侵食

無浪放頼

「立派な木だろう」
老人は言った。私は平原のど真中から生えて、天まで伸びゆく巨木を見上げ、そうですねと頷いた。
「何せ根っこが深いからな」
老人は地面を見下ろした。私の隣に並ぶ女は老人に倣った。
「地の核まで根を下ろしているのだよ」
老人は言った。私はそれでこんなに育つ訳か、と合点がいった。女はいつしか、さりげなく私に寄り添っていた。
「いずれ、枝葉が空を覆い尽くす」
老人はしわくれだった手で、再び空を指していた。
「では私たち、死んでしまいますね」
女は老人に向き直った。老人は穏やかに首を振った。
「しかし木も枯れる。さすれば枯葉の雨が降り注ぐだろう」
「でも、枝は残ったままです」
私は俄かに怖くなった。
「枝を取り払うことは出来ないのでしょうか」
老人は悲しそうな眼で私を見て、首を横に振った。
「あの枝は頑丈すぎる。人の知恵と技術なら折ることは出来まい」
女は私を離れた。そして巨木の木漏れ日が海面のように煌めく草原の中へ歩み入って、ぽつんと立ちすくんだ。
「私たちは囚われの身になるのですね」
私は膝の力が抜けて、その場にくずおれてしまった。立ち上がろうとしても、足にまるで力が入らない。
「この処遇では残酷かね」
老人は言った。私はとうとう泣き出してしまった。
巨木はいまなお成長している。老人の言った通り、私の頭上遥かに枝葉をぞわぞわと伸ばし繁らし、太陽の光を隠してゆく。草原の彼方、大都市の廃墟が延々連なる地平線はまだ明るく、雲一つない青空が広がっている。
せむしの老人の足は覚束ない。彼がついていた木杖が、あの巨木となって成長しているのである。私は滲んだ視力で女を探した。草原一帯には今や木漏れ日すら差さず、夜のように暗い。彼方の廃墟にも陰りが兆していた。私は女の名を呼んだ。しかし返ってくるのは、風の唸りと葉のさざめきばかりである。
私は途方もない不安に駆られた。女の名前を連呼するうちに、脚はいつしか草原へ駆け出していた。青空が枝葉に侵食されている。このままでは、じきに世界が夜に包まれてしまう。それまでに、私は女に会わねばならない。
女は一向に見つからないまま、とうとう空が巨木に覆い尽くされてしまった。辺りは殆ど真っ暗である。老人すらもう見当たらない。黒々として並ぶ廃墟の輪郭ばかり、嫌にはっきりとして見える。
私はやるせない焦燥に駆られるままに、前へ前へと歩を突き進めていた。草木が風になぶられてさわさわと騒いでいる。昂ぶる鼓動の内に通底する、諦めに似た不気味な安堵感だけが、私の精神を保つよすがだった。
低く、深く、腹底を突き上げるような唸りが、絶えず辺りに轟いていた。私の脚は、その唸りのする方向へ歩んでいた。行く手に並ぶ廃墟の影から、私は目を逸らせなかった。

侵食

侵食

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-06-02

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