典型的な夏の過ごし方?
梅雨入りしたばっかり。
少し勇み足でしたね。
「僕は毎年夏が近付くと、いかにも日本人らしく情緒に溢れた夏を味わおうと考えるのに、結局のところ、去年と変わらず畳の上にごろごろし、何となく高校野球を観て、地元のチームを応援して――そんなありふれた夏を繰り返し過ごしてしまっている。
そうして毎年、『夏ってこう言うもんだったかなあ』と考え込んでしまうのだ。
ひょっとすると、これは旅行に似ているのかもしれない。
計画を立てている時が実は一番楽しくて、行ってみると案外つまらなかったりする。
それとおんなじ。
そう言えば昔、修学旅行で奈良京都を訪れたのだけど、僕は法隆寺に過剰な期待をしていた。
世界最古の木造建築、柿食へば鐘の鳴るような法隆寺に、だ。
けれど実際訪れてみると、仕方ないことだろうけど鉄板で段差を無くしていたり、消火栓が書かれていたり――そんなものを目にしてしまうと、やっぱり興醒めしてしまう。
清水寺だってそう。
僕とおんなじ学生服姿の連中がカッポしていて、風情も何もあったもんじゃなかった。
何も人の多いことを嘆いているんじゃない。
昔から清水寺は人でごった返していただろう。
問題は、雰囲気なんだ。
学生服やブレザーなんかで練り歩かれてはたまらない。
僕はいっそ服装に規制でもかけたらどうかと思う。
貸衣裳屋でも設置して、皆さんそこで着替えるんだ。
つまり皆、役者になる。
京都の清水寺の世界の一部になる。
風景と同化するんだ。
京都って都市は、ところどころ時間の流れが――もちろん観念的な言い方だけど、違っているような気がする。
良く言えば、過去と現在とが折り合う空間。
悪く言えば、都市計画に失敗した、中途半端な空間に思える。
水温の高低、絵の具の濃淡って言うのは混じり合わさって両者の中間に落ち着く。
確かこれを『エントロピー増大の法則』とか言ったっけ?
それはともかく、しかし景観はこうは行かない。
だから京都は新しいものと古いものとが混じり合うことなく混在してしまっている。
神社仏閣を訪ねてその空間に浸っても、一歩外に出れば、近代的な建造物。
一気に現実世界に連れ戻されてしまう。
それがなんとも寂しい。
イメージの中の京都は美しい。
限りなく、限りなく。
けれど、一体そのイメージとは何によって造り出されたものだろうかと考えると、ひっきょうメディアに因るのだろう。
主にTV。
TVに映し出される京都の町並みが美しいのは、当然のことながら京都の美を抽出し、切り取って写しているからなんだ。
だからそういう京都ばかりを観ていると、京都っていうの全部そうなのかなって、そんなことないはずなんだけど思ってしまう。
ともかく視覚っていうのは、何よりインパクトがある。
『百聞は一見に如かず』と言うように。
昔、大相撲の人気が低調で、東西の角界が合併したりして色々打開策を模索したのだけど上手く行かず、確か昭和三年だったと思う、大相撲のラジオ放送を開始した。
当初、ラジオに客を取られてますます人が来なくなると反対意見が多数を占めたが、出羽海親方の『ラジオで面白そうな勝負を耳にすれば、相撲に関心の薄い人達もきっと国技館に足を運ぶ』との英断でラジオ放送が開始され、国技館は狙い通り連日大入りになったそうだ。
これぞまさしく『百聞は一見に如かず』の好例だろう。
だけどこれは、あくまで映像伝達メディアの発達していないころの話であることを、留意しないといけない。
その時代、写真は既にあったし、勿論映画もあった。そうして映画は大人気だった。
けれどどちらもモノクロだったのだ。
つまり、映像と実像との間に、まだまだ大きな差があった。
だからそんな時代を生きていた人たちにとって、『一見』と言うのは、例えば相撲を見たければ自ら国技館に足を運び、そうして自分の目で見ることを意味した。
だけど現代においてそれはちょっと複雑で、映像はますます実像に迫り、わざわざ相撲を見るのに国技館くんだりまで足を運ばなくとも、僕らはテレビを通して家にいながらそれを見ることが出来るのだ。
勿論それはTV画面を通したものであって、いわゆる厳密に『一見』に当たるかと言えば微妙だけれど、それでも僕らはTVないしPC、あるいはスマホの液晶画面を通してあたかも観てしまったかのような気になるものだ。
だけどそれら、なかんづくTVが流す映像が、必ずしも真実を伝えているとは限らない。
これは戦争を思い浮かべれば分かりやすいだろう。
当たり前だけど自分達の都合の悪い映像は流さない。
あくまで自分達の都合の良いことばかり流し、場合によっては捏造する。
戦争ほど極端ではないにしろ、今日のTV番組では、それらを演出だと称して、美しく加工して、酷く客観性を欠いた、単一的な見方を押し付ける映像を流しているキライがある。
その一例が、まさしく僕のイメージする京都なのだ。
全く僕が望んでしまう、そうあって欲しい美しい京都。
あたかも京都が美しい町並みや歴史的建造物のみで成り立っているかのように思わせる、編集された映像。
きっと法隆寺も、それで僕は過剰な期待を抱いてしまっていたのだと思う。
美しく造り出された映像に、先入観を植え付けられてしまったんだ。
でも、視覚っていうのは、何より優位にあることは確かで、例えそれが嘘であったとしても、何かしらの映像を見せられてしまうと、僕らは往々にしてそれを信じてしまうものなのだ。
これを仮に、視覚優位効果とでも名付けようか。
さて、いよいよ本題なのだけど、これは夏にも言えることだと思うんだ。
TVを観ていると――それはドラマであり、CMを指すのだけど――それらはいかにも夏を夏らしく僕らに伝える。
典型的な日本の夏だ。
様式美的な夏とも言える。
それらの中の映像は――かき氷・朝顔・扇風機・蚊取り線香・麦わら帽子・スイカ・縁側・風鈴・うちわ・花火・浴衣・セミ・ひまわり等々――挙げれば切りがないけれど俳句で言うところの季語と言う記号で溢れ返っている。
え? 朝顔は秋の季語だって?
まあ、細かいことは良いじゃないか。
要するに、季節感、情緒に溢れた映像、それがTVから、それも主にCMからひっきりなしに流されるんだ。
CMっていうのはその性質上、視聴者の興味を惹き付けるように作られている。
言ってしまえば大袈裟に作られている。
だけど映像ってのは何度も言うけれど、それをあたかも真実であるかのように思い込ませる力があるんだ。
だからそれを見ていると、あたかも多くの日本人が、それらの映像が提示するような『典型的な夏』を過ごしているかのように、錯覚させられてしまうんだ。
そう、全ては錯覚なんだよ。
そうして僕はその錯覚に踊らされ、毎年夏が近付くと、きっと今年こそは典型的な夏を過ごしてやるぞって思ってしまうのだ。
しかしいざ夏が来ると、そこで気付いてしまうんだ。
僕のようにだらだら夏を過ごす日本人の方が、実は圧倒的多数派なんじゃないか、即ち、これこそ実は『典型的な夏の過ごし方』なんじゃないかって、ね」
「……で、結局何が言いたいわけ?」
死んだ魚のような目で、妻が言う。
「う、うん? だからだね、僕がこうしてごろごろしているのは、むしろ典型的な日本人の夏の過ごし方であって、何ら君から避難されるものではなく――」
「……掃除の、ジャマ!」
僕の頭を、妻は掃除機のノズルで小突く。
「お父さん、海連れてってよ、海」
「良いかい、娘よ。僕は毎年夏が近付くと――(以下同文)」
典型的な夏の過ごし方?
高校野球は、やっぱり地元を応援してしまいます。
母校は絶対、甲子園行けないでしょうけど……。
あと、実のところ『エントロピー増大の法則』よくわかりません。