ball game girls

―――キィン、カキィン
 乾いた音が壁に反響して耳に刺さる。傘を持つ位置、と一般的には言われるその位置から出されたバットがボールを叩く。大きな弧を描くかと思われたその打球は、厚く貼られた緑色のネットに憚られて勢いを失う。たった今、ボールを真芯で捉えたバットのグリップを強く握り直し次の球を待つも、残りの球数を表示するランプが消灯しているのを確認して、ゲージを出る。

 正味二十球のバッティングを終えた清河は、ベンチに座って汗を拭いた。スマホで時刻を確認するも、まだ朝の八時前である。左右を見回してもほとんど人は見受けられない。清河の他には、中学生と思わしき男二人組に、還暦はいってそうなおじいさんが元気にバットを振っているだけだ。   
 十あるケージのうち使われているのは4つのみであるが、それもそのはずである。四月に入ったとはいえ、朝の八時といえばまだ気温は相当低い。町のはずれにあるこの小さなバッティングセンターともなれば、人の入りがまばらなのも仕方がないというものだろう。
 
 つい先ほど自販機で買ったスポーツドリンクを口に含む。徹底的にこだわった塩分濃度のそのドリンクは、発汗で失った塩分を清河の体に取り戻させる。
 清河は再び立つと、九百六十グラムと中学を卒業したばかりの男子には少し重いそのバットを持ち、再びケージに入っていく。
 生まれながらの左利きである清河は当然、左バッターボックスに立つ。神主打法と呼ばれるそれに近いような形で腕を伸ばし、バットをベース上に構える。これが、清河が最も自分に適した構え方は何か、と九年間考えた成果だ。足をわずかに引いてタイミングを取り、ボールを長く見る。投げられたその軌道を確認して、懐に入り込んだところを全力で叩く。硬式ボール特有の快音を立てた打球は、ネットの上の方に五枚付いているホームランの的に命中した。

「おめでとうございます!ホームラン!ホームランでございます!」
 録音された女性の声が、清河のホームランを祝福する。清河はその音をたいして気にもせず、次のボールに集中した。
 二、一と最後のランプの点灯を見届けて、ケージを出、カウンターに向かう。カウンターで先ほどホームランを打ったことを告げると、スタンプカードにもう一つ赤色の丸が加わった。佐藤バッティングセンターと書かれたそのハンコは、今日で十個になる。十個溜まることで景品がもらえると聞いていたが、次回でいいかと思い直してその場を去ろうとした。

 しかし、清河はそこで、前から小学生と思わしき集団がやってくるのを見つける。見ると、小学校高学年だろうか、有名メーカーのジャージに身を包んだ快活そうな子が先陣を切って進み出てきて、それに続くようにわらわらと計九人の女子児童が、最後に優しい表情の女子児童の保護者と思わしき年老いたの男性が中へ入ってくる。清河はそれを見て、その子たちのために道を開ける。

 何があったのだろうか?清河はその子たちの後ろ姿を見てしばし呆然とした。このバッティングセンターに女子児童がたくさん来るなんて状況、三年間ここへ通いつめている清河でも見たことがない。
 しかし、その児童たちが小学生用の低速コーナーへ入っていったのを見届けると、そんなこともあるものかと思い直してその場を後にした。  

「きをつけぇ!礼!」
「あざぁしたぁー!!!」
 三年生のキャプテンの掛け声が練習の終わりを告げる。清河たち新入生はこれからグラウンド整備をしなければならない。一年生がダラダラと整備器具を取りに行こうとすると、
 「こらぁ!走れ一年!」
 こうなるわけである。どこの高校の野球部でもありえる普通の光景。清河はそれを見越して、一年生の中でも一番早く整備に取り掛かっていた。   
 イレギュラーバウンドが起きないように、というのが本当の整備の理由ではあるが、清河はどうしてもこの行為になにか儀式的な意味があると思えてならない。野球の練習後の、儀式。キリスト教でいうミサといった感じだろうか、とにかく清河は、この並んでグラウンドを整備する行為は、あまり効率的ではないと思っていた。

 全員が最後まで整備を終えたら、やっと一年生も帰宅が許される。清河は連れ立って帰路につく他の一年生部員とは別に、一人で帰ることを選んだ。一人で帰るのが好きかと問われれば、好きとは答えないだろう。野球というチームスポーツにおいてそれはどうなのかと言われてしまうかもしれないが、群れるのが嫌いなのは事実だった。
 結局はチームワークなど綺麗事であって、統率が取れているチームは強く、いかに群れようとも統率の取れていないチームは弱いのだ。
 その持論を元に、連れ立ってファストフードやらコンビニやらに向かうであろうチームメートとは別に、清河は一人、公園に向かう。高校から歩いて十分ほどのところに、あった。

 日も傾いた午後の公園には、ほとんど人はいなかった。人がいないからこの公園を選んだのだから、当然といえば当然ではあるが。全く整備された痕跡が見られない背の高い木々は、低くなった西日を完全に遮断してしまい、公園内に肌寒さをもたらす。五十メートル四方ほどの柵で囲まれた公園の中心部には、古さびた遊具が二つ並んでいる。
 滑り台にブランコが合体したものと、清河なら軽く足がついてしまうくらいの懸垂遊具。それらは柵につけるように設置されているため、自然とその前には空間ができるようになっている。

 西日が長い影を作り、その空間をも全て覆ってしまう。清河はそこを通り過ぎ、公園の外周をぐるりと囲むアスファルトの道へ出た。一周約四百メートルのこのコースが、清河のトレーニングコースである。そこを一周六十秒のノルマで四周走りきるのが清河の習慣だった。
  母校の中学校の野球部を全国大会ベスト八まで引き連れたエース。清河の名を知るものが、『小鳥遊清河という人間を簡潔に説明せよ』と問われたらこう答えるだろう。脚光を浴び、将来を期待され、いくつもの私立高校から誘いがかかった。その中で県立久我西高を選んだのは、清河の自主トレ好きが原因でもあるだろう。

 グラウンドで行うチームプレイよりも、一人でやる自主トレの方が好き。練習時間が長い私立では自主トレのためにとれる時間が少ないから、公立である久我西を選んだ。誰もが聞いて驚きそうなことだが、事実、清河は自主トレが好きなのだから仕方がない。「そんなに自主トレが好きなら個人競技でもやれば良かったのに」妹にそう言われたことがあるが、反論できなかったことにすこしへこんだ。
―――五十八、五十九、五十八、五十八。

 画面に四つ表示された数字を見て、清河は安堵の息をついた。無事四周をノルマ通りにクリアしきったことへの充実感。膝に手をついて呼吸を整える。
 『ピッチャーは走ることから』と小学生のときに指導者言われた言葉は高校生になった今も、清河の掲げるモットーとなっていた。
 予想以上の疲労を感じて思わずその場に腰を下ろすと、なにやら後ろから声が聞こえてきた。
 「監督ー!」
 「どうしたの?」
 「おーい!監督ー?」
 明らかにそれが女性の発する声だと断定できる声の高さ。清河が首を回すだけで、数本の木の間から柵の向こうにいる声の主が確認できた。清河はそれを見て、妙な既視感を感じた。小学校高学年くらいと思われる女子児童数人。皆、上下にスポーツメーカーのウィンドブレーカーをまとっている。

 そう、思い出した。数日前、バッティングセンターで出会った女子児童数人である。しかし、なにやら様子がおかしい。
 「監督大丈夫!?どうしたのかな…?」
 清河はそれを聞いて声のする方へ向かった。すると、そこにいたのはベンチで横たわる老人だった。それにも見覚えがある。その児童たちを引き連れてバッティングセンターにやってきていた老人だ。
 老人の周りには女子児童が五人、皆老人の顔を覗き込むようにしている。
それを見て清河は戦慄した。あれはなにかしらの病発作だ、と直感がそう告げた。
 それからの清河の行動は迅速だった。一瞬で老人の元へと走り、女子児童たちを退けるようにして前へ出、脈を確認。薄いながらも脈拍があるのを確認すると、携帯を取り出した。ツーコールの後、すぐに電話が繋がれる。
 「もしもし!谷之守駅第三公園!男性が倒れている!至急救急車を!」  
 「わかりました。すぐに救急車を手配しますので、できる限りその方を安静にしておいてください」

 清河はそれだけを伝えて通話を切る。周りを見回すと、老人を囲んでいた少女らが皆、度肝を抜かれたといった感じに口を開けたりしていた。その中で唯一、顔を真っ白に染めてガクガクと震えていた赤みがかかったショートヘア少女が、おそるおそるといった感じに口を開いた。
 「そ、その、か、監督は、だ、大丈夫、なんですか…?」
 驚きと衝撃のあまりか、少女のその言葉はかすれていてよく聞き取れなった。監督という言葉に若干の違和感を覚えたが、この老人のことだろうと頭の中で変換する。
 「ああ、心配するな。脈はちゃんとあるし、呼吸もしている。俺に病名はわからんが、死ぬことはないだろう」
 それが本当なのかはわからないが、答えとしてはこれが正しいだろう、と、自分の考えに則って答える。
「そ、そうですか…なら、良かった…。」
清河の言葉を信じたのかはわからないが、少女の震えが少し収まったようにも見えた。
 清河は、ベンチの背にだらりともたれている老人の首を左腕で支え、電話先の女性が入っていた通り、できる限り楽な姿勢になるように、老人を支えた。温厚そうなその丸顔にはシワが刻まれており、老人が還暦を迎えていることは容易に想像がつく。
 たしか日本の救急車は七分平均で到着するなどと聞いたことがあった。思い出して、開いている右手でスマホをいじると、最終通話履歴から三分が経過していた。
 老人と清河を囲むように半円の形に並んだ少女たちを見て、清河は口を開いた。
 「もうすぐ救急車が来るはずだ。誰か、救急隊員の人にこっちですって言ってくれないか?多分救急車が来るのはそっちの方だ」
 そう言って清河は、二箇所ある公園の出入り口の大きい方、道路とつながる方角を指差した。自分がその役をかって出たいのも山々だが、もしこの老人に何かあったときに、少しでもまともな対応ができるのは清河だろう。
 しかし、五人の少女は何も答えない。皆、一言も喋らずに清河と目線をそらしたり、怯えるような目で清河を見ているものもいた。
 沈黙に耐えかねて、再び口を開こうとしたとき――

 「わ、私が行きます!」
 先ほど清河に質問をしてきた赤髪の少女が手を挙げた。
 「ああ、よろしく頼む」
 パタパタと道のほうに向かってかけて行った少女を見送って、一息つく。
 「う、うぅ」
 すると突然老人が苦しそうな声を上げる。
 「だ、大丈夫ですか!?しっかりして!あとちょっとで救急車が!」
 こうなった場合の正しい対処法なんで知らない清河は、老人にそう強く語りかけた。
 それもつかの間、遠くからウゥーとサイレンの音が聞こえてきた。その音は次第に大きくなっていき、耳を突き刺すくらいの音量になる。しばらくして、
 「こっちです!お願いします!」
 少女の声に導かれて、白服に身をまとった救急隊員三人が担架を抱えて走ってきた。
 清河は軽く隊員に会釈すると、ベンチから離れて、事の成り行きを見守ることにした。
 隊員たちの行動は迅速だった。担架を地面に置き、二人で老人を抱えて担架に乗せると、息ピッタリのテンポで救急車へと向かう。そこで、残った一人の隊員が口を開いた。

 「誰か、付き添いに来られる方はいらっしゃいますか?」
 隊員が清河と少女たちとを含めた六人に聞くが、誰も手を上げようとしない。部外者である自分が行くのもどうかと思ったが、
 「俺が行きます。」
 と言って清河は手を挙げた。
 隊員に誘導されるままに小走りで救急車に乗り込む。救急車の中で待機していた、白衣を着た医者らしき人が老人に話しかけたりしてる間、清河は救急車内隅でじっとしていた。なんというか、自分だけ仲間外れにされたような気分だった。

 線路の上に作られた陸橋を越え、この街で最も大きい大学病院までは、ものの五、六分で着いた。
 救急車専用の入り口から入り、そこでも待機していた看護師によって、手慣れた手つきで老人を乗せた担架は運ばれていった。清河は、老人の付き添いということで、看護師に案内されて長椅子に座らされた。
 座った目の前には、集中治療室と書かれたドアがある。清河は、ドアの上の、使用中と書かれたランプが灯っていることに気がつき、大きく息を吐いた。

 ここまでの一連の事の成り行きを思い返す。倒れる老人、それを囲む小学生と思わしき少女たち。そして、老人のことを「監督」と呼ぶ。少女たちと老人がどんな関係なのかは計り知れなかったが、少なくともなんらかの繋がりがあることはわかる。
 自分以外誰もいない病院の長い廊下を見渡して、清河は自分の運の無さに呆れた。野球帰りに公園に寄っていたことを思い出し、自分が野球の道具を置いてきたことに気がつくと、清河の気分はドン底まで落ち込んだ。
「はぁあああ…。」
 ここに誰かがいたら聞くだけでテンションが下がりそうな、長いため息をついたとき、清河のポケットが振動し始めた。それがスマホの着信だと気付いた清河は、ここが病院内だということを思い出して慌てて最寄りの出入り口から外へ出た。
 見慣れない番号に不信感を抱きながらも、通話ボタンを押す。

 「もしもし、小鳥遊清河さんですか?」
 そこから聞こえてきたのは、いつだったか、聞いたことがあるような声。
 「ええ、そうです」
 「久我西野球部のマネージャー、藤田です」
 どうも聞き覚えのある声だと思ったら、さっきまで清河たちの練習に付き合っていた野球部のマネージャーだった。たしか、メガネをかけた三年生のマネージャーだったはずだ。
 「突然なんですが、今日野球部内でのいじめが発覚しました」
 「えっ?」
 何を言い出すのかと思いきや、突然突飛な事を言い出したもんで、反射的に変な返しになってしまう。
 「それに当たって、本当に悲しいことなんですが…明日から十二ヶ月間、我が野球部は活動を停止となりました」
 「えっ?それって…?」
 「詳しいことは明日、部員みんなが集まったところで、部長から話します。ですが、明日の朝練はないので、そのつもりでいてください」
 マネージャーが事務的な口調で言った言葉を最後に、では、といって電話は切れた。
 清河はプープーと音を立てるスマホを見て、呆然とした。なんの冗談だ?誰がそんな嘘を?新入生を驚かせたいのか?そんな都合のいい解釈が頭の中を巡る。

 だが、高校入学が決まってからの二ヶ月間の記憶を思い返して、そんな考えは打ち砕かれた。顔に青いアザをつけた同級生に「どうした?」と聞いたときも、「なんでもない、ボールが当たったんだ。気にするな」と答えられたことがあった。
 そのときは、そんなこともあるものなのか、で済ましてしまったが、あのときすでにいじめが始まっていたとしたら…。

 嫌な汗が出てきた。どうしようにもない喪失感が清河の体を貫く。
 県立久我西高校。校訓『改革精神』。その校訓のとおり、新たな道を切り開いていけるような人材の育成が目標。自由で生徒主体という校風を受け、久我西の野球部は高校の野球部としては珍しい、坊主を強制しない部だった。公立ながら、過去には何度も甲子園出場経験のある強豪。部員四十人、マネージャー四人。指揮する監督は、頭脳派野球に定評のある、甲子園優勝経験もある名監督。
 全ては、甲子園に行くため。甲子園で勝ち、優勝するため。そのために選んだ高校のはずだった。
大豊作と言われている今年の久我西は、すでに県内の新聞でも県大会最優勝有力候補にあげられており、清河自身も練習を通してその強さを実感していた。全国大会でも活躍した清河は、エースにはなれないにしても二、三番手として一年目からバリバリ投げるつもりだった。

 だからこそ、藤田マネージャーの話は清河には信じられなかった。
 頭の中は真っ白になり、手が震える。震える手からスマホを取り落としそうになり、自分が相当動揺していることに気づく。すると、メールが一件きていた。
 碓氷凌牙。中学校時代、清河とバッテリーを組んだ相手からのそのメールは清河をドン底へと突き落とすものだった。内容は、本当に部内でいじめがあり、数ヶ月前から三年生の一部によって一年生の一部がいじめられていた。それによる長期部活動停止も事実。という簡単なものだった。
 しかし、全くと言っていいほど嘘をつかない碓氷である。これでいじめの件はほぼ確定と言っていい。そして、十二ヶ月、丸一年の部活動停止も、決定事項。
 頭の中ではその言葉を理解しているものの、清河はそのことを受け入れようとしなかった。

 小一で野球を始め、今日まで一度も風邪もひかず、毎日欠かさず野球をやってきた。雪の日だって、家の中でシャドウピッチングは忘れなかった。それが、突然一年も―
 清河はやり場のない苛立ちを覚え、建物の壁を何度も殴る。痛い。血が出てきた。だがその痛みよりも、清河から野球が消えるということのほうがよっぽど怖かった。
――一年くらい、自主トレを欠かさなければ――駄目だ。実戦から一年も遠ざかったら感覚は廃れる。今まで培ってきたものだって、崩れてしまうかもしれない。
 太陽は西の山に消えようとしていた。病院の外にただ一人残された清河の背を、まだ冷たさを含む春の風が撫でる。
 しばらくして、清河は自分の頬を触って、涙の跡があることに気づいた。それほどまでに野球に真剣だった、という何よりの証拠が、清河の胸に深く刺さった。

 ――ブーッ
 短い音と共に、目の前の使用中と書かれたランプが消灯した。
 もうすっかり日は沈みきり、病院の廊下も最新鋭のLEDに照らされることによって、明るさを保っていた。
 中から出てきた四十歳くらいだろうか、白衣を着た男性が清河の前に歩み出、口を開く。
 「無事に、一命は取り留めました。お孫さんでいらっしゃいますか?意識が回復するまでもう少しかかると思うのですが、待たれますか?」
 「そ、そうですか。ありがとうございました。じゃあ…意識が回復するまで待たせてもらいます。」
 老人とはさっき初めて会ったばかりの清河だったが、孫というのを否定する気力すら残っておらず、このまま家に帰るのも気が進まなかった。もう少しここに座っていたい、というのが正直な気持ちだった。
 「わかりました。では二階の二◯一号室にお祖父さんは移動させますので」
 それでは、と言って医師は清河に背を向けて去っていった。
 医師と老人を運ぶ看護師たちがいなくなって一人になった後も、清河は椅子から立とうとしなかった。
膝に力が入らない。小六のとき、全国大会を目前にして敗北したときすら、ここまでの絶望には陥らなかったと思う。

 明日から自分はどうすればいいのか、何を生きがいにすればいいのか。清河の人生の全てと言っても過言ではなかった、野球。それを取られた今、どうすればいいか見当もつかない。
今まで通り自主トレは続けたとして、果たして一年後、チームプレイもチームワークもゼロの状態で果たして試合になるのか――。
 その問いに答えられるものはいない。さっきメールを送ってきた碓氷だって、清河と同じようにとは言わずとも、何かしらの喪失感は味わっているはずだ。
しばらく経って、ようやく重い腰をあげる。医師に、老人の意識が回復するまでここにいる、と言った以上、指定された二◯一号室に行かなければならない。
清河は、遅くなる旨を家にいるはずの妹に伝え、幾つかのやりとりを終える。
随分と遅い足取りでたどり着いた二◯一号室に入り、老人が寝ているベッドの近くの椅子に腰掛けた。
看護師が来て、起きるまでは安静にしておくように、意識が戻ったら連絡をくれ、と清河に言って部屋を出て行った。
 清河は、未だ目を覚まさない老人の顔を見やった。シワの畳まれた顔からは、不思議と、仙人のような優しさのようなものが感じられる。それでいて頭髪はまだ健在で、若干白みかかっているものの、何かしらの施しを受けているようにも見えない、地毛である。
 寝ている老人への配慮だろう、消灯され、町明かりだけが差し込む薄暗い病室の中で清河はしばらく老人の意識が戻るのを待った。

 清河が何も考えずにただ惚けていると、一時間くらいたった頃だろうか、うぅ、といった呻き声を上げながら老人が目を覚ました。
 それを見て清河はあらかじめ渡されていた、看護師への連絡用のボタンを押す。
 すると、老人の意識も覚醒しきらないうちに、看護師が病室へと入ってくる。
清河が看護師に会釈して引き下がると、老人と看護師が何やら会話をし始める。二分かくらいかけて看護師が、では、と言って病室から去っていくと、清河はいよいよ目の覚めた老人と二人きりになった。
 「えと…」
 なんと言えばいいのかわからず、言葉に詰まる。
 「小鳥遊清河くん…だったかな?」
 寝たままの老人が、小さな声で尋ねてくる。
 「え?何で俺の名前を?」
 「はは、君はこの街のスターといってもいい存在じゃないか。去年の全国大会ベスト八、その一番の立役者、背番号一小鳥遊清河」
 「そんな大層なもんじゃないですよ。準々決勝は結局俺の力不足で負けちゃいましたし。碓氷が引っ張ってくれなきゃあ、全国大会すら行けなかったですよ」
 「準々決勝で敗退後、君がデッドボールを当てた勝利チームの四番を気遣って声をかけに行った話は全国紙にも載ったじゃないか」
 「あれも、デッドボールを当てたのは俺ですし、俺らに勝ったんだから優勝してくれよ、って意味も込めての行動ですよ」
 そう言って清河は苦笑いした。そのときのことをいまでも清河に言ってくる人はたまにいるが、それを言われると少々恥ずかしい。
 「はは、やはり日本でも最も人格者なエースの話は本当だったんだね」
 そんな風に呼ばれていたのか、初めて聞く呼び方に内心驚く。
 「私を助けてくれたのは本当に感謝している。なにしろあと十分遅れていたら私の命が危なかったらしいからね」
 「ええ、それも俺がたまたま、あそこで野球帰りに自主トレをしていただけですし…」
 「いやいや、今時、倒れている人を見ても見て見ぬ振りをする若者も多いらしいからね。見つけた途端に駆けつけて、救急車を呼んでくれたんだろう?本当にありがとう。今度何かお礼をしたいな。……そういえば、どうかしたのかい?浮かない顔をしているけど」

 目を覚ましたばかりにもかかわらず笑顔で話していた老人の顔が曇る。今日あったばかりの人に話すのもどうかと思ったが、誰かに話して、少し
でも楽になりたいという気持ちが勝り、清河は老人に十二ヶ月部活停止の旨を伝えた。
 「そうか、それは…残念だな。今年の久我西は最有力優勝候補と言われていたのにな…」
老人が清河に同情したかのように、うつむく。そのせいで薄暗い病室内に沈黙が流れる。
「私は昔、小学校の先生をやっていてね。…。子供が好きだったんだろうね、六十歳で定年になるまで、職は変わらなかったよ。それで最後の六年間、私はこの虹彩小学校の校長をやった」
「校長先生!?六年間ってことは俺が小学校のとき…!?」
「いやいや、私は今、六十七だよ。君が小学校六年のときはもう退職していたはずだ」
「そうですか…では今は何をされて?」

 清河はさっきから気になっていたことを聞いた。小学生と一緒にいた老人である。はたから見れば不審者と思われてもおかしくない構図ではあった。
「あの公園に小学生の女の子が数人いたろう?あの子達は実はこの街に二つあるうち一つの野球部のメンバーでね」
「野球部?」
清河は反射的に聞き返した。
 「そう、女子だけの野球部だ」
 「でも小学生の野球部っていうと、この街にあるのは俺も入っていた谷之守のスポ少だけのはずじゃ…」
 「ちょっと前まではね。でもここ最近やっと、その女子チームが公式大会への参加が認められたんだ」
 「公式大会っていうと、四月と七月の全国学生野球杯…?」
 「そう。そしてその大会に出場するために必要な監督が、私名義なんだ」
老人は、さっきまで手術室にいたとは信じられないくらいの饒舌さで語る。
 「じゃああそこにいた小学生たちは、その女子チームのメンバーだと」
 「その通りだ。あと六人、本当はいるんだけどね。今日は集まりが悪かったのかね」
 「他にコーチとかは?」
 「いないよ、私一人だけだ。といっても私も大して野球のことは教えられないんだけれどね」
 「そう、なんですか…」
 清河はそう言って口籠った。もしこの老人がこのまま入院、ということになれば、二週間後くらいに迫っている学童杯に少女たちが出場できないということになる。それはいささか不憫だった。
 「その、体の方は大丈夫なんですか?俺が駆けつけたときは意識もなくて相当ヤバい状態だったみたいですけど…」
 「さっきちょっと看護婦さんに聞いたところだとね、四ヶ月入院だそうだ」
 「それって、学童杯には出れないってことじゃ……」
 「そうなるね…。監督不在じゃあ試合はさせてもらえないだろう」
 老人が俯きがちにそう答える。清河もなんて答えればいいのかわからず、病室内にふたたび沈黙が訪れた。

 数十秒の静寂の後、老人が切り出した。
 「清河君、君、十二か月野球ができなくなって、その間どうするんだい?まさか野球をやめるとは言わないだろう?」
 「自主トレくらいしかできませんね…バッティングセンターに行ったり、碓氷とピッチングしたりくらいならできるかもしれないですけど……」
 「うむ……それじゃあ時間的にはすごく暇になるんだろう?」
 「え?ええ…まぁ走るといっても足には限界がありますし、まさかずっと球を投げ続けるなんてできませんしね。暇には、なると思います」
老人の予想外の質問に戸惑いながらも、答える。
 「じゃあ、君が私の代わりに女子チームを指導してくれないかね?」
 「え、ええっ?俺が?女子チームを?」
 「いや、無理にとは言わないんだ。ただ、私が監督業をやれない四ヶ月間だけでもいい、監督代行としてやってくれはしないかな?」

 清河は、一瞬老人が冗談を言っているのかとも思ったが、老人の真剣そのものの目を見て思い直す。
 「いやでも高校生ですよ?それも高一だなんて、親の信頼のこととかいろいろまずいんじゃ……」
 至極当然な疑問。
 「団員の保護者には私から事情を話す。君のことは町中が知ってるだろうから、なんとか説得できるかもしれん」
 「でも、こんなどこの馬の骨ともわからん俺を、あの少女たちは受け入れてくれますか?」
 「それは、わからんな」
 そう言って老人は苦笑した。
 しばしの間、清河は熟考した。確かに今から十二ヶ月間、自主トレだけでは有り余る一日の時間を潰すことは難しい。勉強に力を注ぐということもあるが、清河自身勉強が好きではない。きっと長続きしないだろう。
 「すぐに決める必要はないよ。やりたくなかったら断ってもらって大丈夫だ。私が強制できるはずもないのだしね」
 「そうですね…少し考えさせてもらって良いですか?」
老人が頷くのを見て、清河はポケットからスマホを取り出した。時刻を確認すると、八時半。病院の面会時間はとうに過ぎてしまっている時間である。
 老人に頭を下げて、では、と言って清河は病室を後にした。

 消灯後の病院の廊下を抜けて外に出ると、朝夕の気温差が激しい春の夜特有の冷風が、清河の頬をなでた。
街の中心とも言える大学病院の敷地を抜けて、清河は忘れてきたカバンを取りに公園へと足を向けた。
会社帰りと見られるサラリーマンと並んで駅の陸橋を抜け、街灯に照らされた歩道を歩く。住宅街のはずれにある交番を右折すると、ほどなくしてその公園は見えてくる。公園内は誰もいなく、閑散としていた。電球の切れかけている街灯を頼りに公園の外周路で、草木に隠しておいた野球カバンを見つけて、ホッとする。
しかしそのカバンもこれから一年間使わないということを思い出し、本日何度目かわからないため息をついた。

 憂鬱な気持ちでカバンを抱え夜の街を歩いていると、わずか一分ほどで清河は家に着いた。線路沿いに作られた住宅街の一角、隣家を挟んですぐに線路が見える場所に建てられた自宅に足を踏み入れる。
ただいま、と言うと中からどたどたと走ってくる足音が聞こえる。
 「おかえり!兄さん!」
 そう、近所に迷惑になっていないか怪しくなる大音量で迎えられる。
 「ああ、ただいま紅葉(もみじ)。悪かったな遅くなって。飯、食ったか?」
 「いいや!食べてない!」
 「なんでやねん。」
 清河が手のひらをパーにして頭にチョップを入れると、鼻息を荒くした紅葉が答える。
 「兄さんの料理が食べたかったから!」
 「そ、そうか。と言ってもな…今から作れるとなると、チャーハンくらいしか…。」
 清河が靴を脱ぎキッチンに向かいながら言うと、後ろから紅葉がついてくる。
 「……チャーハン!!いやぁ兄さんの作るチャーハンは絶品だからね!チャーハンでお願いしますぅ!」
 やけに芝居かがった声で紅葉が言う。
 「……お、おぉ、そうか。わかった。じゃあ二十分だな、待っててくれ。」
 うん、と言って紅葉はリビングへ駆けていく。清河は荷物を整理すると、手を洗い、腕をまくって料理に取り掛かるとことにした。
 リビングと隣接したキッチンに、ネギを切る規則的な音と紅葉の見ているテレビの音だけが響き渡る。
 三ヶ月前、仕事の都合で米国へ三年間の単身赴任に出た清河の父。それだけでなく、父と離れるのが嫌、なんて理由で母も父についていってしまったので、清河はこの家に残されることとなった。そのとき両親からはアメリカに留学するよう勧められたが、久我西で甲子園を目指すと決めていた清河はその誘いを蹴った。
 せめて妹は連れて行こうと紅葉の説得を試みた両親だったが、紅葉が「兄さんと一緒がいい!」と言って断固としてついて行こうとしなかったので、こうして妹と二人、一軒家に住んでいるのだった。
よく考えてみれば、高校一年生と小学五年生の兄妹だけで住むとはおかしな話である。普通、親戚の家に世話になるだとか、何かしら保護者がつくはずだ。
 そこを兄妹二人での生活をあっさり認めてしまうあたり、清河の両親はいい加減なのだろう。
清河は長身の父の顔を思い出す。世界レベルでは歯が立たなかったとはいえ、日本では名の知れたテニスプレイヤーだった父、薫。その遺伝子を引き継いだからこそ、清河もこうして野球で顕著な成績を残せた訳なのだが。

 そういえば、部活動が一年間停止になったことはさすがに父に報告しなければならないな、と思い、またため息をついてしまう。
 清河が簡単に作れる料理の代表として挙げたチャーハンと、野菜炒めを作り終え食卓に並べる。
何も言わずに配膳を手伝ってくれる紅葉のおかげもあって、すぐにいただきますができた。
 「ん~おいしぃ~!!」
 と、本当に美味しそうに紅葉が食べるので、一緒に食べている清河も美味しく食べられる。食事のときはいつも、紅葉がいてよかったなと思う。
 「そういえばさ紅葉、俺野球できなくなっちゃったんだよね……」
 いつかは話さなければならないとわかっていたものの、いざ話すとなると気が重い。
 「えっ!なんでっ!?」
 清河は先ほど老人にしたのと同じ説明を、紅葉にする。
 「そうなんだ…兄さんあんなに甲子園目指すって言ってたのに……」
 紅葉が、まるで自分のことのように悲しそうな顔をするため、なんだか清河は申し訳ない気持ちになってしまった。
 流れているバラエティー番組の笑い声がやけに虚しく聞こえる。なんとか空気を入れ替えたいと思い、清河は努めて明るく切り出した。
 「そうだ、紅葉!この町に女子だけの野球チームがあるって知ってっか?なんか遠藤とかいうじいさんが監督をやってるっていう、小学生の女子チームなんだけど」
 「え?え、あ、ああ知ってるよ!もちろん!たしか十一人くらいの少ない部員だったはずだけどね!うちの学校の生徒なんだ!みんな」
 なぜか紅葉がよそよそしく、驚いたような口調でそう答える。
 「ほう?なんだかやけに詳しいんだな。そこの部員と仲よかったりするのか?」
 「う、うん、そ、そんな感じ…かな?」
 紅葉は、やはりやけにソワソワしている。
 「どうした?トイレ行きたいなら行ってもいいぞ?」
 「い、いやぁそんなんじゃないの。な、なんでもないっ!」
 そう言って、紅葉は思い出したようにスプーンを持ってチャーハンをかき込み始めた。
 「けほっ、けほっ」
 案の定、チャーハンをたくさん口に含んだ紅葉がむせ始める。
 「おいおい、大丈夫か?」
 清河が紅葉の背中をさすってやると、しばらくして紅葉は平静を取り戻した。
 「ごちそうさまっ!」
 そしてなぜだか今日だけ早く食べ終えた紅葉が、自分の食器をキッチンへ運んで急ぎ足で自室へ向かう。
 「変なやつ」
 紅葉の奇行に疑問を抱きながらも、一人残された清河はチャーハンを平らげた。


翌朝、今まで通りなら朝練に行っていたはずの清河は、癖で早起きしてしまい手持ち無沙汰だったため、ランニングをしていた。
朝練のため六時五十分には家を出るはずだったので、その時間を埋めるために四キロのランニング。恵まれた快晴だというのに野球ができないことに苛立ちを覚えながらも、ペースを落とさないように気を引き締める。
学校までの通学路とは反対方向、町の外れの方角へ向かって走る。線路と並走しているこのコースは、春休み中ずっと使っていたコースだったため少々飽きが来ているが、代わりのコースが思いつかなかったので仕方がない。住宅地をぐるりと囲むように走りながら、道行く人に頭を下げる。
OLと思わしき犬の散歩をしている女性は、清河に笑顔で挨拶を返してくれた。

文字通り、爽やかな朝である。
しかし、清河の心はその晴天とは裏腹に、どんよりと曇っていた。
もちろん、部活動停止の件である。
学校で野球部の仲間に会ったらなんと言えば良いのだろうか。いじめの実行犯に清河は何か文句を言うべきなのか。
十四分ほどでランニングを終え、帰宅。同時に紅葉が二階から降りてきて、朝から元気な顔で清河におはよう、と言う。
出かける前に焼いていったパンはいささか冷めてしまっていたが、火照った体にはちょうど良かった。ニュースを見ながらの朝食を終え、シャワーで汗を流す。
それでも暇になった時間を新聞を読むことによって潰し、七時五十分、清河は久しぶりに紅葉と一緒に家を出た。

「行ってきます!じゃまた放課後!」
紅葉が元気な声を張り上げて駆けていくのを見届けた後、清河は一人学生カバンを肩に下げて学校へ向かった。
家からは一キロと少しのところにある、県立久我西高校。生徒数七百二十八人、部活動全体として顕著な成績を残し、県内公立校最強の名を欲しいままにしている。そのため、部活をやるために町外からも多数の生徒がこの学校にやって来ている。かといって、学校全体としての偏差値も五十五と、高いとは言わずとも決して低いわけではない。
あまりに運動しかせず、全く勉強ができませんという者は、この学校にはいない。その他にも、普通科とは別に設置された英語科では、有名大学に多数の生徒を輩出し、県内の先端を行く高校でもあった。そしてその野球部は、ベスト八、ベスト四には常連、年によっては甲子園に出場することもある、いわば強豪。公立で最も甲子園に近いと言われてるこの高校に清河が入学を決めたのも、過去の実績があったからだった。

それが今や部内暴力で活動中止。学校内でも一目置かれている野球部の失態は、すでに全校生徒の知るところだろう。
十分ちょっとの通学が終わりに差しかかり、清河はその三階建の校舎を見上げた。その隣のグランドに野球部の姿がないのを確認して、またため息をつく。
憂鬱な気持ちを隠そうともせずに下駄箱で靴を履き替える。
下っ端は多く歩け、という意味なのかは知らないが、三階に配置された一年生の教室へと向かう。

階段を上りきり、教室へと足を踏み入れようとしたとき、後ろから肩に手が置かれた。反射的に振り返ると、そこには中学時代の清河の女房役、碓氷が立っていた。百八十センチをゆうに超えてるだろう背丈に、がっしりと筋肉がついた肢体。初めて見た人なら圧倒されるだろう。その碓氷に連れてかれるがままに、並んだ普通教室のとなりにある鍵が開け放たれていた空き教室に入る。
切り出したのは碓氷だった。
「まぁ知ってると思うが、確認だ。俺らがここに合格してから二ヶ月、野球部の練習に来ていたな?その間に一年生十七人のうち数人が、三年から暴力を受けていた」
「三年から?」
「ああ、さっき他の奴に聞いた話だと、二年は全く関与していないらしい。まあ知っていた奴もいるかもしれんが、実際に暴力をしていたのは三年という話だ」
清河は目を見開いた。てっきり自分たちより下の立場の人間できた二年が暴行をしていたと考えていたのだが、どうやら違ったようだ。
「全く馬鹿らしい話だぜ。それで一年間野球ができないなんてな。ふざけんなよって」

碓氷がいらだった様子で机を叩く。
「この決定が覆ることはないのか?」
一縷の望みを託して問う。
「だめだな、この決定は高校野球連盟からだ。俺らが何したところで決定は覆らねえだろうな」
さも悔しそうな顔で、碓氷が言う。
希望はないとわかっていたものの、改めて信頼の置ける碓氷にそう言われると、塞ぎ込んでいた絶望感が湧き上がってくる。
しばしの間、二人とも無言になる。ちょうどそのとき始業のチャイムが鳴り、たまには一緒に自主トレをしよう、という話になってその場は解散となった。

その後、授業はいつも通り行われたが、授業中も全く集中できず、ただただ時間を浪費していくだけだった。名前も知らないような女子生徒が清河に事情を聞いてきたときは、さすがにうんざりした。
学校中が、今年最も注目を集めていた部活動であった野球部の話題でひっきりなしの中、清河は心に溜まる憂鬱を、ため息をつくことによって逃がしながら一日を終えた。
 野球の道具がないことによって圧倒的に軽くなった通学カバンを持ち、清河は学校の校門を出た。砂が取り除かれた上質な土のグラウンドには、もちろん野球部の姿はない。いつもはグラウンドを半分ずつ分け合っているサッカー部が、野球部の使用面積に入り込んでいる。もともと公立校としては広大な面積を誇るグラウンドを目一杯使えて、サッカー部はさも満足といったところだろうか。

 家への道のりの途中、清河は先ほど行われた野球部会議を思い出していた。
 暴力を行っていた生徒は、碓氷の言っていた通り三年で、数は四。名前すら覚えていない生徒だったから、間違いなくレギュラーメンバーではないだろう。いじめられた生徒は二人で清河と同じ一年生。顔には傷は見受けられなかったものの、後で個人的に見せてもらった背中には、痛々しい痣がいくつも見受けられた。これを全部やられたのか、と聞くと、その生徒二人は黙って首肯した。
 そのことを多くの部員が知らなかったというのもまた事実なようで、最後の一年、甲子園出場を絶対目標としていたエースは、怒りを隠そうともせず、壁に拳を打ち付けていた。
 責任問題を問われるだろう名将、小野田監督はおそらく監督辞任。四人いた女子マネージャーも二人は退部を決めたようで、清河は野球部が崩壊していく様子をただ見ていることしかできなかった。

 足取りの重さは朝よりも悪化していたが、トレーニングだけは欠かさずやろうと思い、昨日の公園に向かう。
 昨日と同じ位置にカバンを置き、上着を脱いでジャージになる。すると清河は公園の中心、土になっている部分に女子の集団がいるのを見つけた。
目を凝らすと、それが昨日の女子野球チームのメンバーだということがわかる。全員がジャージに身を包んでいて、スポーツがしやすそうな服装をしている。

 清河は、昨日の老人との会話を思い出し、どんな練習をするのかしばらく窺うことにした。怪しまれないよう、さも自然体を装ってその集団を見やる。
しかし、あろうことか一向に練習は進まない。ベンチに座り込んで話をする者もいれば、木の枝を持って地面に絵を描きだす者もいる。
 そしてなぜだか全身に真っ黒のジャージを纏い、フードをかぶり、ブツブツと何かつぶやいている者までいた。
見たところ野球らしき行動をしているのは一人だけ。昨日、救急隊員を誘導するように頼んだ際、引き受けてくれた赤髪ショートヘアの少女だった。  
 肩口で髪を切りそろえたその少女は、右手に持ったロングタオルを使って、シャドウピッチングを行っていた。百五十センチに満たないであろうその身体全体を使った投球フォームは、遠くから見ている清河でもわかる。彼女には才能がある、と。しばしその練習姿に見惚れていた清河は首を移動して固まった。
 なんと、そこに紅葉がいたのだ。同学年だろうか、同じくらいの背の少女と一緒に木の根元に座り込んでいる。

 一昨日だかに清河が洗濯をした黒地にピンクのウィンドブレーカー。両サイドで髪を結ぶその後ろ姿は、間違いなく紅葉であった。なんでここに紅葉がいるのかと、清河は声をかけようとして、踏み止まる。ここで出て行ったら不審者だと思われるだろうか、とにかく周りの少女たちに疑念の目を向けられるのは間違いない。
 それから十数分が経ち、太陽がだいぶ西に傾いた頃、三々五々少女たちは散っていった。紅葉の姿も見えなくなり、あたりには街灯が灯り始める。だいぶ長い時間その集団を見ていた清河は、自分もそろそろ四周走って商店街に買い物に行こうか、と思って踏みとどまった。
 さっきシャドウピッチングをしていた少女が、今度は素振りをしていたのだ。
決してスイングが速い、というわけではない。あの少女が打ったところで打球が遠くへ飛ぶとも思わなかったが、そのスイングはピタリと平行運動を行っており、まるで野球雑誌の見本スイングを見ているかのようだった。
清河はその少女の事が気になってしまい、走るのも忘れて少女の近くへと向かった。

 すると少女もこちらに気がついたのだろうか、振っていたバットを立て、こちらを見た。思わず立ち止まるが、少女が怯えているようには見えない。清河は意を決して少女の近くまで歩みを進めた。

 「えっと…き、君は女子野球チームのメンバー、でいいのかな?」
 近づいたのはいいものの、なんと言えばいいかわからずにそんなことを口走る。
 「はい、そうです」
 清河よりもはっきりとした、礼儀正しいといった態度で少女が答える。
 会って早々の小学生に使う言葉ではないのかもしれないが、どこか、大人っぽさを感じる。
 「そ、そうか。今、君の素振りを見ていたんだけどな、すごく綺麗なスイングですげえなって思ってたんだ。あ、俺は…」
 「小鳥遊清河…さん?」
 自己紹介をしようとした清河に被せるように少女が言う。
 「えっ、なんで俺の名前を?」
 「谷之守中でエースだった小鳥遊投手ですよね?全国ベスト8まで上り詰めたあの…」
 初対面だというのに人見知りする様子もなく、清河の目を見て喋るため、清河の方が少したじろいでしまう。

 「ああ、そう、その小鳥遊清河で間違いない。ってまさか知ってるとはなぁ…」
 この町内だけではあるが、自分の知名度の高さに今更ながら驚く。
 「もちろん知ってますよ!全国大会でMAX百三十キロ。ストレートと投げ方の区別がつかない変化球にバッターは驚いて手が出ないって!更には朝練の前にも走り込むような努力家で、野球の練習を全く苦に思わないらしいですし!準準決勝後にデッドボールを当てた相手チームの選手に声をかけに行った話はすごく話題に…!」
 と、少女はそこまで言って頬を赤らめて俯いた。正直清河も、面食らった。まさか初対面で自分のことについてここまで語られるとは。しかもまだ語り足りてないといった様子だ。
 自己紹介以前にこれほど自分のことについて語られてしまったため、思うように次の言葉が出てこない。少女はまだ俯いたままだった。

 「そ、そうか・・・。え、えと…君の名前は?」
意を決してそう口を開く。
 「わ、わたしですか?わ、わたしは天月日依梨(あまつきひより)って言います……」
 さっきに比べて幾分おどおどした声で日依梨と名乗った少女が答える。
 「天月…日依梨ちゃん、ね」
 はい、と言ってまた日依梨は俯いてしまう。清河も続く言葉につまり、二人の間に微妙な空気が流れる。
 日は西の空に沈みきり、気温は更に低くなっていく。
 「うちへは帰らなくていいの?もうこんな時間だけど」
 「うちには、その、お姉ちゃんはまだ帰っていないはずですし…。家にいても一人じゃつまらないんです……」
 「お姉さん?両親は?」
 「いえ、お母さんは九年前に死んでいます…。私はそのときの記憶があんまりないんですけど……」
 触れてはいけないことに触れてしまった気がして、清河は軽率な自分を恥じた。
天月…妻が他界…清河はその二つの言葉に聞き覚えがあった気がして、思い出そうとする。
 「言いたくなかったらいいんだけど、お父さんの名前って…?」
 「天月、大成です」
 「やっぱり!あの天月選手!」

 聞き覚えの正体がはっきりして、清河は大声を上げた。天月大成、ピッチャー、プロ野球選手。決して知名度の高い選手ではないが、その投球術と野球に対する姿勢は清河も学ぶものがあったので、覚えている。
 「お父さんのことを知っているんですか…!?」
 日依梨が顔を驚いた、という表情に変えて言う。
 「ああ、知ってるさ。個人的には好きな選手でもあるしな」
さも当然、といった清河の反応に日依梨は驚いたようだった。口を開け、呆然としている。
 「どうかした?そんなに驚いたような顔して」
 「いっ、いぇっ!あの、その、お父さんのことについて知ってたのは清河さんが初めてだったので…」
 「そう…なんだ。あの体躯であれだけの球が投げられる選手は天月選手一人だけだと思うけどなぁ…」
 「そ、そんなことは…」
 家族代表としてだろうか、日依梨が謙遜を込めて言う。
 「じゃあ野球は、大好き?」
 「もちろんですっ!やるのも見るのも全部好きです!」
 さっきまでとは打って変わって、日依梨が満面の笑みで答える。
 「そうか」
 日依梨の笑顔に思わず清河も自然が笑みがこぼれてれしまう。
 「じゃあそろそろ帰るとするかな。日依梨ちゃん…?でいいのかな」
 「日依梨で大丈夫ですよ」
 「そうか、時間取らせちゃって悪かったな。またな、日依梨。気をつけて帰れよ?」
 「いえいえ、清河さんこそ、気をつけて」
 教科書通り、といった日依梨の回答にやはり大人っぽさを感じながら、清河は公園を後にした。その足で商店街へと向かう途中、トレーニングをしなかったことを思い出したが、今更戻るのもどうかと思い諦めた。

 公園から数分で着く商店街は一番混み合う時間こそ過ぎ去ったものの、まだたくさんの人で賑わっていた。最近、線路を挟んで町の北側に中規模のショッピングモールができた影響を多少受けてはいるが、古くからの固定客は未だにこの商店街を活用している。
 清河もその一人であった。精肉、成果、雑貨など生活に必要なものは一通りここで揃えられる。
 夕食の準備担当が清河である以上、買い物をするのも必然的に清河となる。もちろん、まだ小学生である紅葉に買い物に行かせるのは忍びないという気持ちもあるが。
 夕飯のメニューを考えながらいくつかの店を歩いて回る。
 「清河くん!ほら、持ってけ!」
 「はい、これおまけね」
 ここにも全国ベスト八の影響がでているのか、商店街では清河にサービスをしてくれる人が多い。いくたびにサービスしてくれる精肉店については、清河という客から儲けが出ているのか怪しいほどだ。

 すると、ちょいちょい、と手招きしている八百屋の姿が目にとまる。
 「清河くん、息子から聞いたんだけどさ、高校の野球部内で暴力沙汰があったんだって?それで一年間部活停止って本当かい?」
 「ええ、残念ですけど本当です。今日から一年間部活はできないんですよ」
 あちゃー、といった風に八百屋の親父が頭を抱える。もう商店街にも知れ渡っているのか、頭を抱えたいのは清河の方だ。気の毒だな、と言った親父から離れて、そのまま家へ向かう。

 商店街からも徒歩数分で着く清河の家は、良い立地条件にあるのかもしれない。二人で住むのには少々広い一軒家の玄関に鍵を差す。
 「ただいまー」
 返事がない。いつもなら紅葉が走って迎えてくれるはずなのだが。
 「おーい紅葉ー」
 エコバックを持ったままリビングに入ると、そこに紅葉の姿はない。不思議に思って二階の紅葉の部屋をノックする。
 「紅葉?いる?」
 「あ、兄さん。その、おかえり」
 「どうかした?」
 言いながら部屋のドアを開ける。
 「そ、その兄さん、怒ってない?」
 なぜか部屋の中心で正座をした紅葉が清河を見上げる。
 「怒る?なんで?」
 「いや…だからその野球…」
 「ああ、女子野球チームのことね。あれ?紅葉気付いてたの?」
 「う、うん……あれ兄さんだよなぁーって」
 「バレてたのか…って、まぁ一言言っては欲しかったけど、運動するぶんには何も言わんよ俺は」

 「だよねっ!やっぱり兄さんだーいすきっ!」
 と言っていきなり紅葉が清河に抱きついてくる。
 「お、おう。でもまさか紅葉が野球をやるなんてな。昔は父さんとテニスしてたじゃないか、てっきり俺はテニスをするものかと」
 「テニスも考えたんだけどねー。友達に誘われてチームの練習にいってみたら思ったよりも楽しくて!そのまま入ることを決めちゃった!」
 「保護者の承認もなくチームに入れるのか?」
 「ううん、お母さんには連絡とった!」
 そう満面の笑みで言う紅葉を見て、theおおざっぱな母親の顔を思い浮かべる。いい加減な人だとは思っていたが、息子にくらい連絡をくれないものか。
 「そ、そうか」
 「んで、兄さん!昨日言ってたでしょ?うちのチームのコーチをしてくれるって!」
 「いやまだやるって決めたわけじゃないけど」
 「だめっ!兄さんに拒否権はないっ!絶対にやりなさい!」
清河より三十センチほど下から、上から目線で、まだ清河に抱きついたままの紅葉が言う。
 「もうちょっと考えさせてくれ。まだ俺の中でも整理がついてないんだ……」
 「うん、わかった。でもきっと兄さんはやってくれるよねっ!」
 「う、うん……」
 半強制的な紅葉の態度に困惑したものの、紅葉が野球をやり始めたということは素直に嬉しかった。
 抱きついていた紅葉を引き剥がし、気分が最高潮になった紅葉と連れ立って下へ降りていく。

 今日は楽しい夕食になりそうだ。


土曜日。一般的な高校生なら、部活組は早起き、部活がない人間は遅く起きるのが定石だろう。しかし、そのどちらにも属さない、部活はやっているが停止中、という珍しい立場に立たされた清河の朝は早かった。
六時半起床。起きたらまず洗面所で顔を洗い、日課であるストレッチをする。
体が柔らかいに越したことはないので、このストレッチはスポーツやるやらないに関わらず、意味があると言える。
まだ紅葉は起きていないようだったので、メモとともに朝食であるパンとサラダを作り置き、七時十分、ランニングシューズとウィンドブレーカーをまとって、財布とスマホを持って家を出る。
 
四月も中旬に入ろうとしていたが、比較的高緯度かつ標高も高めであるこの地域の朝はまだ寒い。白い息を撒き散らしながら、だんだんとペースを上げて走っていく。
昨日とは違う道を走りたいと思い、駅の方角へと足を進める。駅までは走れば三分とかからず着く。町の一番の中心である駅を越え、線路と並走するような形になると、駅の駐車場には休日だからだろうか、車がたくさん止まっている。その駅の敷地を抜けると、線路を挟んだ向かいに清河の通う高校が見えてくる。
そのグラウンドでは、サッカー部が試合の準備をしているのが見て取れる。野球部が使わない分、さらにグラウンドは広く使える。サッカーが二面とれてもおかしくはないほどに、久我西のグラウンドは広い。視線を戻して前を向くと、ほどなくして右側、距離にして一キロはあるのだろうか、巨大な工場らしきものが見える。否、それは間違いなく工場だ。
敷地面積、千八百メートル×八百メートル。隣町とこの町にかけて作られた巨大な半導体生産工場。谷之森町が属する真華市の政策として、六年前の合併時に作られ、最新鋭の設備を兼ね備えたこの町のシンボルともいえる建物。
その工場の前には、輸送用のために新たな道も建設された。
清河は、その先端技術の英知である工場を快く思ってはいなかったが、この町がその工場おかけで過疎化を免れているのもまた事実だった。
その新しく作られた道を挟んで線路沿い、清河が今走っている道沿いには工業団地があるのだが、清河が一目見てわかる通り、その工場の多くがすでに使われていない。

そして駅から二キロほど、工業団地の入り口あたりにある踏切を渡る。
バーが廃れてしまい酷く汚れてしまっているその踏切を渡り、今度はまた駅方面へと向かう。清河の背中側には陸上競技場兼サッカー場と、一年に一度プロ野球の試合が行われる野球場がある。右手に新しい住宅街を見据えながら、高校の前まで来る。そこから一本、右に道を逸れた場所に、例の大学病院があった。
県立昇華大学付属病院。大学の官舎はここから五キロほど行った隣町にあるのだが、その付属病院があるのがこの町。
半導体生産工場には及ばないものの、五百メートル四方ほどの面積を持つこの病院も、やはりこの町の象徴と言えるだろう。
四つある門のうち、二つ目に大きい門から病院の敷地に入る。敷地入ったらまず、有名なチェーン喫茶店が目にとまる。そこを通り過ぎて奥に進むと、もう一つの道と合流し、外来受付窓口がある建物へと入っていく。
午前八時を回ったあたり。土日の面会時間は八時から午後五時と定められているが、朝早くから面会に来る人は少ないようで、受付前のロビーは人がまばらだった。
受付の人に軽く会釈すると、そのままエレベーターの隣の階段を上る。エレベーターがちょうど使えるタイミングではあったものの、やはり若者がエレベーターを使うのは背徳感に駆られざるを得ない。
二○二号室には、朝の日差しが目一杯注ぎ込んでいた。カーテンが全開に開け放たれたそこに、遠藤尊彦はいた。
失礼します、と言って入ると、すぐに返事が返ってくる。
「おお、小鳥遊くんか、こっちへどうぞきたまえ」
老人に促されて、ベットの脇のパイプ椅子に腰掛ける。
「ここに来てくれたってことは、もしかしてやる気になってくれたのかな?」
「ええ、昨日一日考えたんですが、やっぱりこの一年暇になりそうです。監督が戻るまでの数ヶ月間、俺がその子たちを見てもいいですか?」
清河は、昨日の夜考えて出した答えを尊彦に伝えた。
「ああ、実はもう昨日のうちに保護者には連絡を取ってあるんだ」
「えっ?昨日?」
「君はやってくれる、となぜかそう思ったんだよ。まあ保護者たちも高校生だってことを伝えると半信半疑だったがな。小鳥遊くん、君なら大丈夫だろう」
「はい、期待に応えられるかはわからないですけど、精一杯やるつもりではいます」
うむ、といった風に尊彦が頷く。そして、満足そうな笑みのまま口を開く。
「それで、何が決め手となったんだい?紅葉ちゃんになんか言われたのかい?」
「って、やっぱり紅葉の兄ってこと知ってたんですか!まぁ、それもありますけど…」

清河は昨日出会った日依梨のことを話した。プロ野球選手の父をもち、あれほどの才能。彼女に見惚れたというわけではないが、なんらかの魅力を彼女に感じてしまったのは事実だ。
「日依梨ちゃんねぇ……やっぱり。うんそうかそうか、日依梨ちゃんの才能はやはりそれほどのものだったのか。私は野球に詳しくないからねぇ…。君に教えてもらえる間になにか掴めるといいな」
「いえ、俺に人に教える才能なんてないですよ、多分。それでも、まぁやれるだけやってみます。あと紅葉も含めて十人いるんですよね?その子たちのこともできる限りサポートしてやりたいです」
「君がそこまで熱意を持って言ってくれるなら安心だな。じゃあそれと…」
尊彦から大会のスケジュールが書き込まれたカレンダーと部員の名簿が渡される。
「実は今日も練習があるんだ。一時から、あの公園でね。ぜひその練習から付き合って欲しいんだが…」
「了解です」
こうして、簡単に監督業引き継ぎのようなものを終え、病室を後にする。倒れたばかりだというのに、尊彦は嬉しそうに笑って清河を送り出してくれた。



四月十五日午前十時、谷之守スポーツ公園内真華野球場
監督、主将は試合開始の一時間前に野球場内バックネット裏の管理室に集合。
手に持った大会トーナメント表の裏にある大会日程を見て、清河は目を点にしていた。
大会が近いことは知っていた。だが、まさか今日を含めて三日後に試合があるなど聞かされていない。確か清河が小学校のときは、大会初日でも二十日以降だった。
そのはずが、まさか明々後日に最初の公式大会。
「どうかしたのー?」
そこに、自室から降りてきた紅葉が口を挟む。
清河は、紅葉に監督業を引き受けたことを伝え、試合のことについて尋ねる。
「やっぱり兄さん引き受けてくれたんだー。ふふふ。あー、試合ね、知ってるよ。明々後日でしょ?確かあのおっきな野球場で」
「いや知ってるって紅葉、大丈夫なのか?この前見たけどほぼ野球らしきことはしてなかったじゃ…」
「んー?大丈夫なんじゃない?よくわからないけど」
「紅葉、一つ聞くぞ…。その、ポジュションとかって決まってるのか?」
「ポジション?わからないけど……」
こりゃダメだ、清河は頭を抱えた。尊彦は自分は野球に詳しくないと言っていたが、まさか守備位置すら決まっていないとは。
「それで兄さん、今日の午後から来るんでしょー?多分今日はたくさん人集まると思うけど」
「ああ、行くよ。大会までもうすぐ。監督業を引き継いだ以上試合にも俺が………」
「やった!やった!」
そう言って紅葉がはしゃぎだす。清河の表情が冴えないのに気づくそぶりもない。

ハァ、とため息をつきながらキッチンに向かう。
適当に有り合わせでおかずを作り、主食としてライスに半熟卵をかける。
基本紅葉は好き嫌いしないし、何を作っても美味しそうに食べてくれるので、作る方としては非常に気が楽だ。
 わずか十数分の調理を終え、食卓に料理を並べる。いただきますをして一緒に食べる間、紅葉は終始嬉しそうだった。
食器を片づけ皿を洗い、自分の部屋へ向かう。野球をするための服装に着替え、試合用ではないサブのグローブを持つ。
守備の練習をする可能性もあるかと考えて、いつも使っているバットを右肩に下げる。
すると今度は白地にピンクのラインが入ったウィンドブレーカーをまとった紅葉が、グローブを入れているであろう袋を下げてやって来る。
「そういえば紅葉、グローブ買ったのか?」
「げ…、そ、その兄さんの昔使ってた……」
しまった、という顔をして紅葉が恐る恐る袋の中をこちらへ見せる。それを取り出すも、
「ってやっぱ左利き用じゃん。俺が使ってたんだから、まぁ当たり前なんだけどさ。紅葉、お前右利きだろ?」
 「う、うん右利きだけど……あんまり関係ないかなって。ほ、ほらまだ始めたばっかだし?」
 「ちょっと待ってろ」
 そう言って二階に向かう。大会の賞状等色々置いてある棚の下を漁ると、あった。
 中学一年のときだったか、多分同学年だとは思うのだが、名も知らない女子から、「受け取ってください!」と言われてもらったものだ。グローブなんてそんな安価なものじゃないし、断ろうと思ったのだが、その女生徒は何も言う前に走り去ってしまった。しかも清河も慌てて、その生徒の顔を覚えていなかった。
 今となっては苦い思い出でしかないが、そのときにもらったグローブだ。しかも右利き用、左利きの清河はもちろん使わない。
 少し大きいかもしれないそのグローブを紅葉に渡して、同時に家を出る。

 家から徒歩数分で着くその公園には、すでに多くのメンバーが集まっていた。まだ集合時間五分前ではあるが、時間にはきっちりしているらしい。
 紅葉の隣に見知らぬ人が立っていることに驚いたのか、話などをしていた女子たちが一斉に黙る。その中に入って紅葉が何かを話すと、こちらを一瞥した後、会話を再開した。
  「清河…さん?ですよね…?」
 後ろを振り向くと、そこには日依梨がいた。
 「ああ、そうだよ」
 驚いた表情の短髪少女を見て、答える。
 「な、なんでここに……?」
 「そういえば言ってなかったっけな」
 日依梨に一連の出来事と、監督業を尊彦の退院までの間引き継ぐことを伝える。
 「えっ……!?清河さんが監督…?」
 驚いたような嬉しいような、なんとも複雑な表情をした日依梨が言う。
 「監督っていっても大したことはできないと思うけどな。一応遠藤監督は、試合のとき俺がベンチに入れるようにはしてくれたみたいだけど」
 「本当に……清河さんが、監督っ!?」
 「あ、ああ、本当だよ」
 「嬉しい、ですっ」
 「そうなのか?ん、まぁ、うん」
 後ろから妙な視線を感じて振り返ると、他のメンバーが清河と日依梨のことをじっと見ていた。
 日依梨が慌ててそっちに向かう。さっきより人が増えたのではないかと思い数えると、そこには計十一人の女子児童達が集まっていた。清河は紅葉を手招きだけで呼び寄せると
 「これで全員か?」
 「うん、今日は全員集まったみたいだねー」
 「よし、わかった」
 そしてベンチの方へと向かい、女子児童達に向く。
 「みんな聞いてくれ。知ってると思うけど、みんなの面倒を見てくれていた遠藤監督は、今入院中だ。明々後日にある大会にも遠藤監督は来ることができない。そこで俺、小鳥遊清河が遠藤監督の代わりとして少しの間、監督代行を行うことになった」
 意識的にゆっくりと、聞きやすいようにはっきり言ったつもりだった。しかし、そこにいる女子児童達は日依梨と紅葉を除いて皆、きょとんとした表情をしている。
 「えーっと…そのだな、せっかく全員集まったんだから自己紹介をしてくれると…」
 白けた雰囲気になってしまい、清河の言葉に覇気がなくなる。誰もが口を閉ざし、沈黙が訪れる。その中、口を開いたのは日依梨だった。
 「えーっと、私は天月日依梨です。好きなことはプロ野球を見たり、ドラマとか…」
 日依梨が口を開いたことに驚いたのか、その他のメンバーは日依梨に視線を釘付けにしていた。すると日依梨がオドオドと下を向き始めたので、慌てて清河は誰ともなしに拍手を送る。するとその拍手はやがてチーム全体に伝染した。

 その拍手が途切れて再び沈黙が訪れるのかと思ったとき、紅葉が手を上げて自己紹介を始める。淀みも緊張感も感じられない語りで自己紹介を終える。すると順々にノってきたメンバーが次々に手を上げて自己紹介をする。
 清河はそれを聞きながら、手元の名簿を見て名前を覚えようと努力した。すると八人目、順調にことが進んでいた中で、異変は起きた。
 「我の名は夜神月奈(やがみるな)。<夜を司りし神>、<漆黒(ダーク)の(・)女王(プリンセス)>、人々はそう呼び、時代ごとに我を畏怖と恐怖の対象としてきた……。だがそれも、夜の力が無限であり、全てを照らす太陽を覆す唯一の力であるからだ。それを持つ我が恐れられても無理もないだろう?
さて…我の目的は、唯一つ。全ての世界を夜の力で支配し、<明けない(ミッド)夜(ナ)の(イ)国(ト)>を創り出すことだ。球をボールで打つ程度の競技(やきゅう)なぞ、我からすれば、遊びにしかすぎない。でも……人々の営みを理解するのも神の務めだ。神の名を持つ我がココにいるのはそういう理由があってのことだ、誤解はするなよ」

 噛むそぶりも見せず、堂々とした態度でそう告げた。
 「えっ…」
 清河は思わず声を上げた。
 これは俗に言う「中二病」というやつではないか?という疑問が頭の中に浮かぶ。
 しかし唖然としている清河とは裏腹に、月奈と名乗った少女に視線を向けていたメンバーたちは、その言動がさも当然といった風に月奈に拍手を送っていた。
 清河もつられて拍手をしたが、名簿の月奈の欄には何も書けなかった。そして、すぐに次の自己紹介が始まる。
  玲、怜と名乗った双子、小四の最年少の二人が、まさに二人で一人といった息ピッタリの自己紹介を終え、十一人すべてが終了した。
 
 初対面である清河を前にしたためか、手間取った子もいたが、周りのメンバーが声をかけることによってどうにか全員乗り切った。
 十分ほどの自己紹介を終えて清河が得た情報は、それぞれの好きな食べ物や趣味、それとチーム全体の雰囲気というか仲は良好である、ということだ。
 「じゃあ最後に俺の自己紹介だな。さっきも言ったけど、俺の名前は小鳥遊清河。久我西高校に通う高校一年で、野球部。だけど訳あって今部活ができないんだ。趣味は野球観戦、ランニングなどの自主トレ、好きなことは野球。特技は野球。好きな食べ物は…基本何でも好きだな。
えー、俺のことはまぁなんて呼んでもらっても構わない。あと…聞きたいことはあるか?」

 すると、八重歯とロングの赤髪が特徴的な、米良彩と名乗った少女が手を挙げる。
 「はーい、小鳥遊監督!彼女はいますか?」
 「いや、彼女はいない。今まで一人もいたことはない…」
 事実であることを口にする。しかし、改めて言葉にしてみると、想像以上の虚しさが込み上げてくる。
 中学校時代、幾度となく告白やら本命チョコやらを貰ったりもしていたが、思考の余地もなくその答えはノーだった。
 「じゃー好きな人はいるんですか?」
 今度は短めの栗色の髪をした、明野智夜と名乗った生徒が口を開く。
 「いや、好きな人とかは特にいないけど・・・ってそんな質問ばっかかよ!」
 すると、最初に手を挙げた彩が口を押さえて笑い出す。さらに智夜も肩を揺すらせて笑い出し、なぜかチーム全体に笑いが広まる。
 「………」
どう対応すれば良いかわからなくなり、呆然とする。
 すると突然、
 「清河監督は妹のことをどう思いますかっ!?」
 紅葉が元気よく手を上げながら叫ぶ。
 「どうもこうもあるのか?妹なのに」
 「可愛いとは思いますかっ!?」
 続けて紅葉が言う。
 「え、いや、まぁ普通に……」
 なぜこんな質問をされてるのか理解できずに、返答に窮すると、満足そうな顔をした紅葉がふふっと笑って口を閉ざす。
 最初こそ白けた反応だったが、徐々にメンバーの緊張もほぐれてきたようだった。紅葉の兄ということもそれを手伝ったのかもしれない。
 それぞれが隣同士でモソモソと何かを話し始めたところで、清河は再び口を開いた。

 「えー、まぁ変な自己紹介になっちゃったけど、早速野球をやっていきたいと思う。知ってのとおり、学童大会は明々後日に迫っている。とりあえず早くポジションを決めてしまいたいから、キャッチボールをしてくれ。それを見てポジションを判断する」
 するとメンバーは、はーいと言ってのそのそとボールを取りに歩き始める。
 どこから金が出てるかは知らないが、バットが二本、ボールが十個、ベンチの上に置いてある。
 それぞれが仲良い同士で二人組を作り、ボールを持って散る。
「そうだ、十一人だから一人、誰か俺とキャッチボールをしてくれないか?」
余ったボールを持ちながら、清河は言った。硬式を普段使ってたからだろう、小学生基準の軟式ボールは相当小さく感じられる。
 紅葉はもうペアを組んでしまったのだろう、誰も手を上げずに微妙な空気になりかけたとき、日依梨が恐る恐る手を挙げた。
 「じゃあ日依梨、よろしく」
 そう言ってキャッチボールが始まる。皆各々がバラバラの方向でキャッチボールを始めてしまったが、日依梨の指示によって南北方向に統一される。聞いてはいないが、日依梨がキャプテンなんだろうとこのとき確信した。

 昨日シャドウピッチングを見ていたときから思っていたが、日依梨は野球が相当上手い。
 玄人はキャッチボールを見ただけでその選手の守備の技術がわかると言われるが、日依梨は良い選手であると一目でわかる。
 捕ってから投げるまでの一連の動作がしなやかに、無駄なく行われる。当然、手足の長さは身長に比例するだろうから、日依梨の手は長いわけではない。それでも、あるだけの体重が全て乗っかったストレートは、綺麗な回転で清河の構えた位置に真っ直ぐやってくる。
 さっきは、日依梨がキャッチボールのペアを作ってなかったことに疑問も抱いたが、それも無理もない。球速以上に速く感じるその球は、捕る方にもある程度の技術が求められる。
日依梨の投球動作にしばし見とれてしまい、ハッと気づいて横を見ると、そこは悲惨だった。
 五組のペアはまともにキャッチボールというものになっていない。投げたボールは明後日の方向に飛び、たまに捕りやすい場所に行くと、グローブはそのボールを落とす。ボールが怖いのか、飛んできたボールから逃げる者までいて、清河は言葉を失った。

 清河が呆然としている意味を察したのか、日依梨は肩をすくめてみせた。
十五分ほど、そのキャッチボールとも呼べない何かを続けたが、飽きてしまったのだろう、メンバーの半数近くが座りこんでしまったところで、休憩、と言う。
すると、自販機へ向かう者、ベンチに座って話す者、バットを振り出す者に分かれる。清河はバットを振り出した月奈に「周りの人に当たらないように気をつけろよ」声をかけた。
 そして、自分のグローブを見つめていた日依梨の肩を叩く。
 「日依梨、キャッチャーとかって、決まってるのか?」
 「いえ…決まってません」
 「打順もポジションも?」
 「ええ…決まってないです…」
 申し訳なさそうに言う日依梨に笑ってみせるが、正直頭を抱えたい。
 試合は三日後、試合まで練習はほとんどできない状況だ。相手がどこであろうと、必敗。
 昨日のうちに察せなかった清河も悪いのだが、予想以上に厳しい戦いになりそうだった。
 その後、軽いノックなどをしたが、当然、まともな練習になるはずもなく、午後二時半、実質一時間もやれずに、今日は解散となった 。
 百六十センチを超えているだろう、茶髪ボブカットの土谷萌(つちやもえ)と名乗った高身長女子が、さっき清河に真っ先に質問をしてきた彩に誘われてどこかへ向かう。
 日依梨も用事があるのだろうか、すでにその姿はなかった。紅葉は仲の良いという辻紗枝(つじさえ)とともにどこかへ行ってしまった。
 グラウンドにはもう誰もいないな、と思い公園を後にしようとしたとき、清河の視界に何かが映った。

 そのなにか、の方を向くとそこには、上下を黒地に金とも黄色ともわからない派手な色が入ったウィンドブレーカーでまとい、夜を思わせる綺麗な黒髪の左右を紅葉と似たようにツインテールでまとめ、月の形を模した髪留めで留めた月奈がいた。
 そして月奈の手にはバット。それにも何やらスポーツメーカーのものとは思えない紋様が入っており、よく見るとそれが三日月の形をしたものだとわかる。
一言で言うと、月奈はそのバットを使って素振りをしていた。
 公園のグラウンド部分の一番端、入り口から最も見えにくい場所でバットを振るその姿は、努力しているのを見られたくない、といったような思いが感じられる。振り返ったが最後、そこから目をそらして帰るのが許されない気がして、清河は素振りをする月奈の元へ近づいて行った。
 百五十センチに満たないであろう身長、軽く押しただけで倒れてしまいそうな体。そしてその体が振り回すバットも決して高速ではなく、バッティングフォームも日依梨と比べれば、いささか不恰好だ。
 清河は自分に背を向けて素振りをする月奈の元へ近づいて、声をかける。
 「月奈?ちゃん?」
 「ひゃっ!?」
 比較的優しく声をかけたつもりだったが、月奈は可愛らしいソプラノの声で純粋に驚いた。そして素振りをしていたバットを地面につき、ゆっくりとこちらを向く。
 「素振り、してたのか?」
 愚問だ。誰がどう見ても、月奈は素振りをしていた。しかし、月奈は目を見開いてブンブンと大きく首を振り、慌てるようにして口を開く。
 「ふ、ふんッ!完璧な私が、そんなことするわけ無いでしょ……あ、違う!えっと………か、完璧な我が、そんなことする筈無かろう?」
「そ、そうか…。まぁいいけど…なんなら俺がスイング見るぞ?大した指導できないかもしれないけど」
すると月奈は顔を赤くしながら、
 「ぬ、主なんぞに、教えを乞うことなど、あ、有り得ないわ!」
 と言って再び清河に背を向けてしまった。清河と同じ左打ち。さっきキャッチボールのときにも見たが、投げる方も左で清河と一緒。
 しかし、数回スイングを見ただけでそのスイングに改善の余地がある、と判断した清河はもう一度月奈に声をかけていた。一人残って練習をするその姿が、部活を停止させられ一人でトレーニングをするしかなくなった清河と重なったから、なのかもしれない。いずれにせよ清河は、この小さな中二病少女に親近感を抱いてしまった。
 
 「なぁ、月奈、って呼んでいいか?」
 「はへ?……ぬ、主は我を愚弄する気か!つ、月の女神の名を持つ我に敬意を見せるどころか、呼び捨てなど…………」
 「よし、じゃあ月奈でいいな」
 月奈の言う意味は全く理解できなかったが、嫌悪感を示したようにも思えなかったので、ひとまずそれが了解だととっておく。
 月奈のスイングには、単純に二つの欠点があった。力がないせいか、バットの振りがドアスイングになってしまっている、というのが一つだ。
 ドアスイングというのは、ボールとバットが当たるときに、リードする腕(右打ちなら左腕、左打ちなら右腕)が折り曲がって開いてしまうという状態のことをいう。こうなってしまうと、打球に力はなくなり、空振りも増えてしまう。
 そして、バットが重すぎる、という点。確認したわけではないが、月奈の力は決して強くない。それは、その華奢な体を見ればわかることだ。自分に合っていない重いバットは、体に負担をかけ、スイングを悪い形にしてしまう。結果、そのバットを使い続けることがドアスイングにつながる。いわば連鎖障害、といったことろか。
 「月奈、ちょっとバット貸してくれないか?」
 すると月奈は驚いたような顔になり、清河の目を見ると下を見て俯いてしまった。
 「ダメか……?」
 すると、恐る恐る、月奈は清河にそのバットを差し出してきた。清河がそのバットを受け取ると、月奈はさらに俯いてしまう。首を傾げながらそのバットを見ると―――そこにはさっき見た通りの十五センチほどの三日月の紋様。
 それも初めから印刷されていた模様ではなく、明らかに手書きだとわかる。元々のメーカーのマークは黒ペンで消してあり、バットの塗装と若干光の反射の仕方が違うため、違和感を覚える。
 そしてバットの根元、野球連盟による大会使用許可のロゴの上に、『★RUNA★』と書いてある。清河はそのバットと俯く月奈を見比べ、気がつかないふりを装おう、と決めた。無論、気づいていると月奈もわかっているのだろうが。
 そのバットを一周させ、それを見つけた。バットの重量が書いてある場所、そこには80㎝/620gと書いてある。六百二十グラムといえば、小学生にしては少々重めである。それをこの華奢な月奈が振るというのには多少無理があるだろう。そして、八十センチメートル、これも小学生にしては長めに分類されるはずだ。
 清河は月奈にそのバットを返すと、もっと軽いバットを使うべきだ、と理由も含めてなるべく柔らかい表現で伝えた。しかし、月奈は

 「嫌だ。我は、そんなに弱弱しくない!それに、このバットはただのバットではない!神である我にのみ使用が許された武具の一つ<月の文様の宝器>(ムーン・ジュエル)だ。そう簡単に手放せるものか!」
 「そのバット、そんなに好きなのか?」
 「うむ!私のお気に入りなんだ」
 そう言って初めて、にっこりと笑った。
 「なんだ、笑うと可愛いじゃんか」
 なぜか、こんな言葉が出てしまった。すると、顔を赤くした月奈が顔をブンブンと振って縮こまる。清河もなんだか照れくさくなってしまい、急いで次の言葉を紡いだ。
 「野球、好きなんだろ?どうせ好きなことやるんじゃ、たくさん打てたほうがいいし、活躍できたほうが楽しいに決まってる。だから、そのバットが振れるくらい上手くなるために、今はこれを使って練習しようぜ」
 そう言って傍らに置いてあった軽い方のバットを渡す。すると、中二病言葉も忘れてしまったのか、顔を上げた月奈が二回頷く。清河はそれを見ると、月奈にバットを持たせ、少しでもドアスイングが改善されるようにアトバイスした。
 およそ三十分、マンツーマンでの自主トレが終わった後、月奈の打撃フォームは見違えるほど良くなっていた。
 それは清河の教えが良かったからではない。他ならぬ月奈自身が、飽きず、向上心を持って取り組んだからだ。
 満足そうに黒のウィンドブレーカーをはためかせて去っていった月奈を見届けて、今度こそ清河は家を目指した。



四月十五日、土曜日。空の四、五割が雲といった、晴れに分類される天気。深呼吸をすると、ここ最近雨が少ないせいか乾いた冷たい空気が喉を冷やす。
午前七時、清河は紅葉と連れ立って家を出るところだった。
「紅葉、準備いいかー?」
「うん!いいよ兄さん!はいレッツゴー!」
朝から威勢の良い紅葉が玄関から飛び出してくる。黒地にピンクの、紅葉のお気に入りのウィンドブレーカー。
しかし、今日は違う点が2つある。開かれた上着の隙間から見えるのは、尊彦が自腹で十一人分を取り揃えたというユニフォームだ。白を基調としたそのユニフォームには、どんなネーミングセンスをしているのか疑問になる『pink girls』とピンク縁の黒字で書いてある。
それと頭に乗っかっている帽子。普段帽子をかぶることなど全くない紅葉がその黒帽をかぶることで、紅葉の印象はガラリと変わる。ルールすら怪しいであろう紅葉なのに、こんなにも野球少女、という言葉が似合いそうに見えてしまうのだ。
「ほら紅葉、ちゃんと前しめて」
「はーぁい」
監督も同じユニフォームを着なければならない、と言われて昨日尊彦からLサイズのユニフォームを貰ったが、どうも着る気になれなかった。それでもグランドコートの下にはきちんと着てきたのだが。
新しいユニフォームが嬉しいのか、妙に浮き足立っている紅葉だが、それとは裏腹に清河の心はどんよりとしていた。清河が監督に就任してから三日間、まともな練習は一度もできていない。
最初の練習ではその練習風景に唖然とし、次の練習となった月曜日は放課後のため時間も限られていた。そこから二日連続の雨。ポジションすらまともに決められていない状態でいきなり大会に行けと言われたのだ。これで気分を高めていくというのも無理があるだろう。
そんなことは気にしてもないのか、はたまた今日の試合がどうなるのかの検討も付いていないのだろう、鼻歌を歌う紅葉と並んで歩くこと二分、公園にたどり着く。

そこにはすでに六人のメンバーが集まっていた。そこには、緊張した面持ちの日依梨と黒地に金のウィンドブレーカーをまとった月奈の姿もある。
「おはようみんな」
年上が先に挨拶するべきだろうと思い清河が先に手を挙げる。日依梨を含む五人は挨拶を返してくれたのだが、月奈は理解不能な言葉を清河に発してきたため思わず苦笑する。
紅葉がメンバーの中に入って会話をし出すのを見て、清河は紙とペンを取り出した。いくら練習をしていないとはいえ、チームのオーダーを決めるのは清河である。
たった二回の練習で判断できるものではないが、決めなければならないのだ。ピッチャー、日依梨からそれ以上ペンが動かないうちに、続々とメンバーが集まってきて、七時二十分、集合時間には全員が集まっていた。
毎日当番制で交代で持ってくるという野球道具があるのを確認すると、清河は全員を集める。
「みんな改めておはよう。練習もあんまりできなかったけど、今日は大会だ。ユニフォームはちゃんと着ているか?」
清河が言うと、メンバーは頷いたりしながら上着を脱いだりする。じゃんけんで決めたという背番号が一から十一まであるのを確認すると、試合が行われる真華球場まで向かうために最寄りのバス停まで向かう。
最寄りのバス停、といっても現在地から五百メートルくらい離れた場所で、交番の横にある。
道具の中で一番重いであろうキャッチャー道具を清河が持つと、日依梨と、数学が得意だと言っていた明野智夜がやってきて残りの荷物を持つ。
清河よりも先にボールを持って一番元気よく飛び出していった紅葉が、紗枝と月奈を引き連れて先頭を歩き、その後ろから続々とメンバーが続いていく。
幸い、幅広い歩道があったため、清河が事故を懸念する必要はなさそうだ。
一番後ろを清河が歩いていると、前にいた日依梨が清河の元までやってきた。
「清河さん……今日の試合、私心配です…。勝てるわけ、ないですよね……やっぱり」
心配そうな顔をする日依梨が、前を歩くメンバーに聞こえないように小さい声でそう言う。
「やってみないことにはわからんけど…大差で負けることもありえるな、これじゃあ……」
ここで嘘をついてもぬかよろこびさせるだけだと思い、思った通りのことを伝える。
「やっぱり、そうですよね……」
「でも、最初から諦めて戦っちゃいけないぞ?できる限りのことはしよう」「はい、そのつもりです」
「頼んだぞ、エース」
清河が肩を叩くと、少し笑ったような表情を見せた日依梨は前に再び戻っていった。
ほどなくしてバス停にたどり着き、数分でやってきたバスに乗り込む。土曜の朝ということもあるだろう、バス停の中は随分と空いていた。後ろから詰めるようにして全員が座ると、すぐにバスは出発する。

バスが動いている間も、清河は試合のことを考えていた。試合は午前十時からのため、それまで二時間ほどある。それまでにメンバーを最終決定しなければならない。
 右手を頬につき熟考しているうちに、バスは真華球場に近づいていた。バス停から出てすぐに左折し、図書館の前を通り過ぎる。駅をまたぐ陸橋を越え、ちらほらと人が見える久我西高のグラウンドを横目に、住宅街を横切る。線路と並走するように六分ほど、ほどなくして球場が見えてきた。
 尊彦の自費だとは思うが、部費という名目で受け取った金で、清河が代表して全員分のバス料金を払う。バスから降りると、球場までは徒歩二分ほどだ。

 谷之守スポーツ公園内真華球場。運動を推進する真華市の政策として五年前に建てられた、一万五千人ほどを収容する巨大な球場。隣にはサッカー場も兼ねている陸上競技場があり、陸上競技場と野球場の合間を縫うようにテニスコートが三面ある。
 入り口があるバックネット裏に来ると、去年のことが昨日のように思い返された。七月の県大会準決勝、二チームが全国大会への切符を手にするため、実質決勝戦よりも準決勝の方が盛り上がる。
 ちょうど今と同じくらいの時間だろうか、この球場を見上げて意識を高めたのだ。しかし、夏場には高校野球の地区予選もこの球場を多く使うことを思うと、やり場のない悔しさがこみ上げてきた。
 雑念を振り払おうと大きく深呼吸をして、メンバーを誘導しながら球場裏の小さなグラウンドへ向かう。
 五十メートル四方ほどで、試合前練習場に指定されているそこには、相手チームである谷之守スポーツ少年団の姿があった。そう、清河が所属していたスポーツ少年団が今日の相手なのだ。
 四月に予選が行われて、五月上旬頃から本大会が始まるこの大会は、各市町村ごとチーム数に応じて県大会の切符数が決まっており、その市町村内で県大会出場チームを決める。
 珍しいことに、そのチームの選び方は市町村ごとにバラバラであり、総当たりのリーグ戦ということころもあれば、普通にトーナメント方式の場所も多い。そしてこの真華市には計八チームがあり、その中で二チームをトーナメントで選ぶ。
 故に決勝戦を戦う必要はなく、二試合勝ち上がれば県大会出場となる。
 最近の小学校野球には詳しくはないが、並んで声を張り上げてランニングをする少年たちの姿は、ある程度の実力があることを感じさせる。

 清河は、昨日尊彦を通して正式にキャプテンに任命された日依梨にストレッチとランニングをしておくようにと伝えると、スポ少の監督に挨拶をしに向かった。
清河が近づいていくと、驚いたような表情の監督と目が合う。
 相手も清河が野球をできなくなったことを知っていたようで、女子チームの監督をやることになったなどという稀有な状況を、割とすんなりと理解してくれた。
 監督の話によれば、スポ少の実力はまあまあのようで、県大会出場は最低の目標ということだ。予想していたことではあるが、これで勝つのはいよいよ無謀ということになる。
 苦笑しつつもスポ少がキャッチボールに入ったのを見届けて、メンバーの元に戻る。まだストレッチの途中のようで、二人一組になって互いを押しあったりしていた。戻ってきた清河を驚かせたのはその体の柔らかさだ。
 うぅ、だのうめき声をあげながらも、開いた足はべったりと地面につき、前にかがむと顎が地面につく者も多い。ピッチャーであるが体が硬い清河は羨ましいくらいだ。
 しばらくしてストレッチが終わると、日依梨の号令の下、ランニングが始まる。野球の実力はアレだが、メンバーはみんな日依梨に信頼を寄せているらしい。
清河の言ったことには反応の薄いメンバーも、日依梨の指示にはきちんと従う。あの月奈ですら、だ。
 清河も列の最後尾について、グラウンドを一周する。グラウンドを囲む木々は朝露で濡れており、昨晩が冷え込んだことを示唆していた。
 普段から走りこんでいる清河にとってみれば実にゆったりとしたペースだったが、額に若干汗を浮かべているメンバーも見受けられる。全員の呼吸が落ち着いたところで、キャッチボールをするように指示を出す。
 今日は極力全員の実力を測り、ポジションを最善の状態で組まなければならないので、日依梨には違う人とやってもらうように言った。
 それぞれが等間隔に散らばり、ボールを投げ始める。しかし、ほとんどの組が一球目からあらぬ方向にボールを飛ばし、隣同士の組がボールを避け合うという謎めいた光景が繰り広げられる。
 清河が絶望しそうになりながらも唯一、まともなボールを投げられる日依梨の相手をしている萌だけは、避け気味ながらもボールを捕ることに成功していた。
ポジションを決めるために一人一人を注視していくと、キャッチボールと呼べるものができているのは日依梨、おぼつかない様子でなんとかボールをキャッチしている萌、そして意外なことに月奈だった。
 月奈のそれは決していい投げ方とは言えないものの、先日清河が指導した素振りと同じようにか、自分で練習して会得ように見受けられる。
 捕り方も危なっかしいが、構えた位置より体二個分ほど逸れたボールから目をそらすことなくグローブに収めている。
長い距離を投げられないためどの組も十数メートルほどで停止し、しばらくそのキャッチボールとも呼べない何かを続けた後、清河はやめ、の指示を出した。
数時間後に始まる試合に対する緊張感がないのか、楽しそうに笑みを浮かべているメンバーに休憩するよう促し、日依梨を呼ぶ。
  じっ、とグローブを見つめていた日依梨が顔を上げてこちらへ走ってくる。
 「日依梨、まぁそのメンバーを決めなきゃならんわけだけど、相談に乗ってくれるか?」
 「はい、わかりました」
 「まずピッチャーは日依梨で決定、これはいいな?」
 「は、はい。自信はないですが……」
 「大丈夫だ、お前の実力は俺が保証する」
 そう言うと、日依梨は小さくコクン、と頷いた。
 日依梨との話し合いの結果、キッチャーは長身の萌、ピッチャー、キッチャーの次に多くボールが飛んでくるであろうファーストに、月奈。あとの守備位置は守備がマシな順にショート、サードと決めていく。
 日依梨にメンバーの名前の字を聞きながら打順を適当に決め、なるべくていねいな字でオーダー表に書き連ねる。
 書き終わって清河が顔を上げると、戻ってきたメンバーが集まっていた。
すると

 「本日の第一試合は、谷之守スポーツ少年団対pink girlsによって行われます。両チームの主将と監督はオーダー表を二枚持って、バックネット裏管理室まで来てください」
 整った女声が耳に届く。
 メンバー全員にキャッチボールを続けておくよう伝えると、日依梨を伴って指定された場所へ向かう。
 球場の周りを沿うように歩き、球場内へ入る。最新鋭よろしくLEDに照らされた廊下を歩き管理室に入ると、そこにはさっき挨拶したスポ少の監督とキャプテンらしき少年の姿。
 小学生にしては大きく、百六十センチ以上はありそうでガタイもいいその少年は、清河の顔を見るなりなにやら高圧的な目線を向けてきた。
 なぜその少年が挑戦的な目線を向けてきたかわからずに思案していると、審判服をまとった長身の男性に、驚いたような目をされる。しかし、清河が尊彦から言われた通りのことを伝えると、まがりなりにも納得した様子の審判によって、コイントスが行われる。
 なぜだか日依梨にも冷たい視線を向けた少年と日依梨が対峙し、しばらくしてトスが完了する。表だったスポ少が先攻、裏のpink girlsが後攻ということでメンバー表を交換すると、退出を促される。

 清河はスポ少の監督と握手をすると、スポ少の二人とは反対側へと向かった。
 途中窓から球場内を見ると、ライン引きが完了したところらしく、いでも試合が始められるという状況だった。それを見ると、焦燥にも似た感情が体の中に渦巻いてくる。清河はそれを払拭するように口を開いた。
 「なぁ日依梨、相手チームのキャプテン、なにやらトゲトゲしたような感じだったけど、いつもあんななのか?」
 「いえ、学校内ではみんなに尊敬されるような良い人ですよ。まぁ、たまに揉め事を起こしたりもするんですが……」
 「じゃあなんでさっきはあんなんだったんだ?」
 「実は……」
 練習中だったグラウンドに戻る時間で、日依梨はpink girls ができた理由を簡単に清河に話してくれた。少々歯切れの悪かった日依梨の話をまとめると、
 日依梨は最初、スポ少に属していた。
 しかし、自分が女だからなのか、部員から嫌がらせのようなものを受けていた。
 それが嫌で父親に相談した結果、一度スポ少を抜けることを決意。
 しばらくして日依梨が仲の良かった女子を誘い野球を始めたのがpink girlsの始まりだということだった。
 「ですから、私はあのチームに嫌われても仕方ないんですよ……」
 そう悲しそうに語る日依梨にかける言葉も見つからず、メンバーの元に戻って荷物を持つと、いよいよ球場へ向かう。
 指定された三塁側ベンチに入ると、さっき感じた焦りのような感情はさらに強くなってきた。一年前の夏、全国大会出場を賭け自分が立ったマウンドを見つめるのもはばかられ、急かすようにメンバーをグラウンドへ出した。
 内野には吸水性に優れた良質な土、まだ寒さの残るこの季節でも鮮やかな緑色を保つ芝生は、それが人工であることを示している。
 スタンドを見上げると、そこには数人の男女が見受けられ、日依梨に言われてそれがメンバーの保護者であると知る。
 尊彦の言葉通りなら清河ことを認知しているはずなので、軽く礼をするだけでスタンドから離れた。
 整備が不要な芝上でキャッチボールを行い、日依梨と萌の即席バッテリーの指導をしたら、すぐに試合開始の時間となった。地区大会の一回戦にもかかわらず、豪勢にもアナウンスでメンバー発表がなされる。
 広い球場内に自分の名前が流れるのが恥ずかしいのか、はたまた嬉しいのか、メンバーはキヤッキャといった風に声を上げる。
 両チームの発表が終わったところで、清河は全員を集めた。

 「いいか、今日は元気よくやれ。今日は初めての試合だろう?野球を思いっきり楽しめ!」
 結構気合を入れて言ったつもりだったが、はーい、と間延びした声が聞こえてきてずっこける。
 それでもメンバーをベンチ前に一列に並べると、球審から集合の号令がかかった。スタンドにも数人メンバーが見受けられるスポ少との挨拶を確認すると、清河はおもむろにサングラスを取り出し、ベンチの奥、相手監督から死角になる場所に座った。

 試合開始を告げるサイレンとともに、日依梨が投球フォームに入り、ボールを放る。無駄の一切ないフォームから繰り出されたボールは、萌の構えたミットの位置ちょうどに収まった。
 二球目、全く同じ位置にいったボールをバットが捉えた。しかし、バットの上っ面に当たったボールは、セカンドベースの後方にふわりと上がる。-普通に考えればショートフライか、センターフライ-のはずなのだが、ボールは前に来たセンターと下がっていったショートの間に落ちた。
   ――― 一言で言えば、それは悲惨な試合だった。
 続く二番打者にはバントをされ、日依梨が捕ったのはいいものの、なぜかファーストの月奈もバントのボールを捕りにきたため、結果、内野安打。三番打者が空振りをした際、そのスイングに驚いた萌が体をすくめ、ボールは後ろに逸れた。
 そして、四番打者には外野まで運ばれ、当然フライなど捕れない外野陣の間を抜けた打球は、ランニングホームランとなってしまった。
 やっとの思いで守備を終え、攻撃の番が回ってくるも、その状況が変わるものでもない。
 まぐれのような形で一番の月奈が出塁したが、相手ピッチャーの様子見のような牽制で軽くアウト。三番に座った日依梨がヒットで出塁したが、後続が続かずにチェンジ。
 アウトになるのはフライ、それもたまにだけで、実際はほとんどピッチャー、ファーストゴロのみ。攻撃陣は相手のピッチャーの速球に怖気づいてバットも振れずに、11×0、五回コールドでpink girlsの敗北が決定した。

 試合後、いっそ清々しいまでの大敗を喫したメンバーの表情は、それぞれだった。
 決して打たれたわけではないものの、五イニングで相当の数球を放った日依梨は帽子を深くかぶってうなだれていた。清河が肩を冷やすためのアイシングをつけてやる間も、何も言おうとはしなかった。
 日依梨の頬に涙が伝うのを見たが日依梨が逃げるように去って行ったため、何も言うことはできなかった。
 月奈は、相も変わらず上を向いていた。しかし、その目にはうっすらと涙が浮かんでおり、なにもできなかった自分に相当悔しさを覚えているのだと想像がつく。
 紅葉にもいつもの元気はなく、拳を握りしめてじっとしていた。泣いた跡が見られないのが、明るさが取り柄の紅葉のせめてものプライドといったところだろうか。
 なんの会話もなく球場を後にし、ゾンビのように乗ったバスでも、誰も口を開くことはなかった。正午を過ぎて空が雲に覆われ、賑やかだった朝のバスが嘘だったかのように思える。
 やがて着いた公園で、清河はメンバーに向かって口を開いた。
 「みんな、今日はお疲れ様。まぁ負けちゃったけど、初めての試合だったんだ、負けて当然。仕方がない」
 できるだけ明るい調子で言ったつもりだったそのセリフは、慰めにもならない。
 「よし!じゃあ一つ質問。一ヶ月後、もう一度スポ少と勝負して、勝てると思う人!」
 唐突な清河の質問にメンバーは皆、何を言っているんだこの人は、という表情をして、誰も手を挙げなかった。
 「……ん?おっかしいなぁ。この中で勝てると思ってるのは俺だけ?」
 柄にもなくおどけた表情で言ってみる、と、
 「さっきからなんなんですか!ふざけないでください!……そりゃあ清河さんは野球が上手いから、試合だってこんな風に負けないでしょうし!でも私たちはッ……!」
 そう、智夜は興奮した様子で言い切ると、その場で泣き始めてしまった。すぐさま、日依梨と彩が智夜の元へ駆け寄って行く。その他数人のメンバーは、清河に非難的な目を向けてくる。
 「ご、ごめん、そんなつもりじゃなくて……」
 予想外の事態にどう対処していいかわからず、見ているだけになってしまう。やがて、少し智夜が落ち着いたところで、清河は再び口を開いた。
 「……んーと、一ヶ月後、スポ少と練習試合をしようと思う。それまでに練習して、スポ少に勝とう。もし勝てなかったら、俺は監督業を降りる。約束するよ」
 「本気…ですか?」
 日依梨が真剣な表情を向けてくる。
 「ああ、本気だ」
 「スポ少に勝つなんて、そんなのできるわけない……」
 ポツリと、今日の試合で相当な数パスボールをしてしまい落ち込んでいた、萌が呟く。
 「簡単じゃないかもしれないけど、勝てないなんてことはない」
 他のメンバーも全員、清河の言葉が信じられないようで、ムリだとか、できない、といった言葉を口々に呟く。
 すると、メンバーの心情を体現するかのように、水滴を限界まで抱え込んだ雲からポツポツと雨が降り出してきた。
 「あー、雨降ってきちゃったから詳しいことは明日話す。じゃ今日は解散!荷物は俺が片付けておくから!」
 ブツブツと文句を垂れながらみんなが解散していったのを見て、思わずため息が出てしまう。メンバーが傘をさして帰路に着くのを見届けると、清河は一人で持つには少々多い道具を背負い抱え、公園の出口に向かう。 

 すると、ピンク色の可愛らしい傘を差した日依梨が公園の入り口立ち止まっていた。
 「清河さん……、さっきの話、本気ですか?」
 「ああ、本気だよ。勝てる確信があるわけじゃないけど、勝てないわけでもない。やってみなくちゃわからないから」
 「…でも負けたら本当に……やめちゃうんですよね?」
 「どっちにしたって、そこで負けたら俺への信頼なんてこれっぽっちもなくなっちゃうだろ。疑心暗鬼ながらも俺にメンバーがギリギリついてきてくれる、と思ったのが一ヶ月。そこで勝てなきゃ、仕方ないな。俺はやめるよ」
 日依梨が道具を持ってくれると言ったので、一つを任せて並んで歩く。徐々に雨脚が強まってきたようで、清河も折りたたみの傘を広げた。
 「でも、勝てるかもしれないんですよね……?」
 「ああ、勝てるかも、な」
 「どうやって、ですか?こんなにボロボロに負けたのに、勝ち目なんて……」
 「あるさ。勝機は十分にある、何度も言うけどやってみなくちゃわからないよ」
 そんなやり取りをしていると、ふたりは清河宅前までやってくる。
 「ここが俺と紅葉の家。荷物置いてくるから、その後送ってくよ」
 「いいですよ、一人で帰れますから」と言った日依梨の持っていた荷物を受け取り、自分の荷物と一緒に庭の倉庫に詰めると、折りたたみ傘を普通の傘に持ち替えて再び日依梨の元へと向かう。
 雨の降りしきる中を日依梨の横に並び歩いて行くと、徒歩数分、街を二つに分ける線路の真ん中、谷之守駅にたどり着く。
 土曜日の昼間だが、雨のせいだろうか、人口の割には少々大きいと感じていた駅の構内は閑散としていた。清河は日依梨を促して、Suicaの普及で使われなくなった券売機の横のベンチに座る。
 「日依梨には最初に話しておこうと思うんだけど……これ」
 そう言って清河が日依梨に見せたのは、今日の試合でつけたスコア表だった。それもただのスコア表ではなく、清河から見た一球一球の大体の配球、内外野手の動き、ポジュショニングなどが断片的に文字で書かれている。
 そして、次のページには相手監督のサイン。どこを触ったときはどのサインが実行されたかを、自分だけにわかる簡略化された暗号で書き連ねていた。
 基本、少年野球のサインがそこまで複雑なことはなく、せいぜい一回のサインで触る箇所は多くて十個。一試合まるまる見ることができれば、パターンや、キーとなる箇所が見破れることも多い。
 「これって……」
 「ああ、今日一日でできるだけのデータは集めたつもりだ。まぁピッチャーも二人しか見ていないし、控えの選手の情報は少ないけどな」
 「本当にこれ、今日だけで…?」
 日依梨が、信じられない、と顔に書いてありそうな口調で聞いてくる。
 「そうだよ。そんなに大したことをしたわけでもないけどな。相手の情報を知るのは、まあ大事なことだし」
 「でも、本当にすごいです……!」
 「いや、大事なのはそこじゃないんだ」 
 「え?」
 「俺は今日、相手の情報を集めた。でも相手は俺たちの情報を集めてはいなかった。こんなに大差がついた勝負、スコアをつける価値もないと判断したんだろうな」
 清河はサインを見るため相手ベンチを凝視していたが、スコア表を書いている人はいなかった。公式戦の場合、スタンドで父兄がスコアをつけている場合も多いが、それもなかったのを確認している。
 「まぁ、スコアをつけたところで、今日の俺たちから情報を得るなんて無理だったと思うけどな」
 清河が苦笑すると、息があったかのように日依梨も笑った。
 「まぁ、守備とかにも課題は大アリだけどな。それもなんとかなるだろ。みんな、それぞれ素質がある。それに、俺らには天月日依梨っていう最高のエースがいるんだしさ」
 照れたように笑う日依梨に缶ジュースを渡して、再び並んで歩く。駅から出て数分、高校を右手に、病院を左手に見据えて歩くと、ほどなくして近頃開発されつつある住宅街が見えてくる。

 「じゃあ、まあ明日」と言って日依梨と別れると、一ヶ月後の勝利へ向けて考えを練るため、清河は家へ向かった。



翌日の朝、朝食を取り終えた清河は、起きてきたばかりの紅葉に朝食をとるように促し、グローブをカバンに詰め背中に背負うと、ランニングシューズを履いて家を出た。
昨日の雨のせいだろうか、道路は湿っていた。その影響か、見上げた空は晴天だが、爽やかというには少々温度の低い微風が頬を撫でる。
  昨晩、「智代ちゃんを泣かせた!」と紅葉に言われ、仲の良い兄妹には珍し ギクシャクとした空気の中で夕食をとったのを思い出し、思わず苦笑する。
それでも一晩寝たら機嫌が直ったようで、山の天気並みに変化の早い紅葉の性格 に心の中で感謝しつつ、あちらこちらに水溜まりの見える道路を走り始めた。
ふと、今日の予定を頭の中で反芻する。走ってバッティングセンターに行き、一、二時間打ち込む。その後、自宅近くの公園で碓氷と自主トレをし、午後一時からは、同じ場所でpink girlsの練習がある。
思ったより日差しが強かったため、カバンからサングラスを取り出しつけて間もなく、踏切を渡ると、自宅から道のりにして二キロのところにあるバッティングセンターにたどり着いた。

 従業員六名、バッティングゲージ六箇所にストラックアウト、簡単なレストランがついたその店の入り口には、個性に欠けると言わざるを得ない、『佐藤バッティングセンター』という店名が書かれている。
個人で経営しているこの店に通い詰めて六年になる清河は、当然その店のオーナーとも顔見知りだった。
かと言って込み入った話ができるほどの仲でもないので、眠そうに目をこすりながらカウンターで頬杖を着くオーナーに軽く会釈をして通り過ぎようとした。が、
「清河くん!清河くん!」
  突然起き上がって手招きをするオーナーに呼ばれる。
「本当に突然なんだがね清河くん、バイトをしてみないかい?」
切羽詰まったようなオーナーの形相に思わずのけぞりながら、『本当に突然だな』と心の中で突っ込みを入れる。
「バイト?」      
「ああ、そうだ。それもただのバイトじゃない。これを見てくれ!」
そう言ってオーナーはカウンター横に貼られたビラを指差す。いつもならスポ少の勧誘やら、河川清掃への参加の要望やらが貼られているはずのそこには、
《四月十六日(日)午前八時半~十時 わが町の英雄、小鳥遊清河くんによるバッティング指導を行います!》と赤字で書かれたビラが大々的に貼られていた。さらにその横には清河の顔写真。
 「なんですかこれっ!てか、日付今日じゃないですか!俺なんも聞いてないっすよっ!?」
 「いやぁまあそれがなかなか言い出せなくて…」
 と、全く悪びれようともせずに語るオーナー。
 「近年客足も右肩下がりでね…そこで何か策はないかと娘に聞いたら、これが一番だというから……」
 すると、カウンターから覗いた人影が突然口を開いた。
 「まぁ良いじゃないですかぁ小鳥遊先輩。可愛い後輩からのお願いだと思って!どうせ、部活動停止中で暇を持て余してるんでしょう?」
 と、満面の笑みで語る少女の顔を見て、思わず顔をしかめる。
 佐藤奏かなで、十四歳、中三。野球部のマネージャー。清河も中学校時代は同じ部だったため、もちろん関わりがある。そして、なによりこのバッティングセンターの長女。上に兄弟がいる筈だが、すでに成人して家を出ているようで近年は数回しか見たことがない。
 「いやいや、よくはねぇだろ!部活動停止中って言っても俺、することはあるし…それに「小学生女児に野球を教えている」」
 と、突然奏が言葉を重ねてくる。
 「ってなんで知って…」
 「そりゃあ先輩、だって私校内一の情報通ですよ?知らないわけないじゃないですかぁ☆」
 得意そうな表情を見せる奏を見て、特技はこの街のことなら誰よりも早く情報を手に入れることです、と言った二年前の奏を思い出す。
 「じゃあ知ってるならなおさらじゃないか。監督業がある以上俺はバイトなんかしてられないぞ」
 「そのバイトの報酬として、その子達に好きなだけ打たせてあげると言っても?」
 「えっ?」
 「もちろん現金でも報酬は出しますよ。時給千六百円でどうでしょ?普通の高校生のバイトの二倍」
 「待て待て待て、そこまでしたらむしろそっちは赤字になるんじゃないのか?俺にそんな経済効果があるとも思えないんだが」
 「いえいえ、私の計算があっていれば絶対黒字です。それに多少赤字でも、話題作りになれば全然オーケーですから」
 清河は頭を抱えた。一時間半、そこに時間を取られるのは痛いし、素人にバッティングを指導する自信なんてないが……時給千六百円、そしてなによりpink girlsに無料で打たせてくれるのはおいしいかもしれない。
 「まぁそもそも、先輩が何を言おうと、もう学校のみんなには広まってるんで手遅れです。ほら、もう直ぐ時間ですから、準備してください」
 そう言われて、清河の抗議の声も聞き入られずに、奥のバッティングゲージに連れて行かれる。
 「はい、あと十分で始まりますから!」
 と言われながら建物の奥の方へ行くと、本来ならば裏口として利用され、職員以外ほぼ使用しないはずの扉から何人もの人が並んでいるのが見て取れた。
 「まてまてまてまて、まさか、これ全員?」
 「ええ、もちろんですよ。これだけいると一人にたいして時間はかけられないでしょうけど、全員に指導が行き渡るようにしてくださいね!」
 清河が呆然としていると、 「少し早いですが…」といった奏の合図によって扉から何人もの人が入ってくる。十、二十………三十人近くいるだろうか?そのほとんどが女子。それも中学校時代見たことがある人が大半だ。
 あまり運動に適してるとは言い難い服装の集団で、元々たいして広くないバッティングセンターの廊下は人でいっぱいになってしまった。
 「はーい、じゃあ整理券の番号順にこちらのゲージへ」
 奏の指示によって最初の人が清河の元へとやってくる。なんと五番目の人までは無料で打席に立てるそうだ。六番目以降の人が、バッティングの際に投入するコインを購入する。
 「何キロにしますか?」とか「どちらの打席ですか?」といった質問は奏がしてくれるらしく、一通りの質問が終わって、いよいよ打撃開始、となる。
 すると、ケージの外で見守っていた奏がなにやらジェスチャーで伝えようとしてくる。なにを言いたいのか要領を得ないが、コミュニケーションを取れ、ということだろうか。
 「君の名前……は?」と初対面のボブカット少女に対して、極めて微妙としか言えないコミュニケーションをとりながら、たったの二十球で何が変わるのか、と奏へ心中で批判しつつ、指導を終えた。
 ありがとうございました、とスカートをひらひらさせながら少女がゲージを出て行くと、次に控えていたこれまた女子生徒が中へ入ってくる。
 と、こんなペースで一度だけ休憩を挟みながら、合計一時間半、約三十人ほどの指導を終え、強制的に始まったバッティング指導も終わりを迎えようとしていた。 
 すると、最後に並んでいたのは、
 「スポ少のキャプテン……」
 そう、昨日対戦したばかりのあの不機嫌な表情だったキャプテンだった。 縫坂涼と名乗った少年は、生意気にも奏の指示を手で制し、なぜか清河に「勝負をしろ」と言ってきた。
 「勝負?なんのために?」
 「理由なんか後だ。二十球でどっちがあのホームランの的の近くにあてられるか勝負だ。審判はそこの人に任せる」
 と言って奏を指差す。
 すると、奏は突如指名されたのにも関わらず、「二人とも的にあてた場合は、より中心に近い方の勝ちね!」といって清河の背中を押した。そしてなぜかウインクを向ける。
 「俺が勝ったらあんたはあのチームの監督をやめろ。すぐにだ」
 「俺が勝ったら?」
 「お前が聞きたいことを何でも一つ、教えてやる」
 と、威圧的な目を向けてくる涼を見て、何が目的かを探る。清河に監督をやめろと言うからには、何か理由があるはずだが……。思い当たらない。
 技術的にはこの勝負、清河が勝てる可能性は高いだろう。しかし、条件的に見ればあまり受ける価値があるとも思えない。
 「まさか、逃げるんじゃないだろうな?俺に負けるのが怖いのか?」
 迷う清河を見てか、涼がさらに眼光を鋭くする。それを見て勝負を受けることを決意した。単純に涼がムカついたというのもあるが、自分は本質的に負けず嫌いなのだ。
 「わかったよ、受けてやる。確かにお前も小学生にしてはなかなかの実力がある。でもな、あんまりなめてもらっちゃ困るぜ」
 そう言いつつ、並べられたバットのうち一番重いのを選ぶ。二人が隣同士のゲージに入って構えたところで、奏が立て続けに二カ所にコインを投入。
 すると、余ったコインで打撃を続けていた数人が集まってきた。どうやら二人の勝負に興味を持ったらしく、結果を見届けるようだ。
 そんなものは気にせずに、隣のケージの右打席に立つ涼の目を見て、集中、と自分に言い聞かせる。
 初球、奏が最初に涼の方にコインを入れたため涼が先になる。すると、涼の振り抜いた打球はいい角度で上がっていき、的から一、二メートルのところに当たった。言うだけあって、実力は大したものだ。
 清河はそれを見て、初球で決めるためにバットを構える。もう見慣れた百三十キロのボールは、ほどよく力の抜けた体幹から出されたバットによって弾かれる。そして、
 『おめでとうございます!ホームランです!!』
 「えっ」
 「すごい……!!」
 ギャラリーがたちまちに声を上げる。
 その打球が直径五十センチほどの的のど真ん中に直撃したのもその理由の一つだろう。清河自身もまさか初球で当たると思っていなかったので驚いていた。
 とりあえずなにかアクションをとったほうがいいと思い、小さくガッツポーズをしておく。そして、まだ十九球余っていたが、奏に機械を止めてもらいケージから出た。
 二十球後、結局涼は的に当てることができずにケージから出てきた。なにやら相当苛立った様子で、自分で持ってきたバットを乱雑に置いた。清河がそのバットを拾ってきちんと立てかけると、涼の顔は一層険しいものとなる。相当悔しがっていることは容易に想像がついた。
 「勝者、小鳥遊先輩~!」
 その涼の苛立ちに油を注ぐかのような奏のハイテンションボイスを聞いて、涼はバットを持って入り口へ向かってしまった。奏と顔を見合わせ、バッティングセンターを出たあたりで涼に追いつく。すると、素直にも涼はこちらへ振り向いた。
 「何が聞きたい……」
 清河に負けたにもかかわらず、相変わらず尊大な態度で涼が問う。
 「二つだ。お前が勝負を挑んだ理由と、日依梨がお前らのとこをやめることになった理由」
 「………別に大した理由なんてねぇよ。ただ、あんたがあそこの監督を始めたってことが気に入らなかっただけだ」
 「そうか。じゃあ日依梨がスポ少を辞めた理由は?」
 すると、涼は清河と目をそらし、下を向いた。二人とも無言で数秒間、時が流れる。
 「お前らが日依梨に嫌がらせをしていた、ってのは本当か?」
 涼は答えようとしない。
 「別に責めてるわけじゃないんだ。きちんと説明してくれればそれでいい」
 「………アイツ等だってこんなことになるとは思ってなかったんだと思う。……ただちょっと服を脱がせようとしたり…弁当の中に小さい虫を入れたり……こんなの俺だってされてた時期があるし。ウチの野球チームに入ったら通る道みたいなものだったから…でも…」
 真顔で語る涼に対し、清河の頬は相当引きつっていたと思う。自分がスポ少にいたときはそんなことなかたよな、と心の中で思い出しながら、続きを話すよう促す。
 「みんな、日依梨が辞めるなんて言い出すとは思ってなかったんだ。あいつは俺らのチームのショートになるはずだったのに……」
 「その日依梨が、pink girlsを作って野球とも呼べないような遊びに興じてるのが許せない。だからあのメンバー表交換のときしかめっ面をしていたと?」
 下を向きながら涼はコクン、と小さく頷く。
 「もしかして……お前、日依梨のことが好き?」
  すると、涼は驚いたかのようにこちらを見返した後、「んなわけねぇだろっ!」と真っ赤になって反抗してくる。
 「図星、か」
 恋愛関連の感情に疎い清河にも、ここまでわかりやすければわかった。その間にも涼は違う!とアピールしてくる。
 「安心しろ、誰にも言わないさ。日依梨がお前らのとこを辞めた理由も分かったしな」
 そう言ったのを見て、清河を信じたのか涼は背を向けて歩き出す。いちいち最後まで格好をつけた涼の背中を見て、清河は思った。
 少々卑怯かもしれないが、日依梨から涼への色仕掛けは相当有効だ、と。

 涼と別れた後、再びバッティングセンターに戻り、待っていた奏に改めて今日の強制バイト、そして自分の練習時間が取れなかったことについて抗議した。
 しかし、奏はそれを笑いながら受け流し、二時間分の給料として三千二百円、さらには《pink girlsにコイン十枚×人数分提供!!!!》と手書きで書いてある紙切れを、乱暴に清河に渡す。
 どこまでも適当なやつだな、と思いつつもそれらを財布にしまい、バッティングセンターを後にした。
 予定の時間より遅れてしまうことは確実だったが、急いで走って帰り、凌牙と約束した公園に行く。
 ブォンと空気の切る音を鳴らしながらバットを振っていた凌牙に遅れた理由を説明すると、少々驚いたのち、「佐藤のやりかねないことだ」と笑って流してくれた。
 二人で軽くストレッチをしたらキャッチボールを開始、三十球ほど投げたところで、凌牙が持ってきたメジャーで十八・四四メートルを計りとり、その距離で数球投げた後、凌牙に座ってもらい投げ込みを開始する。
 振りかぶって、左足を持ち上げる。振りかぶってから投げるまでの間、一度も視線を凌牙のミットに向けないのが二人の約束だった。清河の中指で押し出されたボールは、凌牙の構えた位置に寸分違わず吸い込まれる。

 ―精密機械―それが、中学校時代の清河に付けられた二つ名だった。圧倒的なコントロールを持ち、失投が少ない投手をたたえる言葉だと聞いた。
 もう使い古されたような二つ名だし、それが誇り高いだなんて一度も思ったことはないが。
 なんてことを考えながら、ストレート、スライダー、チェンジアップ、そして自分の中では一番自信のある球、スクリューを投げ込む。元々、腕が上から出てくるオーバースローではなく、すこし下気味から出てくるため、このボールがしっくりときた。
 人差し指と中指を揃えるようにして、普通の変化球とは反対方向に腕を捻るこの球は、中学校レベルで使う投手はほとんどいない。というか、自分以外に投げているのを見たことがない。
 そのボールが凌牙の構えたミットから十センチほど下にゆっくりと落ちていくのを確認する。そんなこんなで計四十球ほどを放って、今日の自主トレは終了となった。
 これからバッティングセンターへ向かう、と言った凌牙と二日に一度は投げ込みをすることを約束し、家に帰る。
 紅葉とともに簡単に昼食をとり、清河は庭にある物置へ向かった。そこで五十メートルメジャーとストップウォッチを手に取り、カバンに詰める。十二時四十五分、紅葉と並んで家を出た。

 練習開始の五分前にはメンバーのほとんどが集まっていた。玲、怜という双子の姉妹は家族で出かけてしまっているようで、集まったのは9人。
 昨日の清河の態度が尾を引いているのか、メンバーの清河に対する面持ちは芳しくない。それでもなんとか近くにメンバーを集めると、笑顔を作って切り出した。
 「みんな、今日は体力テストをやる。五十メートル走とか幅跳びとかをやるアレだ。野球をやる上で色々知りたいからな。ってなわけで、準備手伝ってくれる人!」
 するとメンバーは、口を揃えて「えー」と批判の声を上げる。男子にとって体力テストは、仲間と競い合う格好の場であることが多いが、女子にとってはそうでもないのかもしれない。
 それでも日依梨が手伝ってくれることになり、それを見てか智夜と紅葉も手を上げる。手を挙げてくれたのは三人だったので、残りのメンバーにストレッチをしておくように言い、三人で準備を進めることとなった。
 公園内の小さいグラウンドを最大まで使っても三十メートル走しかできないため、二十三メートルに設定する。智夜と紅葉にはわからなかったようだが、日依梨にはなんの長さかわかったようだ。そう、これは少年野球の塁から塁、つまり塁間の長さである。
 その後、公園の端に申し訳程度に設置された砂場をうまく使い、走り幅跳びができるようにした。腕力を測りたいため、鉄棒で懸垂が何回できるかも計る。
 さらには、グラウンドにラインカーで白線を三本。もちろん、反復横跳び用のものである。ボール投げは、日依梨だと三十メートルでは絶対に足りないので、持ってきたスピードガンを使っての球速測定コーナーを設置する。
 思ったよりも時間がかかってしまい、退屈そうにしているメンバーの元に戻ると、カバンから取り出した紙を一枚ずつ配る。《体力テスト結果記入用紙》と書かれたそれは、昨晩、慣れないパソコンを駆使して制作したものだった。
 「じゃあ、今から体力テストをはじめる。チームトップ目指して頑張ろー!」
 おー、とやる気の感じられない声が聞こえてくる。
 まず最初に向かったのは走り幅跳び。助走は十メートルより前からで着地地点は砂場になっている。しかし、最初に測るのが嫌なのかメンバーが譲り合いを始めたので、じゃんけんをするように促して、順番を決める。
 結局、負けて一番最初になったのは智夜で、結果は三・四メートル。続いて紗枝が三・一メートル、彩が三・二メートル、と小学生女子にしては高水準な記録が続き、思わず驚く。
 しかし、清河はこの後さらに驚くこととなった。
 「走り幅跳びか……。ふはは!丁度良い機会だ、見せてやろう!我が眷族<月に祝福されし兎>(ムーン・ラビット)の力を!」
 などと理解の難しい言葉を発して走り始めた月奈は、跳躍ラインギリギリのところで思いっきり左足を蹴る。オリンピックで見る本職の選手を彷彿とさせる跳躍を見せた月奈の記録は四・一メートル。
  後でわかったことだが、これはこの記録は小六女子走り幅跳びとしては、全国大会でも上位に入ることのできる成績ということだった。
 「我が眷族の力、思い知ったか!だがな?我の隠されし力はこんなものではないぞ、ふはははははははは!!」
 そして、想像通り運動神経の優れた日依梨は三・八メートル。他のメンバーは、平均より少し上か、少し下かくらいだった。突出して距離が短いメンバーはいない。手応えを感じつつ、次は三十メートル走に移る。
  清河の合図で二人ずつが同時にスタートを切る。最初は日依梨と月奈。走り幅跳びを見て思ったが、月奈は相当運動能力が高い。最初は日依梨と並んで走っていた月奈だが、後半はグングンスピードを上げて、四・二秒。日依梨は四・四秒。
 なんと、それらは小学校時代の清河よりも早いタイムだった。その後に走った他のメンバーの記録は四秒台中盤から五秒台前半程度と平均並み。やはり、二人の成績は圧倒的だった。
 続いて懸垂。二箇所ある鉄棒に二人ずつが入り、足がつくまでに何回顔が鉄棒から出てくるかを測る。日依梨が対抗心を見せたのか、月奈を促して二人が並んで鉄棒を握った。しかし、結果は二人ともゼロ。
 「んっ……んっ」と背徳感を覚えそうになるような声を出しながら頑張っていたが、日依梨ですら一度も上がることはできなかった。しかし、投手に求められるものは腕力ではない、と清河自身が一番理解しているので気にはしない。
 結局、腕力は男子に劣るのだろう、最高記録は紗枝の五回に終わった。
 それまでの記録がそのまま反映されたような反復横跳びを終え、軽くキャッチボールをしたら、清河はグローブを構えスピードガンを持って座った。
 それが何の機械なのかイマイチ理解していないメンバーの中から日依梨が出てきて、グローブを振りかぶり投球姿勢に入る。相変わらず素晴らしいフォームだな、と感心していたら、清河の構えたグローブから一センチもずれずにボールは収まっていた。表示は、九十六キロ。
 小学生女子が投げた球だ、と言われたらひと月前の清河だったら疑っていただろう。清河がボールを返すと、日依梨はそれを月奈に渡した。
 月奈は八十一キロ。智夜は、六十八キロ。萌は七十一キロ。その他のメンバーはボールが逸れ過ぎて測ることができなかった。

 すべての測定を終えたのは、午後三時。メンバーが休憩をしている間に、清河はカバンからあるものを取り出した。そして、休憩が終わったメンバーを集める。
 「みんな、今日から一ヶ月、野球の練習は全てこのボールでやる」
 そう言って清河が渡したのは、遊びで使うための柔らかいボール。少年野球で使われるボールと大きさは全く一緒で、重さも近くなっている。柔らかい分ボールは跳ねにくいが、当たっても当然痛くはないため、恐怖心というものは一切発生しない。
 「これで……ですか?」
 ボールを持った日依梨は少々不服そうにも見える。あれだけの技術があれば、こんなボールで練習させられるのは納得がいかないのも当然だ。
 「さっきの記録を見たであろう!?それなのに、こんなものでやるのか?おのれ……一度ならず二度までも!主はどれだけ我を愚弄すれば気が済むのだ!」
 そう言って月奈は清河を睨みつけてくるが、正直全然怖くない。日依梨と月奈は後で説得するとして、まずは他のメンバーを説得することを考える。
 「今日から一ヶ月、練習テーマを掲げたいと思う。それは、『恐怖心をなくして野球を楽しむ』だ。昨日は残念ながら大差をつけられての負けだった。
  負けてしまうと悔しいし、昨日みたいになってしまうと面白くもない。けれど、勝てれば楽しい。俺は全国大会でベスト八まで行ったから言えるけど、勝つことは楽しい。それをみんなにもわかってもらいたい」
 そこまで言うと、ポカンとしているメンバーに二人組を作るように指示をする。柔らかいボールを持って全員が並んだところで、キャッチボールが開始する。清河がまず向かったのは、メンバーの中でも投げ方があまり良くない天堂詩という五年生の子だった。
 野球で一番基本の動作は、投げることだと清河は思っている。捕ることよりも、投げることが大事。その考えは野球を始めてすぐに恩師から教わったことだった。
 ロングの髪をポニーテールでまとめた詩の投げ方を見て、修正できる箇所を分析する。
 初心者は、背中の筋肉が伸びた状態で投球動作を行っていることが多い。胸を張らずにボールを投げれば、清河だってまともなボールを投げることはできない。
 「詩……って呼んでもいいか?」
 「はい、大丈夫です」
 その返事を聞いて、利発そうな子だなと思いつつ、投げ方をどのように直すべきかを伝える。 詩の前で見本を見せると、
 「ここをこうですか……」
 と言いながら自分も真似ようとする。その詩の肩と肘を支えながら、胸をそり肩を張るようにアドバイスすると、幾分マシな投げ方になった。
 その要領の良さに驚いたが、まっすぐボールが投げられたことに嬉しそうにする詩を見て、年相応の反応が見られたことになぜか安堵する。
 続いて詩とペアを組んでいた月奈の元へ向かう。ある程度ボールは投げられているものの、ボールの握り方すら自己流な月奈に改善の余地はたくさんある。
 「月奈、もっとこうして肘を上げれば…」
 「んなッ!我に指図する気か!我をここまで侮辱して、生きていられる人間などいないのだぞ!それでも続けるのか!?こら、離せぇ!このこの!」
 と言って清河の手を振り解こうとするが、圧倒的に腕力が足りない。諦めた月奈と腕を重ねるようにしてボール投げる。それを何球か続けて、その投げ方を忘れるなよ、と言うと、頬を膨らませながらだったが月奈は頷いてくれた。
 そんな調子で、日依梨と、家で教えられる紅葉以外全員を一通り指導し終える。
午後四時半を回ったところで練習は終了。翌日からは早く帰宅した者から集合することとなり、解散になった。


翌日、特筆することもなく学校を終えた清河は、日も傾きかけた午後の公園に来ていた。すでに全員が集まっており、ストレッチとランニングを終えたとの報告をひよりから受けると、メンバーに今日の予定を伝える。
 投げることをテーマに挙げた一週目は、距離を変えてのフットワーク、ボールを捕ってからの送球、外野手は長い距離を正確に投げる練習をひたすらこなす。その練習をするにあったて、清河は昨日のうちに書いた手元の紙を見ながら言った。
 「今から試合に向けての守備位置を発表する。少し早いかとは思うけど、短い期間だから効率を上げていきたい。一つの守備位置に決めちゃったほうが楽だしな。今から言うから聞いてくれ。
 ピッチャー、ひより。我がチームのエースだからな。よろしく頼む」
 するとひよりは恥ずかしそうに笑い、ほかのメンバーもひよりなら任せられる、といった風にうなずく。あの月奈でさえも、だ。
 「次、キャッチャーは萌にやってもらいたいと思う。捕るのも上手だし、肩も悪くない。何より背が大きいのはキャッチャーをやるうえでいいこと…」
 と、そこまで言って清河は異常に気が付いた。名前を呼ばれた萌の口角は上がり、どす黒い何かが周りに渦巻いているように見えたからだ。
 「も、萌・・・・・?どうしたんだ…?」
 「どうした?よくそんなこと聞けますね。女性の背の話題に触れるなって、小学校でならいませんでした?ありえませんね、冗談でも無理です。確かに私は小学校6年生にしては背が大きいほうです。そのことを自覚もしています。ですが、それとこれとは別です。人間としてどうかと思い…」
 そこまで一気にまくし立てたところで、隣にいた彩が萌の肩をちょんちょんとたたくと、ハッと我に返ったような萌は頬を真っ赤に染めて黙り込んだ。
 まったく状況がつかめない。背が高いこと指摘された萌が突如豹変して激昂したということは、萌は身長のことを相当強くコンプレックスに思っている、ということだろうか。
 怖い、そういった感情を抱いたのは久しぶりだ。それも小学生の女子が相手とは。
おそらく顔が引きつっているだろうと確信しながら、紅葉に視線をやり助けを求めるが、あからさまに目をそらされる。他のメンバーもそわそわしたりして、実に微妙な空気が流れる。
十秒、二十秒・・・重い空気が耳に痛い。
 その空気を壊したくて、先に口を開いたのは清河だった。
 「えーと…その…俺が悪かった…。迂闊だったな、今後気を付けるよ…」
 「いえ…私も…悪いくせなんです…。その…背のことを言われるとつい…」
 そう申し訳なさそうに言う萌にもう一度謝り、発表を続ける。
 圧倒的運動神経がありながらも左利きの月奈はセンター、運動能力も人柄も優れる智夜はショート。全員の発表を終えると、それぞれ内野と外野に分かれるように指示をする。全員が別れると、いよいよ練習の開始だ。
 内野はまず、正面のゴロを捕ったとしての送球練習。清河が見本を右利きとしてやってみせ、ある程度数をこなしたらひよりにゴロを転がす役を任せて、次は外野の指導に移る。
 まずはゴロを捕った後の内野への返球。内野に比べて運動能力の劣る外野の指導には苦労したが、時間とともに球も安定するようになってきた。
 男子に比べて女子のほうが真面目な時期だからこそなせる業であるが、たったの数時間での確かな上達に手ごたえを感じつつこの日の練習は終わった。

 家に帰り、今日の練習を終えての成果をルーズリーフに書き出す。たった一日で多くの成果が得られたのは、初心者の上達は早く見えるからなのか、メンバーの能率が良かったからなのか。ふと、真剣に清河の話を聞いていた月奈の顔が思い浮かぶ。
 はたしてメンバー全員が同じ練習を一週間続けられるかは疑問だったが、その心配も杞憂に終わることとなり、最初の週が終わる。

 二週目、捕ることをテーマに掲げた週も佳境に差し掛かっており、土曜日の午後の練習も終わりを迎えようとしていた。
 基本、打球の正面に入って捕球することがよしとされているが、清河はそれとは反する指導をしていた。
 「いいか、体より左側で打球を捕るんだ。ボールから逃げるのはよくないけど、ボールを逃がす分には構わない。なんでボールが怖いか、それはエラーしたらボールが自分に向かって来るからだ。だったら逆に考えればいい。エラーしても体に当たらない場所、離れた場所で取ればいい」
 全国の野球指導者が聞いたら大激怒しそうな言葉だが、それはあくまで野球が基本、男の行うスポーツであるからだ。男なんだから逃げるな、向かっていけ、という指導者の言い分も十分に理解できる。
 しかし、このチームは全員女、それも小学生なのだから、一般とは違うやりかたがあってもいいはずである。
 という暴論にも近い持論によって行われた練習の成果は思ったよりも出ているようで、さっきは試合と同じ軟式ボールで軽くノックを行ったが、サード愛梨沙、ショート智夜の三遊間は簡単な打球なら8割近くはアウトになりそうだった。
 たったの二週間でこれほどの上達とはもはや清河も呆れるレベルで、成長期の早く来る女子の「伸び」の早さに驚かされるばかりだった。
 午後4時、定刻となりつつある時間ピッタリに練習を終えると、三々五々去って行ったメンバーとは別に、ひよりが清河の隣にやってくる。
 「残ってもらって悪かったな」
 「いえ、そんなことは・・・」
  夕暮れの微風が頬を撫で、誰もいない静寂が心地いい。
  「どうだ?手ごたえは感じてるか?俺はまだこのチームを長く見てきたわけじゃないけど、着実に成長してると思うんだが」
 「私もそう思います。遠藤監督がやっていいたときは、みんな遊びに来てるって感じで、それでも楽しかったんですけれど。でも、今はみんなあんなに真剣に取り組んでいるし、びっくりするぐらいうまくなってる。みんなだって今が楽しいと感じているはずです」
 「・・・なら、勝てる見込みもあると思うか?」
 「少しは・・・あると思います」
 「そうか・・・・」
 「清河さんは・・・」
 「ん?」
 「いえ、なんでもないです…」
 なにやら言いたそうにしていたひよりだったが、視線をそらして口をつぐむ。
 「聞きたいことがあったら聞いていいんだぞ?」
 「いえ…大丈夫です」
 「そうか…?なら本題に入ろう。ひよりに残ってもらったのは、『投球術』を身に着けてもらうためだ」
 「投球術・・・ですか?」
 「ああ、まあ変化球が使えない少年野球だから、やれることは限られてくるけどな。幸いこっちには1試合分の相手のデータがある。バッターの特徴、癖を頭に入れて、バッターに応じて投球のスタイルを変えていく。これがうまくできるピッチャーほどいいピッチャーだと、俺は思ってる。さしあたってひよりのマスターしてほしいのは、スローボールだ」
 「スローボール…」
 「それも、投げ方で相手に察知されにくいスローボールだ。これが投げれるだけで投球の幅は大きく変わってくる」 
 「投球の幅、ですか…」
 「まあイマイチピンとこないかもな。考えるよりも実際にやってみるのが一番だ。ってことで今から少し時間あるか?」
 「はい、大丈夫です。お父さんは遠征行ってていないですし、従姉も今日は遅くなると言っていましたから」
 「従姉?」
 「隣町の大学に通っているんですが、わけあって一緒に住んでいるんです」
 少し気になったが、あまり深く聞くのもよろしくない。話を終わらせると、二人は特訓を開始した。

 「ひより、スローボールを投げる時の三原則だ。一、なるべくストレートと同じ投げ方で投げること。二、相手が想像してなかったタイミングで投げること。三、低めに投げること。高めは禁物だ。その3つを意識さえすれば、あとは感覚だ。できるようになるまでやるしかない」
 「はい」
 一旦集中しはじめたひよりの目は真剣そのものだった。休日にもかかわらず人っ気のないこの公園には、清河とひよりがボールを捕る音と、ふたりの会話だけが響き渡る。
 四歳も年下の少女と二人。当然通っている学校も違えば性別も違う。共通の話題が野球しかないというのに、なぜか清河は、この少女と心が通い合っているかのような感覚を覚えていた。
 5時の鐘が鳴り響いたころ、終わりを切り出したのは清河だった。
 「ひより、そろそろ終わりにしよう。疲れてきたろう?」
 するとひよりは肩をぶんぶんと回してみせ、
 「いえ、まだ投げられます」 
 「いや、投げすぎは体を壊す。今日はもう終わりにしよう」 
 小学5年生の頃だったか、清河自身投げすぎで肩を壊したことがあったので、無理はさせたくなかった。 
 ひよりと並んで座り、水を口に含む。
 「あとは毎日少しずつ練習していこう。それと、試合までに相手バッターの特徴とかを一緒に考えたいんだが、どうしようか・・・・」
 平日は練習、土日の午後も練習があるため、ひよりと二人だけの時間をとるのは難しい。となると、
 「特訓が終わった後は暗くなっちゃうしなあ。この特訓にも十分時間を割きたいし」
 「家はだめですか…」
 「ん?」
 「清河さんの家はだめですか?いやでも紅葉ちゃんもいるし迷惑になっちゃうかもしれないから…その…」
 「別に構わないけど?」
 「やっぱりだめ・・・ですよね。いえ、その本気で言ったわけじゃなくって・・・って、えっ?いいんですか?」
 と、安いアニメの一場面のような反応を見せ、ひよりが目を丸くする。
 「ああ、ひよりさえいいならいいぞ。大丈夫なのか?家に帰るのが遅くなっちゃっても。まあ、家までは送るけど」
 「はい・・・その、清河さんが送ってくれるのなら、大丈夫だと思います。一応お父さんにも連絡を取ってみます」
 するとひよりはカバンからピンク色のガラケーを取り出す。それを耳に当てて数コール後、電話がつながったようで、二、三言交わした後に、なぜかひよりのケータイを渡される。 
 「えっと、お電話変わりました」
 『おお!君が小鳥遊清河くんか!噂はひよりから聞いているよ。ひよりたちのチームを指導してくれてるんだって?たったの2週間でみんな凄い上達してるって、ひよりが楽しそうに話してくれたよ。優しくてかっこいいって。
 ひよりが誰かのことをこんなに詳しくは話してくれたのは初めてだったからね、びっくりしていたんだ。
 それと、実力のほうも相当らしいじゃないか。この前、県内の雑誌をたまたま読んだら清河くんが載っていてね、執筆者の絶賛ぶりは普通じゃなかったね。ぜひ一度お目にかかりたいよ』
 「いえ、プロの選手にそういわれると・・・恐縮です」
 『ハハハ、そうそう、ひよりが清河君の家に行っていいかってことだったね。もちろん、清河君の家が大丈夫なら全然かまわないよ。うちは僕が職業柄うちに帰れることが少ないからね。妻…ひよりの母親はもう…いなくてね…。従姉に母親代わりをしてもらっているんだけど、大学生にしては少々忙しいからね、そうそうひよりに構ってやれないんだ。
 だから、ひよりにはさみしい思いをさせてしまってると思う。清河くんさえいいなら、ひよりに構ってやってほしい』
「ええ、わかりました。俺なんかでいいなら、空いてるときならぜひそうさせていただきます」
『そういってくれると本当に嬉しいよ。
≪…プルルル≫ああ、ごめん、お呼び出しが入っちゃったから切るね。また、今度ゆっくりお話しできたら』
 と言って通話は終了した。
 「大丈夫、みたいだな」
 「は、はい・・・」
 そう言ったひよりはなぜか顔を赤くして下を向いていた。
 「どうかしたか?」
 「い、いえ…なんでもありません…」
 「そうか、なら行こうか。俺の家へ」
 「は!はい…」
 「お父さんの…バカ…」
  小鳥遊宅までわずか数分ではあるが、清河が話しかけてもひよりはオドオドしてあまり会話が続かなかった。
  それもつかの間、家の門まで来る。
 「清河さんの・・・おうち・・・」
  ひよりが、ちょっと庭が広いくらいの普通の一軒家を見上げて感慨深そうに言う。
 「この前見ただろ。さ、中へ入るぞ」
 清河が玄関のドアを開けると同時、どたどたという音が家の中に響き渡る。
 「お帰り兄さん!遅かったねどこでなにして・・・って!ひよりちゃん!?えっなんでひよりちゃんが・・・もしや兄さん、もうひよりちゃんに手をだしたのっ!?」
 「なわけないだろ、まあ落ち着け。それと家の中であまり走るな」
 「落ち着いていられないっ!じゃあなに!?兄さんは、健全なお付き合いをさせていただいてますとでも言いたいわけ!?ま、まさかひよりちゃんが、も、もう兄さんとだなんて・・・妹である私を差し置いてっ!やっぱりだめっ!そんなの!兄さんと付き合うのには私の許可がいるのっ!!」 
 「いっ、いやっそ、そんなんじゃなくて、た、ただ清河さんが、や、野球のことで話したいことがあるからって・・・」
  可愛そうなくらい顔を真っ赤にしたひよりが、手をブンブンと振って否定する。すると紅葉はケロッとした顔に戻って、
 「なーんだ、そんなことなら先に言ってくれればよかったのに」
 「いや、今悪いの100パーセント紅葉だから。はい、ひよりに謝って」
 「ひよりちゃん、ごめんなさい」
 「う、うん。大丈夫・・・」
 ひよりは許してくれたようだったが、紅葉のせっかちさにも呆れたものだった。しかも、自分は紅葉の許可なしには交際もできないらしい。自由権が侵害されていることに疑問を抱きつつ、ひよりを促して居間に入る。
 「お茶でいいか?」
 「あ、はい。お構いなく…」
 「悪いな、あいにくこの家にはジュースとか置いてなくてな。俺はもともと飲まないんだが、紅葉がいろいろ妙なお茶を飲みたがるんだ。えー、ルイボスティー?聞いたことねえな」
 「兄さんっ!!いちいちそんなこと話さないでいいっ!もう…これだから…兄さんはっ…」
 すると、なぜかひよりが口に手を当てて吹きだす。
 「?」
 「あ、いえ、仲のいい兄妹だなって。私も清河さんみたいなお兄さんがいたらなぁ・・・」
 「兄さんはあげないよっ!」
 と、真顔で言う紅葉を見て、大慌てでひよりが手を振る。紅葉には冗談があまり通じないらしい。
 「じゃあ紅葉、俺はひよりと話し合うことがあるから上行ってってくれ。飯できたら呼ぶから、そしたら3人で一緒に食べよう」 
 「ひよりちゃんも一緒に!?やった!じゃあ待ってるね!」
 そう言って紅葉は二階へと上がってく。
 「悪いなひより。紅葉が迷惑かけた」
 「いえいえ、紅葉ちゃんも清河さんが取られるなんて言われたら怒るのも当然です。私が無神経でした」
 「じゃあ、早速だけど本題に入ろうか。まず、これがあの試合で俺がつけたスコアから導き出した、各打者の弱点だ
 そういって清河が渡したのは、ルーズリーフ表裏六枚にも及ぶ長ったらしいものだった。1番から9番まで、データから考えられる打球の飛ぶ位置、投げるべきコース、カウントの変化によっての組み立て方が事細かに示されている。
 「これを全部頭に入れるのは流石に無理だ。ただ、俺が萌にサインを出すからそれに従って投げてくれればいい。それより、見てほしいのはこれだ」
 「打球の飛ぶ位置、ですか?」
 「ああ、ひより、現実的にゴロが飛んでアウトになりそうなのはどこだ?」
 「ショートか、サード・・・」
 「その通り。愛梨沙か智夜、それと月奈のところ以外はほとんどアウトにならないだろう。だからその3つ、いやセンターに飛ぶこと自体そんなないからな、ショートとサードだけに打たせる」
 「そんなこと、できるんでしょうか・・・?」 
 ひよりが自信なさげ、といった感じで首をかしげる。
 「できるさ、きっと。そのためのスローボール練習でもあるしな。ところでひより、縫坂涼ってのは知ってる、よな…?」
 「っ!しっ、知ってます」
 急に背筋をピンと伸ばしたひよりが焦ったように答える。
 「…スポ少で何があったんだ?」
 すると唇をきゅっと結ぶひより。
 「いや、話したくなかったらいい」
 「いや、そんなわけじゃ…」
 それからひよりは、ゆっくりだったが自分の過去を語ってくれた。 
 放課後、男子に交じって野球をしていたら、涼にスポ少に誘われたこと。その入ったスポ少でいやがらせにあったこと。初めは些細なものだったが、だんだん深刻化してきたこと。嫌がらせは多岐にわたり、同級生のほとんどが参加していたこと。
 そして涼だけは、嫌がらせをしてこなかったことを最後に付け加えた。
 「そうか…そんなことがね…」
 涼から聞いてはいたが、本人に言われると深い同情がこみ上げてくる。ひよりはそんなもの求めていないのかもしれないが。
 「でも、もう終わった話ですから。こんな暗い話はやめにしましょう!」
 重い話になりつつあったので、清河もその提案に乗ることにする。
 「ふむ、そうだな。でも一つだけ、ひよりは涼のことどう思ってんだ?」
 「どうって、何とも・・・。学年内では優しい同級生だと思いますけど・・・」
 脈なし、か。心中で涼に黙とうを捧げ、作業を再開する。

ball game girls

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  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-06-02

Copyrighted
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