君が往き――

 元ネタは古事記です。
 

 宮人(みやひと)の方々は、先の注進を鵜呑みにされ、お二人が、彼の地にて心中なさったものと信じて疑っていないご様子。けれど事実は、いささか異なるのでございます。
 
 お二人が、確かに伊余の地で、それも同じ日に亡くなられたという点は先の通りで間違いございません。が、それは決して心中ではなかったのでございます。

 事故、なのでございます。

 ではなにゆえ先の者が、嘘など吐いたかと申しますれば、事実をそのままお伝えいたすことが躊躇われる亡くなられ方を、お二人がなさったからに違いございますまい。

 その嘘は、お二人にとって良い嘘ではございましょう。

 その嘘のために、宮人の方々も、お二人の紡いだ美しい歌の数々を、お二人を忍んで口ずさまれ、涙されるのでございましょうから。 

 が、それはそれとして、事実は、事実として、たとえそれが、いかに残酷なものであったとしても、お二人の最期について、正しくお伝えいたす必要が――なかんずく貴方様にお伝えいたす必要があるのでは、と思っておりました。

 素より賢き貴方様のことでございます、疑念を抱かれたからこそ、私めを、辺鄙な伊余の地から、わざわざ呼び寄せたのでございましょう。

 これからお話しいたすことが、お二人について、嘘偽りのない、本当の最期でございます。

 ですがその前に、お二人の最期以外にも、先の注進には、多少の嘘――と申せば少し語弊があるかと存じますが、お二人のため、全く太子(みこ)のためを思い、意図的に避けたに違いなく、やはりそのような点では、先の者の嘘と申せましょう――それがございます。

 お気付きかと思われますが、先の注進には、伊余の地での、太子の暮らし振りについて、全然触れられておりません。

 これはお二人の死を、美しい心中物語に飾り立てるためには、是非とも取り除かねばならぬ、穢れた事実に相違ございますまい。

 が、私の役目は、あくまで事実をご報告いたすこと、貴方様もそれをお望みのようでございますので、是非とも避けるわけには行きますまい。


  あしひきの 山田をつくり
  山高み 下樋をわしせ
  下どひに 我がとふ妹を
  下泣きに 我が泣く妻を
  こぞこそは 安く肌触れ


 太子が、ある女性へと贈られた歌にございます。
 はなはだ私めは、敬語もろくに使えない無教養、無風流の田舎者でございますので、歌の講釈など素より得意ではございませんが、だいたいこんな意味かと存じます。


  高い山に田を作る際は地中に樋を走らせ水を引く
  そのようにこっそり言い寄って来た妹
  私を慕って泣く妹
  今宵は安らかにその肌に触れたいものよ


  笹葉に 打つや霰の たしだしに
  率寝てむ後は 人は離ゆとも
  愛しと さ寝しさ寝てば 刈薦の 
  乱れば乱れ さ寝しさ寝てば 
 
  笹の葉に打ち付ける霰のたしだし(確々)という音
  そのように確かに共寝をした後は、人々が私から離れたとしても、お前を愛しいと思う 
  刈り取った薦の乱れるように、何もかも乱れてしまって構いはしない
  お前と共寝が出来たのならば……

 
 これもやはり、ある女性へと贈られた、太子の美しい歌にございます。
 愛しい女性に歌を贈られる――当然のことでございましょう。
 けれどもこの女性とは、あろうことか、同母(いろも)の妹君であったのでございます。

 これはもちろん、禁忌にございます。

 太子はこの時、既に日嗣(ひつぎ)と定まっておいでだったにも関わらず、同母の妹君と、お戯れになり、この二首をしたためた文が露呈してしまわれたがため、日嗣は同母の弟君に奪われ――もといお譲りになる形となり、そうして太子は、伊余の地へと、流刑と相成ったのでございます。


  王を 島に放らば
  船余り い帰り来むぞ
  我が畳ゆめ
  言をこそ 畳と言はめ
  我が妻はゆめ

  王である私を島流しにしても、きっと沢山の船が私を迎えに来るだろう
  だから私の畳を決して穢さぬように
  言葉でこそ畳と言っているが、お前のことを言っているのだ
  決してその身を穢さぬように……


 太子が伊余へと流される時に、お詠みになられた歌でございます。
 この歌からもお分かりになる通り、太子はこの時、決して絶望などしておられなかったのでございます。
 島流しにあっても、必ずや大船団が、王である自分を必ずや迎えに来ると、信じて疑ってはいなかったのでございます。

 万一迎えが来なくとも、伊余の地で密かに兵を募り、船を拵え、機を待ち都へと攻め入ろうと、太子は算段なさっておいでのご様子でございました。

 素より日嗣となられた弟君も、それをお恐れになり、抜かりなく手を打っておられた証拠には、流刑の地に、伊余が選ばれたことからも、容易に分かることでございます。

 と、申しますのは、彼の地は、中流(ちゅうる)の流刑地ではございますが――温泉がございます。

 神代の昔、大穴持命(おおなもちのみこと)が、大分(おおきだ)の速見の湯を、下樋より持ち渡り来た――ご存じ、名湯にございます。
 これに後は、美味い酒と、美姫とを用意すれば、どんな聖人君子であろうと、男である限り、必ず堕落してしまう、そう言うものでございましょう。

 事実太子も、そうでございました。

 が、妹君に、その身を慎むようにと先の歌で詠まれたように、太子も、ただ妹君お一人と、身を慎み、頑なに遊女達の誘いを断り、湯にもお入りにならず、ただお一人、射狭庭(いさにわ)の丘に登って海を眺め、歌に詠まれた迎えの船を、ひねもすお待ちになっておいでだったのでございます。 

 けれども丘からの景色は、ただ水天彷彿とする中に、小不二山(こふじやま)が、ぼんやりと浮かんでいるように見えるだけでございます。

 小不二山――と申しますのは、何てことのない、熟田津(にぎたづ)の浜の向こうに浮かぶ、ちっぽけな取るに足らぬ小島にございます。
 その島の形が、どことなく、不二山に似ている――と誰かが思って、小不二山、などと言い出したのでございましょう。
 もっともその者が、本当に不二山を見たことがあるのかと申せば、怪しいものでございますが……。
 けれども、不二山を見たことがある――それだけで、この田舎では大層な自慢になるには違いございません。
 
 要するに、それだけ伊余は、鄙びたところなのでございます。


「あの島は、何と言う島だ?」
 不意に太子が、私に尋ねられました。
「ここいらの者は、小不二山、と呼んでおりますが……」
「あれで、不二か?」
 太子は、目を丸くして仰いました。
「小不二、でございますが……」
 私は殊更『小』を強調して答えると、太子はとてつもなく大きな声で、お笑いになりました。

 それは、私達伊余の者、そうしてあの小不二山に対して向けられた笑いにございました。

 決してご自身を嘲笑なさった訳ではございませんでした。
 それが証拠に、大笑いされた後、太子は力強く、こう仰ったのでございますから。

「今に見ておれ。あの海が、いずれ私を迎える沢山の船で、埋め尽くされることだろう。それを見て、腰を抜かすなよ」

 太子の、その自信に充ちた横顔は、本当に、哀しいほど、凛々しいものございました。

 が、勿論幾日待ったところで、一向一隻の船も、太子をお迎えに上がることなど、悲しいかなありはせぬのでございました。

 そうして、瞬く間に半年は過ぎ去っていったのでございます。

 すると、どうでございましょう。
 相変わらず、太子がひねもす射狭庭の丘から海を眺めておられるのには変わりございません。
 けれども、そろそろ疑いの念が生じるに、半年と言う時間は、充分にございましょう。

 疑心は、暗鬼をも生じさせるものでございます。


「……あの島は、何と言う島だ?」
「……ここいらの者は、小不二山、と呼んでおりますが……」

 ふうううっと、太子は深く溜め息を吐かれた後、

「……あれで、不二なのだなあ……」と仰って、お笑いになられました。

 けれどもそれは、以前のそれとは違い、自嘲のそれであったのでございます。
 それが証拠に、お笑いになった時の太子のお顔、そうして、笑い終えた時のお顔、そのどちらのお顔にも、諦観――それがありありと見て取れたのでございますから……。

 と、申したところで、それはあくまで太子の顔色から、私が勝手に受け取った、心象に過ぎません。
 この時太子が、本当は何をお考えになっていたのか、それは太子以外、分かり兼ねることでございましょう。

 けれどもこの時以来、太子が確かに豹変なさったのは、紛れもない事実にございます。 

 太子の豹変ぶりは、凄まじく、さすがにそれをつまびらかに申し上げることは、ご遠慮させて頂きたく存じますが、好色の限りを尽くされた、と申し上げたとして、決して大袈裟や嘘とはなりますまい。
 ともかく本当に、目を覆いたくなるような、酷い凋落ぶりにございました。

 ですから先の者が、お二人の死を、お二人のために、美しくも悲しい心中物語に仕立て上げようと、この事実を、意図的に避けたのでございましょう。

 太子は、湯に浸かりながら、遊女(あそびめ)たちとお戯れになるのはもちろんのこと、彼女たちの勧めるがまま、酒池肉林の宴を毎夜――いえ、ひねもすくりひろげられたのでございます……。
 
 そのような暮らしを続けられた結果――あの、若竹のように瑞々しくしなやかだったお身体も、かつては宮人の方々を感嘆させしめたその美しかったお顔も、みるみる見る影もなく、酷く肥えていってしまわれたのでございます。

 きりりと凛々しくつり上がったあの涼やかな瞳も、今やいやらしく垂れ下がり、鼻の下などまるで馬のよう。頬は蛙のように膨れ上がり、顎は二重顎。挙句、動くたびにだらしなく波打つ腹――太子は、絵にも物語にならぬような醜悪なお姿に、変わり果ててしまわれたのでございます。

 もしも、かつての太子をご存じの方々が、その変わり果てた太子のお姿をご覧になったとしたら、どう思われるでしょう?

 いえ、それ以前に、きっと太子とはお気付きになられないのでは?

 例え太子とご説明申し上げたところで、太子とお認めになることを躊躇――拒絶なさるかもしれません。
 
 そう、それは同母の妹君様であろうとも――。


  隠りくの 泊瀬の山の
  大峰には 幡張り立て
  さ小峰には 幡張り立て
  大峰よし 仲定める
  思ひ妻あはれ

  槻弓の 臥やる臥やりも
  梓弓 起てり起てりも
  後も取り見る
  思ひ妻あはれ 

  泊瀬の山の大きな丘に幡を張り立て、小さな丘にも幡を立てる
  大きな丘と小さな丘とが仲良く並んでいる
  そのように仲の良い、私の愛する妻

  ああ、槻弓のように臥せる時も
  梓弓のように起つ時も
  末長く労ってやりたい
  私の愛しい妻よ  
 

 この歌は、お二人が伊余の地で再会なさった時に、太子のお詠いになったもの――と、されております。
 が、これは全く嘘なのでございます。
 告白いたしますれば、この歌は、先の者と私めが共謀して作り上げた、全くのデタラメなのでございます。

 ですから当然、心中なさる時に、太子がお詠みになったこの歌も……。


  隠りくの 泊瀬の河の
  上の瀬に 斎杙を打ち
  下つ瀬に 真杙を打ち

  斎杙には 鏡を懸け
  真杙には 真玉を懸け

  真玉如す 吾が思ふ妹
  鏡如す 吾が思ふ妻

  ありと言はばこそよ
  家にも行かめ 国を偲はめ
 
  泊瀬の河上流には神聖な杙を打ち、下流には、立派な杙を打つ
  神聖な杙には鏡を飾り、立派な杙には美しい玉を飾ろう
  その美しい玉のように大切に思う妹
  その鏡のように愛しく思う妻
  家を訪ねることも、故郷を懐かしむことも、お前が居てこそ出来るのだけれど


 確かにお二人は、伊余の地で再会を果たされました。
 けれどもそれは、酷く悲しい――全く遣る瀬のない再会、だったのでございます。

 晩年――果たしてお若い太子にこの言葉が相応しいかは分かりかねますが、お亡くなりになられる前をそう申すならば、確かに晩年に当たりましょう――晩年の太子から、実に酒の抜ける時など、ございませんでした。
 ひょっとすると、酒の力を借りることで、全てを忘却の彼方へ押しやることが出来ていたのかもしれません。
 もしもそうであったとしたら、それはそれで、太子にとってはまだ幸せだったのではと存じます。
 が、それでもふと太子が、正気に戻られる時が――醒めてしまわれる時が、悲しいかな、あったのでございます。

 その日――お二人の亡くなられたその日も、そうでございました。

 そんな時、太子がお話しなさるのは、決まって同じ話でございました。

  
 その話、と申しますのは――これはあくまで、太子がお話になられたことでございまして、私にはその真偽のほどは分かりかねますし、また、たとえどちらであったとしても、素より私にはどうでも良いことでございます。
 ただ私は、あくまで太子のお話を、そのままお話しいたすだけでございます。
 それを、まずご理解下されたく存じます。

 要するに、私がこれだけ気を使いますのは、太子のお話が、世間一般で信じられていること――事実と、いささか異なるからでございます。

 周知の事実として、太子は、同母の妹君とのことが露呈し、日嗣を追われてしまわれた後、ある大臣(おおおみ)の下にその身をお寄せになり、そこで密かに戦の支度をなさった――ということになっております。
 なっております、と申しましたのは、実にこの部分が、事実といささか異なるところ、だからでございます。

 もちろん、張本人の言葉でございますから、やはりその真偽は、私には分かりかねますし、やはり私には、どちらでも良いことでございます。
 繰り返しになりますが、私はあくまでも太子のお話しになられたことを、ただそのままお話しいたすだけにございます……。

 今思えば、全てがおかしい。
 どうして俺がこのような目に遭わねばならぬ?
 全く、訳が分からない!

 確かに、俺は姦淫した。
 妹と、姦淫した。

 それは、罪だ。

 けれども、それは俺だけじゃないはずだ。

 事実、俺はそういう輩を知っている!

 要は、それが露呈するかしないかの差じゃないか?


 弟だって、そうだ!

 俺は知っている。
 前々から、弟は、しつこく妹に言い寄っていた。

 そうして、あの日、弟は、ついに、妹を襲った!

 そうだ、妹を襲ったのは、弟なのだ……。

 あの時、もしも俺がたまたまあの場を通りかからねば、今の無様な俺が、すなわち弟の今の姿じゃないか。

 俺は、ただ兄として、妹を、助けただけなのだ。

 弟をぶん殴り、蹴飛ばし、恥を知れ、と怒鳴り付けた。
 弟は、無様に尻尾を巻いて逃げ去った。

 それで、おしまいのはずだった……。


 姦通した。

 確かに俺は妹と姦通した。
 が、決して俺の方から言い寄った訳ではない。

 言い寄った来たのは、妹だ!


 俺じゃない。
 悪いのは俺ではない……。

 弟が、退散し、それから、俺はただ兄として、妹を気遣った。
 ただ、兄として、気遣っただけだった。

 それなのに、弟に襲われて、乱れたままの姿で、俺の胸元に飛び込んで来て、
「お兄様、お兄様」と、露な白く小さな肩を震わせて、泣き出したのは全く妹の方じゃないか。
 それから、
「わたくし、ずっとお兄様のことを――」と、潤んだ瞳で見つめられ、言われてみろ、誰だって、魔が差したって、仕方ない……。 

 魔が差した。 

 本当に、その時は魔が差したに過ぎなかった。
 過ぎなかったはずだった。

 それが、次第に……。


 ……しかし、俺は最近恐ろしいことを考えるようになった。
 そうしてそれが、案外真相なのではないかと、思ったりしている。
 だとすると、本当にあらゆることが、見事に説明出来てしまうのだから……。

 すなわち、弟と妹は、初めから内通していたんじゃなかろうか?
 いや、あの大臣だって、そうだ。
 三人、共謀し、俺を罠にはめ、以て日嗣を――この国を簒奪したんじゃなかろうか?
 
 そう考えれば、全て合点が行く……。

 でなければ、下樋をわしせ、俺の贈ったあの歌が、どうして易々露呈しよう?
 俺が大臣の屋敷に身を寄せた時、弟はどうしてあんなに早く、その屋敷を取り囲むことが出来たのか? 
 それもご丁寧に、穴穂箭(あなほや)なんぞ拵えて!

 いや、そもそも何故あの大臣の屋敷に、何千何万もの箭が用意されてあったのだ?
 そう、あの箭は、俺が用意させた訳では決してない。

 俺は戦など、素より望んでいなかった。
 大臣の屋敷に身を寄せたのも、世間の言うように、戦の支度をするためだった訳ではない。

 俺はただ、妹のことを、ただ相談しようと思ったに過ぎない。

 弟に戦を仕掛けるだなんて――同母の兄弟で日嗣を争うだなんて、馬鹿げている。

 ……告白すれば、俺はあの時、確かに日嗣などどうでも良かった。
 ただ妹と――それで、良かった。

 乱れば乱れ、人は離ゆとも――あの歌は、紛うことなく俺の本心だったのだ。

 それほど俺は、妹を――。


 しかし、そんな俺に、あの大臣はこう言ったのだ。


「この国は、太子のものにございます。
 百官(もものつかさ)も民も、今は確かに弟御子(みこ)に気持ちを寄せておりますが、それは、ほんの一時のことにございます。
 弟御子は、失礼ながら、大王(おおきみ)の器にはございません。
 弟御子が天下をお治めになる――きっと国は乱れます。
 私には、分かるのでございます。
 良いですか?
 誰にでも、過ちの一つ二つはございます。
 そうしてそれは、往々にして、取り返しのつくもの。
 太子のも、まさしくそれに当たります。
 英雄は色を好む。
 恥じることではございません。
 けれども、弟御子が日嗣――後の大王となるのは、取り返しのつかぬ過ちでございます。
 この国のため、この国の民のため、是非とも日嗣は、太子が――太子が大王とならねばならぬのでございます」


 はっとした。
 
 確かに弟に、この国は任せられぬ。
 弟が、大王なんぞになった日は、この国は、確かに乱れてしまうだろう。

 俺は、ではどうすれば良いのだと問うた。

「ご覧にいれたいものがございます」

 そう言って、大臣が俺に見せたのは、山と積まれた、何万本もの箭だった。

「はばかりながら、太子の御名より軽箭(かるや)と命名いたしました」

 大臣は、にやりと笑ったが、俺ははっきりうろたえた。

 俺は、戦など望んでいなかった。
 兄弟で日嗣を争うなんて、それこそ国の乱れではないか?

 しかし、ためらう俺に、大臣は、こう甘くささやいたのだ。

「この国のため、民のため」

 すでに、兵は整えてある。
 俺が一声かければ、何千もの兵が決起する。

 俺の心はぐらついた。

 大臣は、もう一度言う。

「この国のため、民のため」

 なお、俺はしかしためらった。

 大臣は、さらに言う。

「王となられれば、妹君のこと――いかようにも」

 俺は、決意した。


 その時である。


 あっけなく、大臣の屋敷は、弟の兵に取り囲まれてしまった。

 何万もの箭。
 俺の名を冠した箭。

 確かな証拠である。

 言い逃れ、出来ようはずがない。

 俺はその時、自害を思った。

「早まってはなりません。
 太子、ここはどうかご自愛を。
 太子は、この国になくてはならぬお方です。
 いずれ、この国の大王として、どなたが真に相応しいか、百官も、民も気付きます。
 弟御子は、駄目にございます。
 きっと、国は乱れます。
 私には、分かります。
 ですから、今は辛抱なさるが肝要。
 どうか、太子、ここはご自愛を。
 
 ここは、投降なさいませ。
 大丈夫、ここは私にお任せを。 
 私がこれから、弟御子の許に参り、兵を退くよう説得いたします。
 太子は、きっと流刑となりましょう。
 しかしこれを、好機とお考え下さい。
 あちらで、幾らでも兵を募ることも出来ましょう。
 そうでなくても、私めが必ず、太子を大王としてお迎えに上がります。
 ここは私めに、お任せ下さい。……もちろん、妹君のことも……」

 最後の一言で、俺が頷くと、大臣は屋敷を飛び出した。

 それで俺は、伊余へ流刑と相成った。
 

 流刑の日――俺は落胆などしていなかった。
 あの歌は、決して虚勢なんかじゃない。
 俺は全く大臣の言葉を信じて疑わなかったのだ。

 王を島に放らば、船余りい帰り来むぞ!

 けれど、いつまで待っても、どうだ!
 一向一隻の迎えの船も来やしない!

 あの女は――妹は、どうだ?

 酷く泣いていると言うから、俺は歌を贈ってやった。


  あまだむ 軽嬢子
  いた泣かば 人知りぬべし
  波佐の山の 鳩の 下泣きに泣く

  軽の乙女よ
  そんなに泣くと世間に知られてしまうだろう?
  波佐山の鳩のように忍んで泣くがよい


  あまだむ 軽嬢子
  したたにも 寄り寝て通れ
  軽嬢子ども

  軽の乙女よ
  ひっそりと私に寄り添い寝て通れ
  軽の乙女よ


 けれどもあの女、本当は、泣いてなどいなかったのではないか?
 本当は、笑っていやがったんじゃ、あるまいか?
 俺の贈った歌を見て、笑いながら、あの歌を俺に寄越してきやがったんじゃあるまいか?


  夏草の あひねの浜の 
  蠣貝に 足踏ますな
  あかして通れ
 
  あいね(相寝)の浜の
  牡蠣の殻を踏んでお怪我をなさいますな
  一夜を明かしてお行きなさい

 ハッ、ずいぶん思わせ振りじゃないか。
 だからこそ、わが畳ゆめ……。
 それなのに、なんだ……。

 あいつらは、結託し、俺から日嗣を――この国を簒奪したのだ。

 大臣は、今頃大層出世しているのだろう。
 弟と妹は、きっと懇ろに違いない。
 そうして閨の戯れごとに――

「全くあいつは抜けている。騙されていることに、気付きもしない」
「その方が、幸せでしょう?」 

 ――とかなんとか言って、俺を嘲っているに決まってる。

 クソッタレ!

 お話を終えられ、それから太子は一層不機嫌に酒をあおるのでございました。
 酒で、込み上げて来る感情を、相殺するに努めておいでだったのでございましょう。
 それは、いつものことでございました。

 もう、何百篇この話をなさったか、分かりません。

 そのような太子を、遊女たちはただ黙って見ているだけでございます。
 何故と申しまして――

「おかわいそうに」
「私が慰めて差し上げます」

 ――などと申した遊女たちは、ことごとく、手加減ちゅうちょなく太子に殴られ、歯は砕かれるは、鼻はへし折られるは、顔面血だらけにされてしまったことがあったからでございます。

 故に彼女らは、沈黙を選ぶのでございます。

 けれども、まるで枯れ井戸の底にでも要るような沈黙の中、せんかたなくふと天を仰いだ一人の遊女が、

「あれえ、何事かしら? 鳥が、ぐるぐると輪を描いている」と、思わずこの沈黙を破ってしまったのございます。
 その遊女が、慌てて口を塞いだのは、申すまでもありますまい。

 けれども、太子は覚えずこれに興味をお示しになられ、首をもたげられました。

「……本当だ。しかし、ずいぶんみすぼらしい。あれは、なんという鳥だ?」

 そう独り言のように呟かれ、太子は目を凝らされました。

 遊女たちはもちろんのこと、お側に控える私めも目を凝らし、その鳥の正体を探ろうといたしました。

「あれは、山鶴(やまたづ)にございます」
 遊女の一人が、得意げに申しました。

 が、途端太子は険しい表情をなさって、

「ヤマタヅ!」と、苦々しく吐き捨てるようにおっしゃると、それから、しかし美しい調子で、次の和歌を口ずさまれました。


  天飛ぶ 鳥も使ひそ
  鶴(たづ)の音の 聞こえむ時は
  我が名問はさね

  空を飛ぶ鳥も使いなのだ
  鶴の鳴き声が聞こえた時は
  私のことを尋ねなさい


 この時の私は、存じ上げなかったのでございますが、太子が伊余に流される折、妹君に贈られた歌の一つであると後に聞かされ――血の気の引く思いがいたしました……。

 太子は、詠い終えるや、自嘲気味にお笑いになり――こうおっしゃいました。

「白鷺ならば趣もあるが、熱田津(にぎたづ)に山鶴(やまたづ)とは、洒落にもならん。誰ぞ、弓と箭を持て。座興である、あのみすぼらしい山鶴を、射落としてくれようぞ!」

 この時、太子に弓と箭をお渡しいたしましたのが、私でございます。
 が、あいにくその箭は、軽箭でございました。
 それをご覧になった太子は、酷く不快な顔をなさいました。
 が、たとえその箭が穴穂箭であったところで、やはり太子は同じ顔をなさったでしょうが……。

 太子はそれを、まるで憎しみでも込めるかのように、むんずと掴まれるや、顎をあげ、中空に虚しく楕円を描き続ける山鶴を、キッとお見据えになりました。
 その横顔は、何とも凛々しく、目に力のある横顔でございました。
 と、申して、腹は呼吸のたびに大波を打っておいでではございましたが……。

 そんなことはお構いなしに、太子は、獲物にしっかりと狙いをお定めになると、箭柄を頬の肉に食い込ませながら、弓をきりきりと満月の形にまで充分にお引きになったその刹那――パッと箭をお解き放ちになると、箭は、ひゅうううんと心地よい音を置き去りに、過たず山鶴の胸を見事に射抜いたのでございます。

 山鶴は、どぶんと錐揉みに湯に落ちました。

 ぱらぱらぱらぱらと水しぶきの落ちる音が収まって、一瞬の静寂。
 それから遊女たちが、どっと歓声を挙げました。
 太子は、それに応えてお手を振りながら、検分なさろうと血の湧き立つところ――山鶴の落ちたところに、意気揚々と歩み寄られました。

 けれども、白濁の湯面に広がる赤く鮮やかな血の膜を破って浮かび上がって来たその影は、覚えず人の形をしていたのでございます!

 遊女たちは、あまりのことに色を失い、太子も、愕然として湯の中に膝を折られました。
 
 それは、女でございました。

 太子の射られたのは、間違いなく山鶴にございました。
 けれどもその女の左胸には、確かに今しがた太子の放った軽箭が、見紛うことなく私がお渡しいたした軽箭が、突き刺さっているではありませんか!

 太子は、わなわなと震える両の手をその女の背中に通されて、湯に沈まんとする女の身体を受け止められました。
 そうして、その女の顔をご覧になったのでございます。
 女の頬は、みすぼらしく鋭角にこけ落ちていました……。 

「おい、おい」

 太子の呼び掛けに、女は、ゆっくりと目を開けました。
 虚ろな目が、ぐらぐら揺れて、それがようやっと太子を捉えると、女は安堵の表情を浮かべました。
 それから女は、かすれる声で途切れ途切れに、次のよう詠いました。


  君が往き 日長くなりぬ
  山鶴の 迎へを行かむ
  待つには待たじ

  貴方が往ってしまわれて、ずいぶん時が経ちました
  山鶴となって、貴方を迎えに参りましょう
  もう待ってなどいられません


 その歌をお聞きになった太子は、はらはらと涙を流されました。
 太子のそのご様子と、今の歌とで、私はその女が――そのお方が、太子の同母の妹君だと悟りました。

 太子のその涙――恐らく喜怒哀楽、ありとあらゆる感情から零れた涙にございましょう。
 私も、お二人のその残酷な再会に、思わず知れず、目頭の熱くなるのを覚えました。

 けれども、けれども妹君のその息を引き取る間際、搾り出すようにおっしゃった、一言……。

 その一言に、私は、実に総毛立つ思いがいたしました。
 それほどまでに、妹君のその一言は、恐ろしく、また残酷なものだったのでございます。

「……この歌を、どうか太子――お兄様に……」

 そうおっしゃると、妹君は、口許からつつつと一筋血を流しつつ、哀しげに微笑まれ、そうして息をお引き取りになりました……。

 妹君のその一言に、息をお引き取りになるその様に、その死顔に、太子は酷く狼狽され、まるで何か得体の知れぬ何かに操られでもするかのように、よろよろと立ち上がるや、二三歩、逃れるように後退りなさった――その時でございました。

 足のもつれたか、湯に足を取られたか、底の滑りに足を滑らせたか、あるいは、やはり得体の知れぬ何かのせいなのか、それは定かではございませんが、ともかく太子は、

「あ」

 と声を漏らすと、後ろにどっと倒れられ、そのまま後頭部を、剥き出しの岩肌に打ち付けてしまわれたのでございます。
 それであっけなく太子は……。


 これがお二人の死の真相にございます。
 先のものと、今回の私めのもの、果たしてどちらを史実となさるか、それは御子――大王のご随意に……。

君が往き――

 古事記の軽太子と軽大郎女の話を元ネタにしています。
 歌の訳は、梅原猛さんの訳を主に参考としました。
 読了感謝です。
参考文献 
『古事記』 梅原猛著 学研M文庫 
『古事記(下)全訳注』 次田真幸著 講談社学術文庫
『日本書紀(上)全現代語訳』 宇治谷孟著 講談社学術文庫
『伊予国風土記(逸文)』"伊予の温泉" 

 どなたかに『ツイート』頂けた模様。こう言うことは稀な為、嬉しい限り。
 もしもその『ツイート』きっかけでこの作品を読んで下さったって方、私の代わりにその方に感謝の意をお伝え頂けたら幸いです。『Twitter』やってないもので……。

君が往き――

古事記を元にした話です。 伊余の地を舞台にした話です。 12738文字と、ただ少し長いです。 時間にゆとりのある方に、ご一読頂けたら、幸いです。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-06-06

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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