知ってるの

 以前書いた話の、つづきです。

「ちょっと、喉が渇いたな。飲み物でも買ってくるよ」 
 
 そう言って、お父さんは席を立つ。
 涙腺が、弱いんだ。

「……やっぱりカツラ、被った方が良いんじゃない?」
「いやよ。知ってる? カツラって人毛なのよ、他人の毛」
「でも……」

 お父さんは、辛そうだった。

「そうだ! 私の髪ならどう?」
 私は、軽い気持ちで言った。
「駄目よ」
 たしなめるような、思いの外強い口調。
「女の子でしょ。せっかくそこまで伸ばしたのに、もったいない」

 肩まで伸びた私の髪――鬱陶しいだけだよって思ったけど、お母さんの前では、言えなかった。

「髪はね、女の命なんだから、ね?」
 まるで、自分はもう女でないみたいな言い様……。 
「……うん」
「良い子」
 そう言って目を細めると、お母さんは、右手で私の頭を撫でてくれた。
 その手が、震えているのが、伝わってくる……。 
「……もう良いよ。恥ずかしい」
 私はお母さんの手を、両手で大切に扱って、そっと膝の上に戻し、
「あの木、プラタナス?」と、窓の外に話題を転じた。

 病院の、中庭の真ん中のある一本の木。
 街路樹のそれとは違い、三階の病室の窓からも目に入る、とても大きな木。
 
「ええ」
「……分からないな。どうして病院に、落葉樹なんて植えるのかしら?」 
 それもよりにもよって、お母さんの病室から見える位置に……。
「ひょっとして、O・ヘンリー?」
「うん」
「……あの木はね、ヒポクラテスの木」
「ヒポクラテス?」
「ギリシャのコス島に生まれた、医聖ヒポクラテス。彼は、この木の下で弟子達に医学を説いた。だから病院にプラタナスを植えるのは、わりとポピュラーなのよ」
「へえ、そうなんだ」
「今もコス島には、その木があって、観光スポットになってるの」
「じゃあ、あの木は?」
「初代の院長が、コス島のその木から、勝手に木の実を持ち帰って育てたんだって」
「まさかあ」
「本当よ。ちゃんとあの木の脇の、記念碑に彫られてるんだから」
 そう言ってお母さんは、窓の外に目をやった。

 鬱蒼と葉を茂らすヒポクラテスの木と、その幹のように――痛々しく斑に髪の抜けたお母さんの後頭部。

「……じゃあ、帰りにお父さんと、確認しておこうかな」
 私は、お母さんの見えない位置で、聞こえないよう、小さくため息を吐いた。 

「I will not give to a woman a pessary to produce abortion……」

 木を見つめたまま、私に背を向けたまま、不意にお母さん。
 英語って事は、中学二年生の私にも分かった。

「今、何て言ったの?」

 振り返ったお母さんは、まるでなにかをいとおしむような表情だった。
「覚えてる? あなた、この病院で産まれたのよ」
「お、覚えてる訳ないじゃない、三島由紀夫じゃあるまいし」
「確か『仮面の告白』だっけ? あれ、本当なのかしらね?」
「さあ、どうだろう?」と、私は小首をかしげた。
「……お父さんのことは、覚えてる?」
「……正直、あんまり記憶ないかな。確か私、あの時――四つでしょ?」

 私のお父さんの記憶は、葬式しかない。
 ただ、私はその時のことを、はっきり覚えている。
 お父さんの親戚――伯父さん夫婦が、ひそひそ話していたことを、はっきり覚えている。
 あの時は何のことだか分からなかったけれど、何を話していたかは、はっきり覚えている。
 私に気付き、ごまかすように浮かべた、彼らのあの醜悪な作り笑顔も、はっきり覚えている。
 そうして今の私には、彼らの話が何を意味するのか、はっきり分かってしまっている……。

 ――お母さん、お父さん、だから私は、知ってるの。

 私は、今度はお母さんの前でため息を吐いた。
「だからあんまり、悲しくないんだよね。悲しもうにも、お父さんとの思い出がないから。だけど――」
「だけど?」
「お母さんは、駄目だなあ。思い出が、一杯あるから――」
「なみだ」
「え?」

 震える手に、白いハンカチで、お母さんは私の涙を拭こうとする。
 私は瞳を閉じて、されるがまま、お母さんに甘えた。

「本当、マユは泣き虫ね。でも、よく泣く子の、瞳はきれい。マユは、だからますます美人さんになるわね」
「へへ、お母さんみたいに?」
「ええ。私みたいに」

 二人して、笑った。

 笑ったら、また涙が零れた。
「ほら、またすぐ泣く」
 笑いながら涙を拭ってくれるお母さんに、私も笑いながら言った。
「きっと、お父さんに似たんだね」 

知ってるの

『何センチ?』のつづきでした。
 別の話に、つづくかな?
  
 ×プラナタス→○プラタナスでした。
 かなり恥ずかしい……。 
 てか、今日に至るまで勘違いしておりました……。

知ってるの

母と娘の会話です。 1994文字。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-06-03

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