秋桜の咲く頃

秋桜の咲く頃

 白い壁。白い天井。白いカーテン。白い寝巻き。白いベッド。
 少女のいる世界は、白色に包まれていた。
 その白色を四角く切り取った窓の外には、一面の銀世界。
 少女はそれを哀しそうに眺めると、やがて視線を戻し、白いベッドの上で手紙を書き始めた。
 
 
 お久しぶりです。元気にされていますか?
 今、外では雪が降っています。子供たちは初雪に浮かれて遊びまわっていますが、社会人であるあなたにとって、雪は交通を妨げる大敵でしかありませんよね。それとも、その美しさに感動されているでしょうか。私はきっと、あなたは後者なのだと思います。自分のことよりも周りに気を使ってしまうあなたは、言い換えれば、世界に目を向けられる素敵な力の持ち主なのだと思います。
 今だから言えます。私はそんなあなたに惹かれていました。あなたの心が、私の凍てついた心をどれだけ癒し、溶かしてくれたことか。あなたはきっと解らないでしょう。でも良いのです。それは私だけが知ってれば良いことなのです。私は死ぬまでずっと、忘れることはありません。
 覚えていますか? 私が初めて、あなたと出会ったときのことを。もうすぐ一年になるんですよ。月日の流れは早いものですね。
 あの頃の私は、自分の運命というものに、ひどく落胆していました。卒業と進学を控え、新たな生活に心を躍らせていた矢先に身体を壊し、そしてこの白く四角い空間に繋がれてしまいました。私は白色が好きでした。どんな色にも染まることができる、そしてどんな色にも染まることのない白色は、私の憧れを象徴する色だったのです。優しく、そして気高い色だったのです。それが今ではどうでしょう。私は、自分を縛るこの白い空間を憎んでさえいます。おかしなものですね。あれほど愛してやまなかった白色が、今では憎しみの対象になっているなんて。でも、本当は解っているのです。私が本当に憎くてたまらないのは、自分の身体なのだと。自由に外を走ることのできないこの身体こそ、私の本当の憎しみの対象なのだと。私がそのことに気付いた頃でしょうか。あなたと出会ったのは。
 あの時も、今日のように雪が舞っていました。外では子供たちが雪だるまを作ったり雪合戦をしたり、とても楽しそうで、私の目には彼らがとてもまぶしく映ったものです。そして彼らはかまくらを作ろうと、大きな雪玉を転がし始めました。そこに現れたのがあなたです。子供だけの力ではどうにも動かせなくなった大きな雪玉を見たあなたは、彼らの手助けをしていましたね。そして、大きな大きな雪玉ができあがりました。あなたは子供たちと手を叩き合い、楽しそうに笑っていました。私はその様子をずっと二階の部屋の窓から眺めていました。そう。最初から見ていたのですよ。ご存知でしたか?
 笑っていたあなたが不意にこちらを見上げたとき、私はひどく驚きました。変ですよね。ただほんの少し目が合っただけなのに、私は自分がとても情けない存在のように思えてしまったのです。自由に走り回って笑うことのできるあなたと、ベッドから動くことのできない自分を比べて、自分が普通の人間より劣っているのだと、改めて実感してしまったのです。私が弱っているのは身体だけではありませんでした。いつの間にか、心まで痩せ衰えてしまっていたのです。それに気付き、私は泣いてしまいました。心のどこかで知ってしまっていたのかもしれません。もう二度と、私が外を走ることなどできないことを。
 どのくらい顔を伏せていたでしょうか。視線を戻すと、あなたはもうそこにはいませんでした。いたのは一生懸命雪玉に穴を掘る子供たちだけです。どうしたのだろうと思いましたが、それ以上は追求して考えませんでした。視線を部屋の中に戻すと、見慣れた白色が私を包みました。私はこれからもこの白色の中で生きていくのだと思いました。その時です。ガラッと大きな音を立てて、部屋のスライド式のドアが開きました。私が驚いてそちらを見ると、そこにはあなたが立っていたのです。
 その先はあなたもご存知のとおりです。あなたは私のベッドに歩み寄ると、手に持った物を窓の脇に置きました。それは、あなたの作った小さな雪だるまでした。片手に乗るほどの、小さな小さな雪だるまでした。あなたは私に微笑みかけながら言いましたね。
 ――可愛いでしょう。綺麗な白色をしていますよ。
 その言葉を聞いた途端、私は思わず泣いてしまいましたね。あなたはとても驚いたことと思います。でも、それは仕方のないことだったのです。私にもう一度、白色の優しさと気高さを教えてくれたその言葉に、私は泣いてしまったのです。あんなに憧れていた白色を拒んでいた自分が、とても恥ずかしく思えたのです。
 私が泣きやむのを、あなたは静かに待っていてくれましたね。あの時はとても嬉しかった。やがて私の涙が枯れると、あなたはご自分のお話をしてくれました。医大生であること。研修でこの病院に来ていること。月収が少なくて困難な節約生活を強いられていること。ここで知り合った患者さんたちのこと。たくさんのお話を聞かせてくれました。私にはそれらがとても新鮮で、気付けば無心で聞き入っていました。あなたは、退屈な話ですいませんと謝ったけれど、私にはとても楽しい時間でした。人とあんなにも長い間話をしたことなんて、ずっとありませんでしたから。感謝しています。
 それからあなたは言いました。来週、大学に戻ると。私にはそれが残念でなりませんでした。せっかく知り合えたのに、もうお別れなのかと。そんな私の心を見透かしたかのように、あなたは言ってくださいましたね。それまでの間、時間ができたら寄らせて頂きますと。とても嬉しかったけれど、私はそれを拒みました。私に構わず、もっとたくさんの人と触れ合い、たくさんの経験をなさってください――私はそう言いました。この言葉、半分くらい本気だったのですよ? あとの半分は私に構ってほしかった。私の相手をしてほしかった。私をここから連れ出してほしかった。でも、そんなのは無理に決まっています。だから私はそう言いました。あなたはやっぱり微笑んだまま、また来ますと言ってくださいました。あのときの私の心の躍動、あなたにはきっと解らないことでしょう。
 それから数日後、あなたはまたここを訪れてくださいました。調子はいかがですかと訊かれ、私は悪くはないと答えましたよね。本当は嬉しくて仕方がないくせに。あなたが来てくれたことが、嬉しくて嬉しくて。なのに私はそれを悟られるのが恥ずかしくて、ついそう答えてしまったのです。そんな私を見て、あなたは言いました。
 ――今は雪に覆われていますが、ここから見える花壇に、コスモスが咲いているのですよ。
 それは私も知っていることでした。ほんの小さな花壇に溢れるほどのコスモス。ただの景色として眺めていたものなのに、あなたの口から聞くと、とても大切なもののように思えてくるから不思議です。そしてあなたはコスモスのことを教えてくれました。メモ用紙を見ながらたどたどしく説明してくれるあなたは、年下の私が言う台詞ではありませんが、とても可愛らしくて愛らしく感じました。
 コスモスは別名秋桜。秋頃に桜のような花を咲かせることからそう呼ばれているのですよね。ちゃんと覚えています。そして花言葉は「乙女のまごころ」、「愛情」でしたね。あなたはなぜか顔を赤くして、そう教えてくださいました。でも、その理由もすぐに解りました。あなたが言った言葉です。
 ――来年の今頃、コスモスを持ってあなたに会いに来ます。
 それが何を意味しているか、年頃の私にはすぐに解りました。私も顔を真っ赤にして、「はい」とだけ答えました。それ以上の言葉が浮かばなかったのです。そういった経験の薄い私は、はたして良い女なのでしょうか。でも、それと同時に不安もありました。なぜ、私なのだろう。「愛情」を贈る相手なんて、もっと他にもたくさんいるだろうに。それでなくとも私はこの白い空間に繋がれたままの身。疑問と不安が私の中で大きな渦を巻きました。そんな私の気持ちなんてすぐに察したと思うのに、あなたはただ黙って微笑んでくれました。あなたの笑顔を見ていると、それだけで幸せな気持ちになります。私は改めて「待っています」と答えました。
 もう冬ですね。花壇はまた、去年と同じように、雪をかぶっています。コスモスはすっかり枯れて、雪で見えなくなってしまいました。だというのに、あなたのあの時の愛情に今もなお、すがっている私は駄目な人間なのでしょうか。あなたのいない日々を、私は期待という力のみで生きてきました。でも、それももう終わりです。あなたのいないこの白い世界に、私は生きる価値を見い出せないでいます。
 看護士さんから聞いて知りました。あなたの墓前には、あなたがずっと握っていたコスモスが供えられていたということを。ありがとう。私のことを覚えていてくださったのですね。さようならは言いません。だって、もうすぐ会えるのですから。あなたにもう一度出会えたら、その時はあなたに訊いてみようと思います。なぜ、私にコスモスを贈ろうとしてくださったのかを。それを楽しみに、これからあなたに会いに行きます。私も、コスモスを手に。
 
 
 長い長い手紙を書き終えると、少女はそれを大切そうに二つに折り、胸に抱いてベッドに横たわった。そして静かに目を閉じ、眠りにつく。
 長い長い眠りに。

秋桜の咲く頃

秋桜の咲く頃

「可愛いでしょう。綺麗な白色をしていますよ」

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-06-07

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