貴女の十分間を、僕に下さい
嫉妬 十分間 笑顔
靴を揃えて、フェンスを越える。少し足はすくむけれど、風がとても気持ちいい。
わたしは目を閉じて、一歩を踏みだ……そうとした時。
「ちょ、ちょっとまって!!!!!」
背後で声がした。わたしはその声に思わず振り返ってしまった。
そこにいたのは小柄な青年・・・といっても、歳は自分よりも少し下のようだった。
といってもスーツを着ているため、社会人だということはわかる。
「なんですか」
「え?え、えと君、…いま飛び降りようとしてたよね…?」
「はい」
「は、え…?えと、そうゆうのやめない…?」
「どうして」
「や、やっぱいけないというか…」
私は男に気にせず、もう一度外を向いた。23階なだけに、風がとても気持ちいい。
大きく深呼吸をすれば、本当に鳥になったような気さえした。
だが、背後から話しかけてくる声の主が、素直にそれを許してはくれない。
「やべでぐだざい!」
「...」
わたしが振り向いても、この男わたしをフェンスの内側に引きずり降ろしたりはしない。
不思議に思ってみていると、どうやらあまりのことで腰が抜けているようだった。
「だいじょうぶ?」
「どうか死なないで!」
「ねぇ聞いてる?」
「死なないでぐだざいぁああ」
「・・・・・・・」
私はとりあえずフェンスから降り、屋上の真ん中あたりまで引き返した。
男はこちらに近づく様子もなく、抜けた腰でまだ何か言っている。迷惑な奴。
少しすると落ち着いたのか私から離れて正座をした。
自然とお互い正座で向かい合う構図になる。
わたしは依然、裸足だ。
「飛び降りはいけないです。もしも下に人がいたら危険です」
「たまたま運が悪かった、てことでしょう?」
「そんなのあんまりじゃないですか!」
そもそもこの時間道路の人通りは少ないし、このまま裏路地の方にうまくいけば問題ない。そのくらいわたしでも考えている。失礼な。
だいたい、世の中は不公平にできているのだ。たまたまここでその人がわたしの下敷きになって死んだって、所詮それがその人の運命だったのだ。
「でもよかったです。思い止まってくれて....」
「そんなこと、一言も言っていないけど。」
「え」
「君が居なくなったらすぐ、」
わたしはそう言って立ち上がる。裸足のまま、再びフェンスに近づいた。
すると男はこちらに、いままで聞いたことのない声で叫んだ。
「じ....じゃあ、あなたの10分間を僕にください!!」
「.....は?」
「10分間で、思いとどまらせてみせますから!!!」
「......。」
叫び終わった屋上があまりにも静かで、ここが東京のど真ん中であることを忘れる。
時が止まったかのような時間が、側を飛んでいたハトの鳴き声によって再び動き始めた。
顔を真っ赤にして叫んだ男がこちらを見て、―――笑った。
そのはにかんだ照れ隠しのような笑顔が、なんだかひっかかった。そもそも、私は彼が誰だかもしらない。
けど彼の笑顔から目が離せなくなって、私はその小さな戦いに受けて立つことにした。
「あのさ、」
「なんですか?」
「なんでここにきたの」
「煙草…吸いに来たんです」
そう言って彼はタバコの箱を胸ポケットから出してみせた。それは吸わずにまたポケットに戻す。
「吸えば?」
「ニコチンは体に毒ですよ」
「喫煙者が言うか」
本当はわたしも吸うのだが、言わないでおいた。彼が一瞬取り出した銘柄は、かなり強いものだった。相当の愛煙家とみて、間違いはないだろう。
彼は本題に入ろう、とでも言いたげに座り直し、こう切り出した。
「コーヒーでも、飲みに行きませんか?靴はいて」
「嫌。そう言って警察にでも突き出すつもりでしょ?もう精神科は御免だわ」
「入ってたことあるんですか?」
「・・・・・。」
通院していたことはあるが、入院はしたことはない。彼の言った”入っていた”という表現が引っかかった。
「もしかしてあんた、精神科医かなにか?」
「はは、むしろ逆です」
そう答えると男はまたはにかんだ笑顔をみせると、右手の袖を捲った。彼はスーツを着ていたが、ストライプのワイシャツから見えたのは彼に似つかわしくない、深くえぐったような古傷と、根性焼の跡だった。
つまり彼は”入っていた”ことがあるのか。こんな屈託のない笑顔をする彼に、本当に似つかわしくない。
似つかわしくない?・・・彼のこと知りもしないのに。
「汚いものをお見せしてごめんなさい。本題に戻しましょう」
そういうと彼は袖のボタンを閉じて、立ち上がった。
「ほら、立ってください」
「なんでよ」
「この少しの動作をすることで、あとでケーキを食べたときに最悪感が減りますから」
「女子みたい…」
仕方なく私も立ちあがると、彼と私は身長が同じくらいだった。
わたしも小さい方ではないが、思いのほか小柄な彼にびっくりする。
するとまた笑顔で、彼は言った。
「もしも今、青い猫型ロボットがどこにでも行くことができるドアを貸してくれたら、」
「あえて伏せる意味が分からない」
「どこに行きたいですか?世界中、どこにでも行けるんですよ」
「貸してくれるだけだったら、戻ってこれなくなったら怖いから行かない」
「戻ってこれるとして!海外でも空想の場所でもいいんですよ」
わたしは少し考えて、言った。
夏の香り、オレンジのアイスをコンビニで買って、みんなで分けた。――あの場所は・・・
「・・・・横浜。」
「ずいぶん近場ですね」
「実家があるの。もうだれも住んでないけれど」
両親はもう居ない。家さえも、今はどうなっているのかはわからない。絶縁した兄弟が管理しているはずだ。
「どうしてそこに行きたいんですか?」
「わかんない。あの海辺でずっと前、アイス食べてた」
土地開発が進んで、今はもうどうなっているかわからない。
すると彼はおもむろにフェンスの方にいくと、私の靴を持って走ってくる。
「行きましょう。」
「いや、なんでよ」
「僕がドラえもんになります!」
「言っちゃったよ」
「靴、履かせましょうか?」
「自分ではけます」
わたしがパンプスを履いたのを確認すると、彼は私の腕をとった。
思ったよりも彼の手が冷たくて、驚く。確かに今日は、五月の割には寒い。
「さぁ!行きましょう!」
「な、なんでそうなるのよ!だいたい、会社休んでなんか行けないわ!」
「じゃあ、死んだことにして!」
「えええ!?」
その日、私ははじめて会社を早退した。
‐‐‐‐‐
「急行の方がよかったんですかね?僕、横浜1,2回しかきたことなくて」
―――電車。みなとみらい線。
何でこんなことになっているのだろう。わたし達はみなとみらい線に乗っている。
いったいどうしてこんなことに。もしかして、新手のナンパか?そうか。これきっとナンパだ!
「ナンパだったのね!」
「はい?」
「最初からこういう魂胆だったのね!汚いわ!ナンパならお断りしますから!」
「なんでそうなったんですか!?」
騒いだせいで、電車に数人しか乗っていなかった乗客がこちらを向く。
そのせいでいたたまれなくなって、私は下を向いた。男は、やっぱりはにかんだ笑いをしていた。
「そう、ですね。でも確かに汚い、です」
「あ、そうじゃないの。えっと、そういう意味で言ったんじゃなくて」
さっきの傷跡がふとよぎる。彼は相当なコンプレックスを抱いているようだった。
きっとそのことに結びつけてしまったのかもしれない。
「あ。次ですね。降りましょう」
まったく気にしていないような声のトーンで彼が言う。日本大通り駅。わたし達はここで降りた。
「わ、黄色いバスだ!これで学校行ってたっけ」
「かわいいバスですね」
バスの中からすれ違う児童バスが見えた。
彼が手を振ると、中の児童が手を振り返してくる。
「ばいばーい!」
「はは、かわいー!ばいばーい」
わたしも一緒になって手を振る。
「笑顔、初めて見ました」
「…」
彼に言われて、自分が笑っていることに気が付いた。声を出して笑ったの、いつぶりだっただろう。
わたしもあのくらい小さかった頃は、よく笑ってた。
そしてお兄ちゃんに…
「どうしました?」
「ううん、…兄のこと、思い出しちゃって」
「お兄さんいらっしゃったんですね」
「でも絶縁したわ。いろいろあって」
「他に兄弟は?」
「いないわ」
もう一度窓の外を見ても、もうバスは居なかった。
「・・・やっぱり、大分変っちゃってる」
「そうなんですね」
「ほら、ここにあった駄菓子屋も…」
わたしがアイスを食べた駄菓子屋も、今では高層マンションが建っていた。
「お家は見にいかないんですか?」
「・・・いい。」
なんだか見に行ってはいけないような気がした。自分はもう家族のことにかかわるべきではないと思った。
「じゃああそこのコンビニで、アイスでも買いましょう」
「…うん」
わたし達はオレンジのアイスを買って海岸に座る。
気が付くと夕日になっていた。
「わたしさ、」
オレンジのアイスも、昔よく食べた味とはすべてが変わっていた。
それに色も、もっと濃い色をしていた。
「父親はアル中で、母親は精神病んでて」
「…」
「でもそんな二人も、兄だけには甘かった。兄とは楽しそうに話すのに、わたしは家に帰ったら無視された。そのうち、兄まで無視するようになった。」
もう一口アイスを口に入れる。科学調味料や着色料の味がしたような、無機質な味だった。
「両親が死んでからいろいろあって。兄夫婦とは絶縁したの。戸籍も変えちゃった。」
涙なんて枯れてしまって、もう出てくることはない。わたしは自由なんだ。
「でも、両親が死ぬまでは頑張っていたのよ?どうにかして気に入ってもらえないかって。普通の家族みたいに、なれないかって。」
今わたしは自由になれた
「さっき、”入ってた”かって聞いたわよね。入っていたわ。少年院に。私は一回兄を殺そうとした。その時は単純に、兄がいなくなったらお父さんとお母さんはわたしを愛してくれると思ったから」
「お兄さんがいなくなったって、貴女が無罪であるわけがないじゃないですか」
「知ってるわ!でも邪魔だったのよ!きっと、みんなあの人が悪いんだって、思わないと辛かった!今だってそう!」
一緒に食べていた彼のアイスは溶けて、浜辺のコンクリートに滴っていた。きっと明日のは蟻の行列ができているだろう。
夕日はスピードを変えずに沈み続けていた。
「…ときどき私だけを罵る声が聞こえるの。わたしが存在しなければ、みんな幸せだった、って聞こえるの!!だから私は死にたい!」
「その声から逃れるために、自殺を」
「そうよ!でもあんたが止めた!あんたのせいでまた兄の幻覚に追われる!」
泣いて、叫んで、もう涙で前が見えない。空はどんどん暗くなっている。
彼の方を睨んで、言った。精一杯の憎しみを籠めて。
「やっと、…自由になれると思ったのに。」
「…嫉妬、ですか」
男は泣きわめいているわたしをただ見据え、静かに言った。諭すようでもなく、ただ事実を伝える時のように機械的に。
「お兄さんへの嫉妬ですね」
「…」
「お兄さんがうらやましくて、たまらなかったんでしょう?」
「ちが…」
「それはただの嫉妬です。誰しもが抱く感情。」
「…。」
男はしっかりと私の目を見つめた。
日本人にしては薄めの茶色い瞳がよく見える。
「あなたはおかしい人じゃありません。一緒にいればわかります。かわいそうな人。自殺に走るのも無理はない」
目をそらしたくても顔をつかまれて、それはかなわない。
「でもね、今、あなたは自由になれたじゃないですか。だからこうして、自分の行きたいところに来られた。」
「…」
無理やり連れてきたのは誰だ。
その言葉を絞り出そうとしたが、嗚咽が我慢できず話せなかった。
「僕も、中学のときいじめにいあっていた頃、もっと自由になれたらとずっと考えていました。解放は、卒業しかないと思っていたんです。どうしてもっと早く、自分の意志で自由に動かなかったのか。」
根性焼やナイフの跡を見る限り、相当肉体的にひどい目にあっていたのだろう。さっきの傷跡がよぎった。
太陽は沈み切ったが、海岸沿いの街灯が思ったよりも明るい。
「あなたはもう自由なんですよ。信じられないかもしれませんけど、あなたが思う以上に。仕事がつらかったら、やめてしまえばいい。思い出したくなかったら、考えなければいい。化粧もしたくなかったら、しなくていい。」
「だから、女子か…」
言い終わって、少しだけ笑った。
わたしが笑顔を見せると、男もいつもの笑顔を見せてくれた。私の希望の光。
「率直に言います。私はあなたに死んで欲しくない。でもあなたは今でもまだ、死にたいと思いますか?」
「…べつに。」
欲しかった一言が分かった。誰かに必要とされたかった。
両親じゃなくても、もしも口先だけでも、その言葉が欲しかった。
「あ。それと。あなたに、言わなければならないことがありました」
「な、に…?」
「10分を大幅に過ぎちゃいました。」
暗闇の中で、わたし達はまた笑った。
「煙草、一本くれない?セッターでもいいから」
「吸う方だったんですか?屋上で言ってくれればよかったのに。」
―――そして二年後、彼がわたしにこう言うのも、また別のお話である。
「・・・あなたの一生を、僕に下さい」
おわり
貴女の十分間を、僕に下さい