夢か君か
ペン 海 座布団
「じゃあ、またあとで」
「うん。4時半に。」
午後4時半。
わたしはあの海辺で今日、彼に別れを告げる。
てっきり、結婚するんだと思ってた。そのくらい確信的で、運命的な恋だった。いやむしろ、小学校のころから近所に住んでいた私たちが付き合ったのは必然と呼んだ方が正しいのかもしれない。
わたしは携帯を机に置くと、再びペンを持ちまだ空欄の埋まらない紙を眺める。
溜息にも近いような長い息を吐く。その吐息で、少しだけ紙が動く。
その紙を定位置に戻すともう一度、空欄の上にある文章を目で追った。
”進路希望調査”校内の誰もが例外なく家に持って帰ったこの一枚の紙。
それは私たち三年生にはあまりにも突然やってくる、人生の選択。おそらく今までの高校生活で一番重たく感じる紙。
そもそも、進路なんてずっと前まで決まっていた。決まっている、はずだった。
彼の一言を聞くまでは。
”-アメリカに行くことにしたんだ”
最初に聞いたときは、驚きは少なかった。
彼は野球選手を目指していたし、部活でエースもしていた。きっとアメリカにも野球をしに行くのだろう、と思った。
だが聞くと、彼はインストラクターとして野球と英語を学び、将来的には世界中の子供たちに野球を教えたいのだという。
いかにも彼らしい、献身的な考えだった。彼は、自分よりも他人のことを考えていることが多かったように思う。
そこが彼の魅力でもあり、人望が厚い理由でもあった。
そしてそれが、私が彼に惹かれた理由。
私は再び空欄の端をペンでトントン、と軽くたたくと半ば自棄になって、ペン先を置く。
ふとその時に風が吹いて、風鈴が揺れる。先週窓に着けた、夏を感じさせる音。その音が不意に止む。そちらに視線を向けると、本来なら風を受けるはずの紙の部分が窓に引っかかっていた。
わたしはそれを直しに立ち上がると、さっきまで私が座っていた座布団に小さなシミが見えた。ふいに懐かしくなる。そうだ、これはずっと前に彼がうちに遊びに来たときにつけたアイスのしみ。
いまではしみついた線香の匂いにそろそろ変えようかと思っていたところだった。
視線をうごかし、仏壇を見る。今でも薄れることのない、母についての記憶。
こんどは私が教師になったら、きっと母の本当にやりたかったことがわかる。そう思って、むかしから周りには自信をもって先生になる夢を語っていた。
だが、今はこの空欄さえも埋められない。
クローゼットを開け、上着を羽織る。少しずつ斜めになって、世界を赤く染めていく太陽。
相変わらず止まらない彼との記憶。
無意識に鼻をすすると、少しだけしょっぱい味がした。
わたしはこのペンを動かすために、浜辺へと向かう。
おわり
夢か君か