デッサン
彼は同じ画ばかり描き続けていた。石膏像のデッサン、それも同じ角度からのものを既に一五〇枚。もう半年も前から続いている。
「クリロ、どうだ? 今回は我ながらよく描けたと思うんだ」
彼は足元の黒猫に話しかけた。クリロと呼ばれた黒猫は、そんな彼の言葉に何の関心も示さずに欠伸をする。彼は苦笑すると、コーヒーを入れるために台所に立った。
その石膏像は出窓に置かれていた。窓から入る陽の光が、白い像に複雑な陰影を与えている。
「いくら描いても、終わりがないなあ」
彼は誰に言うともなくそうつぶやいた。
「朝と夕暮れじゃ見え方は違うし、晴れの日と雨の日でも違う。一瞬の差で全然違うものに見えるときもある。僕に、その違いを描き分けられる力があればいいのに」
火にかけたやかんから湯気が勢いよく吹き出し始めた。
彼はきちんと折ったペーパーフィルターをドリッパーにかけ、戸棚から缶を取り出すと粉を入れた。ドリッパーに細く湯を注ぐと、たっぷりの泡が立ち、豊かな香りが部屋に立ち込める。
一枚描き上げた後の、彼の習慣。
これもいつまで続けられるのかな、と彼はふと考えかけてやめる。
遠くからヘリのローター音が聞こえてくる。静かな午後だ。
画学校が閉鎖されてから八ヶ月が経った。始め、彼は途方に暮れるほかなかった。二ヶ月後、自分の部屋の半分に、立ち入ることができなくなった。出窓に置いたままだった石膏像のデッサンを始めたのはこの頃だ。
僕はきっと運がいいんだろう、と彼はコーヒーを口に運びながら思った。自分の部屋ですらままならないご時勢なのに、こうして自分の好きなことを出来ているのだから、と。
どこからか、風を切る飛翔音が聞こえた。迫撃砲だ。着弾。重い振動が腹に響く。
「クリロ、こっちにおいで!」
彼は黒猫を呼んだ。が、彼の友はそわそわした様子で窓際に移動した。
「そっちはダメだって! おいで!」
彼が友を呼び寄せようと一歩踏み出すと、途端に出窓の石膏像が粉々になって飛び散った。
「くそ!」
彼は怒りをあらわにした。半年間立ち入ることのなかった窓際に駆け寄り、叫ぶ。
「誰だ、僕の邪魔をするのは! こんなこと…」
彼は、そこから先を言うことができなかった。
がくりと膝を突き、そのまま床に崩れ落ちる。黒猫が彼を振り返る。
額を撃ち抜かれた彼は、既に物言わぬ骸となっていた。向かいの建物から狙撃されたのだ。
イーゼルに掛かっていた彼の最後のデッサンが、床に落ちる。
黒猫が細い声で一声鳴いた。
デッサン
クリロ、というのは坂口尚『石の花』の主人公の名。