ぐっちーないと

ぐっちーないと

 たんっ、と大きな音を立ててグラスを置いた女は、そのまま上半身をカウンターに投げ出した。
 顔を横に向けてぐったりとうなだれる彼女を、バーのマスターは困ったように見下ろしている。
「サユリちゃん、飲みすぎだよ。今日はもう帰りなさい。タクシー呼んであげるから」
 還暦をとうに過ぎた、しかしシックな色合いの制服が似合う細身の老人は、垂れ落ちる眉の向こうの目を心配そうに細めてみせた。
「放っておいてくらさい……」
 女――サユリは顔も上げず、弱々しい声でそうつぶやくと、グラスをマスターへと差し出して、
「マスター、もう一杯くらさい」
 眠そうにとろんとした目をふらふらさせながら、おかわりを注文する。
「あのね、サユリちゃん。今日はちょっと飲みす……」
「いいんれす。今日は飲みたい気分なんれす」
 マスターの言葉をさえぎって、サユリはさらにずいっとグラスを押し出した。落ちそうになったそれを慌てて両手で押さえたマスターは、やれやれと肩をすくめ、「この一杯でおわりだからね」と釘を刺してアイスボールをひとつグラスに入れた。その上にシングルモルトをほんのちょっとだけ注ぎ、サユリに見つからないようにミネラルウォーターでじゅうぶん薄めてから彼女の前に置いた。
「まったく、ろういうつもりなのよ……」
 マスターはどきりとしたが、サユリのつぶやきはその目線と同じく、ここではないどこかに向けられたものだったらしい。
「なんれ部下の不始末まれ私のせいにされらきゃらんらいのよ。やってらんらいわ」
 薄暗く、狭い店内。聴いたこともないクラシック音楽がゆったりと流れ、黄色い照明が心許なくほのかに点っている。その一点に明らかな影を落としながら、サユリは眉間にしわを寄せる。
「サユリちゃんの部下の子だって、きっと一生懸命やったんだろう。今回は大目に見てあげなよ」
「今回らけじゃらいんれす」
 顔を上げようともせずにサユリ。
「何回言っても聞いてくれらいんれすよ。まったく、少しは学習してほしいもろらわ」
 ぶつぶつこぼしながら、手探りでグラスに手を伸ばす。マスターはその手にグラスを運んで握らせてやる。彼女はしばらくそのまま動かなかったが、やがて思い出したように顔をゆっくりと上げた。乾いた笑い声を落とし、
「突っ伏してたら飲めらいれすよね」
 どうやらそんなことも分からなくなるくらい泥酔しているらしい。
 マスターは両手を腰にあて、深くため息をついた。そして備え付けの電話でタクシーを手配する。
「ちょっとマスター。帰るらんて言ってらいれすよっ」
 そう抗議するサユリの目は()わり、身体もふらふらしていて、とても見ていられない。
「いいから今日はもう帰りなさい。今度来るときは笑っておいで。サユリちゃんの笑顔、最近見てないからね」
「うぅ、そんらこと……」
 何か言おうとしていたサユリの声が途切れた。
 ふたたびカウンターに突っ伏した彼女の顔をのぞきこむと、静かな寝息を立てて眠っていた。
 やれやれ、と肩をすくめるマスターは、彼女にそっと届かない声を送る。
「何回言っても聞いてくれない。少しは学習してほしい。……サユリちゃん、君はその言葉を自分に向けてみたことはあるかい?」
 当然、答えは返ってこない。
「飲みすぎるなって毎回言ってるんだけどねぇ」
 半分も減っていないグラスを取り上げると、溶けかけた氷がカランと涼しく鳴った。

ぐっちーないと

ぐっちーないと

「いいんれす。今日は飲みたい気分なんれす」

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-06-07

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