あのひと

前作「あのこ」も見て頂けると、より面白いかと思います。

私は自分の気持ちを声に表せない。今もまだ昔の辛い記憶が、私の心に楔を打ち付けていて、心をじんわりと痛ませ続けている。
 あのひとなら声に出せない私の思いを分かってくれていると、通じ合っていると思っていテストをした。分かってくれた。でも、何も解ってくれてはいなかった。
 私はあのひとに背を向けた。海浜公園の奥へと逃げ出した。学生たちが騒ぎながら汗を流すテニスコートの横を通り抜けて、小さな子供が無邪気に笑う噴水広場を走り去る。私にできない感情の波が否応なしに伝わってくる。駆ける足は止まらない。辿り着いたのは、木々に囲まれ、赤褐色の泥が苔や雑草の緑をまばらにかぶった山の入り口。大きな岩が地面の隙間から角を出して、階段を作っている。しっかりと人の手の加わった登山道だ。もともと、江戸時代にはお城のあった、城跡の山。
 私の逃走の道は、そこへ伸びている。じめじめして、それでいて冷たい空気に包まれた山の中へ、私は足を踏み出した。
 落ちてしまった松の針ような母、足で踏んでも音を立てずに、ぬかるんでいるような柔らかい地面の中に飲み込まれていく。一歩一歩進むごとに土の匂いと冷たさを含んだ、静まり返った空気の中に包まれていく。
 心地いい。静かで、人の声も無い場所。ここが、私の居るべき場所なんだ。唖(あ)の娘(こ)のいるのにふさわしい、一生黙っていてもいい、人々から拒絶された場所。
 登山道を登り終えると、砂利の敷かれた平坦な道に差し掛かる。歩くたびにじゃりじゃりと鳴った。不安を感じながら終わりまで行くと、石の階段が見えてきた。
 もう、頭上を覆う木の葉は無かった。傾きかけた薄いオレンジの陽が、私を見つけて捉えている。あのひとも、もうすぐで私を見つけ出すだろう。階段を登るのが、最期の逃走だ。
 たった数段を登りきると、私は空の真ん中に立っていた。もともと城の合った石垣の上に私はいる。
 敷き詰められている細かな白い砂が、風が吹いて空に舞い上がった。私の髪もつられてそよぐ。砂は遠い空の中へ、見えなくなるまで飛んでいく。私も連れて行って欲しかった。風を追いかけるように、私は風下の方へと歩いた。
 石垣の縁。大きな石の上に立って、眼前に広がる景色を一望する。
 町が、町のすべてを見渡せた。端から端まで、私の生まれ育った町が全部、私の目の中に収まるくらいに小さくなっている。長い一本の中央道路、その途中にある交差点。工事中の公会堂に、レンタルビデオショップ。あんなに大きかった小学校と中学校も、遠くにあって、米粒みたいに見える。見覚えのある建物が全て、ミニチュアになって私を見上げていた。
 町の景色が、私の思いでの引き出しを勝手に開く。いい思いでも、悪い思い出も。
 叫びたかった。私はここにいる。町の一部の私がここに。でも、それができない。私の思いは誰にも届かない。ちょうど、ここから叫んだ言葉が、地上を歩く小人たちには聞こえないのと同じこと。これだけの距離を私は隔てて今まで生きて来たんだ……。ここから飛び降りて、距離を縮めようなんてことも怖くて、私にはできない。足が震えて、一歩も動けないでいる。
「はぁ~、やっと追いついた」
 あのひとの声がした。階段の方から、彼が近づいてくる。
「こんなとこまで来ちゃって……」
 私は彼から顔をそむける。いいでしょ、別に。
「良くなんかないよ。ほら」
 彼は隣に立って、私の手を握った。
「高いとこ、苦手だろ? さ、早く下りようぜ」
 彼の温もりが、ごわごわした掌から伝わってくる。私と他人との隔たりなんて、彼には通用しない。あのひとはこうやってずけずけと、でも一歩一歩着実に近づいて、乗り越えてくる。
 うん。私は彼に頷き返した。
 あのひとと降りる山道は、とても騒がしかった。
「でもよ、やっぱり小石とTELっていうのはちょっと、いや、だいぶ無理があるっていうか……」
 ほんと、あのひとはちっとも分かってないんだから……。
 彼の声に交じって、小鳥の鳴き声が聞こえた。木々の梢の擦れるざわめき。私たちの、じゃりじゃりという足音もする。静かだと思った山の中も耳を澄ませば町の中と変わらない。だから、今はちょっぴり怖い。
 きゅっ、と私はあのひとの手を強く握った。
「ん、どうした」
 とぼけた風に言っても、彼は同じ位つよく手を握り返してくれた。
 テストは、一応成功みたい。私たち、少しだけ通じ合ってる。

あのひと

某ザッピングシステムの漫画に影響されて、折角だから彼女側の視点の話も書いてみようと思って、「あのこ」の続きの作品を書いた始末です。

あのひと

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-06-11

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