今

「あの、勇平くん……?」
 駅のプラットホーム。サラリーマンやら学生やらが一日のノルマを終え、混雑するその中に混じって、俺を呼ぶ声が聞こえた。
 振り返るが誰もいない。おかしいな、呼ばれた気がしたんだけど。
 また視線を戻したとき、今度はもう少し大きな声が俺を呼んだ。
「勇平くん」
 しかし振り返ってもやっぱり誰もいない。
 すると、胸のあたりから
「よかった。やっぱり勇平くんでした」
 なんて聞こえて、視線を落とす。
 そこにいたのは、ちいさな女性だった。
 艶やかな黒髪。遠慮がちに俺を見上げる、ちょっと垂れた双眸。灰色のコートは大きめで、手がすっぽりと隠れてしまっている。
 俺はこの人を知っている。
「晴美……」
 その名を呼ぶと、彼女――晴美は嬉しそうに顔をほころばせた。
 今から十五年ほど昔、つまりは高校時代、俺たちは付き合っていた。特にこれといった進展もなかったが、当時社会から突っぱねていた俺が唯一心を許せる、大切な人だった。
 若気の至りで、将来の夢なんて語ったりもした。大人になったらああしたい、こうしたいと、今にして思えば赤面ものの未来像を熱く語っていた。
 彼女は保育士になりたいと言っていた。大好きな子供たちに囲まれて、人間的に一緒に成長したいのだと。大人になったら見えなくなる、子供だからこそ見えているものを共に見続けていたいと。
 だが、そんな青春くさい日々も、卒業と同時に終わりを迎えた。どちらからともなく連絡は途絶え、しだいにその存在さえ忘れていった。
「お久しぶりです。お元気ですか?」
「あぁ、なんとか。晴美も元気そうだな」
「おかげさまで」
 やさしく微笑むその姿は、あの頃となにひとつ変わっていなくて。
 すっかり変わってしまった自分を思い、軽い嫉妬を覚える。
 俺は夢を叶えられなかった。社会に出て、激しい荒波に打たれているうちに棘を抜かれてしまっていた。今ではどこにでもいる、ごく普通のサラリーマン。そして、こんな生活も悪くないと思う自分がいる。
「お前は、その、夢は叶ったのか?」
「いま、この町で保育士をしているんですよ」
 照れたように、嬉しそうに。
「そっか、よかったな」
「ありがとう」
 でも、晴美は俺に訊き返してはこなかった。夢は叶ったのか、と。
 そりゃあこの格好を見れば分かるだろう。くたびれたコートにスーツ。おんぼろの鞄にすりきれた革靴。どう見たって疲れきったリーマンだ。
 彼女の心遣いが嬉しくもあり、悲しかった。
 視線に困り、ふと足元を見ると、彼女は大きなスーパーの袋を提げていた。
「大量に買い込んだんだな」
 様々な食材がぎゅうぎゅうに詰まったビニール袋を見下ろし、彼女は笑う。
「えぇ、うちの子たち、いっぱい食べるので」
「……そっか」
 そっか。結婚したのか。
 構内に電車の到着を伝える音楽が流れ、抑揚のないアナウンスが流れた。
「わたし、この電車なので」
「あ、おい、ちょっと……」
 電車へと消えていく彼女に手を伸ばす。
 晴美は振り返って、ふたたび笑った。
「いつかまた連絡します」
 そう言って、今度こそ見えなくなって。
 伸ばした手を下ろしながら、俺はなんともいえない気持ちで胸がいっぱいになった。しだいに笑いがこみ上げてくる。
「く……くくく……また連絡するって、お前」
 彼女を乗せた電車が発車し、消えていく。
「電話番号もなにも知らねえじゃねーか……くく、ははは」
 いずれまた、俺はあいつのことを忘れていくのだろう。
 だけど今は、この余韻にしばらくひたっていたいと、そう思った。

「お前は、その、夢は叶ったのか?」

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-05-31

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