陳暦(ちんごよみ) 第2章 日本初空襲、小牧飛行場、名古屋城が焼けた、萩山公園にB29が堕ちた

名古屋日本初空襲 (1)

アメリカの日本本土初空襲は名古屋市内で昭和17(1942)年4月18日(土曜日)午後12時30分頃
だと記憶している。
が「ドウリットル」計画によるとB25から16機がホーネットを発進日本に向かったとある。
私は名古屋第一工の2年生になったばかりでした、授業が午前で終わり帰宅途中だった。
堀田行きの市電に乗るため鶴舞公園前停留所に立っていた、異様な飛行機の飛ぶ音でまぶしい空を見た、
双胴機が一機ゆうゆうと北から南へ飛んでいた、多くの市民に何の変化もなく通行人でも空を見るわけで
もない日常だった。
「日本にもロッキードP38に似た飛行機が出来たのだ」、と思った瞬間、鶴舞公園の公会堂あたりから
「カーン、カーン、カーン」と音がする、初めて高射砲の発射音を聞いた、同時に「空襲警報」のサイレン
が鳴る、あたりにズボ、ズボと飛行機の下で爆裂音、「やはりあれはP38だと思った、足元へカラカラと
高射砲弾の破片が足元へ落ちてくる、もつとも危険な場所である。
拾って帰ろうと思い拾ってみたが火傷しそうに熱くやめた、トゲトゲで虹色に輝き周囲は破片が無数だっ
た。P38は南方へ飛んで行った。空襲警報下だとゆうのに電車内では空襲の話題はなく、雁道で私は降り
た、西方向で黒煙がもうもうとあがっている、駐在所のおまわりさんの腰のサーベルがガチャガチャと
忙しそうに高蔵砲兵工廠のほうへ走って行った。工廠へP38の落として行った爆弾は一発だった、がP38
は中国へ帰る途中日本の占領下の飛行場に降りて殺されたが戦後戦犯裁判にかけられた事を戦後知った。

小牧飛行場(1)

とてつもない広さ、とてつもない荒地だった小牧はここえ飛行場を作ると聞かされてどうやって飛行場がで
きるのだろうと驚いた。
老松から1・2年生が4列隊列で徒歩で行く、私はラッパ手で、6人で最前列で意気揚々と行進ラッパを3人
交代で進軍する、当時行き交うものは人か馬位で千種を通って小牧までどの位の時間、多分2時間位の所要時
間だろう、何度か行進を休みながら行く、先頭の私たちは後の生徒より多く休みが取れた、とゆうのは私達先
頭が止まると最後尾が止まって休むまでの時間が余分の休み時間になった。
一番前は副校長だった記憶がある。
小牧につくのは10時前位であの駄駄っ広い小牧につくと子高い山はツルハシで、その土はスコップ班で慣ら
す、此処え飛行場が出来るとはとても思えない、しかも我々がその飛行場を作っているのだと思っただけで何
かワクワクするものがあった、昼は「飯」がドンブリ一杯の麦入り飯でおかずは少々の「福神漬け」で汁も一
緒に飯へ駆け水で薄めてしゃきしゃき急いで食う、そして4時、集合ラッパの合図で集まり行進で帰る。
一週間毎日全校生で勤労奉仕だった。
週末ころ或る噂がたった。
「飯場の朝鮮人がサンバを食った」
と、ゆうものだった。
しかしこの噂は戦後「ニワトリを三羽食った」
とゆう聞き違えでおきたとんでもない噂話だったことが新聞にでたとゆう話も聞いた。

名古屋城が焼けた(1)

何回目かの夜間空襲で私の目から(岩倉)見ると東南方面で火の手が爆音とともに上がった。
「あれは名古屋城だ」
と誰かがゆう、そうだ名古屋城だのあいずちがでる、「何でだ」と悲嘆ともゆう叫びこえまで湧き上がった。
「名古屋城は不滅で焼夷弾では焼けない」
と、誰もの名古屋市民が信じていた、灯色の中にくっきりと名古屋城のシャチ2頭とともにシルエットが浮
かぶ、誰もがもう悲鳴だった。
「名古屋城が焼けた」夜が明けるまで名古屋城炎上は続いた。
夜勤だった私は岩倉から枇杷島までの電車に朝早くに乗った、その先雁道までは市電が不通だから歩かなけ
れば行けない。
枇杷島橋―日置方面―中門前町から運河沿いに南へ向かう、11時頃だった、---兆で匂いの臭さに癖癖だ
った、川のなかに馬の死体が強ばって浮いている、男、女、大人、子供の死体も浮いていた「何とゆう光景か」
真っ黒な川水とともに100m位その光景は続いていた。
当然だが見えるはずの名古屋城もない周囲すべてが焼け野原だった。
これで名古屋市内中心地はすべて焼きついていた、泥江町から始まって今見る光景は想像もつかない光景だ。
船原の我が家に辿りついたのは午後2時頃だった。
まだ多くの住宅が残っていた雁道、船原、御剣町の家々があっちこちで焼け野原になった、我が家でも又とんで
もない事件が起こっていた。
それは次回で。

萩山公園に米機が墜ちた。

どこを飛び立ったのか、B29が名古屋上空へ2機飛来、(被害不明)したがそのうちの1機が高射砲で被弾し
たのか日本機による体当たりで墜落したのかは判らないが、「萩山公園」へ墜落した。
とゆう口伝えで近所の子供たちと急いで萩山え行った、「大きい、臭い」が第一声だった。
でかい、小山のようなB29の胴体しかない現場は50m四方に綱がはられていた。
異様な油臭いにおいを漂わしていた。
もっと異様だったのはB29の胴体に女の絵が描かれていたことと7人の米兵が機首あたりに「死体」が並んで
いたことである。
裸もある、シャツ姿もある、血で染まっているが3人目に女の死体があった、長い髪の毛と着衣で女と分かった、
「何で女性が乗っていたのか」
疑問が湧いた。
このことがみんなの間でも話題だったがアメリカだからだろうと何となく結論づけた。
終戦となって戦犯の話題が新聞を賑わうのだがB29の乗員が落下傘で降りてくるのを下から竹やりでつっいて
全員を殺した罪で6人の兵隊がB級戦犯で裁判にかけられた、全員有罪で死刑判決だった記憶がある。
戦争とは殺すか、殺されるかの人と人、国と国の争いで場合によっては全く無駄な争いだと考えられる。
その当時の記憶を持つ人達も少なくなっている、「震災」を忘れない、忘れるなとゆうが「震災」は天災だが戦争
は人災なのです、天災は避けられないが、人災は避けることもできるのです。
原子爆弾を使用するなど論外と思うが製造する国が世界で数か国ある、誰の為、なんの為にであって一発使用で世界
のいくつの国が失はれることか、自国護国の意味で製造するなら、「核を持たず、持ち込ませず」の日本が正しいは
ずだが、2度目を撃ち込まれないとゆう保障はない。
製造予算で社会保障費に回せば国民ももっと潤うことだ、正義論が必ずしも正義でないことにきずくと、同時にその
恐ろしさが亡国を意味しているのです。
原子爆弾を使用された国日本以外どこの国の国民が真剣に考えているのだろう。
あの悲惨を経験した日本以外どこの国の国民が核を持たず、持ち込ませずを考えているのだろう。

陳暦(ちんごよみ) 第2章 日本初空襲、小牧飛行場、名古屋城が焼けた、萩山公園にB29が堕ちた

まだまだ続きます、次回を。

陳暦(ちんごよみ) 第2章 日本初空襲、小牧飛行場、名古屋城が焼けた、萩山公園にB29が堕ちた

戦中のみんなの知らないあれこれをつづっています。

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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-03-20

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