示してくれた人は、全体の中のほんの一部だった。ほとんどの人が無関心だった。演説台の上からそれがよくわかった。なぜだろう」
若者のほとんどは学生である。千はその中では年長であり、また話しているうちにリーダーらしい雰囲気を醸し出していた。皆の顔を見回した夏目の目が千のところで止まった。千はその時に感じていた率直な感じを披露した。
「若者は、年金のことなんか関心を持っていないんじゃないですか。そんなものは遠い将来のことです。今、若者が関心を持っているのは、就職のことです。今の日本では老人の雇用確保が優先され、そのために若者の就職が厳しくなっています。若者を引き付けたかったら、そのことを訴えるべきじゃないでしょうか」
千がそう言うと、周りの若者たちはそうだそうだとうなずいた。夏目はこのことを知識として知っていながら、その重要性についての認識が足りなかったのだ。皆の賛同する声を聞いて、夏目は初めて若者の本当の関心事に気がついたのだった。
「次の演説会では、千さんに応援演説をお願いしたいけれど、如何でしょうか」
就職活動を通じて世代間の不平等について不条理を感じていた千は、快く引き受けた。

さすがに街頭演説までは付き合えなかった。しかし個人演説会で、千は老人の就職を優先するために若者が不利益を被っていることを諄々と説いた。それは選挙演説というよりは、講義のような調子であった。それが多くの若者の心をつかんだ。
「この現状を正すには、若者が投票に行き、若者の代表を国会に送り込まなければならない。それが青年党である」と結んだ時には、演説会場を拍手と声援が渦を巻いていた。
演説が終わって控室に入ると、貧相な老人が握手を求めてきた。千が戸惑っていると、夏目が紹介してくれた。
「幹事長の吉田寅蔵さんです」
千の不審そうな顔を見て、夏目が言った。
「多分、青年党のイメージに合わないと思ってらっしゃるんでしょう。しかし吉田さんは組織を守るために不可欠の人物です。今にわかりますよ」
吉田が言った。
「我が党の支持率は大幅に上昇しました。比例区の候補者リストを追加しなくては、死に票が出そうです。千さんの名前もリストに載せてかまいませんか。党首も、あなたなら青年党のイメージに合うと思ってますよ」
千は深く考えもせず「かまいませんよ」と答えた。
夏目は「また失言しちゃったかな」と吉田に笑いかけた。
吉田は軽く受け流した。
「〝青年党のイメージに合わない〟ですか。聞きなれているので、気にもなりません」

それ以降、千は夏目党首とともに街頭演説を行い、演説会場をめぐり歩いた。ある会場で夏目の演説に対して質問が出た。
「青年党は、尖閣問題についてどう思っているんですか」
夏目は一瞬躊躇してから答えた。
「国益を第一に考えます」
質問者はその回答に満足しなかった。
「具体的には、どうすべきだと考えておられるんですか」
「これは交渉事です。我が国の国益を守るために、最大限の主張をするとしか言いようがないでしょう」
会場の質問者はさらに食い下がってきた。
「それは当然です。しかしそれで片付くとお思いですか。最終的にどういう形でまとめるべきだと思っているのですか」
夏目は答えた。
「これから政府が交渉をしようという時に、着地点について意見を言う訳にはいきません」
「政党はその理念、長期戦略にもとづいて政策を決めなければなりません。その理念や長期戦略に賛同する時、私たちはその政党を支持するんです。単に国益を守るというだけでは、私たちが投票するにあたっての判断材料になりません」
演説会終了後、夏目が汗を拭きながら言った。
「あの質問には参った。私個人としての意見はあるけれど、党としての方針はまとめていなかった。これからも予想される質問だ。国民が納得のゆく方針をまとめなくてはならんな」
千が尋ねた。
「青年党は世代間格差を是正するために活動する党です。この問題には関心ありませんということではいけませんか」
「これだけ重要な問題に対して関心がないという態度では、国民の支持は集められまい。それでは政権は取れないよ。ちょうどよい機会だ。どう対処すべきか、皆の意見を聞かせてくれんか」
選挙応援に集まっている若者たちから様々な意見が出た。
「政府は弱腰すぎる。我が国の考えを堂々と主張し、実効支配を強めるべきだ」
「それでは中国の反日感情を高めるだけだ。中国は絶対引き下がらんよ。強硬策をとると経済取引に多くの悪影響がある。貿易に従事している企業にとっては大きな迷惑だ。中国との関係を悪くしないように配慮することが必要だ」
「確かに不必要に中国を挑発することはおろかだ。いずれ交渉で決着をつけることが必要だ。しかし交渉を少しでも有利にするためには、弱腰を見せたらまずい。交渉になるまでは、こちらの言い分を最大限に主張すべきだ」
「われわれは野党だ。野党としてどういう態度をとったら政府間交渉を有利にできるかを考えるべきだ。交渉の足を引っ張るような行為は日本にとってマイナスだ」
「では自民党に全権委任なのか」
「政権をとった時に、我々の信ずる政策を行えばよい」
「それが今までの自民党の政策と大きく違っていたらどうなる。政権交代したからと言って主張が大きく変わったら、交渉はぶち壊しになるぞ」
「うーん。それは問題だな。どうしたらいいだろう」
「政権が代わったからといって、外交政策が大きく変わるということ自体問題だな。それはつまり前政権か、新政権のどちらかの外交政策が国益に合致していないことを示すものだよ」
「そうだ。国益を守るという立場に立てば、政権が代わっても政策に大きな変化がある筈はない」
「それなら、外交だけは与野党の知恵を集めて政策を決め、政権交代があっても大きな方針の変更がないようにしなければならない」
「それは重要なポイントだ。そのための具体策はどうする」
「与野党議員からなる外務委員会が政策を決めるべきだ」
「そこで与野党の政策が一致しない場合はどうなる」
「国益を守るという目的が一致しているのに、何で政策が一致しないのだ」
「与野党の情報源が異なっていることが問題だ。特に野党は外務省の情報をもっていない。その委員会に専門家の意見や外務省の情報を集めて、同じベースに基いて議論すれば、極端な意見の相違は出ないだろう」
「じっくり議論するためには、委員会の人数があまり多くても困るな。人数を二〇人ぐらいとかに制限しよう。外務大臣もその委員会メンバーから出すようにすべきだ」
「そうだ。そうすれば外交の一貫性を保てるぞ」
議論を聞いていた夏目が口をはさんだ。
「ちょっと待ってくれ。みんなの議論はなかなかいい線を行っていると思う。しかし国際関係は外交政策だけでは決まらないよ。
中国や韓国との関係悪化の一つの原因は、首相の靖国参拝だ。首相が靖国参拝を行ったのは、外交政策ではなく自らの信念を貫くためだったのだ。これに対して外務委員会の意見は無力じゃないかな」
「それは確かにそうですね。しかし外務委員会は、その行為が外交にどれだけの悪影響を及ぼすかを検討して意見を述べることはできる筈です」
「もし首相がその意見を無視したらどうなる」
「あとは、国民がそのような首相ひいてはその首相を担いだ自民党を支持するかどうかですね。また、そういう問題に対しては、マスコミも関心を持つ筈です。国民の間で議論が行われ、世論の動向も明らかになってゆくのではないでしょうか」
「外務委員会やマスコミが首相を攻撃したら、中国や韓国も関心を持つだろう。そうなったら、日本の内政問題である筈の首相靖国参拝が国際問題に発展する。それでもいいのか」
「中国や韓国はなぜ首相の靖国参拝なんかに関心を持つんだろう。首相が靖国を参拝したって、それが彼らに損害を与える訳ではないのに」
「それが日本の軍国主義復活を象徴する事柄だと思っているからだろう」
「日本は第二次大戦後、平和国家としてやってきた。それは戦後の歴史を振り返れば明らかだ。何で中国や韓国は、日本の軍国主義化などというありそうもない幻想を抱くのだろう」
「その理由が何であれ、彼らは軍国主義と靖国参拝を結びつけてしまったんだ。国民に対してもそのように説明している。今更そんなことはありませんと言えないだろう。そうなったら、日本政府は軍国主義ととられるような行為は避けた方が得だろう」
「まして靖国参拝には何のメリットもある訳ではないのに」
「それは言いすぎじゃないか。これまで兵士たちは、死んだら靖国神社に祀られるということを心の拠り所として戦闘に参加し、危険な任務についてきたのだ。それは過去の話だけでなく、これから兵士になる若者にも言えることだ。国家として戦死者に敬意を表することは、軍隊を維持する上で必要不可欠なことなのだ。どの国も戦死者に敬意を表する施設を持っているのはそのためなのだ」
「靖国神社も、戦死者を祀ることだけに専念していればよかったのだ。しかしA級戦犯のような、侵略に責任をもつ政治家や軍トップまで祀るから、侵略された国から苦情が来るのだ」
「その時の政治家が、戦犯として処刑されるような犯罪的行為をしたと言えるかどうか疑問だぞ。戦争は、国対国の紛争解決の最後の手段として、それまでも行われてきたことだ」
「そういう考えは、戦争が王様や貴族の間だけの勢力争いとして行われ、一般民衆にひどい迷惑を及ぼさない範囲ですんでいた時代の考えだ。戦争に伴って、都市無差別爆撃とか民間人の虐殺とかが避けられないようになったのだから、その損害に対して責任をとることは当然だろう」
「そういう民間人の大量殺害なら、日本だけでなくアメリカだってやっているよ。原爆や都市の絨毯爆撃なんてひどいものだ」
「本来なら、アメリカの戦争責任者も罰するべきだ。しかしそういう法廷がないために罰してないだけだろう。それだからと言って、日本の戦争を引き起こした責任者を罰しないでよいというわけにはゆかない」
「日本の場合には、あの戦争によって三百万人の死者が出た。また空襲で日本中が焼け野原になってしまった。日本国民としても、戦争を引き起こした責任者を罰するべきだ」
「それは刑法に基づかない処罰だ。法治国でやるべきことじゃない」
「刑事罰を加えられないとしても、政治的責任は負わすべきだ」
「ちょっと話がそれちゃったな。ともかくA級戦犯を合祀したことは、あとあとまでの紛争の種をまくことになった。それがまずかったのだ」
「しかしA級戦犯の合祀は国として決めたことでなく、靖国神社が勝手にやったことだと言われている。政府は、宗教法人である靖国神社のやることに口出しできないことになっている」
「もしそうなら、靖国神社以外に国立の戦死者慰霊施設を設けて、首相はそこだけ参拝すればいいんじゃないか」
「いや。戦死した兵士たちは、靖国に祀られることを心の拠り所にして死地に赴いたのだ。靖国以外では浮かばれないという意見が強い」
「それにこの問題は純然たる国内問題だ。中国や韓国にそこまでの干渉をゆるすべきではない」
「筋論も結構だけど、それで問題が解決する見込みがあるのか。ないのに筋だけ通していてもしょうがないじゃないか」
「自民党の議員が靖国問題で筋論にこだわるのは、遺族会や右翼の支持がほしいからじゃないかな。要するに選挙対策だよ」
「次の選挙を気にする一政治家だったら、そういう人気取りをしたがるのはよくあることだ。しかし首相になったら、日本のためになる政策かどうかが関心事のはずだ」
「そうだ。最後は日本のためになるかどうかについて外務委員会で与野党が議論を行い、政権交代があっても外交方針のぶれが最小限に収まるように努力することは有益だと思う」
「よし、それが青年党の外交方針だ」

選挙結果が出た。衆参両議院で自民党が第一党の地位を維持したが、青年党も予想を上回り、衆議院で三四議席、参議院で一〇議席をとった。衆議院比例代表リストの下の方に名前を連ねていた千は、思いもかけず衆議院議員になった。
なってから気がついた。千は衆議院選挙に出たことを母親に話してなかったのだ。早速母親に電話をした。
「もしもし、ママ?」
「房ちゃんけ。〝しゅうかつ〟どうだったかや」
「決まったので報告しようと思ってね」
「そら良かった。どこの会社かね」
「それがね、会社じゃなくって国会なんだよ」
「国会って、国会議事堂のことかや」
「そう。その国会」
「あんなとこでどんな仕事すんだ? あっ、そうか。房ちゃん剣道部だったな。警備係で採用されたんか」
「それがね、衆議院議員になっちゃったんだよ」
「衆議院議員って、それまさか代議士先生の事じゃあんめな」
「そのまさかの代議士先生なんだよ」
「へえ、おったまげた。東京ってえらいとこだな。〝しゅうかつ〟で代議士先生になれるのか」
「いろいろ事情があってさ、そんなことになっちゃったんだよ。ともかく、もう〝しゅうかつ〟のことは心配しないでいいからね。それだけ報告しておこうと思って」
「わかった。しかしおめえ、代議士先生の仕事を始めたって、ちゃんと卒業だけはしといた方がええぞ。首になったら、学歴がものをいうからよ」
「わかった。じゃあ、切るよ」

千は気心の知れた金香蘭に秘書を委嘱した。

(影の声)
「急成長した青年党にも影響を及ぼせるようなルートを確保する必要があるな」
「候補を物色中です」


第二章 新米国会議員

二〇一六年八月一日、酷暑の中、両手にいっぱいの荷物を提げて、千は秘書の金香蘭と一緒に議員会館の割り当てられた部屋に入った。早速エアコンで部屋を冷やしながら、たいして多くはない荷物を片づけ、党と国会事務局からもらったパンフレットを読みはじめた。香蘭が入れてくれたお茶を口に含んだ。ほのかな香りのするマイルドなお茶である。「うまい」とつぶやいた。香蘭が嬉しそうな顔をした。
「気に入りましたか。台湾から届いたお茶です。入れ方にもノウハウがあるんですよ」
学生として接していた時には気づかなかった一面であった。

午後に青年党議員総会があった。国会議事堂内に新しく割り当てられた青年党控室である。用意された折り畳み椅子に前から順番に腰をかけた。両隣りの議員と簡単に挨拶した。議員全員がそろった所に、幹事長の吉田寅蔵が入ってきた。
「ひとまずおめでとう。我が党の大部分が一年生議員だ。お互いに遠慮しないで、思う存分活躍してくれたまえ。今日は皆も初めての顔合わせだろうから、先ず自己紹介してもらおうか」
座った順序に一人ずつ自己紹介を始めた。選挙運動の後遺症か、ドスの利いた良く通る声であった。多くが問題意識が高く、またそうそうたる活動歴をもっていた。千は思った。
「これは大変な所に来ちゃったな」
自己紹介が終わったところで、幹事長の吉田が再度立ち上がった。
「一年生議員の第一の任務は、次の選挙で勝てるような地盤を作ることと心得てもらいたい。特に比例区で当選した諸君のかなりの部分は、次回選挙では小選挙区に回ってもらうことになると思う。党から割り当てられた選挙区に腰をおろし、地元の後援会作りに力を入れてもらいたい」
たちまち会場から不満の声が上がった。
「そんなことはないでしょう」
自己紹介で橘太郎と名乗った男だった。青年党議員の中では年長の部類に属する。元自民党参議院議員だったが、落選して青年党に鞍替えしてきた。尖閣列島を守る会の推薦をうけたと言っていた。よく見ると耳たぶが変形し、肩の肉が盛り上がっている。柔道かレスリングをやっていたのだろう。
「他の政党ならそうかもしれませんが、青年党は政策でアッピールしてこれだけの議席を獲得したんです。地元の後援会作りばかりしていたんでは、青年党の魅力がなくなってしまいますよ」
吉田がたしなめるように言った。
「政策で受けるのは一時のことだ。そんなもの風向きが変わったら消えてなくなってしまう。どんな時にも君たちをサポートしてくれるファンを作らなければ、次の選挙で勝てるかどうかわからない。その現実をよく認識してもらいたい。わかったかな」
たちまち会場からブーイングの声が上がった。吉田は受け流して話を先に進めた。
「今は当選して気持が高揚しているから、そんなことを言っていられるんだ。次の選挙が近付いたら、私の言っていることを真剣に考えるようになるだろう。その気になった時に相談に来なさい。この問題はさておき、今は幹事長として伝えなければならないことを言っておく。
先ず、議員の国会における最大の仕事は、委員会や本会議に出席して党の指示通りに投票することである」
会場から声が上がった。
「我々は投票マシーンですか」
市民運動家出身の清水純子だった。〝憲法九条を守る会〟の幹事を勤めている。徴兵制から若者を守るために青年党に入党したと言っていた。
「その通り。なかなか理解が速いじゃないか」
「私たちは、国民の声を政策に反映するために議員になったのです。言われるままに投票したのでは、選挙民にたいする責任が果たせません」
「党内で政策を議論する場はある。意見があるならそこで主張してもらいたい。しかし、いったん決まった政策は、党員として一致して実現するように働かなければならない。それが会議に出席して投票するということだ」
「個人としてその法案に反対の場合は、どうすればいいんですか」
「党員一人ひとりがバラバラに投票したら、党としての力が発揮できない。党の政策を決めるまで議論を戦わせるのは良いが、いったん決まったら、党の政策を一致して後押しするのが、党の影響力を大きくすることにつながるんだ。よろしいかな。
では次のテーマに移る。国会には一七の常任委員会とその都度設ける特別委員会がある。その他に憲法審査会と政治倫理審査会がある。常任委員会の委員数は議席数におうじて各政党に割り当てられている。したがって希望通りになるとは限らないが、諸君の希望を聞いて、出来るだけ各々の関心ある委員会のメンバーになってもらおうかと思っている。お手元に委員会のリストを書いた紙を配布しておいた。各々自分の名前と希望する委員会を書いて提出してほしい。
各議員は、委員会のリストを見ながら、希望する委員会名を書いて提出した。希望の多すぎる委員会からこぼれおちた議員を希望の少ない委員会に振り分けるという調整をしたのち、各議員の所属委員会が発表された。千は予算委員会、橘は外務委員会、清水は憲法審査会と、各々希望する委員会に割り当てられた。
最後に夏目党首の挨拶があった。
「先ほど幹事長の説明に不満を表明する声が多数あったが、結構なことだ。志の高い者が大きな仕事をするものだ。我が党には将来の首相候補が何人もいることを知って嬉しく思っている。幹事長の〝次の選挙に備えよ〟というアドバイスは、議員としての最低限の心得であって、一人ひとりの議員はそれにプラスして政策の勉強をしてもらいたい。
君たちは選挙区に帰ったら、地元の有権者に党の政策の説明をしなくちゃならない。大いに政策の勉強をして選挙民を説得し、また逆に選挙民の声を吸い上げて党の政策に反映できるような力をつけてもらいたい。往々にして政治家は世論の動きに左右されやすい。しかし本当の政治家なら、国民のためになる政策とは何かを自分で考え、世論をリードする責任がある。そのためには情報量と判断力が必要である。それがあって初めて賢い選択ができるのだ。
国会の仕事は明後日からはじまる。本会議の一連の儀式が済んだら予算委員会だ。本来なら、党内で十分意見をすり合わせて質問内容を決めるべきだが、今はその時間がない。青年党の第一の主張であり、また選挙で訴えてきた世代間格差について、我が党の主張を展開したい。
まず私から、総論と年金格差の問題を質問する。そのあとは、千房之介君から若年層の就職問題について質問してもらいたい。千議員のスピーチの説得力については、選挙演説でよく承知しているので、この役割を決めた。委員会はテレビ中継される。青年党のために大いにアッピールしてもらいたい。
その他の諸君も、このあと出番が来るはずである。よく勉強してそれに備えてもらいたい」
青年党の第一回議員総会は終わった。吉田幹事長の実務説明から夏目党首の自己啓発への動機づけまで、千の意欲を駆り立てるに十分な内容であった。

千は議員会館に帰って質問の準備に取りかかった。金香蘭が目を輝かせた。
「一年生議員がいきなり予算委員会で質問するなんてすごいですね」
「新興政党だからこそのチャンスだね。僕は質問の原稿を書いてから帰るから、香蘭は先に帰っていいよ」
「そうします。お茶の入ったジャーとせんべいをここに置いときます」
「こんなものをいつの間に用意したの」
「何時お客さんがあってもいいように、用意しておきました」

予算委員会が始まった。委員長の「夏目克己君」との指名に応じて、青年党々首夏目が立ち上がった。
「本日は、世代間格差について政府見解をお尋ねしたいと思います。日本の多くの制度は老人に有利に作られております。その結果、これからの日本を担う若者は虐げられた存在になっております。我が青年党はこの問題をとり上げて立党いたしました。  
今回の選挙では、多くの国民の支持を受けて多数の当選者を出すことになりましたが、それは国民がこの問題にいかに関心を持っているかを示すものです。我が党の提起する問題は、日本の若者が提起する問題なのです。首相もぜひこの問題に真剣に取り組んでいただきたいと思います。
まず、世代間格差を代表する問題として、厚生年金の年金格差があります。生涯に支払った保険料の積立額と比較してどのくらいの年金を受け取れるかについて、学習院大学の鈴木亘教授が二〇一二年に試算したところによりますと、一九四〇年生まれの人は三〇九〇万円の得、これに対して二〇〇〇年生まれの人は二六一〇万円の損という結果になっております。
この不公平を如何に解決するか、政府の考えをお聞かせください」
「厚生労働大臣厚木一郎君」
「現役世代には、毎月積み立てることが可能な保険料の上限があります。リタイヤした世代には、生活を成り立たせるために必要な支給額の下限があります。それを前提として、制度が破たんしないようにぎりぎりのバランスを考えて設計したのが現在の制度であります。
 年金の積立額と支給額の比較について、世代によって差があるということは、私どもも承知しております。これは、日本の年齢構成が変化してゆく過程で生ずる一時的な不公平でありまして、将来年齢構成が固まった時には、自然に消滅するものと理解しております」
「夏目克己君」
「制度が成り立っているからいいじゃないかというのはお上の目線です。制度を適用される国民の側から、特に若い世代から見ると、不公平と言わざるを得ない制度です。積み立てた保険料よりも将来もらう年金額の総額の方が少ないなら、年金制度に加入しない方が得だと考えるのが自然じゃないでしょうか。その結果、年金保険料の滞納者が増えている。こんな状態では、この制度は破綻するのではないかと思われますが、いかがお考えですか」
「厚木一郎君」
「支払った保険料と年金支給額を比較して、もらう方が少ないからこの制度に加入しないというのは結果論です。保険料を支払う時点では、どちらが多いかわからないのです。若い人でも、長生きをして年金支給期間が長くなると、貰う額は多くなります。年をとって働けなくなった老後を保障するのが年金制度です。
似たようなものに生命保険があります。保険加入者全体で数えますと、保険料よりも受取額の方が少ない筈です。だから生命保険会社が成り立っているのです。しかし一人ひとりの加入者にとってみると、将来何があるかわからない。その不安があるから万一に備えて生命保険に入るのです。身近に、単純な損得計算をして、損だから年金制度に加入しないという若者がいたら、是非心得違いを諭してやっていただきたいと思います」
「夏目克己君」
「その将来に対する不安に関連してお尋ねしたいと思います。只今のところ、受給資格を得るためには、二五年間保険料を払い続けなければなりませんが、失業や何かでそれだけの長期間保険料を払い続けられるという確信をもてない若者が多数います。こういう人たちを制度に組み込むことが、年金制度維持のために必要であると思いますが、そのためにどういう対策を考えておられるでしょうか」
「厚木一郎君」
「政府としては、失業を減らすために職業紹介や職業訓練を実施しております。贅沢を言わなければ、多くの若者はちゃんとした職業につける筈だと考えております」
「夏目克己君」
「まだ聴きたいことは山ほどあるのですが、時間切れで残念です。ちょうど議論が若者の就職問題に移りました。この件の質問を、同じく青年党の千房之介委員にたくして、私の質問を終えます」
委員長の指名に応じて千が質問に立った。
「青年党の一年生議員千房之介です。私のような新米議員には荷の重すぎる役割を与えられて、いささか緊張気味です。しかし若者の就職問題は、年配の諸先生に任せておくわけにはゆかない問題であり、若者代表として質問をさせていただきたいと思います。
 只今、厚木厚労相から、真面目にやっていればちゃんとした職業につける筈だという発言がありましたが、失礼ながら認識不足ではないかと思います。若者は働こうと思っても働く口がないのが現状です。私も就職口がないので仕方なく国会議員になったデモシカ議員です。何で企業が若者を採用しないのかといえば、定年になった老人の再雇用を優先しているからであります。このことは、私自身就職活動中にあちこちの会社で聞いた話だから間違いありません。
これでは日本の将来を担う若者が仕事につけず、スキルも身につけられません。これは日本の将来を左右する大問題です。政府は、若者の採用を優先するようなインセンティブを与えるべきではないかと思いますが、いかがでしょうか」
「厚木一郎君」
「これは就職にさいして、老人と若者のどちらを優先すべきかという難しい問題であります。老人は再就職するにあたって、肉体的にあまり過酷な労働が出来ないという制約があります。しかし年金会計の破たんを避けるためにも、働ける老人にはぜひ働いてもらわなければなりません。それと比較すると、若者は贅沢さえ言わなければ就職の機会が多数あります。例えば、今の若者はオフィスワーカーばかり目指しますが、工場の技能職でも働ける筈です。そこが老人と違うところです。若者に対しては、選り好みをせずに働けるところで働くようにと私は言いたいと思います」
「千房之介君」
「それでは、せっかく学校で学んだ知識を生かせないじゃないですか。これは国家にとっても損失だと思いますが、いかがでしょうか」
「厚木一郎君」
「日本産業全体として見れば、ホワイトカラーも必要だし、ブルーカラーも必要です。各企業が、自分の判断で必要数を採用するのが市場経済であります。現在、大学進学者が増え、ホワイトカラー志望が増えておりますが、それらをすべてホワイトカラーとして採用することは不可能な話です。不本意ながらブルーカラーになる人が出てもやむを得ないと考えます」
野党席から「暴言だ」というヤジが飛んだ。それにかまわず委員長が指名した。
「千房之介君」
「大卒者にブルーカラーになれとおっしゃいますが、工場が海外に移転して、ブルーカラーの仕事も減っているではありませんか。日本が発展するためには、若者の就職機会を確保するような政策が必要だと思いますが、いかがでしょうか」
「厚木一郎君」
「賃金レベルの差により工場が途上国に移動するのは、ある程度やむを得ないことです。それが世界レベルでの所得格差解消に役立っているのです。だからと言ってそれを放置しているわけではなく、政府は雇用流出を上回る新たな雇用機会を国内に作るよう頑張っております。結局は経済成長で解決するほかないのです。自民党がこれまで成長戦略を掲げてやってきたのはそのためです。それを実現するために、青年党にもぜひご協力いただきたいと考えます」
「千房之介君」
「問題解決は経済成長に頼るしかないというのは無責任ではありませんか。日本は成熟国家です。今後は高度成長は見込めません。そう認識すると、低成長でも成り立つように社会の仕組みを変えていかなければならないのではありませんか。これは日本の将来の方向付けに関わる基本的な問題なので、総理からご回答願いたいとおもいます」
「内閣総理大臣安倍晋三君」
「まことにもっともなご意見だと思います。これまで私どもは、日本が直面する緊急の課題、例えばデフレの克服や安全保障体制の構築などに全力を注いできましたが、一方で日本の長期的課題も放置してきた訳ではありません。例えば少子高齢化対策、百年安心できる年金制度等はその例であります。しかし千委員のご指摘の通り、成熟した社会でも成り立つ制度を作り上げなければならないという観点から見ますと、これらの対策でもまだ不十分な点が多々あることは否定しようのない事実であります。私自身、今後の重要な課題として取り組みたいと思っております」
「千房之介君」
「只今は総理から、成熟社会に備えた制度を作り上げたいという抱負をご披露いただきましたが、まことに結構なことだと思います。従来の自民党政権が作り上げてきた少子高齢化対策、年金制度改革などが、実質的に破たんしていることをよく認識しておられると思います。認識しておられる以上、現実に即した将来構想を作られるであろうと期待しております。
その将来構想についてでありますが、私が、そうして日本の大多数の若者が関心を持っておりますのは、低成長がやむを得ないものとなっている状況下で、就職機会に関して若者が疎外されないようにするために、どういう取り組み方をするかということであります。日本をリードしてゆく立場の総理から、どうお考えか聞かせていただきたいと思います」
  「安倍信三君」
「この問題は欧米各国が等しく直面している先進国全体の問題であります。若者の失業率で言えば、二〇%以上が珍しくなく、国によっては五〇%という例もあります。その中で日本などはむしろ良い方だと言えるかと思います。
しかし私はこれを放置してよい問題だと言っているわけではありません。仕事のない人がいる一方で、忙しすぎて困っている人もいるのであります。それを平均化するために、長時間労働の解消によるワークシェアリング、子育て支援という意味も含めた育児休暇の長期化などによって、就職者の数を増やすことが考えられます。
また農業については高齢化が進み、若者の跡継ぎがいないことが問題になっております。何でそうなったのかを解析し、若者がこれからの日本の農業を担ってゆくようにするにはどうすればよいのかを考えなければなりません。
このように、低成長下でも若者が仕事をする機会が増えるように、総合的な社会改革を行うことが必要であると思うのであります。しかし具体的にどういう政策に落とし込むかということに関しましては、これまで未検討、未着手の問題でありますので、多くの学識経験者のご意見も拝聴して、検討してゆきたいと思います。その際には青年党の先生方のご意見も頂戴したいと思います。ぜひご協力ください」
「千房之介君」
「只今は総理から、若者の就職機会の創出について総合的な社会改革も含めた長期構想に取り組むという抱負をご披露いただきましたが、まことに時宜を得たお考えであると感服いたしました。具体的な構想を固める際には、是非これからの日本を担うことになる若年層の意見を取り入れていただくようお願いいたします。持ち時間も終わりになりましたので、このへんで質問を終わります」
委員会終了後、夏目が千に握手を求めてきた。
「御苦労さん。総理に日本の長期的課題への取り組みを約束させたのは収穫だった。テレビを見ていた国民にも、青年党の姿勢はアッピールできたと思う。これは皮切りだ。今後、自民党との政策協議が始まる。自民党の二大政策は、憲法改正とアベノミクスだ。我が党としてこれらにどういう姿勢で臨むべきか、党内議論を進めよう」

千が議員会館に帰ると、香蘭が拍手で迎えてくれた。
「初陣おめでとうございます。予算委員会の様子はテレビで見てました。他の人の質問は、テレビ視聴者の目を意識した自己PR型が多かったけれど、先生と首相や厚生大臣とのやり取りは建設的でした」
「先生と言うのはやめてもらいたいなあ。前はそんな言い方してなかったろう」
「議員会館にいると、周りの人が皆議員さんのことを先生と言っているので、つい私も言ってしまいました。この社会ではそう言わないと違和感がありますよ」
「香蘭ちゃんは、意外と周りの雰囲気を気にする方なんだね」
「留学生というのは、そうして言葉や習慣を勉強して行くのですよ」
「僕だけ異を唱えていても勝ち目がないという訳か。じゃあしょうがない。代議士先生じゃなくて学校の先生と受取っとくか」
「先生はやっぱり代議士よりも学者になりたかったのですね」
「もうそんなこだわりはないよ。与えられた仕事に全力を尽くすだけだ」

(影の声)
「青年党内に影響力を行使できるようなルートをつくりました」
「これからどう政策に反映されるか注目しよう」

選挙に勝利した自民党は、長年の願望である憲法改正にむけたステップを一歩踏み出した。憲法改正には衆参両議院の三分の二の賛成が必要である。自民党だけではこの数に達しない。当然青年党にも協力を求めてくる筈である。それに備えて吉田幹事長のリードのもとに、憲法改正問題の議論が開始された。
「改正案の中身はいろいろあるが、最大の問題は九条だ。改正に賛成か反対か、皆の意見を求めたい」
待っていたように清水純子が挙手した。
「私は憲法九条改悪の動きを危惧しています。自民党や維新の会は九条改悪に乗り気であり、青年党がこの動きに反対しないと九条は改悪されてしまいそうです。私はそういう危機感に迫られて立候補しました。しかし青年党の議員の中にはそうでもない意見の人もいる様子なので、ここで議論したいと思います。
先の大戦で悲惨な目にあった日本人なら皆わかる筈ですが、あんな悲劇は二度と繰り返したくありません。若者が戦争に駆り出されないようにすることが何よりも大切です。だから日本を戦争に巻き込む九条改悪に反対したいのです。若者の代表である青年党こそ、九条改悪反対をリードする立場に立たなければなりません」
この意見に橘が異を唱えた。
「他国の侵略を防止するためには、自衛のための軍隊は必要です。軍隊がなければ戦争に巻き込まれないというのは、逆じゃありませんか」
清水は引き下がらなかった。
「軍隊があると戦争をしたがるものです、太平洋戦争を見れば明らかです」
「あれは、軍隊の独走を止められなかった戦前の体制及び政治家の責任です。文民統制の原則をしっかり守れば、あのようなことはもうない筈です。それに対して他国の侵略に対しては、軍隊がないと防衛できないでしょう」
「防衛なら自衛隊で十分です」
「現憲法は戦力の保持を否定しています。つまり自衛権を否定しているのです。自衛隊を容認するなら、憲法ではっきりそのことをうたうべきだと思います」
「自衛隊は合憲であるという判断はすでに出ております。今の憲法を変える必要はないじゃないですか」
「現実無視の憲法の規定に制約されるため、侵略された時に自衛隊は機敏な反撃態勢がとれません。つまり今のままでは自衛隊は十分働けないのです」
「そういう制約があるから、政府は戦争にならないように努力するのではありませんか。自由に戦争できるようになれば、政府は平和に向けた努力をしなくなります」
「政府は、国民が戦争を望んでいないということを、よく知っております。また戦争は、人命の点でも財政の面でも大変な負担になることは常識です。軍隊をもったからと言って、平和に向けた努力をしなくなるなんて、ある筈がないでしょう。
他にも問題があります。憲法によって自衛隊の行動に厳しい制約が加えられているため、同盟国であるアメリカ軍との共同作戦が十分行えないということです」
「今の憲法があるから、アメリカも日本に多くを期待できないと思ってくれるのです。憲法の制約がなくなったら、もっとアメリカの戦争に協力させられるでしょう」
「自衛隊が防衛のために必要な範囲で不自由なく動けるようにし、一方で自衛隊が必要な範囲を逸脱して勝手に動くことがないように、行動の限界を明確に憲法に書くというのが最善の策でしょう」
「憲法を改悪したら、アジア各国から警戒されるでしょう。現憲法を維持しているからこそ平和主義を唱えられるのです」
「現憲法をそのままにして自衛隊を保持したら、逆に憲法を無視して軍隊を持つ無法な国と思われるでしょう。戦後すぐは、多くの国が日本の軍国主義復活を警戒していたので、平和憲法は役に立ったと思われます。しかし今は、中国の軍事圧力が大きいので、それに対する抵抗力として、日本がもっと強くなってもらいたいと多くの国は思っているんです」
「平和憲法を維持する理由は、そのような目先の問題だけではありません。人類の将来のために戦争を放棄するという理想を掲げ、他の国の見本になることが大切なのです」
「見本なんてとんでもない。他の国は、日本を現実離れした空想主義とみていますよ」
「現実に囚われていたのでは、進歩はありません。今に、日本が世界平和のために先頭を行った国だと評価されるでしょう。ともかく政府には、日本は戦争をできない国だという大原則にのっとって政治や外交を行ってもらいたいのです。だから憲法改悪には反対します」
互いに信念に基づいた主張であり、相手を説き伏せることは難しかった。吉田幹事長は挙手でどちらの支持者が多いかを知ろうとした。その結果、憲法九条改正賛成、反対の両意見はほぼ拮抗していることが明らかになった。党としての方針は決まらず、またあらためて議論することにして休憩に入った。
千は思いついた句を手帳に書き留めた。

憲法は尊重もせず無視もせず

ちょうどそばにいた清水にそれを見せた。
「戦力の保持を否定しながら自衛隊を持つというのは、日本人にしか通用しない曖昧さだね」
「そこが日本人のいいところじゃない」
清水は言いながら歩き去った。

吉田幹事長は次のテーマについて議論を促した。
「次のテーマはアベノミクスだ。現在、自民党の最重点政策だ。この政策に対する賛否の態度を決めておかなければならない。アベノミクスによって日本経済は長年のデフレから脱却し、マイルドなインフレ局面に入った。それに伴って、わずかずつだが経済成長も始まった。これはこれでいいことだが、このままインフレ政策を続けると、本格的なインフレになってしまうかもしれない。そろそろインフレの行き過ぎを抑えなければならない時期に来た様に思われる。しかしそれがうまくできるのかどうか、正直言ってよくわからない。皆どう思う」
会場から声が上がった。
「わからないもの同士で議論しても、空回りするだけだ。その前に専門家に状況を解説してもらいたいなあ」
「それなら、経済学博士の千君が適任だ。千君、一つ頼むよ」
千は、皆の要望にこたえて解説を始めた。
「アベノミクスの第一の矢は金融緩和でした。しかし金融緩和の意味が伝統的なケインズ政策とは異なっています。大方の経済学者や政治家はそのことを理解していないようです。
従来の日銀の金融政策の根拠になった伝統的理論では、日本経済がデフレに陥ったのは国内の需要不足によるというものでした。前日銀総裁白川氏の主張はその見方を代表しております。需要を刺激する政策としては、財政政策と金融政策があります。金融政策の役割は、交換手段としての通貨が不足するために潜在需要が実需に結びつかない時に、通貨を補ってやることでした。潜在需要がない時に通貨を大量に供給しても、実需が増えるわけではありません。日本では金利がゼロになるまで金融緩和をしたのに需要は増えませんでした。つまり金融政策の限界です。これ以上通貨を供給しても無駄で、インフレになるだけだというものでした。
これに対して、アベノミクスの理論的支柱である浜田教授は次のように主張しました。日本経済が不振に陥ったのは、世界市場における競争力を失ったためである。その原因は円高である。日銀が金融緩和をさらに徹底して行えば、円安となり、日本企業の競争力が回復する。そうなれば輸出企業が元気を取り戻し、日本の工場稼働率が上昇し、雇用が増える」
会場から声があがった。
「浜田も白川も両方共に経済学者なのに、何でこんなに意見が分かれるんです。どちらかが間違っているのですか」
「金融政策の役割を需要コントロールだけと捉えた白川は、閉鎖社会において需要コントロールをするのが政府の役割と考えるケインズ理論によっています。しかし現実は、世界市場において各国企業が競争をする世界経済の時代に移っているのです。その中で、日本企業の競争力をあげる手段として金融超緩和による円安が有効だと唱えたのが浜田です。この理論のほうが、現在の世界市場の時代に合います。その証拠として、アベノミクスが発表されてから
円安→輸出産業の業績改善→好況の全産業への波及
という順で経済の回復が実現しました」
「では、アベノミクスは正しいのですか。それなら、我々はアベノミクスを支持すべきですね」
「いや、問題もあります。アベノミクスは金融緩和と共に積極的な財政支出も唱えています。これまで巨額の財政赤字を続けてきたにもかかわらず、日本経済は成長せず、債務を増やすだけでした。つまり積極財政政策は機能しなかったんです」
「何で機能しなかったんです」
「日本経済が一九七〇~八〇年代に急成長したのは、家電や自動車など国際競争力ある企業が育ち、世界中に輸出できるようになったからです。輸出企業だけでなく、関連産業や従業員その他への波及効果も莫大でした。
その後経済が停滞するようになったのは、輸出企業が競争力を失ったり、輸出企業が国内の工場を閉鎖して外国に工場を移すようになったからです。それによって国内の関連産業が衰え、雇用が失われたのです。つまり日本の国内需要が低下した真の原因は、世界市場における日本製商品の国際競争力が失われたことだったのです。
その真の原因に対する対策を打たず、国内需要喚起のための積極財政政策をとっても、効果が限られるだけでなく、財政への信頼をなくし、多くの経済学者が財政破綻の心配をするような事態になってしまったのです。
政府は、二〇二〇年には財政基礎収支を均衡させるという目標を打ち立てました。それは、二〇二〇年まで毎年赤字を続け、累積赤字をさらに増やすということです。政府の債務が大きくなりすぎると、国債利子を払うためにまた借金をしなければならなくなります。サラ金地獄と同じです。いつか破綻が避けられなくなるでしょう。日本のように債務額が大きいと、インフレからさらにハイパーインフレの心配も出てきます」
「ハイパーインフレなんていうものは、無責任な政府を持つ途上国だけの話でしょう。日本のような先進国で起こるわけがないでしょう」
「先進国でそれが起こらないのは、無茶な政策を採らないからです。日本はその無茶な政策を採っているんです。つまり、日本は政策の節度に関しては、途上国並みなんです」
「財政破綻した国は、外貨で借りていたからでしょう。日本政府は円で借りているから、破綻の心配はないんじゃありませんか」
「確かに、円で借りているから、政府は返済不能になることはありません。それは返済する金がなくなったら、紙幣を印刷すればよいからです。しかしそうすると、インフレになります。その結果、金利もあがります。そうすると、国債利子支払いのために、ますます多額の国債を発行しなければなりません。それはどこまで行ってもやめる訳にゆかず、どんどん拡張する一方です。つまりハイパーインフレになるんです。
今、必要なことは、債務を少しでも減らし、財政健全化を進めることです。このことは、ほとんどすべての経済学者が指摘しております」
「そうすると、我が党の態度はどうあるべきですか」
「円安による競争力の向上には賛成。しかし積極財政による国債増発は、次の世代へのつけ回しであり、若者の代表であるわが党は反対すべきだと思います。もしハイパーインフレになったら、次世代に残すべき遺産も無価値になってしまいます」
幹事長の吉田が質問した。
「そのロジックは理解した。そこで率直なところ、千君自身はハイパーインフレになるのはいつごろだと見積もっているのかね」
一瞬考えてから千は答えた。
「これは、木の枝を曲げていって、いつ折れるのかというのと同じ性格の問題です。正確な時期を言うことは誰にもできません。しかし曲げるたびに枝が折れるリスクは大きくなります。今日折れなかったら、明日のリスクは今日よりも大きくなるのです。そうしていつかは必ず折れます」
「いつかは折れるというのは、今が特別に大きな危険を抱えている時ではないということじゃないかね」
「いや。大きな衝撃が加えられた時は、特に折れる危険が大きくなります。例えば金利が上昇した時には国家財政赤字幅が拡大し、財政破たんのリスクが急速に大きくなります。アベノミクスによってインフレになった時には、金利は上昇するはずです。その時が危険な時なのです」
「そんなことを言ったら、積極財政政策などとれないじゃないか。ケインズの理論は間違っていると言うのか」
「累積財政赤字が大きくない時には、多少金利が上がっても、それによる財政への負担はそれほど大きくありませんでした。こういう時にはケインズ理論による積極財政政策をとることに何の問題もありません。しかし、今の日本のように累積財政赤字が一〇〇〇兆円を超えるようになると、金利が一%上がれば金利負担は年間一〇兆円、二%上がれば年間二十兆円増加します。これは耐えられる限度をこえた負担増です」
吉田はうなずいた。
「千君の説明は納得できる。だいたい政府がむやみに借金を積み上げていけば、将来どうにもならなくなるって事は、子供にでもわかることだ。アベノミクスは間違っているということを強く訴えなければならない。国会で政策論争を挑むか」
「国民は円安と株高で有頂天です。破綻が現実のものになるまで、政府が政策を変える可能性はないでしょう」
「我々がこの政策の間違いをあらかじめ確信していたということを、後になってから示せる方策はないだろうか」
会場から声が上がった。
「ローンを組み不動産を買おう。インフレになったら借金が目減りし、不動産価格はあがって儲かるぞ。ちょうど今、我が党は急成長したために党本部が手狭になり、新しい本部用のビルを借りようとしている。ビルを借りるよりも、銀行から金を借りて本部用のビルを買ってしまおう」
「それは我々の先見性を示すのにいい手段だ」
「いや、ちょっと待てよ。いかに何でも、政党が政策主張の方策として不動産投資をするというのは邪道だよ。それに選挙は水ものだ。次の選挙で議員数が減ったら、大きな本部ビルは無用の長物となる。ちょっと賛成できんな」
「そうか。残念だな。せっかくのチャンスなのに」
誰もが次の手を見つけられない状態で、やりとりが途絶えた。
数分間腕を組んで行きつ戻りつしていた吉田が口を開いた。
「それなら、私がローンを組んで私の個人資産としてマンションを買おう」
「それはあなた個人の投資でしょう。党の政策とは関係ない」
「いや個人の投資だからこそ、我々の見方に自信を持っているということを示せるんだ」
「インフレになったら、あなたはもうかるでしょう。しかしインフレにならなかったら、あなたは損をするかもしれません。あなたは本当にそのリスクを負う覚悟があるのですか」
「私は千君の見方をもっともだと思う。この見方に賭けてもいい」
「予想が外れてあなたが損をした時に、党に泣きつくんじゃないでしょうね」
「いや、これは私個人の投資だ。成功しても失敗しても私個人の問題だ。党に心配してもらわなくてよい」
「そう言うんだったら、ここで議論するまでもありませんね」

討議終了後、夏目が吉田に感想を漏らした。
「今日のミーテイングはよかったな。若手の意見を聞くことができた」
「青年党の未来を託すことのできる青年が育っていますね」
「しかし吉田さんが、あれだけ千君の見方に入れ込んでいるとは、意外だったよ」
「党首こそ、千君に応援演説を頼み、予算委員会の質問者に起用したじゃないですか」
「これからが楽しみだね。千君だけじゃない。橘君も、清水君も」

第三章 尖閣問題

二〇一六年は地球温暖化の影響か、九月になっても気温が下がらず、寝ていてもパジャマが汗でじっとり濡れるような夜が続いていた。その不快感を増幅させるような事件が起こった。数百隻の中国の漁船が尖閣列島沖の領海を侵犯したのである。多数の中国沿岸警備艇が同行していた。しかし海上保安庁は、船舶が不足していてこれを阻止出来なかった。急遽開かれた国家安全保障会議の席で、海上保安庁を管轄する国土交通大臣が事情を説明した。
「すでに全国に配備した海上保安庁の警備艇のうち、移動可能なものはすべて沖縄に集結しております。海上保安庁の能力は限界に達しました。今後予想される中国艦船の領海侵犯には、海上自衛隊の出動をお願いしたいと思います」
事前にこの件を知らされていた防衛大臣が即答した。
「必要とされれば直ちに出動できるよう準備はできております。あとは総理のご指示をいただくばかりです」
安部首相が待っていたように許可を出そうとすると、外務大臣があわててさえぎった。
「いや、ちょっと。日本が自衛隊を出すと、中国は人民解放軍を出動させるでしょう。そうなると、紛争はますますエスカレートします」
安倍首相はうなずいた。
「もっともだ。こちらから先に自衛隊を出動させる訳にはゆかない。つらくても海上保安庁に頑張ってもらうしかない」
国土交通大臣は引き下がらなかった。
「これは、一時我慢すれば片付くという問題ではありません。中国は沿岸警備隊の能力を増強し続けております。いつか海上保安庁では対応しきれなくなることはわかっていたんです。そうして、今その時がきたのです。一時しのぎではなく、根本的な対策を決めなければならない時なのです」
「しかし、そうは言っても、日本が先に軍隊を出動させたとなると、紛争拡大の責任は日本にあると宣伝されるだろう。そうなるように持って行くのが中国の戦略だ。何か良い知恵はないかな」
防衛大臣が助け船を出した。
「海上自衛隊の自衛艦を海上保安庁に所属を変え、警備艇として出動させましょう」
「それは思い切った策だな。それで防衛省内部はまとめ切れるのか」
「国家防衛のために必要なことをやるというのが自衛隊の責務です。任せてください」
こうして海上自衛隊の自衛艦を塗装しなおし、自衛官の制服を海上保安庁の制服に着替え、指揮命令系統を海上保安庁に切り替えてできた急造警備艇が出動することになった。中国側警備艇も大型重装備のものが増加した。
尖閣沖では日中の警備艇数がますます増加し、にらみ合いを続けた。

中国々内のインターネット投稿サイトでは、日本の警備艇を攻撃せよとの意見が増加する一方だった。尖閣問題関係閣僚会議で、防衛大臣が首相に状況を説明した。
「中国は、発砲するにしても、日本側の発砲を受けてやむを得ず反撃したと言いたいはずです。彼らは日本の発砲を待っているのです。我々は挑発に乗らないように厳重に戒めておりますが、このような状況では、何時偶発的な衝突が起こるかわかりません」
「それは危険だな。何とかならないか」
「中国の警備艇が撤退しない以上、日本の警備艇は撤退できません」
「もし偶然のことがきっかけで衝突してしまったらどうする」
「いざという時は、日米安保条約が頼りです」
日本政府の要請を受けて、米政府は「尖閣列島は日米安保条約適用範囲である」と声明を出した。しかし中国警備艇の領海侵入は止まらなかった。

こんな時、清水純子の発言が新聞に紹介された。
「中国との対立が決定的になったら、中国も困るし、日本も困ります。国益にかなうのは中国との共存です。中国と戦って負けたら国家存亡の危機だし、勝っても得になりません。中国人の反日感情を高めるだけです。もし日米安保条約にもとづいてアメリカ軍が出動したら、第三次世界大戦の危険が生じます。それを防止するために、海上保安庁の警備艇は撤退させて、話し合いで解決すべきです」 
 世論は反発した。
「尖閣は日本の領土だ。話し合いをするということは、尖閣が紛争地帯であると認めることだ。そのこと自体、中国の主張を受け入れることじゃないか。この問題では話し合いの余地はない」
新聞記者から釈明を求められた清水はこう言った。
「こうして軍隊がにらみ合っていても解決にならないでしょ。解決しようと思ったら、話し合うしかないんですよ」
このことがあって、清水の人気は急落した。
「清水は中国のまわし者じゃないか」という者さえあらわれた。
清水はショックを受けた。
「日本のためを思えばこそああ言っているのに。わかってもらえないのは残念です」
吉田幹事長がかばった。
「しばらく大人しくしていなさい。世論は熱しやすく冷めやすい。そのうち忘れるさ」

(影の声)
「青年党の友人の活動ぶりはどうかな」
「まだ政治家としては若手で、政治を大きく動かすほどの力はありません。しかし考え方、活動力は我々の思った通りです。おいおい世論を、我々にとって望ましい方向に動かしてくれるようになるだろうと期待しております」
「外からの圧力が強くなると、国内の意見は強硬論でまとまりやすくなる。そのことを承知した上で、ベストの戦略を練ってもらいたい」
「承知しております」

橘太郎が市民有志十数名と漁船をチャーターして、尖閣島に上陸するという事件がおこった。折から近付いていた台風の余波で、漁船は大揺れに揺れた。上陸に当たっては、全員ずぶぬれになって、かろうじて遭難を免れた格好だった。彼らは島に日章旗を立てた。困難を克服しての国旗掲揚は、全員の気分をいやが上にも高揚させた。
海上保安庁警備艇が接近して、一行に島から退去するよう求めたが、一行は日章旗の下に並んで君が代を歌い、数々の軍歌を歌って、退去しようとしなかった。そのうちにどこからか騒ぎを聞きつけたのか、中国警備艇が島に接近してきた。日本の警備艇は中国艇に領海から離れるよう求めると同時に、上陸した日本人グループに、これまでより強い調子で島から退去するよう命令した。両者の間のトラブルを防ごうとして苦労するさまが島からも見て取れた。
「そろそろ引き揚げるか。あまり迷惑をかけてもいけないな」という橘の意見に従い、一行は島から撤退した。
翌日の中国の新聞は、中国の警備艇が日本人侵入者を撃退したと報道した。日本の新聞は、橘一行を英雄として報道した。烈風吹きすさぶ中、日章旗の下に整列して軍歌を歌う橘たちの写真は、中国人にも日本人にも刺激的だった。
北京や上海の日本系商店は、投石・焼き討ちなどの嫌がらせを受けた。在中日本企業は、中国人のボイコットで操業を停止せざるをえなかった。

千が青年党控室に入ると、隅の応接セットで清水が橘を非難しているところだった。
  「あんなことやって何になるの。中国との関係が悪くなるばかりじゃないの」
   橘が反論した。
「領土問題で、日本は一歩も譲らないという意思表示をしたんだ。大人しくしていると、中国はつけあがるばかりだからな」
「それで中国が大人しく引き下がるわけがないでしょ。中国の大衆の意見はますます強硬になるわよ。それに、もめればもめるほど世界の他の国は、尖閣が紛争地帯であるという印象を持つわ。それは日本にとって得なことじゃないわ」
「中国が自分の領土だと主張しているのに日本が大人しくしていたら、中国の主張を認めたと思われるよ」
「何も、黙っていればいいと言ってるわけじゃないのよ。中国が不当な主張をしてきたら、冷静に否定すればいいのよ。領土紛争は話し合いで解決するしかないのよ。日中の感情的対立が深まると、話し合いもできなくなるじゃない」
「反日デモをあおって感情的対立を高めているのは、中国の方じゃないか」
「その反日デモの火に油を注いでいるのが橘さんよ。中国に進出した日本企業は、反日デモですごい損害を被っているわ」
「商人の利益なんかより国益の方が大切だよ。自分が損害を被るから国としての主張を控えてくれという会社があったら、愛国心が足りないんだ」
「政府にとっても経済は大切よ。政府は国の借金を増やしてまで景気を良くしようと努力しているでしょ。それは景気が良くなると大勢の人の収入が増え、皆が幸せになるからよ。経済の足を引っ張るようなことをしたら、国民すべてが不幸せになるのよ」
「政府が弱腰だと見られれば、侮られて次から次へと無理難題を吹っ掛けられるよ。無法な要求には、凛とした姿勢を示さなければならないんだ」
「日本は好戦的な国だと思われ、戦後七〇年かけて築き上げてきた〝平和主義〟の評判を台無しにするわ」
「日本が〝平和主義〟でやってきたのに侵略してくる国があったら、断固反撃しなければならないよ」
「それじゃあ他の国と変わらないじゃない」
「侵略には抵抗するのが国としての当然の義務だ。その義務を放棄するようでは、国と呼べないよ」

そうした中、アメリカ政府から日本政府に対し、無用の挑発は避けるべきだとの忠告がよせられた。日本政府は、自国領土に日本人が立ち入ることは当然であると回答した。
しかし事はそれだけでは収まらなかった。オバマ大統領から安倍首相に、中国との武力衝突は望まないという電話があったのだ。安部首相が聞き返した。
「中国が日本領土を侵略しようとしているのです。日本人が自衛のために立ち上がるのは当然の行為でしょう。この際、閣下に確認しておきたいと思います。万一、日中間で戦争が起こったら、アメリカは日米安保条約を守って、日本側に立って参戦する用意があるのですか」
「冷静になってください。アメリカは、経済的に中国と相互依存関係にあります。国民も戦争は望んでいません。したがって中国と戦争する積りはありません」
 安倍首相は息を飲んだ。
オバマ大統領は続けた。
「しかし、それを言ってしまったら、中国の侵略を招くことになるでしょう。朝鮮戦争の時の北朝鮮のように。
それを防ぐために、〝尖閣は日米安保条約の対象内だ〟と言っているにすぎません。
このことが外部に知られたら大変です。絶対に漏らさないように」
安倍首相は、日本がアメリカ軍の支援なしに中国と対決することになるかもしれない現状に気がついて慄然とした。日本は通常兵器による局地的衝突では中国に後れをとるとは思わない。しかし中国軍主力が本腰を入れて参戦してきたり、大陸間弾道弾や水爆を使用したら、日本に対抗手段はない。アメリカ軍による抑止力なしに中国の侵略を阻止することは不可能である。
  「それはつまり、アメリカは日米安保条約の義務を放棄するということですか」
「そういうことは言っていません。アメリカは安保条約にしたがって外国の侵略から日本を守ります。しかし日本が仕掛けた戦争だと多くのアメリカ人が思ったら、日本側に立って戦争に加わることは困難でしょう。日本が中国をあまり挑発すると、そういう事態になりかねません。私はアメリカの世論が支持しないような戦争に巻き込まれることは避けたいのです」
 首相は、それ以上大統領に真意を表明させることはすべきでないと判断した。日本にとって望ましくない真意を表明してしまうと、大統領自身がその発言に縛られてしまうからである。
ただちに彼は夏目党首に電話をかけ、中国を刺激しないようにと強く要請した。
「なぜですか」
「尖閣列島の紛争があまりエスカレートすると、中国との軍事衝突に発展する可能性があります。それは避けなければなりません」
「日米安保条約がある限り、アメリカは日本防衛に協力するはずです。そうと知っていれば、中国が戦争を仕掛けてくる筈はないでしょう」
「普通に考えればその通りです。しかし日本側の挑発が行き過ぎると、日本が仕掛けた戦争だと思われるおそれがあります。そうなると、アメリカ国民の間から、日本のために中国との戦争に巻き込まれるのは御免だという声が上がるでしょう。アメリカ政府は、そういう立場に追い込まれることは望んでおりません」
青年党は幹部会を開いて相談した。
「どうやら、橘の行為が深刻な問題を引き起こしたらしい」
「あの行為は乱暴だった。けん責すべきだ」
「いや、あれによって青年党への支持率が高まった。むしろ賞賛すべきだ」
「そんなことをすれば、橘はもっと激しい行動をするだろう。政府の言い方では、それは外交上まずいことらしい」
「今後は自粛するようにと注意をする程度にしておこう」
吉田幹事長から注意された橘は、納得のいかない表情をうかべた。
「中国に対して弱腰に出ると、つけ込まれるばかりですよ。断固とした態度を見せなければならないと思って、尖閣上陸をしたんです」
「君の考えはわかる。しかし外交問題では、与党も野党も一致した方針で臨まなければならないということは、君も理解しているだろう。独自の行動を取る前に、党幹部や政府の了解をとってもらわないと、それが思いがけない問題を引き起こして、外交をやりにくくすることもあるんだ」
「わかりました。今後は、事前に党内の了解を取り、自民党との連携も忘れないようにします」
吉田は、橘へ注意したことを幹部会で報告した。
「・・・自民党との連携か。ちょっと引っかかるなあ」
「どういう積もりだろう。彼は外交問題では、自民党右派に近いな」
「それにしても橘の行動力はすごい。資金はどこから出ているんだろう」
「行動が派手ならスポンサーもつくんだろう」

それ以降、中国警備艇の領海侵犯はさらに増加した。その都度、海上保安庁警備艇が警告した。偶発的な事故が軍事衝突に発展する危険がさらに増大した。
全国に中国脅威論が広がった。〝もし中国と戦争をしたら勝てるか〟という記事が週刊誌をにぎわした。超党派の防衛族国会議員グループから、自衛隊は法令による規制が厳しくていざという時に戦えないという意見が出された。憲法九条改正が必要だという世論が盛り上がった。憲法審査会では、本格的な憲法改正案はまだ審議中であったが、それが出来上がるまで待っていると間に合わないので、とりあえず九条だけを先行して改正しようとの機運が高まった。

憲法第九条
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。→ このまま継続
②前項の目的を達成するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。→ 削除

青年党内の意見も改憲賛成派が多数になり、党として憲法改正支持を決定した。清水ひとりが反対した。国会での議決に党議拘束を掛けるべきだという声が高まった。しかし清水は肯んじなかった。
「党議拘束をかけても、反対の立場は変わりません。これは私の信念です」
「しかし、今は憲法改正に反対しているのはあなたひとりだよ」
「憲法改悪問題にどう対処するかは、青年党の主たる政策ではないでしょ。主たる政策で結束できれば、その他の政策では合意できなくても、仕方がないじゃないですか」
調整役の議員から様子を聞いた夏目党首は、自ら清水の説得に乗り出した。
「いろいろ話は聞いたが、要するにこういうことだね。
九条改正論者の主張は、外敵からの攻撃に備えるために再軍備は必要だというものだ。それに対して反対論者の主張は、日本が対外侵略するのが嫌だから再軍備には反対というものだ。どちらも一理あるように思える。
そうするとどちらの考えをとるかは、外敵からの攻撃と日本の対外侵略のどちらの危険が大きいかの評価によって決まる。ここまではいいかな」
清水は黙ってうなずいた。夏目は続けた。
「戦前とは事情が違い、日本は軍事大国に囲まれている。ソ連、中国、北朝鮮などの周辺諸国と比較すると、日本の軍事力は強いとは言えない。なにしろこれらの国は核兵器を持っているんだ。こういう状況下で日本が近隣国を侵略することなど考えられない。逆にこれらの国から侵略を受ける危険がある。
こういう状況下では、外敵の侵略に備える体制の構築の方が大切じゃないかね」
清水は納得しなかった。
「外敵からの侵略防止への備えは、今の自衛隊と日米安保条約で既にできていると思うんです。しかし再軍備で軍国主義が復活したら、極東に新たな危機の種をまくことになります。これを防止することは日本国民の責任です」
 夏目はうなずきながら話を続けた。
「そう。その危険をどう防止するかは、我々日本人自身がまじめに考えなければならない問題だ。そのために軍隊を内閣の支配下においているんだ。これによって軍部独走を防ぐことができる。満州事変のようにずるずると戦争に引きずりこまれるようなことは防止できると思うんだ」
 「満州事変の時には、対外強硬論を唱える新聞に扇動された大衆が軍部を熱狂的に支持したんです。そのために、政府が軍部の動きを止めることができなくなってしまったんです。いつの時代でも、大衆は対外強硬論になびくものです。尖閣諸島の騒ぎを見てもそれがわかります」
夏目は辛抱強く説得を続けた。
「今の日本国民の多数は、世界でもトップクラスの平和主義者だ。国民が軍部の対外侵略を支持するようになる恐れなんてほとんどないのじゃないかな」
「安倍首相の登場で、外国からは、日本は右翼に支配されたと思われていますよ」
「それは中国や韓国の宣伝文句だ。安倍首相自らが積極的に外国で日本の立場を説明することで、日本の立場が理解されるようになってきたと思うよ」
「しかし対外強硬論を唱える右翼グループの街宣活動が盛んです。外国人の目には異様に映っていると思いますよ」
「あれは私もどうかと思う。しかしああいうのはごく一部の動きにすぎない。日本では言論は自由なので、右翼の宣伝を禁止するわけにはゆかないんだ」
「一部にせよ、そのようなグループへの国民の支持があることが問題なんです」
「どこの国にも、排外的な活動をする勢力はある。しかしそういう勢力に支配されることが怖いからといって、自衛のための軍隊を持たない国はない」
「最近でも、尖閣紛争をめぐって対外強硬論が国民の多くに支持されています。決して対外強硬論は一部の動きに過ぎないと軽視すべきではありません」
「大衆は、外からの圧力があると対外強硬論になびきがちだ。私もそれは危険だと思う。だから政府でも国家安全保障会議などで冷静な議論を進めなければならないし、国民の間でも単純な条件反射でなく、何が国益にかなうかの議論が活発に行われなければならないと思う」
「今の段階で、その議論が十分深まったとは思えません。九条改正はその議論が十分行われてからでいいのではないですか」
「私は国民の間の合意はすでにできたと思っているんだ。青年党内の意見が改憲賛成に統一されてきていることを見てもそれはわかる」
「九条論議をするなら、目の前の危険にどう対応するかということだけじゃなく、世界に先駆けて平和主義を貫くという方針を放棄してよいのかという議論が必要です。今の改憲の議論にはそれが欠けていると思います」
「そうだろうか。今の憲法ができてから七〇年程たつが、その間にこの問題は嫌というほど議論されたんではないかな。国民はそれを知った上で、国を守るためには九条改正が必要だと判断しているんだと思うよ」
「あれは、尖閣問題に刺激されて、深い考えもなく反応しただけじゃないでしょうか」
「これまでは、日本は外敵の侵略の危険にさらされていなかったので、国防の問題を真剣に考える機会がなかった。しかし尖閣問題は、外敵の侵略の危険が現実にあることを知らせてくれたのだ。その危険に対処するために再軍備を行う必要があるというのはまっとうな反応だと思うよ。
尖閣問題は、これから長期化するだろう。これに対応する国の体制がしっかりできていれば、国民は不安に駆られず理性的に反応できる。しかし防衛体制に不備があると、国民は不安に駆られて過剰反応を示すこともある。その方が危険だと思うんだ」
清水は夏目の説得に心を動かされた様子だった。しかし長年唱えてきた平和主義の路線を急に変更するまでには至らなかった。
「おっしゃることは一応理解しました。しかし本当に納得できたかどうか確かめるには、もう少し冷静になって考える時間が必要です」
「今、九条改正の山場に来ているんだ。君が納得するために時間を要すると言っても、それを待つわけにはゆかないんだ。党として九条改正賛成の結論は出し、君がまだ納得ゆかないなら、本会議を欠席するということで君の姿勢を貫くことにしたらどうだろう」
清水は夏目の説得を受け入れ、ようやく青年党の意見はまとまった。

自民党の提案した憲法九条改正案は、青年党、維新の党、みんなの党などの支持を受けて、衆参両院で三分の二の賛成を獲得した。翌年のことになるが、同案は国民投票でも過半数の賛同を得て、我が国初の憲法改正は実現した。
清水の反対は実らなかった。しかし、その信念に敬意を払う国民も、依然としてなくならなかった。

千、清水、橘が、議員会館の食堂で、食事をしながら議論を行っていた。
清水が疑わしげに橘に尋ねた。
「あなたがやった尖閣島上陸は、単純な国粋主義者の自己満足だと思っていました。しかしこうなってみると、九条改正実現のための陰謀だったんじゃないかと勘繰りたくなります。そうだとしたら、橘さんはたいした戦略家ですね。本当のところはどうなんですか」
橘は打ち消した。
「そ、そんな遠慮深謀はないよ。僕は直情径行な行動派だ。それだけだよ」
 清水は疑わしげに橘の目を覗き込んだ。
「そうですかねえ。橘さんはそんな単純人間じゃないと見ているんですがねえ」
 千がまぜっかえした。
「これはなかなか複雑な人間関係だねえ。

貴方にはすなおになれぬ訳がある

こんなところかな」
清水が苦笑いした。橘も笑いながら付け足した。
「ただ、中国の脅威を国民に見せつければ、国民は平和主義の幻想から目を覚ますかもしれないという意識はあったな。その程度のことは考えたよ」
「そうでしょ。そうなれば再軍備に賛成の声が高まると考えたでしょ」
「意識的にそうしたんじゃないけど、あれが国民に現実の世界の厳しさを認識させたのかもしれない。それはいいことじゃないかな」
「それは問題ですよ。対外関係を悪くして、それを口実にして軍備の強化を図るというのは、軍国主義者の常套手段です。それの積み重ねで、日本は戦争に巻き込まれたんです。
満州事変から日中戦争、それに引き継いでインドシナ半島進出。それが原因でアメリカの対日禁輸が始まりました。やむを得ず日本は真珠湾攻撃をしました。こういう因果関係で、ずるずると国民が望まない対米戦争に引きずり込まれていったんですよ」
「しかし今の状態は、中国が日本を侵略しようとしているんだ。それに備えるのは当たり前じゃないか。国民が脅威から目をそらしていたら、その脅威を認識させる必要がある。それが僕のやったことだ」
「中国と対立ばかりしていて、将来どうなるんですか。中国の経済力、軍事力は強大化するばかりでしょ。今のうちに日中関係を良くしておかなければ、日本の将来は危ないですよ」
「中国は専制国家だ。そのうちに革命が起こって、政府は倒されるさ」
「あなた、そんな夢みたいな偶然を当てにしているんですか。経済成長が続いている間は、国民は政府を支持しますよ」
「これまでの経済成長は目覚ましかった。しかし経済成長はいつまでも続くもんじゃない。千君はどう思う」
「中国が急速な経済成長を始めたのは、開放経済政策によって先進国からの投資が始まったからです。それによって中進国レベルまではなりました。
しかし今後はそうはゆかないでしょう。国家主導経済の効率の低さのため、ある程度のところで経済成長が大幅に鈍化することが予想されます。多くの発展途上国が陥る〝中進国の罠〟です」
わが意を得たりと橘が付け足した。
「経済成長が鈍化すると、これまで隠されていたいろいろの問題が顕在化する。共産党幹部と一般大衆の間の貧富の差が大きいために、一般大衆の不満が爆発し、体制が崩壊することも大いに考えられる」
清水が言い返した。
  「中国政府の治安維持能力は相当のものよ。そんなに簡単に体制が崩壊するなんて考えられないわ。むしろ日本の方が危ないぐらいよ」
「まさか、日本は民主主義が定着した先進国だ。革命なんておこるわけがない」
「革命が行われなくても、日本には日本の弱みがあるわよ。威張れたもんじゃない」
「そんな弱みがあったかなあ」
「あなた、千君の話を聞いたでしょう。アベノミクスで、日本経済は破綻するかもしれないのよ」



第四章 経済混乱

二〇一六年十二月である。円安に支えられた輸出企業の好調が取引企業に波及し、さらに失業率の低下と賃金水準の上昇によって全産業をうるおし、日本経済全般が活況を呈していた。心配された消費税引き上げのマイナス効果は完全に杞憂に終わった。
株価、地価ははっきりと上昇局面に入り、消費者物価上昇率は二%になった。名目経済成長率も四%に到達した。
青年党政策調査会では、アベノミクスの出口戦略についての議論が始まっていた。
「デフレの心配はもうなくなったね」
「アベノミクスは大成功と評価していいんじゃないか。今後はむしろインフレが行き過ぎることを警戒しなければならんね」
「そろそろ日銀の国債購入はやめるべき時期だろう」
「ちょっと気にかかるなあ。もし日銀が国債の購入をやめたら、誰が国債を買うんだろう。日本の商業銀行は投資の重点を外国債券に移してしまったよ」
「昔は円高が続き、また国債価格が安定していたため、国債は良い投資先だったんだ。
しかしインフレで円安がさらに進むという見方が一般的だから、銀行が投資対象を外国債券から国債にもどすことはありそうもないね」
「そうなると、日銀が国債購入をやめた途端、国債利子率が上がることは避けられない」
「国債利子率が上がると、国の借金が雪だるま式に増えることは目に見えている。国がサラ金地獄に陥るということか」
「そうなると国債発行額はますます増え、国債の信用はますます低下するというわけだね」
「今や国債を買っているのは、日銀と郵貯銀行だけだよ」
「郵貯銀行が大量の国債を抱えていることを心配して、郵便貯金の解約が増えているそうだよ」
「郵貯銀行の国債購入が先細りになると、国債を買うのは日銀だけになるということか」
「こういう状態で日銀が国債購入から手を引くことなんてできないよ」
「誰もが日銀の国債購入の動きに注目しているんだよ。購入ペースが落ちると国債相場は敏感にそれを反映して下落している。非常に神経質な相場になってしまった」
「銀行が外国債券を買っているだけじゃなくて、国内の資産家が国外に資産を逃避させる動きが盛んになっているそうだよ。そのために円安が一段と進んでいるんだ」
「アベノミクスが始まった時は、円安は輸出産業の収益改善につながる良い兆候だったんだ。しかし今の円安は日本経済の先行きへの懸念を表す悪い兆候になってしまった」
「すべてが計画通りにいっているのに、結果がどんどん悪くなっている。おかしなことだね」
「計画のどこが間違っていたんだろう」
「安倍内閣は、インフレ率が目標以上に上がったら、引き締め政策で対処すると言っていた。しかし経済を引き締めると金利が上がる。金利が上がると既発行国債の市場価格は低下する。また新規発行国債の金利も上げざるを得ないので、政府の財政赤字はさらに拡大する。ちょっと考えれば、こうなることは分かっていた筈だ」
「というと、アベノミクスは最初から間違っていたのか」
「長期デフレを退治するには、金融緩和はやらざるを得なかった。デフレが克服されインフレになったら、引き締め政策に移らなければならない。ここまでは経済学の常識だ。しかし引き締め政策が可能なのは、国債発行残高がそれほど多くない時だけなんだ。日本のように大量の国債を抱えている国では、引き締め政策で金利が上がったとたん財政は破たんするんだよ。
さらに遡って言えば、政府があのように大量の国債を発行できたのは、不景気で民間資金の運用先がなかったからだ。その資金が外国投資に向かわなかったのは円高傾向だったからだ。景気が回復して資金需要が高まり、また円安傾向で外国投資が盛んになると、国債は国内では消化できないようになるのは目に見えていたんだ。
しかし政府は円高、低金利、資金余剰という環境に甘えて国債を発行しすぎた。自ら金融政策を働かせることができないようにしてしまったんだ。ここまで借金がかさむと、どんな手を打っても必然的にこういう結果になる。一本道だったんだよ」
「政府はどういう手を打つんだろう」
「何か我々では考えられない手を用意しているのかも知れない。それを拝見しようじゃないか」

当初のプランを変更して、日銀はインフレ目標を達成した後も国債購入を続けた。
青年党政策調査会は先の議論を続けた。
「日銀の国債購入が続くとどうなるんだ」
「日銀は国債購入のために日銀券を発行しなければならない。いつまでもこれを続けるとインフレが止まらなくなる。インフレが進むと、国は借金が目減りして助かるだろう」
「ということは、国民の資産が目減りするということだ。ひどい話だ」
「では日銀が国債購入をやめたらどうなる」
「国債購入をやめれば国債相場が下がって、まだ国債を保有している市中銀行が倒産するかもしれない」
「国債相場下落による倒産は、銀行の資金運用の失敗であり、自己責任だ。やむを得ないだろう」
「銀行が破たんすると、預金者が資産を失う。これは大問題だ」
「預金者の損失は、一〇〇〇万円までなら預金保険でカバーできる」
「保険のカバー範囲を超えたらどうなる」
「そうなったら非常事態だ。臨時の措置としてカバー範囲を無制限にすればよい」
「結局こうなったら、誰かが損害を被ることは避けられない。国債市場価格下落という形で銀行が引き受けるか、インフレという形で国民全体が引き受けるか、という問題だな」
「銀行が国債を買う時は、相場が下落して損害を被る危険があることは覚悟すべきだった。これは自己責任だ。しかしインフレによって資産が目減りすることは、国民の資産の強制的召し上げだ。これは弱い者いじめで正義に反する」
討議の結果、青年党は翌週の予算委員会で、日銀の国債購入継続に反対する趣旨の質問をすることを決定した。
  「これは国民の注目を浴びる論戦になるぞ。誰を質問者にたてるんだ」
  「経済問題なら千君だろう」
「彼は第一回の予算委員会でも質問したじゃないか。彼ばかり脚光を浴びるのは不公平だ」
「質問は決められたとおり台本を読めばすむというものではない。政府の答弁に問題があればそれをさらに追及し、やりこめなければならない。それができるのは、経済問題に詳しい千君しかいない」
「そうだな。現に今日の議論も、千君がリードしたから結論が出たんじゃないか」

翌週の予算委員会で千が質問に立った。
「インフレ目標を達成した後も、日銀は国債購入を続けております。政府はこれについて、どうお考えですか」
金融庁長官が答弁した。
「国債の購入は日銀の判断です。政府が口出しすることではありません」
千はその答弁に満足しなかった。
「日銀が金融政策の一環として市中に出回っている国債の売買を行えることは承知しております。しかし現在行われているような国債の大量購入は、政府の発行する国債を直接引き受けるのと何ら変わりがないじゃありませんか。これは実質的に日銀法違反だと思いますがいかがでしょうか」
金融庁長官は答えた。
「日銀は国債を直接引き受けているのではなく、あくまでも日銀みずからの判断で市中から購入しているだけであって、日銀法違反にはならないと解釈しております」
「日銀が国債を大量に購入すると、通貨発行量が増大します。それはつまりインフレを誘発することになります。アベノミクスによってデフレを克服したことは政府の功績だと評価する声が多数ですが、インフレに転じた後もその政策を続けると、今度はハイパーインフレの心配をしなければなりません。従来から安倍首相は、そうなったら出口戦略に転ずると表明してきました。年率二%にまでインフレ率が上昇した今こそ、その出口戦略を実行すべき時期に来たと思うのですが、日銀が自らの判断で国債の大量購入を続け、通貨発行量を増やし続けたのでは、政府の政策と整合性がとれません。日銀の国債購入額を制限するような法的措置が必要だと思うのですが、長官はどうお考えでしょうか」
「長期国債の保有額は日銀券流通残高以内に収めなければならないという日銀の自主設定ルールがあります。日銀はその制約内で国債を購入しているのでありますから、何ら問題はないと判断しております」
「それでは通貨を発行して国債を購入している限り、いくらでも無制限に国債を購入できるということになるじゃありませんか。インフレへの歯止めはないということですか」
「インフレにならないように監視するというのは日銀の役割です。政府がそれに口出しすることは避けるべきであると考えます」
「それはおかしくはありませんか。二〇一三年に黒田氏を日銀総裁に起用したのは安倍首相です。安倍首相は、ご自分の経済政策つまりアベノミクスを実現するために、ご自分の考えに賛成する人物であるという理由で今の黒田総裁を選任したのです。したがって日銀の行った政策については、安倍首相に責任があるというべきでしょう」
「確かに黒田総裁を選んだのは安倍首相です。したがって、日銀の金融政策によってデフレが解消したのは安倍首相の功績でしょう。しかしデフレ脱却に成功して、日銀が政策を変えるべき状況になった時にどう変えるかということについては、日銀の独立性を尊重すべきだと思います」
結局、千の追及は海千山千の金融庁長官にはぐらかされてしまった。
予算委員会終了後、吉田幹事長が憤懣やるかたないという表情で、周辺の青年党議員に当たり散らした。
「要するに、金融庁長官は手続き上問題はありませんと言っているだけだ。その結果、国民生活にどれだけの影響があるかという政策効果については、何も言っていない。もっともこの事態におよんでは、政府は何もできまい。ただ成り行きに任せるだけだということがはっきりした。こうなったらインフレは避けられない。インフレになるんだったら、借入をした方が得だ。ローンを借りられるだけ借りて、マンション購入をさらに追加するぞ」

議員会館に帰って千は金香蘭に意見を求めた。
「どうなんだろう。公人である政治家があんなに投機にのめり込んでいいんだろうか」
「いつの世の中でも政府なんて信用できません。その中で個人的な損害を避けようと行動するのは、その人の才覚でしょう。台湾人も中国人も韓国人も、多くの国の人々はそうして生きてきたんです。政府に任せっぱなしでノホホンとしているのは、日本人だけですよ」
「幹事長のような行動は当然だというのか」
「個人としては当然です。しかしやりすぎると、政治家として評判を落とす危険があります。政治家として失格になっても、それ以上に得があるのならいいかもしれませんが・・・」

二〇一七年一月、政府は財政赤字巾縮小のために社会保障費を削減する法案を衆議院に提出しようとしたが、国民の反発を恐れた共同与党公明党の反対にあって実現しなかった。無策のまま財政赤字が拡大し続けた。政府が発行した国債をただちに日銀が購入することが当たり前のように行われた。日銀券発行額は増加する一方であった。

それからのインフレ率上昇はすさまじかった。二〇一七年三月に瞬間風速として年率一〇%になった。金利上昇のために新規発行国債の利子率が上昇した。金利の低い既発行国債の市場価格が低下することは免れなかった。通常であれば中央銀行が引き締め政策を実施すべきところであるが、日銀は国債相場維持のために、国債の購入をやめるわけにはいかなかった。購入代金分だけ新たな通貨が市場に供給された。これは過熱した経済をさらに加熱する行為であり、インフレ急加速はその当然ともいえる結果であった。インフレ率は年央には三〇%、年末には一〇〇%に達した。

見る度に商店の値段表が変わっていた。人びとの頭からこの物の正当な価格はどの位であるという相場観が失われてしまった。
企業では予算管理、原価管理が不可能になった。原価低減のために地道な努力をする者はいなくなり、部品購入や製品販売に際しては、価格交渉よりも、できるだけ早く代金を受け取りたい売り手とできるだけ支払時期を遅らせたい買い手の駆け引きに関心が移った。
経営指標の信頼性が失われ、真面目に経営分析を行う経営者はいなくなった。
サラリーマンは、月給の値打ちがその年のうちに下がってしまうため、年に四回昇給交渉を行うようになった。
また円の信用が失われ、物価上昇率以上に円為替レートが下落した。その結果、輸出が有利になる一方、輸入品価格が上昇した。
物の値段が目まぐるしく変わる混乱の中で、鈍重な企業は破綻し、利にさとい機敏な企業はぼろもうけをした。

二〇一八年にインフレ率は五〇〇%になった。インフレ自動補正が一般的になった。給与は、前期給与に期間中のインフレ率を上乗せした額を出発点にして、それをベースに賃上げ交渉をするようになったのである。インフレ補正がコストプッシュを生み、次のインフレの原因になるという悪循環が始まった。インフレ率は上昇する一方となった。
有力企業の間では、工場だけでなく本社機構も国外に移動させることが一般的になった。産業基盤が崩壊したのである。

オリンピック開催によってインフレがさらに激化する恐れがあるという声が上がり始めた。それを受けてオリンピックを中止せよという論調が高まった。やむを得ず政府は、オリンピックまでにインフレを抑制するという声明を発表した。
政府は財政支出削減に本腰を入れ始めた。福祉予算が切り下げられ、増税を行った結果、基礎収支は黒字化した。しかしインフレによってすでに五〇〇%を超えていた市中金利は金融引締めで六〇〇%に上昇し、国債利子支払いのために財政赤字は増加するばかりだった。
政府は電気、ガス、水道など公共料金を凍結した。しかし公共事業運営会社の赤字を放置するわけにはゆかず、財政による赤字補てんを余儀なくされた。そのために財政赤字が再び拡大することになった。日銀は財政赤字補填のための国債購入をやめられず、通貨発行額は増大する一方となった。
安部首相は経済産業相にたいし、何とかせよ、非常手段も使え、と指示した。それを受けて民間市場の価格統制が行われることになった。
「統制価格はどうして決めるんだ」
「細かい検討はやっている暇はない。現在の価格に固定するしかない」
企業からは、コストが上がるのに売値を上げられなかったら経営は破たんすると悲鳴が起った。その結果、政府は賃金の上昇も禁止した。原材料費も労務費もすべて今まで通りのレベルに凍結されるなら、製品価格を上げる必要はないはずであるという主張であった。
しかし輸入品の価格は統制できなかった。為替が低下傾向の現在、輸入品の価格上昇は避けられない。それはわかっているが、例外を認めては統制は出来ない。
「輸入原材料の値段が上がっても、製品の値段は上げることは許さない。そうすれば自然に輸入が減るだろう」という論理で価格統制を強行した。ところが輸入品を国産品に切り替えると国産品の需要が増え、価格の上昇圧力はさらに強くなった。
企業はコスト上昇の負担を縮小するために、多くの製品の原価を強引に切下げ、そのため品質の低下がはじまった。苦しいメーカーや卸商は製品を価格統制のない闇市に横流しするようになった。そのようにして闇市が発達した。高価格高品質の商品は闇市でのみ流通するようになった。
こんな無理はいつまでも続くはずがないと多くの人が思った。国債価格の下落を予想した金融機関は国債処分を急ぐようになった。国債をまだ保有していた銀行の信用が低下した。預金の引き出しが始まった。年金はインフレ調整で表面上の金額は大幅に上昇した。しかしインフレ調整は前年度インフレ率にもとづいておこなうため、年々上昇するインフレ率を後追いする形となり、年金は実質大幅目減りすることになった。

国会の青年党控え室で昼食を取りながら、夏目が千に話しかけた。
「選挙に出た頃、年金の世代間格差について話し合ったことを覚えているかい」
その当時を思い出しながら千が答えた。
「そんなことがありましたね。たしか老人世代の年金支給額が過去に支払った年金税よりも多いのに、若者の将来の支給予想額が支払った年金税よりも少ないのは不公平だなんて話してましたね」
「そうだったね。しかし今になってわかったんだけど、あの主張は間違ってたね。老人の受け取る年金額が年金税支払額よりも多くなったのは、その間の経済成長やインフレのためだったんだな。今の若者だって、将来受け取る年金額はインフレのせいで支払った年金税よりもずっと多くなるだろう。インフレがひどくなったため、何が得で何が損かわからなくなってしまったんだね」
千はうなずいた。
「そうですね。だけど年金の問題はそれだけじゃありませんよ。毎年年金のインフレ補正はされています。そのため年金支給額は減ってないように見えますが、年金のインフレ調整は年一回だけなので、一年のあいだに年金額は大幅に目減りしてしまいます。年金制度は実質的に崩壊しちゃったんです」

年金では生活出来なくなった老人が店員や清掃作業員になって働き始めた。サラリーマンは口座に振り込まれた給料を、ただちに引き出して今後一週間に使う予定の食料品をまとめ買いするようになった。インフレにともない金利も高くなったので、余分のお金があったら普通預金に寝かせておかず、定期預金や投資信託に預けるようになった。クレジットカードで買い物をすると、清算が後になるので、それまでの物価上昇分だけ得になる。それを見込んで、皆が日用品までクレジットカードで買い物するようになった。

ある日、千房之介に母親から電話があった。
「今のインフレを見てると、戦後すぐのことを思い出すのう」
「戦後ってどの戦争のこと言ってるの。イラク戦争のこと? それともアフガニスタン戦争のこと?」
「大東亜戦争のことに決まってるべ。おらあ、あの時みたいに食料不足になるんでねえかと心配してるだ。そうなりゃ町の衆が食料さ買いに田舎にやってくる。おめえ田舎さ帰って田んぼを耕した方がいいんじゃねえか」
「日本は食料を輸入して賄っている国なんだよ。食料不足になるかどうかは食料輸入を続けられるかどうかにかかっているんだ。だけど外貨不足で食糧輸入ができないようになったら、食料だけじゃなく石油や鉄鉱石、家畜飼料など全ての原材料の輸入も難しくなると思うよ」
「そうなったらどうなんだ」
「日本の産業はすべて壊滅だよ」
「贅沢品はなくっても生活はできる。しかし生きるためには、食料は自分で作らなければなんねえ。そうでねえけ?」
「だからそうならないように、政治家は頑張る責任があるんだ」
「うまくゆく自信はあんのか?」
「正直言って自信はない」
「そんなら、もしもに備えて畑は用意しとくよ。苦しくなったら帰ってきたらいい」
「経済をめちゃめちゃにして、自分だけ生き残る算段をするなんて、政治家として許されないことじゃないのかな」
「何言ってんだ。自分の命が一番大事に決まってんべ。きれい事ばかり言ってねえで、自分のことさ考えなきゃなんねえぞ」
「自分が生き延びることを先に考えたら、日本経済壊滅防止のための活動に真剣みが欠けるんじゃないかな。少なくともそう言われても仕方がないよ」
「お前のようなまじめな政治家ばっかしだったら、日本はこんなにめちゃくちゃになんなかったべな」
「ほとんどの政治家はまじめなんだよ。ただ何をすべきか何をすべきじゃないかの判断力がないだけなんだよ」
「戦後すぐのインフレは、GHQのアメリカ人が退治したんだっぺ? 今ならその時に何をしたかはわかってるんじゃねえのか」
「お袋はえらいことを知ってるんだね。驚いた」
「馬鹿にすんな。これは勉強して知ったことじゃねえ。自分で経験したことだ」
「それはGHQのドッジ顧問のことだよ。ドッジのアドバイスで緊縮財政政策を実施し、インフレから脱却したんだ。財政を引き締め、赤字国債の発行を禁止する財政法もできたんだ」
「そんならもうインフレは起こらない筈じゃないのけ」
「その法律を守っていたらインフレは起こらなかったろうね。だけど、その後景気対策のために、今年だけは例外だとする法律を毎年作り、そのうち、赤字国債の発行が当たり前になってしまったんだ。それを何年も続けて、国の借金は国家予算の二〇倍以上になってしまった。今じゃ毎年、過去の国債を償還するために新しい国債を発行する事をやめるわけには行かなくなってしまったんだ」
「みんな、あの時のインフレでどれだけ国民がひどい目にあったか、忘れてしまったのかね」
「その時その時の景気対策の方が大切だと思っていたんだろうね。

  のど元を過ぎて忘れた熱さかな

ってところかな」
「また川柳か。そのくらい余裕があれば大丈夫だな。安心した」

企業では、原材料仕入れ価格は昔の低い価格相場で表示され、製品販売価格は販売時の高い価格相場で表示されるので、全ての取引は帳簿上大幅黒字になった。その見せかけの業績向上によって主要企業の株価が上昇した。金よりも物で持っている方がもうかるという感覚が定着した。土地価格が上昇し、インフレヘッジのための土地需要が増大した。特に沖縄の土地取引が盛んで、なかでも普天間基地周辺の地価上昇が目立った。
「おかしい。何で基地周辺の土地価格がこんなに上がるのか」
政府の指示で買い手の調査が行われた。その結果、基地周辺の土地のかなりの部分を東亜興業という会社が買い占めていることが分かった。
「この会社は外国企業か」
「いや日本企業です」
「裏に外国人がいるかもしれんぞ。円安で日本資産は買いやすくなったからな」
裏の資金提供者の調査が進んだ。
「買収資金はマカオから出ていることがわかりました」
調べると、中国の人民解放軍が対外工作に使う口座だった。
「つまり中国に沖縄の戦略拠点が買い占められているんだ。これは止めなければならん」
こうして、戦略地域の土地取引を規制する法律が成立した。指定された軍事物資を取引する企業の株式の取引も規制されることになった。こうしたことがどれだけ影響したかわからないが、海外資金の流入減により主要企業の株価が下落した。インフレ下の不況で失業が増大した。

 二〇一九年一月IOC 評価委員会において、日本はオリンピックを開催する能力があるのかという疑問が出された。議論の結果、視察団を派遣して、会場建設工事進捗状況その他の準備状況を視察することになった。
視察団が競技場建設現場を訪れると、工事は建設資材高騰のため中断状態の所があった。一行がさらに街頭で人々のオリンピックへの関心の程度を調査したところ、中止すべきだという意見が少なからずあった。視察団メンバーが店で買い物をしようとすると、日ごとに商品の値段が上昇しているため、入国時に空港で両替した円の値打ちが下がってしまったことに気づかされた。これは視察団一行の心象をおおいに悪化させた。

 視察団に参加した中国IOC委員は本国政府に報告した。
「これは日本の信用を落とすいいチャンスです」
「これに乗じてさらに中国の評判を高める策を考えられないか」
中国IOC委員は、これから考えられるいろいろのケースごとにどういう作戦でゆくかをシミュレーションして、IOC評価委員会に臨んだ。
 視察団が調査結果を評価委員会で発表した。
「率直に言って、この様子では日本でのオリンピック開催は無理のように思えます」
「しかし競技の始まるのはわずか一年半後です。今更ほかの国に変えることは難しいでしょう」
その時、中国出身のIOC委員が手を挙げた。
「どこも引き受け手がないのなら、中国で引き受けてもかまいませんよ」
「中国は二〇〇八年にやったばかりじゃありませんか」
「中国の人口は世界の二〇%を占めております。そのくらいやってもおかしくないと思いますが」
「こんな短期間で準備ができますか」
「大丈夫でしょう。北京のオリンピック施設をそのまま使えば、大規模な工事は必要ありません」
会場の雰囲気は曖昧だった。
「助かった。これでオリンピックを中止せずに済む」
「中国は図に乗っている。大人口を嵩にきて出しゃばり過ぎだ」
IOC会長が会場の雰囲気を見ながら言った。
「中国の申し出はありがたいと思います。しかし日本政府はやると言っており、インフレもそれまでに収束させると言っております。いったん決まった開催国自身がやれると言っているのに、無理だろうと言って中止させることはできないでしょう。特に、日本が仕事をスケジュール通り進める能力では非常にすぐれていることは、皆さんもよくご存じでしょう」
日本視察団の一人が漏らした。
「そう言えば、あの経済的混乱の中でも、日本の新幹線はスケジュール通りに動いていました。われわれどの国もこの真似はできません」
中国のIOC委員が声をあげた。
「中国は、計画と規律に関してはよその国に負けません。短い準備期間でも立派にやってみせます」
IOC委員長が仲裁案を出した。
「中国は短い準備期間で立派にやれると言っているのだから、ぎりぎりまで日本の経済混乱の収束ぶりを見て、いよいよ駄目だと見極めをつけたら、中国にお願いすることにしましょう。それなら日本も納得して中国に譲るでしょう」
「ぎりぎりとはいつまでですか」
「オリンピック開催一年前ということでどうですか。今から半年後の八月です」
「それはきついですね。もうちょっと早くなりませんか」
「さっき短い準備期間でも立派にやって見せると言ったじゃないですか」
中国IOC委員の後ろに控えていた随員が委員に耳打ちした。
「どうせ今から半年で日本のハイパーインフレが収まるわけはありません。ここではこの決定に従っておいて、わが国内で今から準備に取り掛かればいいじゃありませんか」
「それもそうだ。その方が他国のIOC委員に恩を着せられるな。ここでは鷹揚な所をみせて、この決定に従っておこう」
中国IOC委員は承知したと答えた。ほかのIOC委員は中国に感謝し、安堵の気持から口々に本音を漏らした。
「まさか、あの日本でこんなことになるとは思わなかったな」
「地震や津波の時に見せたあの自制心はどこに行ってしまったのだろう」
「いや。日本人にもラテン気質のようなものがあると知って、かえって親近感が湧くようになったよ」

中国IOC委員は、帰国後中央政府および北京市政府にこの結末を報告した。
「北京でのオリンピック開催は決まったようなものです」
「よくやった。大至急準備に取り掛かってくれ」
「ちょっと待った。IOC委員会の正式決定なしにそのような出費をして、誘致が実現しなかったらどう責任をとる」
「日本は意思決定の遅い国だ。インフレ退治がそんなに早くできるわけがない」
「それもそうだ」
北京市政府は、大至急オリンピック開催に備えた会場計画を策定した。選手村はすでに市民向けのアパートに転用されていたが、住民を立ち退かせ、再び選手村として使うことになった。競技用施設の多くは北京オリンピックで使用した施設をそのまま利用するため、新たな工事は少なかった。そのわずかな工事にあたっては、入札手続きをとらず、市長の息のかかった企業に一任することになった。土地買収は、住民の強制立ち退きによって簡単に実現した。労働力は、他の主立った土木工事を中断することによって、オリンピック関連工事に集中させ、さっそく突貫工事が始まった。専制国家ならではの手際の良さであった。

二〇一九年二月、日本のインフレ率は年率一〇〇〇%にまで上昇した。誰の目にも経済正常化が最大の政治課題であることが認識された。青年党は従来から主張してきた世代間格差解消、与野党一致外交よりも優先すべき課題として、インフレ解消を緊急重点政策に取り上げた。この問題への取り組みには専門家の知恵が必要である。そこで、インフレ問題の権威である東都大学の若狭蔵人教授を座長に、インフレ対策研究会を発足させた。当然のことであるが、千もこの研究会のメンバーになった。
若狭は、参考にすべき例として太平洋戦争直後の大インフレをあげ、その原因と対策について解説をした。あの時は巨額の復興需要と工場焼失から来る供給不足によってインフレが起こったが、進駐軍指導による緊縮財政と預金封鎖、新円切り換えによってインフレはおさまった。今回は国債利子支払いのための財政赤字は止めようがない。また政府に、預金封鎖や新円切り替えのような荒療治をする覚悟はあるのか。それが問題であった。

千はスーパーマーケットで牛乳を購入し、レジで代金を支払おうとした。価格は四五二〇円であった。また上がったかと思いながら財布から紙幣と硬貨を出して数えた。数え終わって店員に渡した。しかし店員が言った。
「お客様がお金を数えている間に値段は上がってしまいました。あと二一五円いただきます」
そんな馬鹿なと思ったが、店員は「嫌ならお買い上げいただかなくて結構です」
と言うばかりであった、レジの行列に並んだ次の客が文句を言った。
「早くしてくれないと、私が買った物の値段も上がってしまうじゃないか」
しょうがないから小銭を数えて渡した。店員が言った。
「また値段が上がってしまいました。あと五三円必要です」
千は業を煮やし、五千円札を出して言った。
「必要なだけ取ってくれ」
店員は値段表を見ながら金を数えた。ふと見ると、数えるのを止めて何かを待つ様子であった。
「どうしたんだ。お釣りをくれよ」
店員はにやりと笑いながら言った。
「ちょっと待ってください。牛乳の値段がもうすぐ五千円ちょうどになります。そうしたらお釣りを数える必要がなくなります」
千は大声を上げて怒った。その自分の声で目が覚めた。
「夢だったんだ。しかし変な夢だ」

橘と清水が議員会館の千の事務所を訪問してきた。香蘭がお茶を出した。
「豆大福があるけど食べますか」
清水が「大好き」と言った。香蘭が持ってきた豆大福は、昔馴染みだったのよりずっと小さかった。「インフレだから仕方ないよね」と言いながら食べた。
「可笑しいわね。豆が入っていない。香蘭ちゃん、あなた確か豆大福と言ったわね」
「言いました。それ、豆大福じゃないんですか」
「豆大福って豆が入っている大福のことを言うのよ」
「あっ、誤解してました。豆大福って、小さい大福のことかと思ってました。日本では小さい物のことを豆なんとかって言うでしょ」
「そういやそうね。でも昔から豆大福っていうのは、豆が入っている大福のことを言うのよ。インフレでせちがらくなって、小さい大福を豆大福って言うようになったのかしら。でも、安いものだったら仕方ないわね。これで値段はおいくら?」
「三個入りのパックが一ドルです」
「あら、ドルで買ったの?」
「いいえ。払ったのは円ですが、円ベースの値段は毎日変わるので覚えてられません。そのつど頭の中でドルに換算して、お買い得かどうかを判断してるんです。ドルの値打ちがピンとこない人は、高いか安いかもわからずに買っていると思いますよ」
「無理もないわね。人が値段を気にしてくらべたりするのは、貨幣価値が安定しているからね」
千は、インフレ対策の切り札が見つかったと思った。

青年党インフレ対策研究会の研究成果がまとまり、経済再生プランとして発表された。内容は円ドル二重通貨制である。当惑の声があがった。
「これはどういう効果を持つのか。通貨を二種もったからってインフレが収まるわけはないだろう」
「経済を混乱させるんじゃないか。通貨が二つあったら物の値段をどうして決めるんだ」
「ドルを使うなんて国辱ものだ。国民が受け入れるか」
若狭教授が説明した。
「通貨の価値が変動して正当な価格を見積もりにくい時、ドルという安定した通貨があれば判断しやすいでしょう。実際の支払いはドルかその日のレイトで換算した円で支払えばよろしい。これで経済の混乱は収まる筈です」
青年党はこの案を日本再生プランとして発表し、国民への呼びかけを行った。当初は経済専門家からも、「前例がない」「効果予測不能」と不評であった。しかしかなりの国民は、既にドル換算で値段を決め円札で支払うという二重通貨で生活していたために、理解が速かった。再生プランに期待する声が高まり、青年党支持率はこれまでで最大になった。

第五章  政権獲得

自民党の無策に世論は沸騰した。たまたまこの時、首相の親族が資産を海外に逃避させたことを新聞が報じた。「これは国民への裏切りだ」という声が高まった。連合が音頭をとって国会に抗議デモが押し寄せ、首相退陣とインフレ撲滅を要求した。デモは全国に波及し、日本全土が騒乱状態となった。安倍内閣は警察機動隊を要所々々に配備してデモの暴動化を防ごうとしたが、事態は容易には沈静化しなかった。

不人気な自民党からの脱党が盛んになり、そのうちかなりの部分が青年党に入党した。衆院比例区当選議員の半数を小選挙区に割り当てていた青年党だが、まだ空白選挙区が多かったので、選挙区が他の議員と重複しない限り自民党脱党者を受け入れた。衆議院の自民党議席数は過半数を下回った。
二〇一九年三月の臨時国会で内閣不信任案が可決された。自民党内閣は衆議院を解散し、四月に衆議院選挙が行われた。二〇一六年の衆参同時選挙からまだ三年にならなかった。青年党は全選挙区に候補者を擁立し、その多くが当選した。青年党は第一党になった。千と橘は小選挙区で当選した。清水は落選した。夏目は吉田に話した。
「清水は将来の党首候補としては一歩後退の感があるが、まだ若いんだ。立ち直るチャンスはあるだろう」

千は母親に電話をした。
「そちらじゃ今、桜がきれいだろうね」
「うん。今がまっさかりだ。東京はもう終わったっぺね」
「千鳥ケ淵なんかじゃ、風に花びらが舞って、豪華絢爛たる絵巻物の世界だよ。

花吹雪花粉も飛んで春盛り

ってとこかな。ところで、選挙では随分お世話になったね。お陰さまでどうやら失業しないですんだよ」
「おめでとうね。また東京さ戻って、単身生活で不便してるんだべな。働き口の心配がなくなったら、今度は嫁を貰ったらよかっぺ」
「結婚というのは、そんなに計画通り行くもんじゃないよ。チャンスがあったらするし、なかったらできないよ」
「その積りがあるんだったら、良さそうな人、探しとこか」
「勝手にやらないでよ。こちらの都合もあるんだから」
「誰か好きな人がいるのけ」
「決まってる訳じゃないけど、自分で見つけられると思うよ」
「ははーん。誰かいるんだな。早く連れてこ。顔が見てえから」
「まだそんな段階じゃないんだって」
「連れてこれないなら、こっちから会いに行こか」
「困るな。勝手に先走りしないで」
「いいからいいから。じゃ楽しみにしてっからな」

青年党々首の夏目が首相に就任した。
千は夏目に一句進呈した。

周辺が浮き浮きしてる新首相

夏目は苦笑いをしながら答えた。
「責任の重さを考えると、本人は浮き浮きなんてできないね。まず閣僚人事だ」
夏目は橘を外務大臣に指名した。また外務委員会の定数を二〇に縮小し、与野党の外交通がこの委員会に加わった。外交にかかわるすべての重要な情報をここに集中し、国の外交方針を審議する体制を作り上げた。
 吉田は経産相になり、千は経産省政務官を拝命した。吉田からは「政策では君が頼りだ。よく勉強してくれ」と言われた。
概して言えば、自民党から転入したベテランが、経験を買われて閣僚など重要役職につくケースが多かった。青年党生え抜きに不満の声もおこったが、吉田はこう言って宥めた。
「大臣というのは行政職だ。君たち未経験の者にすぐ勤まるポストではない。君たちは補佐役として勤め、経験を積むことでその次の出番が来るんだ。そのつもりで勉強してくれたまえ」

ある日、週刊誌に経産省政務官に就任した千に関する記事が掲載された。千の秘書が台湾人であるため、重要な機密が台湾に漏れる怖れがあるというものであった。千は吉田から呼び出され、注意を受けた。
「これは野党に攻撃材料を与えるおそれがある。それを避けるため、金香蘭を解雇したほうがいいんじゃないか」
千は断固として拒否した。
「香蘭は世代間格差解消のために共に戦ってきた同志です。香蘭がいなかったら、私は青年党に入っていなかったでしょう」
「そのために君自身が辞職に追い込まれてもいいのか」
「構いません。同志を切り捨ててまで生き残ろうとは思いません」
吉田は突き放すように言った。
「これは、最終的には千君自身が責任をとる問題だ。わしはどうなっても知らんぞ」
千は吉田の忠告を聞こうとしなかった。
野党の批判が激しさを増してきた。野党にしてみれば、現在日の出の勢いにある与党青年党を攻撃する材料は他にはない。この問題に批判が集中するのは、自然の成り行きかも知れなかった。
数日後千が議員会館に顔を出すと、香蘭が辞職願を用意して千を待っていた。もちろん千は慰留しようとした。しかし香蘭は考えを変えようとしなかった。
「先生は政府に入りました。 台湾は尖閣問題では交渉相手になります。場合によっては敵国になるかもしれません。野党が懸念するのも当然だと思います。私は辞めた方がいいと思います」
「そんなことは、私は気にしていないよ。ずっと一緒にいてくれよ」
「そうはいきません。私自身が、日本政府のために働くことに、割り切れなさを感じているんです」
「君は日本の主張が正しくないと考えているのか」
「私は台湾人です。日本の立場には立てません」
「あまりにも身近にいるために、君がそういう意見を持っているとは気がつかなかった。これまで自分の気持ちに逆らって私を手伝ってくれていたのか」
「私は単なる秘書にすぎません。それほど厳しく、日本の立場に立つか台湾の立場に立つかを問われる場面はありませんでした。しかし貴方が政府に入ったら、外部の目があります。貴方の秘書がそういう考えだということは、貴方のためにならないと思います」
「そんなこと言って、これから仕事のあてはあるのか」
「JETRO調査員の口が見つかりました」
千は、香蘭のためには辞職を認めざるを得ないと判断した。
「じゃあ、もう止めるわけにはゆかないな」
千は握手をして去ってゆく香蘭を見送った。大切なものを失った感じがして、後ろ姿に声を掛けた。
「これからも時々会いたいんだが」
香蘭は振り返ってニッと笑った。
「本当ですか。うれしい」
千は香蘭の後任として、青年党事務局職員を秘書に登用した。

二〇一九年六月、日本再生プランが実行に移され、日本国内で円にくわえてドルでも取引をすることが可能になった。米ドルだけでは紙幣が不足することが明らかだったので、日本ドルが発行された。両ドルは銀行で何時でも等価で両替可能である。円とドルの両替はその日の為替相場で行われる。円の価値が日々下がるため、給与支払いや商品取引はあっという間にドルで行われるようになった。国民の間でドルが足りなくなるんではないかという不安の声もあった。そうなったら取り付け騒ぎになりかねない。それを防ぐために、銀行窓口に米ドル紙幣と日本ドル紙幣が山積みされた。
ドル準備が急速に減少したため、輸入制限が行われた。またIMFからドルの融資を受けた。
国債やその他の円建て既存債権は従来通り円でしか償還できなかった。債権者は償還で受け取った円を直ちにドルに両替した。円の両替相場はみるみる下落した。円建て国債のドル建て市場価格は、残存償還期間によっても異なるが、平均百分の一に下落した。政府は減価した国債を市場から安く購入して償却し、過去の累積債務問題は解決してしまった。しかし安い価格で手放した国債保有者は大損害を被った。国民の多くはそこまで理解していなかったが、一種の徳政令が行われたのだった。

千は母親から電話を受け取った。
「良かったね、インフレが終わって」
「よかったんだか、どうだったんだか。ちょっと乱暴すぎたかなあ」
「でもインフレが続いていたら、国民は苦しみから抜け出すことは出来なかったんだっぺ」
「政府の債務は、結局は国民が肩代わりしたんだ。インフレは国民の資産の強奪だよ」
「そんなこと言って、お前、それ以外に方法があったんけ」
「あれ以外に無かったと思う」
「そんならそんでしょうがなか」
「しかし、国債を買ったのでも何でもない普通の人が、インフレで資産を失うとはね」
「政府の借金は国民の借金だ。政府が払えない時には国民が払ってやるほかない」
「ママの損害は?」
「ちいとばかしあった預金はなくなっちまった。だけんど、耕す土地があれば働いて食べていける。これから全部やりなおしだ」
「ふーん。ママはえらいね」

七月に参議院の任期満了にともなう選挙が行われる予定であった。青年党は衆議院で多数を占めたが、参議院ではまだ少数派である。他党の協力がなければ何事も決めることのできないねじれ現象におびえていた。日本再生プランは衆議院選勝利の勢いで他党の協力を得て実現できたが、危機を脱した後も他党の協力を得られるとはかぎらない。
青年党は、参議院選挙に多数の候補者をたてるべく、人選におおわらわであった。夏目は、先の衆議院選挙で落選した清水に、参議院比例代表区からの出馬を打診した。清水の平和主義は国民の間では少数派であり、衆議院の小選挙区では当選は難しいが、全国を一選挙区とする比例代表区なら、一定の支持を得るだろうと期待したのである。
清水は、衆議院選挙で落選したから参議院選挙に出るというイージーな考えに納得がいかなかった。そもそも参議院の存在意義は何かということから考えたかった。そこで憲法問題を議論していた昔の仲間に集まってもらい、参議院の役割について議論することから始めた。

今の制度のままでは、衆議院選挙に勝利をおさめた政党が政権を握るが、次の参議院選で勝利するまでねじれ現象は避けられず、何事も決められない恐れがある。これは制度の不備である。根本的な解決法を考えなければ、日本の政治は何も決定できない。どういう対策が考えられるかについての議論を進めた。
「同じ法案を衆議院と参議院で重複して審議するというのは無駄が多い。両院の結論が同じなら、二つもの議院で審議する理由がない。両院の結論が異なった場合は、ねじれ現象となって動きが取れなくなる。この問題を解決するためには、参議院を廃止するのがベストである」
「しかし、参議院を廃止するには憲法改正が必要になる。憲法を改正するには参議院自身が賛成しなければならない。そんな案を参議院が受け入れる筈がない」
「それなら、先ず衆参両議院を統合して一院制にするという案はどうだろうか。参議院議員が失職する心配がなく、参議院の同意も得られそうじゃないか」
「しかしそうなると、選挙区の調整が大変だ。今のままの選挙区を全部生かすとなると随分複雑な選挙制度になるし、単純化して衆議院の選挙区に参議院議員も立候補するとなると今までの選挙区の地盤を生かせない参議院議員が抵抗するだろう」
「では遠い将来、たとえば一〇年後に参議院を廃止するという案ではどうだろうか。現在の参議院議員の権益をあまり侵さずに済むため、参議院の抵抗は最小限にとどめることが出来るかも知れない」
「しかしそれは、参議院があることによって慎重な審議が行われるという二院制の長所を消しかねない」
「二院政を維持しながらねじれ現象の弊害をなくすには、参議院の審議を重要な法案だけに限るという考えもある。例えば通常の議案は衆議院だけが審議し、特に重要な議案だけを衆参両院で審議するというような」
「その重要な法案で衆参の議決が食い違った場合はどうするのか」
「重要な法案だから、衆参の意見が一致するまで慎重に調整することにするということでよいのではなかろうか」
「どんな案にせよ憲法改正が必要であり、相当の時間がかかるだろう」
「今すぐできることとして何があるだろう」
「昔の緑風会のようなものを復活させてはどうだろう。緑風会では、党議拘束なしに議員個人の判断で法案への賛否を決めた。政府が参議院で法案を通そうと思ったら、議員個人を説得すればよい。与野党の対決が党議拘束で動きが取れない状態からは脱却できるだろう。また参議院が良識の府として独自の存在意義を示すこともできるだろう」
「それはいい。良識の府としての参議院の存在を生かしながら、ねじれ現象の弊害をある程度なくすことができる」
「そうだ。清水さんが参議院選挙に出るなら、緑風会を作ろう」
党議拘束のために憲法九条改正反対の立場を貫けなかった清水にとって、これは親の敵を討つチャンスのように思えた。

清水は、以上のような議論が行われていることを夏目に伝え、自分が青年党から立候補するわけにはゆかないと告げた。
夏目としては青年党の勢力拡張がねらいなので、清水を青年党から立候補させるべく、なおも説得に努めた。
「今なら青年党に追い風が吹いているので、君を当選させられると思うんだ。今から新党を作ってゼロから出発するなんて、リスクが大きすぎるよ。国民からは泡沫候補扱いされて、一人も当選しない可能性だってあるよ」
この点については清水も反論できなかった。しかしこれまで参議院改革の議論を積み重ねてきた同志を裏切る訳にはゆかなかった。しばらく考えた末に、清水は双方の言い分を両立させる案を逆提案した。
「それなら、青年党参院は党議拘束をしないことを約束できませんか。それが認められれば、参議院改革の議論を進めている仲間全員を青年党に入党させられる可能性があると思うのです」
夏目は清水の発想の転換に驚いたが、この案の魅力を理解した。
「なるほど。これは青年党の一つの売り物になるかもしれんな。帰って検討しよう」

夏目は、早速青年党幹部会を開いて清水の提案を披露した。この案の新鮮さを評価する者が多く、活発な議論が展開された。
「つまり参議院青年党が緑風会化するということだな。これは面白い。国民に受けるぞ」
「いや。そうなると、法案審議にあたって個別議員の考えの違いで青年党の票は分かれることになる。野党が従来通り党議拘束をかけると、彼らは一致して行動できる。その場合、多くの法案は野党の考えで決まってしまう。国会対策で青年党は不利な立場に追い込まれるだろう」
「そういうことはあるかもしれないが、青年党の基本的な政策に関しては、議員の主張が大きくばらつくことはないだろう。そういうケースでは、青年党の議員数が増えるだけ青年党は有利な立場になる」
「つまり、この案にはメリット、デメリットの両方があるということだ。従来の方式とこの方式のどちらの利点が大きいだろう」
「日本全体の立場から見れば、緑風会化の方が利点が大きかろう。国民が支持するのは、結局は日本のためになる政策の方だ。このやり方の評判がよければ、他党も我々に追随して参議院の党議拘束をやめるということも考えられる。またそうならなくとも、他党から青年党に移籍する議員が出てくることが考えられる」
「衆議院でもそうだが、参議院では特に青年党の候補者の地盤は弱い。このくらい新鮮味のある政策を打ち出さなくては勝てないかもしれない」
「何よりもこの案は、参議院が国民の支持を失わない唯一の策かもしれないな」
こうして、参議院での党議拘束の廃止は青年党の公約になった。それを受けて清水達の参議院改革グループが青年党に加わった。

参議院選挙が行われた。青年党の売りは、日本再生プランの成功と、党議拘束廃止による参院改革である。趣旨に賛同して、青年党からの立候補を希望する者が続出した。ムードが盛り上がる中で、青年党は大勝した。他党の非改選議員の中からも青年党に加わる者が続出した。青年党は参議院でも過半数を占めることになり、ねじれは解消された。清水も参議院改革派の有力議員という評判をとって当選した。
新人の多い参院青年党の中でいくつかの勉強会が発足した。形を変えた派閥ではないかと心配する声もあった。確かに、派閥として政策主張をすれば、実質党議拘束廃止の公約が無に帰する恐れがある。しかし候補者の認定と選挙支援が党中央から行われる限り、派閥の締め付けには限界があり、議員の政策判断の自由は確保できる筈であった。

インフレ解消策の強行で得をした者と損をした者があらわれた。特に個人向け国債の価値下落放置で損をした者は多数いた。全国で政府にたいして補償を求める訴訟がおこった。まちまちの地裁や高裁の判決を受けて、最高裁が判例となる統一判断をくだした。
「インフレになれば、固定金利である国債の価値が下がることは当然である。そうとわかっている国債を買ったのは、買い手の責任である。買い手はそのリスクを負った代償として、通常より高い利息をうけとったのである。
インフレによって多くの国民が損失を被ったのは事実であるが、インフレに責任があるのは現在の政府ではなく、インフレの原因である財政赤字を放置した幾代にもわたる政府の共同責任というべきである。過去の政府は国民に甘い歳出増加ばかり行い、国民に厳しい歳入増加を怠ってきた。その結果、いつかは財政破綻することは明らかであった。
この無責任な政府を選んだのは有権者である。結局は国民自身の責任というべきである。これは政策の当否の問題であって、裁判所が合法か違法かを判断すべき問題ではない」

こうして累積債務問題は解決した。しかし日本国債の信用はすっかり下落してしまった。たとえドル建てにしても、新たに発行しようとすると二〇%以上の利子率が必要になった。もう国債には頼れないということがはっきりした。「財政規律がしっかりしてかえっていいんじゃないか」という声もあった。
給与は会社ごとに円建てからドル建てに切り替えられた。多くの会社は切り替え基準日を設け、部品や材料の購入価格、製品の販売価格、賃金を一斉に基準日のレイトでドルに切り替えた。その手続き所要期間中にある程度の価格の目減りがあった。また為替下落によって輸出品の価格が低下し、世界市場における日本製品の競争力は強化された。こうして日本は、ほどほどの賃金レベルの中進国として再生する道を歩み始めたのである。
外国企業の進出が盛んになった。経済活動は正常化した。大多数の国民の資産は目減りしたが、海外に資産を逃避させた者は損失を被らず、国民の間に割り切れない気持ちが残った。

週刊誌の独自調査により、吉田経産相がマンション投資で大儲けしたことが暴露された。それを読んだ人々が騒ぎ始めた。しかし吉田は信念をもって反論するのだった。
「マンション投資は、自民党の政策が間違っているという信念を示すために行ったものであって、けっして恥ずべきことではない」
しかし国民はそれでは納得しなかった。
「政治家は、国民に迷惑をかけるインフレ防止に全力を尽くすべきではなかったのか。インフレで儲かる取引をしていたのは、その努力をしていなかった証拠だ。それで金儲けをするのは、国民に対する裏切りだ」
吉田は、インフレでひどい目にあった国民の怒りを静めるのは困難と見極め、夏目首相に辞表を提出した。
「総理に迷惑は掛けられません。辞任します。経産相も衆議院議員も」
「こうした情勢では経産相を辞任することはやむを得ないことかもしれない。しかし衆議院議員まで辞職する必要はないんじゃないかな」
「この一連の騒動で自分の気持ちの整理がつきました。政治家を辞めて実業家になります」
「任期もまだ残っているのにもったいないよ」
「自分が本当に関心をもっているものがわかったんです。この年でやっとわかったんですから、これから他の事にかまけて時間を無駄にしたくないんです」
「そうか。それならしょうがないか。それで、経産相の後任を誰にするのがよいと思う?」
「能力的には千君が一番です。日本再生プラン作成の主力メンバーとして貢献度が大きいのは彼です。またインフレの本質を知っているため、これから思いがけない障害があっても、彼なら対処する能力があります」
「若すぎるために、人がついてこないのではないか」
「忘れてもらっては困ります。我が党は青年党なのです。そのシンボルとして、若者が主要ポストにいることの意味は小さくありません」
「なるほど。彼は若者に希望を与える存在になるんだな。しかし彼に国会対策ができるだろうか?」
「自民党から移籍してきたベテランを副大臣にしてサポートさせてはどうでしょう」
こうして千は経産相になった。

母親から電話があった。
「たまげたよ。大臣になったんだってね」
「うん。ひょんなことでそうなっちゃったんだ」
「村じゃ提灯行列さ、やんべえかって話してるんだ。おめえいつ帰れる」
「時代錯誤じゃないの。大体、今頃提灯なんて持ってる人がいるのかい」
「提灯がなかったらLEDランプだっていい。ともかく、お祝いをして喜びたい人が大勢いるんだ」
「弱ったな。当分忙しくってそんな暇ないよ」
「おめえ、何かまちがってねえか。政治家にとっては大臣になんのが目標だ。目標を達成した時はお祝いをしなけりゃなんねえ。お世話になった人にお礼もしなけりゃなんねえ。小学校や中学校の先生方も、教え子が大臣になったと自慢してえんだ。それを冷たくあしらったんじゃ、人の気持ちは離れてしまうぞ」
「そうか。じゃあ来週の土曜日に帰ろうか」
「何日いれる」
「月曜には東京にもどってないといけないんだ。日曜の夜行で戻る」
「大臣ってのは忙しいんだな。まっ、しゃあないか。お世話になった人たちにそう言っとくぞ」
「そうなったらママも忙しくなるだろ。大丈夫かい」
「なあに。おとうにも手伝わせるさ」
「おとうが役に立つかな」
「暇なんだから、何かやってもらわにゃ。

亭主の手猫よりましと借りにゆく

ってとこかな」
「ママ。うまい、うまい。いつの間に川柳を勉強していたの?」
「勉強なんてするものか。これは実感を伝えただけだ」

人々の間で広まっていたオリンピック返上論に対して、経産相となった千が反論を開始した。
「手持ちのドルを市場に放出したため、外貨保有高が窮屈になっています。オリンピックは外貨獲得策として是非実現したいと思います」
それを受けて東京都知事が諸外国に向けて声明を発表した。
「オリンピックに訪れる外国人はドルで買い物ができます。観光客には非常に便利になりました」
しかし、オリンピックをやるとインフレが再発するという記事が週刊誌に出た。オリンピックは返上すべきだという意見が依然としてなくならない。千がテレビで公開討論を行おうと呼びかけた。討論会でオリンピック賛成派と反対派が対決した。千は主張した。
「日本再生プランで、インフレの心配はなくなりました。オリンピックでインフレが再発するというのは間違いです」
反対派は納得しなかった。
「しばらく続いたインフレのために、国民の間にインフレマインドが定着してしまいました。お店でも会社でも、値段や給料はしょっちゅう上げて当然と思いこんでいる人がまだ大勢おります。この思い込みがなくなるまで、物価は安定しないでしょう。大臣がなぜそのように楽観的な見方が出来るのか、その根拠を説明してもらいたいと思います」
「それは簡単です。政府は日本ドルと米ドルの交換を保証しております。そのため通貨発行量に枠がはめられました。したがってもうインフレの心配はありません。
むしろ今の日本で心配なのは、ドル不足による不景気です。その心配をなくすためにオリンピックを開催し、外貨を獲得しなければならないのです」
反対派は、政府の言うことは信用できないと反論した。しかしインフレ抑制に成功した青年党内閣への信頼が上回り、世論は大きくオリンピック賛成に傾いた。

市場での円取引はなくなり、全ての取引はドル建てになった。円建てで決められていた公共料金や年金なども次々にドル建てに変わっていった。政府が国債発行によって新たな借金をすることは、国債信用の低下によって非常に難しくなった。その結果、財政収支のバランスをとることが必要不可欠になった。財政赤字解消のため、高齢者のさらなる年金削減が必要になった。「高齢者の票を失う」「年金支給額のこれ以上の削減は無理である」と反対派は主張したが、といって現役世代の年金税の引き上げも困難であった。支給開始年齢の繰り延べは、残された唯一の対策であった。
「働ける高齢者にはできるだけ働いてもらわなければならない」「高齢者雇用を促進する制度創設の必要がある」という主張が一般的となったが、そうすると若者の就職にしわ寄せがくる。しかし成長の限界が問題であった一〇年前とは違って、今や中進国となってしまった日本では、経済成長のチャンスが拡大したはずであった。
円安のために新たな海外投資は困難になっていた。一方で外貨を国内に持ち込むと大きなもうけになった。日本企業が海外工場を閉鎖して国内に工場を新設する動きが盛んになった。こうして国内に若者の就職口が増えた。しかしこれは円安による一時的効果であって、長期を見据えた経済成長策が必要であるという認識が広まった。
党内で成長政策に関する議論が盛んになった。若狭教授主導でこの問題の研究会が始まり、若手議員が多く参加した。通常なら経済産業大臣は研究結果を聞く立場であったが、千は自ら希望して議論に参加した。議論の結果は次のように集約された。

1、世界市場は一体化し、企業はコストの低い国で生産し、購買力のある国で販売するようになった。現在多くの先進国で成長が鈍化し、失業率が高まっているのは、途上国と比較して労働コストで負けているためである。特に二〇一二年までの日本は、円高のために大きな打撃をこうむった。
2、二〇一三年から始まったアベノミクスの超金融緩和によって、円為替が下落した。その結果日本企業の競争力が高まり、その波及効果もあって日本はデフレから脱却した。
3、デフレから脱却しインフレが進んだ結果、国債金利が上昇した。これは国債発行額がそれほど多くない場合には大きな負担にならないが、日本の場合には発行額が大きいため、政府の支払金利負担は巨大になり、財政が破たんし、ハイパーインフレになってしまった。
4、ハイパーインフレの結果、為替は大幅円安になった。日本再生プランによってハイパーインフレが収まり経済が正常化した時に、この円安は日本企業の競争力強化につながった。今後経済の正常化とともに貿易黒字の拡大から円高となり、このまま放置すると再び日本の雇用は途上国に移行することが予想される、
5、今後、日本経済発展の着眼点は下記の点にある。
 ①新たなマーケットは、環境汚染対策分野、食料・エネルギー分野、高齢化対策分野、新興発展国にある。世界市場においていち早くこれらの分野で優位に立った企業が、より多くのチャンスを得る。
 ②これらの新事業分野で優位に立つために、資本、技術、労働力などの生産要素をいち早く古い事業分野から新しい事業分野に移転することが必要である。莫大な貯蓄が新たな投資に結び付かないことは資本運用の問題を示す。また就職難と言われながら、一方では労働力不足に悩む産業分野が多いことは、労働政策、教育政策の課題を示す。
 ③日本には人材、資本を投入して新規事業を育成する総合商社という優れた機構があるが、大学の研究成果を事業化する仕組みが十分でない。また優れた人材を新事業よりも伝統的な事業に温存したいという保守志向がある。新規分野へのチャレンジを促す仕組みが必要である。

TPP(環太平洋自由貿易協定)によって日本と環太平洋諸国との関税はすでに低下していた。それに加えて東南アジア、EUとの自由貿易交渉を推進中であった。しかし最大の課題は、大市場中国との貿易拡大であった。いろいろのトラブルで日本企業が消極的でいる間に、EUや韓国の企業に後れを取ってしまった。中国との通商拡大には先の反日暴動で被害をこうむった企業が気乗り薄であった。しかし公害対策に悩む中国側から技術導入をもとめる声が増大し、これにいかに対応すべきかという議論が熱を帯びてきた。
ミャンマーやベトナムなどの低賃金国の出現で、製造拠点としての中国の魅力はすでに薄れていたが、国民の所得レベル向上のために市場としての魅力は増大していた。しかし基本的には、中国共産党は反日プロパガンダで国民の支持をつなぎとめる姿勢である。それを受けて貿易保険の保険料も高かった。対中貿易にどういう姿勢で臨むかは大きな課題であった。

二〇一九年七月、吉田が官邸に首相を訪問した時に、夏目首相は千や橘、清水らも招いて懇談した。首相は吉田に対し、若い者に時々話をしてやってほしいと依頼していたのだった。
ソファーに座って水割りのグラスを傾けながら夏目が話し出した。グラスを傾けるたびに氷がカランカランと音を立てた。
「スキャンダルで失脚した古い政治家を何であんなに大切にするんだという声があることは知っている。しかし吉田さんには戦略眼がある。千君がアベノミクスによるインフレを予想した時、吉田さんはローンによる不動産購入を提唱し、実行した。千君のやったのは単なる予想であったが、吉田さんのやったことは、その予想に基く戦略の立案と実行だったのだ。
吉田さんは、今や東京にマンションを何棟も持つ大資産家であって、政治家に未練はないように見受けられる。しかし若手は、吉田さんから学ぶべきことがいろいろあると思うんだ」
ビールのグラスを机において、橘が質問した。
「拝見すると、吉田さんは政治家というより実業家のほうが似合っているようです。貴方にとって青年党とは何だったんですか」
吉田は答えた。
「今、振り返ってみると、私は大きな流れをつかんでそれに乗ることに関心があったんだ。青年党もマンションもそういう意味で興味を持ったんだな」
「青年党がやらなければならないことは何だとお考えですか」
「青年党は、次世代に付けを残さない政治を心がけなければならない政党だ。国債は次世代への付けであった」
「何で国債が大量に発行されたんでしょう」
「ケインズ理論は、積極財政が成長を促すと主張しているので、財政ばらまきの口実に使われた。しかし誰が考えてもわかるように、赤字財政を永久に続ける事は出来ないので、長期政権なら財政規律の維持にも目が行く筈だった。しかし日本では短期政権が続いたので、その場限りの景気刺激にばかり目が行き、財政規律がおろそかにされたんだ」
「その結果があのインフレだったんですね」
「短期政権が当たり前になっている国では、ケインズ政策は効用より弊害の方が大きい。財政規律が必要なんだ。国債利子率の高騰によって国債の大量発行が難しくなったのは、よいことだと思う。政府は財政規律を重視せざるを得ないから」
「短期政権だと短期志向の無責任な政策を選びがちになるというのは、大切な点ですね。では、短期政権にならないようにするにはどうすればいいんでしょう」
「第二次大戦後の日本の首相の在任期間は、平均して二年にもならない。これだけ長期間にわたって短期政権が続いたのを見ると、その時々の首相の能力に問題があったというよりは、制度に問題があるのではないかと疑う必要があるだろう」
「今までそういうことは考えたことがありませんでした。制度のどこに問題があるのでしょう」
「それは君たち政治家自身が考えるべきことだろう」

第六章 外務委員会 

国会議事堂内の外務委員会々場である。青年党内閣の提唱した新形式の委員会の第一回会合が開かれようとしていた。他の委員会と違って傍聴者なしの秘密会で行われる。また少人数の会合であるため、自然に演説調ではなく対話形式で議論が進む。一同が着席した頃を見計らって、委員長が開会を宣言した。
「これが新メンバーによる第一回の外務委員会です。これまでと違って限定されたメンバーに最高レベルの情報を開示して、委員一人ひとりが外務大臣になった積りで日本の外交政策を議論し、決定してゆく場とする趣旨です。したがって委員の顔ぶれもなるべく長期間にわたって固定とし、今後政権交代があったとしても、次の外務大臣はこのメンバーの中から選出するように、与野党々首会談で了解いただいております。
 先ず、日本にとって最大の外交課題である対中国政策をテーマといたしたいと思います。議論のベースとして、外務省アジア大洋州局長から、対中関係の主要な事実および現在の対中政策の考え方についてご説明いたします」
 アジア大洋州局長の説明とそれに関連する質疑応答が終わって、委員会は休憩に入った。再開後の会合の冒頭で、外務大臣の橘が発言を求めた。
「外交は、まず相手の意図を探ることが大切です。それを知ることによって、こちらはどう主張すべきか、どの辺で妥協できそうかを考えることができます。
現在、日中間の最大の問題は尖閣列島の帰属であります。列島は日本固有の領土であり、また日本が長年実効支配しているにも関わらず、中国は侵略行為をやめようとしません。中国は一人っ子政策のために人口圧力は弱くなる筈です。それにもかかわらず強引な拡張政策をとり続けております。これはなぜなのかということを理解しなければなりません。それを理解することによって、今後中国がどう出てくるのかを予想することができるし、どこで妥協点を見つけるかを考えることもできると思うんです」
委員長がうなずいた。
「少人数の会合ですから、これから先はフリーディスカッションとします。他の委員会のように、委員長がいちいち発言者を指名することはいたしません。委員の方々、ご意見があれば自由にご発言ください」
ひとりの委員が手を挙げた。
「どんな国も、途上国から先進国に発展する時に原材料・燃料・食料等あらゆる物の消費量が急増します。中国は人口こそ増えていませんが、先進国化してそのような資源消費量が急増する段階に来たのでしょう。中国政府はそのようにして急速に必要量が増えた資源を確保するために、世界至る所で行動を起こしているんです。それが中国が生き延びるために必要な行為だと確信を持っているのですから、対外拡張は止めるわけがありません。
また国民にたいして、尖閣列島は中国固有の領土だと説明しているのですから、彼らは政治的にも引き下がる訳にはゆきません。もし引き下がったら、政府は弱腰だと国民から非難されるでしょう。
さらに、理財商品のデフォルトで国民の多くが損失を被り、それ以来続く経済不振で政府に対する不満が充満しております。こういう状況下で政府は対外強硬論で国民の不満を外にそらそうとしているのです。
日本は、できたら中国との軍事衝突は避けたいところです。しかし軍事紛争が怖いと言って簡単に譲ってしまったら、また次の侵略をしてくるでしょう。すでに中国国内では沖縄は中国領土だという主張も現れています」
委員長はうなずいた。
「その見方は納得できますね。外務省の分析も同じ結論です。そういう中国の事情を理解したうえで、どう対処したら対中関係を構築できるのかを考えなければならない。それが我々に課せられた任務なんです」
外務委員会は続いたが、結論は出なかった。

橘から誘いを受けた千は、赤坂の中華料理屋で夕食を共にした。清水とジェトロ調査員となった金香蘭も一緒だった。橘は先日の外務委員会の模様を話し、他の三人の意見を求めた。
「尖閣問題については、中国の主張は明らかに間違いだ。あそこには、戦前日本人が工場を作って住んでいたんだ。そのことを知っている中国が何であんなにこだわるんだろうと考えると、国際秩序を無視しても、これから大量に必要になる資源をしゃにむに取りに来る方針なんだと考えざるを得ない」
金香蘭が異議を唱えた。
「日本人の多くはそう言います。しかしそれは間違っています。あの島周辺は昔から台湾人漁師の漁場だったんです。日本人がそこに工場を建てるのに台湾人が異議を唱えなかったのは、台湾が日本領土だったからです。今は台湾は独立しました。独立した以上、尖閣列島は台湾領です」
橘はうなずいた。
「なるほど。そういう考えがあるか。気がつかなかった。しかし太平洋戦争後、尖閣諸島が沖縄に帰属すると決定した時に、台湾は異議を唱えなかったよ」
「その時、台湾は中国本土との対決に気を取られていて、そんなことを考える余裕がなかったんです」
「その時に異議を唱えなかったら、権利の放棄だよ」
「しかし、そこで漁をしていた台湾漁民は、それでは納得しません」
「それをなだめるために、尖閣海域で台湾漁民の漁を認めることにしたんだ。それで文句はないだろう」
「台湾人漁師は、それで一時はおとなしくなるかもしれません。しかし基本的な領土問題は残ったままです。いつまた領土要求を再開するかわかりません」
千が香蘭に尋ねた。
「中国や韓国のように、台湾でも対日感情が悪化する可能性があるというのかい」
「それはないと思います。日清戦争、日露戦争、満州事変、中日戦争と日本軍が大陸に進出した時、韓国はいつも軍隊の通り道でした。日中戦争のときには中国全土が戦場になって多数の中国人が殺されました。そのうえ太平洋戦争後、中国でも韓国でも反日教育が行われました。これが中韓両国の反日感情の原因です。
しかし台湾では、後藤新平以下の文官が開明的な統治をおこない、中国や韓国ほど地元民がひどい目にあいませんでした。しかも太平洋戦争が終わって日本軍が撤退した後、蒋介石の軍隊が圧政を敷き、一般の台湾人はむしろ日本の支配下の方がよかったと思うようになったのです」
「では、日本の統治を懐かしがっているのかい」
「いや、必ずしもそうではありません。台湾が日本に併合されてから、本土人と差別されて嫌な思いをした人もおります。しかし中国や韓国と比較すると、それほどつらい目にはあわなかったというだけです」
「中国人や韓国人は、日本につらい目にあわされたんだね。日本を恨んでも当然かもしれない。一方で日本の方でも、中国人や朝鮮人を馬鹿にしたり嫌う人が多いね」
 橘が相槌を打った。
「明治時代、西洋に支配されていた時の中国を見て、多くの日本人は、ああはなりたくないと思っていたんだ。また太平洋戦争後、日本国内で闇市やパチンコでえげつない商売をする朝鮮人を見てきた年配の日本人は、なかなか彼らを蔑視する偏見から抜けきれなかったんだ。その偏見がまた中国人や朝鮮人の反日感情を増幅させたんだ。
しかし最近、近代的なビジネスマンになった中国人や韓国人と接触している若い日本人は、彼らをまったく対等な人間として見るようになった。これからそういう人の比率が徐々に上がってゆけば、日本人と中国人や朝鮮人の間の相互の嫌悪感は小さくなってゆくんじゃないかな」
 香蘭が尋ねた。
「そういうことだけでは片付かない問題があります。朝鮮や中国では多くの日本の軍人が地元民に暴力をふるいました。それだけでなく日本の軍隊の中でも、上官が部下をなぐるのが当たり前だったと聞きました。それを見たら、中国人だって朝鮮人だって日本人が嫌いになりますよ。日本人はなぜあんなに暴力を振るうんでしょう」
 橘が痛い所を突かれたような顔をした。
「あれは戦前の軍隊という特殊社会だけの現象じゃないのかな。軍隊では上官の命令が行き届くかどうかが部隊全体の生死を左右する。上官の命令には絶対に従わなければならないという意識を持たせることが必要だったんだ」
「だからと言って、あんなにしょっちゅう殴らなくてもいいじゃないですか」
「兵士が危険な戦場に飛び込んで行く時に躊躇をしていたんでは、軍隊の行動に統制がとれずかえって危険が増えることがある。兵士は独自に判断することを許されず、機械的に命令に従う訓練を受けている。そういう点で、軍隊は異常な社会なのだ」
「そういう軍隊で訓練を受けた兵隊は、民間人特に占領地の民間人に対しても似たような態度であたっていたんでしょうね」
「そうだね。戦地の兵士は、闘牛場の牛と同じようなものだ。殺気立っているんだ」
「戦場にされた国の人々はたまりませんね」
「明治時代は、軍人であっても士官を教育する時には、上流階級でも通用する教養とマナーを身に着けさせようとした。ヨーロッパの軍隊士官は貴族が多いので、彼らと付き合う時にそれが必要だったからね。また日本では長年、武士が国を統治していたんだが、武士は剣道や弓道などの戦闘能力を鍛えるだけでなく、教養も身につけることが要求されていた。それが支配階級として必要な能力だったから。
しかし昭和になってからの軍隊では、無教養な庶民も軍人となり、戦闘能力だけを訓練されて戦場に出て行ったんだ。悪いことに昔の武士のような選民意識だけは引き継がれてきた。日清、日露戦争の勝利によって軍人が大きな顔をするようになって、首相にも軍人出身者が増え、学校にも軍人が配属され、軍事教練をやるようになった。軍事教練とは、上官の命令を無批判に機械的に受け入れる訓練だ。そうして、日本の社会全体が軍事社会になってしまったんだ」
「それだけでしょうか。戦後になっても大学の運動部では、上級生が下級生を殴るのが当たり前じゃないですか」
「それは下級生に困難に耐える根性を植え付けるためだ。そういう訓練を経てはじめて強い選手が生まれると考えるからだ」
「そういう目的なら、殴るんじゃなく、厳しい練習に耐える訓練をした方がいいんじゃありませんか」
「殴るのは、多くの場合、下級生が練習をさぼるとか指示に従わないとかの理由があるからだろうと思うよ」
「そういう場合だけでしょうか。相撲の社会では兄弟子という字は無理偏に拳骨と書くと言われています。訓練という合理性を超えた暴力が振るわれているからじゃありませんか」
「確かに、鍛えるために振るわれる筈の暴力が、本来の目的を逸脱し、不合理な程度まで振るわれていることはあるようだ。でもそういう訓練を経て育った若者はたくましく強くなるんだ」
「そういう厳しいしごきは、少数のプロスポーツ選手を育てるには正当化されるとしても、多くの学校でそういうことが行われているのは異常だと思いますよ。日本人は暴力好きな国民なんじゃありませんか」
橘は返事に窮した。しかし香蘭は自分で回答を見つけた。
「そうとばかりは言えませんね。一方で俳句やお茶のような優雅な趣味も普及しています。日本人とは一体どういう国民なのでしょう」
「体育会系の上下の意識がはっきりした単純人間と、文化部系のインテリ意識が勝って柔弱な人間の両方がいるのではないかな。若いうちに体育会的訓練と文化部的教養の両方を身につけることは難しいが、体育会系で厳しく訓練された人が年をとって多くの人々と接触して洗練されると、立派なリーダーになることが多い。若いうちから年をとるまで理屈先行で胆力のない人よりは、その方が人間的魅力でも決断力でも優れているかもしれないね」
 料理を締めくくるデザートを食べ終えて、ナプキンで口を拭いていた清水が一言つぶやいた。
「橘さん。それ、ご自分のことですか」
「いや。そう言うつもりじゃないけど・・・。遅くなったね。そろそろ終わりにするか」
橘は腕時計を見ながら勘定を頼んだ。
橘と清水はタクシーで帰宅した。千は香蘭に送ってゆこうと申し出た。
「週刊誌に書かれたら大変でしょ。先生ももっと気をつけなくっちゃ」
「いいや。かまやしない。その辺にカメラマンがいたら見せつけてやろう」
「あなた酔っぱらってる」
「いや。二人の親善を願っているんだ」
「本当? 今の言葉は、今度しらふの時に言ってちょうだい」
         
翌週の第二回外務委員会で、委員長が先週の議論を続けることを促した。
「中国との関係悪化を防ぎながら、侵略を予防する措置が必要です。ご意見があれば伺いましょう」
「隙を見せれば、中国は付け込んできます。自衛力をさらに強化して、中国が侵略しようとする気をおこさせないようにして、そのうえで親善外交を展開することが必要だと思います」
「中国はすごい勢いで軍事力を強化しております。日本単独で中国に対抗できる軍隊を保持するのは困難でしょう」
「だからアメリカとの同盟条約があるんです」
「アメリカだって、貿易や国債で中国に依存しています。日本と中国が対立した時、どちらにつくかわかりませんよ」
「どの国も、国益に沿っていると思うから条約を尊重するんですよ。そう思わなくなったら、条約なんていつ解消されるかわかりませんよ」
「だからこそ、日米安全保障条約も大切だが、それだけに頼らない重層的な安全保障体制を構築する必要があるんですよ」
「中国との領土問題を抱えているか、または将来抱える可能性のある周辺国との相互防衛条約を結ぶのが一番ですな。幸い、憲法九条が改正されて、集団的自衛権が認められるようになった」
「相互防衛条約というのは、お互いに守りあうということですよ。よそで紛争が起こった時、日本軍は駆けつけて中国軍に対峙する覚悟がありますか」
「その覚悟がなかったら、中国軍に各個撃破されてしまうでしょうね」
「覚悟を決める必要がありますな。相互防衛条約を結んだ国とは、海外派兵してでも相互に助け合うことが必要だ、その覚悟を決めなければ日本の安全は確保できない」
「いや、ちょっと待ってください。日本は長い間、外国に軍隊を送らないという方針を貫いてきたんです。長い間続けてきた方針には先人の知恵が詰まっています。それを変えるには慎重でなければなりません」
「そういう慎重さは必要でしょうね。だからと言って方針を変えるべき時に変えなければ、時代の変化について行けないということもあるでしょう。どちらが正しいかを考える必要があります」
「それは難しい選択ですね。どう考えますか」
「昔、海外派兵しないという方針を決めた時は、どういう情勢の下でそれを決めたのか。今の情勢の下でその方針は通用するのか。そういうチェックポイントでこれまでの方針を評価してみましょう。
昔、日本軍がアジア各国を侵略したので、それらの国は日本軍が海外に進出することを恐れていたんです。一方で日本は太平洋戦争終了後ずっとアメリカ軍に守ってもらったので、よその国と相互に守りあうことは必要なかったんです。そういう状況下で、日本は海外派兵はすべきでないという方針を貫いてきたんです。
翻って今の情勢はどうかを考えてみましょう。日本がアジア各国を侵略するなんて考えられません。多くのアジア諸国もそう思っているでしょう。一方で隣に強大な軍隊を抱えて拡張主義的な中国が出現しました。その周辺に、軍事力がそれほどでもない幾つかの中小国があります。周辺の中小国は互いに提携して中国に当たらなければ、侵略されるおそれがあります。だからそれらの国と相互防衛条約を結ぶ必要があるんです」
「なるほど、合理的な説明ですね。しかし大部分の国民はそういう解析をしないで、長年続けてきた海外派兵を避けるという方針そのものに縛られたような状態になっております。今、急にそれを変えることが必要だと言われても、抵抗感があるでしょう」
「それは事実でしょうね。しかしだからと言って、国民多数の現状維持的な考えに引きずられて必要な方針転換をしなかったら、国は滅亡するかも知れません。国の指導者たるべき者は、どういう方針をとることが日本のためになるかを自分の頭で考えて、方針を変えるべき時には、国民を説得して方針を変えなければなりません。それが国の指導者の責任でしょう」
「わかりました。今我々は、その方針を考えているんですな」
「そうです。では話を元に戻して、相互防衛条約を結ぶ相手をどこにするかの議論にはいりましょう。相手はどこが考えられるんです」
「ソ連、韓国、台湾、フィリピン、ベトナム、インドなどですな」
「ソ連なんかあちこちで紛争をおこしています。そんな国と相互防衛条約を結んだら、しょっちゅう軍隊を紛争地に派遣しなければならない。これはやめた方がよい」
「それもそうですね。やはり相手を見て、日本のためになるかならないかを考えなきゃなりませんね」
「台湾は対中包囲網に加わる可能性があるんですか」
橘が先日香蘭から聞いた話を紹介した。
「台湾は、歴史的には尖閣周辺の海域は台湾の漁場だと主張していたんですよ」
「その台湾の言い分を尊重して、あの海域での台湾船の漁獲を認めることにしたんでしょう」
「それで、台湾は領土紛争で日本側に立つと安心していていいんですか。台湾は自他共に中国の一部であると認めているんです。そうすると、台湾船に漁業権を認めて中国船に認めないという決定は矛盾でしょ。台湾船に漁業権を認めるという決定は、尖閣は中国領土だという中国の主張に根拠を与えることにもなりかねませんな」
「将来そういうことになる可能性がないことはありません。しかし今、台湾漁船が中国漁船と一緒になって、尖閣海域で領海権を主張することを防止するには、ああする他なかったんです。将来、台湾が中国と連携しないようにすることは、日本の重要な外交課題です」
「ある国は、その国の事情で単独で中国と妥協してしまうこともあるでしょう。重要なことは、そうなっても日本が孤立無援にならないように、なるべく多くの国と相互防衛条約を結び、日本の味方を数多く作ることですよ」
「そうです。そのためには、中国以外の国との領土問題は、なるべく早く交渉で解決すべきです」
「あまりあせって領土問題で妥協をすることは許されませんよ」
「国益のために妥協が必要な場合があるんです。現状のまま放置しておいても、紛争地の有効活用はできないでしょう。たとえ紛争地の一部を譲っても、その国との領土紛争に決着をつけて、中国に対して共同で当たることの方が大切です」
「問題は妥協点の見つけ方ですな」
「いろいろの方法があります。両国間の直接交渉で領土の分割をする。第三国の仲裁にたよる。国際司法裁判所の判断を仰ぐ。領土はどちらかの国の所有にして周辺海域の利用は自由にするなどなど。中国に脅威を感じている国なら、交渉に応ずる可能性があるでしょう」
「領土問題は国民の感情を刺激しやすい問題です。妥協するためには、相手国政府が国民を説得できるかがポイントです」
「ある程度、安定した基盤を持つ政府でなければ、国民を説得できませんよ。条件の整った国から交渉に入るんですな」
「相手国だけでなく、日本サイドでも同じことが言えます。一部の国民の反対を押してでも妥協を納得させるには、よほど与野党の協力がなければ無理でしょうな」
「外務委員会で与野党の意見が一致すれば、国民を説得できるでしょう」
「相手国の代表と信頼関係を構築するためには、外務大臣には少なくとも四年ぐらいは勤めてもらわなければなりませんな」
「政権が代わっても、外務大臣はこの委員会から出すことになっています。この委員会がそのつもりでいれば、外務大臣が長期にわたって一貫した姿勢を貫くことは可能でしょう」
「外国首脳との信頼関係が必要だという意味では、外相よりも首相の方が大切でしょう」
「そうです。首相の任期長期化が必要です。これまでのように、一年ごとに首相が交代するような状態では、そんなことは無理です」
「そのためには、大統領制や公選首相制のような、任期を保証する制度がなければねえ」
「しかし、それを実現するには、憲法改正が必要です」
「憲法九条は、尖閣問題で中国の脅威にさらされたから、短期間に改正できました。しかし首相選任方法の変更については、まだ国民の認識が十分じゃありません。国民の理解を得るには時間がかかります」
「時間がかかっても、動き出さなければ前に進みません」
「そうだ。それを各党に訴えましょう。憲法全面改正と大上段に振りかざすよりも、九条を変えて次は首相公選制の導入を図るというように、国民の理解を得ながら一条ずつ変えて行く方が、国民の意思を反映するという点で良いやり方ですな」
「それをするにしても時間がかかります。それを進める一方で、即効的な効果を得る方策が必要です。何かいい知恵がありませんか」
「各政党が党首任期を長期化すればいいでしょう。そうすれば党首の地位が安定し、首相の地位も安定します」
「そうだ。そうすべきだ。各党にそのように働きかけましょう」

二〇一九年七月、青年党議員総会において橘が党首任期の長期化を提案した。その内容は、
1、 衆院選挙後ただちに党首選を行う。
2、 任期は次の衆院選まで(つまり、衆院選に敗北したら、責任をとって党首交代の可能性が大きくなるが、勝利したら再任の道が開ける。任期途中の参院選の勝敗には左右されない)。
というもので、無理のない規定のように思えた。
しかし自民党から移籍してきたベテラン議員が反対意見をとなえた。
「橘外相の言われるように、外交問題では首相の任期長期化はいいことかもしれません。しかし、これは夏目総理のことを言っているわけではありませんが、もし首相の出来が悪かった場合にすぐ交代させることができるという点では、首相の任期は短いほうがよいということもあります。どちらがよいと簡単に割り切ることはできないんじゃありませんか」
この意見に触発されて様々な意見が出された。
「首相の出来が良いかどうかは、ある程度の期間やってみなければわからないでしょう。また首相になってはじめて学べることもあるのだから、ある程度の期間は保証したほうがいいんじゃありませんか。問題は、その〝ある程度の期間〟とはどのくらいかということですな」
「政府トップの任期はどのくらいがよいかということについては、各国が試行錯誤でいろいろやってみて、ある程度の幅に集約されてきております。任期をはっきり決めているのは大統領制の国ですが、多くの国では大統領の任期は四年から六年の幅に収まっています。実際には再選される大統領もいるのですから、八年ぐらい勤める例も珍しくありません。
これと比較して、太平洋戦争後の日本の首相の平均在任期間は二年未満にすぎません。これは世界各国と比較しても、飛びぬけて短い在任期間です。特に第一次安倍内閣から野田内閣までの六人の在任期間は平均一年でした。これは明らかに短かすぎます。
その結果、日本の対外的発言力は大幅に低下しました。こういう結果が再現しないようにするには、制度をかえることが必要だと思います」
「そもそも、何で今ごろこういう提案が出るのか納得できません。ことによると、これは党首の延命工作ではありませんか」
 この意見に憤然となった夏目党首が発言した。
「そのような発言は、提案者である橘外相の、国を思う純粋な気持ちを踏みにじるものであると言わざるを得ません。これは断じて私個人の延命工作ではありません。
党首の任期が長期化した暁には、新たに党首選を実施し、不肖私もただの一候補として立候補する所存です」
現党首がそれだけの覚悟をしているなら、その意向を尊重しなければならないという雰囲気が会場に広まり、橘の提案は青年党議員総会で承認されることになった。それにともなって必要な党規則が改正され、党首選実施要領も決められた。こうして次の衆議院選までの長期間を勤める党首を選ぶ大切な選挙がおこなわれることになった。

青年党プロパー派からは夏目が立候補した。旧自民党派からは多数の候補者が名乗りを上げたが、候補者間の談合取引が進むにつれて、外相の橘が有力候補として浮上してきた。
「橘は自民党派なのか」
「いや、青年党プロパー派と自民党からの転入派の中間的立場だろう」
「先見性と行動力で将来の首相候補という評判が高い。広い範囲から支持を集めるかもしれないな」
情報通の形勢判断によると、夏目、橘両候補の闘いは接戦の模様であった。多数派工作のために、橘派が大金をばらまいているという噂が広まった。
「どこから出た金だろう」
「ことによると自民党から出た金ではないか。自民党は青年党を外部からコントロールしようとしているんじゃないか」

突然のことであった。ある週刊誌に、橘の資金調達をめぐる疑惑が暴露された。橘の支援者の中に、東亜興業という得体の知れない企業がある。この企業が巨額の資金を橘に寄付している。ところが調査の結果、この金は東亜興業の口座を通過しているだけであって、真の金の出所はマカオのある口座だった。しかも調べたところ、その口座は中国人民解放軍が対外工作に使う口座であった。
この事実は、東亜興業による沖縄米軍基地周辺の土地買収に使われていた資金の供給ルートを引き続き公安がウォッチしていたためにわかったということであった。
自民党議員が衆議院予算委員会でこの件を追及した。
「このうわさが本当かどうか、橘外相ご自身の釈明をお聞きしたいと思います」
橘は困惑した様子で口ごもった。
「正直に言って、どの企業からいくら献金をもらったというような細かいことは承知しておりません。それにしても、その金の出所が人民解放軍だったというのですか。嘘でしょう。まさかそんな筈はないでしょう。僕は中国にとっては敵なんですよ」
自民党議員は、どこからか手に入れた調査結果を書いた紙を振りかざし、それを読み上げた。橘は自ら調査し、本当であったら外務大臣を辞任すると言明した。

橘は事務所に帰って会計担当秘書から献金者のリストを入手した。確かに東亜興業から巨額の寄付金を受け取っていた。橘は秘書を問い詰めた。
  「この資金の出所がどこかチェックしたのか」
「いや、東亜興業の資金の出所まではチェックしておりませんでした。しかし先日の予算委員会の質疑を受けて、公安調査庁に行って調べたところ、確かに人民解放軍のマカオの口座から東亜興業に金が振り込まれていることがわかりました」
「何で事前に気がつかなかったんだ。これは外務大臣にとっては致命的なスキャンダルだぞ」
「申し訳ありません。私の落ち度です。しかし、今の時点でこのことが表ざたになるということは腑に落ちませんね」
「どう腑に落ちないのだ」
「東亜興業が人民解放軍のマカオの口座から資金を受け取っていたことは、昨年の沖縄の土地買い占め事件で明らかになっていました。しかしその東亜興業が先生に寄付をしていることが、今、党首選挙の真っ最中に週刊誌に出て騒ぎになったというのは、タイミングが良すぎます」
「一体何が言いたいのだ」
「これは先生が党首になることを妨害するための謀略ではないかと考えざるを得ません」
「何を言うのだ。一体誰の謀略だと言うのだ」
「首相には公安担当の秘書官がついております。先生を党首選挙から引きずり下ろすには絶好のタイミングで、この献金問題が起こりました。これは偶然でしょうか」
「・・・・・・・・わかった。このことは誰にも言うな。私自身でよく考えてみたい」

翌日、橘は調査結果を夏目に報告した。
「噂は本当でした。面目ありません。責任をとって外相を辞任いたします。党首選立候補も取り下げます」
 夏目は辞表を受け取って慰めた。
「こうなったらやむを得ないだろう。残念だったな」
 橘は夏目の表情の中の何かを伺う様子だった。
「どうした。何か言いたそうな顔をしているが、他に何かあるのか」
「いや。特にありません。これで失礼します」
「この件の責任の取り方はこれで十分だと私は思う。しかしその最終的な結論は、党の規律委員会で出すことになっている。そういうことで承知してもらいたい」
「結構です」
 そう言って橘は首相官邸を辞した。

夏目は青年党規律委員会にそのことを報告した。
「私自身驚いているんだ。一体どういう狙いがあって、中国人民解放軍は橘君に献金したんだろう。橘君は尖閣問題で強硬論を主張し続けた人物だ。中国にとっては望ましくない政治家じゃなかったのか」
皆も同様だった。
「わからん。一体中国は何を考えているんだ」
 委員会全体が困惑に包まれて発言が途絶えた。
ややあって一人が静寂を破った。囲碁の達人として知られた老人だった。
「結果を見れば、中国の遠慮深謀がわかるんじゃないかな」
「それはどういうことですか」
「橘君の対中国強硬論のお陰で、中国の警備艇が出撃する口実ができたんだ。もし紛争がエスカレートすれば、人民解放軍が出撃するチャンスも生まれるかもしれない。こういう状況下で中国国民の人民解放軍への支持が高まり、軍事予算の増額が実現したんだ。また国民の政府批判が日本にそらされたんだ。橘君の対外強硬論は、中国政府や人民解放軍にとっては好都合な主張だったんだ。だから橘君に秘密の献金をしたんだ。どうだ。こう考えればすべて説明がつくだろう」
「では、今頃何でこの件が週刊誌で暴露されたんです」
「それは簡単だ。中国にとって、対外強硬派の橘君が首相にまでなるのは望ましくないことなんだ。そこで意図的に暴露して、橘君を失脚させようとしたんだ。つまり役目の終わった橘君はお払い箱になったんだ」
「中国はそこまでの策謀をめぐらすのですか」
「中国は孫子の兵法の国だ。今は囲碁でも日本は歯が立たない。日本の対外強硬論をあおったのは、攻めさせることによって自陣営を強化することをねらった作戦だったんだ」
夏目はうなずいた。
「まさかと言いたくなるような解釈だが、つじつまはあっている。つまり橘君はその愛国心を中国に利用されたんだな」
「そうでしょう。そうだとすると、橘君は迂闊ではあったかもしれませんが、売国的な行為をした訳ではありません」
「そうとなると、これ以上の責任を追及する必要はないということですな」

その日の夜、夏目は橘を官邸に呼んで、規律委員会の結論を伝えた。
「一時は私も、君が中国の影響を受けているのかと疑ってしまった。申し訳ない」
「いや。私の方こそ、総理が私を党首選から引きずり下ろすための謀略をめぐらせたのかと疑ってしまいました。これですっきりしました」
「こういう不幸な出来事で、君の将来が失われるということがあってはならない。今後も責任の重い役割を担ってもらうことになるだろう。その時に備えて、研鑽を怠らないようにしてもらいたい。そのためにも、外務委員会の仕事は引き続き勤めてもらいたい。これは前外務大臣として、外交政策の一貫性を保つためにも必要なことだから」
「あんな失敗を犯したのに、まだ将来の可能性があるんでしょうか」
「優秀な人間というのは経験に学んで能力を向上させてゆく人間なのだ。経験もせずに最初から間違いをしない人間なんていないよ」
「ケネディやオバマは若いうちから優秀だと見込まれて大統領になったじゃないですか」
「彼らは確かに若いうちから優秀だと評価されていた。しかし彼らがもっと年をとって成熟してから大統領になっていたら、もっと素晴らしい大統領になっていただろう。あまり早く大統領にしてしまったのは、国家にとって才能の無駄遣いだったんじゃないかな」
「では私にはまだ将来の可能性があると考えていただいているんですね」
「もちろんだ。どうだ。外務委員会の仕事を続けてくれるか」
「承知しました。ありがたくお受けします」
「わかってくれたら、これは仲直りの印だ。一杯やってくれ」
「いただきます。黒い霧が晴れて気持ち良く飲めそうです」
「千君じゃないが、

恩讐を超えて一杯飲む境地

と言ったところかな」
「総理もなかなかやりますね」

対抗馬なしの党首選挙で夏目は当選し、首相の地位も安泰となった。外相のポジションは、当面夏目首相が兼任することになった。

(影の声)
「橘を通じた対日工作はこれで終わりだ。次の戦略を練ることにしよう」

第七章 対中政策
れていた。
委員長が委員のメンバーに意見を求めていた。
「軍事大国中国は、自らの経済成長を支えるために必要な戦略であると確信して、勢力圏を拡大しようとしているんです。何年も前に、人民解放軍のトップが太平洋をアメリカと二分して支配しようと発言したのをみても、それは明らかです」
「それでは、我々が幾ら神経を使っても、中国との紛争は避けられないということですか」
「中国が太平洋の資源に目を付けたにしても、貿易とか他国との共同開発とか、国際秩序を乱さないような手段で資源を入手しようとするなら問題はありません。他国の領土を侵すとか国際秩序を乱すようなことをするから問題なんです」
「中国がもっと成熟すれば、他国から嫌われるようなことをしなくなる可能性はあるでしょう。アメリカの〝関与政策〟は、中国をそうなるように誘導してゆくことを目標にしています」
「〝もっと成熟すれば〟ですか。これは時間がかかりそうですな」
「これまでも中国は、為替相場への介入とか、レアアースの輸出制限とか、露骨な自国本位の政策をとってきました。また国民を排外的行動に導いて、他国に圧力をかけようとしました。普通の国なら、そういった行為は対外信用の低下を招き、結局は損になると気がつくんですが、そういう政策をとっても中国市場があまり大きくて魅力があるため、外国企業の投資意欲はおとろえず、中国が反省する機会がなかったんです。これが問題です」
「困ったもんですな」
「そうです。困ったもんです」

定刻になり委員会が始まった。冒頭に外務省アジア大洋州局長から緊急の報告があった。
「中国とASEANの会合が終わり、共同声明が発表されました。その内容は、かいつまんで言うと次の通りです。
1、 南シナ海の領土問題凍結
2、 軍事行動自粛
3、 海洋資源の共同活用
お手元に共同声明を要約したペーパーをお配りします。以上報告を終わります」
委員長が意見を述べた。
「従来、中国は領土紛争を抱えるフィリピンとベトナムを孤立させ、その他の 諸国との関係を改善するという方針でした。しかし今度は、フィリピン、ベトナムをも含めた全ASEANアセアン諸国との融和策を打ち出しました。中国は周辺国との軋轢をへらして共存しようという方針に変えたんでしょうか。そうだとすると、中国はアメリカの関与政策が望む方向にうまく誘導されたことになります」
「そうだとすると結構なことですね」
 しかし橘が疑問を投げかけた。
「そう受け止めていていいんでしょうか。我々は以前、中国との対決に備えて周辺国との関係を強化すべきだという議論をしました。中国も日本包囲網を作ろうとしていると考えられませんか。つまり中国の方が行動が早かっただけだと考えられませんか」
さらに橘は続けた。
「その証拠に、このペーパーによると、協定参加諸国をターゲットとする域外国との軍事同盟の禁止がうたわれています。これは対日、対米対決の準備として、ASEAN各国を味方につけようとしているんじゃないでしょうか」
「その動機がなんであれ、対外的に融和策に転じたのは結構なことではありませんか」
「いやそう単純に信じるとだまされますよ。一時的にソフトな姿勢をとっても、各国を中国圏に取り込んでしまえば、それからは何とでも言うことを聞かせられると踏んでいるのではありませんか。中小国の対中国貿易依存度が高まると、中国の支配から抜け出ることが難しくなります。これは、中国を盟主とする東アジア新秩序の形成じゃないでしょうか。つまり、ASEANがアメリカ支配圏から脱し、中国の支配を受け入れた事を意味します」
 夏目がうなずいた。
「そうだとすると、ASEANはなぜアメリカから中国に乗り換えたんだろう」
「アメリカの対外関与の限界が見えたことと、強大化する中国の圧力に抗し切れなかったことです。国内の華僑の影響や、中国との交易の拡大が物を言ったのかもしれませんね」
「では、これからの日本にとって大切な外交戦略は何だろう」
「いつの時代でも大切なのは、時のスーパーパワーとの関係です。日本が生き残るためには、その時のスーパーパワーとうまくやってゆく戦略を構築する必要があります。支配されないように。攻撃目標とならないように」
橘は続けた。
「今まで世界標準を作ったスーパーパワーはアメリカでした。しかし今後中国が世界あるいはアジアのスーパーパワーとして支配的な力を握ると、様子は違ってきます。中国は軍事的、経済的に強力になっても、アメリカのような普遍的な政治理念を持っている訳ではありません。覇権国家として他国を軍事的、経済的に支配するだけの国になる可能性が強いでしょう。専制国家だから無法な要求もしてくるでしょう。周辺国は、チベットや蒙古のように併合されるかもしれないという警戒心をもたざるをえません。中国を怒らせないように、狙われないように、細心の注意を払って自国の生き残りを図らなければなりません。ガキ大将が支配するクラスで、いじめられないように気を使う生徒のように」
 夏目がうなずいた。
「無責任な政治家やジャーナリストが、結果も考えず、反中感情をあおるようなことを言うのは問題だと思う。国民の反中感情が高まると、政治家も人気取りのために対中強硬論を唱えるようになる。そうすると国民はますます反中感情を高めるようになる。中国側の反日感情と反日政策もそのような悪循環で増幅されてきたのだろう。両国がそのようにして反感を高めあっていったら、その先はどうなるのか。そら恐ろしいことだ。真の国益を考えれば、ああいう発言はできない筈だ。
日本の外交に関する世論は、極端に二分化しているのが現状だ。対外強硬論と絶対平和主義と。大衆受けするのは対外強硬論だ。しかし太平洋戦争の苦い経験が忘れられない絶対平和主義者もいる。
どういう危険があるか現実を直視し、どう対処するかを冷静に判断しなければならない。現実を直視するのは怖い。だから直視せずどちらかの極論に走る。対外強硬論も絶対平和主義もどちらも現実逃避だ」
 皆がうなずいた。
 その一同の顔を見渡しながら夏目はまた別の可能性を示唆した。
「ところで皆は、こういうことを考えたことがあるかな。中国は対米戦略として、ASEANだけでなく日本も取り込もうとする方針を選ぶ可能性はないだろうか。その時は、日本も中国陣営に入ってしまうことが考えられないだろうか」
 思い切った発想の転換に、一同は唖然とした。
橘がそれを否定した。
「中国政府は、これまで反日をスローガンにしてきました。そんな可能性はないんじゃないでしょうか」
「いや。中国の立場に立って考えてほしい。中国対米日と、日中対米国と、どちらが中国にとって望ましいか。日本との和解を国民に説明する方法はいくらでもある。日本が中国に屈服したと言えばいいんだ」
「日本の脅威がなくなったというと、共産党専制支配の正当性が失われるんじゃありませんか」
「いや。日本を屈服させたことが共産党の実績として喧伝されるだろう」
ふたりのやり取りを聞きながら考えごとをしていた委員長が発言した。
「アメリカ陣営と中国陣営のどちらを選ぶかは、どちらの理念を選ぶかという問題に帰します。国内では専制主義、国際関係では中華帝国秩序を信奉する中国よりも、国内では民主主義、国際関係では各国の主権尊重を唱えるアメリカを選ぶのが、日本の生き方だと私は思いますよ」
 夏目が疑問をはさんだ。
「アメリカがよその国の主権を尊重しているかな」
 委員長は続けた。
「強国であればあるほど、世界の多くの国に影響力を行使しようとすることは当然でしょう。問題はどういう方向に向けて世界を動かそうとしているかということと、どれだけ強引に自分の主張を通そうとしているかです。
中国はロシアとともに北朝鮮、イラン、シリアのような無法者国家を支援してきました。またチベット、蒙古のような周辺国を併合してしまいました。世界秩序の撹乱者です。本来なら、中国自体が無法者国家として制裁を受けて当然の国だと思います。しかし中国の軍事力は強大です。また世界の多くの国が中国を貿易相手として必要としています。軍事的に、また経済的に強大になったために、制裁を加えることができなくなってしまっただけです」
「強大であれば制裁を加えられないという現実を見れば、すべての専制国家は軍事力を強化しようとするだろう。中国はその見本を示したのだ」
「北朝鮮はそういう国になろうとして核武装を志したのでしょう。そうだとすると、世界は強大な軍事力を持った専制国家グループにかく乱されるようになります。恐ろしいことです」
 夏目が皆の顔を見渡した。
「そうならないように、アメリカは専制国家を倒そうとしてきた。しかし中国は、専制であっても国家の独立は尊重すべきであると言っている。どちらが正しいんだろう」
「うーん。厳しい質問ですね。江戸時代、日本が徳川幕府に支配される専制国家であった時でさえ、外国からの侵略を防ぐために幕府に協力すべきだと多くの国民は思っていました。専制であってもなくても、国家の独立ということは、その国の国民にとって一番大切なことなんでしょうね」
「世界で本当に民主主義体制が出来上がっている国なんてそう多くないだろう。民主主義でないからといって侵略の口実にされたんじゃたまらない。国家の独立はすべての国にとって正当な権利だ。一方で民主主義体制をとるかどうかはその国の問題だ。民度、宗教などによって、それが実現できるかどうかきまる。民主主義が理想であったとしても、それを採用するかどうかを決めるのは国民の選択だ」
「それはまた割り切り過ぎじゃないですか。北朝鮮のような専制政府の圧政に苦しんでいる国民に対して冷たいですね」
「専制であっても、国民のためになる善政を施している政府だってある。国民のレベルが低い時は、その方がよい場合だってあるんだ。他の国が干渉してもよいかどうかを決める基準は、民主主義であるかどうかということではなく、現実に国民を苦しめているかどうかじゃないかな。いや、待てよ。政府が国民を苦しめているとしても、その政府を外国が倒してよいとは言い切れない。政府を倒してしまったら、その国は無秩序になって、かえって国民が苦しむ結果になる場合だってある」
「それはつまり、よその国は、民主主義を採用した方がよいというアドバイスはしても、それを強要すべきでないということですね」
「そうだ。また、アメリカが専制国家を倒すために強引な介入をしようとすると、専制国家は団結してアメリカに敵対するようになることは自然の成り行きだ。そうだとすると、専制国家である中国がそういう国を支援するのは当然だ」
「ところがアメリカは、マニフェスト・デスティニーという考え方で、世界に民主主義を広めることがアメリカの使命だと信じています。だからよその国に介入して民主主義を押し付けようとするんです」
「しかしこれまでそういうやり方でやってきて、うまくゆかないこともあるということを学んだのではないかな。アメリカが他国に過ぎた干渉をしなければ、あれほど憎まれなくても済んだだろう。そうすれば過激派のテロの対象になることもなかったろう。アメリカがそういう国々を敵に回さないようにするためには、体制いかんにかかわらずすべての国の独立を尊重することだ」
「国連の安全保障理事会常任理事国にロシア、中国のような専制国家がなっています。彼らは民主主義の方が専制主義よりも優れているとは思っていないようです。そうだとすると、国連が各国の民主化を推進することすら困難です」
「中国が豊かになれば、国民のレベルも上がるでしょう。そうなれば民主主義を要求したり、国際間のルールを尊重するようになるんじゃないでしょうか」
「そうなるように、国際社会が導いてゆく必要があります」
「うーん、それは何時になったらできるでしょうね。少なくとも現在の中国は、周りの国の独立を脅かし、領土を拡大しようとしています。国民に対して専制であると同時に、周辺国の脅威になっています。だからアメリカに問題があるとしても中国よりはましなのです」
「しかしアメリカがあまりだらしなければ、中国側につかざるを得ないかもしれない。日本だけでなく、アジア各国もそのように考えている可能性がある。そうならないためにも、アメリカにはぜひ頑張ってもらわなければ困る」
「はっきり中国陣営に入るというんじゃなくても、中国と良好な関係を結ぶことは、我が国の生き残りのために必要なことです」
 夏目がうなずいた。
「中国も国際貿易の重要性を理解するようになって、以前ほど露骨な反日政策をとりにくくなっているようだ。有力なジャーナリストの中にも、日本との関係改善が必要だと発言する人があらわれている。反日を唱えれば人民の支持が得られるというような状況を変えるチャンスはあるかもしれない。可能性は乏しくてもやってみることだ。今のところ、やれることはそれぐらいだな」

二〇一九年八月、東京都知事の要請でIOCから派遣された調査員が日本の準備状況を調査した。経済の混乱はおさまっていた。新聞等の記事もドルベースが中心で調査員にはわかりやすくなっていた。調査員が持ち込んだドルで買い物ができ、何の不便もなかった。国民もオリンピック賛成派が多数を占めた。
IOC評価委員会が、カンヌのリゾートホテルで開催された。多くのIOC委員は昼間は浜辺やプールで時間を過ごし、夕方から会議室に集まった。早く会議から解放されて一杯飲もうという魂胆が見え見えの委員もいた。
東京に派遣された調査員が調査結果を報告した。それに基づきIOC評価委員会は東京でのオリンピック開催に障害はなくなったという結論を出そうとした。   
しかし中国のIOC委員が異を唱えた。
「北京でオリンピック会場の建設工事は既に始まっています。会場を東京に戻したら中国は大損害をこうむります。この損害の責任は日本にあることは明らかです。もしオリンピック開催地を東京に戻すなら、日本は中国に対して損害賠償をすべきです」                      
その主張にも一理あるように思えた。しかしIOC会長が過去の経緯を思い出させた。
「最初から、結論は八月に出すと決めていたではありませんか。それより早く工事にかかったのは中国の勝手です。日本はもちろんIOCにも責任はありません」
中国のIOC委員は抵抗した。
「我々は、オリンピックが無事に開けるよう、犠牲的精神をはらって準備をしてきたのです。その中国に莫大な損害をかけて、そのままとはおかしいと思います。開催地を北京にするか東京にするか、あらためて多数決で決めたらどうですか」
アフリカと東南アジアの中国影響下にある国々が中国に同調した。しかしIOC委員長は筋を通した。
「これは多数決で決めるべき問題ではありません。経済の混乱が収まった以上、予定通り日本にするのが筋です」
と言って、一同の顔つきを伺った。納得した者、しない者、顔つきはまちまちだった。彼は続けた。
「と言いましても、中国の事情にも同情できるところがあります。東京の次に北京で開催させることができればいいんですが、次の開催地は既に決まっています。何か良い知恵はありませんか」
会場から意見が出た。
「東京と北京の共同開催にしてはどうでしょうか」
この案をめぐって議論が始まった。
「開催権をもっているのは東京だ。東京が了承しなければ共催案は成立しないでしょう」
「共催案を受け入れるかどうか、日本が検討するということでどうでしょう」
日本の武田IOC委員は、思いがけない成り行きにとまどった。やむなく休憩を提案して、その間に日本としての意見をまとめることにした。

日本チームの打ち合わせは、武田委員のスイートルームで行われた。冒頭で外務省出身の随員が共催に反対を唱えた。
「日本は単独開催の権利を持っているのです。それを選りによって、何の代償もなしに中国に半分権利を譲るなんて、交渉術としては下の下です。自分の権利はあくまでも貫くのが外交というものです」
 共催のメリット、デメリットを考え、どちらをとるかで迷っていた武田委員は、単純な反対論には同意できなかった。
「これはゼロサムゲームではないんだよ。共催によって双方に良い結果が期待できるなら、譲ってやってもいいじゃないか」
文科省出身の随員も反対論だった。
「中国は何かというと、国民を扇動して横車を押す国です。共同開催でうまくゆく自信はありません」
二人の反対論に直面して、武田委員は共催のメリットを理解させたいという気持ちが高まってきた。
「スムースな運営をするためには、日本単独開催が一番安心だろう。しかし中国だってオリンピックはスムースに進めたい筈だ。スムースに進めるためには、日本と協力しなければならない。そういうことを通じて日中関係が良くなるなら、それは大きな派生効果だと思うよ」
「しかし日本単独開催と比較すると、共催は公共投資規模が縮小し、景気刺激効果を犠牲にすることになります」
「それは短期的効果だけの評価だよ。日中関係が改善されれば、投資や貿易で長期的な効果が期待できるだろう」
「関係が改善されればとおっしゃいますが、中国が期待するような反応をするかどうか疑問です。それを間違いなく担保する方策があればいいのですが」
その方策について様々な意見が出されたが結論は出なかった。
   武田委員が皆の顔を見まわしながら言った。
  「細かい交渉は専門の外交官にまかせて、ここでは両国が関係改善に努めることを条件にして共催に同意するということでどうだろうか。首相からは、対中関係改善につながる可能性のあることなら、チャンスを逃がすなと言われているんだ。我々はチャンスをまず捕まえて、その後それをどう生かすかは政府にゆだねようではないか」
 文科省出身の随員も、こうまで言われると引き下がらざるを得なかった。
「首相からそのようなご指示があったのなら、しかたがありません。しかしそのような経緯で結論を出したということは、議事録に残しておいてください」
武田委員は書記担当の随員にそのように指示した。
「気になる人は、のちほど議事録を見てもらおう。ここでは、われわれが日本のために最善と思う案でまとめて、それでよかったかどうかは、帰国後、政府と日本のオリンピック招致委員会に判断してもらうことにしよう」
外務省出身の随員がつぶやいた。
「しかし思い切った結論ですね。いったん決まった開催地を二国に分けるなんて、聞いたことがありません」
「そうだろうね。しかし私はこの結論に自信を持っているよ。これは議事録からはずしてほしいんだが、実は陛下からも、対中関係改善を意識してほしいと言われているんだよ」
天皇陛下の〝またいとこ〟にあたる武田委員の言葉には特別の重みがあった。外務省、文科省から派遣されている随員も、反対するわけにはゆかなかった。
武田委員のスイートルームからIOC評価委員会の会場に戻るエレベーターの中で、随員達は本音を漏らした。
  「いやあ。今の会議には驚いたなあ。随分思い切った結論を出したもんだ」
  「さすが、天皇陛下の〝またいとこ〟だ。天皇の意向だと言われると何も言えなくなるね」
 広報担当の随員が首をかしげた。
「天皇陛下が国際親善に努めてほしいと言われるのはいつものことです。武田さんはそのお言葉をうまく使っただけかもしれませんよ」

再開後のIOC評価委員会で、武田委員がこの案を提案した。IOC委員長は大いに乗り気になった。日中両国は、関係改善の具体策を打ち合わせるために、委員会を翌々日まで延期することを求めた。
電話で呼び出された外務省アジア大洋州局長が北極回りの直行便で到着し、あわただしく交渉会場に入った。中国からも北京で待機していた特命全権大使がやってきた。両代表がただちに直接交渉に入った。

アジア大洋州局長が切り出した。
「関係改善の具体策について話し合いましょう。まず懸案の尖閣問題をどう解決しましょうか」
中国大使が主張した。
「釣魚島は中国領土です。日本は海上保安庁の船舶をこの領域から撤退させる必要があります」
アジア大洋州局長が反論した。
「尖閣列島は日本領土であり、現に日本が実効支配しております。中国がこの支配を脅かさないことが関係改善の第一歩です」
「両国の主張が食い違っているということは、この地域に領土紛争があることを意味します。関係改善の第一歩は、両国がこの地域に領土紛争があることを認め、一方的な主張を自粛することです」
双方が従来からの主張を繰り返したが、両者の主張には接点がなく、関係改善の第一歩についての合意は得られそうもなかった。不毛のやり取りを繰り返した末に、アジア大洋州局長が提案した。
「尖閣紛争そのものについて合意できないなら、それは現状のまま凍結し、その紛争が日中関係の他の分野に悪い影響を及ぼさないようにするということで、合意できないでしょうか」
中国大使が尋ねた。
「他の分野とは何ですか」
「中国に進出した日本企業に損害を及ぼす様なデモや騒動を起こさないということです」
「デモや騒動は民衆の自主的な行為です。政府はコントロールできません」
「政府はいろいろの手段でデモが騒乱に発展しないよう押さえることが出来るはずです。あのような争乱がおこると、日本企業の対中投資意欲が阻害されます。これは日本企業だけでなく、中国にとっても損失であるはずです」
中国大使はうなずいた。両国代表はこの案を評価して、各々本国に持ち帰って検討することで合意した。彼らは、そろってこのことをIOC会長に報告した。会長は、オリンピック開催までの時間が切迫しているので、両国政府が大至急結論を出すよう要望した。

アジア大洋州局長は帰国して夏目首相と協議し、この案を受け入れることを決定して、中国側の決定を待った。
ところが中国側からの返事はすぐには届かなかった。アジア大洋州局長は在日中国大使に電話をして返事を急ぐように催促した。中国大使の回答は予想外のものであった。
「在中日本企業に脅威を与えるような大衆行動を起こさせないと約束することは、数年前だったら容易なことでした。しかし今は違います。インターネットの普及で、国民が互いに連絡を取り合ってデモをすることを政府がコントロールするのは難しい状況になっております。デモが起こってしまったら、公安がそれを拡大しないように取り締まることはできます。しかし、デモが発生してから公安がそれを取り締まる前に、日本企業に危害を加える可能性を否定することは困難です」
「それではオリンピックの日中共催は無理ですよ。何とかなりませんか」
「中国政府も、この件の重要性は認識しております。そこでこの事態を打開するために、外交問題担当の政治局常務委員を派遣してくることを決めました。常務委員と日本政府の最高責任者の直接交渉で、事態打開策を話し合うことを希望します。受け入れてもらえますか」
局長は事態の重要性を認識した。政治局常務委員は外交面の最高責任者である。日本側の交渉相手としては外務大臣がふさわしい。首相が外相兼任となっている以上、外務副大臣で応対するのが外交儀礼上妥当である。しかしこの案件は緊急を要する交渉である。できたらその交渉の場で決着したいという趣旨であろう。それでよいかどうかを首相に確かめなければならない。
首相に相談するためには、中国側の提案内容をなるべく詳しく知る必要がある。アジア大洋州局長は中国大使に電話をしてそのことを伝えた。中国大使は答えた。
「わかりました。私たちは国民が反日デモを起こさないような環境整備をしたいと思っています」
アジア大洋州局長はさえぎった。
「どの国でもデモは起こり得ます。そんなに神経質にならなくてもいいんじゃありませんか」
「いや。私たちが心配しているのは、デモが暴徒化して外国人に危害を及ぼす心配があるということです」
「では必要なのは、環境整備ではなくて国民の教育ではありませんか」
「これは聞き逃せない発言です。普通の場合なら、中国の国民を侮辱するものとして、それ自体反日デモの理由になりかねません。しかし今は事態を複雑にしたくないので、聞かなかったことにしましょう。そのように日本人は無意識に中国人を刺激するようなことをやってしまう。それをやめると約束しなければ、我々がデモをしないと約束することは難しいですね」
「具体的に言うとどのようなことですか」
「前から何回も言っているので、わかっているでしょう。首相の靖国参拝と日本人の魚釣島上陸です」
「ちょっと待ってください。首相の靖国参拝を問題にすることは内政干渉です。また日本人の尖閣上陸は日本領土である以上当然のことです。それをやめてほしいという提案は受け入れられません」
「貴方が立場上そう言うであろうことは予想しておりました。しかし、それでは問題は解決しません。もっと高い次元で両国の妥協点を見つけるような話し合いをする必要があります。それが常務委員派遣の理由です」
「ということは、中国側でもそれ相応の見返りを用意しておられるんでしょうな」
「中日対立の根本的原因を取り除くことができればいいと考えております」
アジア大洋州局長は考えた。これは外務副大臣では済まず、首相自身の判断を仰がざるを得ない案件である。
「わかりました。このことは首相に報告し、指示を仰ぐことにします」
局長は外務事務次官にこのことを伝えた。次官は首相に緊急の電話を申し込んだ。首相は料亭で政治評論家と食事中であった。秘書官から緊急と聞いて、廊下に出て外務事務次官からの電話を受けた。中国が日本との関係を悪化させている根本的な障害を除こうとしている可能性があるという次官からの報告を聞いて、首相自身が交渉に出ようと回答した。次官はあわててさえぎった。
「それでは日中間のバランスが保てません。ここは外務副大臣で応対するのが妥当と存じます」
「副大臣では即決できない事態になったらどうする。待ってくれという時間はないぞ」
「わかりました。交渉は常務委員と外務副大臣という形をとりましょう。しかし、そこに首相が偶然立ち寄られたという形にして交渉に参加していただき、その場で判断して、決着をつけるようにしましょう」
「それならいい。それで常務委員はいつ来る」
「あさってです」
「わかった。秘書官と相談して時間を決めてくれ」
こうして首相と中国政治局常務委員の面会が実現することになった。アジア大洋州局長は首相秘書官とスケジュール調整を行った。
「困りましたね。この辺の予定は全部詰まっています」
「これは最優先の面会予定です。何かキャンセルできる会合がありませんか」
「そうですね。国民栄誉賞を受賞した野球選手の挨拶を早く切り上げ、武道館での遺族会総会にすこし遅刻することにしましょう」

こうして中国常務委員のために三〇分が捻出された。したがって外務副大臣と常務委員の交渉は、初めから首相官邸でおこなうことになった。
首相は翌々日、中国との交渉についての外務省の事前説明を聞いた上で、常務委員との交渉に臨んだ。副大臣と常務委員の会談の途中にお膳立て通り首相が立ち寄り、外務副大臣から中国側の提案を聞いた。首相の靖国参拝中止、日本人の尖閣上陸阻止について、どちらも日本の国内問題で中国から制約を受ける筋合いはないが、その姿勢を続けていたのでは日中関係の改善は見込めない事情を理解し、要求は呑んだ。交換に中国側に要求することとして、尖閣海域空域への中国船舶航空機の進入禁止をあげた。常務委員は了解したうえで一つの提案を行った。
「中日の友好関係を長く保つために、この取り決めをオリンピックまでに限るのではなく、もっと長期間にわたって効力をもつようにしたいと思うのですが、いかがでしょうか」
 夏目首相はうなった。
「それはつまり、将来の政権にも引き継がれるようにしたいと言われるのですね」
「その通りです。これは日本にとっても良い話ではないかと思います」
「うーん。確かにこれは良い話だと思います。しかし私の後の首相が誰になるかわかりませんので、靖国参拝の自粛を約束することは難しいでしょう。靖国参拝をするかどうかは個人の信念の問題ですからね」
「それでは中国で反日デモはやらないと約束することは難しいですね」
日本側は中国側の立場を理解できたが、受け入れられる要求ではなかった。しばしおいて夏目が提案した。
「こういうことで折り合えませんか。靖国と尖閣の問題については、私の内閣ではお約束します。しかしそれ以降の内閣には、そういう条件で貴国が尖閣海域空域への進入を自粛していることを伝える。これでどうですか」
常務委員はしばらく考えた末に答えた。
「結構です。これで手を打ちましょう」
こうして、オリンピックを共同開催することに両国は合意することになった。

夏目首相はこのことを閣議で報告した。
「中国民衆の反日暴動を防止するために、中国政府は反日宣伝を自粛せざるを得ない筈です。それが続けば、中国人の反日感情はかなり抑制できると思います」
「これまで中国政府は、国民の反日感情を共産党政権維持のために利用してきたはずです。何でこんな提案をしてきたのでしょう」
「反日デモが政府批判に飛び火する危険を感じているんではありませんか。また反日暴動が日本企業の対中投資に悪影響を及ぼしたことを、彼らは学んだんでしょう」
「では尖閣列島を奪取するという願望を放棄したわけではないんですね」
「そうでしょうね。ただ領土紛争で多くの周辺国を敵に回すのはまずいと判断しただけでしょうね」
「これで将来も日中間の紛争の芽は摘まれたのではないんですね」
「そうですね。中国政府がその気になれば、日中紛争を再燃させる手段はいくらでもあります」
「それではまだ不安の種はなくならないということですか」
「そう考えておいた方がいいでしょうね。しかし事態が少しでも良くなる可能性があるなら、肯定的に評価しましょう」
「もしこれが日本を中国陣営に取り込むための術策だとしたらどうしますか」
「日本にその気があるにしてもないにしても、外交の手持ちカードが増えることは悪くないね」
こうして、二〇二〇年のオリンピックを日中の共同開催とすることが決まった。両国は協議して、どの種目をどちらでやるかを決定した。開会式は東京で、閉会式は北京で行うことも決まった。日本国内の競技施設建設計画は縮小されたが、インフレ期間中の工事の遅れがあったため、救われたという面もあった。

日本政府は、円安のために外国人観光客の負担が軽減したことを宣伝した。中国との共催のために来日客数が減るのではないかという懸念もあったが、旅行代理店へのアンケートの結果、日本の物価安のための観光客の増加がそれを補い、観光客の減少は懸念されたほどではないだろうと見込まれた。
東京周辺の主要なホテルは予約で一杯になった。これを機会に地方観光に訪れる観光客の増加が見込まれ、地方のホテルばかりでなく旅館、温泉宿も繁盛するはずであった。獲得した外貨に裏付けされた日本ドルの発行額が増加することも確実で、誰もが景気回復を期待するようになった。

夏目を囲んで例のメンバーが談笑していた。今回は執務室の首相官邸ではなく、首相の住居の公邸の一室である。夏目の話し方は、心なしか今までよりリラックスしているように思われた。
「中国との関係改善のきっかけがつかめたようだな。しかしこれはあくまでもきっかけにすぎない。この機会を生かして、対中国関係を長期的に安定させる対策を考えなければならない。この件は外務委員会で検討したいと思っているが、皆の意見も聞いておきたい。思いつくことがあったら言ってほしい。橘君は中国に対しては厳しい見方をしていたね」
「そうですね。今回の合意で一時的に反日政策が中断されるとしても、共産党独裁を正当化しているのは、共産党が侵略した日本軍を破り、独立を主導したという主張です。共産党政権が続く限り、基本的に反日政策は続くだろうと思います。千君はどう思う」
「そうですね。しかしソ連や東欧では共産党政権が倒されました。中国でも共産党政権はいつか倒されるんじゃないでしょうか」
 吉田が基本的な問題を投げかけた。
「その疑問に答えるには、共産主義とは何かということを考えなければならないな。その体制の中に、崩壊を必然的なものにするような矛盾を抱えているのだろうか」
清水が答えた。
「彼らは共産主義という言葉を使っておりますが、その実態が何かということは、共産圏の国々がやっていることを見れば明らかです。経済運営では計画経済、政治体制では共産党の一党独裁、これが共産主義の実体です。ソ連、東欧諸国崩壊の原因になったのは計画経済の行き詰まりでしょう」
 吉田が尋ねた。
「では、計画経済は何で行き詰まるのだろうか。行き詰まりを必然的にするような根本的な欠陥があるのだろうか。ばらばらの企業が利益を得るために好きなように行動する市場経済よりも、政府が国のために一番良い方策を決める計画経済の方が無駄がないと考えられないか。それに民間企業の判断が常に正しいなんてことはとても言えない。ひどいことをして世の中に迷惑を及ぼす企業もたくさんあるじゃないか」
 千が答えた。
「個々に言えば、効率の悪い企業も反社会的な企業もあります。しかしそういう企業は市場競争に敗れて破たんします。市場で高く評価されるようなサービスを提供した企業だけが生き残るのです。だから市場経済は強いんです」
 清水が首をかしげた。
「市場の評価が絶対に正しいとは言えませんよ。恐慌とかハイパーインフレとか、市場の失敗といわれる現象があって、社会が大混乱に陥ることがあるじゃないですか」  
千が答えた。
「確かに市場はいつも平穏だとは限りません。時には荒っぽいフィードバックがあって人々が痛い目にあうこともあります。しかし短期間で見れば効率の悪いことをやっているようですが、長い目で見ればちゃんと誤りを正す手段になっているのです。それに引き換え、計画経済では政府の決定が絶対とされて、誤りを正す仕組みがビルトインされていません。だから長期間で見ると、計画経済よりも市場経済の方が誤りが少ないのです。それと、共産圏の国のように政府が経済の実権を握ると、一部の有力者が民衆よりもみずからの利益を優先しがちです。その結果、有力者が権力と富を独占することになって、社会は不安定になるのです」
「市場経済だって、大金持ちの資本家や経営者が富を独占し、政治家を操って自分が有利になるようにしているじゃないですか」
「一部の企業経営者が政府に働きかけて、自社に有利になるような政策の実現を図るということは確かにあります。しかし贈賄は禁止されていますから、それをするにも限界があります。結局のところ、市場経済では多くの買い手に喜ばれるサービスを提供しなければ長期的な繁栄は期待できません。経営者は自分の利益のために働いているように言われますが、買い手のためによいサービスを提供することを通じて利益を得ているのです。それに失敗すると市場から撤退しなければならないという厳しい評価をされているのです」
吉田がうなずいた。
「市場経済が計画経済よりも優れているということは、歴史が証明したようだ。中国が計画経済をやめて市場経済化したのもそれを認識したからだろう。そうだとすると、中国が市場経済の採用によって経済面で繁栄しつづければ、共産党一党独裁でも存続可能ではなかろうか。前任者の党主席が最も能力のある者を後任者として指名し、彼に全権をゆだねる。日本の会社でも多くの社長は前任者から指名されている。それと同じじゃないか。それに引き換え、民主政治だと大衆に迎合する政治家が政権をとる。それよりもいいのじゃなかろうか」
 千が答えた。
「これも基本的には、市場経済と計画経済のどちらが優れているのかというのと同じ性格の問題ですね。民主政治だと失敗した政治家は選挙民の支持を得られません。成功した政治家だけが選挙で勝ち残ります。結果として正しい政治が行われるようになります」
 橘は同意しなかった。
「選挙民の評価なんていい加減なものだよ。その証拠にポピュリスト政治家が人気を博しているじゃないか」
「民衆だって、長い目で見れば、誰が国のリーダーとしてふさわしいかを知ることができます。それに政治の安定のために良いのは、トップが駄目だとわかった時には、彼を選んだ民衆自身が自分が間違っていたと考えざるを得ないことです。革命もクーデターもおこす必要はありません。次の選挙で別の政党に投票すればよいのです。そうしてスムースに政権交代がなされます。独裁国家ではそうはゆきません。民衆が政権に見極めをつけた時にも、平和裏にトップを交代させる手段がありません」
「そうとばかりは言えないだろう。共産党内のライバルとか党の長老が監視をしていれば、政治の失敗はわかり、トップの交代は可能だよ」
「しかし支配層は、民衆よりも自らの利益のためになるような傀儡をリーダーに選ぶでしょう。民衆はそのような体制には満足しません」
「とすると、共産党の支配で民衆が悲惨な目にあった時は、彼らは革命を起こすしかないということか。そうして民主政治に移行する時が来るのだろうか」
 吉田が首を振った。
「中国では昔から皇帝が絶対的な権力を握っていた。民衆を直接支配する官僚は、皇帝から与えられた権限を行使しているにすぎないので、皇帝の命令に逆らうことが出来なかった。また中国の民衆の側でも、専制君主に支配されることに慣れてしまって、自らの人権を主張するような風土はなかったのだ。
それに引き換え日本やヨーロッパでは、民衆を直接支配したのは大名や封建諸侯で、彼らがある程度の力を持っていた。だから日本の将軍やヨーロッパの国王は、慣習や法律の許す範囲で政治を行うしかなかった。その慣習や法律が発展して民主制度になったのだ。
中国では、今でも時の政権を制約する議会や裁判所は機能していない。今ある議会や裁判所は飾り物にすぎない。革命で政権が変わることがあったにしても、新政権が民主制度のいろいろの機関を急に作るなんてことはできる筈がない。形だけ整えてもそこで民衆のために働く議員や裁判官を必要なだけそろえることなんてできるわけがない。だから旧政権を倒した新政権もまた独裁政権になるだけだろう。
それに今、政権を覆す実力を持っているのは、共産党内のライバル政治家と人民解放軍だけだ。力による政権交代があるとすると、そのどちらかだろう。革命ではない。クーデターだ。だから中国では独裁者の支配が当分は続くだろうし、それを正当化するための反日政策もなくならないだろう」
   「もし人民解放軍がクーデターで政権を取ったら、今以上に軍国主義がさかんになるでしょうね」
「そうだ。それを防ぐためには、一般民衆の対外強硬論をあおるようなことをやってはいけない。中国人民に直接働きかけて、底辺から反日感情を解きほぐすような政策をとる必要がある」
橘が反応した。
「しかし外務省だって、中国人民の対日感情を少しでも良くしようという活動はやってきたんでしょう」
「日本は中国本土で戦争をやって、中国人に随分つらい思いをさせてきたんだ。だから中国人は、政府の宣伝で簡単に反日感情を持つようになる。日本が対日感情を改善させようとしても、成果が上がるまでに普通以上の努力がいる。これは日本が自ら蒔いた種だからしょうがないことなんだ。中国人が日本を嫌うからといって日本人も中国を嫌ったら、両国の関係改善は絶対できない。日本人は中国人から嫌われても、両国の関係を改善することが必要なんだと高い見地に立って行動しなければならない。
交換留学、企業進出、文化交流などによる相互理解が重要だ。現在の日本は、世界に誇れる民主平和国家だ。共産党の宣伝する古い日本と違うことを、大勢の中国人に知ってもらうことだな」
「そうですね。人が入り交じることによって、初めて反日感情は払しょくされるでしょうね。そういう点では、オリンピックで大勢の中国人が日本を訪れて、日本の現状を見るのはいいことだと思います。日本人が鬼でも蛇でもなく普通の人だと理解するでしょう」
 二人のやり取りを聞いていた千が口をはさんだ。
「本土人ではありませんが、台湾人の金香蘭を解雇したことを、私は今でも残念に思っているんです。民間だけでなく政界でも、外国人の雇用をもっとおおらかに認めてほしかったなあ」
しかし吉田がたしなめた。
「橘君は先の党首選で名乗りを上げたが、君も将来の首相候補だ。外国人との間合いの取り方を間違うと、その可能性をつぶしてしまう可能性がある。自重しなけりゃいかんよ」
 千は手を横に振った。
「冗談を言わないでください。そんなあるかないかわからないことを気にしていたら、何にもできなくなりますよ」
「いや。冗談ではない。政党の最も大切な役割は、将来の首相候補を見極め、育てることだ。その候補と見極めた有望な若手政治家を、金や女などスキャンダルになる可能性あるものから遠ざけておくことは、政党の重要な任務なんだ」
「香蘭は台湾人ですが、僕たちの関係はスキャンダルなんかじゃありません」
「首相は国益を第一に考えなければならないんだ。その点で、少しでも国民に疑念を持たれるようなことはすべきでない」
「首相になろうとしたらそうかもしれない。しかし僕はまだ自分の気持ちを犠牲にしてまで首相になりたいなんて考えていません」
「いいか。君は能力的にも現在のポジションでも選ばれた者なんだ。これからの日本をリードしてゆく責任ある立場なんだ。自分の事にかまけていることは許されないんだ。それを自覚してもらいたい」
「こう言っちゃあ何ですが、金銭問題で政治家を辞めた貴方にそれを言われるとは意外でした」
「遠慮のない奴だな。まあ、それはともかく、君については総理からそのように言われているんだ。私自身に関しては、総理からそのような忠告は受けていなかった。総理は私を将来の首相候補とは考えていなかったのだろう」
夏目は苦笑いしながら吉田をなだめた。
「青年党は若者の代表だ。若い人を首相候補として担ぎたいと思うのは当然だろう。しかし、若者が経験不足で思慮に欠ける行動をとる心配もある。だから吉田さんのような経験を積んだ政治家がアドバイスし、橘君や千君、清水君のような有望な若者を首相候補として育てるんだ。
いつか選挙演説をやっている時に、青年党の理念は何かと聞かれたことがあったね。それから後、この問題を考え続けてきたんだ。考えた末にたどり着いたのがこういうことだ。

〝若者のためにしてやれる一番大切なことは、日本をよい国にして後の世代に引き渡してやることである〟

これは年金格差問題のような取り分をめぐるちっぽけな争いじゃないんだ。財政問題や外交問題では、自民党内閣が残した将来へのつけを青年党内閣は一応清算した。しかしまだ地球温暖化問題とか人口減少問題とか難しい問題が残っている。そういう目の前に突き付けられた課題に取り組むことに加えて、将来の日本を背負って立つ若い政治家を育成することも青年党の使命だ。問題は、若い党員にそういう使命を引継ぐ気持ちがあるかどうかだな」


参考文献

中曽根康弘が語る戦後日本史       中曽根康弘         新潮社
日本のアジア外交            小倉和夫          藤原書店
ニクソンとキッシンジャー        大嶽秀夫          中央公論新社
二〇三〇年 世界はこう変わる      米国国家情報会議編     講談社  
日本の覚悟               櫻井よしこ         新潮社 
日本の立ち位置を考える         明石康編          岩波書店
アメリカは日本経済の復活を知っている  浜田宏一          講談社
アベノミクスとTPPが創る日本     浜田宏一          講談社
アベノミクスの真実           本田悦朗          幻冬舎
日本大沈没               藤巻健史          幻冬舎
ひとたまりもない日本          藤巻健史          朝日新聞出版
日本のソブリンリスク          土屋剛俊、森田長太郎    東洋経済新報社
中国がつくる国際秩序          中園和仁編         ミネルヴァ書房
憎しみに未来はない           馬立誠           岩波書店
国家は破綻する 金融危機の八〇〇年   カーメン・M・ラインハート 日経BP社
自爆する若者達             グナル・ハインゾーン    新潮社
国家はなぜ衰退するのか         ダロン・アセモグル他    早川書房
劣化国家                ニーアル・ファーガソン   東洋経済新報社          
政治の起源               フランシス・フクヤマ    講談社
戦争の世界史              W・マクニール       刀水書房
国際紛争                ジョセフ・S・ナイ・JR他 有斐閣 
巨龍・中国の新外交戦略         ベイツ・ギル        柏書房

青年党奮闘記

青年党奮闘記

  • 小説
  • 長編
  • 成人向け
更新日
登録日
2015-06-13

CC BY-NC-ND
原著作者の表示・非営利・改変禁止の条件で、作品の利用を許可します。

CC BY-NC-ND