催花雨
コミティアで販売した処女短編集「水惑」に収めた短編のひとつです。
濡れ濡れとした黒髪へ白い毛の一二本がまじるように、宵の口からの雨は淡くひかりながらしとしと降りつづいている。舗装された道路にはうすく水の膜が張って、街燈の緑がかったひかりをぼんやり映しだしていた。
ぽちゃりぽちゃりと木々の葉先からころがり落ちた雨つぶが跳ねる。小さな波紋をのこしてしずくは水溜まりと同化し、そこからかすかに酸いようなにおいが立ちのぼった。
道の両脇へ行儀よく並んだ家々はどこもぴしゃりと雨戸を閉じて、明かりを外へは洩らさない。あるいは皆すでに寝ついたのだろうか。日付の変わる少し前の時刻である。
水溜まりを避けながらゆっくり慎重に歩いたとしても、静かな通りでは矢鱈にうるさく靴音がひびく。停留所から背の高い男が傘を差して歩いてきたが、矢張りその跫は夜の大気にわんわんと反響するようだった。
革靴も着ているものもたっぷりと湿気を含んで重たそうである。男はかわいらしい花模様の小さな袋を胸に抱えて、それだけは大事そうに雨から守っていた。
明日、もうじきに今日となるその日は、男の妻の生まれた日なのである。男はふたつ上の妻に毎年いろいろなものを贈ることにしていた。残念ながらここ七年、妻から男へのお返しはない。
男の痩せて尖った鼻へあやうげに乗った黒ぶちの眼鏡は白く曇っている。これでは半歩先も見えないだろう。
時折まともに水溜りへ片足を突っ込んでしまうと、足の指のあいだまで水がぬるりと入りこんだ。気色悪そうに顔をゆがめながらもいよいよ強くなりはじめた雨の中を男は行く。
四つ角を左へ折れたとき、またしても足がじゃぶりと沈んだ。しまったと思ったとき男はすでに頭の先までとっぷりと水へ浸かってしまっていた。
あわてて浮かび上がろうとするも、彼の足は何かに掴まれて下へ下へと引きこまれていく。開いたままの傘だけが手から離れてふらふら黒い水母のように上がっていった。
水は深くあおくにがい。左右どこまでも広がって涯てが無いかのようだ。
白い土を捏ね上げたようなぬらぬらとした巨きな魚が近づいてきて、口らしき穴からぶどうの房のごとく連なったうすむらさきいろの泡を男に吹きかける。すると千代紙を折ったような魚たちがぱくぱく泡をついばみだした。
口や鼻から銀の泡をぽこぽこ吹きながら男は必死にもがく。下を見ると男の足首を掴んでいるのは、黒髪をあごのあたりで切りそろえた子どもだった。紫の地に銀杏や紅葉や菊、扇子や牛車や鶴の柄がにぎやかに散った豪奢な振袖を着て、はだしでひらひら水を蹴っている。
やがて彼らは白砂が敷かれた底へ着き、茸珊瑚の岩屋へするりと入りこんだ。壁面をびっしりおおった苔が橙いろにうっすら光って中は明るい。思いがけず岩屋の内部は広いようで、いくつも部屋があるらしかった。
通された部屋には椅子代わりに岩が転がされている。子どもは男を座らせると、朱塗りの盃を取り出だして勧めた。
男は座ったままじりじりとあとずさる。と、後ろ手で何かをかしゃりと潰した。えらく軽い感触だ。砂糖菓子に似た脆く白いそれは、ぽっかりと虚ろな双眸に恨みをこめて、男の顔を見上げている。されこうべだ。人の頭蓋だ。
絶句した男の口へ子どもは杯をぐいぐい押し当てた。ねじこまんばかりの強引さだ。子どもの指と指のあいだには青みがかった水かきがあり、爪は獣のそれのようにびかびかと白く尖っている。恐ろしさに男はぞっと鳥肌を立てた。
しかしそうしておびえながらも男は激しく抵抗することをためらった。
体温を感じさせないほっそりとした子どもの躰は、あのされこうべのように触れれば簡単に毀れてしまいそうだ。それに、何故かしらこの子どもはひとみに切実な色を宿している。大福のように円くふくふくとした頬は中の餡を透かしたようにうっすら桃いろで、一重まぶたも泣きはらしたようにぽってり赤い。
男は目を伏せて考え、やがて覚悟を決めて杯の中味をこくりと呑んだ。
それは無色透明でほのぼのあたたかく、甘やかな花の香りのする酒であった。舌がとろけてほほまでほぐれ、体の穴という穴から魂が流れ出そうなほど甘美でやさしく、人が味わうにはあまりに危険なものに思われた。
男がすっかり杯を乾してしまうと、子どもは安堵したようにほっと息を吐き、黒目がちの眼をぱちくりさせた。そうしていったん引っ込んだかとおもうと今度はお膳をはこんでもどってきた。
吸い物には菊の花びらが浮かび、漬物は瓜をうすく切ったものと赤い花びら、赤飯と見えたものも小さな花だ。食べてみるとどれも思いのほかうまいが、ふわふわとした霞を噛んでいるかのようであまり腹にたまりそうもない。
食べ終わると子どもは男を浴室へ連れて行った。湯はぬるく薬くさい。花びらと葉がいっぱいに浮かべられて湯面が見えないほどだ。
子どもは彼を風呂場へ残して外へ出ると戸に鍵をかけてしまった。
いったいぜんたい何が狙いなのか、分からないのが薄気味悪い。しかしぱたぱた立ち働く子どもに男が親しみのようなものを感じ始めているのもまた事実だった。
湯から上がり、衣服を身につけて戸をたたくと、子どもはぴょこんと顔を出して男の手を引っ張った。
「磯菊に礼の品をちょうだいよ」
浮かれたような甲高い声である。子どもはくちびるを尖らせて、男の顔の前で手をぶんぶん振った。
「菊酒はうまかったでしょう。のどを鳴らして呑んでいたもの」
男は答えに窮してあいまいな笑みでごまかした。酒を楽しんだのは確かだ。
「君がほしがるようなものは何も持っていないよ」
子どもは男の手にあるあの小さな袋を指した。
「これは君が持っていてもしょうがないものだ」
「お前が決めることではないわ」
子どもはぴしゃりと言ってひとみを縦に細くした。うすいくちびると相俟って、幼い容姿にそぐわぬ酷薄な雰囲気が表れる。そのつめたさに男はおぞけを震った。
「おねがいよ」
真一文字に結ばれた子どものくちびるがふるえている。ああ泣き出しそうなのだと気づいて、男はちくちくと胸が痛むのを感じた。この子どもは人ではないだろうけれど、見た目は七つくらいに見える。
妻ならきっとこの子を泣かせぬためにあらゆる手を講じるだろう、きっと。ずっと子どもを望んでいたのだから。
「あげるよ」
男が包みを差し出すと、子どもは飛び上がって喜んで袋の中味を取り出した。きらきらひかるそれは銀の丸缶に入った練り香水である。
「よい香り。水の上からここまでかすかに香っていたの。これで母さまもお目覚めになる」
嬉しさのあまり男の存在を忘れてしまったかのように、子どもは香水を持って別の部屋へと駆け込む。残された男は逃げ出そうにもどうしたらいいか分からず、迷った末に子どもの後を追った。
となりの部屋はうすむらさきや黄いろいのや白いのや、露をふくんで重たげな頭を優美な首で支えてすっくりと立つ、種々様々な菊の花であふれていた。
「母さま母さま、お客さまからのお礼です。磯菊にもりっぱに主人の役が務まりました」
子どもは花の寝台へ近寄り、缶のふたを開けた。じゅうぶんにかぐわしい部屋の中へ、練り香水の甘いにおいがまじる。妻のにおいだ、と男は思った。
不意に子どもの母を見たいという衝動に駆られ、男も寝台へと近づく。
「母さまほらよい香り、母さま」子どもの声が一段低くなる。「母さま、起きて」
母親は目をぽっかり開けていたけれど、子どもの声には答えなかった。彼女は漂白したように真っ白でうす桃いろにぼんやりとひかっていて、いつまでも眠りのかけらを手放したがらないようだった。
「どうして」
悲しみをこらえるようなひび割れた声が子どものくちびるのあいだから洩れた。
「今度の母さまも珊瑚になった。お好きな香りを嗅げばめざめると思うたのに」
「君、だってそれは」
男の声に子どもはパッとふり返った。首から下が菊に埋もれて、蒼ざめた顔だけが生首のようにぽっかり浮かんで見えるので、男は湯島天神の娘菊人形を思い出した。
菊の枕に頭を置くのは一体の骸骨だ。母さまと云うのだから女なのであろう。皮膚も髪も残っていない。みずみずしい肉体へ縦にすっと刀を入れて開き、手妻のようにすばやく骨だけを取り出したような、完全で神秘的な骸骨だった。
「どの母さまもいつしかとろとろ寝るばかりになって、肉を流れに削いで白くなって砕けて砂になるの。どうして」
子どもの円い頬に沿うように、熱い水滴が目からこぼれてあごの先までころがった。
「盗みはならぬと云われたから、磯菊はだれからも盗まない。傷つけてはならぬと云われたから、磯菊はだれにも爪を立てない。磯菊はいつも良い子でいるのに」
子どもの手から練り香水の缶が落ちる。男はしゃがんでそれを拾い、きちんとふたを閉じて子どもと向き合った。
「今度の母さまも磯菊が悪い子だと思いちがいをなさったのだろうか、ちっともそんなことはないのに。磯菊は母さまの云うことを守っていたのに」
「何度目かな」
「磯菊は十までしか数えられないの」
青白いひかりがパッと閃き、遠くで雷が鳴った。満開に咲きほこる菊が不安げにざわざわゆれる。幼いあるじは男にしがみついた。子どものつめたい体が細かくふるえている。
「雨の夜にね、水底で千代紙の魚を折っていると、上からさびしいと云う声がするの」
振袖の紫が頬に映って、子どもの色白な顔をいっそう透きとおるもののように見せる。
「その声をつかまえて引っぱると、お客さまがやってくる。そうしてお客さまは磯菊の母さまになってくれるの。でもみんな白砂になってしまう。何度も、何度も」
稲光に照らし出された子どもの頬には涙の筋がついて、あまりに無防備だった。尖った犬歯も爪もいまはすこしもおそろしくなかった。
「母さまのね、母さまの好きな花の香りがして、それからさびしいと声がしたから磯菊は上がっていった。そうしてお前を連れて来た」
春の初めにその花が乱れ咲く庭を男の妻は好んでいた。白とうすい赤紫から成る星の形の小さな花が、手毬のようにひとむら集まって咲くさまはうつくしいというより愛らしい。
「雨の夜にまた母さまを連れてくるわ、磯菊とお前と母さまとここで暮らそう」
庭のどこからでも、ひとつ先の角までも、家の中でさえも、あの甘いにおいが呼びかけてくるようだった。さびしがりの少女のような花。
妻は生まれてくる予定の自分たちの娘とおなじように、この花を愛した。花は雨の後には特に強く香った。濡れてふるえて誰でもいいからあたためてくれと泣くように香った。
男の手の中で練り香水が香った。
「お前も磯菊のように独りなんでしょう。さびしいんでしょう、なら」
子どもの虹彩はすこし灰色がかった茶色をしていた。大きく見開いた眼いっぱいに映る自分の顔を見て、男はなんだか可笑しいような気がしてきた。間抜け面をしている。
「妻の代わりに庭の花へ水をやらないといけないんだ、このいいにおいのする花だよ」
「ねえ名まえは。母さまの好きな、このいいにおいの花の名まえは?」
「沈丁花だよ」
「磯菊は沈丁花の咲くところへ行きたい。どんな花を咲かせるのか見てみたい」
見せてやりたいと男は思った。妻の庭にはいつもあの花が咲く、いくつもいくつも咲いて香る。だれかと共にその姿を見てその香りを胸いっぱいに吸い込みたい、そう思った。
子どもは男の手を引いて岩屋から走りでた。うしろで菊の花びらがパッと散って霞のようになる。千代紙の魚が彼らの周りを廻って、白砂をきらきら舞い上げる。雲母や石英や水晶が渦を巻き、半透明に白くひかる花をかたどった。
男と子どもは手をつないで水底を蹴った。ぐんぐん上へ向かって彼らは泳いで行った。いつしか男は子どもの小さな手を強く握っていた。
水面が近づくにつれて子どもの手はいっそうつめたく毀れやすいものになるような気がした。すこしでも力をゆるめればするりと抜けていってしまいそうなほど頼りない。
何か言葉をかけてやりたかったが、吐息はすべて泡になって消える。子どもは笑っていた。幸せそうに笑いながら何か言おうとしていた。音は聞こえなくても口の形で何を言っているか分かる。
「おとうさま」
子どもの眼にはもう沈丁花の花むらが見えているかのようだった。銀の泡が稲光に照らされて本物の金属のようになめらかにひかる。
いつのまにか男は四つ角に立っていた。開いたままの傘がそばにころがっている。男の左手には銀の缶が、右手には菊が一輪あった。それ以外は何もない。水溜りは男の革靴の下で緑の光を映してゆらゆら揺れていた。
家はすぐそこだった。ずぶぬれのまま男は上がっていって写真立てとふたつの位牌の前に缶と花とを並べて置いた。それからその場にうずくまって頭を抱えた。部屋に染みこんだ線香のにおいが香水の香りを打ち消すようだ。
あと幾度つめたい雨が降ったら、花は咲くのだろう。
催花雨
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