じっさま友次郎と母梅香
生まれた土地を学生時代に離れ、小倉、川崎、横浜、太宰府、東京そしてまた太宰府と移り住み最後に最初の地でおんぼろになった我が家を壊し、家を新築した。私が曲がりなりにも健やかな生活を送れたのはたくさんの人にお世話になり、しかし他方たくさんの輩にいじめられたこともあるが、私の芯を作ったのはやはり母梅香の存在が大きい。私、梅香、友次郎、満男、虎雄、長次郎と過去を辿っていくと、見えてくるものがあるのではと考え書いてみた。小さい頃の風景はもうないが、土地の骨格は変わっていない。
生まれた土地と友次郎
一章
古い戸籍簿にこうある。林田友次郎 出生明治十三年十二月十三日
父長次郎母ツネの長男として生まれる。
本籍 福岡県嘉穂郡桂川村大字寿命百四十六番地
私の小学校時代の思い出といえば家の縁側の下に鶏小屋がしつらえてあり、爺ちゃんが時々卵を獲りにどてらのまま入り、そのまま出てくるものだから、どてらには羽がつき大変なきたなさだった。その最中に何か用事があると「かあちゃんヨーイ」と母におらぶのであった。庭には山羊が飼ってあり、あれは毛足が長いので近寄ると物凄く臭い。そして絞った乳も臭くて砂糖をたっぷり入れないと飲めないしろものだった。
庭にはまたピカピカの墓石、未だ死んでいないし勿論中に骨が納めてあるわけでもない。この辺りには珍しく立派な生前墓がでーんと鎮座していた。その墓の田んぼ向こうに目を凝らすとでかい松の木が一本くねくねと聳え立っていた。
家のそばが長崎街道でここらは新茶屋と呼称されていた。鳥栖方面から山家経由で難所冷水峠を越えると内野宿、そこを出発して次の飯塚宿までの半分、距離にして二里で一休みするところだ。当時は細い砂利道で西鉄の小さなボンネットバス(今だとマイクロバスくらいの大きさ)が走っていた。この道を往還と呼んでいた。
友次郎の父長次郎が真ん中に座っている約百年前の写真を見ると三段目右から二人が三男虎雄その左が長男友次郎一番左に長次郎の家を継いだ量が写っている。その下に一番の秀才、満夫がいる。
それで我が家は分家で本家は量の家なのだが、私は本家に寄った覚えがない。未だその家のある敷地の直ぐ上の山の中に墓地があり、お盆にはお墓掃除と墓参りを、懐中電灯と蚊取り線香を持ち、やぶ蚊に刺されながらやったものだが、その頃はもう本家には人がいるんだか私にはわからなかった。もう母屋は壊れていたかも知れない。
戸籍簿を繰ってみると、量には長男力雄がいるが、昭和二十六年四月十九日に死亡している。その下が二人不明で長女ツキコは嫁に行き、五男昭一と六男政一は顔は見たことがあるが、どっちかは農協に勤めていたが続かず、二人とも大阪かどっかでドヤ街にいるらしかった。友次郎四男の話では、本家に小作人が年貢即ち米を納めに列をなしているのを見たことがあるという。農地改革前或いは戦前のことだろう。庄屋ではなかった。ガ、年貢を政府に収めるほどだった。大正時代には村会議員も務めた。小作人は座敷に上がらせて貰えなかったそうで、身分差別の激しい頃だった。だが、長次郎は子供に教育を施すわけでもなく、商売の才覚もなく、(炭鉱ブームで筑豊は沸いていた。)長男友次郎は人が良すぎて財産の管理など任せられず、次男量も子供は農学校にもやらず、結局その家には誰も居つかず主人なき家は今は跡形もなく、ただ茫々とした草どもが生い茂っている有様だ。
長次郎五男満夫は学問の覚え目出度く嘉穂中学卒業後養子に入って熊本の医学校を卒業した。満夫は
友次郎から近くの土地を分けて貰い小さな診療所を開いていた。往診もやり金の余裕もありそうになく、大変そうな感じがした。彼は戦時中軍医として南方勤務の時マラリアを患っていた。ときどき発症していて、最悪のやつは夜九時頃、表がざわざわするので母と出てみると、サーベルを持った満夫が暴れているのだった。医学校の縁で最初大牟田市民病院院長のちに熊本市民病院院長を歴任した。彼の先妻の子長男は後九州大学醸造科の教授か助教になった、下は勉学嫌いでひょうきんなところがあった。満夫が死んだ弔いが家であったが、あいにくの雨の中で弔辞は長男が行った。亡くなった時刻と死因を始め大変立派なもので、なるほどこうやるのだと子供ながら思った。
支那大陸から無一文で引き揚げてきた虎雄即ち母の父は口をきいた記憶がないが、満夫は退職後家に行くと色々歓待してくれて、重要な話をしてくれた。その話とは家には窮すると激しい行動に走る本性があるので、注意するようにというものだった。後から考えるとこれは滅亡した本家のことを言っていることが分かった。あれこれ気を使ってくれて、伊太利亜土産の皮タバコケースも貰った。ミラノ等各市の紋章が焼き押ししてあるもので、これは今でも時々油を塗り込みイランで買った錫製蓋盛り鉢の中に保存している。母も私が高校二年の夏、友次郎が胃ガンで倒れ、看病に親戚一同(女だけで4、5人)が集まり本来の看病から親戚の面倒まで一身に背負いとうとう寝込んでしまった。台所の横にある電話機の置いてあった暗い小部屋に寝かせられもう死にそうだった。その時も満夫が診察し、誠に頼りになる叔父だった。私も本来は祖母の看病に尽くすべきなのだが、何もせず全く呑気なものだった。
母は母親ヨソ枝に十八くらいの嘉穂女学校に通っていた頃死に別れた。父虎雄は上級学校には行かなかったらしいが、当時駅長をやっており芳雄の官舎に住んでいた頃が人生で最も幸せな時だったらしく、八十代に入り記憶が怪しくなっても、芳雄のことは何度でも同じことを喋るのであった。次女ヒロ子長男学病死、長女と三女だけが残った。学校の先生になるのが夢だったらしいのだが、母親が死んではそれも無理だったのだろうか。父親も見知らぬ大陸へ単身旅立ってしまった。
大東亜戦争も始まり、女子挺身隊で工場動員へも行った。映画を見る楽しみも断たれた。戦後直ぐ従兄弟健三と結婚し、当時馬小屋があった藁葺きの家で生活を営む。健三は俳優で言うと伴ジュンに見かけがそっくりだった。まだ今の家の横と鶴田や中屋に田んぼがあり慣れぬ農作業に苦労したことだろう。子供は四人皆運動は苦手だったが、通信簿はまあまあだったのが、せめてもの救いだった。
二章
梅香は、頭ごなしにガミガミと子を押さえつけることは一切しない。だが自分が敷いたレールにうまく乗せていた。私も小さい頃漫画で描かれた歴史と社会の本を買って貰い、それを読んでたものだから、小学校での成績はまあまあだった。おかげで級長をいいつかる羽目になり大変だった。
気質的に友次郎的なとこがあり、級長なのに遅刻常習犯だった。小学四年頃からお城と自動車に興味が募り、図書館に行っちゃお城関係の本ばかり読んでいた。車はその頃から大人の雑誌を読み始め、モーターマガジンは定期購読した。やがてカーグラが創刊され、シトロエンやルノーなどの欧州車に憧れた。ガ、まさか自分が車を所有するなどとは夢にも思っていなかった。何しろ道はまだ都会に行かないと舗装されてないのだ。
近くに巨大な道路が完成したのは確か小学校3、4年の頃だ。校庭を縦に並べたような道が延々と続いている(その頃はそう思った。今は片側2車線の道などごく当たり前になってる。)
我が家の縁側に立つと小さな溜池があって、その向こうは田んぼ、線路を挟んでずっと田んぼ地平線の手前に麻生炭鉱のボタ山が聳えていた。小学校から帰ったある日物音が全くしない、シーンとあたりは静まりかえっているのだった。屋根は藁葺きで台所にはかまどがあった。正月用の餅つき、石臼を物置から出してもち米を蒸して手伝いの男衆が餅を搗きそれを母親がかえす、忙しい、だが楽しい行事だ。夏は涼しく冷房装置など売ってなかった。昼下がり母と一緒に板張りの台所で質素な昼ご飯をひっそりと食べたことをそのひんやりとした空気感とともに想い出すのだ。 健三は近くの駅に勤めていて、夜勤の弁当を届けるのが子の役目だった。それと水を井戸から汲み上げる。この二つは上から二番目までは確かにやった。三番目がやったかどうかがあやふやで4番目は全くやってない。井戸にはモーターがついた。三種の神器到来がまじかに来ていた。
友次郎は堅い勤めはやったことがない。熊本から馬を引っ張ってきたこともあるという。所謂馬喰だ。その頃は未だ砂利道には馬や牛の糞がころがっていた。また自転車屋もやった。先妻亡きあとも近くから婆さんが遊びにきていた。そのための資金稼ぎでやったのかも知れない。冬は和服やどてらの襟元には狐の襟巻きが巻き付けてあった。タバコ好きでキセルとタバコ入れは何時も持ち歩いていた。従兄弟寄はよくやっていた。人が集まり宴会になると必ず口論して暴れるのがいた。今はあの頃に比べれば大人しいものだ。
姉とは四年くらい年が離れていて、彼女は背も高く友次郎の寵愛も一身に受けていて、幼い頃から肩に重石が乗っているような気がしていた。また字も上手く、私はその反動か漢字を書くのが下手くそで書き順はデタラメだった。覚える気がない。これが中学になり、アルファベットの書き方が始まると、誰かに褒められたりし、俺もこれはいけると思い込んでしまうのだ。語学は単語を丸暗記し語彙を増やしていかないと何時までも上達しないのだが、割とするするとそのまま高校に進みESSにはいるのだが、ここで大きなイヴェントが起きる。当時春日原に米軍ベースキャンプがあり、確か二年の時先生に引率されてそこを6人近くで訪問した。西鉄電車を降りると前にテイラーやクリーニング屋が立ち並んでいる。そしてその日のホスト役がオープンカラーのシャツに真っ白なクルーネックのTシャツを覗かせて、ペイルブルー2ドア小型車の
横で待っていた。敷地の中に入ると全面芝生で、ネイヴィーのバーミュダショーツを穿いて裸足で走ってる子供がいる。黒の学生服という身なりの俺は場違いなところに来たものだとドギマギして、中学くらいの少女に"Hi"と挨拶されても咄嗟に言い返せなかった。教会の前で高校くらいの男女が屯している。スタディアムジャンパー、ブーツ、ボタンダウンシャツにミニスカ。当時日本もアイヴィー全盛で、自分でもヴァンのをいくらか持ってたのだが。これだけ本物を見せられると圧倒された。
高校に進んだ。最初の頃は地学、生物は未だ理解できた。化学になると怪しくなり、物理になるとお手上げだった。数学は早くも微積分で頓挫、結局大学進学は数学物理を避けて選ばざるを得なかった。先ず国立は無理、私立も学費で駄目で、残るは公立で外国語があるという狭い範囲で自然と近くの政令指定都市のうち小倉にある某市立にいくしかなかった。一回目はあえなく落ち、二回目も同じ部屋の他保護者のいびきが凄く、試験中は猛烈に眠かった。入学したのだが、どもりと軽い対人恐怖症でまともに相手の顔を見れず、また思ったことを口に表現するのが苦手で、女学生から秋波を送られても話しかける勇気が出ず、悪いことをした。その頃母はエレベーターに乗ったことがなかったので、友に頼んでその友人の母がやっている調査のアルバイトを紹介してもらった。福岡天神が本社で母はそれを理由に博多へ行くことができ、エレベーターのボタンを押せたのだった。就職前岩田屋百貨店にスーツを買いに母といったときのことだった。自分のはさっさと決まって、ハンカチ売り場でふと見ると母が立ち尽くしているのだ。多分欲しいのがあったのだろう。だがこれを買うと未だ二人の金食い虫が家に待ってると。どうしようかと悩んだに違いない。
67年ビー・ジーズの"New York Mining Disaster"が世界的に売れて、日本でもヒットした。最初これが炭鉱の落盤事故の歌と知らなかったほど、メロディーの美しいきれいな曲でそれ以来彼らの歌は後半のディスコミュージック以外は好きだ。家の近くにも炭鉱があり、落盤事故というと大変な騒ぎになってて、こんなきれいな旋律とは違うんだよと思っていたが、後何時までも歌い継がれるには旋律の美しさが大事なのだとこの年になって気づけるようになった。もっともニューヨークには炭鉱がないらしいが。高校2年の頃、S&Gがアルム"Bookend"を出しビートルズも"Sergent Pepper's"がリリースされ、今から考えるとまさに旬だった。学食ではストーンズの"Paint it Black"が流れていた。
大学に入ってはみたものの、キャンパスは狭く図書館はしょぼい。買っといた写真集"Take Ivy"に載ってる米国東部7大学の雄大なキャンパスとは全く比較にならなかった。またESSに入部してディベイトをやった。ネガティブとアファーマティブに分かれて互いの論旨を競い合うのだが、
面白かった。一つの論点はどちらからでも言い分を主張できるということを知った。"It's crystal clear"とわざわざクリスタルをつけるメガネがいたが、彼は今何処にいるのだろうか?またあの時代、苦学生もいたがその彼が折からの学園紛争の影響で大学の運営を批判するとき、どこで調べた
のか、その堂々たる切り込み姿勢に感銘を受けたものだ。そしてバイトで知り合ったリンダさん、彼も洒落者で最初に見た時の格好はマドラスの
ジャケットにコンビのサドルシューズ、腕には細身の傘。彼は当時のスペ研で流行っていた海外無銭旅行で一年南米を旅行した。
大学2年には佐世保米罤7艦隊修理艦"Ajax"の船長の家に一泊できた。流石に物静かな紳士で食後は我々にトランプゲームの手ほどき、帰宅すれば
アロハに着替える。体育館では現地高校生がファズを効かせて、かの"Born to be wild"を熱唱。調子にのった一人がジミヘンの真似でアクースティックギターを壊し、後で姉に叱られていました。奮発してもらい上官用のクラブへご招待。真っ赤なふかふかの絨毯に気もそぞろだった。基本的に
米国がすきになりましたが、今思えば米国の融和作戦に実に見事に乗せられていたようです。
三章
航空貨物を希望したのだが、海運にまわされ最初の配属先は川崎だった。最初の1年は鎌倉大船の二人部屋にいたが、そこを出て南武線武蔵小杉のしょぼい安アパートに住んだ。その頃は1ドル360円で、プラント輸出も資材から何でも持っていくという時代だった。中曽根首相がイランとの間で進めたIJPCという国家プロジェクトに参加した。ある日課長から、海外の話があるから行って来いと言われ、荻窪の研修に参加したらば、要は誰も行きたがらないので、無理やり人集めをする場だった。当時海外プロジェクト筆頭だった米軍通訳あがりのN氏もおり彼等は必死だった。私は深く考えず承諾した。テヘランでのコントラクター登記が遅れているが、最初の積荷を積んだ船が登記終了前に到着するので、何人かを派遣せねばならんというのだった。総勢4人、町田のK、シンガポールの大学に行ったU、神戸出身某と私だった。
羽田から出発した。当時海外出張は珍しく支店総出、父母、調布の親戚、友など大層な人出だった。この手のプロジェクトは分厚いマニュアルが
あり、何をするかは書いてある通りに遂行せねばならない。皆冊子を持ってると思っていたが、私だけだったのには驚いた。本戦着港前に鹿島から
間借りした仮事務所で,Bulky cargo listを手書きで作った。さて1回目の荷捌き会議、20人ほどのイラン人下請け、各コントラクターを前にして
会議は進行した。このリストは有効だった。世界のプラント屋も集まっていた。ティッセンが目立った。ドライバーは何カ国かいた。韓国人も
多かった。そのうち3か月で事業所本体事務員が赴任し我々は帰国した。しばらくするとイスラム原理主義革命が勃発し、パーレビは亡命した。
イライラ戦争が始まりプラントは壊滅したらしい。あの愛くるしい子供達ももう大人だろう。夕方になると必ず誰かが時計を見に来た。
「サート チャンデ」何時ですかと。
老人介護施設の近くに住む末妹から電話がかかってきたのは0時をまわった頃だった。もう前から容態が悪くなり、簡易酸素吸入器を付けて
貰っていた。直ぐに用意をして家から40分の距離にある山里の施設に夫婦で出向いた。病室に入ると未だ息はしているものの、空気を肺で
吸い込むというより、口でパクパクとまるで金魚が水のなかで息をするように苦しげに未だ死ねないでいた。病室を出て控えに下がると母と
過ごした時間が思い出されてきた。直ぐお別れだ。母は10代半ば過ぎに母ヨソ枝に先立たれ、博子、学と死に別れ、父は大陸から無一文で
帰国し、後妻とはソリが合わず不幸な人生だった。それに10代の最後のあたりは戦争末期、戦後の食糧難、私を産んだ時は産後の肥立ちが悪く
床に伏せていたらしく、その横で小さい私がポツンといたそうです。友次郎が胃がんで自宅看護した時も大変だった。お袋が看病疲れで倒れ黒電話
のある薄暗い部屋に寝かせられていた時です。心臓脚気という言葉を何度も聞きました。だが4人の子供は皆それなりに育ち、社会人になれた。
あの友次郎と健三の間で母一人しっかりしていたから。もうそろそろ年貢の納め時だよ、、、と私は心のなかで呟きました。
坊や
強く生きるんだ
広いこの世界おまえのもの
椎名林檎 小さな木の実 唄い手冥利 亀パクト
孫も次第に大きくなることでしょう。勿論お袋の育児を真似ます。
じっさま友次郎と母梅香
現役をリタイアして以来もう10年余、時は正確に過ぎていきます。やがて全ての記憶が曖昧になり、土に帰る時にやり残したことがないように、
もやもやとした過去の記憶を整理しておくために書きました。物はその時使えるるものは使えばいいのですが、私の記憶は私しか手を付けられません。