頭並べ

あの時彼女は、なんと言っていただろうか。

厳めしく顔を歪め、口元を固く引き結び、目に涙を湛えて。

訴えかけるように。助けを求めるように。懇願するように。

鋭角につり上がった目からは今にも涙が零れ落ちそう。揺らめいてるだろう視界で、しかしはっきりと僕を射ぬいている。

大きな目で僕を睨みすえながら、彼女はなんと言っていただろうか。

彼女への罪悪感は消えはしないのに。年毎に大きくなると言うのに。あの時彼女がなんと言っていたのか、僕にはもう、思い出せない。



昨日の土砂降りで湿ったアスファルトが、その湿気を空気中に押し返している。今日は今年一番の暑さだそうだ。

くらくらする頭でお天気お姉さんの言葉を思い出す。今日は気温、湿度ともに高まり、体感温度は例年以上になるらしい。熱中症対策を忘れずに。

景気よく恩恵をばらまいてくれる太陽は、その偉容を示すように中天に君臨している。雲ひとつない晴天から矮小な僕までの間に太陽光を遮ってくれるものはなにもなく、僕は自分の体に火が通っていく感覚を味わっていた。

こんな目に遭っているのは他でもない。僕の恩師、吉田明彦先生のご自宅に招かれたためだ。先生とお会いするのは何年ぶりだろうか。中学校の先生だったから、卒業式以来となる。僕の人生でもっとも輝いていた時間の先生だ。

最近新作を出していないとはいえ、作家を生業としている僕は、その職業柄室内にいることが多く(筆が早いわけでもないので外出する余裕もない)、いつの間にか足もすっかり衰えてしまっていたらしい。駅までの道のりがこんなにも長かったとは。

芯までしっかり火が通ってしまう前に、先生の元へたどり着けるだろうか。



すでに約束の時間を一時間近く過ぎていることもあり、僕の指は呼び鈴を押せずにいた。これほどの大遅刻、吉田先生が怒らないわけがない。まして遅刻の理由は「太陽が眩しかったから」だ。つまり休憩を取りすぎたからだ。見通しの甘さは僕の数ある欠点の代表格である。

急く気持ちとは裏腹に思考は現実から逃避していく。思い出すのは中学時代。先生が僕の担任で、僕が先生の教え子だった頃のこと。

そういえばあの頃も、よく遅刻しては先生に怒られていた。

ため息とともに思い出す。あの頃の遅刻は部活動が原因だった。いや、当時こそ部活動と呼んでいたし、部を自称してもいたけれど、学校から認可されていたわけではないので、ただの遊びグループといった認識を持たれていたことと思う。活動内容は決して遊びなどではなかったけれど。

血生臭く、憎悪にまみれ、殺されかけ、死にたくなり、諭され、愛され、愛した二年と半年は、間違いなく僕の人生のハイライトだった。

つらつらと思考を脱線させているうちに、先生宅の扉が開いた。中から吉田先生本人が顔を出す。僕の記憶に残る先生とほとんど変わらない。いや、少しやつれただろうか。

手をインターフォンから離して頭を下げる。何年ぶりかも定かではない、本当に久しぶりに交わす言葉だ。「お久しぶりです」

「とっとと入りなさい。遅いから心配したぞ」

何事か小言をもらうかとドキドキしていたが、どうやら怒られることはなさそうだ。ひとつ安堵の息を吐く。吉田先生はすでに廊下の奥に消えていた。僕は慌てて靴を脱ぎ、おじゃまします、と吉田先生宅に入っていった。


苦々しい表情で先生は言った。「君に助けて欲しいんだ」歳のせいか、言葉も雰囲気も弱々しい。「どういうことですか」僕は聞いた。

ぬるいコーヒーを一口含み、先生は続ける。真剣な眼差しで僕を見つめ、「中学生の頃君たちがやっていた活動を覚えているかい?」と言った。

狙ったかのように、先ほどの僕の思考に重なる先生の質問。もちろん意図したものではないだろう。ただの偶然。あるいは廻り合わせか。これが、惹き会うということ。

喉が強張るのを感じる。先生がその話題を振ってきたということは、助けて欲しいということは、起こったのだ。昔と同じことが。出たのだ。妖怪が。



歯が震える。カチカチと小刻みに音を立てる。人一倍怖がりな僕は、どういうわけか中学時代に自称「妖怪検証部」に所属していた。部員の耳に入った怪奇現象を、実際に妖怪の仕業なのか、それとも人の仕業なのか、はたまた自然現象か、あるいは勘違いなのか。

ひたすらに考察と実地調査を重ねて部員全員が納得するまで検証する。それが妖怪検証部。

震える足に鞭打って参加していたものだ。

下手の横好きとも言えない。怖がりで、特別頭が良いわけでもない僕がなぜあの部にいたのか、本当に謎だ。それこそ妖怪のせいではないかと思う。この上なく怖くて、これ以上なく輝かしい、思い出の時代。

呆けて見えたのか、先生が訝るように声をかけてきた。「大丈夫か?」「ええ、大丈夫です。中学時代の活動ですよね、もちろん覚えてますよ」

間を開けず、僕の語尾に被せるように先生も続ける。「頼みたいのは他でもない、妖怪のことだ。元妖怪検証部の君に、君たちに頼みたいことがあるんだ。かつて実際に真怪を…………、本物の妖怪を退治したことがある君たちに」



未来のことはわからない。そんな当たり前のことは、いつも未来にならないとわからない。わかったつもりになっていても、その予想を、現実は容易に飛び越えていく。

無論、先生の依頼は一も二もなく引き受けた。中学時代の経験を基に怪異譚を書き、物書きとして食べている僕のこと。もう一度あの時のような、一分一秒が濃密だった時間を、非日常を味わいたいと幾度も願った。

めちゃくちゃで、何度も嫌になった。それでも卒業まで部員を名乗り活動に参加し続けたのはなぜだったか。刺激的だったからか。女子部員が可愛かったからか。

元部員たちには簡単に連絡が取れた。その中でも今日今から会えるのはひとりだけらしいが。急な話だったので仕方がないだろう。中学校の卒業式以来久しぶりに話を出来ただけでもよしとしよう。唯一アポが取れたひとりとの待ち合わせ場所に向かい、僕も歩を進めた。

矢も盾もたまらぬ気持ちが足取りを軽くする。気の持ちようか、先生宅へ向かう時よりも気温が下がったように感じる。風が出てきたのだろうか、なんだか快適な気分だ。



優雅にクリームソーダを飲んでいる彼女は、中学時代と代わらない容姿であった。女性に対しては「昔と代わらない」と言うと機嫌を損ねないと聞いたことがあるが、比較できる「昔」が子供のころとなると、「大人っぽくなった」と言った方がいいのだろうか。

よう。と彼女は、昔と代わらない彼女、境清美は片手を上げた。「久しぶりじゃないか。中学校の卒業式以来かな。電話一本、手紙の一通も寄越さずにいたかと思えば、何年かぶりの電話が妖怪検証とは、まったくお前さんらしいと言ってもいいのかね」

磊落にそう言った境さんは、見た目だけでなく話した印象も、中学時代と変わっていなかった。

柳眉をあげてニヒルに笑う境さんに、僕も応じる。「音沙汰が無かったのはお互い様じゃないかな。僕だって君から連絡をもらったことはなかったよ」

「累々たる不満を語り合っても仕方ない。もう残りも少ないことだし、早く本題に入ろうじゃないか。本題、つまりお前さんが連れてきた妖怪の話を、しようじゃないか」

連絡時に聞き違えたのだろうか? 妖怪の話を持ってきたのは僕ではなく吉田先生だ。「いいや、連絡には不備も不足もなかったよ。状況は十全に理解しているとも。その上で言っているのさ。この妖怪は、お前さんが連れてきたモノだ」

朗々と、境さんは語る。妖怪検証が終わり真実が見えたときのように。中学時代の再現のように。「お前さんが連れてきた妖怪の名は夢魔。寝ている人に憑き精気を吸いとる妖怪さ。つまりお前さんは夢魔に憑かれて夢を見ているのさ。今現在もね」

「私が中学時代の姿でいるのも夢だからさ。お前さんは今現在の私の姿を想像できないから。あるいは、『変わっていて欲しくない』という願いを夢魔が汲み、夢に反映させている。だって都合が良すぎるだろう? あれから何年経ったと思っている。中学校の卒業式から今まで一切連絡の無かった先生はなぜ君の連絡先を知っていた? なぜ一度も連絡を取り合っていなかった部員たちとすんなり連絡が取れる? 他のやつらが断り、当時の片恋相手と二人きりになれたのもご都合的だ。それは、夢魔がそうしたからだよ」

「を、をかしなことを言わないでくれよ」背中にじっとりとした汗を感じる。自分が現実と思っていたものが夢だと言われて、落ち着いてはいられない。「もしこれが夢だというなら、僕はいったいいつから夢を見ていたというんだ? どこまでが夢だったんだ?」力ない問い掛け。実は夢じゃなかった。ただそう言ってほしいだけ。しかし彼女は、冷たい目で僕を見ていた。

「んなこと自分で考えろ」境清美はそう吐き捨てた。

頭並べ

思い付きと手癖で書かれた短編です。読み終った方は、各段落の頭の文字を並べてみてください。

頭並べ

ちょっとした仕掛けを思い付いて、勢いのままに書いた短編です。書いていてとても楽しかったです。 問題は読んでみて楽しいかどうか…………

  • 小説
  • 掌編
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-06-09

Public Domain
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