はやらない病院の花


 南村クリニックの医師は胡散臭くて信用できなかった。だが、乾燥肌に悩まされている時、処方してもらった塗り薬は不思議なほど効いた。文也はその薬を信奉するようになり、(かゆ)いところはどこでも塗った。初めて行った日、医師の南村先生は研修生の頃はT大の研究室で勉強したと得意そうに語った。文也は話の腰を折るために、
「こちらは内科も診ていただけるんですか」
 尋ねた。医師は張紙に記された十以上の大手の病院を指さして細々した声で説明した。大柄な割には小声なので聞き取れなかった。名のある病院と提携しているとうことだが、これも自慢めいて聞こえた。
 ある日、下半身に痒みがあるけれどそこにつけてもいいかと聞いた。
「いいですよ。どこの辺だね」
「ペニスの先のほうです」
「付き合っている女性はいるの」
「別れました」
「その後は誰かと寝たのかね」
 そばに立っていた看護師が文也を見て、顔を軽く左右に振った。余計な質問に答えなくてもいいという合図である。確かに医師とはいえ越権行為である。女と交際したからといって、何らかの症状が出た訳ではない。
 クリニックは四階建てのビルの二階にあり、いつ行っても空いていた。家から遠いくないので利用しているだけだ。しばらくして薬をもらいに行くと飲み薬まで出そうとした。
「あ、それは結構です」
 文也は断った。南村医師はきっと睨みつけ、声を震わせた。
「きみは、医師の指示が聞けないのか」
「そういうわけではなく、いらないのです」
「私は所見によって出しているんだ」
「患者の自由じゃないですか」
「好きなようにしてくれ」
「そうします」
文也は理解しがたい顔つきをして診察室を出た。受付で塗り薬を受け取って廊下に出ると看護師が後から来た。
「先生は変わっているの。気分を壊さないで」
 慰めてくれた。今まで看護師を一度たりとも意識したことはなかった。色白のどことなく日本人離れした三十代だろうと認識していたくらいだ。それからというもの、思いやりのある親切な女と思うようになった。

 勤め先の出版社に小説家の南村章夫が出入りするようになった。クリニックの先生と同じ姓である。南村の小説は中学生の頃に読んだことがあり、今でもデテールを覚えている。初老の男がバス停のベンチに座って、缶ビールを飲みながらホカホカの餃子を食べている。
「うまそうだな。早く家に帰って一杯飲みたい」
 刑事が呟きながら食べ終わるまで待っている。間もなくして空缶や折り箱を屑籠に捨てている男に近づいて声をかけ、連行するという描写である。およそ十年後に作者に出会うとは考えても見なかった。機会があったら子供の頃に読んだ著書の話をしたかった。だが尊大なところがあって、会釈してもそっぽを向いた。自尊心が並外れて強く、意にそぐわない編集者など一切無視した。文也もその一人だった。小説家は懇意にしている編集長とはよく雑談した。ある時、思いがけない会話が耳に飛び込んできた。
「弟が墨田区で皮膚科のクリニックをやっていてね」
 文也はオヤと耳をそばだてた。弟は彼の通っている病院の医師に違いない。あまり多くない南村という姓からいってあり得ることだ。二人はそれほど外観は似ていないけど、よくみると共通点がなくもない。
「弟は世間から浮きそうな性格をしていてね、危なっかしくて見ていられないね」
 編集長がどういう風にですかと尋ねると、独特の考え方をしていて、普通の感覚に乏しいから経営的にも厳しい。皮膚科と内科とやっているんだけど、患者は少ないと――文也は笑いそうになりながら二人は兄弟だと確認した。血は争えない、似た者同士だ。
 その日は土曜日で休みだが、用があって出社した。会社は九段下のビルの中にあって、二十分ほどで用を足した。帰る途中、三省堂に入り、文芸書のコーナーで南村章夫の近著を拾い読みした。全体的に面白くないので買うのをよして別の本にした。
 電車で住まいのある本所吾妻橋まできた。このところ冬の冷たい風が吹くばかりで雨がほとんど降らない。空気は乾燥し切っている。南村クリニックの前を通りながら塗り薬が切れているので立ち寄った。患者は一人しかいなくて、すぐに名前を呼ばれた。いつもの薬をいただきたいと言うと、医師は快く返事した。それから文也の手にしている本屋のビニール袋を見て、
「本はよくお読みになるの」
 聞いた。ええと返事をしたら更に続けた。
「どういう方面なの」
「小説が好きです」
「南村章夫という作家を知っているかね」
「知っています」
「そうかね。あれは私の兄貴なんだ。よかったら読みなさい」
「さっき、本屋で見たんですけど、自分にはピンときませんでした」
「ちょっと立ち読みしたくらいじゃ分からんよ」
「分かります。時代からずれています」
 聞いた風なことを言うなよ」
 医師は不機嫌になった。文也は目の前の男がエキセントリックな性格をしていることを思い出し、少し悔やんだ。だが物事は勝手に動いてしまった。ぶつぶつ口にしてから、
「兄貴を侮辱するのかね」
 とまで言い出し、感情的になった。文也も言い返した。
「あなたは何様のつもりですか」
「なんだ、その言い草は」
 医師は立ち上がると、受付兼調合室に退いて大きな図体で物陰からこちらを伺っている。診察が終わった後、こういう仕種をするのが習慣である。文也は黙っていられなくなった。
「そんなところにいないで、ここに座ってください」
「座れだと。医師に対して失礼だろう」
「冷静になって話がしたいんです」
 再び戻ってきた。回転椅子に座り、机の引き出しからスマホを取り出して、警察に連絡をすると言うのだった。文也はそのほうが筋の通った話ができるのでどうぞ、どうぞと勧めた。状況を見守っていた看護師が口を挟んだ。
「先生、それは違うでしょう」
「この男が私を脅かそうとしているんだ」
「曲解ですよ」
 すると医師は怒りの表情をあらわにして、
「ここに二度と来るな」
 追い払う手つきをした。文也は馬鹿らしくなって診察室を出た。薬のたぐいはもらわず、診察券だけを受け取って待合室を出た。看護師が出てきて、彼の腕をつかんでしきりになだめた。
「先生が悪いのよ。あなたが間違っているわけじゃないわ」
「この病院には二度と来ないよ」
「ごめんなさい。私からもお詫びするわ」
 その間、ずっと彼の腕を握りしめていて、いたわりの感じが伝わってきた。彼は階段を降りながら藪医者の糞ったれめと一人ごちた。
 アパートに帰ると、ペットポトルの水を飲んで、自分を落ち着かせているうちに、本を忘れたことに気がついた。午後一時を過ぎているのですでに締まっている。来週にでも行って受付で話せばいい。あのモッサリした薄ノロの医師を見ないですむ。
 インスタントラーメンを食べてから休んでいると、ドアをノックする音がした。開けると看護師が立っていた。彼はパッと明るい気持ちになった。ベージュのダウンコートを着て、真っ赤な口紅を塗っている。病院で見るイメージと違ってセクシーだった。彼女は本を届けに来てくれたのである。お礼を言うと、この近くだから平気よと微笑んだ。それから小さな紙袋を差し出したので、受け取って中を見ると、ボックスケーキが入っていた。「こんなことをしてもらって、悪いね」
「いいえ。必要経費から落とすからいいのよ」
「よかったら、これでお茶を飲んでいって」
「まあ、お茶をご馳走してくれるの」
 看護師はそれなら上がらせてもらうわと、タタキでパンプスを脱いで中に入った。折り畳み式の小さなテーブルを雑巾で拭いた。湯を沸かし、日本茶を入れた。彼女は工藤夏美と名乗った。
「おたくの先生にはびっくりした」
「私も困っているの」
「何事も独善的だね」
「そうなの。奥さんに逃げられるのも、無理ないわね」
 妻子とは離婚したようである。夏美は先生への敬意の念も失せて、最近では辞めることばかり考えている。話の成り行きでただの上司と部下の関係ではないことが分かった。クリニックに勤めて三年目になり、その間にかかわりができたようである。そんな話をした後、夏美は本棚の一角のフォトスタンドを手にとって見た。文也と肉親が写っているスナップ写真である。
「あなたの郷里はどこなの」
「北海道のP町」
「じゃあ、親御さんはそちらにいらっしゃるの」
「いや、神奈川県に住んでいるよ」
 文也はその訳を話した。父が町の有力者の身内を車で()いて死亡させた。それ以来、居心地が悪くなり、世間とうまくいかなくなった。文也は田舎の芋どもと決別せよとそそのかし、三年前から両親と妹は伊勢原市で暮らすようになった。
「私だって、事情があるのよ」
「どんな……」
「父が在日なの」夏美はさらっと打ち明けた。
「韓国、いいじゃん」
「でも、やっぱり差別されるわ」
 前から薄々そうじゃないかと思う節もあった。どこというわけじゃないが、顔のパーツが違うのだ。といって違和感があるわけでもない。変人の医師と持ちつ持たれつの、お互い様という関係なのか。だからといってあんな性的な魅力のない男と付き合うことはないだろう。二人は各々事情を話したせいか、グッと親しみを覚え、他人という感じがしなかった。ふと奪おうかと閃いた。夏美のそばにいって手を握ったのは自然の成り行きだった。そして唇を合わせ、長い間舌を這わせた。布団を敷いて抱き合った。乳房は扁平だが、尻も大腿も陰毛もふくよかだった。ぺニスはすっぽりと収まり、心地よかった。同時に間抜けな医師めと嘲笑した。
「私たち、相性がいいわね」彼女も感心した。
「初めての(ひと)は早く行きがちだから、体を動かさないで」
「そうするわ。でも、先にいってもいいわ」
「一緒がいいよ」
 二十八の文也より十くらい齢の離れた夏実と一時間近くセックスに陶酔して、 文也は一杯射精した。終わってからまた色々喋った。聞かれるまま郷里のことを話した。人口一万人ほどの田舎町で、子供の頃から好きではなかった。彼は東京は世間がないから気楽だと話した。
「私はそうでもないわ。隠していても民族の違いを見抜かれるの」
「そういうものかなあ」
 そして帰る前に、
「私、先生と別れる決心をしたわ。あんな偉くない男、見たことないもの。あなたに抱かれてよかった」
「ぼくもだ。また来てよ」
「ええ、お邪魔するわ」
 セックスをして恋をしていつか途絶えてしまうだろう。それはそれでいい。何よりも医師はいい面の顔だ。

はやらない病院の花

はやらない病院の花

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-06-01

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted