雨がやんだら(8)
二十八
昨晩見たニュースでは、気象庁が関東地方の梅雨入りを宣言した、と報じていた。
しかし、一夜明けてみれば、皮肉なことに東京には梅雨晴れが訪れていた。久しぶりに拝んだ青い空はやけに鮮やかに映り、降り注ぐ陽射しは目に痛いようにも感じられた。こんな陽気の日に、空一面にV8エンジンの轟音を響かせて街中を駆け抜けでもすれば、あのフォード・ファルコンを〝忌々しい〟車――などとは、呼んでいなかっただろう。ただ、残念なことに、今日の目的地は事務所と目と鼻の先にある飯田橋だった。あの車は〝忌々しい〟のではなく、単に私と相性が悪いだけなのかもしれない。
飯田橋駅を降りて、神楽坂下交差点にたどり着いたとき、ポケットに入れた携帯電話が震えた。
「おゥ、調子はどうだ?」
電話口から聞こえる尾藤の口調は、相変わらず脳天気だったのだが、不思議と腹が立たなかった。何日かぶりに陽射しを浴びたせいなのだと思うことにした。
「まァ、なんとかやってるよ……で、なんの用だ」
「なァんなの……その口の利き方は? きみの役に立ちそうな情報があるっていうのに」
「だったら、なんだ? その情報ってのは」
「かわいくないなァ……」
「あのなァ、俺はこれから人と会う約束があるんだ」
「人と会う約束ねェ……」と尾藤は呟いてから、なにかを言いたげな思わせぶりな間を作った後、「まァいいか」と言って、本題を切り出した。「あのさ、この間、思い出せなかった桜樹よう子の浮気相手なんだけどね――」
「テトラコルドってバンドの宮崎健太郎だ」尾藤の言葉にかぶせるように言った。「それで、その宮崎は、今じゃァ、筋肉オバケの陶芸家になって、埼玉の朝霞に住んでる」
「あれェ、知ってたの?」
「ああ。しかも……宮崎は今回の件とは、まったく関係がない」
「あらァ……やるねェ。だけど、もうひとつの方は、まだ知らないと思うんだよねェ」
「何度も言わせるな。俺はこれから約束があるんだ……切るぞ」もったいぶる尾藤に私は言った。花田博之の捜索に関する情報については、確かに贅沢を言っていられる状況ではない。どんな情報であろうが、喉から手が出るほど欲しいのは事実だったが、今はこの男とくだらないおしゃべりをしている暇はなかった。
「……すまん、すまん」受話器越しに私の気持ちを感じ取ったのか、尾藤は口調を殊勝なものに変えた。「桜樹よう子が事務所の社長の愛人だったって噂があったろ。その社長のことなんだが――」
「〈オカベ・プロダクション〉の岡辺元信だろ」私はもう一度、尾藤の言葉にかぶせた。
今度は受話器の向こうから「えっ」という声が漏れ聞こえ、尾藤が口を閉ざした。
「俺が会いに行くのは……」尾藤の口が再び開いてしまわないうちに、たたみ込んだ「その岡辺元信だ」
「――そうなの? そこまで調べたの?」
「ああ」
「なんだ……きみは、僕が思ってる以上に優秀なんだねェ」尾藤が珍しく私への賛辞を口にした。
「どうも、ありがとう」褒め言葉は、額面どおりに受け取ることにする。「切るぞ」
「あァ、ちょっと待った!」尾藤が受話器の向こうで声を上げた。
「なんだ……まだ、なにかあるのか?」
「あの……貸してある車な、もう少し使っていいぞ。なんでもな、ウチのスタッフが言うには、誰かのブログに〝千葉のドライブインで希少車、発見!〟ってタイトルで、あの車の画像が載ってたそうなんだよ。それで、そのブログを見たってヤツから、何件か問い合わせがあったらしい。似たような車、置いてないかって」
〝千葉のドライブインで希少車、発見!〟――〈花勝水産〉を訪れる際に立ち寄ったあのドライブインのことだ。あのとき出会った車好きのサーファーは、確かユージと言ったはずだ。私に頭を下げてまでして撮影していたフォード・ファルコンの写真は、ブログ載せるためだったのだ。
尾藤は、声を弾ませて続けた。「あの下山文明さんとも繋がりができそうだしさ……今回の件に関しては、きみの僕に対する貢献度は、素晴らしいものがあるね。よって、車はしばらくの間、思う存分使って構わない」
「じゃァ、そうさせてもらう」
「うん。それじゃァ、今日も、お仕事を頑張ってくれたまえ」
尾藤がようやく電話を切った。携帯電話をしまって正面を見れば、信号が赤に変わっていた。目の前の外堀通りを、赤信号で堰き止められていた車が一斉に流れ始める。この車の流れの中を、反対側まで渡っていく自信はなかった。私はため息混じりに、大きく息を吐いた。
目の前を走りすぎる車の列を眺めながら、信号が変わるまでの間、昨日かかってきた電話のことを思い出していた。
昨日、事務所に戻った私が、真っ先にしたのはパーコレータでコーヒーを淹れることだった。
淹れたてのコーヒーから立ち上る香りが、無駄足に終わってしまった朝霞行きと、そこで犯してしまった我が愚行を慰めてくれた。デスクで煙草を一本喫い、コーヒーを半分ほどすすることで、埋み火のようにわずかに残っていた仕事への意欲が熾きてきた。早速、パソコンを起動して花田洋子について所在を知っているであろう、もうひとりの人物――岡辺元信についての下調べを始めた。
岡辺元信が経営する〈オカベ・プロダクション〉は、中堅の芸能事務所で、ホームページには現在所属しているタレントとして、十人ほどが掲載されていた。見覚えのある顔はなかった。まあ、私がこの業界に疎いこともあるのだろうが。
彼ら所属タレントの顔を眺めながら、社長である岡辺と、どうやって接触を図るかの算段を練った。
――堂々と名乗って、正面から切り出すか
――今度も、バクさんの名刺を活用させてもらうか
疲れているのか、どちらのマークシートを塗りつぶすのか迷っている受験生さながら、私の考えはすぐにまとまりそうもなかった。いっそのこと鉛筆を倒して決めようかと思い立ったが、朝霞での調査が空振りに終わってしまったのも、この手を使ったせいだったことに気づいた。失敗から学ばねば、この先の進歩は望めない。
さて、新しい決定法を見出さねば。私は窓辺に立って、新しい煙草に火をつけた。
――下の路地を次に通るのが男なら〝堂々と名乗る〟、女なら〝バクさんの名刺〟というのは、どうだろう
すぐに浮かんできたアイデアは今日が日曜日であることを思い出して、煙とともに宙に吐き捨てた。この路地は平日でさえ人通りが少ないのだ。休日ならなおのことで、無駄な時間を過ごすことになるのがオチだった。
電話が鳴ったのは、陳腐な発想しかできない灰色の脳細胞を活性化すべく、コーヒーをもう一口飲んだときのことだった。
電話の主は〝教授〟だった。
「今朝、お伺いしたんだけど、お留守のようでしたから……」
受話器の向こうは賑やかで、〝教授〟が今いる場所は、アルバイト先である〈荒神書房〉ではないようだ。
まずは不在を謝罪した。「申し訳ないです。少し出かけてたもので……」
「いやァ、そうでしたか。忙しいのは結構なことです。それで、ちょっとあなたに――」
〝教授〟の声は雑踏にかき消されてしまって、最後の方がよく聞き取れなかった。
「すいません。よく聞き取れなかったんですが……」
私の問いかけに〝教授〟からの回答はなく、受話器からは周囲の雑踏――日本語ではなかった――が聞こえてくるばかりだった。
やがて雑踏は遠ざかり、〝教授〟の声が受話器から響いてきた。「――ごめんなさい。中国人の観光客と鉢合わせしてしまいました。もう大丈夫です」
「中国人? 〝教授〟、どこにいるんです?」
「新宿です。これから〈末廣亭〉に落語を聞きにいくところです」
〝教授〟は『芝浜』やら『景清』をロシア語にでも翻訳する気なのだろうか。そして、ロシア人は落とし噺を楽しむのだろうか――浮かんできた素朴な疑問を解決するのは、次の機会に譲ることにする
私は訊いた。「それで、どういったご用件なんです?」
〝教授〟がようやく本題を切り出した。「ああ、そうそう。この間いらしゃったときのことなんですけどね。あなた……桜樹よう子さんという女性について、調べていると仰ってましたね?」
私は「そうです」と答えた。〝二十歳の決意〟と惹句を付せられた彼女の写真集を見たのも、〝教授〟のアルバイト先、〈荒神書房〉を訪れたときのことだった。
「それで、その桜樹よう子さんが、所属していた事務所についてなんですが……」
「〈オカベ・プロダクション〉のことですか?」
「はい、そうです。ご存じでしたか」
「ええ。社長の名前は、岡辺元信さん……ですよね」
「そうです、そうです。さすがは、その道のプロだ」受話器の向こうで、〝教授〟がはしゃいで見せた。「それで、その岡辺元信なんですけどね。実は――」〝教授〟が言葉を切った。
彼がもったいぶったわけではないことは、すぐにわかった。騒音に近い嬌声が私の耳に突き刺さる。受話器を耳から離して、しばし待つ。
「……ごめんなさい。今度は、なんだか、若い子に人気のタレントさんがいたようで」〝教授〟の嘆き声の合間から、まだ黄色い声が届いていた。「その輪の中に入ってしまいました。新宿は賑々しいですねェ……」
のんびりと感慨に浸る〝教授〟に訊いた。「それで……岡辺元信さんが、どうしたんです?」
「あァ、そうそう……岡辺ですが、実は彼、私の幼なじみになるんです」
「なんですって?」情けない話だが、声のトーンがふたつほど上がっていた。
「ですから……私と岡辺は、小学校と中学校の同級生なんです。偶然とはいえ、驚きましたよ」
――驚いたのは、こっちの方ですよ。〝教授〟
〝教授〟の告白に立ちくらみを起こしそうになる身体を、デスクの端に腰を乗せて支えた。
「それで……あなたが、桜樹よう子さんについて、調べているという話をしたんです。まあ、彼が言うのには、彼女のことを調べている理由によっては、会って話をしても構わないということだったんですが……」
私は手にしたままだった煙草を灰皿で消した。「わかりました。理由をお話しします。ただ、私の商売柄、はっきりとは説明できない部分もありますけどね」私にとて守らなければならない仁義もある。
「結構ですよ」と〝教授〟。
私は意を決して、今回の依頼について説明を始めた。「今、私はある筋からの依頼で――」
「ですから、結構です。お話いただかなくても」〝教授〟が私の言葉を遮った。
「はい?」
――ついに〝教授〟まで私をからかうようになったのか
「いけませんね。私はどうも話の仕方がまずいようです」私の不穏な空気が電波に乗ったのか、〝教授〟の声が小さくなった。
「〝教授〟、どういうことなんです?」
「いえね、あなたのことだから、週刊誌とかに売りつけるような真似はしないだろうと思いまして、理由はなんであれ、話を聞いてやって欲しいとお願いしたんです。そうしましたらね、幼なじみの誼で、面会だけはしてくれると言ってくれましてねェ」
「ありがとうございます」素直にお礼を口にしてから、一言つけ加えた。「まるで、出来の悪い学生が、就職の斡旋をしてもらったみたいですね」
「いいえ。違います。あなたの仕事の手伝いをして、ヘイスティングズ気取りをしたかっただけです」〝教授〟がフフっと笑って、さらりと答えた。ベーカー街に事務所を構える同業者が相棒とする医者の名前を出さないあたりは、いかにも彼らしかった。
〝教授〟が続けて言った。「それで、岡辺が言うには、明日の昼なら、時間ができるということでしたが……問題ありますか?」
「ありません。あったとしても、こちらで時間を作りますよ」
「そうですか。それはよかった。では、私の方から岡辺に改めて連絡しておきます」
〝教授〟と出会えた喜びを噛み締めて、私は再度お礼を言った。これは〈やまだ屋〉で、一席設けるしかないだろう。
「あァ、そうだ。これは、余計なことかもしれませんが……」電話を切ろうとした私を、〝教授〟が受話器の向こうから呼び止めた。「先日、あなたがいらっしゃったとき、黒沢さんと、その友人が来てましたね」
サングラスをかけた痩せぎすの男が脳裏に浮かんだ。「確か、シロタニさん……でしたか」新しい煙草をくわえる。
「ええ。そのシロタニという人が、桜樹よう子さんは、事務所の社長の愛人だったとか、なんとか言ってましたね?」
「そんなことを言ってましたね……」シロタニと言う男が、やけに楽しそうだったことを思い出した。
「桜樹よう子さんが岡辺の愛人だった……そんなことは、ありえません」のんびりとした口調で、〝教授〟がきっぱりと否定した。
「どういうことなんです? なにか、ご存じなんですか?」
「実は、岡辺は――」
ブックマッチで、くわえた煙草に火をつけて、私は〝教授〟の話を聞いた。
二十九
信号が青に変わった。外堀通りを渡り、左に曲がる。
昼休みに入ったということもあって、道行くサラリーマンやOLたちの合間を縫って歩かなければならなかった。尾藤の電話のせいで、約束の時間に遅刻をしてしまいそうだった。東京理科大の前を通り過ぎ、一ブロック歩いた先のビルに入る。このビルの五階に〈オカベ・プロダクション〉はあった。薄暗い路地に面した雑居ビルとは違い、人目にさらされる大通りにあるビルの白を基調にしたエントランスは余すところなく降り注ぐ陽光のせいもあって、目に痛く感じられた。
私にとって明るすぎなエントランスの壁に寄りかかるようにして、濃紺の背広にスタンドカラーシャツを着た中肉中背の男が立っていた。目の大きな男で、薄くなりかけた髪の毛を短く刈り込んでいた。男は私に気づくと、その大きな目をギョロリとこちらに向けた。
私は男に一礼して、大股で近づいた。「岡辺さん……でしょうか?」
「話は……きみのことは、聞いてます」男が右手を差し出した。低くかすれた声だった。「岡辺元信です」
私は差し出された右手を握り返して、自己紹介をした。
芸能事務所の経営者は、芸術家気取りの薬物中毒者のように筋肉自慢をすることもなく、すんなりと手を離した。左手に巻いたごつい腕時計に目をやる。「昼食を摂りながらでも、構いませんか……僕はこの後、出なければならないんだ」
「問題ありません」
「では、行きましょう」岡辺が先頭を切ってエントランスを出ていった。
岡辺の後についてエントランスを出た。岡辺と肩を並べて、今しがた来た道を戻り、神楽坂下交差点へ向かう。昼食の場所はすでに決めているようで、なにを食べたいかなどと訊かれるようなことはなかった。余計な世間話などせずにいられるのは、私にとってありがたいことだった。ちょうど青に変わった信号を、飯田橋駅方面に迷わず渡り、橋のたもとにある一軒の店の前で岡辺が立ち止まる。ケーキ屋、いや今風の呼び方をすれば、パティスリーのようだ。確か、岡辺は〝昼食を摂る〟と言ったはずだが――
「ここのデッキサイドで、ランチが食えるんだ」そう言ってパティスリーの隣にあるこじゃれた木製のドアを開けて――実は何度かこの店の前は通っているのだが、このドアがデッキサイドへの入口になっていることは、初めて知った――階段を外堀へと降りていった。
階段を下りきるとボート溜まりがあって、その右手に広がる板敷きのデッキには、日除けの傘とテーブルが数台しつらえてあり、南仏辺りのリゾート地のような雰囲気を醸し出していた。隣駅のお堀端は、時代に取り残されたかのような釣り堀だというのに。
着飾った若い女の三人組が先客で、彼女たちは日傘の下でおしゃべりに花を咲かせながら、昼食を摂っていた。テーブルの上には背の高いシャンパングラスが置かれている。月曜の昼間から、いいご身分だ。
デッキの前で待ち受けていた、黒いベストを着たウェイターが静かに近寄り、「岡辺様ですね?」と訊いてきた。岡辺が小さく頷くと、彼は「お待ちしておりました。こちらです」と一礼した。
私たちは、板敷きのデッキを革靴で音を立てず歩くウェイターの後を追い、先客の三人組からふたつ離れたテーブルへと案内された。
席に着いた私たちにウェイターが、洗練された仕種でメニューを渡す。
「僕は、仔牛のカツレツで」岡辺は手渡されたメニューを一瞥しただけで、早々に注文をしてしまった。
こうなると、私もメニューを決めてしまわねばならない。どういうわけか、岡辺と同じものを注文する気にはならなかった。ところがだ。メニューに目を通してみれば、困ったことに仔牛のカツレツのほかは、書かれている料理名と味が一致しない。
「――ここは、僕の奢りだよ。遠慮せずに、どうぞ」岡辺が身を乗り出して、正面から私を覗き込んだ。
メニューに書かれた金額は、私にとって三回分の昼食代に相当する。どうやら、私は財布の中身を気にして、メニューを決めかねていると思われてしまったらしい。だからといって、
――メニューを見ても、なにを食べていいのかわかりません
などと、正直に打ち明けてしまうのも、みっともない話だった。
とにかく、ええいままよ、とばかりに、目についた料理名を口にした。「私は……このアッシパルマンティエをお願いします」さて、なにが出てくることやら。
ウェイターは「かしこまりました」と小さく頷き、メニューとは別の冊子を岡辺に手渡した。ワインリストのようで、岡辺はメニューとは違って、ゆっくりと念入りに大きな目を走らせていた。
私はその隙に、額に浮かんだ汗を右手で拭った。汗がにじんでいるのは、久しぶりに陽射しを浴びたせいだと自分に言い聞かせる。
やがて、横に立つウェイターにリストを示しながら、岡辺がワインを指定した。それから私の方を向いて言った。「テイスティングは、きみにお願いしようかな……」
私は「いや、結構です」と、岡辺の申し出を丁重にお断りした。
岡辺が怪訝そうに眉をひそめた。「おかしいな、財前の話では、きみは相当にいける口だそうなんだが……」
〝教授〟の名前は、財前というらしい。〈やまだ屋〉で出会ってから、随分と経つが初めて知った。そんなことより、〝教授〟は私のことを、岡辺にどのように紹介したのだろうか。そちらの方が気になった。
「……ひょっとして、今日は車で?」と岡辺。
「いいえ、違います」
「じゃあ、どうして?」
「陽の高いうちは、酒は飲まないことにしてるんです」
なにかを言いかけた岡辺を遮るように、私の背後で嬌声が上がった。岡辺がそちらに目をやり、小さく笑う。
振り向くと、ふたつ離れたテーブルでは、先客の三人組がシャンパングラスを片手にじゃれ合っていた。この位置からでも、頬が赤く染まっているのが見て取れた。
「昼のうちから酒を飲むのは、はしたない……か。きみは、古き良き時代の勤勉な日本人のライフスタイルを、受け継いでいるわけだ」
「そんな文化論とか、文明論みたいな、高尚な話じゃありません」
少しの間、考えてから岡辺が言った。「では、酒は酔って騒ぐためのものではなく、一日の終わりに、来し方行く末を思うためのアイテムであるべきだ、というわけかな?」
「そんな人生訓めいた話でもないですよ。〝教授〟……いや、財前さんから聞いてませんか。私は飲み始めると、とことんまで飲まないと気が済まない性分でしてね……ランチビールやら、グラスワイン程度じゃ満足できやしない。だから、陽の高いうちからは、酒は飲まないこと決めてるんです」
「自分で決めたルールぐらいは守りたい、ということか……」岡辺が小さく頷いて続けた。「わかった。無理強いはしないよ。では、僕だけワインを楽しむことにさせてもらうことにするけど、構わないね?」
私が「どうぞ」と答えると、岡辺はウェイターに「ワインのテイスティングはしない」と告げて、注文を済ませた。
「かしこまりました。少々お待ちください」ウェイターがオーダーを伝えに踵を返した。市ヶ谷が近いからというわけではないだろうが、きれいな回れ右だった。
ウェイターがテーブルを離れると、岡辺は上着の内ポケットから、銀色のケース――ダビドフだ――を取り出した。シガリロを一本くわえ、デュポンのライターで火をつける。コイーバのように浅黒く太い指先にある爪は、きれいにコーティングされていた。
私は先刻渡せなかった名刺を、テーブルの上で滑らせた。「お時間を頂戴して、申し訳ありません」
「まァ、財前の紹介でなければ、会ってはいなかったろうね」シガリロを一服吹かした岡辺は、テーブルの上にある名刺には視線を落とさず、その大きな目を私に向けた。「ところで、きみは……財前とはどういう関係なのかな?」
「どういう関係、と言われても、財前さんとは、行きつけの居酒屋が同じ……まァ、いわゆる飲み仲間というヤツです」
「それだけ?」
「それだけ……とは?」
「いや、財前がね、えらくきみを信用しているようだったんで、なにか特別な関係かと思ったんだが……」岡辺が唇の端を上げて、私の目を見つめてきた。
岡辺の言う〝特別な関係〟という単語が、やけに生々しく感じられた。ワイシャツの胸ポケットにある煙草に手を伸ばし、一本振り出してくわえる。「本当に、ただの〝飲み仲間〟です」
「そうなんだ……」つまらなそうに言って、岡辺がようやく私から視線を外した。
――どうも、やりにくい
ブックマッチで煙草に火をつけ、最初の一服を灰の奥深くまで行き渡らせる。精神安定剤――ニコチンの血中濃度を上げたのを体感して、私は本題を切り出した。「財前さんから、お話しは聞いているかとは、思いますけど……」
「よう子……桜樹よう子について、調べているそうだね?」
「ええ、そうです。正確には、花田洋子さんについて……と言った方がいいでしょうか」
「正確には、花田洋子……それは、どういう意味なのかな?」
「あなたの事務所に所属していた頃……つまりは、芸能人であった頃の桜樹よう子さんについては、調査はしていないということです。私は、かつて桜樹よう子と名乗っていた花田洋子さんが、今どこで、なにをしているのか……について、調査をしています」
「なるほどね。だけど、なぜ、僕のところへ? 彼女は引退して、かれこれ十五年近く経つんだよ」
「〈ポットヘッド〉という店を覚えていますか?」
「〈ポットヘッド〉……」岡辺が立ち上るシガリロの煙を追うように、視線を宙に運んだ。
「五年ほど前、あなたは洋子さんのお兄さん、花田浩二さんとふたりで、その……下北沢にある〈ポットへッド〉という店に、洋子さんを連れ戻しに行ってますね。そのときは、パトカーを呼ぶ、呼ばないの騒ぎになったそうじゃないですか」
「あァ、あったねェ……そんなことが」岡辺の顔には、いたずらを見つかった子供のように、ばつの悪そうな笑顔が浮かんでいた。「だけど、あのとき騒ぎのきっかけを作ったのは、僕じゃない。浩二君の方さ」
「まァ、この際、どちらが騒ぎ出したのかは、どうでもいいんです。その〈ポットヘッド〉で、あなたなら花田洋子さんが、今どこにいるのかを知っているんじゃないのか、と聞きましてね」
「わかった。そういうことなんだ」岡辺はシガリロを一服吹かして、香りのきつい煙混じりに言った。「……でも、それだけじゃないだろう? きみが僕に会いに来たのは」
「他に理由は、ありませんが」
「よせよ。そこまで調べてるなら、僕と彼女……洋子の噂は知ってるんだろう?」
「あなたの愛人だった……という噂ですか?」白い陶製の灰皿に煙草の灰を落とした。
岡辺は、正面で慌てる素振りも見せずに頷いて応えた。
「私は芸能記者や、なにかに頼まれたわけじゃない」花田洋子の古里とは、正反対の科白で答えた。もっとも、こちらが正直な告白なのだが。「それに……洋子さんが、あなたの愛人だったというのは、あくまで噂で、本当のところは、違うと考えています」
「その理由は?」
「あなたのことは、財前さんから聞いてます」
シガリロを口に運ぶ岡辺の動きが止まった。そして、声には出さなかったが、唇だけを動かしてなにやら口の中で呟いた。
――余計なことを言いやがって
大方、そんなことを毒づいたに違いない。
シガリロは口にせずに、岡辺が切り返してきた。「財前は、僕のことをなんて言っていたのかな?」
見事なカウンターパンチだった。〝理由〟は〝教授〟から聞いてはいたものの、本人を目の前にしてなんと答えていいものやら――
私の顔には、困惑の色が強く浮かんでいたに違いない。岡辺は私の顔色を見て、フフっと笑った。「ゲイ、ホモ、オカマ、同性愛者、変態……なんと言ってくれても構わないよ。そう、僕にとって恋愛の対象は、女性ではなく、男性なんだ」笑みを浮かべたまま、私の胸を指差して続けた。「安心しなさい。残念ながら、きみは僕のタイプじゃない」
なにを安心して、なにが残念なのかは、皆目検討がつかない。ただ、いつまでも困った顔をしているわけにもいかず、なんとかして苦笑を返した。それに岡辺がウインクで応える。
――どうも、この人はやりにくい
「戸籍上の女房はいるよ。だけど、あれは単なるビジネスパートナーさ。事務所を起ち上げたときから、ウチの営業部門を全部任せてる。どうこう言っても、僕のようなタイプの人間は、ビジネスの世界では受け入れてもらなくてね。まァ、一種のカモフラージュかな」
ようやくシガリロを口に運んだ岡辺に訊いたのは、昨日〝教授〟に理由を聞いたときから、気になっていたことだった。「では……なぜ、洋子さんが愛人だったことを、否定されないんです?」
「否定? する必要がないからさ」
「本当に、そうでしょうか。あなたは、ビジネスのために、カモフラージュで結婚までしている人だ。恋愛の対象が誰であれ、自分の事務所に所属していたタレントを愛人にしていた……なんて噂も、あなたのビジネスにとっては、相当の痛手になるんじゃないですか?」
「そうでもないさ。現に会社は、今でもつぶれずに存続してるじゃないか」
巧みに私と目を合わさないようにする岡辺を見て、私は、この推理が間違っていないことを確信していた。
「洋子さんとの噂を否定しないことで、なにかを隠しているんじゃないですか?」
三十
「隠す? なにをだね」
今度は私のカウンターパンチが効いたらしい。困惑の色を濃く浮かべる岡辺に、私は言った。「先ほども、話しましたが、あなたと花田浩二さんは〈ポットヘッド〉に、洋子さんを連れ戻しに行っている。でも、それは彼女が遊び呆けていたから……だけじゃない」私は短くなった煙草を灰皿で消した。岡辺のシガリロは、まだ半分も無くなっていない。
「どんな理由だ……と言いたいのかね」低い声で岡辺が言った。
「当時、洋子さんは、宮崎健太郎という男と交際していました。その宮崎健太郎が、違法薬物……ヘロインの使用で逮捕されたのは、〈ポットヘッド〉での一件があって、すぐのことです」〝宮崎健太郎〟という単語に反応して、岡辺の頬がピクリと動いたことを、私は見逃さなかった。「……洋子さんが一年間、古里である千葉から姿を消したのも、あなたの愛人になったという噂が流れたのも、ちょうど同じ頃のことです。タイミングが合いすぎては、いませんか?」
私の問いかけに岡辺は答えず、シガリロの灰を灰皿に落とした。私の煙草とは違って、シガリロの灰は塊のままコロリと落ちた。
「洋子さんは、あなたの愛人になったわけじゃない。あなたの元で、彼女は薬物依存の治療をしていたんだ」
大きな目をさらに大きくして、岡辺が私を見つめてきた。それから深くシガリロを喫い込んで、ため息混じりに煙を吐いた。「財前の言ったとおりだな……きみは、随分と頭の切れる男のようだ」
「お世辞は、よしてください。頭が切れる男だったら、こんな稼業はやってませんよ」
私の言葉に唇の端を上げて、岡辺が言った。「そう……洋子は、僕の愛人なんかじゃない。きみが推理したとおりだ。あの一年間、洋子は、僕のところで、薬物依存の治療をしていたんだ」
私は新しい煙草にブックマッチで火をつけた。
岡辺が言った。「洋子が、ちょくちょく東京に遊びに来てるって話を聞いてね。まァ、東京に遊び来ることは、別に気にはならなかったんだが、つるんで遊んでいる相手が、宮崎健太郎だって言うじゃないか。宮崎が薬にはまっているっていう噂……いや、噂じゃないな。ヤツがヘロインをやってることは、この業界では知れ渡ってたからね。なんとかして、洋子を取り戻さなきゃならない……そう考えたんだよ」
「それで、〈ポットへッド〉へ乗り込んだ……」
岡辺は「そうだ」と頷いてから言った。「浩二君を呼んだのは、洋子は意地っ張りなところがあるんだが……どういうわけか、昔から浩二君の言うことだけは、よく聞く子でね。それで、お願いしたんだよ」シガリロを一服して、間を取る。「しかしね……浩二君があそこまでの騒ぎを起こすとは、思わなかったよ」
「なにが、あったんです?」
「へべれけに酔っ払って……薬もやっていたのかもしれないけど、とにかく、構わないでくれって暴れる洋子を、浩二君が無理やり連れていこうとしたら、マスターが間に入ってね。〝みんなで楽しく飲んでるんだから、お兄さんも一緒に飲んできましょう〟……なんて、軽薄に言ったものだから、浩二君が頭に血を上らせちゃってね。そのマスターを殴ってしまったんだ」
〈ポットヘッド〉のマスター、野中は昔から空気の読めない男だったようだ。彼が、あのアフロヘアの店員に店を引き継ぐまで、あと何回鼻を折られることになるのだろう。
「そんな騒ぎまで引き起こして、洋子さんを連れ戻したわけですか……」
「そうだよ」
「しかし、なんですなァ……彼女が結婚を機に引退してから、随分と経ってますよね?」
「十年ぐらいかな。それが、どうかしたのかね」
「いえね……」ふと浮かんだ疑問を、そのまま口にした。「芸能事務所の社長さんというのは、引退したタレントさんに、そこまでするものなんですか?」
「どうなんだろうね。確かに、僕の事務所の所属タレントじゃないわけだし、洋子だって三十を越えた大人なんだし、わざわざ僕が、出張る必要はなかったのかもしれない。女房……いや、ウチの営業本部長にも、きみと同じことを言われたよ。だけどね……」岡辺はシガリロを灰皿で消した。喫い殻を灰皿の上でなぞらせて、灰を片方に寄せる。「洋子の場合は、僕にも責任があるんじゃないかって思ってね」
「責任?」
「そう。洋子をあの世界に引き入れたのは、僕なんだ」
私は黙ったまま煙草を喫い、話の続きを待った。
「元々、洋子は浩二君、浩二君の仲間たちのやってるバンド……ミラーズって言ったかな、そこでヴォーカルをやってたんだ」
「彼女がお兄さんのバンドで歌っていた話は、聞いています。東京で活動してたそうですね。洋子さんの古里でも、有名でしたよ」
「そう……とにかく、アマチュアにしておくのが、もったいないバンドでね。プロにならないかって、声をかけたんだ」岡辺がようやくシガリロから手を離した。「だけど、リーダーの浩二君は、実家の仕事を継ぐために、田舎に帰るつもりだって言うし、他のメンバーも、週末の遊び程度にしか考えてなくて……まァ、逆にその辺が、肩の力の抜けたいい音を出させてたのかもしれないね」
私には、岡辺の言葉を肯定も、否定もできない。ミラーズというバンドの演奏を、耳にしたことがなければ、音楽を批評できるほどの〝耳〟を、持ち合わせてはいないからだ。
「僕も、彼らをスカウトするのを諦めかけてたんだけど……ある日、浩二君が洋子を連れて来て、彼女を芸能界に入れてやってくれないかって、頼みだしてね」
「それで、彼女は芸能界に……」
「そんなに、簡単な話では、なかったんだ」岡辺はテーブルの上に肘を乗せて、両手を組んだ。「洋子は、なにも聞かされていなかったようでね、最初は頑なに拒んでいたんだよ。だけど、浩二君が説得をしてね。お前は俺と違って、田舎に引っ込む必要はない。チャンスをつかむんだって。他のメンバーも同じ意見だ……と。さっきも言ったけど、洋子は浩二君の言うことだけは、よく聞く子でね。洋子は、浩二君の説得に折れる形で、デビューすることになった――」
岡辺が目を閉じた。瞼の裏には、当時の風景が映っているのだろうか。それが、楽しい思い出なのか、忘れてしまいたい記憶なのかは、表情からはうかがい知れなかった。
「その後は……きみも、もう知っているんじゃないかな」
「あまり売れなかった、ということですか?」
「はっきりと言うじゃないか」フフっと鼻で笑ってから、岡辺は続けた。「そう、まったく売れないんだ。おかしなものでね。光るものがないっていうのかな……パッとしないんだ。ただ、歌が上手いだけってだけじゃ、生きていけない世界だからね」
――歌はそれなりに上手かったけど、あくまで〝それなり〟だからねェ
――〝それなり〟じゃァ、〝売り〟にはならないんだよねェ……
〈荒神書房〉で出会った黒沢の見立ては、正解していたようだ。いい歳をしたアイドルマニアというヤツを、少しだけ見直していた。
「まだ、僕も若かったのかな。なんとかして、洋子を売り出したくてね。歌だけで勝負したいっていう彼女を説得して、無理やり水着の写真集を出させたり……いろんなことをしたよ。だけど、やることなすこと、すべてダメでね。そのうちに、洋子も心のバランスを崩しまって……実は、このときも、浩二君に田舎から出てきてもらって、力を借りたんだ。それで、なんとか事なきを得てね。この頃じゃないかな、洋子が下山君と出会ったのは……そうだ。下山君は、浩二君と大学の同期だっていうから、それがきっかけだったのかな」
売れないアイドルとの馴れ初めは、今は文科省から金を引っ張れるまでに出世したプロデューサーから、私は直に聞いていた。
「そのよう……ですね」
「洋子と下山君が結婚をする……そう聞いたときは、本当にうれしかったね」岡辺は今度は目を閉じなかった。ただ、彼の脳裏に浮かんでいるのが、かつて幸せをつかんだ女の姿であることは、あからさまに見て取れた。しかし、それも束の間だった。「だけど……下山君との結婚は、長く続かなかったし、宮崎なんていう男とつるんで、薬漬けになってるって話を聞いたときに思ったんだ。歌うことが好きなだけの女の子を、この世界に引き込んでしまったのは、僕なんだ。もしかしたら、田舎でひっそりと暮らしていたかもしれない女の子の人生を狂わしたのは、僕じゃないかってね……」
私には答えようのない独白だった。
「きみにしてみたら、今さらになってなにを言い出すんだって、思うだろうけどね」
煙草を二回ほど吹かして、正面で自嘲気味に笑う岡辺の顔を、煙でかき消した。見ていてあまり気持ちのいいものではない。
「……ただ、言っておくけど、洋子は、宮崎みたい自分が楽しむために、薬をやっていたわけじゃない」
「楽しむためじゃない……」昨日、宮崎のアトリエで出会った女の顔が浮かび、彼女が服用していた薬の名を口にした。「オキシコドンですか?」
伏せていた目を上げて、岡辺が言った。「それは、鎮痛剤じゃないか」
「ええ。そうです」
「どうして、その薬だと思うんだ?」
私は昨日、宮崎のアトリエで出会った女――深幸が服用、いや、おそらく常用している薬の名前を出した理由を告げた。
「最低の男だな、あいつは」岡辺が宙を睨みつける。
「違うんですか?」
「洋子は、違う薬だよ。彼女が依存してたのは、バルビツールさ」
岡辺は、洋子が自称〝表現者〟から暴力を受けていたことは否定しなかった。口調は固く、額には血管が浮き上がっていた。私の顔を鏡に映したようなものだ。
「だけど、バルビツールなんて、そんな簡単に手に入らないでしょう?」
「ヘロインを手に入れられる男だよ、バルビツールなんて簡単さ。〝蛇の道はヘビ〟っていうじゃないか……」
顔をしかめる岡辺に、私は訊いた。「しかし、どうして、また睡眠薬なんかに?」
「洋子は、元から不眠症の気があってね。酒を飲むようになったのも、そのせいなんだ。それが、宮崎とつき合うようになって……ヘロインに、はまっていくあの男と一緒にいることで、不眠症がさらに強まったらしくてね。酒だけじゃなく、睡眠薬も飲まなきゃいられなくなったそうだ。宮崎からバルビツールを与えられることで、薬に依存して……結局は、宮崎からも、逃れられなくなってしまったというわけさ」
「薬で繋がれていたわけですか……」
「そういうことに、なるのかな」
「それを、あなたと浩二さんが、救い出したということですね」
「そんなに、恰好いいことじゃァない」
私の褒め言葉にも、岡辺は頬をゆるめることはなかった。
岡辺が緊張を解いたのは、料理を運んできた先刻のウェイターだった。会話が一端中断されたテーブルに、ウェイターが流れるような仕種で、岡辺の前に仔牛のカツレツを、私の前にはアッシパルマンティエ――ミートソースの上にホワイトソースを乗せたグラタンのようだ――を配膳する。ワインボトルのラベルを岡辺に見せて確認をとってから、彼は岡辺のグラスに赤ワインを、私のグラスには一緒に運んできた水差しから水を注いだ。
空になったワゴンを押して去っていくウェイターの後ろ姿を見送る目は、穏やかな色をたたえていた。岡辺の好みのタイプは、あの細身で色白のウェイターなのだろう。
さて、私の前にある舌を噛みそうな名前の料理――アッシパルマンティエは、どうやって食べればいいのだろうか。岡辺は仔牛のカツレツ――文字通り〝こんがりときつね色〟に焼き上げられていて、見るからに美味そうだった――を切り分けると、フォークを右手に持ち替えて、一切れ口に入れた。昔見たスティーブ・マックイーンが出ていた銀行強盗の映画の中で、ベン・ジョンソンが演じた食事のシーンのように行儀は悪いものの、えらく粋に見えた。
私も岡辺に倣って、アッシパルマンティエをフォークで掬って一口食べた。初めて口にしたアッシパルマンティエのホワイトソースに見えた部分は、マッシュポテトだった。マッシュポテトにミートソース――シェパーズパイの中身と、味もそう変わらない。別の言い方をすれば、上品に作られた肉屋のコロッケだ。
カツレツを充分に咀嚼して飲み込んでから、岡辺が赤ワインを口にした。満足そうに微笑む。それからもう一切れ口に運んだ後で、ワインをもう一口飲んだ。フォークを置いて、ひとつ息をつく。微笑みは消えていた。
「……きみは、洋子のことを調べてきているんだよな?」
私は、ジャガイモと挽肉を飲み込んで「はい」と答えた。
「じゃァ、あの子がどんなことをしてきたか、知ってるんだろう?」
「ええ。ある程度は」そう言って、アッシパルマンティエを口に含んだ。上品な肉屋のコロッケを味わうことで、頭の中でちらついていた思い出したくない下品な顔をかき消す。
「洋子が、あんな乱れた生活をして、最後には薬に頼ってしまうようになった理由……さっきも言ったように、僕のせいかもしれない。そう思っていたから、僕も理由を知りたくてね」
食事を進めながら、聞くような話ではない。私はワイングラスに注がれた水で、アッシパルマンティエと流し込んだ。
私がフォークを置くのを合図にして、岡辺が語り始める。
「洋子は、昔から感受性が強くて……そう、感情の起伏の激しい子でね。落ち込んだときなんかは、弱い自分を支えてくれる……なにかに、すがりついてしまうところがあったんだ。兄妹だからじゃないだろうけど、浩二君はその辺のことを、心得ていてね。洋子がデビューしてからも、折に触れて東京まで出てきてもらっていたんだよ。それで、仕事の中で下山君と出会って結婚をした。それが、長くは続いてくれれば、よかったんだけど……」
スタッフの女に肩を支えられて歩く小さな背中が、脳裏をよぎる。
「治療するために一緒に暮らしているときのことなんだがね。洋子は、なにかにつけてある歌を口ずさんでいたんだ。きみは知っているかな? 随分と古い歌なんだが――」
「『リリーマルレーン』ですか?」岡辺の言葉を継ぐように答えた。
岡辺は私の回答に目を丸くした。「正解だ。『リリーマルレーン』だよ……だけど、よくわかったね」
私は、下山文明が初めてプロデュースした番組で、『リリーマルレーン』を歌う洋子を、とある動画共有サイトで閲覧したことを告げた。「――そして、その番組で、洋子さんは下山さんと出会った」
少しあきれたような口調で「本当に、よく調べ上げたね」とこぼしてから、岡辺は続けた。「だから、僕はこう考えたんだ。洋子は、まだ下山君のことを、忘れられないんじゃないかって」
「まァ、そう考えるのが普通でしょうね」
「ところが、そうじゃないって、洋子は答えたんだよ」
「どういうことです?」
「『リリーマルレーン』は、ただ好きな歌なだけで、下山君とは関係はない。下山君との結婚だって、ひとつのきっかけにしようとしたに過ぎないってね」
「きっかけ?」
「そう。きっかけさ。洋子にはね、ずっと想いを寄せる人がいたそうだ。下山君との結婚は、その人を忘れる、諦めるための〝きっかけ〟にしたかったそうなんだが……結局のところ、忘れることが、できなかったそうだ」岡辺が、食べかけた仔牛のカツレツに視線を落とした。「そんなことじゃ、結婚なんて、上手くいくはずもないよな」
ワイングラスに入った水を飲んで、岡辺の言葉を待った。たとえ偽装であろうと、結婚をしたことのない私に、あれこれと口を挟む余地はない
「――で、田舎に引っ込んでみたものの、慣れない育児やら田舎で羨望の的になることで、心のバランスを崩してしまってね。酒だったり、優しい言葉を投げかけてくる行きずりの男と寝ることに、すがるようになって……最後は、薬に依存することになってしまったんだよ」
空腹を感じてはいるのに、食べる気はどこかに失せていた。許されるならば、ニコチンを補給したいところだ。ワイシャツの胸ポケットに入れた煙草の箱に触れることで、気を紛らわせることにする。
岡辺が言った。「ただね……そんなことも、洋子にとっては〝きっかけ〟だったのさ」
「どういうことなんです? それは」
「想いを寄せる人が、汚れて堕ちていく自分を助けてくれるのか、それとも蔑んで離れていくのか……」
「それを見定める〝きっかけ〟だった……と」
「そういうことに、なるのかな」コイーバのように浅黒く太い指が、優雅に動いてナイフとフォークをそっと置いた。「まァ……ある意味、ギャンブルだね」
「そのギャンブルの結果は、どうだったんです?」彼女の息子は、ギャンブルでは――ギャンブルと言うほど大した額ではないが――連戦連勝だという。
「結局は、負けたんじゃないのかな」含みのある言い回しだった。
「負けたんですか……」
「想いを寄せる相手が、助けてくれれば、想いを打ち明けて、ずっと彼について行く決心ができる。蔑んで離れていけば……すべてを諦めて、そのまま堕ちるところまで、堕ちてしまう心づもりだそうだ。ところが……」岡辺はワインを一口飲んで続けた。「洋子が想いを寄せる相手は、彼女との距離を縮めようとはしなかった。最後の最後まで、助けようともしなければ、蔑んで離れようともしなかったそうだ……」
「要するに、その想いを寄せる相手に構って欲しかったけど、そうは問屋が卸さなかった……と、いうわけですか?」
岡辺は伏せていた大きな目を上げて、私を見つめてきた。「きみは、口が悪いな」
「よく言われます」と私は答えた。
岡辺は表情を固くしたが、怒っているというわけでもなさそうだった。彼も花田洋子から直接話を聞いたときには、私と同じ思いを抱いたのかもしれない。
「きみの言わんとしてることは、わかるよ。甘えるな、と言いたいんだろう?」
花田洋子が甘えているのか、どうかは私には判断できない。岡辺の言葉を肯定も否定もせずに、私は別の質問をした。「……ですが、心が強くなければ、他人前で歌を歌ったりなんか、できないでしょう?」
「そうじゃない。むしろ、逆だよ。心が弱い、気の小さい人間ほど、〝舞台映え〟するんだ。そういう人間ほど、舞台の上じゃ開き直って、別の人格になれるんだ」岡辺は、私の〝素人考え〟をあっさりと否定した。「逆に、きみのように強い人間ほど〝舞台映え〟しないんだよ」
「私は舞台に上がれるほど、歌が上手いわけじゃないし、芝居もできない。そして、そんなに強い人間じゃァないですよ。こう見えてもね、カフェインにアルコール……そしてニコチンに頼らなければならない日だってあるんです」
「まァ、確かに歌は上手くなさそうだな……きみは」岡辺は、私の軽口に少しだけ顔をゆるめた。「ひとつ……訊いてもいいかな?」
「どうぞ。だけど、ひとつだけにしてください。頭があんまり良くないんです」
今度の軽口には、岡辺はあきれた表情を見せた。グラスに入ったワインを一口含んで間を作ると、やけに神妙な顔をして訊いてきた。「もしもの話なんだが……いいかな?」
私が再び「どうぞ」と答ると、岡辺は襟を正した。
「きみの近くに、洋子のように振る舞う女性がいたとしたら、どうする?」岡辺が大きな目で、私を覗き込む。
「さァ、どうするんでしょうねェ……わかりません」
「そうかな……」と呟きを漏らしてから、岡辺が続けた。「きみだったら、彼女の首根っこを捕まえてでも、自分のそばに引き戻して来るに違いない……僕は、そう思っているけどね」挑発するかのように、唇の端を上げる。
「生憎と、そこまで女性に慕われたことがないんでね。なんとも言えません」
「きみは案外、薄情な男なんだな」
「薄情じゃなきゃ、こんな稼業やってませんよ」
私は岡辺が望む回答をできなかったようで、彼は大きな目をさらに大きくして、ため息とも取れる息を漏らした。小さく首を横に振ってから、再びフォークを手にする。
――あんたは、聞く相手を間違えている。俺は、ただの探偵だ
追い打ちをかける言葉は、口の中に放り込んだアッシパルマンティエと一緒に飲み込んだ。
三十一
それからは会話もせずに食事に、いや、不足したカロリーの摂取だけに専念した。次の予定があるからなのか、元から食事が早いのかはわからないが、岡辺の食べ進めるペースは〝早メシ〟の私と大差がなかったことだけが、救いだった。
食事を終えた私たちの皿を下げに来たのはウェイトレスで、彼女も先刻のウェイターのように、空になった皿を、無駄な動きは見せずに運び去っていった。岡辺は彼女の後ろ姿は、見送らなかった。
彼女に続いて、ワゴンを押しながらウェイターが姿を見せた。先刻のウェイターではなく、背の低い浅黒い青年だった。岡辺はワゴンに乗せられた大皿の上にある小さなケーキから――四種類のケーキが皿いっぱいに盛りつけられていた――ふたつを選んだ。
私はケーキについては、丁重にお断りをした。食後に甘い物を食べる習慣には、未だに理解ができない。ただ、そのことは口外せずに、理由は取り敢えず、〝もうお腹がいっぱいだ〟ということにしておいた。
陽に焼けたウェイターは、小さなカップに注がれたコーヒーを配ると、深々と一礼をして、テーブルから離れていった。彼の後ろ姿も、岡辺は見送らなかった。
「デザートなんだし、煙草は構わないよ」ようやく岡辺が口を開いた。
私は、彼の〝お言葉〟に甘えて、煙草にブックマッチで火をつけた。食後の一服ほど美味いものはなく、ゆっくりと堪能したいところだが、今日の目的は、芸能事務所の社長との会食だけではない。
漆黒に近い色をしたケーキと、フルーツの乗せられたケーキのどちらを先に食べるか、悩んでいる岡辺に訊いた。「花田洋子さんの件ですが、質問を続けても、よろしいですか?」
「構わんよ」
「率直に言います。花田洋子さんは、今どちらにいるか、ご存じですか?」
「知ってるよ」岡辺は、あっさりと答えた。「洋子なら……治療を終えた後、千葉に帰ってね。今でも、そこで暮らしているよ」
岡辺は目の前にあるチョコレートブラウニーとフルーツタルトに気を取られて、勘違いをしているわけではない。彼の回答は、あらかじめ用意されたものだ。
「嘘は、つかないで、いただきたいですな」
「嘘もなにも、僕はそれしか知らないんだよ」
私はコーヒーを飲んだ。上手に淹れられたエスプレッソだった。口の中に、強い苦味が染み渡る。
「先日、〈花勝水産〉まで行きました……そこで、いろいろと、話は聞いてきましたよ」岡辺はケーキから目を離そうとはしなかったが、私はそのまま続けた。「洋子さんが、古里から姿を消したこともね」
先に片付けるケーキをチョコレートブラウニーに定めた岡辺は、ゆっくりとした動作で漆黒のケーキを口に運んだ。充分に咀嚼して飲み込む。コーヒーカップに口を付けると、唇をキッと結んで、お堀の方へと目をやった。
私には、彼が濃厚なチョコレートとエスプレッソの余韻を楽しんでいる風には見えなかった。私は煙草を喫ってから、切り出した。「洋子さんが、今どこにいるのか、岡辺さん……あなた、ご存じなんですね」
「きみは……それを知って、どうするつもりなのかね?」岡辺は、陽が照り返すお堀を見やったままだった。
「理由によっては、なにも話さない……ということですか」
「ああ、そうだ」
「どうするもなにも、洋子さんがどこにいるのかを調べるのが、私の仕事です」
「なるほどね……」岡辺が目尻を下げた。しかし、その後に続く言葉は、今しがた彼が口にしたチョコレートブラウニーのように甘いものではなかった。「悪いが……財前の紹介だからといって、なにもかもベラベラとしゃべるつもりはない」
「どうしてです?」
「この間も、洋子のことを聞きに来たヤツがいたんだ。きみは違うようだが、そいつは自分のことを、テレビ局の人間だ、と言っていたよ。なんでも、〝あの人は今〟みたいな企画をやるそうでね」
「それは、私より背の高い……一八五センチぐらいで、年の頃は二十代前半。ちょっとクセっ毛の長い髪で、色白の男じゃありませんか?」洋子の古里――千葉の鄙びた漁師町にある雑貨屋に、姿を見せたであろう男の特徴を告げた。
「いいや。きみより背が高かいのは確かだけど……もっと大きかったね。あの男は」岡辺が首を横に振った。「一九〇センチは、あったんじゃないのかな。それに、白髪頭の……きみよりも、随分と年上の男だよ」
白髪頭の大男――私は、ひとりだけ知っている。それは、最近見知った、かつて同じ稼業だった男だ。沸き立ち始めた感情を、ニコチンを吸引することで押さえ込む。
岡辺が続けた。「僕は、あの手の番組が嫌いでね。華やかな舞台を降りた人間には、華やかではないかもしれないが、別の舞台が待っているんだ。そこで懸命に生きている人間を、晒し物のように扱うのが、許せないんだよ」岡辺も感情をたぎらせていた。そして、それを隠すことなかった。「確かにね、一度スポットライトを浴びてしまうと、その頃のことが忘れられないっていうのも、わからないでもないさ。でもね……そんなのは所詮、過去の栄光なんだ。そんなものに、すがりついて生きていく必要はない。もう一度、華やかな世界に入りたいのなら、そんな姑息な手は使わずに、正面から入ってくればいいんだ。僕の事務所にいた子たちが、復帰したいなんてときには、そんな手は絶対に使わせない。ましてや、洋子はあの世界に戻ろうなんて、考えてもいない。洋子は、ようやく穏やかな日々を過ごしているんだ。僕は、それを守ってやらなければ、ならない」一気にまくし立てて、岡辺はコーヒーで喉を潤した。
岡辺がソーサーにカップを戻すのを待って訊いた。「それが、あなたの罪滅ぼしですか?」
「罪滅ぼし……きみは、本当に口が悪いな」岡辺が言った。「だけど、確かに、きみの言うとおりかもしれないな。そう……罪滅ぼしだ。だからこそ、僕はそう簡単にしゃべるわけにはいかない」
岡辺はどこまでも頑なだった。重たい扉で閉ざされた岡辺の口を開かせるのは、そう簡単にはいかないようだ。私は彼の前で舞い踊るのではなく、すべてを打ち明けることにした。
「私が捜しているのは、桜樹よう子でもなければ、花田洋子さんでもない。彼女の息子、博之君です。三週間ほど前から、博之君の行方がわからなくなっています」短くなった煙草を、灰皿で揉み消した。「いろいろと調査をした結果、博之君が姿を消した理由は、母親である洋子さんを捜している……ということがわかりました」
岡辺は表情ひとつ変えずに話を聞いていた。彼が無表情なのは、私が的外れなことを言っているからではない。先刻よりも動揺している胸の裡を悟られないよう装うため、仮面をかぶっているからだ。それを証明するかのように、岡辺は上着のポケットをしきりと探っていた。
「シガレットケースなら、テーブルの上にありますよ」探しものの所在を教えてから、〝私の探しもの〟に関する質問を続けた。「母親を捜す博之君が、居場所を知っているあなたの元を訪れただろう、ということも、私はつかんでいます。博之君……あなたのところに来ましたよね?」
「ああ、来たよ」岡辺がようやく正直に告白をして、シガレットケースからシガリロを抜き出した。「そう……三週間ほど前だ。それこそ、洋子がどこにいるのか、聞きにね。だけど、今の学校に入学してからは、あまり洋子に会っていないと言っていたな……」
「それで、岡辺さん……あなたは、洋子さんの居場所を、博之君に教えた」
「ああ、そうだ。ただ、ちょっと待ってくれ。博之君が行方不明だというのは、確かなことなんだろうね?」
「……そうでなければ、博之君を捜すよう、私が依頼される理由がありません」
「確かに、きみの言うとおりだな」くわえたシガリロに、デュポンで火をつける。「……博之君なら、今は洋子と一緒にいるはずだよ?」
「ふたりは、今どこにいるんです?」
「それは、浩二君も知っているはずだ」
「花田浩二さんも、知っている?」
岡辺は、香りのきつい煙とともに「そうだ」と答えた。
――わたくしどもも、洋子が今、どこにいるのか存じ上げないからです
恵子は、〝洋子は二年前から行方不明〟だと、私に告げていた。彼女はあのとき、私に嘘をついたのか。それとも、浩二からは、なにも聞かされていないのか――私の灰色の脳細胞は、後者だと判断していた。
「浩二君はどうして、博之君に洋子のことを教えなかったんだろう? ちゃんと話しておけば、きみを雇うような騒ぎには、ならなかったろうに……」
「さァ、わかりません。ただ……私はそのおかげで、食い扶持に預かっているんでね」岡辺が口にした疑問は、私も感じていた。だが、灰色の脳細胞は自分で思っている以上に役立たずで、私が答えられるのは、これだけだった。
「――それで、どうあっても、きみはふたりに会うつもりなのか?」
「はい。私は自分の目しか、信じていませんから」ダビドフの煙をくゆらす岡辺に答えた。
岡辺が苦笑を漏らした。「今さら、嘘を言うつもりはないさ」私は相当に〝怖い〟顔をしているのだろうか。「きみが、博之と洋子を捜している理由はわかった。ふたりが今、どこにいるのかを教えても構わない。ただ、会えるかどうかは、僕に判断できることじゃない」
私もブックマッチで、煙草に火をつけた。「それは……誰です?」
「大江君だ」岡辺が答えた。
大江――この依頼で、何度も耳にした名前。そして、博之が姿を消すきっかけを作った男だ。
「その大江さんという方は、何者なんです?」
「気になるのかね?」
「ええ。その大江という人物が、下山さんに、洋子さんが博之君と会いたがっている、と伝えてきたんです。それで、下山さんから伝言を受けた博之君は、洋子さんを捜すために、寮を飛び出してしまった」
シガリロをくわえた岡辺が、眉間に深いしわを作った。
「なんでも、洋子さんにとっては高校時代の先輩で、洋子さんと浩二さんとバンドも組んでいた……」
「そうだよ。もうひとつ、つけ加えるなら、洋子が高校時代につき合っていた恋人……今風に言えば〝元カレ〟だ」
ことごとく私の期待を裏切り続けた〈カネコ〉で出会った宮元がした証言で、初めて正解に出くわした。
「大江君が高校を卒業することで、別れてしまったそうなんだが――」
「その〝元カレ〟が、洋子さんとの面会について、判断をするわけですか?」岡辺の話を遮った。彼が語っているのは、所詮過去のことであって、私が欲しいのは大江という男に関する〝現在〟の情報だった。
「そういうことになるね」岡辺は、まだ半分も喫っていないシガリロを消した。「大江君はね――」
大江が洋子との面会を判断する理由を聞き終えて、私は煙草を深く喫い込んだ。目を閉じて、ニコチンが身体中に行き渡るのを待つ。
「――わかりました。大江さんの判断に、お任せします」
「そうしてくれると助かる。ふたりにとって、今は大切な時間なんだ」
私が頷いて応えると、岡辺は苦い告白を終えた口直しだ、と言わんばかりに、チョコレートブラウニーを食べ始めた。
私は煙草を喫いながら、不可解な行動を取る男たちに思いを巡らせていた。
――なぜ、花田浩二は、洋子の居場所と、洋子がそこにいる理由を博之に伝えなかったのか
――なぜ、大江はわざわざ下山を介して、〝洋子が会いたがっている〟とだけ、博之に伝えたのか
心を鎮めてみても、答えを見出すことはできなかった。
大江とコンタクトを取ることで、なにがしかの答えを、見つけることができるかもしれない。そう思うしかなかった。なにより私の仕事は、花田博之という少年を、一日も早く見つけ出すことなのだから。
岡辺がデザートを平らげるまでの間、場を保たせるためにいくつか世間話をしたが、覚えていない。それは岡辺も同じだと思う。どうせ、大した内容の話ではない。
約束どおり、勘定は岡辺が払ってくれた。岡辺〝お気に入り〟のウェイターに見送られた私たちは、店の前で別れることにした。
去り際に、岡辺が先刻渡した名刺をかざして言った。「とにかく、大江君から、きみに直接連絡をさせるよ。きみの連絡先は、ここでいいんだろう?」
「お願いします」
「なるべく急がせるよ」岡辺は私の名刺を上着の内ポケットにしまった。「それと……このことは、僕の方から浩二君に伝えておこうか? 浩二君が博之君に、洋子のことを教えてなかったことも、気になるしね」
「いや、結構です。私の方で、なんとかします」私はひとつだけ嘘をついた。私とてメシのタネは、守らねばならない。
「そうか……」岡辺は寂しげに呟くと、右手を差し出してきた。
「今日は、ありがとうございました……それと、ご馳走さまでした」差し出された五本並んだコイーバを握って、お礼を言った。
「きみとは、またゆっくりと話をしたいものだね」岡辺は私の右手を強く握り返してきた。
私が答えに窮していると、岡辺はいたずらっぽく唇の端を上げて言った。「冗談だよ……さっきも言ったろう? きみは僕の好みのタイプではないって」
ようやく私の手を離すと、岡辺は片目をつむってみせて、「それじゃァ」と背を向けた。
――どうにも、やりにくい人だ
ひとつ息をついて、私も踵を返した。
食べ慣れないものを口にした腹ごなしと、久しぶりの陽射しを浴びるため、事務所までは靖国通りを歩いて戻った。事務所に帰って、まず最初にしたのは、デスクのパソコンを起動させることだった。ディスプレイにメールを三件受信していることが、表示される。淡い期待を持ってメールボックスを確認してみると、やはり二件とも待ちわびる相手からのものではなかった。連絡をするよう岡辺にお願いをしたのは、つい先刻のことだ。いくらなんでも早すぎる。
私は戻るまでの道すがら、喫うことのできなかった煙草をくわえて、届けられたメールを読んだ。二件のメールのうち、一件にはこうあった。
ご無沙汰しています。
三鷹駅前の〈ヴェルマ〉で、お会いした竹本智恵です。
先日はありがとうございました。
あれから、池畑君や井原君たちがお店に来ました。
みんな、博之のことを心配していました。
わたしも、中原中也の詩集を返さなければならないし……
お仕事は大変かと思いますが、一日も早く博之を
見つけてください。
よろしくお願いします。
〈ヴェルマ〉の智恵から送られてきたメールは、大人に書くことを意識しすぎて、母親から添削でも受けたのかのように、歳の割には堅苦しい文章で綴られていた。
ブックマッチで煙草に火をつけてから、智恵への返信メールを書き始める。ぬか喜びをさせるでもなく、かといって落胆させるでもないメールを書き終えるまでには、パーコレータに残っていたコーヒー一杯分のカフェインと煙草三本分のニコチンを必要とした。
左に向いた矢印をクリックして、メールが送信されたことを確認した後、もう一件のメールを読んだ。〈ヴェルマ〉の智恵よりも先に、返信をしなければならないはずの相手へのメールは、気乗りのしない分だけ時間を要しただけで、カフェインもニコチンも補充することはなく、明日の面会を約束する形で結んだ。
メールを送信した後、すっかりぬるくなったコーヒーを一口飲んだ。岡辺の証言で熾き始めた疑念は、くすぶるどころか、勢いを増す一方で、気分は晴れなかった。
私の心を逆撫でするように、デスクの上に置いた携帯電話が震えだす。ディスプレイに表示された名前を見て、事務所にいるのは私だけであることを確認して、あからさまに舌打ちをした後で電話を手にした。
「おゥ、調子はどうだ?」
尾藤の第一声は、つい一時間ほど前とまったく同じ科白だった。
「……なんだ、お前の暇つぶしにつき合うほど、俺は暇じゃないんだ」私も先刻と同じような科白を返す。
「なんなの? その口の利き方は? ちょっと訊きたいことがあって、電話をしただけなのに……」
「訊きたいこと? 早く言えよ」
「なんか、ご機嫌斜めのようだねェ……ま、いいや。さっきまで、下山さんと話をしてたんだけどさ、ちょっと頼まれたことがあってね」
「下山文明か?」
「ああ、そうだよ」
いつの間にやら、尾藤は下山文明から頼まれごとをされる仲になっていたようだ。他人の懐にスッと入り込んでしまう彼の性格を、うらやましくも思う。
尾藤が続けた。「〈聖林学院〉に関連するイベントを、計画してるそうなんだけどさ。確か……〈聖林学院〉って、今回のきみの仕事に、関係してたよね?」
新しい煙草をくわえて、尾藤に「そうだ」と答え、話を進めるよう促した。
「それがさ、ボランティアっての? タダでやらなきゃならないって、言ってるんだよ。まァ、世の中、金ばっかりじゃないから、それは、それでいいんだけど……なんか、気になってさ」
〝世の中、金ではない〟――まさか、この男からそんな言葉を聞くとは思ってもみなかった。
「――だったら、お前にひとつ頼みがあるんだ」
「頼み? なにそれ?」
「ああ、実はな――」私はブックマッチで煙草に火をつけてから、澱のように溜まった疑念を打ち明け、ひとつ頼みごとをした。
最後まで聞き終えた尾藤が訊いてきた。「わかったよ……で、いつまで?」
「明日まで。明日の〝朝一〟だ」
「おい! いくらなんでも、それは――」
「下山さんに対しては、全部お前の手柄にしていい」声を上げる尾藤を遮った。余計な駆け引きをするつもりはない。
この一言が効いたのか、〝快く〟とまではいかなかったものの、尾藤は私の頼みごとを引き受けてくれることになった。
お礼を言って携帯電話を切った後、事務所に籠もらざるを得なくなってしまった私は、持て余した暇、いや時間をつぶすためのものを探した。偶然、本棚に『黒いチューリップ』というタイトルの本が納められているのを見つけて、古い文庫本と注ぎ足したコーヒーを手にデスクに戻り、四百年前の異国で発生した〝チューリップ・バブル〟にまつわる一大叙事詩を読んで過ごした。
事務所にいる間、尾藤から連絡が入ってくることはなかった。
大江から一報が入ったのは、帰宅の準備を始めた日付が変わる頃のことだった。
雨がやんだら(8)