少女とオレンジジュース
「あたしはオレンジジュースが飲めないの」
目の前の女の子、なっちゃんはそう告げるけれども、ぼくには何も言うことができない。
すでに教室にはなっちゃんの他には誰も残っていない。なっちゃんは制服のスカートをいじりながら、さらに続ける。
「あたし、小さい頃はオレンジジュースが大好きだったのよ。幼稚園生の頃にね、お父さんと一緒に歩いていたら、なぜかしらね、急にオレンジジュースを飲みたくなってしまったの」
なっちゃんの声はぼくではない、誰か、どこかに向けられていた。
「そしたらね、道路の反対側に自動販売機があったの。あたしったら卑しいわね、すぐにオレンジジュースがあるのを見つけたわ」
なっちゃんがこぼした渇いた笑いは放課後の教室に吸い込まれた。
「お父さんがしょうがないなって言って道を渡って買いに行ってくれたの。あたしはそれが待ちきれなかったんだなぁ。お父さんがジュースを掲げた時にはもうあたしは走り出していたの。すぐそばにトラックが迫ってきていたのにね。気がついたらお父さんが駆けつけてあたしを突き飛ばしてくれたわ。その時私の目に焼き付いたのは、アスファルトに広がる赤い色と血にまみれたオレンジジュースのペットボトル......。」
なっちゃんはそこで言葉を切った。
グラウンドの喧騒が遠く響いている。
西陽が教室を満たして、机も椅子もぼくらも、全てが影を伸ばしていた。
「昨日は秋分の日って言ってね、昼と夜の長さが同じ日なの」
そして今日は十三回忌。なっちゃんはそう呟くとぼくのキャップを外して、一息に飲み干した。
ぼくはオレンジジュース。きっと今日この人に飲んでもらうために生まれてきたんだ。
少女とオレンジジュース