クモ膜下出血 破裂 闘病記
右中大脳動脈瘤破裂 クモ膜下出血
破裂
平成27年4月10日
朝8時 飼い犬を怒った直後 こめかみから 首にかけ血流の違和感・肩こりだったコリが急に取り除かれるように 楽になる
脳内で 何かが起きているのか? 自分自身に問いかけてみる 問いかけているより 行動だ
着替えをし、病院に行くことを決め 立ち上がり 歩き出す いつもの力がでない 夜間工事をしているいつもの力が取り除かれている。
歩けることは歩けるが 女房が 私を見て 「大丈夫? どうしたの?」 自分で病院に行ってくる と答え 歩き出す
車を運転 出来るのだろうか?
考えている暇もない 女房にいつもの 病院に同行してもらう その病院では対応が出来ず 近くの脳外科の紹介状を書いてもらう
その 脳外科に行く MRI検査 エコー検査をする
先生が 女房に言う 「破裂している なぜ しゃべれるんだ・なぜ歩けるんだ」
そんなことも 知らない自分はベットの上で 小便がしたいと尿意を訴えていた。
ものの5分位だろうか 救急車が近づいてくる AM9:15
先生も自分に近づいてくる 「加納さん 少し破裂している 緊急で手術しなければならないから 今から行く病院で手術を受けて」 と
ここで 破裂していたんだ と認識する
救急車に乗り 点滴を打たれ 血圧・心電・体温を定期的に測られる
サイレンがけたたましく鳴り 車が揺れる
向かった病院は 脳卒中センター 財団法人 F脳障害研究所付属病院
AM10:00 到着後 血圧指示のもと ナースに手術着に着替えさせられ 検査室に向かう 今回のような形での手術は初めてだが、精神的に
何か死ぬ気はしない、救急車に乗せられた時も 「俺は死なないな」と心の中で呟いた。
検査室に入り 麻酔を打たれ 股関節からの カテーテル検査・MRI・CT・像影剤検査
PM2:50 女房に 「大丈夫 ハナクソだよ」 と捨て台詞を言う
手術室へ向かう 看護婦さん達が 「やだこの人 麻酔が効いてない」 と言ってたそうだ。
その後 7時間半に及ぶ 大手術
今でも 鮮明に覚えています。自分は2度 臨死体験をしました。
手術台に乗せられて 自分が手術をされてる光景を 天井?上から見下ろしている場面を2度
その時は 鮮明な夢を見ているようでした。意識はあったのだろうと思います。
そして 自分より先に亡くなった自分の恩師が 現れ 自分を止めていた 場面も覚えています。
PM10:30 NCUに移る
女房が主治医と話す。「まずはこの先2週間を乗り切らなければ 次の段階にはいけません。」
今回 手術 右中大脳動脈瘤破裂 クモ膜下出血 7ミリ破裂
2週間 脳血管攣縮 にならないよう NCUにて 頭の角度・高さ 腕・腰・足 を固定 麻酔も少量ずつ投与
4月11日 AM11:00 NCU 面会 5分間 恭次が女房に 「ニャー」と三回言い 笑わせようとする。
MRI検査して、今のところ異常な事はおきてないとの事
これから2週間が山で再出血などがあると大変なことになるとの事です。2週間乗り越えなければ駄目だと 主治医から本人にも話をしたそうです。
女房が恭次に声をかけると 「ありがとう」 と次に 「仕事休むと連絡してくれたか?」と2度確認して「 腹が減った」 と2度言い
しばらく聞き取れない言葉 ・・・ よく聞くと 「ニャ^ー 」 と言ってました。
女房からは 頑張ってくれてありがとう
恭次の意識が朦朧とし一言話すと しばらく目を閉じて黙ってしまい 1分位すると また 目を開けて声を出すという感じです。
縛られた 手も 足も 首も 動かしていました。
4月12日 15℃
昨日よりも、しっかりしてました。 恭次が女房に 「今日・・・何日?」 一緒に行った次男 をジーと見つめてから
「どうした?なんだ 」 と目が見えている事がわかりました、 何度も何度も バタバタ動くので 看護婦さん達に叱られていました。
「又後で来るね」 と声をかけると 「寒いから布団をかけて」 と言い かけてあげると 頷いていました。
NCUは常に20℃ 設定ですので 寒いのは当たり前です。
朝と夕方の感覚があるのだとしたら 朝の方が元気みたいです。
夕刻 面会 看護婦さん達で 「よっこらしょ よっこらしょ」 と引きずり上げていました。 恭次が 動きすぎ (笑)
意識がかなり はっきりとしていて よく喋ってくれました
「今 何時? ここ、どこ? 何日たった?足が動かせないから・・・外して 手は もういいら 頭のどこがどうした? 俺の
携帯は? もう いいら 帰る 布団 寒い 」
今朝までは 目もうつろで・・・右目は泳いでいて ・・・目をあけるのがしんどそうでしたが パッチリ と開けて キョロキョロしてました。
看護婦さんが おっしゃるには 「主治医からお話が無い時は 安定していて問題が無いととらえてください」 とのことでした。
4月13日 9℃
女房が面会に来ると 主治医が女房に近づき声をかけました。 「今のところ、状態は安定しています。大丈夫です。」
ニヤリとした女房に 「今のところ ですよ」
ともう一言追加 NCUに入ると 看護婦さんが 「心待ちにしてますよ」 と手招き
酸素マスクを外し 鼻からの酸素吸入に変更していました。
「滴が不快らしくてね 鼻からの酸素吸入にかえてます 絶対にA型でしょ?細かいんだから(笑)」
麻酔が効いているせいか 幻覚が見えているようで 女房の隣に誰もいないのに 次男が見えているようで
「学校は? 中学のジャージに着替えてから来い」 などや
主治医には 「仕事を休むわけにはいかない 帰らせてくれ」 その後は暫く朦朧とする。
「奥さんが来る時間に 全神経と体力を使い・・・元気だと安心しろとアピールしている」 と 看護婦さんがポロッと話していました。
女房には、「煙草 吸いたい 携帯を置いていけ」
夕方 午前中のように元気はなく ・・・ 冷静でした
小さな声で 「手を縛られてる 外して」 得意の 「寒い 布団 」
リハビリテーション実施計画書
日常生活自立度 C2
意識障害 JCSーI3
筋力低下 全身筋力低下
呼吸・循環障害 カニュラ使用にて酸素2リットル
摂食障害 栄養経管使用
排泄障害 膀胱留置カテーテル使用
高次脳機能障害 今後精査
その他 UP30°の為、寝返りのみ実施
活動度 18項目 オール 1点 合計18点
4月14日 12℃
女房が恭次に 「おはよう 」
恭次が女房に 「トイレ行きたい 足の縛りを外して」
女房が 「 もう少しだよ」
恭次が 「俺の言うことを聞けないのか 」 舌をペロリと出してオチャメをする(笑)
「兎に角 足と手を外してくれ 煙草を吸いたい 喉渇いた 」
自分の苦痛に感じることは、はっきり分かっているみたいです。
看護婦さんと 話しながらの面会になり 「今 頭の中の出血した血液「クモ膜下出血の時に出た血液」を外に出している
これを綺麗に出さないと 次に進めない」
恭次の頭から出ている数本のチューブの先に袋がついていて 少し薄まった血液が溜まっていました。
4月14日 13℃
夕方 恭次はイビキをかきながら 寝ていた。血圧が正常に戻されていました。血圧を低く保つのは、終わったみたいです。
4月15日 15℃
午前 面会 手足動く・耳聞こえてる・話す・目も見えてる 更には 考えて返事が出来るようになる。
「断片的だけど 少しずつ記憶が戻る」 恭次がそう言いました。
更には 食事を食べ始め お水も飲ませてもらっていました。冗談を言って微笑みました。
感情も戻ってきています。 もともと 無表情な時が多いので・・・恭次にとっては 凄いこと
「帰るだ」のと 戯言を申してますが・・・ガッチリ ベットに固定されている
恭次 「トイレに連れてけ なんで俺がこんな オムツでクソしなきゃ ならねえんだあー」
看護婦 「加納さんの 命にかかわるので 動かすわけにはいきません。」
暴れすぎたのか・・・更にキツイ固定されていました、手にグルグルにガーゼを巻かれ ミトン被され その上からプラスチックのカプセルをはめられていました。
4月16日
午前 ナースセンターに着くと 何かしているようで なんと手足のリハビリをしていました。
寝た状態ですが・・・リハビリ担当者の方が動かしてくれていました。恭次は元気 元気
来週には、頭の管「ドレン」が外れるそうです。
外れたら、歩行訓練を始めるとの事です。
主治医と女房が話をしました 「術後2週間は 血管攣縮の危険がありますが、2週間過ぎれば、ほぼ危険がなくなります 。
少しずつ リハビリをして、本人との話が出来るようになったら、本人と一緒に 反対側の動脈瘤の治療をどうするのか相談しましょう。」
恭次は今日も元気で 看護婦さんをからかって笑ってました。
夕方 なんだか 点滴の数が増えて心配になりましたが、恭次は元気一杯
「明日帰る 煙草吸いたい 車の鍵は 携帯は?」 本当に同じことばかり聞いてきます。
4月17日 17℃
午前 恭次が昨夜 主治医と話をし 「左側にも不発弾がある」 と言うので 「頑張ろうね」 と声をかけたけど・・・
あまり良い返事が戻ってこないので、女房が恭次の頬に、デコピン ホホピン をする。
夕方 看護婦さんの所見 多分 ICU症候群
4月18日 14℃
午前 恭次は落ち着いていました。ただICU症候群の症状は、かわりなく 涙
恭次 「昨日・・・ 飛行機に乗っていたら パパイヤ の皮が飛んできたぞ・・・おい・・俺は だから死ぬぞ・・
大事な話がある・・どこ・・鳥取砂丘に決まってるだろう ・・・二人で行くんだよ・・・ここに居たら殺される・・・二人で逃げよう 」
何か・・しっかりした事を言ったり・・夢物語だったり・・ごちゃ混ぜ
大丈夫 超元気(笑)
4月19日 16℃
ICU症候群は、落ち着いてきた様子です。仕事の事をかなり明確に話していましたが、検査室の前で男とモーニングコーヒーを飲んでいたのを、見たと そういうことか?と怒り出していました。夢物語を又明確に見すぎたのか 汗
早く家に帰りたい、こんな所にいたら・・・俺の精神が破壊するとも・・・
4月20日 17℃
術後10日目 午前 恭次の体をリハビリの担当者が、手足を丁寧に動かしてくださっている
恭次本人は、手足の拘束から解放中なので ご機嫌 ご機嫌
夕方 落ち着きを取り戻していました。
本人曰く 明日 カテーテル検査 今回の手術の経過と、反対側にある動脈瘤を検査するとの事
「まだ 長くかかるよ・・・その前に外出許可もらいたいよ」
「今日から 普通食だから、何でも食べられるよ リンゴとアンパンと牛乳買って持ってきてくれ」
食事の時に リンゴ が出てとても 美味しかった とも言ってました。
4月21日 19℃
午前 「昨夜は、眠れなかったあー」とうつろうつろ
4月22日
午前 今まで、暴れすぎて付けられた 腰の20キロのオモリも解除
主治医がいなくて、昨日の検査結果は不明です、恭次が主治医と朝 話したことを教えてくれました。
あと2日で、頭の管は 取れるとの事、反対側にある動脈瘤の手術を行いましょう と言われた。
長期入院になるから、困る 帰りたいと主治医に言ったそうです。
夕方 すっかり落ち着いてしっかりとしています。
術後・・・凄い暴れた事を看護婦さん達から聞かされたみたいで(笑)
恭次 「そんなに 暴れてたあー?」
女房 「はい ものすごく 暴れてました (笑)」
4月23日
夕方 今日も主治医とお会いできませんでした。
恭次本人が、昼に主治医と話をし 明日 頭の管を取り外す との事です。
4月24日
術後 2週間 14日目 恭次の頭の管 取れました。手足・腰 の拘束・・・外れました。
昨夜・・・急患が立て続けに運び込まれたそうで・・・ 個室が満室
移動したくても出来ない状況になり恭次 キレ気味でした。
夕方 個室に移っていました。面会時間は PM3時からPM8時まで となりました。
4月11日から ここまでの記録は女房の視点です。
自分自身の記憶は、非常に曖昧で、暴れていたとか 暴言を吐いたとか 覚えていません
後日 麻酔が少しずつ 効いていたからこそ の言動だと確信しました。
この2週間は 毎日毎日 幻覚やら夢などをかなり見ては それを周りに 確認していたんだと思います。
正常ではなく、とても 辛い日々ですが 毎日 毎日 1回5分の面会時間 午前・午後の為に 会いに来ている女房に対しての言動であってはならないと、後日 深く反省しました。
NCUを出てから 個室に移ります。自分で食べる 久しぶりの食事、手足が完全に解放された自由な身 とは云え まだ歩けるかもわかりません。
人の手は借りたくない 自分自身で 立ち上がり、歩きたい というプライドの部分が先行していました。
色々な管は、まだ ついたまま ですが、縛られた時の苦しさに比べれば 自由を感じました。
顔も 頭は強制に巻かれた包帯・パンチを数発 受けたような顔面 目が腫れ 顔自体が腫れていた。
リハビリ担当者が来た。
担当者 「加納さん 自立して 歩行出来るか やってみましょうか? ゆっくりでいいんで 」
恭次 「よし やろうか」 ベットから起き上がり スリッパを履き ゆっくりと 自立出来るよう 立ってみた。 立てた。
「このまま 歩いてみるよ」 歩いてみた 尻の筋肉が痛み 足の筋肉もかなり 落ちているが プルプルしながら 歩くことが出来た。
「筋肉をつければ 歩けるさ」 歩けた自分に 感動をした(笑)
担当者 「この管が取れていけば、リハビリで力をつけていきましょう」
筋力は、かなり落ちていた 全体的に筋肉を削ぎ落とされた感じだ。
血圧は、高めに設定されていた 次の手術の為に
投薬は 朝 アムロジジン・タケプロン・ビオフェルミン 夜 アムロジジン・タケプロン・ビオフェルミン 頓服 「頭痛・発熱時」ロキソニン・ムコスタ
就寝時 レンドルミン
食事は、普通食 1800カロリー
朝 ロールパン 2個 ・コンソメスープ・スクランブルエッグ・フルーツ・牛乳・ 主治医の指示で 梅干2個
昼 山菜うどん・里芋サラダ・キャベツのバターソテー・卵ボーロ・ 主治医の指示で 梅干2個
夜 米飯・味噌汁・さんまの竜田揚げ・大根おろし・冬瓜の煮物・いんげんのピーナッツ和え・ 主治医の指示で 梅干2個
この時期は、頭痛・発熱が多かったので、ペットボトル入りの氷を脇の下に挟み 熱をさげていた。
食事を食べた量・水を飲んだ量 は記載していた。
夜中に 小便の管を抜いてもらい 小便の量もチェックした。
これは、歩行して トイレに行けるようになったからである。
検査も CT・MRI・カテーテル と定期的に、行われた。
リハビリでは、毎日 午後に リハビリ室に行き 両手に 5キロのウエイトを持ち あげさげをしながら 60キロのウエイト設定で屈伸運動や、
ウオーキングを行った、ウオーキングは屋内から屋外に切り替えられた。
僅かずつであるが、筋力が戻り始めたので、栄養士さんに 食事の量が足りないと話し 18000カロリーから2000カロリーに変更してもらった。
NCUにいた あの2週間は、自分自身 明確には覚えていない 麻酔が少しずつ効いていたせいもあり 夢や幻覚 現実を行き来していたのかもしれない。手術中にも 何度か 脳が動かなくなったらしく その時に 臨死体験をしたのは覚えている。
手術台にいる自分を上から見ている というような 風景だった。その場面はとてもリアルに手術中 二回体験したのを今も覚えている。
NCUにうってからは、暴れた記憶はないが、かなり 看護婦さん達に迷惑をかけたと思います。
実際はかなり暴れていたらしく 初めは腕・足の拘束だったが、腰にウエイト 指が動かないようにカバーまでかけられていたそうです。
酸素マスクに滴が溜まり それが気になり看護婦に拭いてくれと何度も訴えていたそうです。
その時の担当看護婦さんは、この人絶対 A型だよね 神経質だものと 女房に話したそうです。(笑)
4月30日 モニターが外され 解除となり シャワーも首下までオッケー 一人で入浴
一番 行きたかった売店も 看護婦さんに声をかければ、行っても良いと許可をもらう
5月1日 朝 別の看護婦さんに切り替わり 自分に 一人で勝手に動くのは、止めてほしい
と唐突に言われるので 昨日のモニター解除や許可になった事項を話をするが、病院からの指示がそうだから とキレ気味で応対するので
納得のいかない自分は、看護婦長、主治医を呼んでもらい 許可事項再確認と病院内での 報告・連絡・相談 などを再度 改めて欲しいと
話をする。
この頃は 肉体も自分に戻りつつあったので、周りに 自己主張をしたかったのかもしれません。
左中大脳動脈 未破裂動脈瘤クリッピング手術
左中大脳動脈 未破裂動脈瘤クリッピング手術 の手術日は5月20日と決定する。
心境的には 2度目の手術だし まな板の鯉なので ジタバタしても仕方ない 主治医を信じ 成功する自分を信じるしかないと あっけらかんでした。
5月13日朝から14日朝まで 外泊をする 昼食はステーキ屋さんに行き ヒレ肉を平らげ 夕食は刺身などを食べ 自宅でゆっくりとした。
14日 午後に 心臓のエコー検査 心臓の先生には 「貴方の心臓はピンピンして元気だ 破裂の手術の時は少し危なかったけど 全然問題は無い」
と説明を受けた
MRI検査・脳波検査
15日 午前 レントゲン検査・記憶の検査・ 午後 リハビリ・体力検査・CT検査 麻酔科の先生からの説明 同意書記入
16日から18日まで外泊し 女房・親友・前妻との長男・次男と食事をする。
外泊が多いのは 我儘が増えてきたのか?二度目の手術前で心境的に 会っておきたい人間と会いたいと思ったのかもしれない。
18日 採血・リハビリ
リハビリでは もう 走れるように筋力が戻りつつあった。
リハビリテーション実施計画書では、セルフケア 食事、整容、清拭、更衣・上半身、下半身、
排泄管理、移乗、移動、コミニケーション、社会的認知
全ての18項目は 自立、問題なし の満点だった。
19日 採血・院長回診・MRI検査 午後7時40分に主治医の先生が自分の病室に来て 緊急手術が入りましたので加納さんの手術を
22日に延期してもらえませんか?との事でしたので 人命に関わる事 自分もそうして救われたのだからと 快く承諾する。
22日 手術日 朝 ちょと行ってくるよ みたいな感覚で 女房と話をし 手術室に向かう
よく 頑張って と声をかける人が多いけど 全身麻酔を打たれてからは 意識がないので 頑張りようがない(笑)
麻酔が効く前に 自分で自分に 言い聞かせるしかない 成功する 死なねえんだ と
MRI・CT検査・採血をし 手術室へ入る
午前10時から午後7時 9時間の手術を終え NCUに移動する。
目をさませたら そこは、見馴れた光景 NCU室だった。一度目の手術で2週間 身体抑制 を経験した場所・意識朦朧の中 幻覚・現実を行き来した
場所 でも2回目は 破裂ではなく 未破裂のクリッピング手術だったためか 意識もはっつきりし 体も楽だった。
ただ 異常に喉が渇き切り 看護婦さんを執拗に呼んだ
「水をちょうだい。」
看護婦 「あと3時間しないと水分はとれません。
一度、二度は我慢したが 1時間後 喉に水を湿らせてもらった。
女房が自分の様子を見に来た。
自分は 開口一番 「喉が渇いてる 腹減った 飯はまだ喰えないのか?」
と言う
「明日には、個室に移動できるんだって。」
自分「早いな 前は2週間なのに、、、」 といいながらも 自分の中で 安堵感を感じた。
次の日 個室に移る 1度目と違い 体が楽だった。体力を取り戻しておいて良かったのかもしれない。
手術時間はかかったが 目が覚めたら 終わっていた という感覚だった。
破裂の時の手術中は 臨死体験を含み色々な 光景を見た それは、今でもはっきりと 覚えている
23日 CT・MRI 検査 異常無し
29日 脳血管撮影 異常無し
6月4日 担当 主治医から 退院後の自動車運転免許証 臨時適正検査 の説明
手術中 2度危なかった原因は 脳死になりかけたのと、肝臓が機能しなくなっつたとの事
26歳の時に C型肝炎と診断されたが 当時のインターフェロン治療は行わず 漢方薬や注射治療などをしたり しなかったりの状況で
48歳まで過ごしていた、その理由は ウィルスの量は多いが肝臓自体が綺麗でありインターフェロン治療は様子を見た方が良いと当時
判断されたからである。
主治医に C型肝炎も治療を受けた方が良いと言われ F市立中央病院 内科 宛てに紹介状を書いてもらう。
又 通院による 投薬、CT・MRI検査「定期的」 半年毎に 記憶の検査 の説明を受ける
6月5日 退院 帰宅し 自動車運転免許証 臨時適正検査 を受ける 担当警察官が自分の診断書を見てびっくりしている
「貴方は2回も脳疾患の手術を受けて 麻痺も無い 後遺症も無い 今までそんな人は、いなかった。本当に大丈夫ですか?」
とのやりとり の後 無事に臨時適性検査を終える
退院してからは、輸血のせいもあってか、いつもの自分と違っていた 目につく細かな事が気になり家族に当たり散らし、特に足元は非常に気にするように
なり、食生活も 入院前は辛いものが 好きだったのに 甘いものを好んで食べるようになった。 目につく甘いものは買っては食べていた。
細かな性格の甘いもの好きな女性の血が入ったのか と思うほどだった。
F市立中央病院 内科 に受診
各エコー検査・血液検査を受け 膵臓にもうっすらと影があると再検査をしたが、問題はなかった。
C型肝炎は 1ヵ月後 C型肝炎の特効薬「ハーボニー(Harvoni)」が米国で承認され 日本でも承認されたので、その投薬をしてみては と担当先生に話を受け承諾する 1日1錠で9割以上の人が完治するという優れた薬だ。
C型肝炎 新薬 治療
C型肝炎 新薬 治療
クモ膜下出血 破裂 闘病記