ナッシュ均衡で恋しよう

大学デビューを夢見て上京した俺、啓介
しかし、通い始めたのはブサメンが凌ぎを削る理工キャンパスだった。
当初の意気込みも消えつつある最中、一般教養で履修した経済学のクラスで『ゲーム理論』に出会う。
そこで、高校時代に観た映画の間違いに気づき、自らの人生を軌道修正する術を見つける。

経済学と恋愛を強引に引き合わせた異色作。

ブサメンからの脱出Ⅰ 憧れのキャンパス

スクリーンの中では学生達が話し合っていた。バーのドア越しにいる女子学生達に視線を送りながら。女子学生の中には誰もが見惚れんばかりの美貌の持ち主がいた。
学生達の目当てはその美貌の持ち主であることは明白であった。しかし彼らは、全員がその彼女を取りあったらきっと全滅することを知っていた。だからお互いが二番手、三番手を誘おうと約していた。自分達が満遍なく女子学生に行き渡れば、彼女達もきっと満足する。これでこの当事者である学生達の満足度も、高い水準で安定することになる。。。
高校時代に見た映画、ビューティフルマインドの一場面、ゲーム理論の基礎をなすナッシュ均衡を提唱したジョン・ナッシュの半生を描いた作品だ。
このシーンを見て、僕はぼんやりとナッシュ均衡を理解したつもりでいた。
数年後、とんでもない勘違いに気づくまでは。
そう、昔の僕はどうしようもないボンクラだったんだ。
間違いに気づかなければ、一生つまらない生活を送っていただろう。

二年前、ボンクラな僕は少しでも名のある学校で大学デビューを果たすべく、なんとか1.5流私大に合格した。
ところが、通い始めたのは華やかなキャンパスとは程遠い、東京郊外の理工専用キャンパスだった。遊んでるのは、下からエスカレーターで来た別キャンパスの国際学部や経営学部の連中ばかり。数学が得意だからと入学した理学部数学科には、予備校生以下のブサメンばかりが凌ぎを削っていた。
尤も、僕は筆頭でその凌ぎ削っていたわけだが。
ここでは、同じように大学デビューを夢見ていた耕司、淳と言う仲間ができた。何故か下の名で呼ぶと青春感が滲み出るのだが、二人とも入学式のスーツ姿はナイツの塙みたいなジャガイモ野郎だ。
ただお互いピンと来たのは、馬鈴薯系の中にあって、俺らだけが美容室で髪を切っていたことだ。大学デビューも期待していない奴らは、いわゆる千円カットに通い、ありえない刈上げを露呈していたが、この三人だけはより韓流的な襟足を保っていた。それがそこはかとなく気持ち悪いことにもお互い気づいていた。
とにかく、俺ら三人はお互いの気持ち悪さを尊重しつつ、同じ授業を選択し、同じ学食を摂り、同じ雑誌で見た店に足を運んでいた。

入学後、理学部生も常に迫害されているわけではなく、1、2年次の単位は文系の素敵な奴らとともに一般教養科目を受講することができた。チャンスは平等なのである。ただそのチャンスに気づかないバカは、郊外の理学キャンパスで穴蔵に籠ることになる。
立派な研究者になれるならば、何年穴蔵にいることも厭うべきではない。しかし、残念ながらうちの大学からそんな研究者が出る確率は極めて低い。これはデータが示している。少なからず数学を学んだ経験があるならば、こうした自分に都合の悪いことにも目を配るべきなのだ。
そして、もし光が見たいのなら、理工キャンパスから離れて文系キャンパスに足を運ぶ選択肢が用意されているということだ。距離的にはさほど離れていないが、ここは理工キャンパスとは天と地の差だった。昔からゲットーのすぐ側には特権階級が住む街があるのと同じだろう。特権階級からは我が理学部は視界に入っていないのも良く似ている。

僕が選択したのは、経営学、英米文学、心理学、情報処理概論
何一つ統一性はないが、当時は苦労せずに単位を取ることがスマートなキャンパスライフだと思い込んでいた節があり、他の二人と共に愚劣なチョイスを展開したのを覚えている。
その中に、経済学原論も含まれていた。これが後に僕の目を覚ますことになるのだが、当時のボンクラにはそんな考えは到底及びようもなかった。

経済学原論の講師は柿田先生だ。
柿田先生は経済学部の准教授で、40歳くらい、たまにテレビにも出演するちょっとした有名人。学内ではカッキーで通っていた。タレント教授による楽勝単位っていう憶測と、有名人見たさでこの授業をチョイスしたわけだ。

授業初日、さすがに人気の授業だけあって、広大な文系キャンパスでも一、二を争うメガ教室に俺らは足を運んだ。定刻、颯爽と登壇するカッキー。タレント教授らしく、ウェストを搾ったスカイブルーのダブルジャケットはおそらくボリオリ、誂えであろう襟高のブロードシャツ、クリースの入ったオフホワイトのパンツはpt05らしい。大学デビュー前にあらかたファッション誌を読み漁った俺の知識が冴え渡る。
予想通り、授業や学生よりもメディアへの露出を意識してそうなお手軽ミドルの登場に楽勝単位を期待する俺らの期待値はマックスハート。90分の授業も50分位で終わるだろう。国際学部のイケメンも理学部の僕らブサメンも等しく期待を拭えずに今はた。

ざわざわと私語が絶えない中、フンフンと学生の人数を数えるカッキー。一頻り満席の教室を見渡すと、徐にこう言い放った。
カッキー「効用って知ってる?」
一同 『。。。』
カッキー「誰か答えられるかな?」
一同『、、、』

静まりかえる館内。カッキーはゆっくりと言葉を続けた。
「イイなあ。実にイイ。」
「僕はね、こう言う顔が見たくてこの授業引き受けてんのよ。」
そう言うカッキーの口角は意味ありげに上がっていた。

「みんな、経済学っていうのは世の中の金の流れを研究する学問だと思ってないか?」
カッキーが落ち着いた声で言い放った。
まあ、そりゃそうだ。厳格な定義はさておき、経済学の意義なんてそんなもんだろう。
イケてる奴もブサメンな僕らも、所詮1.5流にやっとこさ入学した程度の輩、初めて出席する大講義でアカデミックな禅問答を仕掛けられたところで、何一つ答えられる訳がなかった。

カッキーは嬉しそうに言葉を繋げた。
「でも、実際は違うのよ。で、何を研究するかわかる人いる?」
「あれ?わかる人いないの? 誰か指しちゃおうか?」

すると、教室中盤に陣取っていたイケメングループを自称してそうな奴らの一人が手を挙げた。
エアリーな七:三にタイトなアメリカンイーグルのチェックシャツを合わせた浅黒いボンボン。いるんだよね、こう言う皆んなが萎縮する場面で率先して先陣を切って、自分のリーダーシップを誇示する輩。
「マネーの流れです。」

暫し沈黙。
おいおい、こいつはやっちまった系だろ?さっきカッキーが『金の流れじゃない』って言ったばっかだろ。これ、日本の英語教育の責任かもしれないけど、金を”マネー”とか”キャッシュ”って言い換えることで言葉の意味を2、3割上乗せ出来たように感じてる奴が多過ぎやしないか?
まあ、仮にそんな効果があったにせよ、今のボンボン発言は頭三つ位飛び出したレベルの失言ではあるが。
って、ここに居る全員の意思統一が図れた中で、あのボンボングループだけが自分達の置かれた立場を分かってないようだ。発言者のボンボンは頬を紅潮させて、おれやり遂げたよみたいな顔してるし、周りのボンボンは今にもハイタッチしそうな勢いだ。

流石にカッキーもこの発言には度肝を抜かれた様子で
「うーん、ちょっと違うかなあ」
と寂しそうに言い放つのが精一杯だった。
思うに『ちょっと』じゃないんだよね。きっと。カッキー自身が金の流れじゃないって言い切った数秒後に全く同じ内容を英単語使って言い直したんだから。

ただ、その発言がきっかけになったのか、その後、ポツポツと手を挙げる生徒が出てきた。
一番前に陣取っていた真面目君「所得の動きを研究するんじゃないですか。」
教室の端に座っていたスポーツ推薦と思しきゴリラ君「企業と家計とか」
お、これは何か経済学っぽい言葉だぞ。ゴリラのくせに人間の研究に興味があるらしい。

徐々に活発になっていく発言を聞きながら、カッキーの目は輝きを増していた。
俺はそんなやりとりの中で何か心に引っかかるものを感じていた。

授業冒頭にカッキーが言った『効用』って何だろう?
経済学の意義と関係があるんじゃないか?

普段、緊張感漂う教室で発言する気なんて更々起きはしない自分が、何故か効用についてだけは今聞かなきゃいけない、そんな感覚に飲み込まれていた。
そして僕は手を挙げることもなく
「先生、効用を研究するんじゃないですか?」
カッキーに聞こえるように呟いた。

それを聞いたカッキーは、やっとこさお気に入りのおもちゃを見つけた子供のように笑い、静かに頷いた。
「そう、その通り。まあ、効用自体を研究するんじゃなくて、効用を高めるメカニズムを研究するんだけどね。」
カッキーは僕を見つけると、そのまま視線を教室全体に渡らせながら話し始めた。
「効用っていうのは、人間の満足度そのものなんだ。それはお金に限らず、地位でも名誉でも、健康でも何でも良い。対象者が望むものを指すんだよ。時には囚人を対象者に見立てて、刑期の軽さを効用と見做す場合すらある。」
いつの間にか広い教室は静まりかえっていた。

「何でこんなことを話すかというと、経済学を矮小化して欲しくないからなんだ。経済学ってその名前からして、金を稼ぐ道具みたいに勘違いされがちだからなんだ。実際にノーベル賞では、賞の創立者であるノーベルの意図していた学問とは違うってことで、経済学賞を失くそうとする動きすらある。
でもね。経済学ってそんなショボいもんじゃないんだよ。実際は対象がなんであれ、人間の満足度そのものを上げるメカニズムを研究する分野なんだ。しかも、その過程では対象者同士の駆け引きや行動心理についても研究する。研究対象は人間そのものというわけだよ。まだ歩み始めていない君達には、まず経済学に対する誤った見方をせずにいて欲しいんだ。」

教室内のオーディエンスは意図せず聞いたカッキーの力説に熱を帯びていた。
しかし僕は、講義に感心するよりも、経済学が何か僕の人生を変えてくれそうな漠然とした期待に駆られていた。

ブサメンからの脱出Ⅱ 利得と損失

人は利得の最大化より損失の最小化を選好する
-プロスペクト理論-

カッキーは唐突に話し始めた。
「例えば、ただで1000円貰える場合の満足度と1000円失くしてしまった場合の不満足度を想像して欲しい。それぞれの満足度不満足度を絶対値で考えると、1000円失くした時の不満足度のほうが圧倒的に大きいだろう?
人間は今無いものを手に入れる満足度より、持っているものを失くす不満足度に拘る生き物なんだ。すなわち、利得の最大化より損失を最小化しようとするんだね。
経済学ではこうした満足度に関わる仮説についても検証する分野があるんだ。」

この話しが効用の件と関係があるのか。当時の僕はもちろん、教室の学生達もなんとなくしか分かってなかったと思う。ただ、明らかにカッキー説に引き込まれていったのは確かだった。

カッキーは、視線を下に傾けながら、「もう少し具体的な話しをしようか」と呟き、壇上を降りて学生の目の前に歩みよった。
「では、これが恋愛でどのように役立つか。ある女の子に二人の男がアタックする状況を想定しよう。
一人をA男、もう一方をB男とする。
まず、A男もB男も彼女に自分の良いところをアピールするだろうね。仮にそれぞれのアピールが彼女にとって同程度に魅力的だった場合、彼女を手に入れるにはどのように行動すべきか?
君達ならどうする?
更に熱烈にアタックする?暫く間を置く?或いは諦める?

正解は、諦めた振りをする、だ。それも、一度は彼女の言いなりになった振りをした後に。
そうすれば、彼女は一度手に入れたものを急に失くしたかのような錯覚を憶え、慌ててそれを取り戻そうとする。君はめでたく彼女をゲットだ。
一度手に入れたものを手放すのは人間には耐え難いことなんだ。
恋愛では押すよりも引くことが重要だっていうのは、学術的にも証明されているということだよ。
ただこの話しには、君がライバルと同程度以上のアピールポイントを持っている必要があるんだけどね。

ナッシュ均衡で恋しよう

ナッシュ均衡で恋しよう

大学デビューを夢見て上京した俺、啓介 しかし、通い始めたのはブサメンが凌ぎを削る理工キャンパスだった。 当初の意気込みも消えつつある最中、一般教養で履修した経済学のクラスで『ゲーム理論』に出会う。 そこで、高校時代に観た映画の間違いに気づき、自らの人生を軌道修正する術を見つける。 経済学と恋愛を強引に引き合わせた異色作。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-06-04

Copyrighted
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  1. ブサメンからの脱出Ⅰ 憧れのキャンパス
  2. ブサメンからの脱出Ⅱ 利得と損失