小説家を目指したい方へ
2011年1月3日
現段階にて私がわかっていることを僭越ながら書かせていただきます。
コミュニティーというのはよい意味でも悪い意味でも成熟してきます。
その上で俗に言う「素人」がよく勘違いすることから書いていきたいと思います。
どこでもよく見られることなのですが「文章家になりたい」というのと、「文章で食っていく」というのはレベルが違いすぎます。
ここでの「文章」は「小説」に力点の大きい文章を指させていただきますが、文章家になるには片手間で充分可能なレベルです。
真っ当に働き、その上で自分の生活を自分で賄いながら文章活動をしていく。
賞は取れたらいいだろうな、という軽い気持ちで文章そのものを趣味にも近い活動として続けていく。
通常世間ではこちらの「文章家活動」のほうがまともだと考えます。
なぜなら小説の世界は芸人の世界と同じく、数多くの人間が脚光を浴びることを目指し、そして現実に脚光を浴びるのはほんの一握りです。
報酬をもらっていても食えないプロは溢れるほどいる世界です。
現在ライバルはネットで書いている人も含め山ほどおり、また上を目指すならば、その作品たちよりもはるかに優れた点がなければいけません。
百万以上もの人間の頂点に立てるという自信がないのなら、高望みしないほうがいいでしょう。
コミュニティーでは「賞」をあたかもひとつのゴール地点のように捉えます。
しかし残念ながら「受賞」は「ようやくスタート地点に立てる」にしか過ぎないという現実を無視して、あたかもそれが高みにあるような見方をするようでは、既にレベルが低いと断言してよいでしょう。
そして出版すればノーベル文学賞作家も直木賞作家も駆け出し作家も同じ目線で見られるということ。
駆け出しだからという免罪符が与えられるように考えているのなら、大きな過ちです。
たとえば千円を出す。
ぱっと出された駆け出しの文章も直木賞作家の文章も同じ千円なら、どちらを買うでしょう。
当然直木賞作家のほうだと思います。
つまりプロになるとは、同じ土俵だからこそ言い訳のできない世界ですし、作品を通じて何を表現していきたいのか、「骨を通す」ことが重要な点になります。
骨があれば、肉付けを変えるだけで作品は百変化できますから。
そして「出版」という事業を勘違いしていらっしゃる方も多いようです。
「出版」するとは、「お金をかけて商品を流通させる」ということです。
これはひとつのビジネスモデルとして崩しがたい体質があり、現在旧体質が新体制に大きく出遅れている状態です。
しかしまだまだ日本では依然として紙に対する信奉が強く、紙の勢いは充分ありますが、これから新しい時代を迎えることは確かです。
電子書籍の時代になれば素人の文章もプロの文章も溢れかえるほど「商品」としてネット上に流通し、同列に扱われるようになりますし、素人の文章を出すリスクを避けて、電子書籍で試すことも出てくるでしょう。
紙を目指す前に電子書籍で、という作者たちも莫大に増える。
問題は「紙」です。
紙はコストがかかります。
当然製本にするコストや流通させていくコスト、人件費、倉庫代など莫大な金がかかります。
出版社の立場になってみて、誰かの文章を出すのに借用書を書かないといけない事態が発生するとしたら、その文章はそこまでする価値があるのでしょうか。
言い換えれば、その文章は破産するリスクをかけるほど、価値のある文章でしょうか。
それをよく考えていただきたい。
その上でその文章は「売れる」文章なのか、「売る価値」があるのか。
「文章で稼ぐ・食っていく」からには「売れる」ことが絶対条件です。
妙なプライドを全面に出されても困るだけです。
利益を出せないのに金を出せというのはタチが悪い。
自分で作品を書けば愛着がわくのは当然です。
だからこそ自分の作品に甘くなる。
そして他人の批評も残念ながらただの「意見」であるということを注意していただきたい。
間違ってもいないしあってもいないのです。
では、何が最後に重要になってくるのかというと、その書き手が持っている独自性という骨です。
これがなければ批評されるたびに骨が大きくずれるし、文章も散漫になる。
結局誰に売り込みたいのか、というターゲットも絞れず、伝えたい内容も絞れない。
万人に伝えられる内容というのはまず書けないし、書かないほうがよいです。
ただ媚びていくだけで、ピントもぼやけ、みすぼらしいだけの内容になります。
これは作文よりも酷いといっていいでしょう。
それなら自分の生活を事細かに書いたほうが迫力があります。
特にその書き手が「何を読んでいるか」が見えるのは少し見苦しい。
なぜなら小説における読書家というのは「その人間独自の感性世界」を覗きたいからです。
たとえば最近では未成年がよく文章を書きますが、子供が感じる世界はもっと広大でギラギラしていてよいはずなのです。
大人よりも感性が鋭いはずなのですし、大人になれば感性が鈍っていくものなので。
鋭い感性が感じられないということは「経験」せず、想像だけで書いている。
しかもベースとしている文章や世界が容易にわかってしまう。
これでは話にならない。
特にその人が作品を書かなければならない理由なんてどこにも存在しないからです。
その他大勢の中の一つならば「作品」として存在する価値がないからです。
独自性を育てるために物を見てください。
感じるために経験をしてください。
それが「自分だけの武器」に繋がっていきます。
もし賞というものを真剣に考えたいのなら一日十作品は目を通してください。
それを三ヶ月続けていくとさすがに頭が痛くなるはずです。
賞によって違いますが賞の選考は、だいたい最初に会社の人が選びます。
その後、選考委員に選出されたものが渡されるのです。
毎日十作品も読み続け、少しでも読むのが苦痛な場所があれば、もう後の文章は苦痛を抑えて読むしかなくなります。
つまりそれだけの文章を読んでいても(比べても)斬新さが失われず、かつ新しい視点やアイディアに溢れている力のあるものが選ばれていくはずです。
賞を取りにいきたいのなら、すっと読んで忘れられなくなるくらいの文章を心がけてください。
しかも上っ面を撫でているようなだけの作品ではなく、きちんと肉の奥に脈打つものがあり骨があるのを感じられる作品を望んでいるはずです。
見えるものを描写できるのは最低限の能力だと心得てください。
そして賞を取った後、ようやくスタート地点に立つわけですが、スタート地点で既に失速する作家も数多くいます。
これは作家としての力量がなかったということを自分で証明しているわけです。
だからこそ「賞」はただのきっかけであり、それ以外の何ものでもないということなのです。
常に新しいもの、常に売れる文章を書いていかないといけない。
賞を取った後に二十以上の本を出せる自信がある人が目指して欲しい。
じゃなければ淡い夢だけを持ち続けて人生を棒に振るか、賞を取れないという邪な感情が心の中に渦巻いていくだけです。
その感情は他人を阻害し、視野を狭くし、感性を鈍らせ、やがて人間を腐らせていきます。
そういう感情を持っている人はたくさんいるのですから、世にあぶれた感性はいらないに決まっています。
売れる文章を書くには、リアリティーを重視しないといけない。
リアリティーを重視するとは現在売れている仕組みを見抜けるだけの目を持っているということです。
何を書けば興味を引くのか、どう組み立てれば奇抜になっていくのか、細かな技術というのは常に謙虚でなければ見えてこない。
それは自分より少しでも優れているものを認めるということです。
どうしてあれが売れているのか、あれが売れているのはおかしい、こんなことを言っているようでは現実を無視しているわけですから売れる文章を書くには程遠い。
高尚なことを言うならそれが通じることを証明してみせろ、というのが会社側の本音だと思います。
「出版事業をするのだから、文化を育てるという活動からそれて何になる」
こういうご意見もございますし、私も思っている。
しかし「表現」という原点に立ち返れば「表現」とは「受け手がその行為を理解」してこそ「表現」が通じるわけです。
通じない表現なんてただの独りよがりにしか過ぎませんね。
誰も理解不可能な見知らぬ他人を、思いやって理解しようと努力はしてくれないし、喜劇にもならないのです。
だからこそ受け手が表現行為を受け入れるか否かは、文章家にとっては死活問題なのです。
そして「作家」という職業は「技術職」というよりも、もっと曖昧なもので、「作家」なのだと周囲が認めてくれなければ、ただの人です。
これから電子書籍の時代を迎えます。
紙が滅びることはありませんが、文章はよりネット空間に流れ出し、新しい技術の発展によりコンテンツはより複雑化していくでしょう。
新時代に入ろうとしている中で、小説家を目指そうとするのなら、新時代に対応できる文章を目指さなければ滅びるし、リスクを他人に擦り付けて売れない文章を書き続けることになります。
そういう卑怯な作家には誰だってなりたくないでしょう。
日本人の日本語能力の低下が深刻化しているし、新しい世代は感性も違う。
ひとつひとつ、目の前に確かに存在している現実を受け入れてこそ初めて「プロ」が名乗れます。
プロの世界には現実しかない。
現実しかないということは、文章以外の能力も関わってくる場合があります。
人間的な魅力、応援して助けてくれる人たち、時の運、プロモーション能力、販売方法や場所。
小説家が触れる・書く世界は自分が触れている目に見えないものを含めた、あらゆるものでもありますし、それらを感性で咀嚼して作品に描いていくものでもあります。
ですから、現実を受け止める能力はとても大事な能力なのです。
もし、プロを目指しているのではない、書いている文章は応援してくれているあの人のために書き続けているのだ。
そうなのだとしたらご立派です。
その方を喜ばせてあげるために懸命に書き続けてください。
そうではなく、淡い夢を描いていつまでも追い続けている方がもしいらっしゃるのなら、今存在している現実をとことん受け止めてください。
そして注意深く観察し触れる空気を別の形でクリエイトできる能力を養って、常に視野を広げるために頑張っていただきたい。
自分のくだらない思いに固執して決して視野を狭めることのなきよう、自分の才能を自ら殺すことのないよう、切にお祈りして駄文終わらせていただきます。
小説家を目指したい方へ