陰りゆく時間
神矢和彦は、真新しいキッチンに立ち、この新築の女主人の横で、お茶の用意を手伝っていた。他に家事のベテランが三名もいるのだが、いずれも家具調度類や広いテラスからの眺めを楽しんでいる。
「本当に素敵なお宅ね」
三次絵画教室の中でもリーダー格の原島夫人が、三度目の感嘆符を打ちながら、上質のソファに深々と腰を下ろした。そこからでも、広い窓の向こうに中学校のグラウンドや古い町並みが一望できる。
「これはいい景色だ。このまま絵になるよ」
三次画伯は、テラスの柵から身を乗り出すようにして、生まれ育った町を眺めていたが、やがて広縁に戻ってきて、そこへ座り込んだ。その脳裏には、目前に広がる景色を描いた自筆の絵が浮かんでいるのだろう。
「なにもありませんが」
坂井(さかい)彰子(しょうこ)がワゴンに茶器を乗せて運んできた。その後ろから菓子器を持って和彦が従う。
「あら、ごめんなさいね、和彦くん。男の子に手伝わせちゃって」
やっと気付いたという様子で、佐藤夫人がカラカラと笑った。主婦歴二十五年のベテランは、同じく主婦歴二十年の鈴木夫人と調度類の品定めに余念がない。
「本当に悪かったわね。気付かなくて」
原島夫人は、家屋敷に夢中で、お茶の支度のことなど気付きもしなかった自分を恥じるように、和彦から菓子器を受け取った。
「いいんですよ。たまにはこういうのも悪くない。故郷のおふくろが見たら、家ではまったくしないのにと、一言小言があるでしょうけどね」
和彦は、柔和な顔立ちをほころばせて、お道化た。
大きな図体でこんなことと、彼自身思っているが、これも若くて上品なご婦人の手伝いならば、別段恥ずかしいとも思わない。
大学に入ったばかりの和彦とは、十歳ほど年上であるが、和彦は坂井彰子がこの春、絵画教室に入会して以来の熱狂的な信奉者であった。それは、初対面の挨拶の時、このご婦人が和彦の鳥の絵を手放しで褒めたことと無関係ではなかったが。
ともかく和彦にとって、週に一度の絵画教室はなによりも欠かせないイベントになった。まして彼女の自宅訪問ともなれば、いかなゴシップ好きのおばさま方同伴とはいえ、参加しないテはなかった。
「噂には聞いていたが、まったく結構なお住まいですな」
彰子からティーカップを受け取りながら、三次画伯は笑いかけた。彰子の横顔が恥らうように苦笑している。
高台に建てられた大きな白い家は、さして事件のない小さな町でも有名であった。持ち主の坂井夫妻が、元々はこの町の出身で、ご主人の会社の関係もあって戻ってきたことが、噂を大きくした一因でもあった。
和彦は地元の者ではないので、詳しいことはわからないが、彰子のいない教室では、彼女の話題で持ちきりの為、少なからず知っている。
この大きな家は、彼女の父親が建てたものであること。彼女のご主人は、地元大手の建設会社のエリートであること。二人は結婚してしばらくは、この町から出ていたこと。そして、そのご主人には、どこかに囲っている女がいるらしいこと。
最後の噂は、たぶんのやっかみを含んでいた。
「こんな素敵なリビングでお茶がいただけるなんて、滅多にないことですわね。おまけにあなたはとてもお若いのですもの、羨ましい限りだわ」
佐藤夫人が大きく一座に同意を求めると、皆苦笑で肩をすくめた。彼女の褒め言葉は、時折行き過ぎて、却って気まずい雰囲気を作ってしまう。
幸い、彰子はいつもと変わらない穏やかな微笑を浮かべているので、和彦は元より、彼女を腫れ物を扱うが如く大切にしている原島夫人の懸念も、奇麗に拭い去ることができた。
カップが皆に行き渡ったのを見て、三次画伯の柔らかいバリトンが、開け放した広縁から入って来る爽やかな風と微妙な調べを奏で、暫し、その場を忘れた。
和彦の横のカーペットに正座する彰子は、時折視線を感じたように和彦を見やり、また笑顔で画伯の話に耳を傾けた。
「では、来月は風景画ということで・・・」
一同の合意を確かめながら、画伯はにこやかに次を続けようとして、止めた。
「まぁ、浅香さん」
彰子の声で、皆の視線が一斉にテラスに向かった。
いつからそこにいたのか、一人の男性が安物のスーツ姿でリビングの中をうかがっている。
「どうかなさったのですか」
ついっと立ち上がり、テラスに出た彰子は、親しみを込めてその男性を見上げた。好奇の目を一身に浴びながら、浅香は少しも照れたところはない。反対に、荒々しいほど感情的だ。
自分を見上げる彰子の腕を掴むと、ぐいっとばかりに引き寄せて、焦ったように捲くし立てた。
「あいつは帰ってないのか。会社に電話したら、今日は休みだって言われたから、真っすぐここへ来たんだ」
「いえ、今日もいつもの通り朝出て行きましたけど。何か困ったことでもあったんですか、お顔の色が悪いわ」
彰子は心配そうに彼の顔を覗き込んだ。夫の不審な行動など、まったく念頭にはないらしい。自然聞こえてくる会話から、邪推してしまう。
彰子の夫は、どこかに女を囲っている。
浅香も、何か思い当たることでもあるのか、しばし黙って顎に手を置き考え込んだ。かなり深刻な事情であることは、察しがついた。
「まぁ、いい。あいつがいないんじゃ仕方ないな。また来るよ。邪魔して悪かったね」
浅香は先を急ぎながらも、しっかりと彰子の手を握っていた。そのまま、リビングで放心している面々にも礼をしたが、和彦は思わず睨んでしまった。
浅香は一瞬戸惑ったものの、すぐ笑顔で会釈をしたのが印象的だ。
「浅香さん、あの人が何かしたの?」
「ごめんよ。個人的なことじゃないんだ。キミは心配しなくていいんだよ」
浅香は、忽然と現れて、早々に消えた。疾風のようだ。
「あれは確か、広設計事務所の建築士さんじゃないかね」
リビングに上がって来た彰子に、三次画伯は問う。彰子が頷くと、やはり大きく息をついて画伯は腰を丸めた。
「画伯は、あの方をご存知ですの」
原島夫人は彰子を代弁するように、声をかけた。画伯は軽く笑って小さく言った。
「知っていると言っても、知り合いとまではいかないが。彼が私の知人の家を設計しましてね。その時少々話しをしただけなんですよ。建築士としての腕もいいと、知人は我がことのように自慢していましたが、私もそれには同意しましたよ。この坂井さんのお宅のような、モダンで空間を楽しむような家を設計するのが得意でね。知人も未だに鼻高々で自宅に招いてくれます」
「この家も、彼が設計したのですよ」
彰子がそう付け加えると、一同が改めてリビングダイニングを見渡す。なるほど、空間を贅沢なまでにとった、シンプルだが品のある造りだ。
「主人の高校時代からの友人なんです。私の父が、大きな仕事をする時は、まず知っている方に頼めと申しましたので、あの方に」
画伯は、そうですかと息をついて続けた。
「しかし、近頃の広設計事務所は、あまり仕事がないとかで、社長の広瀬氏が知人にぼやいていたそうです。なんでも、仕事をすっかり大手に取られたとか。建設関係の会社はよく知りませんが、あまりいい噂は聞きませんので、知人もある大手会社を名指しで非難していますよ」
「・・・それが、主人の勤めている会社なのですね」
耳を疑うほどの低く籠もった声で、彰子は呟いた。皆の視線が一斉に彰子に向けられた。先程の浅香という男の憤りをすべて肩代わりしたような厳しい眼差しが、虚空を見つめている。
原島夫人は慌てて画伯の腕をつねった。たとえ師と生徒とはいえ、年齢は原島夫人の方が幾つか上だ。画伯も失言を悟ったのか、大きく手を振って今までの会話を風に流そうと試みた。
「ま、坂井さん。あなたがそんな顔をする必要はありませんよ。ご主人の会社のこととはいえ、そのままご主人のことになるとは思えませんからな」
佐藤夫人や鈴木夫人も乗り出した。
「そうですよ。先程の人はお友達なんでしょ。きっと友達のよしみでこちらにいらしたのよ」
「男の方のお仕事ですもの、女には分からないことがあって当然ですよ。さ、来月の課題のことでしたかしらね。そのお話をさっさと済ませてしまいましょう。あまり長居をするのは、ご迷惑ですもの」
それからは、家のことも闖入者のことも話題には上らず、会はお開きになった。
「それでは、また。喫茶店にもお寄りくださいよ。待っていますから」
三次画伯は、笑顔で彰子と握手した。
「何か困ったことがあったら、遠慮なく言ってね。きっと力になりますから」
原島夫人は、ついぞ見ることのない心配顔で、彰子の手を取った。他のご婦人方も、礼を尽くして帰ったが、和彦は皆が離れたのを見越して小さく言った。どうしても気の好いだけのおばさま方には、聞かれたくなかったからだ。
「昼間、お一人でいらっしゃるなら、一緒にスケッチでもしませんか。この町は本当に絵になる場所が多い。俺、大学はあまり忙しくないから」
我ながらよく言えたもんだと思ったが、彰子は悪意にはとっていないようだ。いつも見る穏やかな微笑を浮かべて、軽く小首を傾げた。
「ありがとう。本当にあなたがお嫌でなければ」
「嫌なら誘いません」
ムキになって答えた和彦は、眩しげに見つめられて赤面してしまった。門の辺りで三次画伯が大きく呼んでいるのが聞こえる。
「それじゃ」
頭を地面につけんばかりにして、和彦は礼をすると、脱兎の如く玄関を走り出た。
途中、気になって振り返ると、彰子はテラスに出て見送っている。
「彼女はいつも哀しそうに笑うね。それにどうも、ご亭主とは上手くいっていないようだ。やはり昔のことが忘れられないのかな」
笑顔で手を振り返す和彦の耳に、画伯の沈んだ声が届く。
「あの人ほどの心の痛手があれば、誰でもふさぎ込んでいたいですよ。たとえ何年経ってもね」
原島夫人は憮然として、画伯に言い返した。いつになく冷たい態度だ。画伯は反論するわけでもなく、ただ苦笑で黙っていた。
「何かあったんですか。昔」
気になって話に割り込んだ和彦は、しかしその答えを得ることは出来なかった。
「他人事とはいえ、思い出したくないこともあるんですよ。それより和彦さん、あまり彼女を惑わさないでくださいね。傷つきやすい娘なんだから。不倫などという噂を立てたら、私が承知しませんよ」
原島夫人はキッパリ言い切ると、さっさと皆の先頭を歩いていった。三次画伯が苦笑している。
和彦は唖然としたまま、それに従うしかなかった。
「どうかしましたの」
彰子が夫である坂井祐の着替えを持って、ダイニングキッチンに戻ってきた時、坂井は陶器のシュガーポットをいじっていた。
「コーヒーは、ブラックじゃなかったんですか」
テーブルの上に乗っているカップを見ながら、彰子は首を傾げた。坂井は笑ってキッチンから離れると、コーヒーに口をつけた。
「たまには砂糖入りもいいかと思ったが、やはりやめたよ。それはそのまま元に戻しておいてくれ。それから、誰を家に呼ぶのもキミの自由だが、帰った後は奇麗に掃除しろよ。チリが落ちているし、カーペットも逆立ってるじゃないか。だらしないな。一日中家にいるなら、それくらいしろ」
冷めた口調の夫に、彰子は表情一つ変えることなく、続けた。
「今日のお昼頃、浅香さんがいらっしゃいましたけど。あなたの会社に連絡したら、あなたは休みだったのだそうです。お仕事の話のようでしたから、お電話されたらどうですか」
シュガーポットを戸棚の上の方へ置き、彰子は戸棚を閉めた。坂井が携帯電話を手に取る。
「着替えは風呂場へ置いておいてくれ。浅香は長電話だからな、おまえが先に入ってもいいぞ」
「いえ、いつものようにあなたが先に入ってください。私は自分の部屋で本でも読んでいます」
彰子は軽く礼をすると、風呂場の方へと消えていった。
坂井の耳元から女の声がする。坂井は相手が親しい男友達であるかのような調子で話しながら、彰子が二階へ上がったかどうか確かめ、念には念を入れて閉められる扉はすべて閉めた。
口調が女を口説く時の甘いものに変わる。
「俺だ。アレは二階だよ。今日は楽しかった。昼間に会うのも悪くないな、時間が長く感じられるよ。例のものは全部砂糖に混ぜたよ。匂いはするかもしれないが、アレは間抜けな女だ。気付くとは思えないね」
戸棚の中のシュガーポットを凝視して、坂井はほくそ笑んだ。電話の向こうで女が笑っている。
「明日にはこの屋敷も俺のものになる。離婚などと恥ずかしいことをせず、アレとは別れられるんだ。なに、大丈夫だ。アレはずっと死にたがっているんだ、手を貸すのは情けってものだよ。犯人のアタリもつけたからな。楽しみにしていろ」
満面笑顔で携帯電話を切った坂井は、ブラックコーヒーを飲み干した。
和彦は、まったく講義のない土曜日を有意義に過ごす為、朝早くから三次画伯の経営する喫茶店へと向かった。絵画教室は別の場所であるが、和彦のようにここへ入り浸る者の為に、画伯は階上の一室を生徒のために解放していてくれる。
「おやおや、いつもの朝寝坊くんがどうしたんですか。今日は槍でも降るのかね」
やっと店の前を掃き掃除している三次画伯が、笑顔で迎えてくれた。喫茶店はモーニングもやっているので朝は早いが、それでも今日の和彦は思いのほか早起きだ。
「課題の風景画は日の出にしようと思ったんですよ。朝日が一番奇麗に見える場所を探さなくちゃね」
「そうかい。それならついでに、坂井さんのお宅へ寄ってくれないかな。以前から大観の画集を見せて欲しいと言っていたが、昨日持って行くのを忘れてね」
和彦は渡りに舟とばかりにその役を引き受けた。頼まれなくても彼女を訪れるつもりでいたが、これならでまかせの口実を考えなくて済む。
モーニングを食べるのも忘れて、和彦は大観の画集を片手に、画伯の元を後にした。
日差しが段々強くなるのを肌で感じながら、早足で丘の上を目指した。
玄関先に顔を出した彰子は、すっかり身支度を整えて、どこかへ出掛ける矢先であった。
「まぁ、神矢さん。どうかなさったんですか。こんなに早くから、何かご用なの?」
青ざめた顔色ながらも、助かったという表情で出迎えてくれた彰子に、一瞬焦って視線を足元に落とす。革靴が二つ揃えられていて、一つはピカピカ、一つは履き潰しかけたものだった。
「三次画伯に、この大観の画集をお届けするように頼まれたものですから」
言って思わずリビングに通じる廊下をのぞいてしまった。野太い罵声のようなものが聞こえたからだ。
「何かあったんですか」
「いえ、浅香さんがいらしてるんです。主人が呼び出したらしくて。お仕事の話でもめているようで、私、出て行くように言われたものだから」
彼女は心配そうに呟きながら、声のする方を見つめている。そうしているうちにも、いくつかの大声が聞き取れるが、それはすべて昨日聞いた浅香という男のもののようだ。
やけにヒステリックに相手を罵倒している。「それでも友人なのか」とか、「おまえはいつも自分がよければいいんだ」とか。
「あの、良かったら散歩でもしませんか。俺、来月の課題に適した場所を探そうと思ってるんです。良ければ一緒に」
大声に脅えている彼女に見かねてそう申し出ると、彼女は返事もそこそこに靴を履いた。屋敷が見えなくなるまでの間、大観の画集を抱き締めたまま、彰子は無言で歩いていた。和彦もむやみに話しかけることはなく、ただ並んで歩いた。
「ごめんなさいね。みっともないところを見せてしまって」
公園の木立に入ると、彼女は小さくそう詫びた。見上げた大木の向こうから差す木漏れ日が、彼女の白い首筋を透けさせる。
「心配ないですよ。ご主人と浅香さんって人は親しいんでしょ。すぐ仲直りしますよ。男のケンカってそんなものです」
そんな軽口も、彰子の表情に浮かんだ懸念を拭い去ることはできなかったようだ。
「主人はとても怖い人よ。自分の出世の為なら、どんなことでも平気でやるわ。いつも自分は正当で、自分はただの一度も間違ったことはしていないと豪語するような人よ。学生時代の友人が、もう浅香さんしか残っていないのに、彼さえも出世に使ってしまった」
「浅香さんって人が勤めている広設計事務所の仕事を奪ったのも、まさか」
「主人よ。浅香さんを飲みに誘って、酔わせて仕事の話を聞き出して。汚いわね。でもそれを少しも悪いとは思わないのよ」
どう答えてよいものか迷って、和彦は黙ってしまった。
絵画教室で見る彰子は、いつも人の話を笑って聞いているだけで、自分からは決して話そうとはしない。無論些細な意見も述べることはなかった。弱々しくて、守ってあげたくなるような、そんな感情が年下の和彦にさえ湧いてくるような人だ。
だが、今目前にいる彼女は、まったく別人と言ってもいい。罵るというわけでもなく、嘆くというわけでもない淡々とした口調で、はっきりと自分の意見を言っている。
たとえ彼女の夫の非難でも、そんな風に言い切る彼女が気持ちよく思えた。しかし、彼女が見せるこの強さを、夫である坂井は認めないだろう。
絵画教室で聞く彰子の噂話の中で、時折原島夫人が怒ったように坂井を非難する。妻を自分の監視下に置き、いつもただ笑って家事をしていればいい、夫に意見しようものなら暴力を使ってでも黙らせる。そんな男と一緒にいるなんて、拷問にあっているのと同じですよ。だから見かねて彼女の父親は、あんな大きな家を建てたんですよ。せめて奇麗な家で彼女が暮らせれば、彼女も気が晴れるだろうと思ってね。
「あの・・・別れるとかは考えなかったんですか。他の誰かと再婚するとか」
沈黙の後、清水の舞台から飛び降りる覚悟で、和彦は問うた。彰子が目を見開いて和彦を見上げた時は、言ったことを後悔したが、それも一瞬だった。
彰子は、花がほころぶ様に笑った。
「私のようなうば桜では、もうどんなに頑張っても無理ね。それに主人のことはどうでもいいのよ。だって、言われた通りにしておけば、怒られることはないんだから」
その後小さくごめんなさいと言ったのは、おそらく、和彦のようなよく知りもしない年下の者に愚痴を言ってしまったのを後悔してのことだろう。
帰ると言った彰子に、半ば強引に送って行くことを申し出ると、あからさまに子供扱いされてしまった。
「本当に、男の子ってかわいいのね」
些か憤慨して見せたが、いっそう笑われてしまった。
「二十歳前の大男がかわいいって言われても、まったく嬉しくありませんね」
「三十歳のおばさんから見れば、二十歳の方は皆かわいいわ」
「二十八歳でしょ、彰子さん。勝手に二つも年をとらないでください」
そんな軽い会話を鬱憤晴らしに続けながら、屋敷の玄関先まで来た。
ふと彰子が足を止めて、眉をひそめた。
「おかしいわ」
小さな呟きに、和彦も彼女の視線を追う。大きな観音扉の玄関が、半分開け放たれている。確かに二人で出掛ける時は、閉めたはずであった。
「もしかして、ご主人が開けっ放したんじゃないですか」
「いえ、そんなこと絶対にないわ。主人は、まるで病的なくらい神経質だもの。自分が家にいる時は、窓さえ開けないのに」
次第に焦燥の色が濃くなる彰子に変わって、和彦はゆっくりと玄関へ入った。
異様な雰囲気が漂っているのは気のせいではないだろう。見ると、廊下に点々と赤いシミがある。ボロボロの革靴はなくなっているが、ピカピカのほうはキチンと揃えられたままだ。
和彦は辺りを窺いながら、ゆっくりとリビングに向かった。ガラス戸の向こうに黒い人影がうずくまっているようだが、はっきりとは分からない。
「ごめんください。誰かいますか」
惚けた調子で問いかけて、扉を開けた途端、絶句した。
「あなた、いらっしゃるんですか」
恐る恐る後ろから入って来た彰子を、和彦は抱き締めるようにして止めた。
「駄目だ。見ちゃいけない」
「どうしたの、神矢くん。主人がどうかしたの」
「とにかく、警察に連絡するまで、ここから出ていてください」
まるで恋人に想いのありったけをぶつけるように、強く抱き締めて言い含めるが、彰子はその腕を振りほどいて、リビングを見た。
悲鳴が上がる。
彼女の夫、坂井は、ラフな洋服の右胸にナイフを差した状態で、吐血と思われる床の赤い海に横たわっていた。見開いた目が虚空を凝視し微動だにしない。
「死んでるんだ。警察が来るまでは、何も触らない方がいい」
後ろから支えるように手を伸ばし、和彦はガラス戸を閉めた。腕の中の彰子は、震えながら『まさか』と『うそだ』を繰り返している。支えていないと今にも倒れそうだ。
どれくらい経ったのか。和彦の耳に電話の呼び出し音が届いた。
「電話が」
彰子は咄嗟に階上に上がり、自分の部屋の受話器を取った。追いかけた和彦の前で、受話器にすがりつくように、彰子が応える。
シングルベッドの置かれた小さな部屋には、まったく男の匂いはなかった。
「もしもし、坂井ですけど」
震える声で慎重に、彰子は受話器の向こうに問いかけた。
浅香だ。
和彦の見つめる前で、彰子は激しく首を横に振った。
「あなたが悪いんじゃない。あなたのせいではないわ」
小さな町は、この殺人事件を大きく取り上げた。
私服制服取り混ぜて、多くの警察関係者が屋敷の内外を調べまわり、塀の外は報道陣と野次馬がごった返した。
和彦は第一発見者ということで、二人の刑事と共に和室に控えていたが、その間彰子は自室で眠っていた。少なからず取り乱していた為、事情聴取は後回しになったのだ。
「さて、ではもう一度訊ねるが」
と、くたびれた刑事が五度目の台詞を和彦に向けた。和彦は息をつき、五度目の説明をする。
自分がこの家を訪ねたのは、三次画伯に頼まれたからで、その時すでに浅香浩一郎という人物はこの家にいて、坂井祐と口論をしていた。その内容までは分からないが、あまり穏やかとは言えなかったので、彰子を散歩に誘って家から連れ出した。戻って来た時にはすでに坂井の息はなく、警察を呼んで今に至る。
刑事は同じ答えに満足したのか、やけにニヤニヤしていた。
「キミは、ここの相沢、いや坂井だったな・・・。ともかくここの彰子さんと絵画教室で一緒だったね。どれくらい親しいか聞いていいかね」
「どれくらいって、別に、ただの知り合いですけど」
「ただ、ね。そうは見えないが」
「じゃ、どう見えるんですか」
「ふむ。説明しにくいが、ま、しいて言えば亭主というところかな」
和彦は思わず瞬きした。一足飛びに亭主ときては、すぐさま答える気にもならない。刑事は青年に見つめられ、照れたように頭をかいた。
「いや、なに。五年前に彼女を慰めていた男が、そこで殺されている男ではなく、キミのような子なら、彼女も少しは救われたかと思ってね。ま、私が勝手に思っていることだから、どうでもいいがね」
「五年前って、彼女に何かあったんですか」
和彦が聞き咎めた。原島夫人や三次画伯の彰子に対する態度が、脳裏を横切っていく。
刑事は薄い緑茶で口を湿らすと、ふむと呟いて言った。
「殺人事件でな。彼女はまだ結婚していなかったが、今の亭主とはすでに付き合っていたそうで、事情聴取にも立ち会っていた。泣き叫ぶ彼女を抱えて言った言葉が、今でも笑えるな」
「・・・なんて言ったんですか?」
「『死んだんだからいいじゃないか』」
「誰が殺されたんですか」
「彼女の生んだ子供だよ。生後六ヶ月に満たなかったかな」
これか・・・。
誰もが思い出したくないと思いながら、しかし忘れられない事件。小さな町で起こった事件がどれほど大きく取り上げられたかは、騒がしい野次馬の声で察しはつく。そして人は口々に言ったのだろう。
どうせ結婚もせずに生んだ子なのだから。
和彦は、背筋を這っていく何かに食い殺されるような恐怖感を感じずにはいられなかった。
坂井祐殺害の容疑者として追われた浅香浩一郎は、その日の夕方警察へ出頭した。
その頃には鑑識結果が出ており、坂井は刺殺ではなく、毒殺と判断された。
胃の中にカプセルの残滓があり、青酸カリが検出されたのだ。同じものが、戸棚のシュガーポットからも検出された。
浅香のポケットからも小さな瓶に入った青酸カリが見つかったが、浅香は坂井を刺したことは認めたが、青酸カリについては、知らぬ存ぜぬの一点張りだった。そんな瓶がポケットに入っていたことすら、信じられないようだ。
浅香は憔悴しきった顔で、訥々と説明した。
浅香の勤める広設計事務所は、近頃大手建設会社に圧力をかけられ、経営不振に陥っていた。それがすべて坂井の企てたことだと知った浅香は、坂井に早朝呼び出されたのを機会に問い質そうとした。
想像通り坂井は惚けたが、やがて反対に自分と彰子の仲を疑っているのだと浅香を罵倒しにかかった。
「確かに、俺と彰子さんも学生時代からの付き合いですよ。結婚したいと思ったことだってある。だけど、そんなことをすれば、坂井はどんな手段を使ってでも妨害してくるでしょう。あいつは、目に付いたものはすべて自分のものにしないと気が済まないヤツでした。たとえ飽きたものでも、他人に渡すことだけはしなかった。相手の気持ちなど考えずにね。友人の中にも、あいつに利用されて社会的信用を落としたヤツが何人もいますよ」
そして、友人たちは愛想をつかして去って行き、残ったのは面白くもないが手放すのは惜しい妻と、お人好しの男が一人。
「突然だったんですよ。あいつは急に苦しみだし、胸を掻き毟りながら言ったんです。『あいつの砂糖にだけ入れたのに』と。俺は呆然としてしまって、あいつが俺の首を絞めるのを避け切れなかったんです」
坂井の力は想像を絶するもので、浅香はとっさに何か防げるものを探し、テーブルの上の果物ナイフを取って坂井の右肩に刺した。
死ぬことはないだろうと思ったが、坂井は次の瞬間吐血して、そのまま息絶えてしまった。
「あいつのことは、正直嫌いでしたよ。自分の為なら友達でも売り飛ばすようなヤツだ。だけど、殺したいと思ったことはないんだ」
「なぜ、自首して来たのかね」
ずっと無言で聞いていた刑事は、頭を撫でながら答えを待った。浅香の顔に微笑が戻った。
「彰子さんが言ってくれたんです。『あなたが殺したんじゃない』と」
キッパリと言い切る浅香に、迷いはない。
坂井の葬儀はしめやかに行われた。大会社のエリートだと言うからさぞ盛大だろうと思いきや、会社関係者は少なく、参列者のほとんどは彰子の友人知人、それから彼女の親族の友人知人であった。未亡人を慰める言葉はあっても、死者を悼む言葉は皆無に等しい。柩にすがって泣くのは坂井の両親らしく、それを真似る者も慰める者もいなかった。
和彦たち絵画教室の面々も、参列者の端っこで黙祷を捧げたが、それも死者の為ではなく未亡人を慰める為だ。
死者が荼毘にふされ、一通りのことが終わると、彰子はやつれた様子で残っている者に頭を下げて回った。
「大変だったわね」
原島夫人が支えるように寄り添うと、皆を代表して言った。三次画伯は何か言おうとしてやめた。言葉が見つからないようだ。
彰子は一同に深々と礼をして、何度も繰り返した言葉を言った。
「お忙しいところをわざわざ・・・」
「犯人は、お友達だったんですってね」
あまり絵画教室にも顔を見せない婦人が、周囲の視線も気に留めず問いかけた。三次画伯がたしなめたが、彰子のほうが弁解した。
「いいんです。誰もが気になることですもの。犯人はまだ分からないそうです。戸棚にいつも置いてあるシュガーポットにも毒が入っていたそうで、警察の方が調べていらっしゃいます。主人はブラックで飲む人でしたから、あのシュガーを使うのは私一人なんです。それがどういうことなのか、私には分かりませんから」
「それでは、もしかするとあなたまで死んでいたことになるのね」
婦人の大袈裟な反応には、原島夫人も厳しい視線で非難した。佐藤夫人と鈴木夫人はあからさまにその女性を後ろへ押し退けた。
確かに、シュガーポットの中のものを彼女が使っていれば、彼女は間違いなく死んでいただろう。しかし、彼女はそれを使わず生きている。うがった見方をすれば、彼女が夫を殺害し、疑われない為に自分一人が使うシュガーポットに青酸カリを仕込んだとも考えられる。
「浅香さんが、思いの他早くいらしたし、その後すぐに神矢さんがいらしたから、あの日はコーヒーを飲めなかったんです。でも偶然にしてはよく出来ている、とか」
「そんな。あなたが生きているから変だなんて。第一、あなたに青酸カリなんて代物を手に入れることなんて無理でしょう」
思わず彰子の腕を取って熱弁をふるった和彦は、周囲の視線に気付いて凍り付いてしまった。
三次画伯が苦笑で和彦を引き剥がす。小さく謝ったら、彰子はただ微笑で許してくれた。
親族らしい女性が彰子を呼んでいる。妹だろうか。彰子を大切にしているのが遠目にもわかった。どこかでヒステリックな叫び声がした。やがてそちらの方からやってきた女性が、何か憤慨している。
「自分の息子が殺されたからって、どうして何もかも彰子のせいなのよ。醜悪だわ」
吐き棄てるように言う女性を見ても、坂井祐とその親は、救いようがないほど嫌われているようだ。
和彦たちは喪服のまま、三次画伯が経営する喫茶店へと落ち着いた。
原島夫人はカフェオレを所在なげにかき混ぜている。鈴木夫人と佐藤夫人は落ち着かない様子で、オレンジジュースで遊んでいた。
カウンターにいた和彦と男性二人は、三次画伯の入れるコーヒーをぼんやりと眺めていた。
「まったく、五年前と同じ思いをまたしなければならないとは、彰子さんも可哀想なことですよ」
やがて、沈黙に耐えかねたように原島夫人が呟いた。その前に座っている両夫人も大きくため息をつく。
「もう、この町にはいられないでしょうね。彰子さん」
「そうでしょうね。本当は何があっても帰りたくはなかったでしょうからね、こんな町には」
「五年前の事件って、そんなに有名なんですか」
和彦は三人の会話に割り込んだ。
刑事から聞きかじったことだが、詳しく知っておきたいと思った。他ならぬ彰子のことだ。
三次画伯はすでに会話に背を向けている。
他の二人の男性も同様だ。佐藤夫人は何かを言いかけてやめ、鈴木夫人は目を伏せてしまった。残ったのは原島夫人一人である。
原島夫人はカフェオレを押し退けて、テーブルの上に手を組んだ。
「どうせゴシップ好きの無責任者が噂を広めるでしょうから、お話しますよ。できれば、絵画教室にいらした時の彼女を思い浮かべながら、聞いていただきたいですね」
そう前置きして、原島夫人は話し始めた。
五年前。
旧姓相沢彰子は、未婚でありながら子供を宿した。相手は自然付き合っていた坂井であろうと噂が立ったが、彼女も彼女の両親もそんなことは一切伏せたまま、子供を産むことを決心した。
心無い中傷も多かったが、彼女の耳にまでは入らなかった。彼女の両親や妹、知人の多くがしっかりと彼女を守ったからだ。
やがて男の子が生まれ、一生懸命な彼女の家族を見て、中傷も下火になった。坂井側が彼女たちに近づいたのもこの頃だ。
「幸せになると思ってましたよ。だけど突然奈落の底へ突き落とされてしまった」
大切に育てていた男の子は、ちょっと目を離した隙に連れ去られ、見つかった時には小さな塊と化していた。そうしてまた、噂になる。
「今日のお葬式でも思いましたけど、彼女の周りはまったく違っていたはずですよ。小さなわが子を亡くしてしまった彼女を、理解していたと思います。でもね、そうじゃない人は沢山いたんですよ。彼女に向かって、子供がいなくなって良かっただろうという人もいたそうです。未婚なんだからこれで独身と堂々と言えるとかなんとか・・・」
原島夫人の声は、誰に向けようもない憤りで震えていた。
「小さな町は、確かに情緒や人情がありますよ。私はこの町で生まれ、この町で育った人間ですから、この美しい港町をくさしたくはありません。でもね、時折思うんですよ。いやらしい偏見を持った小さな人間が集まって他人の悪口を言っているのは、殺人と同じじゃないかとね。だって、槍玉に上がった人は、何をしても悪く言われるんですよ。たとえ精一杯頑張っていてもね。そしていつの間にか何もできなくなるんです、他人の目が気になってね。悉く自分を否定されることは、殺されることと同じでしょう」
絵画教室の隅っこで、ただ穏やかに微笑んでいた彰子が脳裏をよぎる。彼女が何かを言った記憶はなく、描いた絵を自分から見せることは一度もなかった。では、彼女は自分自身を殺していたのか。
『主人は怖い人だ。でも、黙って言われたことをしていれば、怒られることはない』
それが愛しい子を亡くした後の彼女に残された生き方だとすれば、彼女は本当に「生きている」と言えるだろうか。
和彦は、一人アパートに戻ってからも、自問自答していた。
新聞は、浅香浩一郎が容疑者らしいという警察の発表以来、さしたる進展も見られないと締めくくり、記事は載らなくなった。
相変わらず絵画教室は続いているが、そこに彰子の姿はなく、誰一人として事件の話をしなかった。
夏の甲子園も終盤近くなった頃、一つの記事が小さく地方紙に載った。
坂井祐殺人事件に使われた青酸カリを入手したのは、坂井の愛人である多門瑠奈であること。彼女はすでに警察で事情聴取されているが、容疑は否認しているということ。青酸カリは坂井に渡したらしいとほのめかしているが、それがどういう意味なのかまでは書かれていない。
「坂井さんは、どうしてるんでしょうね」
和彦の貸切になってしまっている喫茶店のカウンターで、三次画伯は呟いた。
「辛い思いをしてるんでしょうかね」
誰ともなしに呟いた。和彦は立ち上がり、コーヒー代をカウンターに置いた。
「どこへ行くんですか、和彦くん」
画伯の口調は、和彦の行き先をすでに知っている。和彦は肩をすくめて大きく天井を仰いだ。
「散歩です」
「そうですか。もし、坂井さんのお宅の方まで行くようなら、大観の画集を預かって来てくれませんか。お貸ししたままなんですよ」
画伯は和彦の答えを待たず、カップを流しにつけながら小さく付け足した。
「口実があるほうが、彼女も気が楽でしょう」と。
和彦は、玄関を無視してテラスへ回った。
玄関先から用件だけ済ませる気にはならなかったからだ。果たして彰子は、広縁に座り、サッシを支えに座っていた。物憂げに手を投げ出し、遠く見える中学校のグラウンドを見つめている。和彦が声をかけるまで、彼女は来訪者があることすら、気付かなかったようだ。
「お久しぶりです。落ち着かれましたか」
そう言って、和彦は彰子の横に腰を下ろした。
「ここからだと、グラウンドで何をしているのかまでちゃんと見えるんですね。来月は体育祭でしょう。その時は俺も、ここで見物させてもらおうかな」
だが、彰子は微動だにせず、遠くを見つめたままだった。和彦も黙って彼女が追いかける少年たちを見つめていた。
「あの向こう側なの」
どのくらい時間が過ぎたのか、やがてぽつりと雫が落ちるように、彼女は小さく呟いた。
「あの山の向こう側だったわ。あの子が捨てられていたのは」
「え」
弾かれたように顔を上げた和彦は、食い入るように彼女の横顔を見た。彼女は無表情のまま、視線を変えようとはしない。
「ほんの一瞬目を離しただけだったわ。縁側で日光浴をさせていたの。両親も妹も出掛けていて、私一人であの子の相手をしていたわ。坂井から電話があって、他愛のない話で十分くらい経った。縁側へ戻った時はもう連れ去られていて、必死に探したけれど駄目だった」
「それで、殺されていたんですか」
「あの子がお腹にいると分かった時、坂井の家はこぞって堕胎しろと私の両親に詰め寄ったわ。私が堕胎手術に耐えられないかもしれないと医者が言ってもね。坂井などは最たるもので『もしかしたらお前は生きているかもしれないだろ。だから堕ろせ』と繰り返したわ。その時思ったの。私は死んだんだって。世間体に比べれば、私の命も子供の命も紙切れみたいに軽いのよ」
「違う!」
叫んだと同時に、彰子を力ずくで振り向かせた。
「それは違う、絶対違う。命が紙切れなんて間違っている」
「私の両親も言ったわ。生きていればいいって。子供と一緒に生きればいいって。だけどあいつは決して許さなかった。お腹の大きくなった私を見て、『そんな姿でよく生きていられるな』と、『恥だと思わないのか』って言ったわ。まだ目も見えない子を指して、『どうしてこんな子が産めるのかわからない』って言うの」
自分から出る言葉を振り払うように激しく首を振る彰子を抱き締めた。
彼女の涙が和彦の頬を濡らし、拒むように和彦の胸を押し退けようとしたが、許さなかった。
彼女の腕から拒絶がなくなるまで抱き締め、頬を合わせて彼女の髪を撫でるまでの長い抱擁が、問いたかった一言を音にした。
「あなたが殺したんですね」
「・・・・・・」
「あなたが坂井を殺した」
「いいえ・・・。私はただ、あいつが私に飲ませたかったものを、あいつが毎朝飲むカプセルに入れただけ」
『家事は女がやればいい』
だから決して入らなかったキッチンに、あの日何故か立っていた坂井。ブラックしか飲まない坂井には、まったく用のないシュガーポットを出して、何かしていた。
「すぐに分かったわ。とうとう私を殺すことに決めたんだと。この家の名義を坂井に変えることを、私の父が拒んだことで決心したのよ。世間体が悪いという理由だけで何でもできる人だった」
だから細工をした。たとえ浅香を犯人に仕立てようとしてもできないように、坂井が薬を常用していることを知る自分か愛人のどちらかに嫌疑がかかるように。
「それがただの砂糖で、死ななければそれはそれでいい。だけど、私に飲ませたいと思うなら、まず自分が飲んでみればいいと思ったのよ。命を奪われるだけのことはしたんだから」
胸にかかる細い指に力がこもる。
「まさか」
腕の中を覗き込んで、和彦は絶句した。
彰子は微かに笑みを浮かべて和彦を見つめた。
「あいつが殺したの」
「・・・・・・」
「あいつが、私の子供を殺した」
「・・・なぜ・・・」
「世間体を考えれば当然だと、あいつは言ったわ。あいつの親も手を貸していた。私に言った言葉を、あいつらは実行したのよ。あの子を殺して、涼しい顔で結婚の申し込みに来たの。責任があるとかなんとか。狂っているんじゃないかと思えるほど利己的で傲慢で他人を馬鹿にしたような態度で、私の名前が書き込まれた婚姻届を差し出したの」
「でも、どうしてそれが分かったんです。あの事件はまだ解決していないでしょう」
「あいつが教えてくれたわ、新婚旅行で。自分の正当性を延々と語りながらね」
『死んだんだから、いいじゃないか』
そんな言葉が聞こえてくるようだ。
和彦はただ、細い身体を抱き締めるしかなかった。彰子は拒まなかった。
「もうどうでもいいのよ。あの子を失った時、私は死んでいたのだから。あいつが殺すまでもなく、私は死んでいるわ。今こうして息をしているのが不思議」
「生きているんですよ。あなたはこうして生きている。生きてさえいれば――」
生きてさえいれば、未来を変えることができる。だが、死はそれ以上なにも生み出しはしない。
彰子はそのどちらかを選択したかのように、ゆっくりと和彦の腕を外した。
「あの子が待っているわ」
「彰子さん・・・」
「約束だったの。小さな子に言ったわ。決して一人では逝かせないって。その約束をやっと果たせる」
和彦は何か叫ぼうとして、やめた。
その失った小さな命の代わりに、なにか・・・。だが、何ものも代えることはできない。逝ってしまった小さな子も、生きていれば四歳だ。あと十年経てば、遠くで歓声を上げる少年になる。だが、彼女の愛しい子供は、半年の大きさのまま成長することはない。
「私、あなたのような子供に育てたかった。あなたは本当に可愛くていい子ね」
赤銅色の頬を撫でながら、彰子は優しく言った。和彦はその手を握り締め、
「それ以上子供扱いすると、抱き締めるくらいじゃすみませんよ」
と怒って見せた。彼女が初めて声を出して笑う。
「さぁ、いきなさい。画伯の画集は玄関に置いてあるわ。真っすぐ丘を下りて、すべて忘れるの。いきなさい」
和彦は彰子の頬に口付けし、小さく別れを告げると、二度と振り返ることなく丘を下りた。
国道まで出てやっと夢から覚めたように天を仰いだ時、目前を消防車が駆け抜けて丘の上を目指して行った。
抱えた大観の画集を見つめる。
いきなさい。
祈りのように繰り返される言葉が、和彦の胸に染み渡る。
生きなさい。
和彦は、栞を挟んだページを広げた。
『無我』
小さな子が虚空を見つめている。
彼女はこの小さな手を握り締め、黄泉路を歩くために逝ってしまった。
完
陰りゆく時間