更級日記
菅原孝標女(すがわら の たかすえ の むすめ) 作
『更級日記』(さらしなにっき / さらしなのにき)は、平安時代中ごろに書かれた回想録。作者は菅原道真の5世孫にあたる菅原孝標の次女菅原孝標女。母の異母姉は『蜻蛉日記』の作者である藤原道綱母である。作者13歳の寛仁4年(1020年)から、52歳頃の康平2年(1059年)までの約40年間が綴られている。全1巻。平安女流日記文学の代表作の一に数えられる。江戸時代には広く流通して読まれた。(ウィキペディア転載)
私は、「岩波書店 日本古典文学大系 20 土左日記 かげろふ日記 和泉式部日記 更級日記」を原本として読みました。短歌は全く詠みませんので、文中の短歌の訳は原本の頭注を転載させていただきました。古典の研究者ではありませんので、いろいろと問題点があることと思いますが。そっとしておいてくださいませ。素人ですから。
「更級日記」を読む
私の読む更級日記
かどで
京都より東へ行く道は「あづまぢ」と呼ばれて、果てしもなく遠くまで続いている。それよりも更に奥の国上総(かずさ)で大きくなった私は、なんとまあ、田舎者丸出しであったであろうが、どう考えて思いこんだのであろうか、世間には物語という読み物があるそうだが、それをどうかして見たいと思いながら、何もすることが無く退屈している昼間、夜長く起きているときなどに、姉や継母それに女房達が、その物語、あの物語、光源氏の出てくる物語などを、ところどころを語るのを聞くと、ますます物語への興味が深くなったが、自分の思うようには間違いなく憶えて語ることが出来ようか。
情け無く不満の気持で、身の丈ほどの薬師如来仏を作って、手を清めて、人の見ていない時を見はからって、ひそかに薬師仏をまつっている所にはいり、御仏の力で、私達を特別早くに都へ上京させて下さって、都に物語が沢山あるという、それを全部見せて下さい、と、五体をなげうち、礼拝し、祈っているうちに、十三になる年、いよいよ上京することになって、「門出」という吉日を選んで、かりに他所に移り、それで出発したことにする慣習を、九月三日にして、いまたちと言うところに移った。
毎日遊び慣れたところを、中がまる見えになるように、滅茶苦茶に壊して、大騒ぎをして、日が沈む頃すごい霧の中を、車に乗り込むときに壊された家を見ると、人に見られないようにして額ずいてお願いをした薬師如来仏が、立ちつくしておられるのを見て、あとにお残しして京に帰ることが悲しくなって、わたくしの心の内だけで、自然に泣いていた。
門出のために方違いをして住んだ家は、家の周りに垣や塀のようなものもなく、仮に造った、茅葺きの家で、蔀(しとみ)もない。
そこで、簾(すだれ)を懸けたり、幕を引いたりした。南は開けた野が見えて、東西は海が近くて良い眺めである。夕霧が立ち、気持ちが良いので、朝寝もしないで方々を見て、わずか十日ほどすごした所であるが、門出をした所を立ち去ってしまうというのもなんとなく悲しい気持であったが、その月。九月の一五日、雨で空が暗いというのに出発して、上総と下総との国境を出て下野の国の池田郷と言うところに泊まった。
庵などが浮き上がるほどに雨が降り、恐ろしくて眠ることも出来ない、野中の少し高い岡のところに只の木を三本立てた。翌日は濡れた物を干して、国で残務整理をして遅れた者達を待つというので、この池田に一日暮らした。
十七日朝はやく、池田を出発した。昔下野の国に真野の長者という人が住んでいた。布二反を一匹と言うが、千匹も万匹も織らせて晒させたという家の跡であるというのを見たが、深い河を舟で渡る。昔の門の柱がまだ残っていて、大きな柱が四本河の中に立っていた。人々が歌を読むのを聞いて、私は心の中で詠う、
朽ちもせぬこの河柱のこらずは
昔のあとをいかで知らまし
(今まで朽ちもしないこの川柱が残らなかったならば、昔のあとを、どうして知ることができよう、できない)
その夜は黒砂の浜と言うところに泊まった。片側は平山で、砂がはるばると白くつづき、松原が青く茂って、月が明るく風の音がなんとなく心細く感じた。人々は風景が綺麗だと歌を詠み交わす中に、
まどろまじこよひならではいつか見む くろとの濱の秋の夜の月
〔太井川(ふといかわ)〕
その翌朝早く黒砂を出発して、下野の国と武蔵の国との境にある太井川の瀬にある、松さとの渡りの港町に泊まって、夜中かかって舟で持ち物を運んだ。
乳母の人は、夫を亡くしたのであるが、境で子供を産んだので、出産の穢れからみんなと離れて行動する。私は乳母が恋しいので乳母の所に行きたいと思うが、兄の定義が抱いて連れて行ってくれた。みんなは、一時しのぎのために作った仮小屋とはいうものの、風が小屋の中を吹き通さないように幕などを引きまわしているのに、乳母の小屋の方は、夫もいないので、とても無雑作で、いかにもあらあらしく、菅や茅を菰のように編んだ物を、とまど、というが、その物を一枚、屋根にかけただけであるので、月の光が部屋中残るくまなくさしこんできて、乳母はくれないのきぬを上に着て、産後のつかれで、苦しそうに伏している、月の光は、このなやましげに伏している乳母に、この上もなくすき通り、顔の色ほ白く、とても美しう見えて、乳母は久しぶりにわたくしの顔をみるので珍しく思い、わたくしの頭をかきなでて、泣くのを可哀想に思い、このまま放っておくのがしのびなかったが、兄に急いでつれて帰られる時の心もちは物足りなくて名残惜しかった。
乳母の面影が消えなく悲しいので、月をながめる興味も感じないで、心がふさがって伏してしまった。
翌日、舟に車を乗せて向こう岸へ運ぶ。送ってきた人達は此処で別れて皆帰った。京へのぼる人々は立ちどまって名残りをおしみなどして、東西に行きわかれる時の心境は、京へ旅行くものも、あとに残るものも、みな泣いていた。自分の幼い気持でも別れの辛さが分かった。
〔竹芝寺〕
やっと武蔵の国へ入った。取り立てて興味のあるものはない。濱の砂も白砂でなく、泥のようで、紫という草で野原は一面に覆われていると聞いていた野も、この紫という草は、二尺ばかりの多年生の草で、花は白く、根が深紫色で、紫の染料となると言われていて、古今集に
「紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る」(馴染みの紫草が一本生えていることから、武蔵野の草は総て懐かしく心ひかれて見えるよ)(867)、とある
その野も、葦のような荻が高く生い茂っていて、馬に乗って人が入っていくと弓を持っている手元が見えないほど高く生い茂って、その中を分けていくと竹芝寺と言うのがあった。向に、はは荘などという所の、領主の屋敷のあとの礎石などがある。どう言うところなのですかと、問うと、
「此処は昔竹芝という荘園があった。国の人を、宮中でかがり火をたいて夜を守る小屋に衛士として国司が宮中にさし出していたところ、宮中のお庭を掃くと言って、
『どうしてこんなに苦しい目に遭わなければならないのか、故郷には七つ三つと据え置いた酒壺がありその上に瓢箪を二つに割ったひさごを紐でくくりつけて壺の上を渡しておくと、南風で北に靡き、北風には南に、西風は東に、東風では西に靡くのを見てのどかにすごしていたのに、今はこんなに苦しい目を見ている』
と、独り言を呟いているのを、その時の帝の娘が大事に育てられていた。その娘が丁度その時御簾の端に立っていて柱に寄りかかって見ていたのだが、この男の愚痴を聞いて、気の毒に思い、どんなひさごがどの様に風に靡くのかと、興味を持って御簾を上げて、
『あの男をこれへ呼べ』
男は勾欄の所までやって来ると、姫は、
『「さっき申していたことをもう一度言って見よ』
と、言われたので男は先ほどの壺のことを、繰り返して伝えた。すると姫は、
『自分も行ってみたいものじゃ、そのようにいうのには、わけがあろう』
これは大変なことだと男は思ったが、これは前世からの因縁である、と覚悟して姫を背負って東へ下ったのであるが、勿論宮中の者が追いかけてくると思い、その夜に瀬田の橋の許まで来てそこに姫を置いて、瀬田の橋を男は一間ばかり壊して、底を飛び越えて姫を背負って七日七夜かかって二人は武蔵の国へ到着した。
帝は姫が行方不明と聞いて探し回ると、武蔵の国から来ていた衛士が、男が大変香りの良い物を首に引っかけて飛ぶように逃げていった、と言うことを聞いてこの男を捜すことにした。
言うまでもなく自分の国へ行ったのであろうと、朝廷から使が下って追っかけて行くと、瀬田の橋がこわれていてたやすく行けないで三月目に武蔵の国に到着して、例の男を捜すと、姫は宮中からの使いを呼んで、
『「私はこうなるような前世の因縁であったのであろうか、この男の家が何となく知りたくて、連れて行けと命じたので男は私を連れてきたのである。
ここは、すばらしく、住みよく感じられる。この男を罪にし、ひどい目にあわせられるならば、その結果は自分にも影響してくるが、その場合、自分はどうなれというのであるか。
こんなことになるのも、前世に、こんな遠方のいなかに下って、こんな身分の男と一緒になるような因縁が、きっとあったのであろう。早く帰って帝に報告しなされ』
と、姫に言われて使いの者はどうしようもなく京に帰って、帝にかくかくと報告したが、どうすることも出来ない。その男を罰して、姫を都に連れ戻しても世間体もあるのでそのようには出来ない。竹芝の男に、生きている限り、武蔵の国を預け与えて、租税や賦役(ぶやく)も免除にして負担させまい、ただ姫宮に武蔵の国をお預け遊ばされるという趣の勅が下ったので、この男の家を内裏のように豪華に建て直しをして姫を住まわせたのを、姫達関係者が亡くなったので、寺としたのがこの竹芝寺と言うのである。
姫の子供は武蔵という姓を貰っていた。それより後は宮中の衛士の小屋「火たき屋」に女が居るようになった」
と、由来やなんかを語った。
野山は葦荻が茂っている中を分けて進むほか無く、武蔵と相模との中にあって隅田河と言う。在原家の五男で中将であつた業平が、
「名にしおはばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」
と、詠んだ渡し場である。中将の和歌集には隅田河とあり、舟で渡ると対岸は相模の国になる。
西富と言うところの山は、絵にある屏風を立て並べた感じである。片方は海で濱の景色も寄せ返す波もとても感興がある風景である。唐土(もろこし)が原と言う白砂が綺麗なところを二三日行く。
「夏は大和撫子が濃く、または薄く錦を敷いたように咲いているのであるが、今は秋の末であるので見ることが出来ない」
と、言う者がいるが、それでも所々に、はらはらと花びらを散らしながら、寂しく咲いていた。唐土が原に大和撫子が咲くとは、と人々は可笑しく思う。
〔足柄山〕
足柄山は、四五里にわたって恐ろしい暗闇のような鬱蒼とした森の中を歩いた。やっとの事で着いた懐かしい人家のある麓でも、上を見上げると空の様子があまりはっきりとしないで気分が良いとは言えなかった。
木々が茂っていて恐ろしい感じがした。麓で宿を取ったが月もなくて暗い夜に、遊女が三人何処からともなく現れた。この遊女とは歌をうたって旅人を慰めることを業とした女達のことで、遊女はからかさを背負ってあるき、客があると、それをひろげて、その下で歌ったらしい。
三人は、五十ばかりの者一人、二十ほどの者と十四五の者と三人であるように見えた。歳の多い者が、唐傘を開けと命じて庵の前に置かせた。
私達一行の中の下男が、火を近づけて女の顔を見て
「こはだという女の孫である」
と、言う。その女は髪が長めで、額髪が美しく垂れかかって、色白で、汚いとは思えなく相当によい下仕えとしても、勤まりそうであるなどと、人々が可哀想に思っていると。この女は綺麗な声で、涼しく、りんとして、空まで高くひびいて上手に歌った。
人々は、とてもひどく感動して、身近に呼びよせて、誰も誰も、もてはやして楽しんでいると
「西の国の遊女には関係するな」
などと言うのを聞いて、
「難波わたりにくらぶれば」
と、上手く歌った。見た目は汚くなく声も人が真似できないほど上手く、このような恐ろしい山中に入って去っていく遊女達を名残惜しんで見送りながら涙を流していたのを、幼い私はこの宿を出発することが名残惜しいような気分であった。
未明に出発して足柄を越えた。山中は昨日より更に鬱蒼として木が茂り恐ろしいことは言葉がなかった。雲は足下に見える。山の中ほどで、木の下のわずかな場所に、あおいが三本ばかり生えているのを見て、人里はなれた、こんな山中によく生えたことよと、人々はその葵をいじらしく思った。
穴からわき出る水が三所有った。
かろうじて山を越えて、横走の関がある山に到着した。ここからは駿河の国である。関の近くに岩壺という所があってとても大きな岩が四方にある。中が穴になってその中から出てくる水が綺麗で冷たいのが最高であった。
ふじさんはこの国にあった。自分が生まれた国からは西表に見えた山である。この山の姿は世にも珍しいものである。他の山とは違った山の姿は紺青を塗ったようであるのに、頂上には消えることが無く雪が積もっていて、色の濃い紺青の衣の上に、白いあこめを着たかのように見え、山の頂が少し平らに見えるところから煙が立ち上っていた。日が暮れると火が燃えているのが見えた。
駿河の清見の関は片側が海であるのに、関所の番人の詰めている所が沢山あって、海まで柵がしてあった。潮煙が立ちあっているのであろう。清見が関の浪も高くなった。美しい眺めは見る限りなし。
田子の浦は浪が高くて、舟で巡る。
大井川という渡しがあって、水が普通の川とは違って。米をすり鉢で摺って流したように、白い水が早く流れていた。
〔富士川〕
富士川の水は富士山より流れ落ちるものである。酸阿の国府の役人が出て語るには、
「ある年、物詣でに行ったのでしたが、とても暑かったので、この川の岸に休みながら見ていると、川上の方から黄色い物が流れて来て、物にひっかかってとまったのを見ると、紙を捨てたものであった。
取り上げて見ると、黄色の紙に、赤で、色濃く、きちんと文字が書かれている。変だと思って、よく見ると、来年新しく任命されるはずの国々の国司を、朝廷の任官目録のごとく、関係者全員が記入されていて、駿河の国も来年は国司の任期が切れて、あきができるはずになっているのに対しても、新しい国司を任命して、またそのかたわらに、もう一人の国司を書いて、二人のものを国司にしてあった。
意外なものを拾い上げたと、乾して持っていたところ、明くる年の県召の除目はこの拾った文に一つも違わないで、この国の守も書かれたとおりであったが、三月もしない内になくなってしまい、後任の人は、その亡くなった人の横に書いてあった人であった。
このようなことがあった。来年の司召は、今年この山に多くの神々が集まられて成されたことであろうと考えると、珍しいことであります」
と、語った。
沼尻という所も、何事もなくすらすらと通りすぎて、それから、私の体調が悪くなり横になったまま遠江にかかった。
さやの中山という難所を越えたことも憶えが無く、大変苦しいので、天中という川の畔に仮屋を造ってもらい、そこで数日過ごす内にようやく病も快方に向かう。冬が深くなったので川からの風が激しく吹き付け、我慢が出来なくなった。その川を渡って浜名の橋に着いた。
濱の橋は都から下るときには黒い木を渡して橋になっていたが、この度はそれが跡形もなく無くなっていたので、舟で川を渡った。あの橋は入り江に渡した橋で、外海は非常に浪が高くて、入り江の州には松より外になにも無く、その松の間から波の寄せ返す度に色々な玉のようなものが見えて、ほんとうに、古歌にいうように、松の末を波が越えるように見えて、とてもおもしろい。
それから西の方へ向かうと、ゐのはなと言う坂で言葉に出来ないほどの寂しい登りを登り切ると、三河の国の高師浜と言うところであった。伊勢物語で有名な八橋(やつはし)は名前だけで橋はなく、何の見所もなかった。
三河の国八橋で男が歌を詠んだとあります。
「唐衣着つつなれにしつましあればはるばる来ぬる旅をしぞおもふ」
この歌は前文に、八橋に来て、川の畔にある、かきつばたがあまりにも綺麗なので、同行の人達と、か、き、つ、ば、た、を頭にして歌を歌ったと有り、どんなところかと楽しみにしていたのに、何もなくて残念でした。
二村と言う山中に泊まった夜に、大きな柿の木の下に庵を作ると、一夜中柿のみが落ちて来るのをみんなで拾い集めたりした。三河の宮路山と言うところを越えるときに、十月も晦というのに、紅葉が散りもしないで紅が盛りであった。
嵐こそ吹き来ざりけれ宮路山
まだもみぢ葉の散らで残れる
三河と尾張との境である、しかすがの渡り。なるほど古歌にいう通り、思いわずらいそうな気がして、おもしろい。古歌とは中務集に
「行けばあり行かねばくるししかすがのわたりにきてぞ思ひわつらふ」
とあって、渡って行けば困難があり,行かねば苦しい、しかすがの渡りにきて、その名のごとく、さすがにどうしようかと思案にこまるという。
「しかすがに」は「さすがに」の古形で、「そうはいってもやはり」の意で、「そうはいってもやはり、その一線を越えるかどうかためらっている」
そんなことを思って川を渡ると本当に面白かった。
尾張の国の鳴海の浦を過ぎるとき、夕潮がむちゃくちゃに満ちてきて、今夜の宿をとろうにも、進むも退くも、中途はんぱな所で、潮が満ちてきたならば、立ち往生になって、ここを通り過ぎることも出来まいと言って、そこに居あわせたものはみな、あわてて走ってすぎた。
美濃の国の国境に、墨俣という処で渡りをした。長良川の上流である。そうして野がみというところに着いた。
そこに遊女がいて、一夜歌ったのであるが、足柄の遊女が思い出されて、しみじみと情感を感じて恋しかった。
雪が吹雪いて何の楽しみもなく不破の関やあつみの山などを越えて、近江の国の息長 (おきなが)と言う長者の家に泊まって四五日滞在した。
みつさか山の麓に昼夜、時雨、霰、が降り続いて日の光も差さず、大変むしゃくしゃする。そこを出ると、犬上、神崎、野洲、くるもと、などというところを、何ごともなく過ぎる。琵琶湖の水面が何処までも広がって、なで島、竹生島等が見えて楽しかった。瀬田の橋が崩れていて、渡るのが大変だった。
粟津に留まって、十二月師走の二日に京都に入った。暗くなってから到着しようと、申の刻頃(午前八時)に出発したら、逢坂の関近くになって、山側に板を横にし、かさねてうちつけた垣、きりかけ、という物の上に、一丈六尺の仏像で、まだ荒彫りだけで、仕上げのできていないのが、きりかけの上から顔だけのぞいているのが、下から見えた。気の毒に人里離れたところに、つくねんとおいでになる仏かな、と見上げながら過ぎた。
多くの国々を通りすぎてきたうちに、駿河の清見が関と、逢坂の関は、目にとまる物がなかった。暗くなってから三条の宮の西に到着する。一条天皇の皇女修子内親王の御住所で、親族のものが、そこに女房として仕えていた。
〔梅の立枝〕
帰ってきた家は広々として荒れた所で、庭のさまは、上京の旅で通りすぎてきた山々にもおとらないほどで、木立は大きく恐ろしそうな深山木のようで、都の中とは思うことが出来ない様子であった。
帰京したばかりで落ちつかず、家の内が何となく騒がしかったけれど、いつかは是非にと思っていたことであるので、「物語の本を早く見せてよ」と、母にせがみねだると、母は、三条の宮に、親族の人で、衛門の命婦といって、お仕えしているのをたずねたどつて、手紙をやったら、珍しいことだと喜んで、姫宮のお持ちであったのを、わたくしが拝領したのであるといって、特に立派な草子どもを硯の箱のふたに入れてよこしてくれた。
硯の箱のふたに入れるのは人に物を送る時の作法で、実際に硯箱のふた、またはそれに似せて作ったうつわである。嬉しくて、素晴らしく立派な草紙を、夜昼と読み始めて、さらに次の物語を読みたいのだが、住み慣れない都の片隅に、物語を見せてやろうというような人はいない。
継母である人は、宮仕えをしていたのであるが、職を退いたもので、予期しなかったことなどがいろいろあって、夫婦なかも面白くなく、父が上総に赴任するに当たって、それが不満らしく、外に住むと言って、五歳ばかりになる子供や使用人たちをつれて、
「親しんでくださったあなたの気持ちは決して忘れる時はないでしょう」
などと言って、梅の木で、軒近くのとても大きなものを指して、
「この木の花が咲く頃には尋ねて来ましょう」
と、言い残して去って行ったのを、心のうちに恋しく懐かしいと忍び泣きをしていたが、その年もくれて、新年が来て、治安元年となった。
間もなく梅の花が咲くだろう、そうすれば継母は来ると言った、と、梅の木を見つめて待っていたのであるが、花が満開になっても来てくれなくて、思い切って梅を折って文と共に送った。
たのめしを猶や待つべき霜がれし
梅をも春は忘れざりけり
(梅が咲いたら帰ってくると、頼みに思っていたが、帰って見えないが、この上なお待たねばならぬか、霜枯れしていた梅も春を忘れないで咲いたよ)
と言ってやると、情の深いことなど書いて返事をよこし、
猶たのめ梅の立ち枝はちぎりをかぬ
思ひのほかの人も訪ふなり
(この上なお,あてにして待っていらっしゃい、その梅の、高くのびた枝は、思いがけぬ人をさそうものであるから、わたくしではなくかねて約束していない、思いがけぬ人が訪うてくる)
この春は、疫病が大流行して世の中が大変騒がしく、まつさとの渡りで、兄に抱かれて連れて行って貰って月の光の中で弱った乳母の姿を見た、その乳母が、三月弥生の朔日に亡くなった。どうすることも出来ない世の無常を思い嘆いて、物語を読みたいという気持もなくなってしまっていた。
悲しく辛く泣き暮らしていたが、ふと外を見ると夕日が綺麗に差し込んでいる中で、桜の花が残りなく散り乱れていた。
散る花も又来む春は見もやせむ
やがて別れし人ぞこひしき
またうわさに聞けば、侍従の大納言行成の娘もなくなられたということである。道長の子で、この姫君の夫であった長家中将が悲嘆しておられるという有様、自分が悲しみにとざされている時であるから、とても哀れに悲しいことだと思って聞いた。京に上り着いたときに、「これを手本にしなさい」と言って、この姫の筆蹟を戴いたが、
「さ夜ふけてねざめざりせば」
拾遺集に見える壬生忠見(みぶちゅうけん)の歌で、「ほととぎす人づてにこそ聞くべかりけれ」とつづく、また「鳥邊山たにに煙の燃えたゝばはかなく見えし我と知らなむ」言いようもなく美しい書体で立派に書かれてある筆蹟を見て、涙が流れて仕方がなかった。
〔物語〕
こんなにふさぎ込んでばかりいたので、母も苦しく思ったのか、わたくしの心を慰めようと、物語をさがして、見せて貰うと、なるほど、母の考え通り、わたくしの心も自然はれやかになってゆく。
源氏物語の若紫の巻その他を見て、つづきの巻を見たく思ったが、人に相談することも出来ない。家の誰もがまだ都になれていないので、物語を見付けることは出来ない。悲しくてどうすることも出来ない。
それでも物語が見たいので、
「この源氏物語を一の巻から全部見せてください」
と、心の中で祈り続けていた。父が太秦の広隆寺に参籠して祈願のために籠もったのを、ほかの事ではなく、源氏物語が見たいと言うことを言って、物語が手に入ったら、すぐにと期待していたが、見つからない。
悔しくてたまらなく悲しんでいるところへ、叔母という人が田舎から京に上ってきたのに会いに行ってみると、「大変美しく大きくなられた」などと可愛がっていただき、姪の娘が珍しいのか帰るときに叔母は、
「何かを上げましょう。実際に毎日使う物は要らないでしょう。好奇心がもたれる物を差し上げましょう」
と言って、源氏物語五十何巻かが櫃(ひつ)に入れたまま、伊勢物語、とほぎみ、せり河、しらら、あさうづ、等という物語を一袋に入れて持って帰るときの気持は天に昇る嬉しさであった。
今まで胸をわくわくさせながら、わずかに読みつつ、断片的で心に入らずにいた源氏物語を、一の巻から誰にも妨げられず、一人きりで、几帳のうちに楽な姿勢で打ちふして読むこの気持は、后の位など問題ではなかった。
昼は陽のある限り、夜は目が覚めている間中、灯火を近くに持ってきて源氏物語を読むほかに何もないので、自然に物語中の人物名などは、憶えてしまい、人物が目の前に浮かび、大層嬉しく思っていたが、夢の中に清らかな僧が黄色の袈裟を着て、
「法華経五巻を早く学びなさい」
と、いうのを見たが誰にもそのことは言わないで、学ぼうとも思わず、物語のことだけを心の中に思い詰めて、自分は最近見栄えが悪くなった、女盛りになれば姿も良く、髪も大変長くなる。光源氏の夕顔、宇治の大将の浮舟の女のようになるのだと思うのは浅ましいことである。
五月朔日頃に、軒に近い花橘が、白く散ってゆくのを眺めて、
時ならずふる雪かとぞながめまし
花橘のかほらざりせば
(その時期でなくふる雪とまちがってながめたであろう、この白く散るたちばなの花に、においがないとしたら)
足柄と言った山の麓に、暗がりのように木の枝が交互に茂っている所があり、十月になったばかりの紅葉が、四方の山よりも優っており、美しく錦を広げたようにあるのに、他所から来た人が、
「今通り過ぎてきたところに、紅葉がとても綺麗なところがあった」
と言うのを聞いて、咄嗟に、
いづこにもおとらじ物をわが宿の
世を秋はつるけしき許は
(どこの景色にもおとるまいと思っています、わたくしの家の、秋のはての景色だけは。(それなのに、あなたは、よその紅葉をほめられる、誠に心外である。)
物語のことを、昼は昼中思い続け、夜も目が覚めている限りは、物語のことを心懸けていたのか、夢にも見るようになって、
「このごろ、皇太后宮(三条天皇の皇后、藤原道長の娘研子)の御腹の一品の宮(禎子内親王)が寄進になるためのものとして、六角堂に「やり水」を作っているという人があったので、「それは何故に」と問うと、「天照御神を祈りなさい」という答えである」
という夢を見て、人には語らず、放っておいたままにした。どうにもならないことである。春が来るたびにこの一品の宮を眺めながら、
さくと待ちちりぬとなげく春はたゞ
わが宿がほに花を見るかな
(今に咲くといっては待ち、散ったといっては嘆きながら、春は一品の宮の御所の桜を、まるでわが家のものであるかのように、見ることか)
治安二年三月晦頃に、土公(つちぎみ)とか、士分神(どくじん)とかいう地の神の居る方角に当って家を建てたり、士を動かしたり、旅行したりするのをさけるか、一時他に移って方違をする。
私共は方違いをして、あるお宅に移ったのであるが桜の満開の時期で美しい風景ばかりで、まだ散らないものもあり、。帰宅して翌日、
あかざりし宿の桜を春くれて
散りがたにしも一目見し哉
(いくら見てもあかなかった、あなたの家の桜を、春の終りになって、散りそうになっているのを、運よく一目見たことか)
と、贈った。
〔大納言殿の姫君〕
花が咲き散る頃になると、乳母が亡くなったのは今頃であったということだけが悲しいことであったが、同じ頃に亡くなられた侍従大納言の娘さんの、下さった筆蹟を見ていると、何となく悲しくなってくるのに、五月にもなると、夜が更けるまで物語を読んで起きていると、どこから来たのか猫がかわいげに鳴くのを、驚いてみてみるととても可愛らしい猫であった。
どこから来た猫だろうと見ていると姉が、
「喧しく泣かないで、人に聞こえるではないか。可愛い猫であるなあ、飼ってあげようか」
と言うのに、人に馴れた猫なのか私の側にねっころがった。
探している人もあろうかと、人に知られないように隠して飼っていると、しもじもの者のいるあたりには寄っていかないで、何時も私の前にいて、美味しくないようなものは顔を背けて食べない。
姉か私に常にもつれ、まつわり、可愛がっていると、姉が体調を崩して寝込むと、邪魔になるのでこの猫を北面にだけに閉じこめておいて私達の方へ来ないようにしたら、喧しく鳴き騒ぐのであるがかわいそうだが、やはり、北面においたままにしておくべきだと猫を閉じこめて呼ばなかったら、姉が目をさまして、どうしたの、猫は。こちらへつれて来いと言われたので、どうして、と問うと、
「夢の中でこの猫が側に来て、
『自分は侍従大納言の娘がこのように姿を変えたものである。この世で結ばれるような前世の因縁が少しあって、二番目の姫君が、何ということなく、わたくしのことを忘れずに、なつかしう思い出して下されるので、しばらくの間此処にいようとしているのに、この頃は下々の中にばかり居させて、なんと侘びしいことであるよ』
と言って、悲しそうに泣く様子は、上品で、美しい人と見えて、驚いて目が覚めると猫の声がしているので、正夢だと侍従大納言の姫を思い出して悲しくなった」
と、語るのは哀れな話であると聞いていた。
その後はこの猫は北面には行かさないで大事に飼ってやった。自分が一人でいるところに、この猫がやってきて、自分に向かっていたので、頭を撫でながら、
「侍従大納言の姫君が居られるならば、大納言に知らせなければ」
と、猫に問いかけると、わたくしの顔をじつと見ながら、なごやかになくのも、気のせいであろうか、突然見た目の迷いか、私の言葉を聞き分けているようでいとおしい。
この世に、長恨歌という詩を、仮名の物語に書き改めたものを、持っている人があるということを聞いて、とても見たかったけれど、貸してもらいたいと、言えなかったが、適当な伝手をたどつて、長恨歌に関係のある七月七日に頼んでもらった。その文に、
ちぎりけむ昔の今日のゆかしさに
あまの河浪うち出でつるかな
(玄宗皇帝と揚貴妃とが、比翼連理と誓われたという、昔の今日(七月七日)の故事がなつかしいので、今日は天の阿波が波うつように、長恨歌の物語を貸して下さいと申し出た)
返歌は
たち出づる天の河邊のゆかしさに
常はゆゝしきことも忘れぬ
(牽牛と織女とが立ち出て逢うという天の河のほとりがなつかしいので、平常ならば、長恨歌の内容は、悲しい恋で、ためしに引くのも不吉であるということを忘れてしまって、お貸ししよう)
その十三日の夜、月が煌々と輝いているのを、みんなが寐てしまった夜中に縁に出て居た姉が、空をじっと眺めて、
「わたくしが、今すぐ、どこへ行ったか、わからないように、飛んで行って、いないようになったら、あなたは、どう思いなさるか」
と問うので、私は不吉の予感もあって、ひどく怯えた顔をすると、姉はそんな自分を見て、何でもないことのように笑いながら話題を変えて言うのを聞いていると、すぐそばの家に、先払いさせた車が止まって、
「荻の葉、荻の葉」
と、お供に呼ばせるけれど、内からは答えがないようである。呼びあぐねて、笛をとても見事に吹き澄まして、行ってしまった。
笛の音のただ秋風と聞こゆるに
など荻の葉のそよとこたへぬ
(笛のねは全く秋風のように聞えるのに、どうして荻の葉はそれに応じて、そよと音を立てない(返事をしない)のであろう)
と詠うと、本当にねえと、
荻の葉の答ふるまでも吹き寄らで
ただに過ぎぬる笛の音ぞ憂き
(荻の葉が、よびかけに応じて答えるまでも立ちどまり吹かないで、さっさと過ぎてしまった笛のねの主人の方がうらめしい)
こんなことを喋りながら月を眺め尽くして、夜が明けてからみんなは寝入った。
その翌年四月の、夜中のほどに、火事があって大納言の姫君と思って可愛がっていた猫も焼け死んだ。「大納言の姫君」と呼ぶと、自分はそうだと言うように鳴いて寄ってくるのに、父も「珍しいこともある。大納言にも申し上げよう」と言うこともあって、猫の死は哀れで悔しかった。
〔野辺の笹原〕
翌年の万寿元年となる。焼けた家は広々として、何となく奥深い深山のようではありながら、花紅葉のおりは、四方の山の花紅葉も、顔負けするほど見事なのを見なれていたのに、こんどの家は、たとえようもないほど狭い所で、庭もいたって狭く、木などもないので、気がふさぎ、嫌であったが、むこうの家に、梅や紅梅などが咲き乱れて、風につけて、梅の香が匂ってくるにつけても、住みなれたもとの家が、無性に思い出された。
にほひくる隣の風を身にしめて
ありし軒端の梅ぞ恋しき
(におって来る隣の風を、しみじみと身に味わいながら、以前の軒端の梅が恋しい)
この年の五月の朔日に、姉が出産して、亡くなった。
他人の死でも、わたくしは幼い時から、ひどく悲哀を感じ、何日も思いつづけていたのに、今はまして姉という肉親を亡くして悲しく、何とも言いようがないほどで、ああ、ああ、悲しいことだと嘆かわしく思われた。
母などはみな、なくなった姉の方に行っていたので、 死んだ姉の形見として遺された幼い子供二人を左右に寝せたが、荒れた家の板家根の隙間から月の光が漏れて差し込み、稚児の顔に当たっているのが、とても不吉に思われたので、袖をうちかけて顔をかくし、もう一人も抱きよせて、姉を思うと情け無くなった。
葬式や法事などのとりこみがすんでから、親族の人のもとから、なくなられた方が、必ず探してくれよといわれたので、探したが、その時は見つからないままで終っていたが、それを求めた人の亡くなった今になって、ある人が送ってくれたのが、身にしみるようで悲しいことであると言って、「かばね尋ぬる宮」という物語を送ってきた。本当に悲しいことである。返事に、
うづもれぬかばねを何に尋ねけむ
苔の下には身こそなりけれ
(「かばね」といっても、土中に埋められないこの物語を、死んだ姉は、何のために求めたのであろう、わが身が、かばねとなって、苔の下になったのに)
乳母であった者が
「大事にお育てした姫が亡くなられた今、何の理由でこの家にとどまりましょうか」
と、泣き泣き言って自分の里に帰っていくのに、
ふるさとにかくこそ人は帰りけれ
あはれいかなる別れなりけむ
(故郷にこのように貴女は帰ってしまう、ああ、思えば、何という悲しい死別であったことだろう)
わたくしは、歌も字もへたなので、とてもなくなった姉の形見にはなれないでしょう、と書いて、硯の水が氷ったので、思うことがみなとざされてしまったから、筆をとどめたと書いたつぎに、
かき流すあとはつららにとぢてけり
なにを忘れぬ形見とか見む
(一通り、さらさらと書いたあとは、氷にとざされてしまったよ、これでは、あなたが、わたくしの筆跡を姉の形見として見ようとしてもだめでしょう)
と言うのの返りに、
慰さむる方もなぎさの浜千鳥
なにか憂き世にあともとどめむ
(わたくしは、今、なぐさめるすべもない、なぎさの浜千鳥、いかでか、この憂き世にとどまりましょう)
この乳母が姉の墓を見て、泣く泣く帰ったということを聞いて
昇りけむ野辺は煙もなかりけむ
いづこをはかとたづねてか見し
(火葬の煙が空にのぼったという野辺には形見の煙も、なかったであろう、そうすると、乳母は何を目あてに墓をたずねたであろうか)
このことを聞いて継母は
そこはかと知りてゆかねど先に立つ
涙ぞ道のしるべなりける
(どこそこと見当をつけては行かないが、何もしないのに、まず出る涙、すなわち、先立つ涙が案内者であるよ)
「かばねたづぬる宮」という物語を送ってくれた人は、
住みなれぬ野辺の笹原あとはかも
なくなくいかに尋ねわびけむ
(死んだ人のまだ住みなれない野への笹原は、人の通ったあともなく、乳母は泣く泣く墓をたずねたであろうが、どんなにわびしいことであったであろう)
この歌を読んで兄の見ている間に燃え尽くした定義は、葬送の夜に野辺送りに行ったので、私達女は野辺送りや火葬には行けない。
見しままに燃えし煙は尽きにしを
いかが尋ねし野辺の笹原
(見ている間に燃え尽くし煙りはなくなってしまったが、どの様にして捜したのであろうか野辺送りした笹原を)
雪が降る頃に、出家した乳母が居る吉野の山を思いながら、
雪ふりてまれの人めも絶えぬらむ
吉野の山の峯のかけ道
(雪が降り積もって稀に訪れる人も途絶えてしまったであろう吉野の山の峯の険阻な道)
次の年、万寿元年、睦月一月の司召しに、父が任官しそうだというあてもあったのに、やはりだめだった。その翌早朝、自分たちと同じ心持で、父の任官をきづかってくれる人の所から、だめだとは思いながら、それでもと思いながら、「吉報をあてにして、夜のあけるのを待った時のたよりなさよ」といって、
あくる待つ鐘の声にもゆめさめて
秋のもゝ夜の心地せしかな
というのの返歌は、
あか月をなにに待ちけむ思ふ事
なるともきかぬ鐘のをとゆへ
鐘の音が鳴ると言うのに任官が出来ることを懸けて成ることが出来なかった悲しみをならした。
〔東山なる所〕
四月卯月の晦近く、あるわけがあって住いを東山という所に移った。道々、田は苗代に水を引き入れたのも、既に苗を植えたのもあって、何となく青々として、おもしろく見渡された。山のこちらがわは暗く、山のてまえの田は、光を反映して明るく、従って近く見え、心細く寂しく感じる夕暮れは水鶏が良く鳴いた。
たゝくとも誰かくひなの暮れぬるに
山路をふかくたづねては来む
(くいなは戸をたたくように鳴いて人をさそっても、もう暮れてしまっているのに、だれが山路を深くふみわけて、たずねて来ようか、こないよ)
東山三十六峰の一つで、正法寺がある霊山が近いので、参詣して拝むのであるが、山道が険しくて苦しいので石でかこんだ井戸にたちよって、手で水をすくい、すくい、飲んで、今こうして飲む水が、貫之のいうように、「いくら飲んでも、飲みたりないことかな」と、つれの者がいったので、次の歌を詠んだ。
奥山の石間の水をむすびあげて
あかぬものとは今のみやしる
(奥山の石間の水を手ですくって飲み、物足りないと貫之が詠ったのを今、飲んで知ったのか)
と言うと、水を飲んでいた人が、
山の井のしづくに濁る水よりも
こは猶あかぬ心地こそすれ
(紀貫之の
「むすぶ手のしづくに濁る山の井のあかでも人にわかれぬるかな」
と、貫之の歌に出てくる山の井よりもこの水はもっと、物足りない気がする)
霊山から東山の仮住まいに帰って、夕日が明々と射し込んで都もはっきりと見えるのに、この、しづくに濁ると詠んだ人は京の自宅に帰ると、自分と別れて京に帰るのを気にしたのか、翌朝次の歌を送ってきた。
山の端に入日のかげは入りはてて
心ぼそくぞながめやられし
念仏する僧が暁月に額づいて祈る音を聞いて戸を押し開けると、ほんのりと夜のあけて行く山の端、それから、うっそうと茂ったこずえに、一面に霧がたちこめて、花もみじの盛りの時よりも、茂りわたっている空のけしぎの方が、くもりがちで、何となくおもむきがある上、ほととぎすまでが、とても近いこずえの上に、たびたび飛来して鳴いた。
誰に見せ誰に聞かせむ山里の
この暁もおちかへる音も
この晦の日、谷の方の木の上に郭公(ほととぎす)が喧しく鳴いた。
都には待つらむ物を郭公
けふ日ねもすに鳴きくらすかな
などというように、叙情的になり、物思いにふけるばかりして、いっしょにいた人が、
「今の今、都でもほととぎすを聞いたかもしれない人があるだろうか、またわたくしたちが、こうして物思いにふけっているだろうと、わたくしたちの上に思いをはこぶ人があろうか」
と、いって、
山深く誰か思ひはをこすべき
月見る人は多からめども
と詠うと、
ふかき夜に月見るおりは知らねども
まづ山里ぞ思ひやらるゝ
(深夜に月を見るおりは、どうだか知らないが、普通なら、何はさておき、山里に住む人のことが思いやられるものである)
暁になったかもしれないと思うころに山の方から大勢の人が来る音がする。驚いてみると鹿が縁の側まで来ていて鳴いた。鹿の鳴き声は遠くで聞くもので近づいてきては、なつかしくない声である。
秋の夜のつま恋ひかぬる鹿のねは
とを山にこそきくべかりけれ
(秋の夜に妻を恋い求めて、求め得ないで鳴く鹿のねは、遠山で鳴くのを聞くべきであるよ)
知っている人が近いところに来ながら、わたくしをおとずれもせず、帰つたと聞いたので、次の歌を送った
まだ人め知らぬ山辺の松風も
をとしてかへるものとこそ聞け
(まだ人の顔を知らないで、なじみのない山辺の松風でも、音を立てて帰るわけのものと聞いている、しかるに、あなたは)
八月葉月になって、二十日過ぎの暁近くの月がとても綺麗で、山の方を見るとまだ暗く、滝の音も他に似るものはないというばかり観賞させられて、次の歌を作った
思ひ知る人に見せばや山里の
秋の夜ふかき有明の月
(風流をわきまえた人に見せたいものだ、山里の秋の夜が深いときの、有り明けの月を)
山里の家から京に帰るときに田んぼを見ると、来たときには水ばかりであった田んぼが皆刈り取られていた。
苗代の水かげ許見えし田の
刈りはつるまで長居しにけり
(田植をする田の水ばかり見えた田が、みのった稲を刈ってしまうまで、長どうりゅうをしたよ)
十月神無月の晦近くに、かりそめに、東山なる所にきて見ると、暗い程茂っていた木の葉も残りなく散っていて、何となく淋しそうに見えて、気持ちよく流れていた水路も木の葉に埋もれて形ばかりが見えていた。
水さへぞすみ絶えにける木の葉ちる
嵐の山の心ぼそさに
(人間が住み絶えているだけでなく、水までが、余りに澄んで絶えたよ、木の葉を散らすあらしの次ぎすさぶ山が心細いので)
東山にいる尼に、
「春まで生きていたならば必ず此方へ訪れます。花が盛りのときを教えてください」
と、言って帰っていったのだが、年が明けて三月弥生の十日過ぎになるのに音沙汰がないので、
契りをきし花の盛りを告げぬ哉
春やまだこぬ花やにほはぬ
旅に出てよそのうちでちょうど月の明るいころで、わたくしのいる所は竹のはえている所に近くて、竹の葉がさらさらと鳴る音に、目ばかりさめて、ぐっすりと、気を緩めて寐られないので、
竹の葉のそよぐ夜ごとに寐ざめして
なにともなきに物ぞ悲しき
(竹の葉がそよそよと、音を立てて鳴る毎夜毎夜、目がさめて、何という理由もないのに世の中が悲しく思われる)
秋近くにそこを出て他へ移る。元の家の主に。
何処とも露の哀れは別れ路を
あさぢが原の秋ぞ恋しき
(どこでも露の風情は、区別は決してあるまいのに、あなたの家の「あさぢが原」の秋のけしぎは、今とても、したしく思われる)
〔子忍びの森〕
継栂であった人は、離婚の後、再び宮仕えに出たが、上総の介の妻として夫の任国に下っていたので、それにちなんで、御所でも上総大輔(かずさだゆう)と呼ばれていたが、ほかの男を夫として、自分のもとに通わせるようになった後も、なお、その名をいわれていると聞いて、父は、別に男がでぎている今、上総大輔といわれるのは面白くないという意味のことを、言ってやろうといわれたので、わたくしは次の歌を作った。
朝倉やいまは雲井に聞く物を
猶木のまろが名のりをやする
(あなたは、今は宮仕えに出て、別の男もでき、わたくしとは縁が遠くなっているのに、なお、わたくしにちなんだ名を、つかうのですか)
このように、とりとめもないことを思いつづけるのを仕事にして、たまさか、お寺まいりをしても、はっきりと、世間普通の人のような願いごとをしようという気持に、どうしてもなれない。
この頃は十七八ぐらいから経を読み、仏前の勧業もするので、私はそのようなことをすると思いもかけず、やっと思いつくことと言えば、たいそう高貴な身分で、顔立ちや風采が、物語に出てくる光源氏のような男を、一年に一度でいいから通ってきてくれて、浮舟の女君のように山里に隠し住まわされて、花や紅葉や月や雪などをぼんやりと物思いながら眺めて、とても心細い様子で、男からのすばらしい手紙などがときどき届くのを待ち受けて読むなどということこそ、したいものだと、実現するかもしれないことのように思われてきた。
高貴な夫を持ったならば子供も出来て親となり、自分もやんごとない身分になる、などと、あり得ないことを空想する内に、父がやっとの事で、職にありつき、東の遠い国の介となって赴任することになった。父は、
「毎年毎年除目のたびに何時も近くの国に赴任できればと思っていたのである。そうすれば、胸がすっとするほど、そなたを大切に取り扱つて、任国へつれて下り、海山の景色を見せ、それはそれとして、自分よりも遙かに高位の男を婿としてそなたの世話をしたいと思っていた。
自分もお前も前世の行為が良くなかったのか、現実にはこのようにとんでもない東の遠国に赴任することになってしまった。
お前が幼い頃に、東の国に連れて赴任したことでも、気分が悪かったのに、この子を遺して死んだならば、お前は路頭に迷うことだろうと思った。
地方は恐ろしいにつけても、自分が単身で赴任するならば気にすることもないのであるが、言いたいことも言わずきゅうくつそうに、家族を引きつれて、したいこともようしなくて、ということもあるが、淋しいことであろうとしんぱいしたのであるが、今はこのように大人になったのであるから、私の命もそう長くはあるまい、もしもの事があったら、お前は京のうちでおちぶれ、たよる者もなくて、さすらうのは世間普通のことであるが、私と同行すれば東の国の田舎人として迷うことになる。
これは特に悲しいことである。京の中にも温かくお前を迎えてくれる縁者は無い。そういって、やっと手に入れたこの地位を捨てることも出来ない、だからお前を京においてこれが生き別れと覚悟して、この問題を解決すべきである。京に残すとしても、おまえの身が立つように、衣食の心配を相当にして残しておくということは、とても出来そうにない」
と言って夜となく昼となく嘆かれる父を見ている私の気持ちは、花紅葉の美しさなどはすっかり忘れてしまい悲しく、本当に心配をするがどうしようもない。
七月十三日京を出発して東国に下る。出発前の五日間はお互い顔を見ると悲しくて涙が出てくるので部屋に入らず。ましで、出発の日の悲しみは大変なもので、大さわぎをして出発時間となったときに、それではと御簾を上げて顔を見合わせ涙をぼろぼろと流して、少しして家を離れていくのを見送るときには目がくらみ、とうとう臥してしまったが、京に残る召使いの男で、途中まで見送って帰ってきたのに、たたんで懐にしまっておく懐紙に、
思ふ事心にかなふ身なりせば
秋の別れを深く知らまし
とだけが書かれてあるのを、とても見ることが出来ず、悲しみが、こんなに深くなくて、普通の時は、つたない歌も、つづったが、ともかく何と言っていいのか言葉が出てこないので、そのままの気持で、
かけてこそ思はざりしかこの世にて
しばしも君に別るべしとは
とだけ詠った。
父が留守になって、いっそう訪問してくる人が見えないようになり、心細く暮らしていながら、父は今どのへんまで行っているかと毎日思っていた。昔、東国から都へ上ったときのことを思い出して、その道中の辛さを忍んで父を思い遙か遠くになっていくのが限りなく心細かった。明け方から暮れるまで東山を眺めて暮らした。
八月葉月に太秦の広隆寺に参籠するが、一條通りから参詣道に入ると男の車が二台が、並んで止めてあって、一緒に行く人を待っているようである。脇を過ぎていくと、随身の者が此方に文を持ってきて、
花見に行かれるとお見受けしましたが、
と言ってきた、が、この程度のことは、返事をしないというのも、この状況ではさほどの事では無いであろうから返事をなさいと同行の者が言うので、
ちぐさなる心ならひに秋の野の
(あなたは、ちぐさに思い乱れる心をもっている人のならわしからして、物詣でするわたくしをも、秋の野の花見に行くと見たのである)
と、返事をして行きすぎてしまった。
七日間参籠したが、ただ東に行った父のことだけを思い出していて、外に何も頭に浮かばなくて処置なしであった。
「父の任務が、どうにかこうにか無事に果たして、職責から離れ、無事に父子の対面をさせて下さい」
と祈願すれば佛も可哀想にと聞き入れてくれるであろう。
冬に入って一日中雨が降り続いた夜、雨雲を吹き払う激しい風が起こり、空が晴れて月が大変綺麗に輝いてきたので、軒近くの荻が雲払う風に吹かれて、砕けるかと思うほどであるが、その姿が哀れに思い、
秋をいかに思いづらむ冬深み
嵐にまどふおぎの枯葉は
(花の咲いた秋を、どんなに思い出すことであろう、冬が深くなってまあ、木枯らしに吹かれて乱れている「をぎ」の枯葉は)
父のことを思って詠った。東より使いが来た。
「国司が任国に下った時、国内の神社を参拝してまわる神拝と言うことをしている。水が面白い形で流れている野がはるばると続いていて、森があって味があるので見ようと思い、此処は何処であるかと問うと、「子忍びの森」
と言う答えがあり、わが身にひきくらべられて悲しくなって馬から下り、そこでややしばらく物思いにふけらずにはおられなかった。
とゞめをきてわがごと物や思ひけむ
見るに悲しき子忍びの森
(この子忍びの森も、子供をどこかに残しておいて、わたくしのごとく、物思いをしたことであろう)
というように思い浮かんだことでした」
と書いてあるのを読んで、私の心は更に悲しくなった。返事に、
子忍びを聞くにつけてもとゞめをきし
ちゝぶの山のつらきあづま路
(子忍びのことを聞くにつけても、わたくしを京に残しておいた秩父山、すなわち父がつらく思われる東国よ)
〔鏡のかげ〕
こうして、父の留守中、生活がひき立たず、何をする気もせず、たいくつで物思いに沈んでいて。どうしてこの間に神仏のお参りもしなかったのだろう。母に物詣でをしようと頼むと、母は大変古風な人で、
「初瀬参りは奈良坂で人さらいにあったらどうしよう。石山寺は関山を越えるのが大変だ。鞍馬は猿山で猿が出てきてこれも恐ろしい。父親が上京してから、なんとでもしましょう」
と、私など相手にしておれないように面倒がって、やっとのことで清水寺に連れていってお籠りをした。
それでもいつもの癖で、真実のこもったようなこと、後世を願うようなこと、祈願もしない。
彼岸の時にあたり、大変騒がしく恐ろしいように思えて、少し寝入ったところで、仏前にたれた幕の方の、低い格子の内がわに、青い織り模様の衣をきて、錦を頭にもかぶり、足にもつけた僧で、一山の長と思われるのが、わたくしのへりに寄ってきて、
「将来が不幸になることも知らず、さもたよりないことばかり思っている」
と言って、きげん悪そうにして、幕の内に入っていった。
という夢を見たが、目がさめても、こんな夢を見たと人に語ることもせず、気にもしないで寺を出た。
母はさしわたし一尺の鏡を、鏡つくりに鋳造させて、本来ならば奉納のために、母がわたくしを連れて参詣するはずであるが、それがでぎないので、ある僧を代理として、使にさし立てて初瀬に参詣させるように見えた。
「三日間おこもりをして、この人の行末がこうなるだろうという有様を、夢でお見せ下さいと祈るように」
など言って参らせたのであろう。僧が代参している間、母はわたくしに精進をさせた。この僧が帰ってきて、
「夢も見ないで退出するということが申し訳ないこと、帰ってどの様にお話しすればよいかと一心に祈って寐ましたので、御帳方からとても気高い清楚な女が、きちんと装束を付けた方が、奉った鏡を手にして、
『この鏡に願文が添えてなかったか』
と問われるので、居住まいを正して、
『願文はありませんでした。この鏡だけを奉納せよ、言われてきました』
と答えますと、
『変なことであるなあ、願文を添える物であるのに』
と言って、
『この鏡のこなたにうつっている姿を見よ、これを見ると、悲哀で悲しい』
と言って、さめざめと涙を流して、泣くのを見ると、鏡に、伏しころび泣き嘆いている姿が写っている。
『この姿を見ると、この通りに、とても悲しいよ、さてこちらを見よ』
と言って、もう一方の方に写っている姿を見せて下されたので、それを見ると、格子の内がわにたれた御簾は、新しく青やかで、几帳をはし近くに押し出してあって、御簾の下から、女房達のいろいろな衣のすそがはみ出ていて、庭には梅や桜が咲いているところに鶯が枝を伝って鳴いている光景を見せて、
『これを見るのは嬉しいこと』
と、言われるのを見ました」
僧が見た夢を語る。どの様に見えたのかとも私は聞かなかった。このように、いかにも浅はかで、とりとめもないわたくしの心にも、しだいに信仰の心ができてきて、
「常に天照御神を念じなさい」
という人があり、何処に居られる神仏であろうかとしか思わなかったが、そうはいうものの。あれほど無信仰ではあったがしだいに分別ができてきて、人に聞いてみると、
「天照御神は神様で御座います。伊勢に居られます。紀伊の国で紀伊の国造(くにのみやつこ)が、代々神職としてお祭りしている日前(ひのくま)・国懸(くにかかす)の宮もこの御神である。皇居内の温明(うんたい)殿、内侍が守護するので内侍所、賢所ともいう所に『すくう神』としていらっしゃいます」
という答えであった。
「伊勢の国まではとても行けそうもない。宮中の内侍所にもとても拝みに行くことは出来ない。空の光を拝んでおこう」
などと、とりとめもなく考えていた。
親戚に当たる女の人が出家して尼になり修学院 (すがくいん)と言うところに修行で入った。その人から冬頃に、
涙さへふりはへつつぞ思ひやる
嵐吹くらむ冬の山里
(涙まで流して、ことさら、思いやるのであるよ、はげしいあらしが、きっと吹いているだろう冬の山里を)
その返事に、
わけて問ふ心のほどの見ゆるかな
木陰をぐらき夏の茂りを
(とりわけおとずれて下さるあなたの親切のほどが、よくわかることです、木かげが暗いほどな夏の茂り、そのように複雑な心情であるわたくしを問うて下さる…)
東に赴任していた父がやっと任期を終えて京に帰ってきて、西山という所に住むことになったので、家族全員がそこに移れて嬉しいときに、月の美しく輝いている夜に夜通し話し合って、
かかる世もありける物を限りとて
君に別れし秋はいかにぞ
(こんな楽しい夜もあるのを見限って、私達と別れた秋は如何でしたか)
と言うと、父は涙を流して、
思ふこと叶はずなぞといとひこし
命のほども今ぞうれしき
(思い通りに任官が行かなかったと、嫌な気持で赴任したが、命が長らえて今は本当に嬉しい)
父孝標六十四歳、私は二十九歳になった時である。
これが別れの門出であると父がわたくしに言いきかせた時の悲しさよりは、無事に帰るのを待ち得たうれしさは言いようがないけれども、
「人の上に立ってみて、歳を取って衰えてから官職についていたのは、みっともなく見えたから、自分は官をやめた今のまま、家にとじこもってしまうつもりだよ」
とだけ、未練がなさそうに世間を思っているのが心細く感じた。
東は野原が広々と広がっているのであるが、東山の際は、比叡山から稲荷の神を祭る山まではっきりと見晴らされていた。南は二つの丘がならんでいる「ならびが岡」の松風が耳近くに聞こえ、何となく気持が淋しくなる、山や丘にかこまれた内にはつい鼻さきまで田圃があり、雀を脅す鳴子があって、田舎の感じがしてまた楽しく、その上月が明るい夜は昼の風景とまた違った感じがして遅くまで眺める。
そのような暮らしをしていると、知人達も、わたくしの住まいが遠くなったので、文もくれず、訪れても来ない。ある日、ついでのあつたのにことづけて、如何お暮らしですかと、便りをくれた人があったので、心をうたれて、
思ひ出でて人こそ訪はね山里の
まがきの荻に秋風は吹く
(人間は、わたくしのことを思い出して問うてはくれないが、しかし、この山里のまがきの「をぎ」の葉に秋風は吹く)
と返事を送った。
〔宮仕へ〕
十月神無月になって京の町に移る。母は尼になって同じ家の中ではあるが父とは別の方に離れて住んでいた。父はわたくしを家長の位置において、自分は世間に出て交際することもしないで、わたくしのかげに隠れたかのような状態でいるのを見ると、わたくしは、たよりなく、心細く思われていたところ、わたくしのことを聞いたさる宮家から「何となく日を送っているようであれば」と召されたのを、古風な父は、宮仕えは人との縁が鬱陶しいことであると思って、そのまま見すごして、私を宮仕えに出さなかったが、
「今の世の中は、そんなに、引っ込んでばかりしていてはいけない、折角のお召しであるから出仕しなさい。そうすれば自然と自分のためにも良い経験となる。まあ試してみなさい」
と何人かの人が言うので、父は渋々出仕を許してくれた。宮仕えしたのは後朱雀天皇の第三皇女祐子内親王家である。
先ず一夜出仕する。菊の御衣(みぞといって、蘇方(すおう)色のを五枚、その下に白を三枚かさね、その上に濃い紅のねりぎぬの袿を上に着た。あれほど物語ばかりに熱中して、物語を見るほかには、交際する親族もなく、古風な親の蔭に隠れ、月や花を見るほかに何もなく毎日を送る私が、宮仕えに出て行くときの心境はぼうっとして何が何だかわからず、現実のこととも思われないうちに、暁には早々に退出してしまった。
家庭にとじこもっていたわたくしの心地からすると、あたかも型にはまったような家庭生活よりは、むしろ宮仕えに出た方が、おもむきの深いことを見たり聞いたりすることもあって、心も慰みはしないかと思うおりおりはあったが、実際に宮仕えに出てみると、とてもきまりが悪く、悲しい気分に落ち込んでしまうと気がついたが、今さらどうしようもない。
師走に入ってまた出仕した。局を戴いて、何日か続けて伺候する。宮の前には、時々参上して、夜も宿直して知らない女房の中に臥して、一睡も出来ず。恥ずかしく気詰まりで、人知れず泣けてくることを繰り返し、暁にはまだ暗いうちに局におりて、一日中、
父が老い衰えて、私のような女を頼りにして向かい合って暮らしている、そんな様子が恋しく気がかりになってならない。
死んだ姉の姪達が、産まれてから私と一つ部屋で左右に臥し起きしたことも、どうしているかと思い出したりして、心もうわのそらで、物思いに沈みながら一日をすごした。
局の前で立ち聞きや、のぞき見をする人のけはいがして、とても気を遣う。
十日ばかり出仕して、退出して帰ると、父と母が炭火を囲炉裏におこして待っていてくれた。私が車から降りるのを見て、
「貴女が家にいる時には、訪問者もあって人の顔も見え、召使いもおりました。しかし、この何日間かは、家の内に人声もせず、前には人影も見えないで心細く淋しい毎日でした。こうして、貴女は宮仕えばかりして、このわたくしの身をどうしようと思うのですか」
と泣かれるのを見るのが悲しかった。翌日は、
「今日は貴女が居るので、内も外も人が多く、とても賑やかになりました」
と言いながら前に坐っておられるのが何となく気の毒で、私にどんな力があるというのかと思うほど、涙ぐましく聞える。
高徳の僧でも、さきの世のことを夢に見ることは、むずかしいようであるのに。このように、ぼんやりとした状態で、判然としない心地で、夢に見たしだいは、清水寺の本堂の前にある堂で、礼拝する所である礼堂に行くと、寺務を統轄する僧官である別当と見える人が出てきて、
「貴女は前世にこの寺の僧であった。僧であり,仏師であって、仏像を多く造られた功徳によって今までの血すじがよくなって、人間に生まれかわったのである。この御堂の東にいらっしゃる丈六の仏像はそなたが造っておいたものである。金箔・銀箔などを貼る途中で、亡くなってしまったのであるよ」
と、言われたので、
「それでは、あれに箔を貼りさしましょう」
と言うと、
「亡くなられたので、他の人が箔を貼り、その人が開眼の供養をなさった」
と、いう夢を見て後に、清水寺に懇ろに参詣したのであれば、前世に清水寺に佛を念じた力に、自然、よい境遇になったかもしれない。言ってもしょうがないことであるが、お参りすることもなくて終わってしまった。
師走の二十五日、祐子内親王家の三世の諸仏の名をとなえて罪の消えるのを祈る仏事にお召しがあったので、その夜だけと思って出仕した。
白い衣を着てその上に濃い掻練り羽織って四十余人ばかり出席していた。宮仕えの案内をしてくれた人の陰に隠れるようにして、大勢いらっしゃる中に、かすかに姿を見せているだけで暁に退出する。雪が降って、本当に凍ってしまったのかと思えるような暁の月が、柔らかく濃い色の掻練の袖に照らしているのも、古歌に
「あひにあひて物思ふころのわが袖に宿る月さへぬるる顔なる」(古今集756、伊勢)
と、あるように、月の光までが涙でぬれているようである、帰る道中で、
年は暮れ夜は明け方の月影の
袖にうつれるほどぞはかなき
(年はくれてしまい、夜はすでにあけがたになって、月光がわが袖にうつっている今のありさまは、はかなく感じられる)
こうして、宮仕えに出たもだから、そのままつづけて、宮仕えになれてしまっておけば、たとえ自分の家のことで出仕ができなくても、ひねくれ者と世間から思われることがない限り、自然、他の女房なみに、宮も私を見て下されて、それなりの使い方をしてくださったであろう。
親達もあまりそのような事は考えないで、程もなく家に引き取って婿を取らせられてしまった。宮仕えに出たからと言って、自分の身が、宮仕えに出たとたんに、きらきらとかがやくほどの勢いが、体に湧いてくるとゆうようなこともなく、わたくしのたわいもない心をもってしても、宮仕えというものが、思いの外、予想と違っていた。
幾千たび水の田芹を摘みしかは
思ひしことのつゆもかなはぬ
(幾度も幾度も水ぎわの田ぜりをつみ、誠意をつくし、苦労を重ねたが、思っていたことは一つも実現できなかった)
と独り言に詠って終わった。
その後は何となく心を外の方に向けて気持を紛らわし、物語のことは忘れてしまってこまめな気持で多くの年月を過ごし、佛への修行も寺への参詣もしなかった。結婚前の夢のような出来事でも、思ったことはこの世にはあってはならないものなのであろうか。光源氏のような人はこの世には居られるのであろうか。薫大将が宇治に囲った事もなかったことなのか。
どう考えればいいのだろうか、私はどんなにか、たわいもない心であったことかと、心のそこまで考えられて着実一方にすごそうと思ったが、それならば、それで貫くべきであるのに、そのようにおしとおすことができない。
宮仕えにまいり始めた宮家でも、わたくしが、このように、家にこもったことを、たしかな事実とも、お考えになっていらっしゃらないという風に、人々がわたくしに教えてくれ、絶えず、出仕せよとお召しになっているうちに、とくに、わたくしを召して、若いもの、姉の子、を出仕させよと仰せられるので辞退できないで、姉の子を宮仕えにさし出すのにひかされて時々出仕をするが、昔のようにあてにならないことを、あてにして、おごりたかぶった心をもつことすら、でぎそうにもなくて、それでも若い姪に引きずられて時々出仕するが、宮仕えになれた人は、格別、何事にもよくなれて動きまわるが、わたくしは、新参として取り扱われるべきでもなく、それかといつで、また古参にされなくてはならぬという理由もなく、時々出仕するお客として、相手にされないで、とりとめもなかったが、ひたすら宮仕えだけを頼みにすることでもないので、私より重んじられる人があってもうらやましくもなく、目につかない方がかえって気楽に思われるので、適当な折に参上して、暇な人を捕まえて話などをして、素晴らしい催し事も、風情があって楽しい折々も、私はこのように人中に立ちまじってあまり人目に立つようになるのも差し障りがある身なので、ただ何でもないことのように聞き流しながら過ごしているうちに、宮が参内せられるお供をして、宮中にまいった。
これは長久三年四月のことである。夜が明け空に残った有り明けの月が大変明るかったので、自分が念じている天照御神が内裏おわしますと言うことである。
このような機会に参拝してと思い、四月ばかりの月の明るいとき、忍んで行くと、博士の命婦は知りあいということもあって、案内してくれた。
燈籠の灯火がほんのりしている中に、意外に古びた社で、命婦は長年神に仕えているだけあって、さすがに、とても荘重な声で話していたがそれが、人と思われず神が現れたような気分がした。
次の夜も月が明るいので、清涼殿の北西にあって、南庭に藤がある禁中五舎の一つで藤壺と呼ばれる飛香舎の東の戸を開けて話すに相応しい人達と話しをしながら月を眺めていると、梅壺の女御と呼ばれている内大臣教通の娘、藤原生子が、藤壷の北にある梅壷から清涼殿の方へおいでになる姿が、おくゆかしく見え、今はおいでにならぬ祐子内親王の御母中宮がおられたならば、(長暦三年二十四でなくなられた)このようにして帝のお側に参内されたことであろうとみんなが話す、本当に悲しいことである。
天の戸を雲井ながらもよそに見て
昔のあとを恋ふる月かな
(天の戸を同じ雲井(宮中)におりながら、よそのことと月は見て、昔のことを恋いしのぶことよ)
冬になって月も空になく、雪も降るのではないが、星の光に空が一杯に輝いている一夜中、関白頼通に仕えている女房と話しをして明かしながら、夜が明ければ自分たちと関白の女房とが、それぞれ双方にわかれて、退出したが、関白の女房がその夜のことを思い出して、次の歌を贈ってくれた。
月もなく花も見ざりし冬の夜の
心にしみて恋しきやなぞ
自分もそのように思っていたことであったので、同じ心を詠っても面白くないので、
冴えし夜の氷は袖にまだ解けで
冬の夜ながら音をこそは泣け
(晴れ渡ったさえた昨夜のしみじみとした気持は、袖に凍り付いてそのまま消えない。あの冬の夜のままで泣き続けたい)
宿直で宮の前で臥していて聞くと、池の鳥たちは夜中声を出したり羽をばたばたさせたりして騒ぐ音が耳について目も覚めてしまい、
わがごとぞ水のうきねに明かしつつ
上毛の霜を払ひわぶなる
(ままならぬ憂き世で、思うことの多いわたくしのように、あの水鳥も水の上の浮きねで夜をあかし、上毛の霜を払うのも物憂く思っているようだ)
と、独り言で詠うと、横に臥した人が聞きつけて、
まして思へ水の仮寝のほどだにぞ
上毛の霜をはらひわびける
(あなたは水鳥に託して、水の上のかりねのほどでも、上毛の霜を払いわびたと、身の憂さをかこっておられるが、それならば、まして、あなた以上に苦しいわたくしのことを思って下さい)
仲よくしている者どうしで、局と局を隔てているやり戸を、双万からあけて、話しなどして一日を暮らした日、もう一人の仲よしが、宮のお前に侍していたので、度々使を出して局にさがっていらっしゃいというと、どうしても行かなくてはならないことがあれば、行こうといったので、枯れた薄のあったのに、次の歌をつけて送った
冬枯れの篠のをすすき袖たゆみ
招きも寄せじ風にまかせむ
(冬枯れの、篠の薄も、あなたを招くために、袖がだるくなったので、まあ、もうこれ以上、あなたを招きよせようとはすまい。これ以上は風にまかせよう)
〔春秋のさだめ〕
公卿である上達部は官は参議以上、位は三位以上。殿上人は四位五位で、清涼殿の殿上に昇殿をゆるされた人。これらの方々と用件のために対面する女房は、誰々と決まってるのであるから、私のような年功が浅くて、里人のようなものは、そのような者がいたのかと言うことを知られることは無いと思っていたのに、十月神無月朔日頃の暗い夜の日に、七日・十四日と日数を決めて、昼夜間断なく大般若経・景勝王経・法華経をよむ仏事である不断経に、声のいい人が読んでいるというので、不断経の行われている方に近い戸口にもう一人の女房と二人で立ち聞きして色々と話をして壁にもたれ掛かっていると、やってくる男子があったが、
「逃げ帰って、殿上人などに対面することになっている女房で、局に休んでいる人々を呼ぶのも見苦しいから、仕方ないからこのまま、作法に従うのも、時によりけりである。出たとこ勝負にしよう」
もう一人の友が言うので、その人の横にひかえて聞いていると、その殿上人の落ちついてもの静かな様子で話などする態度は、なかなか好もしい感じである、源資通であった。彼はおとなびて、物静かな様子で、物を言う。これという欠点がない。
「もう一人の人は」
などと問い、世間普通の男がすぐに懸想らしい方に話を向けるのを。そのようなこともなく、世間の悲しいことを取り上げて事細かに語っている資通が叮嚀で、しみじみとした話をされるので、さすがに、わたくしの心もほぐれて、あくまで頑固にだまってもいる訳にもいかなくなって、私も朋輩もお答えなどするのを、資通は、
「まだ私の知らない人がいたのですねえ」
などと珍しがって、すぐには腰を上げそうにもない様子でいるが、月はもちろん星の光さえ見えずに暗いところに、時雨が時折木の葉にかかる音が趣深いのを、その人は、
「かえって優美で風情のある夜ですね。月がくまなく明るいのも互いの姿があらわに見えて面映ゆいものでしょう」
それから春や秋の季節のことを言って、
「その時、その時につけて見れば、春は春としておもしろく、秋は秋としておもしろく、春は、春霞が何となく感性に触れて、空ものどかであるが霞、月もそう明るくなく光が遠くに有るようで、そのような時に琵琶を取り上げて風香の調べでゆっくりと弾き鳴らすのを感傷深く聞くのである。
また秋になると月は大変明るく輝き、然し空は霧が少し出て手にとるばかりで、爽やかに澄み渡り風の音、虫の声、あわれを催す情景が重なり集まって、哀切をきわめるような心地がして、箏の琴が弾かれる。
ゐやう定の音階で吹かれる横笛と、春は何でもないと思ってしまう。また、そんなことを思っていると冬の夜の空がさえ渡っているのに、雪が降り積もってきらきらと光りあっているなかに、篳篥(ひちりき) の旋律が突然飛び出して春も秋も忘れてしまう」
と話し続けて、
「どの季節がお好きですか」
と問われたので、自分と共に資通の話を聞いていた人は、秋の夜に気持ちを寄せて答えたので、同じようには言えないと、
あさ緑花もひとつに霞みつつ
おぼろに見ゆる春の夜の月
(あさ緑色の空に、花も空といっしょにかすみながら朧に見える春の夜の月よ)
と答えると、資通は何回も何回も詠って、
「貴女は秋の夜は見捨てなさったということですね、
今宵より後の命のもしもあらば
さは春の世を形見と思はむ
(今夜より命がまだあるとならば、それでは、春の夜を、あなたとあって物語をしたことの形見と思おう)」
と言うのに秋に心を寄せた人は、
人はみな春に心を寄せつめり
われのみや見む秋の夜の月
(人はみな春に心をよせられたように見える、私一人で秋の夜の月を満喫させて貰いましょう)
と詠たのが、大変面白いと資通思うが春秋どちらにして良いか困って、
「唐土などでは、昔より春秋の優劣の批評は、出来ていないようで、このように私達も分かれた気持ちを持っているのも、それぞれが理由を持っているからでしょう。
自分の心がどちらかへ傾いていることによってその時の情緒で決まるもので、自然そのまま、その時の空の景色も、月も花も、心にしみこんで思われるものであるように見える。
されば、今あなたがたが春秋の優劣を識別される根拠になったと思われる所を、とても、うけたまわりたいものである。
冬の夜の月は、昔から荒涼としたものの例として使われること多いのであるが、とても寒かったりなどして、特に賞美されることはなかったが、齋宮の裳着の裳を持って伊勢に使いしたときに、明日の暁には上京しようとして、この毎日降り積もった雪に月が輝いているのを、旅の空で見ると心細く思うのであるが、おいとまごいに斎宮の方へ参ったら、普通の所とは違って伊勢の神域の中で何となく緊張するところで、しかるべき所へ案内されて、円融院の世から仕えている人が、とても神々しく、古めかしい風体で、とても由緒深く。昔の古いことを話し出して涙を流して、よく調子を整えた琵琶をわたくしの前にさし出して、一曲所望せられた。
私は現実の世界とは思えないで、夜が明けるのが惜しいような気がして、これから京に帰るのも忘れてしまうほどのことを経験してから、冬の夜の雪が降るときは、身にしみて感じ火桶などを抱き持って縁に出て必ず雪景色を見ています。
貴女達もきっとそう思うことでしょう。今宵からは暗い闇の夜に時雨がした時は、今夜のことが思い出されて、また心にしみじみと感じることでしょうよ。齋宮の雪の夜に匹敵する気がいたしております」
など言って分かれた後は、自分が誰であるか分からないだろうと思っていたところ、翌年(長久四年)の八月に、祐子内親王が宮中に参内された。
そのお伴に、自分もまいったところ、夜どおし、殿上で、音楽会があって、この人(資通)も人数の中に加わって出仕していたことも知らないで、その夜は局で夜をあかし、局のある細殿のやり戸をおしあけて外を見ると、有明けの月がかすかに浮かんで美しいのを見ていると、くつの音がして、殿上人たちが女房の局の方へ来るようであり、その内に経文を唱えている人もあった。
経文を唱えている人は、わたくしの局の入り口のやり戸の前に立ちどまって、言葉を掛けてくるので、わたくしが答えたら、その人(資通)は、とっさに時雨の夜のことを思い出して、
「あの時雨の夜のことは片時も忘れることなく、懐かしく思っていました」
と言うので、長話はどうかと思って、
何さまで思ひ出でけむなほざりの
木の葉にかけし時雨ばかりを
(何をどうして、そうまで思い出したのであろう、あの夜のことは、ほんのかりそめに、木の葉にはらはらと、しぐれがふりかかった程度であるのに)
と詠んだが、それも言い終わらないうちに、外に人々がまた来合わせたので、そのまま局の奥に引き下がって、その夜の内に退出してしまったので、あの人が、時雨の夜にいっしょにいた同輩を訪ねて返歌をことづけたなどということも、後になって聞いた。
「あの時雨の夜のようなことがあったときは、どうかして、琵琶の音を、力のかぎり、弾いて聞かせよう」
と、言われたと、ことづけを聞いて何となく心が引かれて、自分も機会を待ったが、全くなかった。
春頃のどやかな夕方に、資通が参内したということを聞いて、その夜、時雨をいっしょに聞いた人と、局の戸口の方へいざり出ようとしたが、外には人々が大勢まいっており、局の内にも、いつものように、同室の人々がいたので、戸口の方へ出かけて、また奥へ入った。
資通も、おりがわるいと思ったであろう。わざわざもの静かに落ち着いた夕暮を見計らって参上したということだったのに、騒がしかったので退出したようだ。
加島見て鳴門の浦に漕がれ出づる
心は得きや磯のあまびと
(人の見ないまを見はからつて鳴戸の浦に、自然に舟を漕いで出た、心持はわかって下さったか、磯のあま人よ)
と詠んで送っただけで、二人の仲は終ってしまった。
資通の人柄もきまじめで、世間の人のように好色な心をもたない人なので、「誰それは」などと、細かいせんさくもしないで終わってしまった。
今は、昔つまらない考えをしたものだと後悔して身に沁みてわかり、親が参詣に連れていってくれなかったことも、非難したい気持ちで思い出されるので、今はひとえに、次のことを考える。
豊かな勢いになることを、すなわち夫の任官を望むこと、幼児の仲俊を、思うぞんぶん大事に育てあげて、自分も因幡の国のみくらの山に積みあまるほど、十二分に後の世のことまで考えて励む、と、霜月の二十日余日に石山寺に参詣する。
雪が降り続いて道がはっきり分からないなかを、相坂の関を見ると、昔この関を遠った時も冬であったと思い出して、あの時もえらい雪であった。
相坂の関のせき風吹く声は
むかし聞きしに変らざりけり
(逢坂の関を吹く風が、ふきつける音は昔きいたのに変らないよ)
関寺が立派に造られたのを見て。上京した際に横を通ったときにご本尊の佛の荒削りの顔だけが見えていたのを思い出し、年月が過ぎたことが淋しく心に染みた。
打出浜を見たが昔と変わりなかった。日暮れ近くに寺に到着して湯殿で身を清めて御堂に上ると、人声もなく山風が恐ろしく吹き付けて、お祈りをして御堂に臥したときに見た夢に、比叡山の根木中堂から御香を戴いた。早くあちらに知らせなさいという人の声があり、目がさめたら夢だと思うのであるが、良いことがあるのではと思い、勧業をしっかりとする。
次の日も雪が吹き荒れて宮家で親しくお付き合いしている人で、今回もいっしょに参詣した方と話しをして気を紛らした。三日参詣して退出した。
〔初瀬〕
その翌年の永承元年の十月神無月二十五日、大甞会の御禊、「大嘗会」とは天皇即位後、新穀を天照大神をはじめ天地の神々に奉っる祭、一世一度の盛儀で、毎年のを
新嘗祭という。
「御禊」とは、大甞会に先立ち、天皇が河水で御身を清められる儀式で、その美々しい行幸を見物するために、世間が大さわぎをする。初瀬にまいるため、あらかじめの精進を始めて、御禊のその日に都を出ることにした所、わたくしに意見しそうな人が、
「天皇一代に一度の見ものであって、田舎辺りの人さえ見物に来るというのに、物詣に行ける日はいくらもある、それをその日に限って京を振り捨てて出て行こうというのは、狂気の沙汰で、後々までの語りぐさにもなってしまうというものだ」
など私の兄妹は腹立てて言うが、乳児の父親、橘俊通は、どうとも、こうとも、そなたの心しだいにしたらよいと言って、わたくしのいう通りに、出発させてくれた心ねは、しみじみと、うれしかった。私に従って行く供の者も御禊を見物したいと思っている者は、気の毒であるが、
「禊ぎなどを見物してどうなるものか、このような時にお参りしようという志をいくらなんでも、仏はお考え下さるであろう、そして、必ずおかげをいただくであろう」
と思い、その当日の暁に出発すると、道もあろうに、御禊の行列の通る二条の大通りをわたくしたちは通づたが、先頭の者に、仏にたてまつるお灯明をもたせ、伴の人々は白の狩衣姿の浄衣であった。
見物に来た多くの人々が、桟敷に良い席を取ろうと、右往左往していたが、私の一行とすれ違う人や車は、あれらは何だ、あれらは何だ、と訳が分からないのであざけり笑いする者もいた。
藤原隆家の子で良頼兵衛督という人の家の前を通ると、桟敷に行こうとするのか、門扉を大きく開けて、家の下僕達が立っていたが、
「あれらは物詣での一行であろう、このような目出度い日によくもまあ」
と言って笑う中に、信心の心のある人であろうか、
「一時の賑わいを見てどうしよう。とても堅い決心で思い立って、佛のお慈悲を必ず受ける人達であろう。つまらない物見などしないで、このように思い立つことである」
と、真面目に言う物が一人いた。
夜が明けてしまって、道を通る時、じろじろと見られられないようにと思って、明け方まだ夜が暗い内に早く出発したので、遅れた人を待とう、ひどいこの霧も晴れることであろう、と九条河原の法性寺の大門に立ち止まったところ、田舎から見物に京に入る人達が水の流れるように続くのを見る。
総ての道も車がさけきれないような中に、何のことか分かりもしないような童までが、我々の車を避けって通り過ぎて振り返り、人波と逆に行く我々を驚きあきれて見ているばかりである。
この様子を見ていると、なるほど、どうして出てきた旅であろうかと、少しは後悔されたが、一心に佛を念じて、宇治の渡し場に行き着いた。
この渡し場も向こう岸から此方京の方へ渡ろうとする者が混み合って、船頭達が、舟を待つ人が数え切れないほどいるのに思い上がったふうで、袖をまくりあげて、棹を顔にあててもたれかかって、すぐには舟も寄せず、とぼけて舟歌などを歌いながら見回し、ひどく澄ましかえった様子である。
いつまでも渡れないので、その渡りをじっくりと眺めてみると、源氏物語に、桐壺帝の八宮である宇治の宮の娘、大君・中君、浮舟などのことが書いてあるが、どういう周囲の環境でわざわざそこに住ませたのだろうと、かねがね興味をもっていた所であるので、なるほどそれなりの趣ある所だな、と思ったりして、やっとのことで向こう岸に渡って関白頼通の所有地「宇治殿」に入ってみると、浮舟の女君はこのようなところに居られたのかなあと先ず思った。
朝暗い内に出発したので、人々はつかれて、「やひろうち」という所で休憩して食事を取るが、供の者達が、
「山賊の出ることで有名の栗駒山ではないか、日も暮れてきた、みなさん、弓矢を手に取っておいでになれよ」
と、言うのを聞いて、恐ろしくなった。
その山、栗駒山を無事に越えて、贄野の池の畔に到着した頃は、日は山の端にかかっていた。宿を探そうと人々は手わけをして宿をさがしたが、今居る場所が中途はんぱで、とても、きたならしい、身分の低い者の小家があると、言うのを仕方があるまいと、そこに宿泊した。
家の者はみんな京に行ったと言うことで、怪しげな男が二人留守居していた。この夜はなかなか眠れず、此の二人の男が出たり入ったりするのを、奥にいる女達が、
「どうしてそんなにうろうろとされるのか」
と聞くと、男は、
「いやなに、気心も知れない人をお泊め申して、大事な釜でも盗まれたらどうしようと思って、寝られずに見回って歩くのですよ」
と、みんなが寐たと思って言う。聞いていると、気味が悪くまた可笑しかった。
翌日早くそこを出発して、東大寺によって参拝する。南へ石上の神も、本当に古い時を思いださせるほどに、ふるびて荒れていた。
その夜は山辺と言うところの寺に宿泊する。少し疲れていたが経を少し読んで休むと、夢に、とて貴く美しい女の居るところに、自分が参上したら、そこはひどく風が吹いている。その女の人は私を見つけて、笑いながら、
「何しにお出でになったのですか」
と問われるので、
「どうしても参上したかったのです」
と答えると、
「そなたは宮中に宮仕えしようと思っている。そのためには博士の命婦によく頼むがよかろう」
と、言われたことを思い、嬉しく心強くて益々念じて、初瀬河などを過ぎて、その夜に初瀬の御寺に到着した。
身を清めてからお堂に上った。
三日間参籠して、明日の早朝に退出することにして、少しの間まどろんだ夜に、御堂のほうから、
「さあ、これは稲荷から下さる霊験あらたかな杉ですよ」
と言って、物を投げようとするので、はっとして気づくと、夢なのであった。
明け方暗い内に出発して、何処も泊まるところが無く、奈良坂の京よりの宿に泊まった。これも訳ありの小さな宿であった。供の者達がお互いに、
「ここは、怪しい宿のような気がする。決してねむってはいけない。 思いのほかのことがあっても決して怯えて騒がないように。息を殺して横になっていましょう」
と言うのを聞くと、やりきれないほど恐ろしくて、千年もかかって夜を明かした気がした。かろうじて夜が明けると、
「この家は盗人の家である、主の女はただならぬ事をしておったよ」
供の者が言う。
風の強い日に宇治の渡りを渡ると、竹や木を組み、瀬にしかけて氷魚をとる網代に、とても近く舟を漕ぎよせた。
音にのみ聞きわたりこし宇治河の
網代の浪も今日ぞかぞふる
(今までは、うわさにだけ聞いてきた宇治川の網代にただよう波を、きょうは、その数をかぞえるほど近く目撃したよ)
二三年、四五年とへだたっていることを、年月の記載もなく、つづけて書いたので、おのずから、ずっと物詣でばかりつづけている修行者らしくなったが、そうではなくて、ただ年月が経ただけのことである。
春頃に鞍馬に籠もった。山際が霞んで見え、長閑であるが、山の方からやまいもの一種の野老 なんかを掘り出して持ってくるのが珍しい。おこもりをすまして帰る道は花が皆散ってしまっていて何も見るものがなかったが、十月頃にまた参詣すると、道中は山の景色がころっと変わっていて春に優るようなものであった。山の端は紅葉で錦を広げたような感じがした。わき立って流れてゆく水は、水晶を散らすように、水がわき出るなど、どれもこれも見応えがあった。寺に到着して、僧の住んでいる堂に行きついたおり、よくしぐれにそめられた紅葉が、くらべものがないというほど美しく見えた。
奥山の紅葉の錦ほかよりも
いかにしぐれて深く染めけむ
と私には見えた。
二年ばかりしてまた石山寺に籠もると、夜通し雨が降り続けた。旅に出ては、雨はとても気のふさがるものと聞き知りつつ、しとみ格子をあげて外を見ると、夜明けになお空に残る有明の月の光が輝いて谷底まで澄み切って照らし、雨の音と聞こえたのは木の根本から水が流れ落ちる音であった。
谷川の流れは雨と聞こゆれど
ほかより異なる有明の月
(谷川の流れは雨のごとく聞えるが、雨ではなく、空はよく晴れていて、ほかよりも一段とまさる有明の月)
また初瀬寺に参ると、初めに参詣した時よりも、このたびは夫橘俊通が同行したので格段と楽な旅で、何となく安心である。道中、あちこちで、饗応などしてくれるので、さっさと行くことがでぎない。山城の国に入ると、「ははその森」の紅葉がとても面白く綺麗である。初瀬川を渡るに、
初瀬川たちかへりつつ訪ぬれば
杉のしるしもこのたびや見む
(初瀬川の波がたちかえるように、わたくしは再びお参りをしたのであるから、しるしの杉のおかげも、このたびはきっと、戴けるでしょうという気持ちがして、とても頼もしかった)
と言う風に思うのも大変心強い。
三日参籠して退出すれば、例の奈良坂の小さな宿に今回は、人数が多いので泊まることが出来ないと、野原に臨時の宿泊所を造る。私は仮の庵の中で休むが、供の者はただ野に腰をおろして夜を明かした。草の上に毛皮で作った、馬に乗るとき、腰につげて両脚の前をおおう「むかばき」などを広げて敷き、その上に筵をひいて仮寝をした。一同共に頭から露を浴びていた。暁がたの月が、とてもきれいに澄みわたって、たぐいない美しさである
ゆくゑなき旅の空にもおくれぬは
宮こにて見し有明の月
(どこというあてのない旅の空でも、おくれずに、いっしょについてくるのは、都で見たなじみのある有明の月である)
何事も思うように出来るようになったのにまかせて、このように都を遠く離れた物詣でをしても、道中を、面白いとも苦しいとも経験して、自然に心がはれやかになり、心配なことはあるにはあるが、でも安心していてよいようであり、ただ子供達を一日も早く、思い通りに育てあげてみようと思うが、年月が過ぎていくのに、思うようにはいかない、せめて頼みとする夫が、人なみの官位についてくれたらばと、そればかり思いつづける心もちは、はりあいがあった。
昔、とても仲よくして、夜昼歌などよみかわした人で、その後月日が立つても、昔のようにはいかないが、しかし絶えず文通などしていた人が、越前守の嫁となって、任地に行ってしまって、すっかり消息が絶えたのに、やっとのことで、よいついでを見つけて、こちらから、
絶えざりし思ひも今は絶えにけり
越のわたりの雪の深さに
(あれほど長く絶えなかった友情も、今はすっかり絶えてしまったよ、こし路のあたりの雪が深いために)
と贈った返事が、
白山の雪の下なるさざれ石の
中の思ひは消えむものかは
(越しの名山である白山の雪の下の小石の中の「思ひ」(火)は、どのようにささやかでも雪のために消えるだろうか、いえ、いえ)
三月弥生の朔日頃に、西山の奥の方へ行ってみた。人もいなくてゆったりと霞がかかって、なんとなく物寂しく、花だけが咲き乱れていた。
里遠みあまり奥なる山路には
花見にとても人来ざりけり
(里が遠いので、まあ、あまり奥の方の山路には、花見にといっても人は来ないよ)
夫婦仲がごたごたして、気がむしゃくしゃしているころ、太秦の寺に籠もった時、宮の御所で親しくしていただいた方から手紙があって、その返事を書いているときに、鐘の音が聞こえてきたので、
繁かりしうき世のことも忘られず
いりあひの鐘の心ぼそさに
(わたくしは、うき世をのがれて太秦に籠もったのであるがあの、ごたごたとして、うるさかった浮き世のことが、やはり忘れられない、入相の鐘がものさびしくきこえて)
と、返事をした。
日ざしがやわらかで、のどかな宮の御殿で、気の合う三人で喋り合って退出した翌日、退屈していたので友達が恋しくなって、二人に、
袖ぬるる荒磯浪と知りながら
ともにかづきをせしぞ恋しき
(水をくぐれば袖がぬれる(宮仕えをすれば苦労が多い)荒海の磯波とは知りながら、ともに水をくぐった昔がこいしい)
と、言うってやると、
荒磯はあされど何のかひなくて
潮に濡るる海人の袖かな
(荒海の磯は、えものをさがし求めても、何のかい(貝)もなくて、ただ、海の潮に海人(あま)の袖がぬれることよ(宮仕えをしても、何のかいもなく、ただ涙で袖がぬれることよ)
もう一人は、
見るめ生ふる浦にあらずは荒磯の
浪間かぞふる海人もあらじを
(「みるめ」(あなたの顔をみる)のはえている浦でないならば、荒磯の波間をはかつて、水をくぐる海人もあるまいのに(あなたに会えるのを楽しみに、苦しい宮仕えをつづけている)。
同じ気持ちでこのように語りあった。宮仕えの辛いこと楽しいことを、お互いに言い合っていた人も、筑前に下った後、月が綺麗で明るい日に、昔、このように月のあかい夜は、わたくしも、その人も宮家にまいって、少しも眠らずに、物思いにふけりながら、夜をあかしたのに、今はその人がいないので、恋いしく思いながら、寝いってしまった。
宮に参内して彼女と会って、昔と同じように語りあい、彼女は筑前に行ったのにと驚いて目を覚まし、夢であった。月も山の端に沈みかけていた。夢が覚めなければと思いながら、そのまま眺めていて、
夢さめて寝覚の床の浮くばかり
恋ひきと告げよ西へゆく月
(あなたに、お目にかかっている夢がさめてわびしいねざめの床が涙の川で浮くほど、あなたを恋い慕ったと、告げてくれ、西の方へ行く月よ)
ある用件で秋の頃和泉の国に下るときに、淀と言うところから道が細く侘びしくなって言葉に言い尽くせない。高浜という所で一泊したとき。夜遅くに舟を漕ぐ音を聞く。
聞いてみると遊女が来るという。人々は興奮して遊女の舟を私たちの舟べりによせつけさせた。遠くの明かりに単衣の袖を長く翻し、扇をさしかざして、顔をかくして歌う姿は哀れであった。
次の日、山の端に日が沈む頃に、住吉の濱を過ぎる。空も海も境がなく一つになったように霧がかかって、松の梢も、海の面も、浪が寄せてくる渚のあたりの景色も、絵に描いてもとても及ぶはずもないと思われるほど素晴らしい。
いかに言ひ何にたとへて語らまし
秋のゆふべの住吉の浦
、
と、見ながら舟が綱で海岸を曳かれて行く間、振り返りばかりして、いくら見ても見飽きなかった。冬になって京に上るときに、大津という浦で舟に乗船すると、その夜に雨風がひどく岩も動くばかりである、雷も鳴り響く中、海が打ち寄せる音や風が吹きすさぶ様子の恐ろしいことは、これで命もおしまいかと途方にくれる思いがする。
陸上に舟を引き上げて夜を明かす。雨は止んだが風が納まらないので舟は出すことが出来なかった。さきのあてもない。はかない海岸で五、六日と過ごす。
やっと風がいくらか納まって、舟の簾を巻き上げて見渡してみると、夕潮がむちゃくちゃに満ちてくるさまはどうしようもなくて、入り江の鶴が、力いっばい声をはりあげて鳴くのも面白い。国府の人々が来て、
「あの夜、この浦を舟出されて、石津に着こうと考えられたならば、そのまま、この御舟はあとかたもないことになっていたであろう」
という。心が寒くなった。
荒るる海に風よりさきに舟出して
石津の浪と消えなましかば
(荒れる海に、それとは知らずに、風より先に舟出して、石津の波とともに消えておったのであったとしたら、どうであろうか)
〔夫の死〕
このうぎ世の中に、あれやこれやと、精根をつかいはたすばかりであるが、宮仕えと言っても、もともと、ひとすじにつづげたいと思ったのであるが、時々参内するのはなんと言うこともなかった。
歳はしだいにさかりを過ぎ、若々しいようにはしているが、不似合に感じられるようになっているうちに、体が病に冒されて気軽に話し合いなどをするようなこともなくなって、たまさか出掛けることも止めてしまい、そんなに長くは生きられまいと、子供達をなんとしてもわたくしの生きている間に、ちゃんと世話をしておくこどができればよいと、臥し起きしては思い嘆き、頼りにする夫の任官のときを、待ち遠しく思い願っている。、
秋になって、やっと待ち得て任官し、信濃の守になったわけであるが、希望通りによい国ではなかったので、悔しかった。父親が赴任した東国よりは近くではあるが、どうしようもないというわけで、まもなく赴任に必要なことを準備してまま子の娘が結婚して、あらたに移ったところへ八月十日過ぎに門出をした。後のことは知らない、その当日はうるさいほど人が多くきて、威勢がよかった。
二十七日に信濃に向かった。男の子の仲俊は父に従ってついていった。仲俊は、紅で打ってつやを出した衣の上に、萩がさね(表が薄紫、裏が青)の狩衣を者て、下にしおん色(うすむらさき)の、織って模様を出した、指貫というくくり袴をはき、太刀を腰にはき、父のうしろに立って歩み出たが、夫も、織り模様の、青にぴ色(濃い青)の指貫をはき、狩衣を着て廊下の端から馬に乗る。あたりいっぱい、おおさわぎをして信濃に下った後は本当に退屈であったが、信濃はそんなに遠いところではないと聞いて、以前に父が下ったときのように心細くなどは思わないでいたところ、見送りに行った人々が、翌日帰って来て、たいそうご立派な様子でお下りでした、などと言って、この明け方に、ひどく大きな人魂が現れて、京の方角へ飛んでいきましたと、語ったけれども、それは誰か供の者の人魂だろうと思う。
そのときに縁起のわるい夫の死の方の予兆としては思ってさえもみなかった。今はどうしてこの子供達を成人させようかと思う外はない、康平元年の四月、夫は信濃からのぱってきて夏秋と過ぎた。
九月二十五日から病の床について、十月五日、夫があっけなく死んだのが夢のように思われて、悲しく、なさけなく思うこの気持は、世の中に比較するものがない。
初瀬に鏡を奉納したときに、倒れ伏して泣いて嘆いていた姿が鏡に映ったのは、夫との別れのことだったのだ。その一方の嬉しげであったという姿は、今までにもなかった。ましてやこの先にはありそうにも無い。
廿三日、儚く火葬にした夜、去年の秋は、仲俊がとても立派にかざり立てられ、伴の者から丁重にされて、父親に連れられて下ったのを、母親らしい満足の心で見やったのに、今はとても黒い喪服の上に、葬式の時に、近親の者が着て、葬式がすめば、その場でぬぎすてる不吉なものを着て、父のなきがらを乗せた車の後を泣きながら供をしていく姿を見たのを思いだして、総てのことが譬えようもなく、そのまま自分も正気を失って、夢うつつの間をさまよう気持で、いろいろ思ったが、このみじめなわたくしを、あの人も空から見たことであろうよ。
昔から、つまらない物語や歌のことばかりに心を染めることをしないで、夜昼、佛に祈る勧業をしていたなら、このような、夢のごとくはかないことを、見ないですんだであろう。
初瀬参詣をした初めの時に、稲荷から投げられた杉を持って、初瀬から帰ったらすぐ稲荷に詣でていれば、こんな不幸にはならなかったかもしれない。長年天照御神を拝みなさいという夢は、高貴な人の乳母となって宮中に仕え、帝の后の御庇護にかくれるようになることばかり、夢の意味を解釈して、吉凶を判断する人も、夢判断をしたけれど、その言葉の一つも成就しなくて終わってしまった。
鏡に現れた悲しい影だけが間違いなかったことが心にのしかかったままである。こんなに物事が心にかなうこともなくて、一生を終ったわたくしであるから、ろくに功徳もつくっておらずというわけで、救いのあてもなく、うかうかと暮らしている。
〔後の頼み〕
こんな不運なわたくしであるが、さすがに命は平気なもので、生きながらえるようであるが、死んだ後の世のことも,思うままに極楽往生ができないであろうと、気がかりであるが、頼みに思うことが一つあった。
天喜三年十月十三日の夜見た夢に、わたくしの坐っている所の軒さきの庭に阿弥陀仏が立っておられた。はっきりとは見えないが、霧が少しかかった状態で、透かして見えるのを、強いて霧の絶え間に拝見すると、蓮華の座が地面から三・四尺の高さにあり、御仏の丈は六尺ほどで、金色に光り輝き、手を片方はひろげたようになさり、もう片方は、手の位置や指の曲げ方で悟りや誓願を象徴する、印を作りになっているが、ほかの人の目では見つけることができない。
自分一人が見えているが、有難いことだとは思うものの、何とも恐ろしいような感じがするので、簾の近くに進んで拝み申し上げることができない、と、御仏が、
「それならば、このたびは帰って、のちにまた迎えに来よう」
と、おっしゃる声が、私一人の耳にだけ聞こえて、他人には聞くことができない、と夢に見て、はっと目覚めると、翌日十四日であった。この夢ばかりは、死後の頼み、極楽に迎えられるという頼みとした。
甥ども、もとは一つ所に住んで、朝タ、顔をあわせていたのに、悲しい夫の死があってから後は、離ればなれになり、誰も顔を見せることが、めったになかったのに、とても暗い夜、年長順にかぞえて六番目にあたる甥が来てくれたので、珍しく感じて、
月も出でで闇にくれたる姨捨に
なにとて今宵たづね来つらむ
(月も出ないで、まっくらな夜に姥捨て山のような私の所に、どういうわけで、今宵尋ねて来てくれたのであろう)
というよう言った
親密に交際していた人が、夫が死んでから後、たよりがないので、
今は世にあらじ物とや思ふらむ
あはれ泣く泣くなほこそは経れ
(今はもうわたくしが生きていないだろうと思っているでしょうが、ああ、わたしは泣く泣く、まだ世をすごしている)
十月の頃に、月が明るい夜に、涙を流して眺めて、
ひまもなき涙にくもる心にも
明かしと見ゆる月の影かな
(涙の出ないときがないほど、くらい気持になっているわたくしの心に。とっても、あかるいと見える月の光であるかな)
年月は過ぎていくが、夢のようである過去を思い出すと、気持が乱れて、目がくらくらするので、その時のことはいまだに思い出すことを止めている。家族の人々はみな他所に離ればなれに住んで、住み古した所に私一人いて、ひどく心細く悲しくて、物思いにふけりながら夜をあかしかねて、長いこと便りのない人に、
茂りゆく蓬が露にそぼちつつ
人に訪はれぬ音をのみぞ泣く
(茂って行く蓬の露にぬれながら、たれからも問われぬ悲しみで、声を立てて、よよと泣くばかりである)
贈ったのは尼になった人である。返歌は、
世のつねの宿の蓬を思ひやれ
そむきはてたる庭の草むら
(世の常の宿の蓬におく露の程度と思いなさい。わたくしの場合を思ってください、うぎ世をそむいて出家してしまったわたくしの庵の庭の草むらの、おびただしい露を)
常陸の守菅原の孝標(たかすえ)
のむすめの日記也、母倫寧朝臣女。
傅のとのの母上のめひ也
よはのねざめ、みつのはま松、
みづからくゆる、あさくらなどは
この日記の人のつくられたる
とぞ。
「傳」は春宮傳で春宮のもりやく。道綱は寛弘四年春宮傳になり、傳大納言と号せられた。
夜半の寝覚。五巻残っている。別に改作縮小本五巻もある
三津の浜松。浜松中納言物語という。五巻残っている。首巻を欠いている。みづからくゆる、あさくら、
これらは現存しない
更級日記終わり
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