万緑や
桜が散ってまもなく梅雨に入ろうかという、短くも眩い五月であった。
四ッ谷から市ヶ谷まで、外堀添いの並木道を二人で歩いた。
午後の陽射しは明るく、日はずいぶん長くなっていた。
春にはみごとな桜の風景だっただろう。
すっかり青葉に変わっていたが、歩けども途切れない新緑の桜並木が、遊歩道の向こうまで続いている。
緑に埋もれるような心持ちで、風に揺れる若葉を眺めた。
歩きながらその人が「万緑や」とつぶやくので、どういう意味かと、つい尋ねていた。
今思えば、言葉の意味を知りたかったわけではないのだろう。私は、その人にとっての「万緑や」を知りたかったのだと思う。
「そんな俳句なかった?見渡す限り緑ってことじゃないの?」
凡庸な答えだったが、私はそれで満足であった。
続きの句は姿を現さなかったが、それは音となって緑の中へ消えて行く。
ひとつの言葉に、音があり、色があった。
あたり一面の緑は、いくつもの濃淡で重なり合っている。
かげりの奥の涼しげな緑、照り返しを受けて明るむ緑。
葉一枚ごとの色合いは、ひとつづつの音である。
重なる葉は旋律を奏で、濃い緑は低く、明るい緑は高く響き合う。
風が大きく枝を揺らせば、音楽は変化して盛り上がりをみせる。
絶えず風に揺れてちらちらと光る若葉は、細かな音となってさざめいた。
色は音になるのだと、その人に言った。
色の少しずつの違いが、音階のようなのだと話すと、「へえ!」と驚いてみせる。
それから、変わった人だなあという眼差しで私を見た。
色の響き合い、音のいろどり。緑のオーケストラを、ともに聞くことができたら。
そのとき私は、そう願ったのだった。
あの時、あの人には、緑の奏でを聴くことはできなかっただろうか。
それでもいつか、私とは別の誰かと歩きながら、その音楽を知ることがあるだろうか。
思わず心に浮かぶ言葉に、もう輪郭もおぼろげな遠い日を、なつかしく思い出すだろうか。
緑のそよぎを聴くたびに、私があの人を思い出すように。
万緑や