【一章】meria
一章
歩き出してどのくらいの時が経っただろうか。
愛菜は広く生え育った麦を掻き分けて畑を進んでいた。
いつまで経っても麦、麦、麦。麦以外何も無い。
もはやこの畑が人の手によって作られた畑なのかも怪しく感じてきた愛菜は落胆し、麦の上に大の字の仰向け状態に倒れ込む。
「ハァ、本当に麦しかない……」
もう歩きたくない。麦なんて見たくもない。
そんなうわ言の様な言葉をを呟きながら、虚しいくらいに綺麗な青空を見つめた。
こんな綺麗な青空、今まで見たことないや……。
そう、ぽつりと思うと今度は心地よい風が愛菜の髪を撫でるように通り過ぎていく。
風と一緒にどこからか流れてきた雲を暫く見つめていると何やら体が重たく感じ出す。
そんな感覚と一緒に愛菜は、この見たことないくらい綺麗な空も、誰も居ない大きな麦畑も何もかもが夢ではないだろうかと思い始めた。次第にまぶたが重くなり、うとうとと意識が薄れ始める。
そうだ。これは夢なんだ。
こうやって、授業中に眠っていたりするんだと安心したのか心地よい眠気が愛菜の体を包んでいった。
「あの……」
誰かに呼ばれた気がした。
だが愛菜は夢の続きだと思い、また眠気に体を委ねる。
暫くするとまた声がした。可愛らしい女の子の声だった。
「あの、大丈夫ですか?」
聞き覚えの無い声と体を揺さぶられる感覚で、愛菜の意識が次第に覚醒していく。
ゆっくり目を開くと、自分とそう変わらない年頃の少女が心配そうに愛菜の顔を覗き込んでいた。
「……ここは?」
「ここ?わたしの住む村の畑ですよ」
眠気眼で重たい体を起こしながら言った愛菜の言葉に、少女はにこっと笑顔で答えてくれた。
大きく綺麗な緑色の目とふわふわとした小麦色の髪を持つ、可愛らしい少女だった。
「大丈夫ですか?こんな所に倒れていてびっくりしました」
起きた愛菜を見てほっとしていた少女とは裏腹に、愛菜は目の前に広がる麦の畑を見て愕然とする。
麦なんて見たくもない。そう願ったこの光景が現実であることに愛菜はショックを隠せなかった。
「やっぱり夢じゃないんだ」
そう呟き立ち上がると足元で踏み潰された麦が音を立てる。
「あ、ごめんなさい。村の作物こんなにぐしゃぐしゃにしちゃって」
人の形に潰れてしまった麦を見下ろしながら、申し訳ないと少女に謝る。
少女はそんな愛菜の顔を覗き込み、明るい声で問題ないと無邪気に笑う。
「まだいっぱいあります。気にしないでください。それより」
少女は不安そうな顔で立つ愛菜を上から下まで見る。
何やら物珍しそうな様子で愛菜を見ていた少女は何か納得したように手を叩き、こう問いかけてきた。
「ひょっとして、旅人さん?」
「え!?」
その言葉に驚く愛菜を見て少女が違うのかと首を傾げる。
「いや、その……ちょっと道に迷ったみたいで、あとなんか記憶も曖昧で……」
なんと説明していいのやら。
戸惑いながらここが何処であるのかを尋ねようとする愛菜だったが、少女の名前が分からず口ごもってしまう。
「わたし、エステル。エステル=カミルって言います」
困った様子の愛菜から察したのか少女が笑顔でそう名乗た。
少女エステルはニコニコと満面の笑顔で愛菜の言葉を待っているようだ。
「私は……愛菜、新見愛菜」
「アイナ?なんか変わった響き。何処から来たの?ひょっとしてこの国の人じゃないの?」
どうやら愛菜が珍しく思うのか、興味津津と次々に質問を投げかけてくるエステルの笑顔を見て、愛菜は何とも言えない複雑な気持ちになった。
そもそもここが何処なのか分からないし、なんで自分がここにいるのかも分からない。
とはいえ戸惑ってただ黙っているだけでは何も始まらないし、自分に対して興味を持ってくれているエステルに対しても失礼だろうと愛菜は思った。
勇気を出してエステルに向かって口を開く。
「あのね、エステル。変な質問していいかな」
「何なに?」
「ここ、何処かな」
きょとんとするエステル。
予想していたとはいえ、こうも想像通りの反応をされてはもはや笑うしかない。
「その、とりあえず今居る位置を確認したいなーなんて」
「あっ、そういう事ね!」
旅人と勘違いしているエステルを利用し、それっぽい事を言って誤魔化す。それを聞いて納得してくれたが気分は複雑だ。
エステルはコホンと咳払いの真似をして、ちょっと演技のかかった説明口調で教えてくれる。
「ここはレイ王国の領土内にある、カミル村という小さな農村の畑です」
「レイ王国?」
「はい。レイ国王陛下の治める小国です。……知らずにここに来たの?」
「う、うん……」
エステルの話は聞けば聞くほど愛菜は不安になった。
もちろんレイ王国なんて聞いた事も無い国の名前だった。いきなり外国に放り出された気分とはこういうものなのだろうか。
目の前でおかしいなぁと首を傾げるエステルは逆に質問をしてきた。
「アイナの生まれた国は?」
「に、日本って国。分かる?」
恐る恐る言ってはみたが、聞いてきたエステル本人は片言のオウム返しをしながら首を傾げている。
全然、まったく、聞いた事がないそうだ。
愛菜は更にこんな質問もしてみた。
我ながら馬鹿馬鹿しいと思いつつも、もしかしたらと思い切る。
「じゃあ、地球ってわかる?」
エステルはふるふると首を横に振った。今度は悩む事も迷うことも無く。
愛菜は諦めてこれ以上の質問を止める。そう、今分かった事はここが日本でも地球でもないという事だった。
それっきり何も言わなくなった愛菜を見て、エステルは顔を覗く。
目から涙が滲んでいた。
「どうしたの。わたし何か酷い事言っちゃったかな」
「ううん、そんなことないよ。エステルのおかげでここが何処なのか分かったから」
愛菜はゴシゴシと音が鳴るくらい目を袖で擦る。
エステルも励ましの言葉をかけ、愛菜の落ち込んだ気分が収まるまでと他愛も無い会話を始める。
その時に記憶があまり無い事も打ち明け、これからどうしたらいいのかと悩みを打ち明けてみた。
「城下に行ったら人もいっぱい居るからアイナやアイナの住んでいた国の事を知ってる人が居るよ、きっと」
「そうだといいな」
「わたしのお父さん村長なの。お父さん何か手がかり知ってるかも。ねえ、村に行こうよ」
畑に居るだけでは事態は変わらない。
愛菜は立ち上がって今出来る最大の笑顔を見せた。
「うん、そうだね。このまま麦畑で立っていてもしょうがないもんね」
「そうだよ。とりあえず村に行こう」
愛菜の表情も少し明るくなった。その様子を見てエステルも満面の笑顔になる。
愛菜は村のある方向へ指を指して案内するエステルに手を引かれ歩き出した。
土地勘の無い愛菜が居るため人が通るように整備された道を歩く方が安全と考えたエステルは見えてきた畑の端を指差す。
「街道だよ。畑を避けて作ってるからちょっと遠回りになるけど、ここより歩きやすいよ」
振り向き様にそう言うエステルに愛菜は違和感を覚え始めていた。
普通の人と何かが違う気がすると、愛菜は足を止めてエステルを見つめる。
「どうしたの、アイナ」
急に足を止めた愛菜にエステルが首を傾げたことで何が違うのかが分かった。
エステルの心配そうな顔と、その頭部にあるソレが愛菜の目に映る。
彼女の頭部に小さな角が生えていたのだ。
「それ角!?」
角を見て驚いた愛菜の声にエステルも驚いた声を上げ、自分の角を確かめるように触る。
「わたしの角、そんなに変かな」
「ど、どうして角なんて生えてるの!?」
エステルの頭に生えている角は少し小さいが羊のそれによく似ていて、丸く内側へ弧を描いている。
今までまったく気が付かなかったが、確かにそれは愛菜の知っている人間が持つものではなかった。
顔を青くする愛菜を見て、エステルは本当に不思議そうに愛菜の疑問に、疑問で答える。
「角の無い人なんているの?」
冗談を言っている様な顔には決して見えなかった。
いきなり麦畑に放り出されて倒れた後、角の生えた人間に助けてもらった。そんな非現実的な出来事が次から次と起っている。
愛菜の頭の中は理解し難い出来事、見たことも無いもので頭の中がいっぱいになっていた。
そしてそれを拒否するように愛菜の意識が、プツリと音を立てて消える。
「アイナ!?」
いきなり意識を失って倒れた愛菜に駆け寄ると愛菜の顔は真っ青になっていた。
「ど、どうしよう」
体を起こそうか、それとも誰かを呼びに行こうか。どうすればいいのか迷いおろおろとしているとエステルを呼ぶ声が聞こえ、ハッとする。
形は大きく違えどエステルと同じく角を生やした青年が農具を担いで駆け寄ってきた。
幼なじみである青年を見てほっとしたのか涙目で彼の名前を呼ぶ。
「クラエス」
「お前、帰ってこないと思ったら何してんだよ」
「倒れてっ、顔が真っ青で!どうしたら……どうしよう!」
「分かった!落ち着け」
焦りと混乱で最後は説明にすらなっていないエステルの言葉に呆れながら、クラエスは倒れた愛菜の姿を見て直ぐ様理解した。
「何があったかは後だ。早くおじさんに知らせてこい」
「ありがとうクラエス」
エステルに涙目でじっと見つめられ、赤くなりながらはやく行くように叱りつける。
無言で頷き、急いで村へ向かって走り出したエステルを見守りながらクラエスは持っていた農具を置いて、倒れた愛菜を背負う。
「重いな。急ぐか」
華奢に見えた愛菜を背負うとずっしりとした重さが背中に掛かる。クラエスは表情こそ変えないが意外と思わず声を漏らす。
この重さで近くの街道を歩いていては時間がかかると判断し、クラエスは畑を突っ切って村へ向かう事にし、走りだした。
途中何度か背負い直しながらも走り続けていたが、先程より離れた街道に見慣れぬ影を見つけ思わず足を止める。
馬車だ。しかも農業用ではなく、遠目でもわかる良質な馬車であることにクラエスは更に不審に思った。
「なんでこんな田舎に」
そしてちらりと背負った愛菜を見る。
迷った挙句クラエスは馬車に向かって走り、街道へ駆け上がった。勢い余って馬車に突撃をかけそうになりながらも窓を叩き中にいる者へ接触を試みる。
すると御者台にいた男からものすごい剣幕で怒鳴られた。
「無礼者!乗っているお方を知っての狼藉か」
「知らん!そんなことより一大事なんだ。おい中の奴も顔だけでもいいから出してくれよ」
その言葉に答えるように馬車の窓が静かに下りる。
クラエスはその馬車の持ち主の顔を見て思わずぎょっとし、言葉を失った。
「これはまた、騒がしい青年だな。何用かね」
中からは壮年の男が顔を出し、落ち着いた声でクラエスに問いかける。だが、クラエスは男の奇妙な出で立ちに釘付けとなり問いに答えることが出来なくなっていた。
男は大きく後ろへ弧を描く美しい角を持ち、額には奇妙な紋章が描かれていた。豪奢な装飾の衣装に身を固め、ニヤついたようなねっとりとした目でこちらを伺っているのが不快感に拍車をかける。
どこぞの貴族なのは理解できたが、同時に関わってはいけない人間だということもクラエスは本能的に察知し、後悔した。
「おや。そちらのお嬢さん、顔色が優れないようだが、どうかしたのかね」
「いや、どうもしねーよ。ただ、あんた達の知り合いかと思って……」
「あいにく、むさ苦しい男三人旅の最中でね。その可愛らしいお嬢さんは私の知り合いではないよ」
「そうか、邪魔したな」
ちらりと馬車内にもう一人男がいることを確認した。
貴族風の男とは違い、甲冑に身を包んだ物騒な格好をした男が我関せずと視線を逸らしている。
「まぁ、待ちたまえ」
こうして話している間、クラエスに向けて持っていた弩を構え続けている御者のせいで逃げるタイミングを逃してしまった。
矢を向けられたことに焦ったクラエスは声を張り上げる。
「急いでんだよ!」
「ならばこの馬車に乗ればいいではないか。その状態のままではその可憐なお嬢さんが可愛そうだろう」
そう言って男は馬車から降り、中へ入るよう促す。
具合の悪い愛菜がいるため急がねばならないことは事実だった。だが、それ以上にこの怪しい男に関わっていいものか迷う。
葛藤するクラエスだったが背中が急に軽くなった為、まさかと振り返る。背負っていたはずの愛菜を抱き上げ、馬車に乗り込んでいく男の背を見て慌てたのか、そのまま乗り込んでしまった。
「安心したまえ、礼は不要だ。我々も君の村に入る言い訳を考えていたところだったからな」
「な、何の話だ」
「特に、このお嬢さんにはお礼をたっぷりして差し上げなければねぇ」
正面に座る男の顔がニヤリと歪み、膝を枕に寝かせていた愛菜の頬を撫でながら不気味な笑い声を漏らした。
それを見せられたクラエスの背にゾクゾクと寒気が走り、急いで愛菜を自分の元へ奪い取る。
「冗談だよ」
くすくすと笑ってみせる男だが目が笑っていないところ、信用出来ない言葉だ。
馬車の中から見える村がだんだん近づくにつれ、嫌な胸騒ぎが次第に大きくなっていく。
「それってウチの国の紋章だよな」
よく見ると隣で我関せずを貫き通している男の甲冑には黄色い羽のような紋章が描かれていた。
こんな田舎者でも自分の国の象徴くらいは知っている。と、クラエスは質問の答を求めて正面で座る男に視線を集中させる。
「納税なら問題なくしてるだろ。なんの用で国の役人がこんなトコに来てるんだよ」
「別に税の取り立てに来ている訳ではないよ。こう見えて私は政治家と言うよりは兵隊だし」
確かに、肩をすくめて否定する男は独特な赤い軍服を身にまとっている。それは確かにこの国に所属する衛兵士特有の服装だ。
だがおかしな部分もある。彼の胸に大きく描かれた紋章。それは王家と国を象徴する羽の紋章ではなかった。
白い双頭の白い蛇が螺旋を描く紋章。その紋章がこの男の生まれを象徴していることは容易に想像できる。
「お貴族様が衛兵ごっこかよ」
田舎で麦ばかり作る生活。決して楽ではないし、お世辞にも裕福とは言えない生活をしているクラエス達からすれば彼らはあまりいい気分のしない人種だ。
多額の財産が生まれながらにあり、その地位をこれ見よがしに主張してくる彼らは、一般階級の人間からは煙たい存在でしか無い。おまけに決して高いとはいえない身分の職に付いている。神経逆撫でしているとしか思えなかった。
「口の利き方には気をつけ給え」
身分の違いから来るやり場のない不満をつい漏らしてしまったクラエスに対し、男は冷静に言葉を返した。
するとクラエスの身体が急に何かに反応し、顔をあげる。怯えながらも男をまっすぐ見つめたまま捉えて離そうとしない。
ふっと笑う彼の額で何かが動いた気がした。
「へぇ、良い感してるようだねぇ」
がっしり頭を捕まれ指の間から見える男の不気味な笑った顔がそう言った。その瞬間から奇妙な耳鳴りがクラエスを襲い、頭に直接響くような声が聞こえた気がした。
名前を寄越せ。
たしかにそう聞こえた。
「あ……ぐっ……」
「君、ちょっと嫌いだなぁ」
もう少し食いしばる力が弱ければ、名前を口にしていただろう。
彼の手から開放され床に転がったクラエスは全身から吹き出す汗を拭いながらようやく理解した。心を操る魔術師がいるという話を聞いたことがあるが、この男がまさにその魔術師なのだろう。
先ほどの奇妙な声を聞いてから全身が震えて思うように動かせない。それでも必死の抵抗か、クラエスは目に涙を溜めながら男の顔を睨み返していた。
それをニヤついた顔で見下ろしていた男だったが急に真剣な顔をしたかと思えばクラエスを蹴り上げ車内の端に追いやる。ゴロゴロと転がり腰掛けに顔をぶつけたクラエスは恐怖も消し飛び怒り顔で起き上がった。
何をするんだと叫ぼうとした彼の目に先ほどまでぐったりしていた愛菜が起き上がっている姿が映る。
「だ……」
「大丈夫かね、お嬢さん」
台詞を取られた。
男の行動に唖然としているクラエスは眼中から消し、それどころか男は愛菜の両手を握り、彼女の顔しか見えないくらい顔を近づけている。
「あ、セット君?そこを退きたまえ」
「あんたさぁ、その病気なんとかなんねぇの」
セットと呼ばれた甲冑男は辟易とした様子で大きなため息をした後、反対の席に移動した。対してにやけ顔の男は顔どころか体も密着させて愛菜へ愛想を振り撒きだす。だが、当の愛菜は状況が読み込めていないのか呆けた顔で辺りをキョロキョロと見渡している。
そしてようやく視線が目の前の男と合致した。
「気分はどうかな、ん?」
「あ、あの……」
愛菜は男を見た後、そばにいる青年と甲冑を着た男を見て、もう一度自分の手を握る男を見上げる。
彼ら全員、頭から大きな角が生えていた。
愛菜は「角……」とだけ呟きまた意識を失うのだった。
座り直し、自分のひざ上に愛菜を寝かせた男は難しい顔をして黙りこんでしまう。愛菜がうっすら見せた拒否と拒絶の表情が脳裏から離れず衝撃を受けている最中なのは理解できた。
「何振られて理解できないような顔してんだよジジイ」
「なっ!きっ聞き捨てならないぞ!わっ、私はまだ五十一でジジイなどと言われる歳では無いぞ」
「吃ってるぞ、ジジイ」
「吃ってねーし!!」
動揺で噛みまくっている男にズバズバと遠慮のない突っ込みを入れていくクラエス。その横で堪えながら笑いを漏らすセットを見て男の顔が更に屈辱そうに歪む。
膝上で苦しそうに愛菜が何度か角、角と呟くので、男はクラエスを睨みつけたまま愛菜の頭を撫で続けた。
「閣下、そろそろ村に着きますが」
「入り口で彼らと降りる。具合の悪い人間も一緒にいれば、あの強情な男も少しは融通を利かすだろう」
「はっ」
御者台の男とのやりとりを睨みをきかせて聞いていたクラエスはずっと愛菜の事が気がかりだった。エステルが気にしていた事もあるが、この男の愛菜を利用する口振りがどうも気になっていた。
治安状況を確認しに巡回する衛兵だって珍しいものじゃない。クラエスだって今まで何度も見たことがあるし、なんの問題もなく数日で拠点のある街へと帰っていく。年に数回来る役人だって時には少ない税収率に嫌味も言うが、彼らも彼らの仕事をして帰っていくだけだ。
村の長はお世辞にも人付き合いが得意とはいえないし、むしろ気むずかしい人なのだが、それでも仕事であれば問題なく国の人間とやり取りはしていたはずだが。
「今更だが、君には色々協力してもらうよ」
「たぶん、あんたの期待していることは俺じゃうまくいかないと思うぜ」
そう冷たく言い顔を逸らした。
「村長とはあんま仲良くねーから」
外の様子と馬車が大きく揺れた事から停止した事がわかった。村の入り口に立つ見知った中年男性を車内からじっと見つめてクラエスは一人言のようにぼやく。
愛菜を負ぶって馬車から折り時も、彼からの視線が痛く感じたクラエスだったが、幼なじみのエステルの声が近づいて来た時は救われた気がした。
「家で休めるところを用意してるから急いでクラエス!」
「あ、ああ……」
案内すると自分の家に向かって走り出したエステルの背中と、背後の男の顔を交互に見る。男はにやにやと変わらぬ顔のまま早く愛菜を運ぶよう手を軽く払う仕草を見せた。
自分たちを村に入る為に利用するといった口ぶりの割にはやけにあったりとしていて違和感を覚える。だが、もたもたしていたせいでエステルに怒鳴られた為に慌てて彼女の家に向かって走った。家に入ると二階へ一直線に向かい、エステルの部屋の寝台へと愛菜を寝かせ早々にクラエスは部屋から追い出される。
エステルは愛菜に少しずつ水を飲ませた後、事前に用意していた濡れた布で顔や体を拭き、ほっとした笑顔を見せる。
寝息が落ち着いたことを確認し、静かに部屋から出た。
「必要なものあったら持ってくるぞ」
「うん、ありがとう。それより……」
階段を降りながらエステルが不思議そうにクラエスの顔を除いてくる。
「一緒にいた人達はどちら様?」
「……いや、途中状況察して馬車に乗せてくれただけだ」
「じゃぁ、お礼を言いに行かなきゃ」
いや、やめた方がいい。と止めるクラエスの言葉に、エステルが少し怒った様子で首を更に傾げた。助けてもらっておいてその態度はよくないと咎められクラエスは返す言葉もない。
家から出てすぐ、村の入り口方向からなにやら黄色い声が上がり、二人は不思議そうに顔を見合わせる。村の色々な方向から人が集まりだし、特に女達は興奮状態で走って行く。
「ねぇ聞いた!?王様の花嫁候補を探しに国の偉い人が来てるんだって」
「じゃぁ私たち王様と結婚できるかもしれないの!?」
「すごーい!!早く見に行こう」
その会話を聞いてもう一度エステルとクラエスは顔を見合わせる。二人とも複雑そうな顔をした後、クラエスが「だから言っただろ、やめた方がいいって」と呟いた。
エステルは否定も肯定も出来ず、自分の父親がいる騒ぎの真っ只中へ向かう事となった。おそらくこの事態に困惑しているはずだ。
「お父さん、また何か騒ぎ起こさなきゃいいんだけど……」
「おじさん、本当に外の人間嫌いだよな」
二人の予想は的中し、村の入り口付近で出来た人集りから黄色い声が消え、代わりに男の罵声が聞こえてくるようになった。
近くまでは来たものの、割っては入れる空気でも無く、エステルは俯きながら人混みに紛れてそれが終わるのを待つことにしたようだ。
やれやれとクラエスは揉め事の最中である彼女の父と、対立している国王の使いご一行の近くまで人混みを掻き分けて距離を詰めた。
「村の娘を寄越せ?この村を潰す気か?貴殿の主は気でも狂っているのか?」
「大変無礼なお願いであり、カミル殿には多大なご迷惑をお掛けすることも重々承知しております」
あのにやにやとらえどころ無い言動をしていた赤い軍服の男が地に膝を付け、深々と頭を下げる光景を見てクラエスは思わず身を引く。
「どうかこの国の存続の為、貴殿にはお力を貸して頂きたい」
静かに頭を下げて返答を待ち続ける男を無の表情で見下ろす村長のカミル。表情を一切崩すこと無く静かに持っていた農具を天へ振りかざした。殺気を感じ、軍服の男を守るようにセットが前に出て剣を構える。だが、彼の目に映ったのはカミルでは無く若い娘の背中だった。
「やめてお父さん!この人達は私のお友達を助けてくれた人だよ!!」
両手を広げて止めに入った娘の言葉にも黙ったままだ。だが静かに振りかざした農具を下げ、その場を去る。
村人も避けるように道を開け、恐る恐る彼の背を見つめた後、疲れたようなため息を付きながら散らばっていく。黄色い声を上げていた少女達もあきらめの言葉を漏らしそれぞれの家に帰っていく。
「あの、すみません。父がご迷惑を」
「いや、仕事だし気にしてねーよ」
ぺこぺこと必死で頭を下げるエステルとは対照的に、セットは剣をさやに戻しながら軽い口調で答える。その様子を見た赤い軍服の男が血相変えて駆け寄り彼の頭を小突く。
「ってぇなぁ!何すんだよ」
「このお嬢さんへ口の利き方は気をつけたまえ」
「?」
その言葉が何を意味しているのか理解できず首を傾げるエステルの手をがっしりと握り、またあのねっとりとした笑みを見せる。何故手を握られているのか戸惑う様子は見せるが、拒否反応を見せるわけでも無く、エステルはただただ困った様子で男の顔を見返えしている。
「先ほどはありがとうございます」
「こちらこそ父が大変失礼な事を言ってごめんなさい」
「私、国王陛下の使いで参りましたエクセル=エルメルトと申します。以後お見知りおきを……エステル=カミル嬢」
今初めて出会ったはずなのに自分の名前を呼ばれる。彼から異様なものを感じ取ったエステルは直ぐにその手を払いのけた。
怯えた表情のエステルを見つめ、エクセルは目尻と口端をニィッと歪ませたかと思うと急に「可憐だ」と呟いた。
叩かれた手で揉み手をしながら口から笑いが漏れ出す。悦に入るとはこの事だろうか。
この状況に我慢できなくなったセットが二人の間に割って入り、この男は病気だから気にするなと言って彼の存在をエステルの視界から消した。
「あの、エクセル様……父は何を言ってもお話は聞かないと思います。お引き取りください」
「断る」
真っ直ぐな視線と一緒に向けたエステルの言葉と、直ぐ様返ってきた連れ言葉にセットは軽く驚いた。
セットからその場を離れるように指示を出すエクセルの表情はニヤけたままだが、先ほどとは目の色が違う。彼女と同じように譲れないものを主張した目で、じっと彼女を見つめ返す。
「また明日、お会い致しましょうね」
「…………」
最後にエクセルが柔和な笑顔を見せた後、エステルの身体が一瞬大きく振れた。
急に時間が止まったような感覚と耳鳴りが襲ってきた。周囲の音は一切聞こえなくなり、耳鳴りと自分の鼓動だけが聞こえる時間が随分長く続いたように感じた。初めの恐怖から次第に全身の力が抜けていき、心地よいとまで感じるようになってきた頃にエクセルに呼ばれる。
「エステル嬢」
はいと答えなければ。エステルはそんな風に思え、口を開きかけていた。
だが、異変に気づいたクラエスが付近に置いてあって農具を持ちだしてエクセルに向かって振りかざし、彼をエステルから引き剥がした。
エクセルは無駄のない動きで農具をすれすれで躱し、術が切れて呆けた様子のエステルに笑ってみせる。それ以上は何か言うこともなく、連れの男達をつれて村の奥へ消えていった。
「おい、無事か」
「…………夕食の買い出しに行かなきゃ」
黙ったまま動かずエクセルが立っていた場所を見つめ続けるエステルに恐る恐る声をかける。だがクラエスの言葉には返事をせず、まるで逃げるかのようにエステルはクラエスから離れていった。
何か気に障っただろうか。不安を口にしながら彼女の後ろを付いて行くしかできなかった。
***
自宅に帰った直後、エステルの父カミルは玄関先で壁を殴りつけ怒りで震えていた。
「化物分際でぬけぬけと……!!」
幾度と無く壁を殴りつけた後、ようやく落ち着いたのか腕を下ろす。ふらふらと家の中を歩きまわると手からは滲んだ血が床に落ちて彼の後ろをついてまわった。
何を探しているのかと思えば彼はまだ帰っていない娘の名前を呼んでいる。必死の形相で二階へ上がり、血の滲んだ手で彼女の部屋の戸を叩いた。
返事はない。
「エステル、まだ帰っていないのか」
部屋にはいるともちろん彼女の姿はなく、代わりに知らない少女が娘の寝台で寝息を立てていた。
暫くその様子を見ていたカミルは何かを思い出したように下の階へ降り、水と薬一式、あと何故か一冊の本を持って二階へ再び上がる。
少し寝苦しそうに寝息を立てる少女の横で薬となる草をすりつぶし水と混ぜ飲み薬を作り、彼女の口へ少しずつ流し込んだ。不味そうに顔を歪め、滲んできた汗を丁寧に布で拭き取る。
うっすら目を開いたように見えたのでカミルは大丈夫かと声をかけた。
「畑で陽にやられたのだろう。ゆっくりしていれば直に良くなる」
「あ……誰……」
今にも閉じそうな虚ろな目カミルを捉え、消えそうな小さな声で少女は問いかける。
「エステルの父親だ。娘もすぐに戻るから安心して休むといい」
「……あ……り……が……」
礼をすべて言い終わる前に意識が消えたのかまた寝息をたて出した。
落ち着いた様子を見届けた後、カミルは持ってきた本だけを手にし静かに部屋の外に出る。
扉を締めた後にその本を大事そうに抱くと表紙に埋め込まれた大きな宝石が青くうっすら輝き、怪しく笑みを浮かべるカミルの顔を照らす。
「ようやく現れた」
表紙に触れた手から滲んでいた血が宝石の中へと吸い込まれていく。傷が塞がるまで血を飲み込んだ後一層強く輝き、何の変哲もない本へ戻る。
手を握り開きをした後、カミルは満足そうな表情をして下の階へと降りていった。仕事場も兼ねた書斎にある本棚の隠し扉へ宝石の本を仕舞いこみ、何事もなかったように台所へ出て自分用のお茶を入れだす。
書斎から持ちだした書類に目を通しながら湯気の立つお茶を一口すすり、ため息を付いた。
内容は王家からの要請だ。国王、ダーリン=レイ・ハルシエルの花嫁となる娘の選定。並びに選びぬかれた娘を献上すること。
ただでさえ若い人出が少なくなってきている小さな田舎村で将来期待できる娘を一人失うのは痛手だし、安々と差し出せば民からも反感を買うであろうことは容易に想像できた。
「ただでさえ頭の痛い状況だというのに」
村長であるカミルと民たちのと間にある信頼関係に大きな溝があることは彼自身も良く理解していて、王家の要請を聞き入れれば溝は更に大きくなる事も容易に想像できる。
そしてそれが自身の娘であるエステルへと影響をおよぼすことも……。
「ただいま」
「ずいぶんゆっくりしていたな」
「うん……夕食何にしようか迷っちゃって」
両手に大量の食材を持って帰宅した娘の声が沈んでいる事に気がついたカミルはすぐにあのにやけた顔の男を思い浮かべた。
「あの男に何か言われたのか?」
あの男で特に思い浮かばなったエステルは首をかしげてクラエスの名前を上げた。だがカミルの顔からそうでないことを感じ取ったエステルはカミルが思っているようなことは無かったと伝える。
心配症だと苦笑した彼女の背後から腕を掴み、自分の懐へと強引に引き寄せる。華奢な手首からは想像もできない力で拒絶するエステルに向けてカミルはやはりと声を上げた。
「何を言われた。答えるんだ」
「痛いっ、やめてお父さん」
「お前は私の言うことを素直に聞きなさい。さぁ言え!」
左腕を引き寄せたエステルの首に回し、彼女の体が浮く程に力を入れる。
喉に当たる腕でうまく喋れず口を何度も開け閉めして見せた後、ようやく出た言葉は先程と全く変わらない答だった。
満足したのかカミルは首に回していた腕を解き、ゆっくりエステルの体を包むように抱きしめる。
「お父さん、お前があの男にたぶらかされて居なくなってしまうんじゃないかと心配で」
頬を寄せ、髪を撫で、熱のある吐息と一緒に耳元でそう囁く父の言葉にどうしてそんな考えに至ったのか理解できず黙ったままエステルはぎゅっと彼を抱きしめた。
「大丈夫だよ。お父さんを置いてどこかに行ったりなんかしないから」
父の気持ちが落ち着くまで抱き合った状態のまま暫く経つ。先ほどの暴力とはまた違った刺激を与えてくる父の行為が終わるのをエステルは目を必死に閉じて耐えていた。
耳元で笑い声が聞こえ、エステルの身体が大きく震える。ねっとりとした何かが這いずりまわるような感触が耳を襲い、声にならない悲鳴を上げた。
「なぁ、エステル。お父さんの言った通りだっただろう」
「うっ……うん……」
「良かったな『お友達』が現れて」
まだカミルの言葉には続きがあったようだが、エステルはそれ以上聞くことが怖くなって両手で彼を突き飛ばしてしまう。何も考えず、必死だったせいで力加減を考えなかった為、カミルが大きく吹き飛ぶ姿が目に映った。
そのまま本棚へと盛大に突っ込んだ。
「……ごめん、お父さん」
衝撃で棚から落ちてきた本に埋もれる父にエステルは素直に謝った。
その後カミルは本棚を片付け、エステルは夕食の支度を始めだす。肝心の食事の時間も終始無言だったがいつもこんなものだった。
「明日はあの男がきて私の書斎を使うから、すまんが後で人が入れるくらいに掃除をしておいてくれ」
「えっと、明日は何をするの?」
「お前は何も気にしなくていい」
そう言って食事の終わった食器を重ねたあと、二階の寝室へと向かってしまう。
重ねたはいいが片付けずに置いていった食器を見て呆れながら立ち上がったエステルは自分の食べ終わったものと一緒に洗いものを始める。ようやく一段落がついた頃には外はすっかり暗く、夜も深くなっていた。
「アイナにご飯持って行かなきゃ!」
いろんな事がいっぺんに来たような一日を思い返し、呆然としていたエステルがようやく思い出したのは自分の寝台に寝かせたままの新しく出来た『お友達』の存在だった。
慌てて用意していたおかゆを持ってバタバタと二階へ駆け上がっていく間も、父の言っていた『お友達』という言葉が引っかかっている。
不安そうに部屋のドアを開けると、まだ眠っている愛菜の姿をみて、妙にほっとした。
エステルは床に食事を一旦置き、持ってきた布で愛菜の汗を綺麗に拭き取る。すると愛菜の目元がむずむずと動き、うっすら、おそるおそると両まぶたが開いていった。
ようやく半開きになった愛菜の瞳に自分の姿が映り、エステルはにこっと笑って愛菜を呼んだ。
「アイナ、ご飯持ってきたよ」
「エステル?」
「どうしたの。私の事、忘れちゃった?」
「ううん、なんか……もっと他に誰か居たような気がして」
男の人を何人か見た気がすると言って愛菜は口に手を当ててうーんと唸る。
おそらくクラエスや愛菜を運んでくれたエクセル達の事を言っているのだろう。エステルもなんとなく気がついたが、クラエスはともかく、エクセル達はエステル自身も初対面だったし、説明するのがややこしかったのでそんなことより食事をしようと強引に話題も持って行った。
「うちの畑で取れた麦と、ミルクで作ったお粥だよ」
「凄い。これエステルが作ったの?」
茶色く一筋の線が入った大粒の麦が甘く良い香りのするスープの中で柔らかくなり形が崩れかかっているのが分かる。一口すすると甘いが少し塩気のある味が癖になりそうだ。
コーンスープやシチューに似てる。と愛菜は考えながら粥を何度も口に運んでいく。
「おいしい?」
「うん!凄く!!」
黙って食べる愛菜を不安そうに見ていたエステルだったが、その必死な声を聞いて顔を赤くして嬉しそうに微笑んだ。
「エステル凄いよ。私、料理全然だめだったからなぁ」
そう呟くと一瞬学校で調理実習をした時の記憶が頭を過ぎり、愛菜の顔が見る見る萎んでいく。
そんな愛菜を見て慌ててエステルは空っぽになった器に追加のお粥をいれて愛菜に手渡す。
なんだか足りなくて落ち込んでいるように見られた気がして、愛菜は恥ずかしそうに頷き、お粥を口にする。
「そういえば、たぶんエステルのお父さんに会った気がする」
「えっ、お父さんが?」
「なんかお薬飲ませてくれた記憶がある。髪の色とか雰囲気がエステルに似てた気がする」
「あ!ホントだ。もう、薬の器私の部屋に置きっぱなしにしてるし」
部屋の片隅に汚れた食器を発見したエステルはだらしのない父の行動にプリプリと怒って仕方ないと片付けをする。
その様子を見て愛菜はくすくすと笑う。
「お父さんとお母さん、心配してるかな」
笑った顔が少しさびしそうで、エステルはすぐに愛菜の気持ちを察知した。
愛菜に貸していた自分の布団に潜り込み、愛菜のお腹をこしょこしょをくすぐり始めるのだった。
「ちょっ!?食べたばかりでそれは駄目だよ!あはは」
「大丈夫だよ。寂しくならないように今日は私と一緒に寝ながら色んなお話しよ」
エステルが愛菜の腕をぎゅっと掴んで二人向き合って横になり、恥ずかしそうに赤くなってくすくすと笑う。
愛菜が掃除はどうしたのか聞くと、大丈夫大丈夫と二つ返事をしてまた二人でくすくすと笑った。
「あのね、今日はアイナが寝てる間に凄いことがいっぱい起こったんだよ」
「凄いこと?」
「お城の人が来てね、この村で王様のお嫁さんを探すんだって言い出してね。明日ここで花嫁候補を選ぶみたいなの」
こんな田舎にお城から人が来るなんて珍しいのに更に凄いと興奮気味にエステルは話してくれた。
愛菜は王様と聞いて立派なひげを蓄えた老人を思い浮かべ、そんな歳の離れすぎてる人と結婚なんて嬉しいのだろうかと疑問そうに顔をしかめている。
「そのお城から来た人がね、凄い魔術師みたいなの。私、術かけられてちょっと怖かったぁ」
「まじゅつし?」
「でもね!その魔術師さんの角、すごいおっきくて綺麗な形してたんだ。羨ましいなぁ」
うっとりするエステルの言葉を頼りに記憶をたどる愛菜は優しそうに笑った壮年の男を思い浮かべた。大きくて、綺麗な曲線を描いた角が頭から生えていた記憶があった。
あの人の事だろうか。愛菜の脳裏にその男のまっすぐ自分の顔を覗き込む薄い緑色の眼が蘇る。
優しそうだが、あの眼は自分の見えないところまで見られている様な嫌な感じがする人だったような気がする。だが、それでもエステルは楽しそうに彼らとの間に起こったことを話し続けている。ひょっとして自分の考え過ぎなのだろうかと愛菜はその気持を仕舞う。
「ねぇ……エステル」
「なぁに」
「エステルも角、あるんだよね」
「う、うん。私のは……小さいし、あんまり見た目良くないよ」
エステルにも角があることを思い出し、愛菜は彼女の角を話題に出した。するとエステルは身を起こし愛菜から少し距離を取ってそう答えた。あまり触れないで欲しそうだった。
「私だってほら、見えないよ?」
まずいところを聞いてしまったと焦った愛菜は追うように起き上がり、自分の頭を指差しながら自分も角が小さいから髪で見えないと嘘をついてエステルを励ます。強張っていたエステルの表情が少しだけ落ち着いたように見えてが安堵する。
「エステルの角は羊みたいで可愛いね」
「え……」
「エステルが言ってるあのおじさんの角は大きすぎて、私はびっくりしちゃうかなぁ」
愛菜は丸く渦を巻いた小さな角を触れて笑ってみせた。笑った後に反応がなかった為、また言ってはいけない事だったかとハッとして愛菜は恐る恐る顔を覗くとエステルは顔を赤くしてもじもじとしている予想外な反応をしていた。
嬉しかったのだろうか頭の中で疑問がいっぱいの愛菜にエステルは困ったように言う。
「アイナ、女の子同士でも角を触るのはあんまり良くないよ?」
「へっ!?」
あっ、そういうことか!愛菜は慌てて手を離した。
この世界の常識がいまいちわからない。ましてや角なんて生えていない愛菜にとってそれがどういう意味がある部分なのかもよくわからない。だが、あまり馴れ馴れしく触るものではないことが今のエステルの表情から察した。
たぶん、胸とかお腹とか……そういうのを触っている感じなのだろうと愛菜は推測して顔から火が出そうだった。
「ご、ごめん」
「ア、アイナはちょっとだけなら良いよ」
「そ、そう?ありがとう」
やっぱりわからない!
赤くなってもじもじと言うエステルの言葉に愛菜は動揺を隠せなかった。
エステルも何やら落ち着かない様子でベッドから降り、持って来た食器やらをかき集めて洗いものと掃除を片付けてくると言って出て行ってしまって結構時間が経つ。
何やらやらかしてしまった感じがして、愛菜は恥ずかしさのあまり布団に潜り込み身悶えをしながらまた眠りにつこうと眼を閉じる。
部屋の外でエステルの声が聞こえた気がするが、その頃にはもう眠気がまたやって来たその時で何を言っていたのかは愛菜には全く聞こえては居なかった。
「嫌!今日は嫌!!」
腕を捕まれ廊下を無理やり引きづられているエステルの頬に平手打ちが襲う。殴ったのは彼女の父親であるカミルだった。
カミルは冷たい表情でエステルを自室へ来るように腕を引っ張る。
真っ暗な父の部屋に放り投げられた後すぐに鍵を掛けられた音が聞こえた為、もう何を言っても無駄だと悟り、騒ぐことを止めた。
「あの娘が居るからか?」
暗がりにも目が慣れ、カミルが首元の釦を片手で外している様子が見えた。全て外し終わった後、父の冷たかった顔がゆっくり歪んだためエステルは小さな悲鳴を上げて部屋を逃げまわった。
「お願いお父さん、今日は本当に嫌なの」
「駄目だ」
ようやく捕まえたと腕を捕まれ、小さくなって震えるエステルの顔から血の気が無くなっていく。限界まで開いた目に映るのははだけた服から覗く父の胸板だった。
優しく頭を撫でた後、カミルは娘の角へ舌を這わせて笑う。
「ひっ……」
「お前が私を裏切らないように身体に教えておかないとな」
「お父さん、痛いよ……痛い」
後ろから覆いかぶさる父に口を塞がれた後、苦しそうに涙を流す。
「明日はあの男の目を見るな。声を聞くな。いいか、わかったな」
「うん……うんっ……」
「いい子だ。愛してるぞ、エステル」
最後の言葉で父が満足したことを理解し、エステルはようやく開放されるという安堵から意識を失う。
何度も身体を揺さぶられた感覚が残ったまま朝を迎え、起きた後も体中が重たくひどい気分だ。眠たそうな目でそばに居た父親を見るといつもの穏やかで優しそうな顔が寝息を立てていた。
「お腹、痛い……」
そう言ってシーツを被ったまま腹を抱えて部屋を出た。
そっとそっと音を立てないように下へ降りていく。心配なのはこんなところを愛菜に見られてしまうことだ。急ぎ下の階で適当に見繕った服に袖を通し、ひと安心。
次は朝食を作らないと。眠気眼でも頭はいつもの朝の習慣を呼び起こし、狂いのない手順で仕事をこなしていく。
「おはよう、エステル」
急に聞こえた父親の声にエステルはビクリと身体を震わせた。
「おはよう。お茶飲む?」
「ああ、頼む」
「うん、すぐ用意するね」
いつもと変わらない朝のやり取り。もうこの何も無かったかのような流れも慣れてしまった。
お茶を父の前に出すと、彼は静かにそれをすすりながら今日の仕事の書類に目を通している。いつもどおりの父の姿に安心してエステルの顔から笑顔がこぼれた。
「どうした、エステル」
「ううん。今日もいつも通りだなぁって思っただけ」
時々ある夜の折檻さえ我慢すれば、いつも優しくて大好きな父親であることに違いはなかった。
この一件が終わったらいつもの大好きな優しい父で居てくれるはず。そう信じて、エステルはにこにこ笑い続けることにした。
だがここでふと愛菜を思い出し、表情が曇る。
「アイナ、まだ寝てるのかな」
***
目が覚める少し前に、ひどく懐かしい顔を見たような気がしたが気のせいだった。
馬車で運んだ少女の顔が妙に忘れられなくて、夢にまで出ていた。久しぶりの情欲にまかせ微睡んでいたが、部屋の扉をやかましく叩く音で現実に戻される。
「てぇめぇ何回起こしたら起きるんだ!!いいかげんにしろよ!!」
「あのねぇ……上司をてめぇ呼ばわりしないでくれないかね」
ようやく起きたにも関わらず食事の目の前で今にも意識が飛びそうなエクセルに対し付き添いのセットが唾を吐き散らしながら怒りをぶつけている。
「いつもは侍女が優しく起こしてくれていたから勝手が違ってねぇ」
「はいはい!悪かったな」
軽口の叩き合いは出来るものの、本当に辛そうにお茶をすする姿を見てセットもそれ以上は何も言わなくなった。片手で持ったポッドを空になったエクセルの器へ傾け紅茶の追加を注ぐ。
乱暴な言動のくせにこういうところは妙に気が利くのは、おそらく彼の直属の上司のせいだろうなとエクセルは考えながらまた茶をすすった。
「しっかし本気で村の女全員話聞くのか?」
「流石に他の女達から不満が出るだろう。仮にも玉の輿のチャンスなのだからそのチャンスすら貰えないのは可哀想だろう」
「言っても、もう決まってるんだろう」
「そうでもない。やはり見てみないとわからないものもある」
味を変えるためミルクのジャムを入れ白く変色していく紅茶を覗き込みながら、意味深な言い方で呟いたエクセル。
ふと視線に気が付き顔を上げると宿の娘達がこちらを見て居た為、軽く手を振ってみせた。きゃっきゃと騒ぐのはきっと国王の花嫁を選ぶ人間と知って舞い上がっているのだろう。
「この村はなかなか可愛らしい娘が多いな」
「田舎だから、あんた好みの垢抜けてない女が多いだけだろ」
また始まったと呆れたセットはエクセルが手を付けようとしない朝食に手を付けだした。そんな事もお構い無く未だじっと娘達を見つめるエクセルは紅茶の最後の一口をすすった後、口端に残った水滴を舌ですくい取り下品な笑みを浮かべる。
「近くで『見る』のが楽しみだな」
もう一度、今度は自分がエクセルの顔を見ないようにする為にセットが紅茶を注いだ。
***
「へっくしゅん」
妙な悪寒がし、くしゃみが止まらなくなった。
外に出る支度をしながらくしゃみを連発するものだからエステルとカミルが心配そうに愛菜に外に出るのはよした方がいいのではと声をかける。
「でも、今日はなんだか忙しそうですし、邪魔をしては悪いですから」
「私達親子が忙しくなる内容ではないが、本当に良いのかい」
「ちょっと村の見学もしてみたいですし」
「落ち着いたら後で、私の幼なじみを紹介するね」
「うん。お仕事頑張ってね」
愛菜は起きてすぐに家の中がバタバタしている様子を目の当たりにして、これはまずいと外に出ることを決めた。
朝食を早々に終えて見送ってくれたエステル親子に手を振りながら村の中心へと向かって歩き出す。ポケットの中からエステルからもらったメモを取り出し、何処に何があるのかざっと見た後、適当に歩き回った。
まだ日も高くなく過ごしやすい空気の中、農具を持っていたり、洗濯物を干していたり、お店の開店準備をしていたりする色んな村人にすれ違う。そしてやはり皆、頭に角が生えていて、愛菜とは違う人達であることが痛いほど分かる光景だった。
ちょっと目立つのか愛菜が通るたび、皆珍しそうにこちらを必ずチラ見をしてくるのが恥ずかしい。
(やっぱり制服は目立つよね。とは言っても、これしか無いんだけど)
真っ赤な顔で俯いて歩いていると急に前からあー!と大声が聞こえたため、驚いて顔をあげる。
愛菜よりちょっと年上な青年がこちらを指差して向かってくる。
「アイナ、だったよな。もうブラブラしてて大丈夫なのかよ」
「え?ええ!?」
「なんだよ覚えてねぇのかよ。お前おぶって運んでやったの俺なんだぞー」
まっすぐ大きな角を生やした青年は怒っている口調だが爽やかな表情でそう言って愛菜を茶化す。
「ご、ごめんなさい」
「冗談だよ。俺、クラエスな。エステルから聞いてないか?」
そういえば、幼なじみがいるとは聞いていたと愛菜はこくんと頷いた。
よろしくな。そう言って手を差し出してきたので愛菜はそっとその手を握った。大きくて硬い手だったがとても暖かかった。
「何処行くんだ?仕事始まるまでなら案内するぜ」
「仕事って?」
「今日は城から変な奴が来ていて何か村の女全員と話するからさ。女達の護衛しなきゃいけねぇんだ」
そいつらの馬車に乗せてもらった事を覚えていないかと尋ねられ、愛菜はそういえばそんな記憶もあるような気がすると記憶をひねり出しながら答えた。
「無理しなくていいぞ」
「あの赤いおじさん達の事だよね」
「ああ、それそれ。うっさん臭いよなぁアイツ」
あのニヤニヤ顔を思い出しただけでも忌々しいとクラエスは空を仰ぎながら大きなため息をつきながら言った。
愛菜に対して距離がかなり近かったから気をつけろとクラエスに言われるがあまり覚えていなかった為、首を傾げる。すると呆れたクラエスがもどかしそう身体を揺らしながらに本気で気をつけろと念を押してくる。
「『大丈夫かね、お嬢さん』とか言ってベタベタ触りまくってたぞ」
「顔だけしか覚えていないかなー」
引きつった笑いをしていた愛菜の後ろで人が通る気配を感じ、振りかえると見たことのある壮年の男が笑いかけて来た。
愛菜は「あっ」という顔のまま硬直し、愚痴を溢しているクラエスの裾を引っ張る。男の存在に気付くように知らせるがクラエスの彼へ対する悪口は止まらない。
「エステルにまで同じようなことしやがって。誰でもいいのかよあのスケベジジイ」
「失敬だね!私は可憐なお嬢さん達を平等に愛おしく思っているだけだよ!」
「ん!?」
聞いたことあるねっとりした声と愛菜の悲鳴が聞こえた為ようやっと背後の異変に気がついた。
肩を抱いて自分のそばへ引き寄せぐいぐいと顔を近づけるエクセルと、必死でそれを避けている愛菜の間をクラエスは急いで割って入る。
「何考えてんだ!泣いてんじゃねーか!」
「君こそ私とそのお嬢さんの感動の再会を邪魔しないでくれたまえ」
「どこが感動なんだよ!」
「私に会えて涙を流して喜んでいるではないか」
「どういう脳みその構造してんだよこの糞ジジイは!」
連れのセットもそこは理解できないとぼそり呟いた。
疲れる。クラエスがどっと押し寄せる疲労感で息切れを起こしている間に、またエクセルは愛菜に近づき今度は手を握る。びくりと怯える愛菜にエクセルは先程とは違い優しい声色で愛菜の体調を心配してきた。
「もう具合は良いのかね」
「はい……あの時は、ありがとうございます」
「それは良かった」
そう言ってエクセルはじっと愛菜の顔を見つめる。名前を教えてほしいと言われるが、彼の眼を見ていると妙な胸騒ぎがしてそっと眼を逸らした。
エクセルの眉が一瞬ピクリと動き、冷たい表情に変わる。
術が効いていない。エクセルは愛菜の想定外の行動から異変に気が付き腹の中でおかしいと呟いた。本来ならば、先日のエステルと同じような反応が帰ってくる予定だったが、彼女は眼をそらし、名前を一向に教えようとはしない。
「恥ずかしいのかね?」
笑って愛菜へ囁いて見せるが、内心動揺が隠せない。
他にも、彼女に対して違和感を覚えたエクセルは徐々に本気で愛菜に対し興味を持ち始める。
「じゃあこの村での仕事が終わったら尋問でゆっくり聞き出すことにしようかね」
教えてくれないならしょうがない。とエクセルは愛菜の手を放すと意地悪そうな笑みを浮かべて愛菜を見下ろす。
「じん……もん?」
何を言われているのか理解できず困った顔でオウム返しをする愛菜に、エクセルは冷たい眼を向ける。
次に彼が口にした言葉から状況を理解した愛菜から血の気が引いていく。
「君、うちの国の人間じゃないだろう?」
「それは……」
「国境付近という訳でもない。こんな田舎村に何をしに来たのかねぇ」
誤魔化しようは無かった。
現に愛菜は彼らのような角など生やしていない、ここでは明らかに異質な存在。まだ特に言及されていないが、自分だけ角がない無い事を知られたらどうなるのだろうか。
珍しい物扱いされ連れて行かれる自分を想像して急に此処に居ることが怖くなってきた。
「何しに来たはこっちの台詞なんだよ。この糞野郎」
愛菜を自分の背でエクセルから守るようにクラエスが前に出る。
「名前は絶対に教えるな。コイツ名前を使っておかしな術をかけて来るからな」
「もうバレてるか。やっぱり君は嫌いだよ、クラエス君」
にやつくエクセルに名前を呼ばれ術をかけられるのではとクラエスの身体が一瞬反応する。
だが、その後エクセルは意味深な笑いしただけで特に声が聞こえたり、身体を操られるような事は起こらなかった。謀られたと理解し歯をむき出しにして卑怯者と罵倒し地団駄を踏む。
口汚い言葉を浴びせてくるクラエスを笑いながら流すエクセルと隠れていた愛菜の視線がかち合う。
「君は好きだよ」
「えっ!?」
「尋問の後は、夜伽でもしてもらおうかな」
そう言ってエクセルは手をひらひらと振り、先ほど愛菜が歩いて来た同じ道を辿るように去っていく。
急に静かになった二人はどっと疲れを表しながら、お互いの顔を見合わせた。
「ねぇ、クラエス」
「なんだ?」
「トギって何?」
真剣な表情で尋ねられ、クラエスは真顔のまま硬直する。
そして愛菜はその意味を教えてもらうことはできなかった。
なんつー言葉教えてんだとクラエスの怒りがエクセルに伝わったのか、村長宅に到着し扉を叩こうとしたエクセルの顔面に勢い良く開いた扉が直撃した。
あまりの激痛に顔をおさえてよろけるエクセルと、ちゃっかり後ろに下がって涼しい顔をしたセットの存在に気がついたのは家から大量の洗濯物を抱えて出てきたエステルだ。今ならいけるとすき間時間を使って洗濯物を片付けようとしたことが原因の痛ましい事故だった。
「すみません。私、力加減が下手で」
そう言って手当をするときも確かに容赦なく消毒液を鼻に掛けられた気がすると机で腕を組むエクセルが呟いた。
嫌われてんじゃねーの。とセットが率直な感想を述べるとそんなことはないと否定し、不愉快だと鼻息を鳴らして詰め物を吹き飛ばす。
鼻血が止まったのを確認し、ようやく花嫁探しの面談が開始されることとなった。
一人目の娘、二人目、三人目。特にこれといって文句のつけようのない真面目な質問をエクセルが投げかけ、答えを記録していく。時折娘達の顔を見たりはするものの、あの病気が発病する気配は無い。
ただ異様なのは、娘達はエクセルと話しだすと段々虚ろな表情になり、彼の質問に対し喋らされているかのような印象を受けた。
そうこうした後、話を終えて出てくる娘達の様子がおかしいことはエステルもカミルも薄々気づいているのか口を閉じたまま村の男達に支えられて出て行く娘達を見送っている。
彼女たちの様子を見てエステルはカミルが言っていたエクセルの目を見るな、声を聞くなと言っていた意味がわかった気がした。
「悪趣味な術だな」
顔には出さないが不快感を露わにしたカミルの言葉にエステルは顔を曇らせて、面談が行われている部屋の方へ顔を向ける。
部屋から出てくる女の子たちの様子が少し前にエクセルと会話をした時の様子と似ている事が気になっていた。
「それにしてもお父さんって魔術について知識があったんだ」
時間を持て余し、何やら小難しそうな本をめくり続けている父親を覗き込みながら、意外だと話題を振る。
カミルは本を閉じて言葉が返ってくるのを待っている娘を見つめながらこれまた小難しい説明をしてくれた。
「あれはおそらく神降ろしを応用した精神洗脳を引き起こす呪術だろうな」
「カミ、オロシ?」
「……お前には少々難しいようだな」
聞き慣れない言葉を聞いたエステルは顔をしかめてどうにか話について来ようとする。その顔を見てカミルはふっと笑いエステルの頭を撫でた。自然な笑顔の父を見たのは凄く久しぶりに思えたエステルは嬉し恥ずかしそうに顔を赤らめて父の手を受け入れた。
一件仲の良い親子に見える二人が、親子というより恋仲の関係に近いものを感じていたのは面談を一段落終えて出てきたエクセルだった。長時間の仕事疲れから何か飲み物を貰おうと出てきたはいいが、えらい場面に出くわしてしまったと少し後悔する。
「…………」
無言で二人の様子を見ていたエクセルから徐々にいつも浮かべていた笑みが消えていく。どこか辛そうに目をしかめながら意を決したかのように急に二人の前に出てわざとらしい咳払いをしてみせる。
その音にエステルは大きく反応を示し、真っ赤な顔で何か用事でもできたのかとエクセルに尋ねる。反対に父親のカミルは涼しい顔と言うよりは憎悪に近いものを感じさせる視線を向けた後、持っていた本へ再び視線を戻して素知らぬフリである。
「お恥ずかしながら喉がからからで、何か飲み物を頂けないでしょうか」
「あっ!すみません、気がつけなくて。すぐにお持ちしますからお部屋でお待ち下さい」
「エステル嬢の様な可憐な方を使いのようにしてしまったようで、申し訳ない」
慌ててお湯を用意するエステルには聞こえているのかわからないが、エクセルは自分よりも二回り以上も若い彼女にに対し何度も頭を下げて詫びを入れる。もう一度、カミルの方へ視線を向けるが彼はこちらを見ようとはしない。
随分と嫌われていると改めて理解したエクセルはこれ以上、関わっても悪化するだけであろうと諦め用意された部屋へ戻ろうとしたが、何故かカミルの読んでいる本が気になった。彼の読んでいる本から微量の魔力を感じるが、記憶では彼は魔術の心得は無かったはずなのだ。
「随分、珍しい書物をお読みのようですねカミル殿」
「ああ、先日来た行商人から購入した本だ。なかなか興味深い内容でね」
「ほう、私も本はいくつか嗜んでおりますがその表紙は初めて見ました。どんな内容の本なのですか」
気さくな質問。だが、答えは返ってくることなく無理に笑ったエクセルの顔が引きつる。
反応は相変わらず。そしてぱっと見た限り、何の変哲もない学問書に見えた。行商人の荷物の中に魔術用具が混ざっていたのだろうかと無理やり納得する。
「エクセル様、すぐにお持ちしますので先にお部屋に戻っていてください!」
二人の間に漂う大変良くない空気を察知したエステルは慌てて茶器一式を用意しながら悲鳴のような声で早く部屋に戻った方がいい目線で訴えた。殺気にも似たエステルの目を見てエクセルはバツが悪そうに頬を掻き毟りながら部屋へと引っ込んでいく。
それを追ってエステルもお茶の用意一式を持って後に続いた。
エステルが部屋に入ってぎょっとしたのはまだ少女が一人中に残っていたからだ。
「ちょっと戻らなくなっちゃってねぇ……お茶でも飲ませるとだいぶ落ち着くと思うんだけど」
ピクリとも動かず両目とも開ききった状態のまま椅子に座る少女に手を振って見せるエクセルの背が困ったなぁと呟いた。
お茶を入れた器を無言で彼に渡すとエステルは不審そうに眉をひそめお茶を飲ませる様子を見守る。どういうわけかそばに居たセットが無言でエステルへ距離を詰めてくる事も気になっている。
「何をしたんですか」
「ん~、ちょっと素直な意見を聞きたかっただけだよ」
まだ台詞には続きがあったようだが、彼の声は茶器の割れる音でかき消されてしまった。
音のする方を見れば先ほど少女に渡した茶器が粉々に砕け散って床に散らばっていた。案の定というか、その音でカミルが何事かと声を上げるのでエステルはとっさに自分がドジをして落としたとだけ答え、気にするなと父へ伝える。
「触らないで。純血主義者なんて側にいるだけで不快なのよ」
エステルは割れた器のかけらを拾いながら「気持ち悪い」というその言葉を聞いてびくりと体を震わせた。彼女の言っている台詞が自分に向けられているような気がして怖くなる。
恐る恐る、少女の方へ目を向けると目に入ったのは入れなおしたお茶を容器から一気に口に含んだエクセルがそれを少女へ口移しをして飲ませる瞬間だった。何が起こったのか理解が出ず拾い集めていた容器のかけらを落とし呆然とその様子を見ている。
エクセルの喉が何度か波打った後、少女の口から舌を引っ込め最後に残った雫を口端から舐め取ると徐々に少女の虚ろだった目から光が戻っていく。
エステルは生々しい光景に耐えられず、顔を赤くして目を逸らした。
「どうかね。その汚らわしい純血主義者との口づけは」
にたりと笑って目の覚めた少女にそう一言だけ言う。しばらくすると今までの事を思い出したように少女は震えだし、エクセルの頬めがけて平手打ちを食らわせた後、部屋を泣きながら出て行った。
対して痛手ではないといった涼しい顔でエクセルは器へ温かいお茶を入れなおし、一口すすると安堵したかのような大きなため息をした。
「別に好きで純血主義者やってるわけじゃないさ……」
そう言うとエクセルはエステルを見て同意を求めるように「ねぇ」と問いかけてきた。
父から言われた眼を見るなという言葉を思い出し、エステルは直ぐ様彼の視線から目を反らし、問いかけには答えなかった。
連れない反応を見せられエクセルは慣れてるとばかりに笑ってすませる。
「おい、こんな茶番いつまで続ける気だ」
割れて散らばった器を片付けるエステルの後ろで何やら二人が揉めだしたようだ。
エステルは顔色変えず掃除を進めていくが、耳に入ってくる会話はあまりいい気分にはなれない内容だった。
セットの言葉から先ほどのような事が娘達が来る度に起こっているらしく、しかもそれはエクセルが意図的に彼女等を怒らせているという。
「どいつもこいつも純血主義は汚らわしいだの理解が出来ないだの……陛下も純血主義の生まれだと知らんのかね、この村の娘達は」
「俺だって血が繋がってる同士でしか縁組しない貴族のイカれた習慣なんて理解したくも無いぞ」
「だからそのイカれた習慣を止めようと見合い相手探してるんだろう」
机を叩きつけ、声を荒げるエクセルの言葉で場が凍りつく。
「今は自分たちが多数派で声が大きいだけで、王家に嫁げば立場は逆転する。アレ等がそんな生活に耐えれるわけがない」
だから自分を罵倒するような娘は絶対に連れて行かないし、この縁談には向いていない。
そう言って席に座り直したエクセルは不機嫌な表情のままエステルを呼んだ。
お茶のおかわりだそうだ。
一度台所へ戻り、入れなおしたお茶を持って再び部屋に入ると二人の口喧嘩は更に白熱していた。
「陛下の希望はこの小娘なんだろう。あんな親父の言うこと無視してふん縛ってでもつれてきゃいいじゃねぇか」
「えっ!?」
急に来た話について行けず驚くエステルに、勝手に喋ったセットに頭が痛いとエクセルは頭を抱えて机に突っ伏している。
先ほどのセットの台詞が頭のなかで何度も再生されている状態でエステルは持ってきたお茶をエクセルに渡し、すぐに部屋を出ようとした。
受け取ろうと差し出した手で茶器ではなくエステルの腕を掴んだエクセルが黙ったままじっと掴んだ手首を見つめた後、顔を上げて不気味な笑みを見せて問いかける。
「昨晩はカミル殿は優しくしてくれたかね?」
暫くしてエステルはその言葉の意味を理解し、両目を限界にまで見開きエクセルの顔を見た。
わなわなと震えながら彼のまだ赤い頬めがけて平手を打ち付けるとエクセルは椅子と一緒に床へ転がっていく。
「痛ってぇ……追い打ち……」
エステルは肩で息をしながら開いた手を握り歯を食いしばる。頬をおさえて悶えているエクセルを汚らわしい物のように見下ろし、その拳を振り下ろそうとした。
流石にまずいと思ったセットが後ろからエステルの両腕をつかみ、制止する。だが大の男が押さえつけているにもかかわらず、エステルの体はその制止を振り切ろうと徐々に前進しているのがわかった。
この女、おかしい。セットは必死に動きを止めながら強く思う。
「ふん縛って、連れて行けそうか?セット」
「いや……すまん、無理だ。なんなんだよこの女」
だろうな。と起き上がったエクセルは腫れ上がった頬を撫でた後、口の中が血なまぐさいと赤く滲んだ唾を吐き捨てる。
次に目をやった時には頬の腫れが徐々に引いていき皮膚が音を立てて再生していく様子を見せられる。音と合わせてエクセルの顔が歪んでいるのはおそらく痛みがあるということだろう。
「純血主義の理想ともいうべき存在かな」
あれだけ腫れ上がっていた頬はもとの状態へ戻り、にぃっと彼はいつもの笑みを作る。
身動きのできないエステルの目の前まで歩み寄り、少し強めに彼女の顎を掴み自分に向くように持ち上げた。
「高い身体的能力、豊富な魔力、代々伝わる奥義……一族繁栄を導いたものを絶やさぬように、薄めぬように、血を濃く残し、より強い力を手に入れたい。その集大成がこの娘のような存在さ」
「勝手に人を珍しい物の様に言わないで。変なのはあなただって同じじゃない」
目尻を下げて自分の顔を覗き込むエクセルのくすんだ宝石のような眼をエステルはずっと睨み続ける。
他の同世代の娘達と自身が異質であることを指摘されが癇に障ったのかエステルはお返しとエクセルの容姿や言動、おかしな術を使ったり容姿が普通ではない事を指摘する。ずっと気になっていた彼の額に描かれた赤い紋章。なんの意味があるのか分からないが、彼の只ならぬ空気を醸し出す要因の一つである事は間違いない。
「純血主義で高位な魔術も使えるってことはあなただって何か隠してるんでしょ」
「なら見るかね?きっと君も村の人間と同じ事を言うと思うよ」
汚らわしい。怖い。人間じゃ無い。私たちとは違う。化け物。
エクセルは笑いながら自身が今まで言われて来た言葉を羅列して行く。そんな言葉を延々と言い続けながらなんで笑っているのか理解ができないとエステルは止めるように言って目を閉じる。
「もうやめてください。こんな事されたら、また村の人たちが私達を悪く言う。私はただお父さんと普通の親子として普通に暮らしていたいのに」
エステルはぼろぼろと涙が溢れだした。エクセルは手を引っ込め、セットにも手を放すように指示する。
恐る恐る、手を放しエステルから離れるセットはまだ警戒を解いていない。止まらない涙を止めようと手で拭い取るエステルに向けて剣を構える。
「女の子に剣を向けるな、馬鹿者」
「お前なぁ、護衛するこっちの身にもなれよ」
「彼女の件は黙って連れて来て悪かったと思ってるよ。後で多めに渡すから勘弁してくれ」
予定の報酬を上乗せすると言われてようやくセットは剣から手を離し、憮然とした様子で腰に手を当てた。二人に手を出さないと言う意思表示だ。
彼が落ち着いた事を確認し頷いたエクセルは未だ泣き続けるエステルの姿を見て次はこっちかと困った表情で頭を掻く。
エクセルは泣き続ける彼女の肩を抱き、頭を軽く撫でながら落ちつくように優しい言葉を短く何度も投げかけていく。術に掛かった他の少女たちが取り乱したときと同じ方法だが、効いているのかエステルの涙は止まった。
「お父さん……」
「エステル嬢は本当にカミル殿の事をお父上として愛しているのだねぇ」
当然のことだが、それは純血主義者にはなかなか難しい事だとエクセルは言う。ずっとそばに居て、これからもずっと居てその人しか知らず、なんの疑問もなくその人と子孫を残して行く。そんな中で生きて行くと親子の愛情など消えてしまい気がつけば男女のものになっている。そのおかげである問題が発生し、歴史ある貴族達はどんどん数を減らしている。
そんな中で彼女のように父親の愛情を求める存在は希少なのだ。
「純血主義のことで村人から色々言われ続けるカミル殿が心配だったんだねぇ。だからそうやって気を張って自分が守らないとって自分を追い詰めて居たのだろう」
「なんで、そんな事言うんですか」
自分の気持ちを言い当てられ恥ずかしさと悔しさでまた泣きそうになっているエステルの質問に、エクセルは笑ってある人の話をし始める。エステルと同じようにバラバラになりつつある家族のために自身がこの状況を変えるために行動している男の話だった。
家族を想う気持ちからエステルもその男も同じ強さを感じるとエクセルは言う。
「私には出来なかったですからね」
何か思い出し、そう低く呟いた自身がの言葉に一瞬どういう顔をしていいのか悩んだが、エクセルは少し困ったように眉を下げて笑ってみせる。するとエステルはしおれた顔で俯くのでまた泣かせたと、かなりショックを受ける。
「あの……エクセルさ……ん」
言おうか、言うまいかエステルはずっと悩んでいた事をやっと言えるような気がしてエクセルを呼んだ。
呼び方を変えたのも、その話題を出して良い人なんだと先ほどのやり取りからエステル自身が出した答だった。
のだが。
部屋の入口が勢い良く開いたため、中に居た三人ともが驚いた様子でそちらに気を取られてしまった。
勢い良く女の子が一人放り投げられ、入り口は締まり、外から何やら聞いたことのある青年の声が「よそ者を巻き込むな」とか「あの変態に会わせたら駄目なんだって」とか叫んでいる。
床に転がっていた少女が起き上がると部屋から出ようとするが、どうやら開かないらしくひどく動揺した様子でおそるおそるとこちらへ振り向く。
「アイナ?」
状況が分かっていないエステルが彼女の名前を読んだ瞬間、エステル以外が「あっ」と声を上げる。
呼ばれた愛菜本人は絶望の表情を浮かべ、片やそれはそれは嬉しそうに締りのない笑顔のエクセルを交互に見たエステルが何か理解したように顔を輝かせた。
「すでに二人は交流があったんですね!」
「ええ!なにせ、馬車でこの村へお連れしたのは他ならぬ私ですからね?ね、アイナ嬢」
「うええええええん!!!」
教えてもいない自分の名前を呼ばれ、恐怖で泣き出す。逃げようとする愛菜をがっちり抱きしめて離さないエクセルの息が耳元に吹きかかり背筋に寒気が走る。
セットから見れば愛菜が可哀想でしかたがないのだが、何故かエステルは「良かった」と、この状況を喜んでいるため心底理解が出来なかった。
「エクセルさん、私の代わりにアイナをお城に連れて行ってあげる事は出来ませんか?」
そして彼女のこの一言で、馬鹿騒ぎをしていたエクセルですら動きを止める事態となった。
エステルの急な話に一番困惑しているのは当然、愛菜だろうが、それと同じように降って湧いたエクセルも動揺の色を隠せない。
「アイナは記憶喪失なんです。どうやって此処に来たのかとか、自分の住んでいた場所も名前くらいしかわからなくて凄く困ってたんです」
「ほぅ、それは初耳だね」
「帰る方法がわからないなら、いっそ陛下のお嫁さんになったら幸せになれるんじゃないかなって」
最後の方は自信なさげでどんどん声が小さくなっていくエステル。理由はエクセルの顔が思いの外険しいものへと変わっていったからだった。
嫌がる愛菜から体を離し、不安そうに見上げる彼女の頭を撫でながらエクセルは首を振る。
「残念ですが、それには応えられない」
エステルもその答えは想定内だったのか驚く様子はなかった。だが、諦めた様子はなくどうしても無理なのかと食い下がる。
「私は貴女を連れて帰るように陛下から命を受けております。例え陛下の花嫁となるかも知れぬ貴女のご命令であろうとも、陛下の命に背く事は出来ません」
そうきっぱりと良い、エクセルは恭しくエステルに対しお辞儀をしてみせる。
だが、とエクセルは自分を不安そうに見上げる少女へ視線を下ろしニヤリと笑ってみせた。その顔は何か良からぬ事を考えているものである事は愛菜にも容易に想像できた。
彼から離れようと片足を後ろへ下げようとした矢先、手首を捕まれどこに行くのかと笑って追求された。
「ですが、陛下の大切なエステル嬢の希望だ。君の身柄を保護する事を検討するとしよう」
「検討するってどういうことですか」
エステルへに比べ愛菜への上からの態度にむっとして講義する愛菜の前に向き直ったエクセルは填めていた真っ白い右手袋を外し、その手で彼女の頬を撫でた。
その様子を見てエステルが赤くなって小さな声を上げるのと同時に、愛菜も男の突然の行動に動揺し体がビクリと反応する。
「エステル嬢がああは言っているが、それは君がついた嘘で、実は敵国の工作員かもしれないだろう?」
「なっなにするんーー」
「ちょっとだけ、見せてもらうだけだよ」
一段下げた声で愛菜の名前を呼んだエクセルは左手で愛菜の体を引き込み、両目と両口端が同時に歪ませた。
名前を呼ばれてから愛菜の背筋に何かが這いずりまわるような感覚と、頭の中でばらばらと本が高速で捲れていくような音が聞こえ出し悲鳴を上げるが口を塞がれてしまう。
短い悲鳴と愛菜の怯える表情に異変を感じたエステルが止めに入ろうとしたがセットに止められる。振り払おうと彼を睨むが、何かに怯えるような表情で首を振られた。
鎧を着た屈強な彼のこれほどまでに怯えた表情を見てエステルも悟ったのか、振り払おうとした手を下げ、恐る恐る愛菜達の方へ視線を向ける。
***
ちょっとだけ……本当にちょっとだけ……。
そう自身に言い聞かせるエクセルの目に映るのは怯える少女の顔ではなく、見たことのない景色だった。
登っていく階段や建物に入る扉を見ていた視線が「愛菜」と呼ぶ声がしてぐるりと変わる。その愛菜と同じ服を着た見知らぬ少女の姿が現れ会話が始まる。
そう。この光景は全て愛菜の記憶であり、今見ているエクセルのものでは無い。
「辛いのはわかるけどさぁ……正直うっとおしいんだよね」
言っていいのだろうかと少女は顔を曇らせた後、愛菜に向かって随分と冷たい言葉をぶつけて来た。
エクセルはこの光景を見ていきなり随分な言い草だと思う。
「どうにもならない事をいつまでもウジウジしててもしょうが無いでしょ」
彼女の声を聞いていると胸が締め付けられるような気持ちになり、目の前がぐらりと揺らぐ。
泣いているのかとエクセルは気づき、更に前を見続ける。
「もうすぐ受験なのに辛い辛いってアイツもアンタもさぁ。ほんっと迷惑なんだけど」
「じゃぁどうしてみんなほっといたの!?みんなが見てないフリしたからこんな事になったんでしょ!?」
「アンタだけ違うクラスだからって偉そうなこと言わないでよ!!」
悲鳴のような愛菜の叫びを聞いた瞬間、少女の顔に殺気が現れたかと思うと彼女から視線が大きく離れた。徐々に離れていく少女の姿と浮遊感を感じ、まさかと思ったが記憶の主である愛菜の意識がない時期なのか景色はそこで真っ暗になってしまった。
これ以上見てはいけないような気がし始めた。この感覚が出ると今見ている他人の記憶が自分のものと曖昧に感じ始める。なのでエクセルにとってこの嫌な予感がこの術をやめる時期なのだが、エクセルはどうしてもこの記憶の続きが気になった。
意識を取り戻した愛菜の視線の先がうっすら見え出し、胸騒ぎが始まる。
愛菜は新しく切り替わった景色を四方を見回した後、何かを見つけたのか一点を見つめた。
どういうことなのか、明らかに先ほど見ていた建物の景色と違っていた。意識を失っていたのがどれくらい長かったのかは分からないが先ほど居た建物は消え、目の前の景色は広い麦の草原が広がっていた。
ここ……知っているような気がする。
草原を進んでいく光景を見ながらエクセルはそう思い、次の光景を求め術を止めようとはしなかった。だが様子がおかしく、時々視界が暗くなり景色が見えなくなる。愛菜の記憶自体が曖昧なのか、それともエクセル自身の意識が飛び始めているのか分からないが、場面が飛び飛びになり、草原が一転、丘の上に、次に大きな樹木の側にと次々景色が変わっていく。
そして最後、真っ白い蛇が現れた。その蛇は額に目がある三つ目の蛇で、その額の目とエクセルの目が合った。
***
「ぐああぁぁぁぁ!!!」
悲鳴と床に叩きつけられる衝撃で愛菜の意識が戻った。
だが急に立ち上がったような立ちくらみと頭を揺らすような頭痛に襲われ、目の前で苦しそうに呻くエクセルと一緒になって床へうずくまる。
「なんだ!?何があった」
「術が……跳ね返された」
エクセルがようやく出した声はやや落ち着きを取り戻していたが、まだ全身の震えが止まっていない。そして何故か顔を両手で覆ったままこちらに顔を向けようとしない様子に不信感を持ったセットが顔がどうかしたのかと問いかける。
「……今、私はどんな姿をしている?」
「な、何言ってんだよ」
「本当になんともないか!?おかしなところないか!?」
「いや、急に叫びだしたりおかしいだろ」
「違う!!見た目が大きく何か変わっていないか!?何か出ていないか!?何か増えていないか!?」
指を間から覗く涙を溜めた目が必死に訴えてくる。
彼の問いと、必死に隠す顔。セットは何か勘付いたのかエクセルの腕を掴み顔から手を離すように言う。だが嫌がるエクセルから手を引き剥がそうとするが彼は必死になって離そうとはしなかった。
「おい!何ださっきの声は!?」
エクセルの叫び声を聞いて鍵の掛かった扉を農具で破壊し入ってきたクラエスもこの異様な状況に、すぐ黙りこむ。
「退きなさい」
邪魔だとばかりに硬直した彼の後ろから冷たく言い放ったのは家の主であるカミルだった。流し目で彼を一瞥しすれ違ったカミルは足を止めると普段より一層冷たい無表情でエクセルを汚らしい物の様に見下ろす。
視線はエクセルに向けたまま、側に居た娘へ何をしていたのか問いただす。優しい声色だが一切動かない表情の父親をエステルは怯えた表情で見つめる。
「わ、私ちゃんと断ったよ。お父さんが居るから王様のお嫁さんにはならないって」
「何をしていたのかと聞いているんだ!!」
「ひっ」
父親に怒鳴られたエステルは恐怖で床に崩れ、ぐったりした愛菜を強く抱きしめながら泣きじゃくり父親に謝りだした。
「だってアイナが寂しそうだったから。だからお家に帰る方法探してもらえるようにエクセルさんにお願いしようとしただけで」
「前にも教えただろう、エステル。その娘が居ないと私達は幸せになれないと」
父は駄々をこねる娘をなだめるように優しい口調で語りかけるが、娘は泣きながら首を振る一方だった。
言うことを聞かない娘に腹を立てたカミルは何を言っているのかわからないくらい大きな声でエステルを怒鳴った後、目の前に居たエクセルの頭を掴みエステルの前へ付きだした。もう片方の手で顔を隠す手を剥ぎ取りエステルに向かってその顔を露わにさせる。
涙を流し怯えるエステルと無理やり姿を晒されたエクセルの目がかち合った。
両手を剥がされたエクセルは顔面蒼白でエステルを見つめ続け、彼女出すの言葉を待った。だが、エステルは目に映った光景の衝撃が強すぎたのか何一つ言葉にできず、口を開けてエクセルを見つめ続けている。
代わりにエステルに抱かれた愛菜が辛そうに顔を上げその見たことのない光景に驚いて、ポツリと呟いた。
「目が……三つある」
じっと見つめる愛菜達からエクセルは視線を視線を反らし抵抗をするがカミルの指が一層髪をきつく掴みあげ悲鳴を上げる。
痛みで顔を歪めるエクセルの額には赤く大きな目が苦しそうに開いたり閉じたりを繰り返している。あるはずのない場所にあり、蠢くそれは確かに異様な光景だった。
「私達、純血主義者の成れの果てだ。血が濃ゆくなりすぎた一族にはこの男のような化物が生まれる。その徴候はお前にもでているんだからな、エステル」
その一言を聞いてエクセルは両目を見開いてカミルを見上げる。歯を食いしばりようやく出た「やめろ」という言葉も虚しく、父親は娘に対して残酷な言葉を投げかける。
「こんな化物、産みたくないだろう?」
父親の言葉に答えることが出来ずエステルは俯き涙を流した。ぼろぼろと玉のように流れ落ちる涙が抱かれた愛菜の顔へ落ちていく。そして何度も愛菜に向かって謝りながら更に強く愛菜を抱きしめる。
少し首が締り逃げることができなくなる。
泣きながら父親の言いつけを守り愛菜を逃がさないように抱きかかえるエステルを見て、エクセルは歯を食いしばった後、怒り任せに叫んだ。
「セットぉ!こいつを黙らせろ!!」
命令と同時に剣を鞘から抜いたセットに対し、冷淡な笑みを見せたカミルは彼に向かって掴んでいたエクセルを片手で軽々と放り投げた。振り下ろす途中で踏みとどまったセットの腹部にエクセルが衝突し、その衝撃で背後の壁まで二人の体が飛ばされる。
全身を襲った衝撃の強さがおもったより大きく意識こそ失いはしなかったものの、セットは辛そうなうめき声を漏らした。
「うおぉぉぉおお!!!」
背後から大声を上げクラエスが持っていた農具をカミルへ向かって振りかぶった。だが、勢いよく振ったはずの農具はカミルの腕で止められ反動で柄の部分から二つに折れ曲がる。
止めた構えのままカミルは反対の拳をクラエスの腹部に向けて叩き込み、よろけたクラエスに追い打ちで数発殴りつけた。床にたたきつけられた後、腹部の衝撃からかクラエスは血の混ざった嘔吐物を吐き出す。
「お前も他人の家の問題に首を突っ込むなとあれほど言っただろう」
「うるせぇ。お前、自分の娘をなんだと思ってんだよ」
「私の気持ちなど、非純血主義者のお前に理解できる訳がないだろう」
うずくまるクラエスを本棚めがけて蹴りあげる。彼が吹き飛んだ衝撃で本棚から散らばった中から見覚えのある一冊を見つけカミルは迷わずそれを拾い上げる。
青白く光を放つ表紙を見つめた後、カミルはエステルへ目をやりこちらへ来るようにと顎を上げて見せた。恐怖から渋々と父親の側についたエステルは愛菜の手を掴み父のもとへ向かう。逃げないように愛菜の両腕を後ろで組み、押さえつけているところをじっと見つめて黙り込んでいる。
愛菜は横目でエステルを見ながらうつむくエステルに声をかける。
「エステル……どうしたの?」
「私ね、アイナがここじゃない別の何処かから来た人だってこと知ってたの」
「え……」
顔を上げ側にいる父親に聞こえないように小さな声で話してくれた。
「お父さん、ちょっと前に知らない男の人からあの本を貰ってなんだか様子がおかしくなったの」
「エステル、何を話している」
「純血主義があるからお父さんみたいに不幸な思いをする人がいっぱい居るって言ってた。でも純血主義はなくならないんだって。新しい世界にならない限りずっとこのままだってその人が言ってた」
「エステル!黙らんか」
「別の世界から新しい世界を作ってくれる人が現れるって。だからアイナを見た時、きっとこの人だって思ったの」
愛菜に話していることが父親にばれてからエステルは一段と大きな声で話しだした。話を止めようとしない自分を本で打とうとする父親を見てエステルは意を決した表情で愛菜を真正面で立ち上がろうとよろけるエクセルに向かって突き出した。
急に背中を押され前のめりで倒れそうになった愛菜を慌ててエクセルが受け止める。
「初めて女の子のお友達が出来きて楽しかった。村の子は私が村長の娘だからって避けてたから」
「エステル!?」
「私の角、可愛いって言ってくれてありがとう。騙しててごめんね」
彼女の後ろで持っていた本をお大きく振り上げるカミルの姿を見て、愛菜はエステルに手を伸ばす。が、行っては駄目だと懐へ抱き寄せるエクセルに伸ばした腕を引っ込めるよう掴まれる。
目の前で父親に頭を強打され、床に崩れていく様子がコマ送りの様にゆっくりと目に映り、焼き付いた。
「エステル!エステルー!!」
「頼む、行かないでくれ」
エステルが床に倒れ動かなくなってから暫くして、じわじわと頭から流れる血液が床に滲んでいく。しかし赤い血だまりは暫くすると広がりが止まり、倒れたエステルに向かって吸い込まれるように引いていく。
代わりに床に広がっていくのは青白い光の文字だった。
「クラエス君もその円に入るなよ!」
「馬鹿言うな!エステルが……!」
「入ったらそのエステル嬢に魔力を全部吸われて死ぬぞ!」
エステルを囲むように広がる青白い光は円を描くように広がり、円は幾重も現れ重なり、複雑な紋章を描いた魔方陣へと姿を変えた。その魔法陣の中心で魔法陣と同じ色で輝く宝石の本を開きながらカミルが不気味な笑いを漏らしている。
彼の手の上でパラパラと高速で捲れていく本の音を聞いて愛菜は何かが思い出せそうな気がしてじっとその音を聞き入っていた。学校の風景が頭をよぎった瞬間、思い出しては行けないという声が頭をよぎり悲鳴を上げてエクセルにしがみついた。
愛菜の行動にエクセルは一瞬驚いた様に目を見開いたが、恐る恐る彼女の頭に手を触れ、落ち着くようにと頭を撫でる。触れた時、妙に懐かしいような気持ちがこみ上げ、前にもこんな事があったような気がした。
「また繰り返す気か、記憶持ち」
忌々しいとエクセルに向かって言い放ったカミルの声から彼の異変が現れだしていた。
見れば彼の顔からは血の気が引き、右手が上がらず肩から垂れ下がり、持っていた本を支えているだけで精一杯の様子だった。本は左手に持ち替えるも右手は一向に動く気配はなく、カミルは蒼白の顔で自分の腕を睨みつる。
「カミル殿。貴殿にその術は無理だ」
「無理など百も承知だ。何が合っても彼女を降ろすのだ」
軋む音と、焼けるような熱に耐えながら振り絞った力で右腕を愛菜に向かって振りかざした。腕を振るった際に生まれた風を使い、増幅させた魔術が愛菜に向かって放たれる。
エクセルの号令で皆散っていくが魔術なんて初めて見た愛菜は回避行動が追いつけず、足を滑らせる。
鈍い音を立てて転んだ愛菜が起き上がると焼けるような痛みで膝を抱えた。
「無事か!?」
予想外の場所へ伸びる手に愛菜は何があったのか理解できずその動きを目で追った。
エクセルは手で愛菜の髪に触れているがロングヘアーだった黒い髪はいつもと違い肩の辺りで途切れてしまっている。
鋭利な刃物で削がれ、不自然に斜めで真っ直ぐに切れた毛先を見て愛菜は呆然とする。
「嘘!?頑張って伸ばしたのに!!」
伸ばしていた髪が無残な状態になってしまった事に気づいた愛菜が振り返ると、床に散らばった自分の髪が青白く光りる液体になった後、ずるずるとエステルの元へ吸い込まれていく光景を見て無言で腰を抜かす。
後ろではセットの罵声にエクセルが言葉を返してはいるが、その声色は確かに焦りがあった。
「行くとああなる。絶対に方陣に入るな」
「なんなんだよ、あれ」
「術に必要な魔力が足りてないんだ。魔力になるものは何でも取り込む」
そういえばと愛菜は足元の光の円が徐々に近づいてきていることに気が付き足を引っ込める。
どうになかならないのかという声の答えなのか、エクセルは右耳につけていた耳飾りを外し、その真っ赤な飾り石をしぶしぶと見つめた後にエステルに向かってソレを投げた。石は落ちた瞬間に砕け、まるで水のようにエステルの中へと消えていった。
方陣の光が消えていき、倒れていたエステルの身体がぴくりと動き出す。ゆっくり立ち上がり、表情の無い顔をあげるとじっと正面にいる愛菜達をじっと見つめる。
「さて、何が降りるのかね」
立ち上がった彼女の一歩後ろで不気味な笑いを漏らしているカミルへエクセルが片口端を上げて問いかけた。
念願かなったと歓喜に満ちたカミルの理解し難い言葉を聞くことになる。
「神だ」
クラエスとセットがお互いの顔を見合わせた後、えらく真面目な顔のエクセルを覗き、次に愛菜に向かって話についていけてるか問いかけてきた。
正直、愛菜は昨日から訳のわからない事だらけで逆に驚かなくなってっきているのか、思ったより冷静だった。だが、状況がわからないのは確かなのでそこは胸を張ってわからないと述べる。
三人揃って安堵した様子で「だよな!」と笑いが出た。
すると立ち上がってから微動だにしなかったエステルの表情が鋭いものへ変わっていく。
彼女が発っした声色は普段のエステルならば考えられないくらい落ち着いていてやや低い声だ。明らかに普段の彼女とは違う何かを感じる。
「なんだその笑いは」
「エステル……お前こそなんだよそのしゃべり方」
いままで見たことのない彼女の言動に動揺した幼なじみであるクラエスが彼女をそう呼ぶと、一層彼女の顔が鋭くなり、やめろと腕で払うようなしぐさを見せた。
「その名で呼ぶな。不敬であるぞ、ヒトの子よ」
立っている姿、瞳の色、声全て同じなのに、こちらを見つめる鋭い視線が急に恐ろしく感じ、クラエスは彼女の言葉に何も言い返せず後ずさる。
「では、我々は貴女をどうお呼びすればいいのですかな」
豹変したエステルに怯えるクラエスとは違い余裕のある喋りで彼女へ問いかけたエクセルと、持っていた盾を構え直し、徐々に戦闘態勢を整えていくセット。
彼らの行動から愛菜は自分がここにいて良いのか不安になり、クラエスの側に隠れながら何かを探すように辺りを見渡す。
「貴様はこの世界を産んだ私以外に神が存在するとでもい言いたいのか」
「……これはこれは失礼いたしました」
一方的な言葉に顔色一つ変えず、エクセルは彼女に対し恭しくお辞儀をし、彼女の名前を呼んだ。
「女神メリア様」
その言葉に満足そうに笑みを浮かべる彼女を見て、安堵するエクセルだったが後ろから連れの素っ頓狂な声が聞こえてきた為、真っ青な顔をして振り返る。すると連れのセットどころか先程まで怯えていたクラエスまでもエクセルの発言に顔を歪ませて体も文字通り盛大に引いている。
彼らの言葉を言い表すならば……。
「何言ってんだこのジジイ」
「素晴らしく素直な感想をありがとうクラエスくぅぅぅん!」
お前こそ何を言ってんだこの状況で相手を挑発するような言葉は慎め!
と言ってやりたかったのだが、それこそ言えば目の前に居る自称女神様の彼女を怒らせてしまうであろう事も想定内。エクセルはクラエスの肩を掴み黙っていてくれと目で訴え、唸り声を漏らしながら歯を食いしばる。
「メリアって世界を創ったいう、あの女神メリアか?」
呆れた様子ではあるが冷静な質問を投げかけるセット。だが、質問は明らかに彼女の言葉を信じていないというものだった。
「今時そんな話、聖職者以外に信じる奴居ないと思うんだが、嬢ちゃんは信じてんのか」
「くどい。私はメリアだ。この世界の母であり、お前の母だ。私を貴様ら畜生の子と一緒にするな」
「その母親が自分で創った子供を畜生扱いかよ」
反吐が出る。そう唾と一緒に吐き捨て鞘から剣を抜き自称メリアに向かって駆け出す。止めようとしたエクセルの言葉も無視し、セットは構えた剣を不敵な笑みを浮かべるメリアを名乗る少女に向かって振り下ろした。
だがその刃が少女に届くことはなく、待っていたとばかりに前に出てきたカミルの手で直接握り止められる。剣を握る右手からは血が流れ落ち、彼の持つ本へと吸い込まれていく。
表紙を飾る宝石が一層青く光り出し、カミルとメリアの顔が不気味な笑みを浮かべる。
「下がれ!セット」
呼ばれた様な気がし、一瞬背後を気にするような動きを見せたが、セットの意識はすぐに目の前にいるメリアに戻される。
歌っている。目の前で起こっていることが理解できず、セットは目を大きく見開く。
今彼の目の前でメリアは口を大きく開け歌を歌い始めたのだ。引きこまれる透き通るような歌声だが聞き覚えのない不思議な語感の歌に合わせセットの頭部に異様な痛みが走る。その今まで感じたことのない強烈な痛みに耐え切れず、叫びながら剣を投げ捨てた。
同じようにクラエスにも異変が現れる。耳を塞ぎ、頭を抱え、顔中に脂汗をかいて苦しそうに呻きだした。
「クラエス!?」
「耳が千切れそうだ……頭が痛い」
側に居た愛菜が倒れこんだクラエスに何がったのか問いかけるが、ただ頭がいたいと床に突っ伏し痛みに耐えるため体を激しく揺さぶっている。
次第にクラエスの顔から血の気が引いてくのを目の当たりにした愛菜は助けを求めるように初めて彼の名前を呼んだ。
「エクセルさん!」
苦しむ様子はなかったが歌に聞き入るように身動き一つしなくなっていたエクセルを呼ぶが何一つ反応しない。小さな声で何か呟いて居るだけで心は此処ではないどこかに行ったかのような様子。聞き取れる言葉も愛菜にはなんのことかわからない。
「またか……また……」
愛菜は彼に駆け寄り服の裾を引っ張り、起きるように声を上げて彼を必死に揺すった。
何が起こっているのかもわからない。血だらけになったり、苦しんだり怖いことばかり起こってもう何が何かわからない。どうしてここにいるのかもわからない。
怖くて帰りたい。でもそれ以上に愛菜は、自分が何も出来ないのがたまらなく辛かった。
そんな思いを全部叫びながら、愛菜はエクセルの服を掴み顔を埋めて泣き出した。
「私なんでもしますから!起きてください」
「……私は……また、泣かせてしまった」
最後の言葉ははっきりと聞こえた。
「え……?」
「何をしてくれるのかね、アイナ嬢」
顔を上げた時にみた横顔は一瞬、泣いているようにも見えたエクセルだったが、こちらを向けばニヤニヤと笑みを見せるエクセルだった。
いつも通りの彼の言動に安心したのか返す言葉が見つからず彼を見つめ続けていた愛菜だったが、ふと彼の背後にあるものに気がつく。
壁にかけられた弓と矢。装飾が多く、おそらく部屋の内装品として作られたもので実用性には欠けるだろう。だが、愛菜はそれを指さしエクセルにあれがほしいと声を上げた。
「あ、あの!トギでもなんでもします!あれ取ってください!」
必死に指差すソレを見てエクセルはまさかと信じられない様な顔で愛菜の顔を見る。ベルトと一緒に腰へ仕込んでいた鞭を取り出し、装飾の弓矢に巻きつけ、力いっぱい引っ張った。
留め金具と一緒に壁から剥がれ落ちたそれを直ぐ様拾い、弦の強さを確認し矢をかける。
「何をする気かね」
「私、部活で弓矢使ったことあるんです!」
「ブ、ブカツ……?」
あまり聞かない発音で復唱するエクセルの顔で通じていないのは愛菜も理解できた。とはいえ部活とは何かなんて説明してる場合ではない。
「もー!後で教えますから!!」
「あ、ああ……すまない」
そんな緊張感のないやり取りをしていた二人の声をかき消すように少女の笑い声が上がった。
驚いた二人が見ると歌うのを止め、メリアが腹を抱えてケタケタと笑っている。隣ではどうしたのか理解できず面くらい混乱するカミルが彼女の方を抱く。
つい、娘の名前を呼んでしまい彼女に突き放される。
「本当にいつもいつも私の邪魔ばかりしてくれるな、エルメルト」
「……いつも?」
「今回は娘は珍しいな。お前が押されている」
「なんの事か全くわからないのだが」
メリアはまるでエクセルを昔から知っているかの様な言葉を投げかけた。エクセルが戸惑った顔で愛菜を見た後、本当に覚えがないという表情でメリアへ返す。だが、彼女はエクセルの言葉は聞いていないとばかりに話を続ける。
すると彼女はとぼけるなと冷たい声を放ち、エクセルを指差す。
「その目……自分の子を、忘れるものか」
子という言葉を聞いた瞬間、エクセルは嫌悪の表情を彼女に向かって見せる。母親を連想させる言葉が昔を思い出させ不快だったのだ。
彼女に対し一瞬芽生えた憎悪を抑え、エクセルは愛菜の名前を静かに呼んだ。
愛菜は彼を見上げて声のない返事をする。
「頭のあたりの高さを狙い給え」
そう言ったエクセルは鞭を下から振り上げメリアの一歩後ろに居たカミルの手に当てた。弾かれた手から持っていた本が離れる。反動で床を鳴らす鞭の勢いを使い、もう一度振り上げて宙に浮いた本を更に高く上げた。
エステルの身体をメリアとして制御している本体が手元から離れカミルだけでなく、本の力によって現世に呼ばれたメリア自身もそれを追うように振り返る。
頭上あたりまで上がった本へ手をのばしたが、何かが鈍く砕ける音を聞き、カミルは限界まで目を見開いた。
「魔石が……」
表紙の宝石に突き刺さった弓矢を見て絶望の声が漏れる。
そしてカミルはその本を手にすることも出来ず、伸ばした右腕が床に向かってゆっくりと落ちていく瞬間を見ていた。
「魔力のない貴様に、それを扱う資格など無い」
ベルトに仕込んでいた鞭のように撓る刀を引き抜き、カミルの腕を切り落とす。エクセルはもう片腕を、痛みで床に崩れるカミルに向かって腕を振り上げると、彼をかばうように彼女が目を覚ました。
「やめて!!お父さんが死んじゃう!!!」
喉が潰れてしまいそうなほど必死な叫び声にエクセルの手が止まる。
目の前で大泣きしながら彼に駆け寄って行く彼女の後ろ姿から思い出してはいけない記憶がエクセルの脳裏に蘇り、真っ青に顔色を変えて静かに武器を降ろした。
途中力尽きたエステルは折り重なる様にカミルの上に崩れ、その上に矢の刺さった厚い本がばさりと音を立てて落ちる。
急に部屋が静かになった。
「……帰るぞ」
深い息をついて初めて言葉を放ったのはエクセルだった。
自分に言われた事を暫くして理解したセットは戸惑いながら答え、剣を鞘にしまう。
「おい、何してんだよ」
「何って、連れて帰るのだよ。最初からそういう仕事だからな」
おもむろに倒れたエステルを抱きかかえるエクセルに対し、クラエスは講義するような口調で止めに入ろうとする。だが、来るなと一喝する彼からエステルを背中に渡され一瞬何が起こったのかわからなくなった。
ひとまずエステルを背負い直し、彼の言われた通り部屋の壁に向かって下がる。
エクセルがしきりに気にしていた床がどんどん白く変色していっていることに気が付きそれを避けるように壁際まで追いやられる。
「まだ足りないか……」
どうするか一瞬考えた後、エクセルは右耳に残っていた赤い石の耳飾りを外しもう一度悩んだ末、宝石を白い方陣の中央へと投げ入れた。
「魔力が足りなさすぎて術がまだ終わらない。此処に居続ければ魔力がなくなって死ぬ」
「ちょっと待てよ、ソレに入ったら死ぬのか!?」
「今少し多めの魔力をやったから暫くは抑えれるだろうが……まぁ時間がないから早く此処を出るぞ」
出る。と言っても部屋のほとんどが白い方陣でうめつくされている状況で部屋から出るにしても、もうすき間もない。おそらく微量に残ったのすき間をゆっくり進んでる時間も無いだろう。
「村にも異変が起きてそれなりに経つだろうから、そろそろ来てもいいのだがな」
「何、一人でぶつぶつ言ってんだよ。どうやって出るんだよっつてんだ!」
白く光る命の危険がじわじわと迫ってくる非常事態にも関わらず随分と涼しい顔をして独り言をいうエクセルに怒鳴るクラエスに対し、側に居たセットが後ろに下がるよう手を払った。ちょっと雑な指示にキレ気味ながらも一歩後ろに下がった瞬間、クラエスの居た場所の大体顔辺りに極太の金属矢が突き刺ささり、鋭い先が顔を出した。
「クラエスしっかり!エステルが落ちるよ!?」
何が起こったのか理解できず固まったクラエスは半ば気絶寸前だった。愛菜はずり落ちそうになっているエステルを支えながらクラエスを叩き起こした。
その間も壁にはどんどん金属矢が刺さり続け、飛び出した先がアーチを描き切ったそこへセットの蹴りが入る。金属矢によってもろくなった木製の壁がめりめりと音を立てて外に向かって倒れていった。
外で待ち構えていたのはエクセルが乗ってきた馬車と、弩砲を構えた御者の男だった。男の安堵した声が高らかに上がる。
「エクセル閣下!セット殿!よく御無事で」
「素晴らしい、さすが王国騎士団。危ない橋渡って連れて来た甲斐があった」
「さーんきゅ」
自分が褒められたことを理解したセットが二本指で敬礼のような砕けた仕草をエクセルに向けた後、開けた穴から馬車へと飛び乗った。
「君達も早く乗りたまえ」
その言葉を聞いても入り口の開いた馬車をじっと見ながらクラエスは動きを止めていた。
彼の様子がおかしいことに不安になり、愛菜が名前を小さな声で呼んだ。
「最初からそういう仕事ってことは、王の花嫁がどうのってのは最初からエステルを連れて行く気だったって事だよな」
「おや、この状況で乗車拒否かね?」
エクセルを睨みつけるクラエスに向かって一斉に御者とセットの武器が彼に向けられる。
不敵な笑みを見せつつも、焦りを隠せないエクセルの表情を見てクラエスは耐え切れず吹き出し「馬ぁ鹿」と言って馬車に飛び乗った。
「俺がこいつを死なせるような事するわけねぇだろ」
「このっ……」
「花嫁なんて認めねぇし、アンタの事は信用してないからな」
流石に馬鹿の一言が頭にきたのか、震えながら喉まで出かかった言葉を押し殺した。
直ぐ様、彼の後ろに居た愛菜を呼び手を差し出す。
「君も来たまえ」
差し出された彼の手袋が返り血で斑模様に変色しているのを見て、愛菜は一瞬戸惑った。よく考えれば、なんのためらいもなくカミルの腕を切り落としていた光景を思い出し急に彼が怖くなった。
愛菜の震える足を見てエクセルは差し出した手を引っ込め、無言で彼女へ近づく。
近づいてくるエクセルに驚き、持っていた弓矢を落として目を閉じて縮こまる。だが急に体が軽くなった事に気が付き、顔をあげる。
「すまないね、巻き込んでしまって……責任は取るよ」
そう言って硬直した愛菜を抱きかかえたエクセルは、馬車へと飛び乗った。
乾いた鞭の音と馬の鳴き声と共に馬車のは勢いよく走り出してからも、愛菜はエクセルに抱きかかえられた状態のまま離れず、彼の服にしがみついていた。
エクセルは迷った末、愛菜の頭を撫でて見た。その感触に驚いた表情をした後で複雑そうに顔を歪める。
理由は愛菜に角が無い事に気づいたからだ。
愛菜もエクセルの止まった手で角が無いと気づかれた事を理解し、一層強く服にしがみつく。その締め付けが強すぎてエクセルが声を上げる。
「アイナ嬢、少し落ち着きたまえ」
「ひぃゃっ!?」
愛菜を支えていた手が、やけに柔らかい部分を掴んだ瞬間、愛菜の体がびくんと大きく震えて悲鳴を上げた。
何処に手をやっているのかなんとなく理解したエクセルは、何度か手に力を入れたりゆるめたりした後、複雑そうに締りのない笑みを浮かべる。
その様子を真正面から見ていたクラエス、セットが「知らね」とばかりに視線を左右に逸らした。
「どさくさに紛れてどこ触ってるんですか!?」
馬車の中で乾いた音と愛菜の怒鳴り声が響いた。
椅子の上に膝立ちし、エクセルの顔を何度か叩いた後、ふと外の景色が目に入り手を止める。
だいぶ離れたカミル村の辺りからじわりじわりと畑の色が茶色く変色していく光景を目にし、背筋に冷たいものが走った。強張った愛菜の肩を後ろからエクセルがそっと触れて外のことは気にしない方がいいとだけ言って座るように指示する。
「疲れただろう。狭いが少し横になって休むといいよ」
エクセルの膝を借りることになるので愛菜は怪訝な顔を見せて断ったが、気づけば彼の肩にもたれ眠ってしまう。
愛菜は夢を見ていた。
昨日からの唐突な出来事からもはや懐かしく思えてしまう学校の夢だ。独特の緑色をしたリノリウムの床をじっと見つめながら校内を延々とさ迷っていた。
「え…」
誰かに呼ばれた気がして振り返る。
夢はそこで覚めてしまう。
【一章】meria