恍惚
ブルトンチャレンジ
玄関扉を背にして、サラリーマンが一人立ちすくんでいる。鞄を手に持ち、靴を履き、スーツもシャツもネクタイもまっすぐで、髪も髭もしっかり整って、あとは会社へ赴くばかりである。しかしサラリーマンは立ちすくんでいる。
扉の上に嵌め込まれた磨りガラスからは柔らかな朝日が差し込み、薄暗い室内を照らしている。廊下の柱に掛かった壁時計は絶えず振り子を揺らし、一秒一秒の経過を正確に刻んでいる。その間、サラリーマンは微動だにしない。唯、見開いた目を時たま瞬かせるばかりである。
やがて彼の懐の携帯が、とうとうやかましく鳴り出した。ところがサラリーマンはやはりぴくりとも動じない。携帯の方もしばらくしつこく鳴り続けていたが、やがて諦めて静かになった。
そんな様をずっと、腕組みをして眺めているのは、サラリーマンの妻である。彼女も夫に倣い、薄暗な廊下に立ちすくんで一言も口にしない。
ついに玄関のチャイムが鳴り出した。先の携帯の時位執拗に鳴り続いた。それでも夫婦は動かない。終いには扉が強かに叩かれ始めた。その余りの剣幕にびっくりしたのか、部屋で寝ていた赤ん坊の泣き声が、くぐもって響いてきた。扉越しからは、サラリーマンの名を呼ぶ声まで聞こえてくる。それでも、夫婦は動じないのである。最後に扉の蝶番が荒々しく回されても尚、であった。
外は遂にようやく静かになった。赤ん坊の泣き声も、もう聞こえなくなった。その不気味な静けさの中で、夫婦は互いをじっと見つめあっていた。
二人は目を開いたままに、夢を見ている。全てが朽ち果てるまで覚めない夢を。
恍惚