陳暦(ちんごよみ) 第3章 我が家に焼夷弾、ラジオが欲しい、戦争突入銃後の守り、国民学校、終戦の日。

陳暦いよいよ第3章まで来ました。
終戦から戦後のあの苦しい生活にはいります。
表現には作品上お見苦しい点もありますが、
作品表現上やむを得ぬのでそのまま、表現し
ますのでお許しください。

我が家へ焼夷弾(不発)
名古屋市瑞穂区船原2丁目3番地で小学校1年から中学までここえ住んで尾崎、横井、
小島、成田の4軒長屋があった。
戦争は敗戦、玉砕の続きだった昭和17年初めころ私は岩倉、父は徴用で大江の三菱
重工へ、妹は学童疎開で岐阜に、とバラバラの生活していた。
その夜は用があって家に帰っていたがその夜に市内が大空襲にあった。
我が家の30m周辺は焼け野原だ、我が家にはとんでもないものが天から降ってきた。
20年7月或る夜名古屋大空襲が始まった、「ヒユーと不気味な音」がするB29の大
集団が瑞穂区の周辺の爆撃が始まった、バリバリとも聞こえるドドンと地響きもする周
辺が熱く感じる、無論自家製の防空壕の中で聞く音だ。

父が震っている子供3人、母共々この夜は声も出ないガタガタ体が震え、この時の記憶
が何もない、しかも「油臭い」いやな匂いが余計体を震えさせた、「油脂焼夷弾」とは
こんな匂いかと思ったのは、「バリバリ」とともに木材の燃える匂い、音がする。
Bは頭上にもういない、熱く赤く明るい周辺と家財を持って走る人々とでごった返して
いた。30m周辺が残った、が依然非常に熱かった、誰もどうしたら、何をしたらいい
のか、とにかく家の中へ水を飲みに入った、「押入れに変なものがある」と誰かが叫ん
でいた、無論油臭い家の中だ、口を手ぬぐいでふさいだ人達(長屋の住人)が集まって
きていた、恐る恐るだ。

この時みんなが生きた心地がなかったろう。
全員がとっさにこの場を逃げた、私達一家も別に決まった方角がある筈もなくとにかく
その場から逃げた。火の無い場所でその夜を過ごした。
我が家に戻ってみると朝6時だとゆうのにやたらひとだかりが我が家に起こっている、
「不発弾がおるわ」と云う人でぞろぞろしていた、怖いもの見たさだ、家に入ったがあ
の油脂特有の油臭さ、直径1m以上はあろうか長さ3m位の、中身がむきだしの焼夷弾
の不発弾だ、その中には6角形をした30cm位の長さ、直径15cm以上はあろうと
思う一発が20以上並んで見える10段はある、120発以上の球数になる、油脂液が
流れだしていた、当時では「国防色」と云った色で英数文字が印刷してある。
その場所は我が家の屋根を突き破り押入れで布団何枚かのお蔭で床下に突き刺さって不
発だった。

その日以来見物でにぎわった、4日後大政翼賛会の人達、父の12人で恐る恐る竹棒で
肩へ担ぎ御剣小学校の校庭へ運びこまれた、10発以上は集まり最終12発が2列で並
べられた、8月15日前日14日頃(日時不明)子供の石投げで12発のうち何発かが
破裂して周辺にいた12人の子供が犠牲になったと聞かされた。
どうして破裂したのか周囲にいた者が生きていないので全く不明なのです。
ただ周囲にいた子供達が石を投げていたとゆう人がいたので多分そうだとゆう風評が
たった。

後数日で平和が戻ったとゆうのに全く惜しんでも悔やんでも惜しい話です。
焼夷弾についてはそのメカニズムはわからないが、子弾がバラバラ天から降ってくる、
そして油脂が燃えながら破裂する、体につけば人間が燃える、「エレクトロン焼夷弾」とゆう。


ラジオが欲しい。

今、朝9時、セミが鳴いてます、うるさいくらいの鳴音です、
「大本営発表」がラジオから聞こえて来ます、お向かいの髪結いさん家のラジオが大きな声で
戦果の発表です、「やった」と私たちお力づけてくれます、でも我が家にはラジオがないので
いつも髪結い家のラジオで聞きました。
いつか我が家にも箱型のラジオが欲しいと思っていたが、父ちゃんは飲むほうが忙しく、何台
もかのラジオが酒に化けていきます。
鉱石ラジオで我慢しようとラジオセットを探したが、売っているところお知りません。
隣の尾崎さんも明日新型ラジオが来るとゆうので近所へ触れ回っています。
「大本営発表」お我が家のラジオで聞きたい、朝のラジオ体操も狭いが我が家の庭?で思い切
り手足お振りたい。

その願いが通じたのは20年の初めでした。
その間自慢にはできないが、我が家には50cm角の「蓄音器」と古い百人一首がありました、
「セントルイス・ブルース」のレコードがたまには繋って、父ちゃんの友達がきては踊っている
のお見かけたものです、母の自慢の百人一首は正月には私達兄弟3人で母の読み上げで、必死に
札お探したものものです。

戦争突入。(銃後の守り)

昭和16年12月8日(小学校6年)修学旅行が前年まで「伊勢神宮」がお決まりだったが中止、
それでも雁道から市電で名古屋城見学が就学旅行気分でした(御剣小)。

その帰路「大本営」発表の「米国及び英国と戦争状態に入れり」でした、ラジオ屋から聞こえた、
なぜか、なんの声も誰も何も言わずシーンとして6年生の行列が進みました。

12年以降「支那」とは戦争状態であったから少年達には今更とゆう気もあった、が米、英国と
戦闘状態に入ると云うことはただならない気迫を感じていた。
その日から「大本営発表」は勝った、勝ったのラジオ放送に内地は国民全体が酔っていた、し、神
の国である日本が負ける分けがないと信じていた。

18年4月30日午後12時30分ころ土曜だったと(記憶)
名古屋第一工2年になったばかり、鶴舞公園前停留所で市電を待っていました、飛行機の爆音がし
たので空を見上げた、
「日本にもロッキードP38のような双胴機ができたのかなー」
と、思った真上に来たとき公園内からカーンカーンと聞いたこともない高射砲が数十発打ち出され
た。
足元に破片がころころころがってきた、拾ってその熱さに火傷した、するどい破片が空から降って
くる、その時空襲警報が鳴った、警戒警報も同時に鳴った気がする。
南に向かったP38は高倉砲営工廠に数発の爆弾で空襲した

黒煙が一本空に上がっていた。
誰かが残さなくてはいけない戦中の庶民の考え、生活、思惑です、経験者も僅かになりました、だ
からどうだと言えば反論はありません。
でもあの時代があって「今」があることおわすれないで下さい。
まだまだ書き残したいことは沢山あります。


国民小学校第一回卒業生。

昭和17年3月私達は或る子は高等小学校へ又或る子は中学校へと進んでいった。
国民学校第一回の卒業生であった、前年16年12月8日「大本営発表」から始まる大東亜戦争がは
じまった。
6年の修学旅行がいつもなら「伊勢神宮」へ一泊旅行だったが今年は何か危ないとゆう事で中止となっ
た、そのかわりで「名古屋城」見学とゆうことだった。
午後1時頃帰宅途中だった私達は県庁前まで市電に乗るため行列で歩いていた、途中のレコード屋さん
の前で大きな声で「大本営」をしきりにラジオから聞こえた、でも私達には内容がよくわからない、桜
井先生が「いよいよ戦争が始まった」とぽつんと言った。
支那(中国)とはいつの間にか戦争が始まっていたがアメリカ、イギリス共戦争することになったのだ。
アメリカがどの位強いのか、まさか「神の国」日本が負ける分けがないとみんなでぼそぼそ話あった、
「我が帝国は米、英両国と戦闘状態に入れり」とも叫んでいた。
あの鬼畜米国が頭に浮かぶ、そして「我が帝国陸軍はタイに侵攻、太平洋上を制圧と目まくるしいほど
の勝った、勝ったのラジオ放送が続いた。
私は名古屋第一工学校へ入学した。
65人中12人位が中学校で、一番出来のいい子は高等小学校へと別れた。
私が買って貰ったのは製図コンパス、T定規、皮靴、校章入りの帽子など目新しい者ばかりだった。

雁道から鶴舞公園までの市電定期券も買って貰った、当時4区以上の市電駅がなければ市電通学は許可に
ならず、ギリギリだった。

終戦の日。

私の終戦日(8月15日)
17歳、岩倉へ工場疎開した名古屋裸子で日本に5台しかない「ハーバード・リンドナー」とゆうネジハ
ブ研磨機が3台あった。
戦況もはかばかしくなく、空襲も激しくなり3台の大事な機械を「郡上八幡」の山中へ疎開するため岩倉駅
でその日機械を貨車に積み込み作業をしていた、3台目お積み込み作業中班長の井出さんの右足親指をコロ
作業中に機械と貨車に挟まれて潰した、が井出さんは作業中の不注意だからと云ってそのまま作業を続けた。
10時頃会社から「今日12時に天皇陛下の勅使放送」があると連絡が入りその時を待った。
12時「玉音放送が始まったのだが駅のラジオは聞き取れない雑音で「ポッダム宣言を受諾した」と聞き取れた、
「戦争に負けた」と叫んだ人がいた、私は「ああー戦争は終わった」と感じたのみだった。
アメリカのデマだとゆう人もいた、しかし昨日グラマン2機が見たこともない綺麗な紙に日本人の家族の絵が
描かれ「戦争は終わりました爆撃はもうありません」とゆうビラが天から降ってきた。おまわりさんは自転車
で「日本はまだ負けてはいないビラをよこせと言って必死で集めていた。
一部外国ではこの日が祝日(先勝)で、日本の侵略、鬼の兵隊と今でも子供から教育しているのが事実です、
若者は自分の世代に何の関係もないと思っている人もいるのも事実、ある国へ行った時わざわざ或る老人が来て
「日本語は話せる、書ける、が日本人と話はしたくない」と云って去って行った。
あれもこれも思い出す、あの時岩倉駅に積み込まれたハーバード・リンドナーはどうなったか、戦争があのまま
続いていたら私は郡上でどんな生活をおくったのだろうか。
今の年まで生きていられたのか、反省しきりです、そしてその当時の仲間は今、・・・・・

陳暦(ちんごよみ) 第3章 我が家に焼夷弾、ラジオが欲しい、戦争突入銃後の守り、国民学校、終戦の日。

まだまだ続きます、是非お読みください。

陳暦(ちんごよみ) 第3章 我が家に焼夷弾、ラジオが欲しい、戦争突入銃後の守り、国民学校、終戦の日。

戦時中の話です。 震災も忘れるなと言いますが、「戦争」も 時代、とともに忘れてはならないのです。 言葉では伝わらないからこうして「文」で 残していきます。 読んで下さい。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-03-21

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted