紅蓮の日
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私はセシリア。名字のない、ただのセシリアだ。この世界に生まれ落ち、十六年が経つ。どのような容姿かは知らぬ。目を失った私の記憶している私は、ずっと四年前のままだ。これからも変わることはない。それがどのような姿であったか、語ることはできぬ。私には言葉を発する術がない。
赤子の私は幸福だった。名のある建築家の父と、美しい母。ふたりの愛を受け、赤子の私はすくすくと育った。幼少の私は幸せだった。愛する両親と、たくさんの大切な友人。彼らに囲まれた私は不自由など知らず育った。
災いが轟き落ちたのは、私が十二回目の誕生日を迎えた数日後だった。突然の巨大な炎に目を焼かれ、恐怖に声を失った。麻痺した身体は次第に感覚を取り戻したが、目と声は失ったままだ。
両親は死んだ。巨大な炎に焼かれ、その身は灰と化した。私は憶えている。恐怖と苦痛にゆがむ、彼らの最期の表情を。幽鬼へと変わり果てた彼らは、それでもなお、私を逃がした。私は逃げた。炎から。そして愛する両親から。いや、もはや愛などなかったのかもしれぬ。己の身を案ずることしか、そのときの私にはできなかった。私は逃げたのではない。捨てたのだ。私に溢れんばかりの愛を注いでくれた両親を。私は自ら捨てたのだ。
おぉ、神よ。偉大なる万物の創造主。なぜ私を作りたもうた。この目を焼かれ、この口を縛られ、それでも私は生きている。今ここに、こうして生きている。おぉ、神よ。私に一体何を望む。私は一体何を望めばよい。私は生きる術をふたつも欠き落とした。それでなお生きよとは、あまりにも不条理ではないか。私は今、羞恥をまとい生きている。枯れぬいばらを踏み、生きているのだ。
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北と南とを飛び交う戦火は衰えぬ。私の目と声とを奪った邪悪な炎は、今日もまた、どこかで上がっている。私と同じような、時には私より耐え難い損傷を受ける者もあったが、そんな戦災孤児は日々増え続けた。
家をなくした私は、街をさまよった。街がどのような姿に変わり果てたかは知らぬ。私の目に写ることはない。ただ、獣のような叫び声と泣き声が耳に刺さり、木とレンガと鉄と肉の焼ける驚くべき異臭が鼻孔を熱く突いた。それらは忘れられぬおぞましき記憶として、日々、不意に脳裏をかすめるのだった。
私の流れついた場所は、どうやら富豪の邸宅のようだった。そこの富豪夫婦が私を拾ったのだ。幸福を捨てた、この私を。
当初、私は戸惑った。なぜ私が拾われたのか。ここに存在することを許されるのか。私は生きていても良いのか。
私にとって、幸福は生きる糧であり、生きる限りは幸福であるのが当然のことと思っていた。それを剥奪された私は、もう死しているのと同じだった。自ら死を選ばなかったことに理由はない。いつか私はのたれ死ぬのだと思っていた。だが、拾われた。そんな私は拾われたのだ。
だが、だからといって幸福を期待したわけではない。両親を捨てたとき、私は未来を捨てたのだ。まばゆいばかりに輝く、己の将来を。笑うがいい。蔑むがいい。私は来たる未来に夢見ていたのだ。自分には未来があると信じていたのだ。いつか大人になり、今は知らぬ誰かを愛し、子を産み、祝福の光を浴び、愛すべき人々に囲まれて生き、そして死ぬ。私は夢見ていたのだ。そして、それはある日突如として消え失せる。奪われる。私の描いた光は、一瞬にして暗闇と化す。笑うがいい。蔑むがいい。だが哀れむな。哀れみなど私はいらぬ。あぁ、願わくば、私をどうか見ないでほしい。私は路傍の石に過ぎぬ。極めて痛んだ、自ら消えることすらできぬ小石。
期待がなかった分、新しい生活への順応は早かった。奴隷としての日々は、身体をいくら酷使しても尽きることのない、そして癒えることのない疲労を細く鋭く刻み続けた。そう、私は奴隷となったのだ。朝日が昇る前に起き、世界が深い眠りについても休むことを許されぬ。ささいな失敗でその日の食事を抜かれ、背を鞭で叩かれた。しかし、期待がなかった分、順応は早かった。少なくとも、私は。
邸には、私の外に数人の孤児がいた。私と同じ、未来を闇に落とした子供たち。光を消された孤児の群れ。彼らは自分の不幸を嘆いていた。嘆き、悲しみ、涙した。それを見ることは叶わぬが、鞭で叩かれ、おそらくひどくただれているのであろう身体。それを引きずり、彼らは生きていた。そう、生きていたのだ。このときは。
私に気の置けない友人ができた。私の一生分の幸福が詰まった場所。私が生まれ育った家。そこからさほど遠くない地区に住んでいた少年、ノエル。かつては裕福とは言えずとも、満たされた日々を送っていた。服の仕立て屋を営んでいた両親は、やはりもういない。炎に呑まれ、彼のいぬ間に消えた。肉のない炭と化した。夜が来ると、彼はひっそりと泣いた。声は出さぬ。身を震わせ、拳を握り、与えられた薄っぺらなシーツに顔を押し付けて泣くのだ。それに気付いたのは私だけだった。目のない私は、人よりどこか空気の震えに目ざといのかもしれぬ。私は彼の身体に触れようとした。肩へと伸ばしたはずの手は、彼の髪に触れた。彼は驚き、身を引いた。数秒の沈黙。彼はまだ声変わりしていない、細くか弱い、しかし優しい声で私に話しかけた。私は語る口を持たぬ。彼の手のひらに指でスペルをなぞり、それが私たちの会話となった。私たちは友人となった。
富豪の名は、ファル・ブルールといった。孤児を集め、奴隷として働かせている彼は、国内有数の資産家でもあった。そしてある日、私は知った。彼が闇の世界の住人であることを。武器商人としての顔を持つことを。私たちが光を落としたその闇に、彼は生きていた。落ちたいくつもの光を喰らい、生きていたのだ。ブルールの裏の顔を知ったのは、ノエルがそっと教えてくれたからだった。彼が地下倉庫の掃除をしていたとき、発注客との会話を聞いたらしい。客は敵国の宰相だった。ブルールは敵に武器を、私たちを暗闇へと叩き落した悪魔の炎を売っていたのだ。あぁ、なんということだろう! 私たちから光を奪ったのは敵国ではない。己の主人、ブルールだったのだ。
それから数日が過ぎた頃、異変は突然起こった。いくつも下された命令のひとつを忘れ、わたしは鞭で叩かれ、食事を抜かれた。私は奴隷たちが暮らすちいさな部屋で、早めの就寝を決めた。空腹は寝て紛らわせるのが一番だと、このときの私はすでに学習していた。ノエルはそんな私を気の毒に思ったのか、パンを貰ってくると言ってくれた。だが、私は断った。そんなことを言えば、今度は彼がひどい目にあうと思ったからだ。私の罰に彼まで付き合わせることはない。するとどうだろう。今度は彼もが食事を抜いたではないか。慌てて食事を促す私に、彼は言った。きみは独りではない、と。あぁ、このときの気持ちよ! 高揚よ! どうか、どうか私の中で永遠に生き続けておくれ。
翌日、いつものように私は誰よりも早く起床した。早起きは実に心得たものだ。手探りでそっと窓を開け、早朝の澄んだ空気を部屋に入れる。それは私の日課だったし、それによって何人かが起きだしてくるのが常だった。しばらくすると、ひとり起きた。声をかけられ、それがノエルであることを知る。私たちは互いの傷をかばいながらひっそりと寄り添った。彼の手のひらに、腹はすいていないかと書いた。彼は大丈夫だと答えた。逆に私が質問された。辛くはないか、と。私は辛いと答えた。辛い。痛い。苦しい。彼はさらに問うた。セシリア。可哀そうな子供。なぜ、きみはそれでもなお、生き続ける。私は答えられなかった。私が今、なぜこうして生きているのか、解らなかった。奴隷の日々は続く。生きている限り、私は奴隷であるというのに。なぜ、私は生きている。私が答に窮しているとき、ノエルが気付いた。異変は突然起こった。誰も起きない。
原因はすぐに解った。毒だ。昨夜の食事に毒が盛られていたのだ。遅効性の、そして致死性の毒。ブルールが毒を盛ったのだ! ノエルは言う。奴隷の子供たちは一様に顔を土の色に変え、細い唾液を垂らしている、と。自分たちが殺されるなどと誰がいつ思うだろうか。自分の主人に殺されるなんて誰も思わない! ノエルは立ち上がった。糾弾するのだ。この狂おしい光景を。ノエルは部屋を出ていった。そして、戻ってこなかった。
私は待った。ノエルの帰りを待ち続けた。部屋のドアが開き、反射的にそちらに顔をやる。肩に鋭い熱が走り、私は倒れ込む。鞭の痛みだった。部屋に入ってきたのは使用人だった。奴隷と違い、人間として扱われる存在。彼は私に言った。早く仕事をしろ、と。ノエルの行方を訊こうと、彼の手のひらを探す。返ってきたのは鞭の痛み。慣れることのできぬ、剣のような無機質な熱。私は持ち場へと移動した。背後でなにか柔らかいものを蹴る、鈍い音がした。私は振り返らなかった。
一日の仕事を少し残したあたりで、私はブルールに呼ばれた。使用人に連れられて、ふかふかのカーペットを踏む。私は戸惑っていた。ブルールにではない。己にだ。他の奴隷たちのように殺されるのだろうかと恐怖する自分に驚いたのだ。私は生きることを望んでなどいない。だが、だからといって自らの死は選ばない。私はそうだったはずだ。ずっとそうだったはずだ。だというのに、私は何を恐れているのだろうか。私は戸惑った。不意にノエルの言葉が浮かぶ。
セシリア。可哀そうな子供。なぜ、きみはそれでもなお、生き続ける。
私にその答が降りた。問うたノエルはもういないというのに。この答は誰に向かい、発すべきなのか。誰のための答なのか。解っている。己のためだ。私はやっと、私のための答を手に入れた。偽りのない答を、私はやっと手に入れたのだ。私は生きたい! もう一度、幸福を感じたい! だから死にたくはない。私は生きたいのだ。
頬を温かいものが伝う。それは涙だった。おぉ、神よ。偉大なる万物の創造主。目を焼かれてなお、私は涙することができるのか。私はまだ生きているのか。それが御柱の望みか。それを私は望んでもよいのか。生きることを!
ブルールは服を脱げと言った。従い、私は脱いだ。服を。下着を。すっかりやせ細った四肢が露わになる。肉のほとんどない、皮と骨だけの身体。ブルールはふむ、と頷き、私に話し始めた。私はどうやら別の富豪に売られるようだった。私と同じくらいの歳の少女がたくさんいる、そんな性癖のある富豪。私に抗う術などなかった。生きるための手段なのだと、何度も己に言い聞かせた。いつか幸福を取り戻すための過程であると、何度も心で反芻した。
その日のうちに、私は馬車に乗せられた。使用人が手綱を取り、私を幌のない荷車に押し込んだ。走り出した馬車は、やがて街を出る。幸福のあった場所。両親のいた、私の家。ノエルの家。今はもうなき数々の幸福。だが、それは確かにそこにあった。そこで私は生き、ノエルは生きた。一生を捧げるはずだった街。荷車の振動が激しくなり、街を出たことを知る。舗装のない、荒れた大地。見たことのない、そしてこれからもそれの叶わぬ荒野。馬車は進む。私を幸福の場所から引き離して。
暇を持て余したのか、使用人が語った。奴隷たちの死を。私のかつての悲しい仲間たちを。彼らはすでに憔悴しきっていた。だから処分した、と。奴隷となる孤児たちは、まだまだあの街にたくさんあぶれている。代わりはいくらでもある。だから処分した。それ以外の理由などない。刺繍針の穴ほどもあるものか。
私は使用人の首を絞めていた。御者台に身を乗り出し、彼の首を手探り、そして絞めた。馬車は走り続ける。どこまでも、荒野を走り続ける。やがて使用人の力が消えた。後には手首に痛みが残った。私の手を解こうと抵抗した彼の握力が、手入れされていたであろう爪が、私の手首に深々と突き刺さった。馬車は走り続ける。どこまでも、荒野を走り続ける。
馬車馬の動きが鈍った頃、不意に私の名を呼ぶ声が聞こえた。幻聴かと思ったが、そうではない。この声。私を呼ぶ優しい声。それはノエルの声だった。
大きな音とともに、御者台が揺れた。ゆっくりと歩むようなこの馬車に、ノエルが飛び乗ったのだ。ノエルは私を抱き、頬に何度も口付けた。神よ。これは奇跡か。これを奇跡を呼ばぬのならば、何をもって奇跡とする。私は驚き、奇跡に涙し、そしてノエルのごつごつした手のひらに問うた。なぜこんなところにいるのか、と。彼はしばらくの間を置き、それから答えを返した。逃げたのだ、と。そう、彼は部屋を出た後、突如として彼を襲った恐怖に身を震わせ、使用人たちの隙をついて逃げ出していたのだ。私を置いて。目の見えぬ、口の利けぬ私を置いて。彼はひとりで逃げたのだ。頬に再び涙が伝う。それがどのような意味をなしていたのか、私にも解らぬ。ただ、悲しみがこの身を打ち抜いた。どこかに向けられた怒りは、いまだ血の滲む手首を彼の首に這わせた。ふと、その手首に温かい感触が走った。それは彼の涙だった。彼は何度も私に謝罪した。私を置いて逃げたことを、彼は何度も何度も詫びた。だが、抵抗はしなかった。私の両手は、再び人の首を締め上げた。その日、私は二人の人間を殺した。
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これが四年前の私の記憶。忘れ去ることの叶わぬ、ちいさな少女の忌まわしき記憶。
あの日、私は必死だった。生きることに精一杯だった。己が生きるために、どんな犠牲もいとわなかった。たとえ誰かを殺しても、自分は生きたいと思っていた。この手に再び幸福を掴みたいと願った。だが、手に残るのは冷たい肌の感触と、痛みだけ。幸福を掴むはずのこの手は、気が付けば血に濡れていた。死をまとっていた。それは、あの巨大な炎に包まれた両親を思い出させた。自らの肉体を捨て、私を生かした両親。彼らを捨てた私。そして使用人とノエルを殺し、自らを生かした私。あぁ、わたしはここまで生きたかったのか! これほどの大きな十字架を背負い、それでも私は行き続けたかったのか! 私はなんと醜い生き物なのだろう。羞恥をまとい、枯れぬいばらを踏み、生き続けた先に何がある。おぉ、神よ。偉大なる万物の創造主。私に一体何を望む。私は一体何を望めばよい。私はもう疲れてしまった。生きることにひどく疲れてしまった。私にはもう、力はない。この四年間を生き延びたことで、私は疲れてしまったのだ。後悔はある。だが、未練はない。この世界と私とを繋ぐ糸は、もうすでに途切れている。私はもう、楽になってもいいはずだ。違うか、神よ。私は消えるべき人間なのだ。
暗闇の中、声が聞こえる。私を呼ぶ、いくつもの懐かしい声。私が愛した声。
――セシリア。罪深き天使。我らの娘。私たちはお前を許さない。私たちを捨てたお前を、どうして許すことができるだろうか。私たちは、けしてお前を許さない。
――セシリア。可哀そうな子供。俺はお前を許さない。俺を殺し、開きかけた未来を閉ざしたお前を、どうして許すことができるだろうか。俺は、けしてお前を許さない。
ありがとう。私の愛した人々よ。私は許されないことをした。あぁ、これでもし許されようものなら、私はきっと狂ってしまうだろう。私は罪を抱き、死ぬ。かつて輝いていた未来が落ちた、暗闇。ブルールの住まう、汚く淀んだ世界。私はそこへと堕ちる。二度と見上げない。私は罪を抱き、死ぬのだ。私は生きることを望んだ。あぁ、強く強く望んでいた。だが、それももう叶わぬ。私は知った。焼かれた目であっても、そこに光があったこと。縛られた口であっても、未来を紡ごうとしていたこと。だが、それももう叶わぬ。私は死ぬのだ。
おぉ、神よ。偉大なる万物の創造主。私にも願いができた。聞いてくれるか。私のこの身を焼いてほしい。私という存在を、跡形もなく消しておくれ。私は醜い生き物だ。知らぬ他人の幸福など望まぬ。私は己のために生き、死ぬのだ。さぁ、わたしを焼き払ってくれ。かつて私の目を焼き、口を縛った、あの紅蓮の炎で。
紅蓮の日