透明な音
重い雨がバスの窓にあたり、水滴は止まったかと思うと素早く地面に弾んだ。バスのドアが開くと長谷裕之が余程雨に触れるのが嫌だったのか、急いだ様子で入ってきた。濡れた真新しいスーツを十分な柔らかさをもったタオルで拭き取り、一番近い場所に位置する一人用の座席に腰を降ろした。長谷はこれから世界有数のコンピュータ大手会社の面接を受ける為、二時間もの時間をかけて東京都までやってきた。外の湿気をしっかりと浴びている風景を見ていると気分が重くなる。雨の音は一層激しくなるだけで収まる気がしない。長谷は小さくため息をつき、面接でなにを言われてもいいようにイメージを固めていた。しかしこの調子では昼間までもちそうにもなく、内ポケットからスマートフォンを取り出し、気休めに知り合いや友人が集まっているコミュニティサイトを開いた。内容は予想していた通り、会社の事や愚痴、そしてこの厄介な天気についてだった。暫く書き込みを見ていると、A社を爆破するという書き込みがあった。A社とは、長谷が今向かっている会社の名前だ。少し血の気が引いた気がしたが、すぐに身体は正常に戻る。知人が多く集まるこのサイトで、誰が書き込みをしたかなんてすぐにわかる。興味本位でプロフィールを見てみると、自己紹介は一文、初期設定の「よろしくお願いします」だけで、名前ははっしーと平仮名で書いてある。橋本直木だと分かったのはそのすぐ後だ。例の書き込みの詳細を見てみると、「爆破は1時、木っ端微塵にしてやる」と書いてある。明らかな犯行予告だが、警察は動くのだろうか。まさか本気にはならないだろう。「一々くだらない冗談を書く奴だ」長谷は激しい雨の中信号を渡る人達をみながら、スマートフォンをしまった。
道ゆく人達を見ていると、いつも不思議に思う。彼らは無心に見えてしまうからだ。しかし、彼らには意識の概念が継続的に生じている。長谷自身だけでなく、運転手や、信号が赤になってしまい渡り損ねてしまった今の人だってそうだ。それぞれが多種多様の思考を練っている。もしかしたらこの雨にだって意識はあるのかもしれない。思考は僅かにクールダウンしていき、瞼が重くなってきた。あれほど激しいと感じた音は今や静音に変化しつつある。
橋本直木はなにか、馴染みのある声に呼ばれた気がした。外の雨の中から呼鈴の鳴る音が甲高く聞こえて、身体は微妙ながらも反応を示す。橋本の意識は明瞭になっていき、すぐにベットから降りると、昨日の重労働の疲労が完治していないのか立ち眩みのような感覚を一瞬感じた。「まだ朝七時じゃないか。」橋本は睡眠を妨害されたことに腹立だしさを感じながら、抑揚なくドアを開けると、棟方伸二が勢いよく飛びかかってきた。腕を突然掴まれたと思うと、足を掛けられ体勢を崩してしまい身体は動かない。「やめるんだ。おまえ、おかしいぞ」声が思わず裏返る。久々にあった友人からの訳がわからない行動に橋本は混乱した。とにかく身体の各部を思いっきり動かしてみるものの、棟方の力はより強力になるばかりで逆効果だった。橋本は次第に抵抗する意欲もなくなり、途方に暮れてしまった。「棟方、俺の家になにしにきたんだよ。格闘技をわざわざこんな朝っぱらに見せにきたのか」抑揚がないものの皮肉を込めて言った。すると棟方は、心配そうにこちらをみてくる。「なんだよ、なんか言えよ」反応がない棟方を僅かに恐怖を感じたものの、なにか言わないと更に恐怖を感じる気がした。棟方から汗と雨が混じったようなものがポツポツと落ちてきて、一刻も早く離れたかったが そうはさせてくれそうもない。暫くして棟方はゆっくりとした口調で言った。「いつだって俺はお前の味方のつもりだ。だからこそ、自首してくれ」非常に厳しい口調だった。しかし、橋本はなにを言われているのか理解できなかった。理解する為の材料があまりにも不足していた。棟方の肩の上下の動きと共に息を呑む音は真実味を感じさせ、それが一層橋本を混乱させた。思い切って後ろを振り向いて棟方の背景を凝視してみると、パトカー、白バイ、傘を指している警官数人が待機しているのが初めてわかる。その背景に生唾を呑み、確信はより現実性を増した。「なあ棟方、俺はなにをしたんだ?」心臓が掴まれているような感覚が続いた。棟方は不信そうに橋本をみる。「何を今更言っているんだ。残念だが、おまえのした犯行予告までには、ビルは爆破できない。A社の社員がパソコン内部の不信な音にすぐに気がつき、迅速な通報と対応のお陰で、爆弾はもうほとんど解除されている。さあ、今のうちに自首してくれ」棟方の腕の力が僅かに弱まる。「おれがした犯行予告ってなんの話だ。おまえが何を言っているのかわからない」困惑の螺旋が往生し続ける。「おまえはコンピュータ会社のA社を爆破する犯行予告をコミュニティサイトでしただろう。白々しいぞ」棟方の声に僅かな苛立ちが募った。「俺はやっていない」小さな声を漏らすが、棟方の耳には届かない。俺はやっていないんだ。そんな犯行予告、俺は知らない。思考が停止する。もうどうなろうと知った事ではない。暫くの間が長く感じる。このままこの状態を維持するのも大変だ。「分かった。自首する。少し時間をくれ。」棟方は腕を緩め、俺が無抵抗なことに気づくと、手を放して、好きにしろと言う。「ちょっと、部屋に戻りたい。」声は疲れきっていた。「すぐに同行して自首してもらうから、そのつもりでな。」棟方の口調はかつての友人だった頃の大人しいものとまるで違った、粘着質なものになっていた。俺は部屋に戻り、財布と通帳、スマートフォンを持ってベランダへと飛び出した。
透明な音