牛乳屋の小僧

公園のベンチに座って、あんパンを一人黙々と食べていた。


パン屋の前を通りかかったら、ちょうど焼きたてが並べられたところで
そのころんと丸くツヤツヤした姿に目を奪われて我慢できなくなり、
つい2つも買ってしまったのだった。


焼きたてのあんパンは袋を通しても温かく、覗き込むように鼻を近づけると香ばしい匂いが漂う。
どうしても今すぐに食べたくなって、向かいの公園へと足を踏み入れた。


時刻はちょうど3時を過ぎたところで、おやつにはちょうどよい。
おいしいものが目の前にあり、なおかつゆっくり味わえる環境が整っているのなら、
いつでもどこでもおやつにすればよいのだ。
などと一人で考えて納得し、ベンチに腰掛ける。


公園の真ん中は小さなグラウンドになっていて、小学生の男の子たちが大勢でサッカーをしている。
それを眺めながら、一口一口味わって食べた。


小ぶりのあんパンなので、一つ目はぺろっと平らげてしまう。
二つ目も躊躇なく手にとって食べ始めたのだが、少し喉が乾いてきた。


自動販売機は公園を出てすぐの酒屋の脇にあるのだが、そこまで行くのもなんだか面倒だ。
思案しながら口をもぐもぐ動かしていると、少し離れたところに立っていた小学校3、4年生くらいの男の子と目が合った。


男の子は黙ってこちらを見つめて立っていて、目が合うと真っ直ぐすたすたと歩いてきた。
そうして私の目の前まで来ると、ゆったりしたハーフパンツのポケットから小さな牛乳瓶を取り出し、
「牛乳いりませんか?」
と言って差し出した。


あまりに唐突なことで何と返事をしたらいいか分からず、私はしばらく黙ってその牛乳瓶を見つめていた。
それでも男の子は落ち着いた様子で
「喉が渇いてるんじゃないかと思ったから」
と、静かなトーンで言った。
それから、
「あ、僕は牛乳屋みたいなものです」
とも付け加えた。

「・・・牛乳屋さん?」と尋ねると
「みたいなものです」と、もう一度彼は言った。
「とにかく飲んでください。そうしてもらえると、とても助かるから」
そう言って男の子はさらに数歩前へ出て、私の目の前へ牛乳瓶を突き出した。


牛乳屋と男の子が名乗ったので、ご両親が牛乳の配達店でもしているのかと思った。
子供にまで商売させているのかと半ばあきれて、私は
「おいくらですか」
と尋ねながら、財布を取り出そうとした。
「あ、お金はいらないんです」
と、当然のように彼は言った。
「ただ、空き瓶を持って帰らなくちゃいけないから、飲み終わるまで一緒にいてもいいですか?」


「・・・タダなの?」
なんだか訳が分からなくて、私は怪訝な顔をして尋ねた。
「そう。タダなんです」と彼は言い、
「とにかく飲んでください。これからちゃんと説明しますから」
と付け足してから私の隣りに腰を下ろして、慣れた手つきでキャップを回してふたを開け、私に差し出した。


男の子が手渡した牛乳瓶は、ズボンのポケットに入っていたにしては割り合いよく冷えている。
まあとにかくちょうど喉が渇いていたからいいかと考えて、深く考えずにそのままぐびっと飲んだ。
あんパンの甘みを程よく緩和させるように、冷たくさらっとした牛乳が喉を通っていく。
「はあ」
と一息ついた。

それを見届けてから男の子は
「僕の家は両親が共働きで」
と、唐突に話し始めた。
「家にいない分、母が栄養管理にうるさいんです。
冷蔵庫にいつも牛乳が入っていて、学校から帰ったら必ずそれを飲まなくちゃいけないの」

「牛乳屋さんですものね」
納得して私は言った。

「ええと。牛乳屋みたいなものと言っただけで」
初めて彼は少し気まずそうにした。
「父は調剤薬局、母は保険会社で働いています」
「・・・ん?」
私は首をかしげて男の子の顔を覗き込んだ。
「牛乳屋さんじゃないの?」

「・・・みたいなものと言ったのは、僕のことで」
うつむいて牛乳のキャップをぐりぐりといじりながら、彼は言った。
「牛乳は、母が定期購入しているものです」


ぐび、とまた一口飲んでから、私は彼を見つめた。
「ええと。言ってる意味がよく分からないんだけど?」
「つまりですね」
意を決したように男の子は顔を上げた。
「僕は牛乳が嫌いなんだ」


「・・・うん?」きょとんとして、私はうなずいた。
「でも母と僕との約束で、僕は毎日おやつに牛乳を飲まなくちゃいけないの」
「うん」
「きちんと飲んだという証拠に、空き瓶を流しの隅に置いとかなくちゃいけないんだ」

「・・・ちょっと待って」
ようやく話の意図が見えてきたような気がする。
「じゃあ私は今、あなたが飲むべき牛乳を代わりに飲んでるってこと?」


男の子は口を結んだまま、ゆっくりとうなずいた。
はああ、と私はあきれてため息をつく。
「なんとまあ」

「でも、流しに捨てるよりはずっとましでしょう?」
切ない顔をして彼は訴えかけた。
「それだけはどうしてもできなかったんだ」
「・・・まあ、たしかに」
つられてつい納得してしまう。


おーい!とグラウンドで遊んでいた男の子たちの一人が、こちらへ向かって手を振った。
牛乳屋と名乗った男の子は軽く手を上げてそれに答えたが
立ち上がりはしなかったので、友達はすぐ遊びに戻っていってしまった。


「最初は友達に飲んでもらってたんだけど」
ボールを蹴り合う男の子たちを眺めながら、彼は言った。
「毎日のことだからすぐにみんな飽きちゃって。
それでだんだん大人の人にもお願いするようになったの」

「・・・みんな快く引き受けてくれた?」
ううん、と男の子は小さく首を振った。
「初めは断られたり、注意されたり、うまくいかなかった」
「そりゃそうでしょう」
「でもだんだん、相手を見分けられるようになってきて。
うるさく言わなさそうな人や、喉が渇いてそうな人が分かるようになったんだ」


うぐ、と言葉に詰まってしまった。
公園のベンチであんパンを頬張っていたら、そりゃあ誰が見ても喉が渇きそうだと思うであろう。
自分があまりにも男の子の求める条件に当てはまりすぎているのが恥ずかしくなった。


私が牛乳とあんパンを持ったまま黙り込んでしまったのを見て、男の子は少し口調を変え、
「まあとにかく、全部飲んじゃってください。食べ終わるまで待ってますから」
と、明るく言った。
たしかに牛乳はもう半分以上なくなっていた。今さら返したってしょうがないのだ。
しかたなく納得して、もぐもぐと続きを食べた。


サッカーに興じる男の子たちの数はいつの間にかだいぶ増えていて、目の前のグラウンドは一層にぎやかになっていた。
端の方の芝生の上では、若い母親がよちよち歩きの幼児を遊ばせている。
そして、グラウンドを囲むように置かれたいくつかのベンチでは
甲高い笑い声を上げる女子高生達や、散歩中に足を休ませているらしいお年寄りなんかが
思い思いの時間を過ごしているのが見える。


男の子はそういう周りの風景をしばらくぼんやりと眺めていたのだが、ふと
「でも本当は、ちゃんと分かってるんだ」
とつぶやいた。
「何が?」
あんパンの最後の一口を頬張りながら、私は尋ねる。

「こういうことは、いつまでも続けられないってこと」
真っ直ぐ私の顔を見て、彼は言った。


「ずるいことは、いつまでも続けられないんだ。
うまくごまかして生きていけそうな気がしても、本当はそうじゃなくて
例えばゴムを引っ張るみたいに、ずるいことはどんどん力を増していって
それが長引けば長引くほど、最後に自分に返ってくるものは大きくなっちゃうんだ」
本当に真剣な顔をして、そう言った。


「・・・よく分かってるのね」
感心して私は言った。
「尊敬する祖父が言っていました」
その言い方があまりにも厳かで、じゃあこんなことしてたらダメなんじゃないのとは思ったものの、
少なからず胸を打たれたことも確かだった。

牛乳一本飲んでもらうことを、こんなに罪だと感じる子もいるんだな。
この世には、もっとたちの悪いことを平気でする人もたくさんいるのに。
そう思った。


飲み終わった牛乳瓶を男の子はそのままでいいと言ったんだけれども、
やっぱりそれも気になるので、二人で水飲み場まで行って軽く洗ってハンカチで拭いてから彼に渡した。
「どうもありがとう」
礼儀正しく彼は言い
「こちらこそ、ごちそう様」
と、私も素直に感謝した。


「そうだ」
ふと思い出した。
「私は子供の頃、ピーマンが苦手だったの」
「うん?」
「特にあの、肉詰めってやつね。ピーマンを半分に切って、ひき肉を詰めたやつ」
「ああ。僕あれは好きなんだ」
「あらそう? 私はダメだったのよ、あれ」
「うん」
「でも食べないと怒られるから、どうしたら食べられるようになるかしらと思って」
「うん」
「今日の晩ご飯はピーマンの肉詰めだっていう時、夕飯の時間ぎりぎりまで外で思いっきり遊んだの。
お腹をぺこぺこにさせておこうって考えたのね」


「ふんふん」
男の子は、この話にだいぶ興味を持ち始めたようだった。
「それで、もうお腹が減ってしょうがない!って状態で食卓について、思いきって一口目に食べてみたのよ、ピーマンを」
「そうしたら?」
「自分でもびっくりするほどすんなり食べられたの」
私は笑って言った。
「それでね、好き嫌いってただの贅沢なんだってことがよく分かったの。
 本当にお腹が空いていて目の前にそれしかなければ、大抵の物は食べられるのかもしれないなぁって」


「・・・うん」
少し考え込むような顔をして、男の子は小さくうなずいた。
「だから・・・」と、私も考えながら言う。
「たくさん遊んでうんと喉が渇いた時に、試しに牛乳を飲んでみるっていうのはどうかしら?
意外とおいしいって感じるかもしれないわよ」

「・・・そうか」
ゆっくりと彼は言い、それから私を見上げてもう一度、
「そうか」
と、今度ははっきりと言った。
「ありがとう。やってみるよ」


グラウンドからまた「おーい!」と呼ぶ声がしたので二人して目をやると、
さっき声をかけてきた友達が再びこちらへ向かって手を振っている。

「ほら、もう用は済んだんだから、さっさと遊んでいらっしゃい」
私はかばんを肩にかけながら、男の子をうながした。
「じゃあね」
「じゃあ」と男の子も言い、それから少し改まった様子で
「どうもありがとう。こんなにちゃんと話を聞いてくれたのは、お姉さんが初めてです」
そう言って、くるっと向きを変えて走っていった。


「・・・ううむ」
ちょっと照れながら、私は彼の背中を見送っていた。
大人の喜ばせ方をよく知っているなぁ。
女の子にもモテそうだな。
などと考えながら。


サッカーの少年たちの輪の中に加わった男の子が、もう一度こちらに向かって手を振ったので
私もそれに答えてから公園を後にした。
ふと、明後日までに終わらせなければいけない仕事がまだ残っているのを思い出した。
そういえば、少し気分転換にと思って散歩に出たのであった。


「さて」
あんパンと牛乳で満たされたお腹を軽くさすりながら、私はつぶやく。
「大人も負けずに頑張りますか」
そう言って、公園の前の緩やかな坂道を下りながら家路についた。

牛乳屋の小僧

牛乳屋の小僧

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-06-05

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