過去の民

パートⅠ

 世界中が平和になればいい。
 皆が平等になれば、戦争なんて起きない。
 多過ぎるなら、分け与えればいい。
 嘘なんて吐かなければ、怖いことなんてない。
 …………。
 そんな簡単なことが、どうして分からないのだろう。

 世界が歪んでいる。
 本当にその通りかも知れない。偶然乗り合うことになった老人が、『預言書』を見せてくれた。大昔が「平和」だったかどうかなんて、私には分からない。でも、それまで普通に暮らしていたはずの人間を突然捕まえる役人がいて、子供を簡単に引き渡す親がいて、誰がいなくなっても何も変わらない日常がある。
 少なくとも私の世界は、やっぱり歪んでいるんだ。
 私は、抱え込んだ膝の上に顎を乗せた。人生はあっけない。私は今や、「過去の民」になったのだ。
 「過去の民」は普通の人間ではないと教えられてきた。日常の中で私は、そんな「普通」から隔離された人たちがいるのを理解していた。もちろん実感なんてなかった。私は「日常」を生きる「普通」の人間だったのだから。こうして襤褸を被せたようなトラックの薄暗い荷台に、いろいろな「危険人物」として詰め込まれて運ばれるうちに、実感は強くなる。
 ドームの街は過酷になった自然の、いいところだけを人間に与えてくれる。区切られたものであっても、街は人間のための楽園なのだ。生きていくのに適した環境で、私は「普通」に生きて行くはずだった。人生なんて、考えもせずに。
 あるときから、夢を見るようになった。それは少し先の未来を予知するような夢だった。私はそれでも「普通」に暮らせると思っていた。どんなに予言のようでも、夢は夢でしかない。夢が偶然、未来と重なったとしても、それは「普通」のこと。そういえば、この荷台の暗いイメージも、ついこの前の夢で見たっけ…………。
 夜に見る夢が、少しずつ濃度を増して、私の生活を侵食し出した。例えば朝食を採っている時に、例えば同級生と言葉を交わした時に、イメージは降ってきた。
 巨大な物体の迫ってくる恐怖の感覚を覚えた朝は、どこかから逃げ出して来た子犬が大きな車体に曳き殺されるのを見た。何気ない会話の最中、暗い大きな建物の影と、上から迫ってくる物体の映像が見えた。
「危ない、」
 私は言った。
「大きな建物の影、気をつけて。」
 同級生はその日、校舎の北側で屋上から落ちてきた鉄柵に潰されかけた。屋上は立入禁止だった。その鉄柵は管理されずに置かれていて、一部が錆びついていたのだ。
 この世は歪んでいる。私は確かに平和ボケだったのだ。
「あ、次の授業、自習になるよ。」
「Aクラスのずっと休んでる子、明日、出てくるよ。」
 何でもない夢のはずだった。私は何度も何でもない夢を話して、それがことごとく現実と一致したのだ。それはいつしか、「予知」として受け取られるようになった。「予知」の能力を持ったら、もう「普通」とは呼ばれない。
 ある日、家に帰ると、黒服にヘルメットの、非日常な格好をした役人が、私を待っていた。母親は私を、複雑な目で見ていた。気味悪がるような、憐れむような、がっかりしたような目だった。私はただ呆然と母を見返した。
 誰のせいでこうなったのか分からない。それでも「過去の民」と見做されたら、中央政府に連れて行かれる。どこへ……。
 誰かを恨みたい気持ちなんてない。ただ「日常」が、簡単に崩れていくのが悲しい。「普通」の人生が、この埃臭いトラックに乗せられてしまったことによって、どんどん遠ざかっていく。
「おお、お譲ちゃん。そんなに落胆するでないぞ。」
 さっき『予言書』を見せてくれた老人だ。囚人たちと同じ空間での見張り役を押しつけられた役人が、すかさず私と老人を睨んだ。老人は、悪びれた様子もなく、私に悪戯を持ちかけるような目配せをした。老人は、私の手を取った。

 若い者は向こうでも生かされると聞いておる。生きている限り、逃げ出す好機も訪れるやもしれぬ。

 言葉が、私のものでない言葉が、私の中で喋っている。老人の皺の寄った手が、私の手を包んでいる。

 思念で話すのは始めてか、お譲ちゃん。

 不思議だ。頭の中だろうか、心の中だろうか。私のものではない言葉が、鼓膜でない所に響いている。
 私は、老人を見上げてぼんやり頷いた。老人は、穏やかな知者の瞳で私を見ていた。

 何も恐れることはない。ただ望むだけで、全てが本当になるのだ。私に語りかけてみなさい。そう望むだけだ。何か、語りたいことはないかね。

 私は役人を盗み見た。役人は突然手を繋いだ私と老人を、注意深く監視していた。私は老人に向き直って、望んだ。

 おじいちゃんはどうなるの。

 私は、老人の目を必死で見つめた。何とか話が通じるように、必死で語りかけた。三度目辺りで、老人からの返答があった。

 年寄りがどうなるかは、誰も知らない。政府が処分するのかも知れん。政府はどうしてか、能力のより強い者を探し求めているらしい。老いぼれには、向上の先もないからの。

 どうして、強い能力なんて、何に使うの、

 分からんさ。分かっているのはただ、「過去の民」がこの世では、いかほどかの驚異になるらしいということだけだ。

 驚異って、何、どうして、

 私には分からないことだらけだった。「過去の民」なんて、私の「日常」には関係ないもののはずだった。人類史の講義でだって、「過去の民」には殆ど触れていなかった。関係ないことなんだと、思い込んでいた。
 私は老人に何度も「どうして」を繰り返した。しかし、老人も知っていることは少ないようだった。その知識の殆どは『預言書』の記述と解釈から来ているらしかった。
 齢の刻まれた手を握りながら、私は老人と何度もコンタクトを取った。私の言葉は三回繰り返さなければ相手に届かなかったけれど、それでも声帯を使わずにこっそり会話するのが、何となく新鮮で嬉しかった。
 もっと、伝えたい。声帯を震わせるのではない、声を張り上げるのではないこうした会話は、すっきり真っ直ぐに、相手の心に届いているような感じがした。
 襤褸を被せた荷台は、蒸し風呂のように熱い。私は汗が額を滑って行くのを感じながら、それでも必死で老人に話しかけていた。

 おじいちゃん、怖くないの、死ぬのが怖くないの、

 ああ、怖ろしいさ。死は、いつだって怖ろしいものだ。誰にだって、平等に怖ろしい。当然に、怖ろしいものだよ。

 老人は、知者のように落ち着いた目を細めて、私にそう語りかけた。

 おんぼろのジープが、寂れたコンクリの道を去って行く。すかすかと間の抜けたエンジン音の上に、「サンクトゥス」の合唱が誤魔化すように重なっている。
 そして、集落からまた一人、誰かが消えた。
 中央が「過去の民」を集めている。俺は「過去の民」がどんなものかなんて、詳しくは知らない。星と語らい、風と遊び、……とにかく不思議な力を持っていた古の民だと聞いている。その不思議な能力の人間が、今でも時々、先祖返りのように生まれていて、それを何故か中央が集めているらしい。難しいことは良く分からない。中央政府の思惑なんて、分かりたくもないような気がする。
 俺が知っているのは、目の前のことだけだ。中央に協力するのを建前に、あいつらがやって来る。サンクトゥスは、暴力集団だ。誰が奴らを擁護しても。
「信仰なんて、今はもうないんだ。」
 家の外を、あいつらの「サンクトゥス」が流れて行く度に、親父は言っていた。
「信仰は、人間が文明を手に入れる毎に失われて、今はもう死んだんだ。」
 親父は俺と真逆だった。小難しいことばかり言っていた。だが、信仰の死を語った時の諦めたような眼は、今でもはっきりと思い出せる。
 サンクトゥスの連中がテーマソングにしているのは、太古の音楽家が信仰のために作曲した音楽の一節だと、親父は言っていた。信仰が本当にいったいどんなものなのか、正直良く分からない。随分曖昧なもののような気もするし、そう思うのは単に俺が無知なせいなのかも知れない、とも思う。とんでもなく下らないもののような気もするし、手を触れるのも惜しいくらいに尊いもののような気もする。親父の、あの眼と同じだ。

 サンクトゥス
 サンクトゥス
 …………

 奴らのテーマソングは、「サンクトゥス」の同じ歌詞だけが延々と続いているように聞こえる。よく聞けばもっといろいろ言っているのかもしれないが、俺には「サンクトゥス」の他は言葉として聞こえてこない。連中は時々、カーステレオに合わせて、自分たちも汚い声で歌う。

 サンクトゥス
 …………

 奴らの濁声が余りにも醜いのは、俺にだって判る。

 聖なるものよ
 我々の尊い神よ
 栄光は天に満ち、
 やがて地の果てまでも
 ……………………

 あいつらの「サンクトゥス」が、親父の正常さを奪った。近くに基地でも構えたかと思うほど頻繁に、奴らは集落で「サンクトゥス」を流しまくった。親父はそのたびにあの引っ掛かる眼をして、「サンクトゥス」の古典語の歌詞をぼそぼそと訳した。大音量の「サンクトゥス」は、確実に親父の頭を侵していた。
 俺は、そのことに気づきもしなかった。あの時の、あの瞬間まで。
 集落は狭い。俺の親父は死んだんだ。皆が知っている。皆、あいつらのおんぼろジープの前にふらふら出て行った親父を、馬鹿だと言った。だけど、俺には分かっている。親父はとり憑かれていたんだ。あの「サンクトゥス」に。俺はあの時、親父を見ていた。
「聖なるものよ、聖なるものよ、」
 口の中で、ぶつぶつとそう繰り返していた。眼が、あの何とも言えない眼が、どこか誰も知らない場所を見ていた。多分、親父以外の人間には、見えない場所を。
 俺は、そんな親父を止めることができなかった。触れてはいけないものに、その時は見えた。
 サンクトゥスの連中は、突然ジープの前に出てきた中年を見て、にやにや笑った。一台のジープに三、四人のチームで乗り込んでいた。そのうちの一台が、ぶつぶつ言っている親父を横目で見ながら、何か相談し始めた。親父はとり憑かれたように、ジープに近寄った。

 サンクトゥス
 ……………………

 カーステレオから、「サンクトゥス」はエンドレスで流れる。ジープが一台、朽ちかけのコンクリを跳ね上げて発進した。一瞬、「サンクトゥス」が搔き消えるほどにエンジン音が高く鳴った。
 親父の腹に、ジープの鼻先が食い込んだように見えた。でも次の瞬間には、頼りなく跳ね飛ばされて、深緑の車体とコンクリの地面の間に飲み込まれた。鈍い音がした。  
 鼓膜が破れたら、こんな音がするかも知れない、と思った。
 親父は、呻き声も上げなかった。俺は親父の最期を、窓の中から見ていた。区切られたシーンを、見ていたんだ。

 サンクトゥス
 サンクトゥス
 …………

 あいつらは、またやって来る。
 俺は「サンクトゥス」が聞こえると、無性に何かしたくなる。大声を上げるのでもいい。親父と同じように、ジープの前に飛び出してやるのもいい。それとも、残飯でも投げつけてやるのも、いい。
「余計な事をするんじゃないよ。サンクトゥスは子供だからって、容赦しないんだ。何でもない私らが、無駄に殺されてやることはないんだからね。」
 俺を泊まり込みで雇ってくれた宿の女将が言う。

 サンクトゥス
 …………

「聖なるものよ、聖なるものよ、我々の尊い神よ、…………」

 神。そんなものが、この世にいるとは思えないが。
 親父と同じように「サンクトゥス」の歌詞を呟きながら、俺にはどうしても、そんなふうにしか思えなかった。

 女なんて、大嫌いだ。
 あいつらのせいで、僕の世界は崩壊した。
 あの時、世界は一度終わったのだ。体験しない限り分からない感覚だろう。視界が、黒い線で区切られる。鋸で切ったような、汚い切れ目だ。痛みは、痛みであるとは認識できないような鈍痛だ。頭に繋がっている神経を、一本ずつ連続で千切られるような痛み。それからは、闇。じくじくとした痛みだけが尾を引く、闇だった。
 僕の世界は、一度終わったのだ。あの女達が、僕を抑えた。僕の両手を、片方は中年が、片方は処女が、抑えた。刺繍用の針を押し付けたのは、老女だった。
 僕は人間として、上手くやっていけるはずだった。僕は能力者なんかではない。ただ少し、相手の表情を読むのが得意だっただけだ。

 愛してるから、と処女が言った。愛してるから、と中年も言った。愛してるから仕方ないね、と老女が最後に言った。
 確かにそうだ。僕の世界が明るかった頃、僕はまだその世界をそれなりに美しいと思っていたし、それなりに好きでもあった。その三人の女達にしても、僕がそいつらを嫌う理由はなく、処女と僕とは将来を誓った仲でさえあった。
 刺繍用の針で、眼球を潰された。痛みが引いて事実だけが残った時、僕は役人に引き渡されていた。どこか媚を売るような、老女の愛想笑いがよく聞こえた。そうして声が、僕の頭の中で像を結ぶ。
 それは、新しい世界だった。耳から入る音の全て、手にした物の感触の全てが、脳内で像を結んだ。死んだ僕の世界、殺された僕の世界が、新しく生まれたのだ。だがそれは、確かな事実の上に成り立っている世界だ。残酷な女達の優しさの上に、成り立っている世界だ。
 愛を理由にしさえすれば、何をしたって許される。僕の世界が殺されて、誰も同情したりしない。女なんて、大嫌いだ。

 「星の宮」は、僕が視覚以外のところから仕入れた情報によると、昔、何かの書物で見た、貴族の館のような外観だった。庭園があり、中庭もある。噴水が、明るい光を反射している。
 ここに来て暫く、歩くことも食べることも話すことも、何もかもが嫌で、与えられた部屋に籠もって寝てばかりいたが、ついに起き出すことにした。横になっていると、いろいろな所から、いろいろな音が聞こえてくる。その音がそれぞれに僕の頭で像を結ぶ。本当に、おかしくなりそうだった。僕の脳は多くの事を見ているのに、実際、眼は潰れていて光も入らないのだ。聴覚が作った世界は、視覚の世界よりも非現実的だ。僕はただ横になっているだけなのに、どんな遠くにも行ける。音が結んだ像は、見たくもない物まで、細かく映像にしてしまう。
このまま横になってじっとしていれば、僕の脳は情報の多さに混乱し、崩壊していくのではないかとさえ思った。
 世界が終わる。崩壊する。そんなことは、もう沢山だった。自分のことだけを考えたい。何か、意識を自分だけに向けておくために、僕は部屋を出てうろつくことに決めた。
 眼を潰した方が「過去の民」は優遇されるというのは、どうやら本当のようだった。

 明るい。脳に浮かんだ像が正しければ、僕は今、「星の宮」の中庭にいる。噴水の淵に、女が一人腰かけて歌っている。僕は見たことがなかった、大きな楽器だ。水音と、弦の爪弾かれる音と、それから女の歌声。

 美しき繁栄
 美しき繁栄
 国の司は平穏
 国の司は共存
 齎さん 永遠の生命

 僕は少なからず、嫌な気分になる。国家を賛美する内容だった。僕と同じように「星の宮」に収容されている人間が、国家を賛美するとは。
 何も知らないような女の歌は、僕を苛立たせた。
「おい、女、」
 僕は近づいて、その女に声をかけていた。

 インマヌエル

 僕の世界で、女は歌をやめ、こちらを向いてそう言った。だが、どうしたことだろう。その声は、僕の耳からの情報ではなかった。声は、聞こえないはずだ。この声は、聞こえてはならないはず(・・・・・・・・・・・)のものだ。

 インマヌエルが、やがて訪れる。

 僕は頭を抱える。ついに、この脳自体がおかしくなったのじゃないか。頭の中の女は、淡々と僕に話しかけてくる。

 インマヌエルを、わたくしは待っているのです。

 そうか、これが思念てやつか。
 僕は悟った。「過去の民」にはそういう力があると、確か前に聞いたことがある。遠い世界の話と思っていたが、まさか自分がその思念で語りかけられることになろうとは。
 気持ちが悪い。倫理的なものよりも多く、生理的に気持ちが悪い。
「やめろ、何故普通に話さないんだ。」
 僕は女に向かって叫ぶ。
 その女は、僕に向かってゆっくりと首を振る。

 いいえ、わたくしは随分前に、話せなくなったのです。この口と声帯で言葉を話すことは、この世では罪になります。特に正直なことを、正当に話す時には。

 僕は頭を抱え込む。
 嘘だ。声を出して喋れないなら、さっきの歌は何だ。歌うことができて、喋れないなんてことはない。

 いいえ、話すことはできません。わたくしは、昔、とうの昔に、人の言葉を放棄したのです。

 女が言う。声に出していない僕の心を、読んでいるに違いない。


 話す言葉は嘘、声帯を震わせて出る言葉は、全て嘘の話。わたくしの真実は、そこにはありません。

 やめてくれ。僕は能力者なんかじゃない。僕は「過去の民」とは無関係だ。
 そんな思考は、言葉にもならない。口からは、意味のない呻きのようなものが零れおちるだけだ。それでも女は、確かに僕の内心を読む。

 貴方がここへやって来ることが、わたくしには分かっていました。貴方は作られた「過去の民」。けれどもそうした作られた人々は、ここには大勢いるのです。この国は、今では作られた能力者ばかり。

 この女は、いったい何を言い出すのだ。まるで、眼を潰されれば、本当に能力を身につけることになるとでも言うような口振りじゃないか。
 嫌だ。僕は能力者ではない。気持ちが悪い。こんな施設は、今に出て行くのだ。

 貴方は作られた。もうここを出ることはできません。何人もの人が、貴方と同じようにここを出ようとした。その人達は皆失敗した。殺されたのです。団結せねばなりません。一人きりでは、いけません。

 気持ちが悪い。頭が痛い。僕はもう殆ど、何も思考することができない。女なんて、大嫌いだ。皆、死んでしまえばいい。僕はあいつらには、殺されてばかりだ。死ね、死ね、死ね、…………。

 怖れてはいけません。怖れは、無益なもの。この国の繁栄も、怖れの上にあるもの。

 女が立ち上がって近づいてくる。長い、色の抜け落ちた銀髪。花の香り。

 どうか受け入れてください。わたくし達は、逃げられないということを。

 女の手が、僕の背に触る。息が、楽になった。この女は、何者なんだ。この女も、作られたのか。
「気持ちが悪い。」
 僕は言った。頭で考える前に、その女に訴えていた。

 受け入れてください。多くの人が、貴方と同じように、唐突な変化に動転した。その末に、自我を失った人もいました。怖れずに、受け入れてください。

 女に背を摩られながら、僕はだんだんと自分を取り戻した。世界が、修復されていく。不思議だ。この女は、何者だ。
「お前も、作られたのか、」
 女は答えなかった。否定とも肯定ともとれない、戸惑うような気配が伝わった。それから、僕の唇に、その女の指が触れた。
 気がつけば、僕はその女に抱き抱えられていた。幼い子供のように、僕はその女に縋りついていた。女は相変わらず、僕の背をゆっくりと摩っていた。

 インマヌエルが来ます。

 女が言う。

 何だ、インマヌエルって、

 僕はいつの間にか、当たり前のように思念で女と会話している。その女の腕の中は、花の香りで満たされている。気分が楽になる。嘔吐感も、もうない。

 インマヌエルは救い主。必ずわたくし達のもとへ現れる。わたくし達は、彼の下で団結する。

 女は、詩でも詠むように喋る。心地良くて、何だか愉快だ。僕は笑みさえ浮かべる。

 そのインマヌエルってやつなら、世界を変えてくれるのか。この馬鹿馬鹿しい世界を。

 インマヌエルは、平和を知る者。インマヌエルは、統合する者。インマヌエルは、わたくし達の救い主。

 平和……。そんな世界が、本当に来るのかな。

 待ちましょう。わたくし達の希望、インマヌエルが、やがて訪れる。解放されるのはその時です。

 希望か……。

 そう思ったのを最後に、僕はその女の腕の中で、暫く気を失っていた。

パートⅡ

 インマヌエルが来る。
 それは或いは誰かが見た夢。足を捥がれた誰かが見た、力を削がれた誰かが見た、夢の産物。
 インマヌエルが来る。
 だが強く望まれる夢は、多く望まれる夢は、やがて本当になる。
 インマヌエルは過去を知る者。インマヌエルは平和を体現する者。そして、統合する者。
 ………………。
 そうして、インマヌエルは生まれる。静かな朝、祝福の朝、そして同時に、それは夜。

 目覚めると、そこには誰もいなかった。ボクはそのざらざらとした肌触りの木の下で、たった一人だった。
 でも、不思議だ。何で「ボク」なんて概念を知っているんだろう。何で今が「一人」だなんて分かるのだろう。そもそもボクは、いつからボクなんだろう。…………
 深い緑の霧が、湿った手でボクを撫でる。不思議だ。これが生命の始まりの森だということを、ボクはもう知っている。ボクは、今ここで生まれたんだ。
 柔らかい木漏れ日に、ボクは立ち上がる。背の低い生まれたばかりの草たちが、ボクの裸足を包み込む。
 いい朝だ、とボクは思う。何故そう思ったのかは分からない。ただ、ボクは知っていたのだと思う。これが、きっと「いい朝」なんだと。
 あの大きな木の根元で、ボクは「一人」だと思った。でもそれは少し違っていた。この森には、多くの声があった。耳を澄ます、多分、眼を閉じて。

 おはよう。

 おはよう。

 いい朝だね。

 うむ、いい朝だ。

 ボクは満足して笑う。この朝が「いい朝」で間違いなかったことと、生まれて初めて誰かと会話できたことが嬉しい。とても、嬉しい。
 森は日差しを揺らす。風はきっと、遠くからやって来る。ここが、生命の森だ。
 ボクは嬉しくて、嬉しくて、走る、走りだす。草や根に、足を取られる。ふざけてるんだ、奴ら。ボクは嬉しい、楽しい。森のおしまい、番頭の木が、完璧にボクの足を引っかけた。
 ボクは転んだ。転がって、森の外れの緑の原っぱ。そして、眩しい。青い空だ。晴れた、空だ。
 ボクは呼吸する。嬉しくて、楽しくて、嬉しくて、楽しくて、……。
「ああああああああ、」
 初めてだった。多分、これが声。声だ。
 その森は素敵だった。晴れの日も雨の日も、ボクは大きな木の根元にいた。木には脈動がある。ボクはそれを聴くのが好きだ。暖かい、これが気持ち。

 生命は息衝くものなんだよ。みんな同じことだ。お前にも脈動がある。

 脈動が、

 そうだ。触れてごらん、例えば自分の腕に。

 ボクは自分の腕に触る。この木の肌に似た、ざらざらした手触りのものがある。それは、木と同じようでいて、全く違う。その布には、何の脈動もなかった。

 違う、そうじゃない。それは私達の死んだ肌だよ。お前の脈動はその下だ。死んだ肌には、脈動はない。

 木は笑った。
 ボクは木に言われた通りに、その布を捲って自分の腕を掴んだ。

 あった、

 ボクは嬉しくて、自分の身体に何度も触った。ところどころで、脈動の強い所と弱い所がある。面白い。ボクは、嬉しい。これがボクだ、ボクのリズムだ。

 大きくおなり。

 木が言った。木の言葉は、いつも暖かくて優しい。

 大きくおなり、お前は夢の子。人が見た夢の子、インマヌエル。

 その時、木はインマヌエル、とボクのことを呼んだ。

 インマヌエル、何それ、

 人がお前に付けた名だよ。

 名、名前、ボクの、

 そうだ。人はお前にインマヌエルであることを求めている。

 インマヌエル、

 そうだ。だが、忘れるな。それは人の望み。お前には別に、お前のなるべき姿がある。忘れるな。

 何のことさ。ちっとも分らないよ。

 いい、いい、今はまだそれでいい。いずれ来るべき時が来る。

 ボクは木を睨んでみたけど、木は意味深に笑うばかりだった。

 覚えておおき、人の夢から来た子よ。お前は千里を飛ぶことができる。望むことは何でもできる。 お前には強大な力がある。壊すことも、作ることもできる。だが、それはお前の力だ。人の力ではない。お前の、お前自身の、意思による力だ。覚えておおき。……………

 木はそれから何度も同じ話をしたけれど、やっぱりボクには、よく分からなかった。ボクにはただ、木が教えてくれた「インマヌエル」という言葉の響きが何故だか心地よくて、だから何度も繰り返していた。

 インマヌエル、インマヌエル、……。

 だけど、それが自分の名前だなんて、本当に思っていたことなんてなかった。ただ、楽しかっただけで、嬉しかっただけで。

 人間なんて、皆死ねばいい。
 俺はそんな子供だった。毎日、事あるごとに、そんなことを考えている子供だった。
 表向きはただの子供でも、俺の考えを見抜く者、理解する者は誰一人として居なかった。物心ついたときには、既にはっきりと人間が嫌いだった。
 すべてのことは嘘だった。要請さえあれば、子供らしく振舞うことはできた。それが最良とされていると分かれば、優等生になることができた。その気になれば、殆どのことは簡単にいくものだと分かった。そんなふうに嘘を積み重ねて他人を騙して暮らすうちに、気づけば俺は「エリート」と呼ばれていた。それは、俗に言う渾名のようなものらしい。
 試験の結果は生徒のネットワーク上の電子版で公表される。中庭でも談話室でも、生徒は自由に結果を確認できる。もっとも、万人の目に曝されるのは、トップクラスと落第だけだったが。
 詰まらないテストだった。
「おい、エリート、見たか。お前また首席じゃないか。」
 試験結果公表の度に、見知らぬ知り合いが増えていく。無闇に馴れ馴れしく話し掛けてくる奴は、返って程度の低そうな奴が多い。
「いや、まだ見ていないよ。」
 答えてやる顔も言葉も、全部嘘だ。
「何だよ、やっぱり余裕なのかよ。さすがエリートは格が違うよな。あやかりてえ。」
 こういう馬鹿な奴に限って、へらへらした表情の下から内心を覗かせるのだ。相手の腹を探ろうとして、むしろ自分の腹黒さを露呈していることに、気づきもしない。
 格違いのエリートを僻んで醜悪な卑屈さを公表して回る暇があるなら、せいぜい次の試験でそんな気分にならないように努力するんだな。
 卑屈な馬鹿を適当にあしらいながら、内心ではそんなことを思っている。嘘はこれぐらい上手く吐くものだ。気づかれる嘘なら、吐かない方がましだ。
「いやあ、すげえよな、エリートは。お前なら中央政府の特殊監督官になれるぜ。」
 俺はそいつに、肩を竦めて見せた。
 特殊能力を持った「過去の民」を、中央政府が集めている。能力者の全部を殺すわけではない。 子供や若いうちに覚醒した能力者は、研究施設の実験体として扱われる。力の特に強大な者についてデータを採ることで、人類の歴史上に再び現れた「過去の民」を、人間の、つまりは中央政府の支配下に置こうというのがその魂胆だろう。
「あ、エリート。」
 談話室には、中央高官養成のこの学園では希少な、数名の女達が群れている。
「エリート、見たわ、電子版。」
「すごいことよ、いつもトップなんだもの。」
「貴方みたいな優秀な人って、本当に尊敬できるわ。」
 何の話をしているやら。
「ありがとう。君達も、頑張って。」
 俺は要請さえあれば、どんなふうにも振舞える。
 人間というのは、その根元から欲深い生き物だ。より多くの物を支配下に置きたがる。それは酷く短絡的で、高慢で、その分、下らない。
 皆、死ねば良い。
 子供の頃の思考が時々、戻って来る。人間なんてものが生成してしまったことが、実は一番の間違いで、俺がそんなものとして誕生したことも、やはり間違いで。それが分かっていたからと言って、いったいどうすれば良い。
 「過去の民」。あいつらが、時々酷く憎らしい。特殊能力があれば、人間を皆殺しにできるのではないか。全員殺して、自分の他には誰も居なくなって、そうしたら、嘘を吐く必要もなくなる。理解しない人間が居なくなる。一人は自由だ。大勢の中で、嘘の内側で、他人を嘲笑しているより、ずっと自由だ。そんな気がする。
 生活に都合の良い環境を保護するために作られたドームは、今日も晴れた空を映している。このドームの外では、風が吹いているのだろう。外の風は、システムで調節されて中にも送り込まれてくる。でも、それは嘘の風だ。本物の風を、俺は知らない。ドームの中は実のところ、機械化された閉鎖空間だ。
 滑稽な話じゃないか。嘘だけの世界で、人間は息衝くことができる。嘘さえあれば、人間は生活していく。
 いいだろう、それが世界の要請だと言うなら。嘘ばかりの世界の中で、嘘の高官になるのも一興じゃないか。
 中庭は光で満ちている。噴水の上に、紫外線の量を調節された日光が踊っている。下は十二歳から、上は十八歳まで。政府の高官候補として入学した生徒達のうち、ここに居るのは大体、試験で中盤辺りの成績だった者達だろう。そこにあるのがどんな集団か、そんなことは一見するだけで分かる。
「ああ、もう、駄目だ。」
 背後でこの学園にそぐわない無遠慮な大声がした。振り返るとほぼ同時に、生徒用個人端末が飛んできた。咄嗟に手で掴む。こんな精密機器を、払い落すわけにもいかない。
「わあ、悪い。じゃなくて、すみません。」
 投げた相手は新入生だ。制服の腕章で、学年が分かる。
「新入生君、いったいどうしたんだ。端末を投げたりしては駄目だよ。」
「ああ、だから、すみません。」
「以後、気をつけて。」
 もう入学から半年は経つというのに、落ち着かない学生が居たものだ。あれでよく試験に受かったな。
「あ、あの、ちょっと待って。……待って、ください、あの、」
 立ち去ろうとしたら、呼び止められた。いったい何だ。
「何だ、どうしたんだ、」
「あ、ああ、だから、これ、」
 そいつはさっき俺に投げつけた端末を、今度は押しつけるように差し出してきた。
「何だ、」
「あの、だから、つかないんだ、です。」
「は、」
「端末が、上手くつかなくて、」
「機動のさせ方も知らんのか、」
「だから、言われた通りにやったのにつかないんだよ、……です。」
 呆れた奴も居たものだ。今時、こんな簡単な機器もまともに扱えないとは。
 だが見てやると、そいつの端末はもう手遅れだった。さっきの調子で、何度もどこかに投げつけたのかもしれない。
「こりゃあ、駄目だな。」
 俺は呆れ切って、そいつに言った。
「駄目か、」
 そいつは項垂れた。
「学生管理課へ行って、修理の手配をして貰うように。試験結果なら、IDがあれば管理課設置の端末からも閲覧できる。」
「ああ、嫌だ。もう三度目なんだよ、壊すの。」
「何だって、」
 俺は耳を疑う。そいつは恨めしげに俺を見る。
「また怒られる。」
 それはお前のせいだ。と言ってやりたいところを、ぐっと我慢した。
 半年で三度も。
 この学生用端末の操作は特に簡易だというのに。
「それで、あの、先輩、」
「何だ、管理課の場所は知っているだろう、」
 まだ何かあるのか。
「いや、そうじゃなくて、ああ、あの、」
「何だ、早く要件を言い給え。」
「大変申し訳ないんですけど、その、ついて来てくれない、いや、くれませんか、」
「何だって、」
「だから、その、なんて言うかさ、学校のやつ壊したのアレだしさ、」
「私に君の供をしろというのか、君が壊した端末のために。いったい私を誰だと思っているんだ、私は、」
 エリートだ。
 ……危ない。自称してこんなに馬鹿馬鹿しい渾名はない。
「だから、すいませんって……。」
 溜息交じりに、そいつが首を垂れる。溜息を吐きたいのはこっちだ。
 いったいこの出来の悪い後輩は何だ。出来が悪い上に図々しい。この学園に入って以来、いや、入る前からずっと、俺をこんなに苛立たせたのはこいつが初めてではないか。
「もういい、分かった。一緒に行こう。」
 俺は余分に思考することに疲れて言った。
「おお、やったあ。」
 そいつは馬鹿だった。見ての通りの大馬鹿だった。成績を確認するなり、その馬鹿は言った。
「おわ、まただ、またビリだ。」
 ルーム中に聞こえるような馬鹿声だ。
 いったいどうする気だ、お前の恥を皆に知らせて。もう、頭を抱えるしかない。
「面白いでしょ、あの子。試験の度にいつも来るのよ。分からないなら壊す前に訊いてくれれば良いのにね。」
 オペレーターの女性が言っていた。
「いったいどうして生活しているんだ、君は。」
 学生寮の部屋には部屋主に対して一台ずつの端末がある。
「あは、すいません、あんまし使ったことないっていうか、」
 そいつは照れ笑いをしている。今時珍しいなんてものじゃない。現代人として終わっている。
「でもホントに、」
 別れ際に、そいつは言った。
「今日は助かりました。先輩、怒りっぽいけど、いい人だ。」
 絶句。
 能天気な後輩は、寮へふらふらと歩いて行った。
 どっと疲れた。俺はペースをすっかり崩された。だから、後でふと思った。
 あいつは一度も、俺を「エリート」として扱わなかった。

 耳の奥、鼓膜を直に震わすような音がする。
 建物は多くある。民家やビルやステーション、……。だけどここには、人間はいない。一人にされるのは、いつものことだ。
 鼓膜が一層激しく鳴り出す。
 だんだんと、振動音だけではない、轟音が近づいて来る。
 少しの不快を感じながら、僕は白い空を見上げる。
 いた、あれだ。
 あの飛行船、鉄の塊が、今回の標的だ。遠い、高い天から、どんどん近づいて来る。そいつが一定距離まで近づくのを、僕はじっと見守る。そうだ、あいつが爆撃してくる距離まで。
 機体が風を切る音だ。僕にはもう分かっている。

 来る。

 母艦から次々と、そいつらは降って来る。落下する音は甲高い。僕は思わず耳を塞いだ。だけど逃げたりはしない。そんな必要はないのだ。
 辺りで、僕のすぐ近くで、降って来た塊達が弾ける。爆音が、世界全体に轟く。爆風が、駆け抜ける。
 やがてそれが鎮まるまで、僕はその場にただ立っていた。
 僕には爆撃なんてものは効かない。全ての攻撃は、僕を避けて行く。僕は僕の力で、僕の為の防護壁を、自由に作ることができる。そうだ、初めの頃は上手くいかなかった。僕は何度も死んだ。何度も何度も、……。そうしてやっと、ここまで来たのだ。

 僕は、生き残る。

 暗い灰色の母艦を睨みつける。急所がどこかは、既に知っている。何故かは分らない。情報は、何かに教えられているような、前からずっと知っていたような気もする。でも、実際は、そんなことは重要なことではない。

 僕は、あいつを、壊す。

 暗い色の母艦が、所々から淀んだ煙を噴き出す。

 そうだ、もう少し。

 壊れろ、

 僕は念じる。相手は、自棄になっているように、そこここに爆弾を投下して来る。爆煙が、僕の視界を邪魔する。

 邪魔するな、

 煙が、晴れる。僕の眼はまっすぐに、母艦を捉える。

 壊れろ。

 母艦の機体から、閃光が迸る。

 僕は、生き残る。

 天が割れるような轟音が、地の果てまで鳴り響く。
 僕の頭上で、そいつは飛び散った。ばらばらに、火を噴いた破片になって。燃える破片が、次々に降って来る。僕はそれをじっと見る。勝ったのだ、今回もまた、生き残った。
 街は、火の海だった。民家も、ビルも、皆、崩れ落ちて、燃えていた。赤い火が、音を立てて燃えている。何かが弾けるような音が、耳の表面を撫でていく。
 勝ったのだ。
 全身から力が抜ける。僕を囲んでいた防護壁は、それと同時に消えた。
「テスト、終了。今回のテストは終了。」
 機械の声がする。世界は崩れ落ちて、そのままブラックアウトして行く。

 座席のシートはなかなかに豪華で、座り心地も申し分ない。それでも僕は疲れて、暫くその体勢のまま、シートに沈み込んでいた。息が、上がっていた。
 ヘッド装置を外す。座席だけでいっぱいの狭い暗室も、僕にはもう慣れたものだった。ヴァーチャルリアリティによる訓練テストは、心身を酷く消耗させた。
 どこかで、銃声が聞こえた。
 今回も、誰かが死んだ。死んだのは訓練テストの受験生だ。精神を可笑しくすると、この機関の職員に撃ち殺される。リアリティに呑まれたら、待つのはただ死のみだ。ヴァーチャル世界で殺されて、テストが終了した時には本当に死んでいた奴もいる。
 ヴァーチャルでなら、僕もまた幾度も死んだ。だがリアルでは、僕が死ぬことはなかった。初めにここに入った時、酷く動揺して、泣き喚いて、もう狂って死ぬかと思った。でも、僕は死ななかった。 死んだのは隣の奴だ。僕はヘッド装置を取って、この暗闇が怖くて、外に飛び出して、そして見たんだ。
 隣の個室のドアは開いていた。試験管が二人、中を覗き込んでいた。一人は、銃を手にしていた。
「受験番号は、」
「所在クラスは、」
 試験官は、その部屋に入っていた奴に質問した。だが、そいつは答えなかった。その二人の大人の身体の隙間から、僕はそいつの顔を見たんだ。虚ろな、遠い眼をして、夢でも追うような眼をして、そいつは薄笑いを浮かべて、その口の中で何か言っていた。
 二人の試験官が、顔を見合せて、やがて肩を竦め、首を振り合う。一人が銃を構えて、その引き金を、……。
 たった一度の銃声で、頭の狂ったそいつは死んだ。殺された。殺されるんだ。リアリティに呑みこまれれば、僕だって。殺される。
 その時、僕には奴が何と言っていたのか分かってしまった。口の中の奥の方で、試験管二人も聞き取れなかったような言葉を、この僕が。

 インマヌエルが来る、インマンヌエルが来る、インマヌエルは救い主、インマヌエルは全ての基、インマヌエルが来る、インマヌエルが来る、…………。

 薄ら笑いの口の奥で、そいつが言っていた。祝詞のように、幾度も幾度も。僕にはその意味が分からなかった。ただ、盲信しているような死に際のそいつの剣幕が怖かった。「インマヌエル」という、その言葉が、何故だかやけに引っ掛かった。
 僕も信じたいのか、その救い主を。
 いや、何かに頼る気になってはいけない。僕は僕の強さを信じなければ、ただひたすらに、生き残る強さを持たなければいけない。気を強く持て。狂ったら、殺される。その救い主が本当に居るのか、それともあいつの妄想なのか、それは分からない。だが、今、そんなものに頼るような弱気になってはいけない。生き延びる。それがまず第一だ。
 僕は大きく息を吐いて、シートに深く、更に深く身を沈めた。
 それと殆ど同時に、暗闇が避けて光が差し込んだ。眩しい。試験管ののっぺりした顔が、暗がりの僕を覗き込んでいる。
「受験番号は、」
「D‐195678、」
「正気だな、」
「ええ、大丈夫ですよ。」
 僕は答える。薄笑いを浮かべて、答える。
 あいつが、本当は羨ましいのだ。「インマヌエル」を、救い主を、すっかり信じて死んだあいつが。 本当は、羨ましいのだ。
 「過去の民」として連行されて、まず初めにこのテストルームに入れられる。大体の人間は、ここに連れて来られた初めから強い攻撃能力を持っているわけではない。先読みとか、簡単なテレパスもどきとか、そんな程度だ。能力の自覚がない者でも、サンクトゥスにかかれば「過去の民」になり得る。
 若い「能力者」だけが集められ、死ねばそれまで。生きれば、恐怖で飼い慣らされながら、現実には在りもしない、あまりに強大な敵と、たった一人で対峙する。能力を、無駄に増大させる。そうだ、ついでに、忍耐力も精神力も強くなる。幾度も死ぬ。幾度も壊す。幾度も、殺す。
 いつまで、こんな日々を続ければいいのか。こんな人間に不要な能力を無理に育てて、政府はどうしようと言うのか。僕には分らない。そんなことは、どうでもいい。毎日一度はこの暗がりで、僕はテストを受ける。大勢に狙われることもある。そもそも死ぬ直前から始まることもある。大軍艦に爆撃されることもある。ヴァーチャルとは言え、感覚は酷く現実味がある。世界中が、僕個人を攻撃してくる。僕は人を殺し、物を壊し、生き残る。生き残らなければ、死ぬ他はない。
 いつまで、続けていれば良いんだ。
「インマヌエル、」
 その名は暗がりに程よく溶けた。その名は、僕の口から、何故か自然に、至って自然に、零れ出たのだ。
「インマヌエル、」
 僕には自分が分からなかった。どうしたらいいか、分からなかった。唐突だった。眼からは涙が、感情が、怒涛のように溢れ返った。
「インマヌエル、」
 信じてはいけない。頼りにしようなどと、考えてはいけない。救世主が来るなんて、考えてはいけない。一人きりで、強くならねば生きてはいけない。
 でも、……。
 その一方で、僕は確かに、信じたいと、その救世主を、インマヌエルを、信じたいと、強く思っているのだ。
 助けてください、インマヌエル。もしも居るなら。この僕を、どうか助けてください。
 僕はその暫くの間だけ、存在さえ怪しい「インマヌエル」に向かって、救済を求めたのだった。
 初めてテストを終えた後はあれほど怖ろしかった暗闇が、その時は何故か、酷く暖かく、優しいものに思えていた。

パートⅢ

 この世が歪んでいることなんて、とっくの昔に気づいていた。だからって、どうしようもない。
 何かしたいと思ったって、何もできない。ただ、毎日を生きていくだけだ。

 彼が私の前に現れたのは、ついこの間のことだ。
 その日は雨が降っていた。雨といっても、昔あった自然の環境に似せるための、人工的に管理された雨だ。ドームで区切られたこの区域は、大抵いつも穏やかに晴れている。人間のために快適とは言えないドームの外の環境から、管理されることで守られている。聞こえは良いが、これも政府による支配の一つだ。見る者が見れば。
 年号は覚えていない。遥か宇宙から飛んで来た隕石が衝突してから、地球環境は随分変わってしまったらしい。隕石が落ちた部分は、大きなクレーターのように抉れているのだという。実際にこの目で見たことはないのが……。
 衝突の衝撃で酷い地盤沈下や地盤隆起が起こり、地球は正常な体温調節の仕方を忘れてしまったのだ。可哀想に。
 政府の支配下で暮らしているのだと思うと気が滅入らないわけでもないが、ドームの外は地球の自転や公転による気温の変化が著しく、気候の変化も激しい。それに比べれば、楽に暮らせるドーム内は、まるで楽園だ。後は気の持ち様ということなのだろう。
 雨の降る街中で、彼はずぶ濡れで、しかも腹ぺこだった。飲食店の電子ウィンドウの前に、彼は指を銜えて立ち尽くしていた。
「人工の雨だって、風邪は引くわよ。知ってるでしょう、」
 私は思わず、彼に声をかけた。この世にホームレスや浮浪者のような人がいるということは、私も知っている。だが、政府の息が直にかかったこのドーム内には、そういう人間は、どういうわけか存在しないのだ。
「俺、……、」
 彼は振り向き様に蹲った。上背は割とあるし、声変りも済んでいるのに、行動は随分幼い。
「もう、無理。我慢できない。」
 雨音に負けない、地を這うような低い音が、彼の腹から響いた。
「……何、」
「どうしたら食い逃げできるか、考えてた。」
「食い逃げ、」
 この管理された中央ドームで、よもやそんなことを考える人間がいるとは思わなかった。
「できるわけないわ。貴方、まさか住民登録をしていないの、」
 登録が済めば、晴れてこのドームの住人として、中央政府直々の管理下に入ることになる。閉ざされたドームで、逃げ切れるはずはないのだ。もし未登録のままドーム内で暮らしていれば、それは違法滞在だ。私は彼を通報する義務がある。
「したよ、登録。」
 彼が答えた。
「どこなの、住所は、」
 私が重ねた問いに、彼は答えなかった。代わりに、さっきの腹の虫に対抗するかのように低い呻きを口から漏らした。空腹が、本当に酷いらしい。
 あまりに哀れで、私は彼に傘を差し出した。
「分かった。しようがないから、取り敢えず、家においで。」

 私は彼をシティアパートの部屋へ連れて帰って、シャワーを貸した。服はつい三ヶ月前に別れた男が置いて行った服を進呈した。
「何か、いいとこに住んでるんだな、あんた、」
 彼は遠慮する素振りもない。私が給料で買い溜めた食料を、全滅させる勢いで豪快に食べた。
「そりゃあそうよ。中央政府直営のアパートよ、ここは。……よく食べるわね。」
「もう、腹が減ってしょうがねえんだ、わりぃな。」
 食べかすを飛ばしながら、彼は食べ続ける。食後の片付けは、多分私の仕事になるのだろう。
「あんた、何してる人なの、私より若そうだけど、学生じゃないの、」
 このドームシティの学生なら、土曜の午後以外に街中をうろうろしている筈はない。ここの学生は皆、中央政府幹部の地位を目指すべく集められている。そう簡単に敷地の外には出してもらえない。私もかつて、そうだった。学内はとにかく奇麗に整えられているが、学生の殆どはエリート意識の塊だし、何となく不自然な明るさがあって居心地が悪いのだ。その代わり、何年間かの後に単位を無事取り終えて卒業できた暁には、中央政府の管轄施設で働く権利を与えられる。
 いつの世も、国家の犬は主人から他より多くを与えられる。このシティアパートを利用することもできる。世界を憎んでも、政府のやり方に疑問がよぎっても、どれだけ知らぬふりでいられるかが生きていくポイントなのだ。ただ淡々と働いて暮らしていけば、こんな「いいとこ」 にも住めるし、毎月お金は入って来る。
 彼は自分のことについて、語りたがらなかった。登録住所の件もそうだし、職業や所在についてもそうだ。
「……本当にいい部屋だよな。広いし、奇麗だし、ちょっとハイテクすぎるけど。」
 私が彼のことを訊こうとすると、そんなふうに、あからさまに話題を逸らそうとする。きょろきょろと眼を泳がせて、後ろめたいことがあるのは明白だ。
「あら、貴方だって、住めないことないわよ。ちゃあんと学校に行って、単位採って卒業すれば、将来は約束されたようなものよ。」
 如何にも気まずそうに、彼は上目遣いに私を見た。
「行った。」
「行った、」
「……その学校、行った。」
「行ったって、まさか、OBじゃないでしょ。」
「この間まで、あそこの中にいたけど、追い出されたんだよ。」
「それって、貴方、退学処分を受けたってこと、」
 まさか。
 中央政府幹部を育てるために特別に集められたような人材が集まるあの学校で、退学なんて……。
「いったい何をしたの、」
「何もしてない。」
 不貞腐れたような声で、彼は私を軽く睨むような表情をした。
「何もしてないのに、退学になる訳ないじゃない。」
 特別愛着はないが、それでも私の古巣だ。何となくむきになって、彼に突っかかる。
「してない。機械壊したとか、テストが無理だったとか、話し方が駄目だったとか。でも俺、普通にしてただけだ。」
 彼も私に応戦してくる。
 呆気にとられる。彼が挙げた退学の理由と来たら、何て下らなくて採るに足らないのだろう。
「そんなことが退学理由になるのかしら……。」
 確かに彼の雰囲気や所作は、あの学校の気風には合わないような気はするのだが。それなら、彼はいったいどんな経緯があってあの学校へ通う羽目になったのだろうか。
 私の時は、当時住んでいた町から推薦状が出て、よく分からない試験をいろいろと受けて、中央政府の役員が迎えに来て、……。
「追い出されたんだよ、何か知らないけど。」
 追憶に捕らわれ始めた私の思考を、やや幼く頬を膨らせた彼の声が中断させた。
「何か知らないけど、ねえ……。」
 いろいろなことが、どうも腑に落ちない。それなのに、よく動く彼の表情や感情豊かな彼の声と言葉を聴いていると、それでもいいかと思ってしまう。私は自分自身を納得させるべく暫く何度か頷きながら、彼が空腹を満たす様を呆然と眺めていた。

 学校という制度と生活に捕らわれるために、晴れてこのドームシティの「住民」になった学生が退学処分を受けた場合、住民登録はどうなるのだろう。そう言えば、よく知らなかった。学生として連れて来られて、その時の登録住所は学寮になるのだろうか。だとすれば、退学処分はつまり、中央ドームでの住民登録が抹消されたと考えるべきなのだろうか。
 彼は暫く、私の部屋に住みついていた。私がラボへ出勤する間、特に何をするでもなく部屋で息づいているらしかった。私は彼を、不法滞在者として告発すべきだろうか。彼がこの部屋にいることについて、私個人としては少しも不都合はない。むしろ、彼が居ることで、私の生活は潤っている、ような気がする。食費は妙に嵩むが、彼のような経緯不明の、語りたがらない人種は、ここでは希少なのだ。
「ねえ、あんたさ、いったいどこから来たの、」
「うん、……」
 彼はいつも、問いの答えをうやむやにする。問いかけた私の方を向きもせずに、一〇秒置きに切り替わる電子フォトフレームをじっと見ている。
「ああ、全く、」
 私は彼がだらりと身体を預けているソファカウチへ近づいて、フォトフレームを取り上げた。
「いったい何がそんなに面白いの、」
 フレームで入れ替わるのは、随分昔になくなったという、原始の海や森や草原の画像だ。自然のものは失われても、このドームシティ内でこんな風景を見ることはできる。植物や水の見せる緑や青の色が人間の精神安定に役立つという見解から、人工林や人工湖が設置されているのだ。もっとも、水などは精巧なホログラムである場合も多いが。
「その場所、どこにあるんだ、」
「場所って、この海とか、森とか、」
 彼はぐっと食いつくように頷いた。
「デジタル処理されてて分からないかもしれないけど、この画像は随分昔に撮られたものよ。これは原始の森と海なんだから、今はもうどこにも存在しない。」
「どうして存在しないんだ、あんたが撮ったんじゃないのか、その写真、」
「あのねえ、貴方、人の話聞いてた、それとも私は仙人か魔女の類なの、」
 彼は至極真面目な表情をしていた。一息ついてから、私は彼に説明した。
「ここにとり込んである画像はね、皆もともと私の祖母のものなのよ。そして、祖母はその母から、祖母の母はその父から、その母、その父、その祖父、……もうずっと昔の人間が撮ったものなのよ。」
「あんた、見たことないのか、これ。」
「だから、ある訳ないじゃない。原始自然が残っていたのはもう随分昔なのよ、」
「そうなのか……、」
 拍子抜けしてがっかりしたような表情を、彼はした。
「まあ、いいじゃない、原始自然がなくたって、今はもっと管理された緑があるわ。貴方もここへ入った時、見たはずよ。外れの方にはちゃんと森とか湖とかのある公園があったでしょう。」
 私は彼の気を持ち上げようと思って言ったが、あまり効果はなかったようだ。彼は駄々っ子のような顔をして、首を横に何度もふった。
「違う。あんなのは偽物だ。」
「偽物って……。確かに人工的に作ったものだけど。でも、あれだってね、自然の森や海や、そういうものと同じような精神的効果をちゃんと生むようにできてるのよ、」
 自然の森林や海が人間に齎す効用を研究するラボには、以前、私も所属していた。今は異動になって、超心理学研究所に所属しているのだが。
 研究者たる私は、研究の成果を信用しているが、彼はそうではなかった。彼の態度は頑なだった。
「そういうのじゃないんだ。計算とか、機械なんかじゃなくて……。そんなんじゃないんだよ。」
 いったい何が言いたいのか、彼自身にさえ言葉ではまとめ切れないらしい。だが、彼がその滅裂な意見を容易には変えないだろうことが、私にはよく分かった。
 だから私は、彼のその気持ちを、容認してやることにした。
「そう。よく分かったわ、貴方の気持ちは。それで、どうしてそんなに原始に拘るの。何か思うところがあるの、」
「うん、よく、分からないけど、」
 彼の手に、電子フォトを返してやる。その画面いっぱいに、枝を伸ばして深緑の葉を茂らせた巨木が映った。
「何となく、懐かしい、気がする。」
 その巨木を眺めながら、初めて言葉を口にした子供のように、ある種の感慨を込めて、懐かしい、と彼は呟いた。

 勤務先のラボに、次の新しい「実験体」の一団が到着した日、私が部屋に帰ると、彼はいなくなっていた。置き手紙や電子メモは勿論、何の言葉も前触れもなかった。
 暗くなった部屋で、彼が気に入っていた電子フォトだけが、音もなく画像を移し替えていた。
「懐かしい、か。」
 緑の繁った巨木を見て、私は急に寂しくなって、少し笑った。

 昔。そうだ、もう随分、昔のことに思える。
 俺の生まれた町は、確かここから車で半日近く離れた、寂れかけた小さな集落だった。皆に祝福されながら、その町を出たのは十四の時。政府のお膝下である、このドームシティの学校へ、晴れて編入が決まっていた。寂れた田舎では秀才・天才で通っていた俺も、中央へ出てみれば、井の中の蛙。学校の授業は、半分くらいが宇宙だった。だが、勉強の他の学校生活は、概ね順調で、なんとか及第で単位も採り終え、無事に卒業したわけだった。
 目の前に垂れていた布を少し上げて、小窓の奥をチラリと覗いた。
「おい、やめとけよ。見たってどうしようもない。」
 背後から、同僚の声がかかった。
「そうだな、どうしようもない。」
 俺はそう返して、小窓のカーテンをもとに戻すと、右手側にあるオレンジ色に点灯しているボタンを押した。
 小窓の向こうにある暗がりの部屋に、シューシューとガスの噴き出す音がする。だが、その他には何の物音もしない。本当に、向こうには生き物がいるのだろうか。
「相変わらず、静かだな。」
 めでたく学校を卒業した俺にあてがわれたのが、この処置室の仕事だった。
「こんなに静かだと、向こうに人がいるなんて、嘘みたいだよな。」
 俺は小窓に垂れたカーテンをじっと見た。
「おい、やめろよ。変な気を起こすんじゃないぞ。」
「大丈夫だよ、別に何もしやしないさ。」
 同僚は表情を、殆ど外に出さない。この仕事を初めて二年。恐らくは、この俺も、同僚と同じような表情で、職務をこなしているのだろうと思う。
 これは、中央政府に集められた「過去の民」のうちでも、老齢や病弱、或いは著しい凶暴性などのために、役に立たないと判断された者たちを閉じ込めた部屋に、毒ガスを充満させて処置する仕事だ。なんとも嫌な感じのする内容だが、やることは簡単だ。俺は暗い部屋に閉じ込められているという者たちを死に至らしめているらしい、その毒ガスの名さえ知らない。処置官に求められるのは、ただ何も考えることなく、ボタンを押すことだけだ。
処置ボタンのオレンジ色のライトが、チカチカと点滅している。そろそろ、部屋の中はガスが充満する。
「おい、次に行くぞ。」
 同僚に処置官の仕事着であるジャンパーを、引っ張られた。毒ガス部屋は、一つだけではない。 俺たち処置官は、その部屋を回って、一つ一つの部屋にガスを充満させていく。中に何人いるのか、どんな人間がいるのかは分からない。死体の片づけはガスの充満後に部屋の自動装置で行われるらしい。処置官の仕事は、飽くまでも、ボタンを押すことだけだ。そのボタンを押すことによって、幾人もの人間が死んでいるらしい。職務をこなす上で、殆ど何の実感もない。
 言ってしまえば、退屈な仕事だった。俺は時々、田舎の集落で、大海など知らずに井の中の蛙をやっていた方が、人間として幸福だったんじゃないかと、思うこともある。
「なあ、お前も学校の授業、宇宙だったのか、」
 同僚は怪訝そうに眉を痙攣させて、俺を見た。
「何の話だ、唐突に。」
「いや、なんか、俺がこの仕事をさせられているのって、やっぱり学校の成績が不味かったからかな、と思って。やっぱ、お前も、宇宙だったか、」
 同僚は軽い溜息をついて言った。
「寝ぼけたこと言ってるなよ、何だ、宇宙って。学校のことなんて、もう忘れたよ。」
 ガス室とガス室の感覚は、思いの外、離れている。政府に役立たずと見なされた「過去の民」たちは、そのまま、このガス室に入れられて、毒ガスが充満する日を、暗闇の中で待たされるらしい。部屋同士の感覚が離されているのは、「過去の民」同士が結託する可能性を潰してしておくためかもしれない。この結託阻止の方法が、どれくらい有効であるのか、俺にはよく分からないが。
「じゃあさ、お前、この仕事って、どう思う、」
「下らないこと、聞くなよ。お前がどこの何集落から来て、学校で成績がどうだったかなんて、俺は知らないし興味もないが、俺たちが政府から許された仕事はこれだった。それだけの話だ。」
「ドライだな。」
「ドライじゃなくて、どうする。あの学校に入れられた時点で、俺たちには政府の下で働いて、一人で暮らしていく運命が課せられている。一人で食っていかなきゃならんのに、いちいちウェットにしていたら、こんな仕事、続けられるか。」
「そりゃあ、そうだが。だけど、俺は学校は結構、楽しかったんだが、何て言うか、仕事に就いてからは、気が抜けたというか、楽しくもないというか……」
 同僚の表情が、珍しく大きめに動いた。眉根がぐっとよって、嫌そうに俺を睨んだ。
「悪趣味な奴だな。俺たちの仕事は、人殺しだ。楽しさを求めてどうする。」
「それもそうだが、」
 人殺し。あの暗い部屋の中には、どうやら何人かの人間たちがいて、俺たちはその人間たちをガスで死に至らしめている。だが、俺がしていることと言ったら、ただオレンジ色のボタンを押すことだけだ。何の気配の動きもない、あの暗い部屋には、実は誰もいやしないんじゃないかと、思うこともある。
「じゃあ、お前、人殺しの実感って、あるのか、」
 同僚は、少しの間、難しそうに黙っていたが、やがて小さく言った。
「いや。」
 やっぱり、か。
 次の部屋の小窓が見えてきた。この部屋もやはり、本当に生き物がいるとは思えない静けさだった。
「静かだよな。」
 俺は小窓の側の壁に、耳をつけてみた。やはり、何の気配もない。
「やめろって。何も聞こえやしないよ。壁だって、そんなに薄くないだろうよ。暗闇に閉じ込められ続けたら、生命力も枯渇している筈だし。それこそ、学校で習ったろうが。」
 俺たちの仕事は、人殺しの実感がない人殺し。
 壁を何度かノックしてみると、思ったより鈍い音がした。どうやら同僚の言う通り、結構厚い壁らしい。
「俺たちってさ、なんでこの仕事なんだろうな。」
 何の実感もなく、ボタンを押して行くだけの仕事。
「無駄なことを考えるなよ。二人組のうちの一人がボタンを押し、もう一人がそれを監視する。何も考える必要なんてない、ただやり続ければいいんだ。そうすれば俺たちは、正常な人間として扱われて、政府に目をつけられることもないし、暮らしていくのに何の不自由もない。」
「だけどさ、実感もないのに人殺しして回るなんて、なんだか変な感じだよ。」
「馬鹿か。実感があったら、人殺しなんかできるか。」
 同僚が情報端末をタッチ操作しながら、肩を竦めた。いつ、どの部屋のボタンを押したかをアップロードするのは、監視役の仕事だった。
「無駄なことを考えてできるものじゃないだろ。政府から与えられた職務をこなせなければ、俺たちだって役立たずのレッテルを貼られかねん。めでたく、過去の民の仲間入りできるかもしれん。」
 「過去の民」の存在は、殆ど謎に包まれている。太古の昔から存在したという話も聞いたことがある。今では超心理的な能力を持った者たちを、そういうふうに呼んでいるが、実際、普通の人間と「過去の民」との境界線はあやふやで、殆ど政府の独断で集められているようだ。
「でもさ、……」
 何か変なんだよ。
 同僚は俺の言葉を遮って、顎でオレンジ色のボタンを示した。
「黙って、早くやれよ。」
 実感のない人殺しの作業を遂行して、政府から賃金を貰う。だが、もし本当に、この気配のない暗闇に何人かの人々が生きているとしたら、俺たちは人間として、もっと苦しんだり、悩んだり、するべきなんじゃないだろうか。
 俺はオレンジのボタンに手を伸ばして、いつもと同じように、押した。
 部屋の中に、ガスが噴き出していく音がする。生き物の気配は少しも伝えない壁のくせに、何故かガスの音だけがよく聞こえた。ガスの装置は、こちらの壁側にあるのかもしれない。
 暫くすると、ボタンのオレンジ色が、いつものようにチカチカと点滅を始めた。
 いつもと何も変わらない。部屋の中からは、ガスの音の他は、何も聞こえない。
 何も……。

 救い主……。

「え、何か……」
 驚いて、後ろを振り返ったが、同僚はいつもと同じように、黙って俺の後ろに立っていた。

 インマヌエルは……救い主。

 声がする。
 聞こえる、というのとは違う。俺の頭の中に、まるで自分が考えていることのように、知らない声が響いている。

 救い主が、いつか来る。
 ……助かる……平和の日が……インマヌエルが……。

 インマヌエルって、いったい何なんだ。
 そいつらの言っていることは、俺にはちっとも理解できない。俺はどうしたんだろう。暗闇の中に、やはり人間がいたのか。
 小窓にかかったカーテンに、思わず縋りついた。布を捲りあげて、濃い暗闇に、必死になって目を凝らした。
「おい、やめとけって。」
 同僚の声がする。
 だが、今は、耳から入ってくる同僚の声よりも、頭に響く誰かの言葉の方が、俺を強く捉えていた。
 誰だ、誰なんだ。
 インマヌエルって、何なんだ。
 俺に殺されているのは、いったい誰なんだ。

 インマヌエルは、救い主。

 何人もの声が、その言葉を、俺の頭の中で呻くように喚いている。
 誰なんだ。
 俺は、何故、この仕事をしてるんだ。何故、人殺しが俺の仕事なんだ。
 何故、何も考えずにボタンを押すことが正常なんだ。

 インマヌエルは、救い主。インマヌエルは、平和を知る者。インマヌエルは、原始の人。

 その声は、それまでのうちで、一番強く、清明だった。毒ガスで死ぬ前とは思えない、どっしりとして落ちついた、老人の声だった。

 悩んではいけない、若者よ。
 我々は、インマヌエルを望み、そして、いつでも、平和を望んでいる。
 インマヌエルは、望みを叶えるために来る。
 全ての世界の為に来る。
 若者よ……。

 どこだ。この暗闇のどこに、この老人はいるんだ。
 俺は闇の中に視線を投げて、必死に探したが、やはり何の影も見えない。この声は、確かに、俺に向かって、語りかけている。中にいる「過去の民」には、死を運ぶ処置官が壁の外に居るのが、 たぶん、分かるのだ。
 俺は……何てことをしてるんだろう。

 考えてはいけない。
 時が来るまで、待ちなさい。解放される日は、きっとやって来る。

 声の主は明らかに、俺の心を読んでいる。この頭に直接響いてくるような声と言葉は、相手が政府の判断した通り「過去の民」と呼ばれる人間であることの証であり、同時に、紛れもない生きている人間であることの証だった。
 小窓の枠を掴んだ指が震えた。
 おい、どこにいるんだ、いったいどこに……。
 暗い部屋には、相変わらず、何も見えない。
 オレンジのライトは、まだ点滅している。
 声は……聞こえなかった。
 やめてくれ、死なないでくれ。
 自分でボタンを押したくせに、俺はそんなふうに思った。
 何か言ってくれ、死なないでくれ。

 …………

 ライトの点滅が終わった。もう、何の声も言葉も、頭の中に響いてこなかった。
 膝が、震えていた。
 俺は、人を、殺したんだ。
「おい、悪趣味だぞ。」
 肩を叩かれた。ガクガク笑っていた膝が、驚いた拍子に崩れ落ちた。
「おい、」
 同僚が、嫌なものを見るような目をして俺を見ていた。。
「妙なことをするから、そんなことになるんだぞ。俺たちの仕事はただボタンを押してチェックをするだけだって、言っただろうが。」
「お前……。お前も、聞いたのか、」
 恐る恐る聞いてみたが、同僚は呆れたように大きな息をしただけだった。
「いい加減にしとけ。俺はお前につき合って、過去の民に仲間入りする気はないぞ。暗いガス部屋に入りたかったら、一人で行けよな。」
 そうだ。
 あの邂逅は、ほんの短い間の邂逅は、確かに、俺だけに、語りかけていた。俺の心の内を読んで、俺だけに、語りかけていた。
「ああ……悪いな。」
 解放の日は来る。
 あの声は、そんなふうに言っていた。それは、この仕事から、この日々から、解放されるという意味だろうか。
「悪い。なんか、気分悪くなっちまった。」
 俺は、できるだけ何事もなかったふうに、同僚に笑ってみせた。
「悪いけど、次のボタン、代わってくれ。」
 表情の乏しい同僚は、あからさまな溜息をついたけれど、何も追求せず、黙って端末を俺に渡した。

 星の宮は盲いた能力者たちが作る、小さな社会のようだった。それも、外に比べて、あまりにも平和な社会だった。僻地の集落から「過去の民」を運んで来た柄の悪い兵士も、ここではすっかり平和の徒だった。サンクトゥスの兵服も携帯した武器も、存在を忘れ去りそうになるくらいだった。
 僻地の集落にいるのは、殆どがごろつきの三等兵だ。
 ごろつき。
 私がその「ごろつき」だったのは、もう何年前だったか……。「ごろつき」の三等兵として、より多くの「善行」を成すことで、めでたく二等兵に昇格できる。晴れて、僻地の集落を出ることができるのだ。
 私が幼い日を過ごした家は、酷く貧しかった。集落そのものが裕福でなかったが、そのなかでも、家の貧しさは際立っていた。すぐ近くには、サンクトゥスの「集会場」があった。サンクトゥスのごろつきたちの鬱憤晴らしには、打ってつけの立地だった。いつからそんな生活をしていたのかは知らないが、両親はいつも、感情のない暗い目をしていて、酷く小さな声で喋っていた。大きな声を出すのは、悲鳴を上げる時だけだった。祖父母はサンクトゥスの暴行を受けて死んだ。

 サンクトゥス
 サンクトゥス

 聖なるかな……。

「おい、」
 誰かに肩を小突かれた。手に持っていたグラスから、中味が零れてカウンターに落ちた。同僚の、一等兵だった。この男は、私と同じ集落の出身者だ。
「上機嫌だな。」
 私を見て、何故かニヤニヤ笑って言った。
「何の話だ、」
「お前のことだ、今、歌ってたろ、サ~ンクトゥス……、」
「まさか、」
「そうかい、俺には聞こえたんだがな。」
 同僚は隣の椅子に腰をかけると、カウンターの中にいる盲の娘に、飲み物を頼んだ。星の宮で働く者たちは皆、まるで見えているかのように手際がいい。目前の娘も、流れるような動作でカクテルを作っていく。
「私が歌など、柄でもないよ。それも、サンクトゥスなんて悪趣味だ。」
「おいおい、俺たちのテーマじゃないか。サンクトゥスを歌うのは神への忠誠の証なんだから、いいことじゃないか。」
 同僚の男は上機嫌だが、私はうんざりした。
「神がこの世にいるんなら、会ってみたいね。」
「ベネディクトゥスなら一等兵の集会のときに、毎回、演説してるじゃないか、」
「ベネディクトゥスを神だと思うのか、」
「俺たちはあの方の統制のもとで生きてるんだ。あの方の意に添うようにして、ここまで生きて来たんだろ。神と思っても、なんの問題もないさ。」
 男は、カウンターに出されたカクテルを、大きく傾けて飲んだ。
 なるほど。サンクトゥスの流儀に染まれば、最高司令官であるベネディクトゥスが私たちの神、という結論も間違いというのではない気もするが……。だが、そのベネディクトゥスも、結局は中央政府のご機嫌を伺って、兵士たちに獲物の捕獲を競争させているだけだ。
 なんとも安くて情けない神よ。
「なんだよ、その馬鹿にしたような笑いは。」
 同僚の男が気を悪くした顔で言った。私は飽くまで内心で嘲ったつもりだったが、どうやら外に漏れてしまったらしい。
「ああ、そうか。悪かったな、気を悪くさせて。」
 男が私を横目で見た。私もそのまま、男を横目で見返した。やがて嘆息したのは、私ではなく、男の方だ。
「言っておくけど、俺はな、」
 手にしたグラスを傾けて、男は続ける。
「女のくせに秘蹟を受けて、三等兵から一等兵まで登りつめて来たお前に、これでも一目置いてるんだぜ。お前が秘蹟を受けた集会にゃ、俺も参加していたが、三等兵のうちに殺されるか自分で死ぬかが関の山だと踏んでたもんだ。」
「殺されるのが嫌だから、サンクトゥスになったんだよ。」
 鬱憤晴らしのために暴力を受けて、略奪されるのが嫌なら、自らがサンクトゥスになるしかない。
 ある日、同じように集会場の近くに住む家の子供たちで集まって、そう決めたのだ。もう生命力を失った大人の行動なんて、なんの期待もできない。何人かの子供で集まって、迫害を受けたくなければ、迫害する側に回るしかないと、気がついた。その場にいた女児たちは、仲間のサンクトゥス入りについて、軒並み反対だったが、私は違った。私は不当な暴力を受けながら死ぬまでを暮らすなんてまっぴらだった。暗い目をした大人も、そんな大人になる他に道を見出せないのも、我慢がならないと思った。
 三等兵なんて、ただの人殺しだ。本物の能力者かどうかもわからない人間を、「過去の民」として連行する。
「そんな顰め面、よせよ。俺もお前も、もう一等兵だ。僻地の集落に駐屯させられることもない。だいたい平和なもんさ。」
 三等兵になって初めの仕事は、鬱憤晴らしの手伝いだった。迫害を受けたくなくてサンクトゥス入りした、私を含む子供の初めの獲物は、自分が暮らしていた家の家族だった。
 ほら、とどめをさせよ。
 笑って言った「ごろつき」は誰だ。引き金を引いたのは、誰だ……。
 何人かの子供は、その日のうちに死んだ。「とどめ」をさせなかったから、他の三等兵から暴行を受けて、死んだ。「天罰」と、奴らは言っていた。
「平和、ね……。」
「そうだろ。俺たち一等兵は、僻地で善行を積む必要もないし、お前だって集落の兵舎で、女一人で気を張っていなくたっていいんだ。それに、三等兵のときには、ただ善行を積むだけだったのが、今じゃ、サンクトゥスの機密まで知らされる立場なんだぜ。」
 店の片隅にある小さなステージがライトアップされた。
 ふと気がついてみると、店内は同じ兵服を着た、サンクトゥスの成員でいっぱいだった。
 ステージに、盲の歌手が登った。スパンコールのドレスを着ていた。乱反射の光が、私のなかに積もっている貧困の塵と、激しく衝突した。
 私は、カウンターに手をついて立ちあがった。
「おい、もう行くのか。話の途中だぜ。」
「悪いな。歌は嫌いなんだ。」
 女一人で気を張って、か。
 確かに、殆どどこへ行っても男ばかりのサンクトゥスのなかで、女一人で生き延びるには工夫が必要だった。三等兵の兵舎は無法地帯だ。ある程度、歳をとってからは、夜も殆ど寝られない。眠っていると見えても、他人が近付けば起きる。身を守って生き延びるためには、半分寝る技術が必要だった。生き延びるために何をすればいいかを、いつも考えた。
 星の宮は、中央ドームシティ内にある浮島だ。繁華街は夜だというのに、嘘のように明るい。
「お兄さん、お店に寄って行かない、」
 商売の娘が、間違って声をかけてきた。私は手を挙げて、丁重に断りの意を示した。
 ここに収容される人々は、もともと盲いていたのではない場合も多いという。一等兵の特権で見たデータでは、およそ三分の二にも及ぶ人々が、近親者に目を潰されたのだということだ。

 この星の宮のなかに、本当に「インマヌエル」が現れるのだろうか。

 これは、一等兵に知らされた「機密」の一つだ。中央政府からの情報によると、最近、「過去の民」たちのなかに、「救世主インマヌエルが現れる」という噂が流れ始めているという。政府は、その「インマヌエル」が、星の宮に収容されているのではないかという仮説を立てている。
 現れるか現れないかわからない「インマヌエル」を監視すること。これも、一等兵の仕事だった。
三等兵に比べたら、本当に「平和」だった。
 だが、本当に、これを平和と言うのだろうか。
「あなた、」
 ある店の前で、声をかけられた。それは店というより、古びたテント小屋のように見えた。相手が腕に手をかけてきたので、反射的に言った。
「いや、結構。私は女遊びはやらないよ。」
 綺麗な娘だった。たっぷり布を使った衣服は、商売娘にしては地味だった。どうやら潰されたのではないらしい美しい瞳は、やはり私を捉えてはいないように見受けたが。
「いえいえ、私は占売りです。そして、あなたは女の人でしょう、」
 占売りだという娘は、小さく笑った。
「占いテントに寄って行きませんか、」
「いや、私は、そういうものは……。」
「あなたは他の人とは、少し変わった感じがします。見せていただけませんか、お代はいりませんから。」
 小柄な娘にしっかり腕をつかまれてしまうと、どうにも嫌とは言えなかった。
 小屋の内部は外から見るよりも、更にこじんまりとして見えた。私は娘と、水晶を挟んで向かい合った。
 占いとは、何をするのだろうか。「過去の民」の伝承が本当なら、能力を使って先読みでもするのだろうか。
 娘は、タイミング良く、笑って言った。
「そんなに恐るべきことはいたしません。何より、私はあなたのお人柄に興味があるし、本来、占いと単なる予知は違うものですから。」
「人柄などと言っても、私はただのサンクトゥスの成員だ。サンクトゥスがどんな集団であるか、君もよく知っているだろう、」
「あなた、たくさん苦労なさったでしょうね。サンクトゥスで女の方なんて、初めて見ましたもの。でも、頭が良くって、優しい方。」
「優しい、」
 娘は水晶に、白い両手を翳しながら笑う。
「そう。頭が良くって、強くって、でも、本当は優しい方よ。」
 生き延びるためには何でもやった。親も、友人も、知人も、殺して来た。その私が、優しいだって……。
「いったい何がわかるっていうんだ、そんな石一つで。」
「分かりますよ。見えます。あなたが別れて来た、別れを告げて来た人たち。あなたが噛みしめた奥歯も、決して現実から逸らさなかった、その大きく開いた目も。」
 娘は目蓋を一度下ろして、ゆっくりと押し上げながら、焦点の合わない目で私を見た。
「とても、辛い。」
「辛い、」
 私は、これまで一度だって、辛いなどとは思わなかった。それなのに、出会ったばかりの娘が、辛いと言い放ったのだ。占いなんてものを、信じていたわけでもないくせに、その娘から出た言葉は、酷く私の腹の底を抉ったようだった。
「残念だが、私は辛くなどない。過去も現在も、そして、多分、未来もだ。」
「そう。でも私は、とても、とても辛くなりました。」
 占売りの娘の目に、涙が浮かんでいる。
 まっぴらだ。
 何故か、無性に腹が立った。
「外の世界は、辛い辛くないなどという感情論では、どうにもならないことばかりだよ。君には分からないことだろうが。」
 私は席を立とうとした。
「待って。今、あなたの一番気になっていることが見えます。」
 娘が言ったが、私はもう、占いにつき合う気はなかった。だが、テント小屋を出ようとしたとき、娘の口にした言葉が、私を振り向かせた。
「イン……マ……ヌエル……。」
「何だって、」
「インマヌエルが救い主だと、あなたは知っているの、」
 それは、機密事項だ。
「あなたは、インマヌエルを、探しているの、」
 機密事項……。
 娘の水晶が乗ったテーブルに歩み寄る。
「違う。」
「でも、とても強い気持ちを感じます。あなたが、深層で、インマヌエルを信じていると……」
「違う。」
 占売りの娘を黙らせたくて、思い切り手をついて、テーブルを叩いた。水晶が、揺れた。いや、水晶だけではなかった。テント小屋全体が、音を立てて激しく揺れていた。
「あなたは、まさか……。」
 娘の美しい目が、一瞬だけ、私を明確に捉えたように見えた。
「違う……。」
 水晶に大きく皹が入って、そこから強い光が溢れ出た。いや、そうではない。光は、私の足元、私の身体そのものから、確かに出ていた。
 耳が轟音で塞がれた。娘の声は、もう一言も聞こえなかった。その美しい姿も、見えなかった。  何故か、とても疲れた感じがした。何も考えたくなかった。自分の過去についてのことも、サンクトゥスのことも、占売りの娘のことも。私は白い、真っ白い光に、どうやら包まれているのだった。

 違う……。

 インマヌエルは、救い主。

 それは、機密事項だ。

 真っ白な色は、簡単に汚れに染まって行くものだ。
 私が次に見たのは、暗い夜空だった。傍に、占売りの娘がいるのがわかった。私は、ほぼ仰向けに横たわった状態だった。
「能力反応だ。」
 声が聞こえた。この声は、ついさっき、バーで飲んでいた同僚の男だった。何故だろう、どこか緊迫した調子だ。だんだん気が付いてくると、辺りで結構な人数の声がしている。
「こりゃあ、すげえ。」
「何のテントだって、」
「占売り、」
「いかにもだな。」
 サンクトゥス。
 声の調子や言葉遣いで、全てサンクトゥスの男たちだと分かる。他にもたくさん気配がするが、戸惑うような、怖れるような息遣いがするだけで、何の言葉も聞こえない。
「どけ、突っ立ってる場合か、」
 例の、同僚の男が近づいてくる。側にいた娘が、静かに笑いかけてきた。娘は、私の肩をそっと撫でるように叩くと、思い切ったように、すっと立ち上がって、私から離れた。
 暗い夜の冷たい空気が、私の意識を覚醒に導いた。天井を貫いた光が、脳裏を過ぎる。あれは、彼女ではない。私は、能力者だったというのか。
 身を起こすと、周囲の状況が呑み込めた。娘の占いテントは、天井部分に大きく穴が開き、骨子もバラバラに崩れ去っていた。私はその残骸の上に寝かされていた。騒ぎを聞きつけてやってきたらしい同僚の男の前に、娘が静かに進み出ていく。近隣の店から集まった、星の宮で働いているうちの誰もが、言葉を失っていた。攻撃能力を発揮したものの末路を、皆が知っていた。皆が恐怖の中で、止めることもできず、目を逸らすこともできずにいた。
 心臓が騒いだ。指が震えた。
 一等兵の同僚が、娘に銃口を向ける。
「執行対象だ。」
 娘は焦点の合わない目をまっすぐに男に向けて、言い訳一つせずに、ただ黙って立っていた。  彼女は知っているはずだった。テントを破壊したのが、誰の「能力」だったのか。
 兵服を着た同僚の男が、引き金に指をかける。娘は次に飛んでくるであろう弾丸を、受け入れようとするかのように、両腕を肩の高さまで広げる。
 夜が、明ける。
 どこかで家畜の鳥が、鳴く声がする。
 崩壊したテントの向こう、娘の背後から、静かに朝陽が射す。
 引き金が引かれて、銃声。

 違う、

 彼女じゃない。

 私は走った。残骸の上に、転がっている場合ではなかった。走っているという感覚がないくらいに、走った。止まったような景色の中を、必死で走ったのだ。
 その弾丸の前に立つべきは、彼女ではなく、私だ。

 一瞬、娘が私に笑いかけるのを見た気がした。
 次の瞬間には、腹の辺りに冷たい鉛が入り込んで、私の世界はそのまま、ブラックアウトしていった。あの綺麗な占売りの娘は、どうなっただろうか。私を見て、辛いと泣いた。人殺しの私を見て、優しいと言った、あの綺麗な娘は……。

 私は、救い主を、求めていたのかもしれない。

パートⅣ

 新たな時代の幕が開く。
 インマヌエルは人を知る。
 楽園の扉は閉ざされる。
 インマヌエルは、もう
 帰ることはできない。
 美しかったそこに。
 平穏だったそこに。

 世の中には、知らぬ方が幸福なこともある。過去も現在も知らずに、ただ暮らしていくだけの方が、知ってしまった苦しみを味わうよりも幸せだろう。知ってしまったものは、知らぬふりをしたところで、知らなかったことにもならない。
 ここですべきことは、この中央ドーム内の出来事を記録することだ。知り得た情報に、何の感情も持たない。何の感想も持たない。持つべきではないのだ。自分の他に誰もいない、ただ機械が唸っているだけの空間で、自我を主張しても、何になるでもない。
 記録室の職場は、一種の墓場だと渾名されていた。ただの一人で薄暗い記録室に籠り、ひたすらに出来事を記録し続ける。ここには、民族戦争時代からの記録が残っている。前任の記録官は何をしていたのか、殆ど電子ファイル化が進んでいない。あまりに昔のものは、劣化が激しくて読み取りが困難だ。メインの親機には、ドーム内で最近起こった出来事が、各地区から報告されてくる。不備がなければ、記録官はそれをネットワーク内に保存する。特別なことは何もない。ただ黙々と業務に当たり、やがて退勤する。退勤後に報告されてくるものは、翌日に回して差し支えない。記録室は、ただ記録だけの場所で、急を要する業務はない。来る日も来る日も、ただ無言で作業し続ける様は、なるほど、墓場のようにも思えるものかもしれない。なにしろ、この世界で何が起こっていようと、ただ黙っていることだけが美徳の記録官には、何も思うべきことはないし、すべきこともないのだから。いかに悲惨なことが起きようと、いかに理不尽な陰謀を知ってしまおうと、それを変えようとすることは、誰からも求められていない。世界を変革する気力など、墓場のなかの記録官には持てるはずもないのだ。
 小刻みに高いアラームが鳴った。
 親機が報告を受信した音だった。この記録室にいると、この音だけが、唯一、外界との繋がりを思わせる。
 記録官は読み取りかけたアナログの資料を脇にどけて、親機の受信記録を見た。報告は、サンクトゥスからのものと、星の宮からのものが、二通挙げられていた。
 星の宮から報告が来るのは珍しい。あれは盲いた能力者たちが作る平和な社会のはずだ。盲いた者は能力を得るが、それは危険な攻撃能力ではあり得ないという。これも、過去の記録から得た、単なる情報ではあるが……。

 某日、星の宮繁華街にて。
 占売りの盲の娘、能力発動により、サンクトゥス一等兵に射殺される。占売り娘の占いテント全壊、サンクトゥス女性一等兵、前出の兵士銃弾により負傷、施設へ搬送される。星の宮は、全壊したテントを撤去。跡地で営業が再開される見込みは立っていない。

 やはり星の宮地区の人間は、報告慣れしていないのだろう。この報告は、著しくぎこちない。記録官はこの時、サンクトゥスの兵士同士の喧嘩に、占売りの娘が巻き込まれでもしたんだろうと理解することにして、その報告をネットワーク内に放り込んだ。しかし、次の報告を開けると、どうやら事情が違うらしいことが分かった。

 某日未明、星の宮繁華街にて。

 サンクトゥスから挙げられたその報告は、星の宮からのものと同じものだった。

 某日未明、星の宮繁華街にて。
 占売り娘のテント、全壊。占売りの盲の娘が、能力を発動させたことによるものと思われる。これにより、テントを利用していたサンクトゥス女性一等兵が軽傷。現場近くに居合わせたサンクトゥス一等兵は、占売り娘を処置。その際、判断力の混乱をきたした前出女性一等兵が、誤って処置弾を受け、重傷を負う。当女性一等兵は、中央政府所轄の施設へ搬送。
 これまで、盲いた者による能力に攻撃及び破壊能力はないものとされていたが、今回のことにより、それが誤りであることが分かった。サンクトゥスとしては、これまで以上に組織としての統制をはかり、現政府の体制にとって危険人物であるインマヌエルに関する監視を続けていく所存である。

 サンクトゥスの現ベネディクトゥスは、三等兵から幹部へ成り上がり、さらに前任のベネディクトゥスを暗殺している。サンクトゥスの内部事務を誰がどのように行っているかは知らないが、負傷した女性兵士に関する後日譚よりも、インマヌエルの監視強化を宣言して終わるところが、いかにもそれらしい。
 いつも通り、その報告をネットワーク内に保存する。しかし、その星の宮繁華街の出来事は、何故か記録官の興味を引いた。多くの記録が残される記録室では、それは特別問題のあるような報告ではなかった筈だ。長く続いてきた時間と、これからも続くだろう時間のうちの、ある一つの出来事にすぎない筈だ。しかし、……。
 例えばこの、負傷した女性兵士はどうだ。
 自然と手が動いた。気がつけば、ネットワーク内に放り込んだ報告を、もう一度引き出していた。もう長い間、この仕事をしてきたような気がするが、こんなことは初めてだった。
 女性兵士は、何故「誤って」処置弾を受けたのか。銃口は真っ直ぐ、占売りに向けられていた筈だ。「判断力の混乱」とはなんだ。女性兵士もサンクトゥス一等兵だ。軽傷を負っていたとは言え、「判断力の混乱」で処置弾を受けにいくような自殺行為をするのだろうか。星の宮とサンクトゥスからの報告のどちらにも、何かが足りない気がしている。……
 甲高いアラームが、小刻みに鳴った。
 記録官は、心底驚いた。弾かれたように時刻を見たら、どうやらもう半時も、その女性兵士の報告を眺めていたらしかった。
 新しい報告が入った。
 タイミングの良いこと。その報告は、件の女性兵士を収容した政府所轄の医療施設からだった。

 某日、搬送されたサンクトゥス女性兵士の容体について。
 誤って処置弾を受けたサンクトゥス女性兵士は、体内に残留した処置弾を取り除くオペを受け、その後、順調に回復。某日、同僚の訪問を受け、職務復帰への見通しも立ちかけたが、精神状態が急変。摂食障害、無気力、無反応状態、自傷、自殺衝動が見られる。
 現在、自殺行為の阻止、監視、流動食、点滴等の処置をとり対応しているが、職務への復帰は絶望的であると見える。

 悲惨。
 そんな言葉も浮かんだが、すぐに消えた。
 この女性兵士に関することは、解せないことばかりだ。何故この女性兵士は、唐突に精神を病んだのだろう。同僚とは何を話した。いったい……。
 …………。
 …………。
 この記録室にはたくさんの言葉がある。だが、それが何なんだ。こんな「報告」では、何も分からない。ここにはたくさんの情報がある。だが、それは殆ど人々に知らされていない。知らされない情報なんて、いったい何の意味がある。
 現在のサンクトゥスは階級性だった筈だ。女性兵士にしても、三等兵から成り上がって一等兵にまで上り詰めた筈だ。その兵士が、いとも簡単に「判断力の混乱」をきたして、自ら処置弾を受けに……。そして、兵士らしく傷を順調に回復させていた矢先、同僚に見舞われた直後に発狂……。
 報告は事実なのだろう。
 だが、何かが違う。
 何か、納得がいかない。
 女性兵士の動向は、まるでばらばらじゃないか。人間としての一貫性は、どこに行った。生きている人間としての……。
 記録官は、頭を抱えた。頭痛がした。もう何年も体調不良を感じたことはなかった。痛みは久しぶりだった。気がつくと、呼吸も上がっていた。なんだか愉快だ。長らく「墓場」にいたせいで、自分に起きた変調が可笑しい。
「ふふ……、」
 締め付けられたような呼吸の下から、はからずも笑いが漏れた。自分の声を聞くのも、どうやら久しぶりだった。起きる、出かける、帰る、食べる、寝る……。思い返せば、全て無言だった。死人に口なし。女性兵士は生きているが、多分、もうまともに会話はできない状態だろう。
「ふふふ……、」
 なんとも言えない。愉快な心地さえするようだ。中央ドームへ連れて来られて、めでたく学園を出て、こんなところに配属されたのは、この無言の適性のためであったのか。自分の過去と現在は、きっちり繋がっていた。だが、女性兵士はどうだ。まるでばらばらだ。生きているのに。
 激しい頭痛が襲う。だが、それも今や、面白い。
「ふふ……はっはは……、」
 乱れた呼吸の下で、痙攣したように笑う。
 痙攣したように、笑っているのは、誰だ。
「誰だ、」
 その声は、記録官のものではなかった。誰もいない筈の記録室のなかに、誰か人間の声がした。だが、別に驚きもしなかった。ここは記録室だ。長い時間の流れのうちの、ほんの少しの時に、何が起ころうと不思議はない。
「お前は、誰だ、」
 その声の主が、こちらに近付いてきて、はっきりした声で問う。幼くも見え、若々しくも見え、疲れているようにも見えた。
「記録室には記録官しかいない。」
 まだ収まらない笑いを堪えながら答えたが、相手は納得しなかった。
「それは違う。それはお前ではない。それがお前の望みだとは、とても思えない。」
 決めつけて。失礼な奴だ。突然現れた、怪異みたいな奴のくせに。だが、笑える。
「記録官は記録官でしかない。お前こそ誰だ。何故、現れた、」
 そいつは、一瞬だけ、驚いたような瞠目を見せた。そのすぐ後で、俯いて口の中でごちょごちょ言った。
「ボクは……、俺は……、」
 だが、暫く伏せていた眼をこちらに向けた時は、すっかり落ちついた、確信したような語り出しだった。
「私は、お前を知ろうとする者だ。お前の望みを知るために来た。お前は誰だ。今、ここで、笑っているのは、誰だ、」
「ふふ……、」
 言っている意味が、全く分からない。可笑しい話だ。こいつは妄想の産物だろうか。暫く表情を動かすこともなかったせいか、頬が引き攣る。だが、可笑しくて堪らない。
「望みだって、馬鹿な話だ。こんな世界で、望みなんて持ってどうなる。記録官はただ記録するだけだ。延々、黙って……。」
 ふと気がつくと、息苦しさは遠退いていた。頭痛も消えていた。今は、ただ可笑しかった。記録官は墓場の住人だ。死んだ人間に、望みなんてない。望んだところで、どうにもできない。
「死んだ人間に、笑うことはできない。死んだ人間に、懐疑することはできない。死んだ人間には、もう苦しむこともできない。」
 そいつは、笑いが止まらない……を、真っ直ぐに見て喋っていた。
「お前は、誰だ、」
 そいつに再度、問われた。笑いが、驚くほど静かに収まっていった。
 誰だ。ここにいる……は。記録官として配属された、……は、いったい誰だったんだ。
 …………。
 真っ白だった。会話の相手が、憐れむような眼差しをしているのが見えた。相手と対峙して、笑いが止まらなかった人物は、「記録官」などではあり得なかったのではないか。記録官は、ただ記録していくだけが仕事で、何の私情も自己も持つべきではないのだから。
 では、いったい、ここにいるのは、誰だ。
 何か実感が欲しかった。腕を上下させ、指を動かした。座っているのが窮屈で立ち上がったが、上手く身体を制御できずに、膝が折れて崩れた。
 相手の白い足元だった。ゆっくり見上げると、静かな眼がこちらを見返していた。
 美しい……。
 自分さえ分からなくなったのに、まだそんなふうに感じる心があることに、我ながら驚いた。だが、もう記録官でさえなくなってしまった、ここにいる「自分」には、自らの感情を制御するような理性も働かなかった。
 もう久しく流れたこともなかった、久しぶりの涙だった。
「はは……。」
 自分を失くした「自分」の、こんな様が面白くて、軽く笑った。
 この暗い部屋において、唐突に現れた不思議な人間は、白く光っているように見えた。
「神々しいな……。」
 久しく使われなかった喉は、少し喋っただけでしわがれる。大昔、民族戦争より、隕石衝突より、もっと昔には、神が信じられていたという。今は神など、いないのだろう。だが、これはどんな「報告」よりも、ずっと核心を突いた言葉に思える。
 白く光を帯びるその人は、少し首を横に振った。そして、こちらに手を伸ばして言った。
「原初に帰れ。」
 なんともシンプルな啓示だった。だが、それは無理な話だ。ここにいる「自分」は、既に多くのことを知ってしまった。知らない振りをしたとしても、知らなかった頃には、二度と戻れない。そのくせ、 今の自分が何者なのかさえ、分からずにいる。
 その人の白い手が、ゆっくりと頭に触れてくる。
「原初に帰れ。そうすれば、お前は再び、お前を見つけることもできる。望みを見つけることも、きっとできるだろう。私は人の望みのために来た。お前が笑うのを聞いて、お前の望みを、叶えたいと思って、ここに来た。」
 望みの持てる人間なんて、この世にいるんだろうか。この世は、もう腐っている。サンクトゥスは暴力集団だ。略奪、虐殺、誘拐、何でもする上に、政府に協力するふうを装うことだけには抜かりがない。中央政府も腐っている。政府が「過去の民」を集めているのは、隕石衝突のインパクトと同じくらいの衝撃を、もう一度、この惑星に与えて、気候変動の修正を試みたい為だ。だが、そんな不確実でリスクも大きいものの為に、今の世界は酷い痛手を負っているんじゃないのか。痛手を負う人間には、情報の一つも開示されない。単なる暴力集団のサンクトゥスと、いつまでも癒着して。いったい、何になるというんだ。この世は、人間は、腐ってるんだ。
「怒りか、お前の望みは、」
 その人は、探るように目を細めた。まるで、心を読んでいるようなタイミングの良さだった。
「怒りなんて……、」
 持ったところで、どうしようもない。周りの全てが、そのように動いていくのだ。ここにいる「自分」は、ただ流されていく他はない。
 その人が、膝を折って、真っ直ぐにこちらを覗きこんだ。美しく澄んだ眼が、情報に塗れたこの「自分」の眼とぶつかった。
「では、なんだ、お前の望みは。私は人の望みのために来た。だから、お前の望みを、叶えることができる。」
 どうしても、この眼が駄目だ。この眼を見ると、自然に涙が溢れてくる。まるで、汚れを流そうとでもするように。
「何故、」
 私は…………
「何故、……私、なのですか、」
 私はその人の前で、至って自然に、「私」になっていた。
「私にはお前が、本当は最も生命の森に近い者なのではないかと思えたのだ。」
「生命の……森、」
「生命の森は、命の源だ。人間は皆、そこで生まれた。全ての生命は、言葉なくして語らうことができた。そこでは、世界中が明るくて平和だった。世界中が、暖かかった。だが人間は言葉を持ち始め、自ずから、生命の森を出て行った。」
 それでは過去の民の伝承そのものだ。彼らの信じるところでは、言葉を持って欲を身につけた人間のせいで大地が汚れ、今の混乱があるという。そして今、サンクトゥスの被害を受けた者や、政府によって「処分」されようとする者が、口々に言うのだ。
 救世主インマヌエルが現れる、と。
 救世主、インマヌエル……。
「私も思い出したのだ。」
 その人が、私の眼を見たまま言った。
「それが私の名だと。インマヌエルは、人々が、私に託した名。」
 インマヌエルは、救い主……。
「あなたがインマヌエルなら、私ではなく、過去の民のところへ行くべきだ。私は何の能力もないし、あなたを神のようだと思っても、この世界に救い主が現れるなんて、とても信じられない。この世に希望なんて、もう持てる気がしないんですよ。」
 インマヌエルが静かに、ゆっくりと頷いたように見えた。美しい瞳はまだこちらに向いたままだった。しかし、その瞳の奥は、少し悲しげに翳ったように見えた。

 思い返せば、皆がそうだったように思える。

 私のものではない声が、心の中に響いた。
 それは、紛れもなく、それまで肉声で会話していた相手、救世主インマヌエルのものだった。

 私は人々の願いを受けて、生命の森で生まれ、この世界に来て、何人かの人に出会ったが、誰 もが世界に希望を持とうとはしていないようだった。だが、人の中に入り、少しの間でも関わって みると、人々は私に付けた名を、思い出したように繰り返すのだ。インマヌエル、と。

 インマヌエルの声が、確かな感情を持って、私の心の中に響く。美しい眼は私を捉えて離さない。私の醜い眼は、涙を流し続ける。

 私は人の世に来てはじめ、自分が何故ここにいるのか分からなかった。だが、人と関わるうち  に、自分が生命の森から来たことを思い出したのだ。私は人の願いから生まれた子。人が本当 に願うことを叶えるために、ここにいるのだ。

 インマヌエル。美しい人だ。だからこそ、醜く膿んだ私を、選んだのだ。だが、……
「あなたは過去の民たちの願いの子だ。希望を信じる美しい心は、もう私にはないのです。私は過去の民の伝承や予言を信じてなどいないが、あなたと話していると、人間はなんて馬鹿で愚かなことばかり仕出かすのだろうと、そう思えてくる。」
「過去の民など、本当はいないのだ。」
 インマヌエルは静かに、悲しげに首を振って、今度は肉声で、私に言った。
「人間は皆、生命の森の住人だった。この世界の、いかなる人間も同じだ。言葉なくして語らうことは、この世の全ての人間に許された能力だ。今はただ、忘れてしまっているだけなのだ。思い出せるはずだ。」
「ふふ……、」
 インマヌエルの諭すような言葉に、私は笑いで応えた。そろそろ疲れてきたのだ。
「あなたは本当に、きれいな人だな。私は涙が止まらない。」
 私はインマヌエルの視線を振り切るようにして、崩折れたままの体勢から、床を這いずる。サンクトゥスは盲いた者の中にインマヌエルが出現すると、星の宮を監視しているが、私の目の前に現れた、この美しい人の眼は、どうやら盲いてなどいないようだ。インマヌエルの白い光は、ここが中央政府施設の地下にある記録室だということを、すっかり忘れさせる。だからこそ、私は「私」になれたのだと思う。目の前のインマヌエルが自分の妄想でも、得体の知れない怪異でも、予言書の救世主でも、そんなことはどうでもいいのだ。私は彼に近付いて、白い肩に手を伸ばす。彼の光は、暖かい。
「幸せだな。」
 私は呟いて、そのまま彼の肩口に、殆ど縋りつくような様相で、体重を預けた。
「インマヌエル、世界中の人が、あなたのように美しくて純粋だったら、私も世界も、こんなに醜くならずに済んだかもしれないのに。」
 インマヌエルは、私の行動に対してどうしたらいいか分からないというように、じっと黙ったままでいた。それで私は、しわがれた声で好き勝手に喋っていた。もうずっと、こんなふうに自由に喋れることを忘れていた。この人は私を記録官から解放してくれた。私が「私」であることを、思い出させてくれた。
「インマヌエル、言葉なくして語らうには、私は多くの言葉を知りすぎた。美しい森へ帰るには、私は醜く汚れすぎた。忘れたものを思い出すことができても、知ってしまったものを知らなかったことにはできない。今だってそうだ。私は私になってしまったから、もうこの世界では生きられない。」
 それは確かなことに、私には思えていた。私は記録官という職を与えられ、記録官という「自我」を得ることによって、この世に息衝いていたのだ。だが、私はもう、記録官として生きていくことはできない。だからと言って、まさに記録官になる為にこのドームシティに連れて来られたような私が、他のどこに息衝く場所を見つけられるか知れない。こんな腐った空気の充満したような世界で、新しく「私」としての居場所を見つけるなんて、そんな気力も気概もない。
 私はいよいよ、インマヌエルの白い光に抱きつくような格好をしていた。唐突に現れた怪異のような、年齢不詳の彼の光に包まれていると、何故だか、何も知らなかった時に戻っていくような心地がした。
 インマヌエルは、救い主。
 私の心は、彼に読まれているのだろう。彼は大きな子供のようになった私の背を、無言のままそっと撫でた。もし私が「過去の民」であれば、彼が今、何を思っているのか、知ることができただろうに。
 私にはもう、この世で、生きていく自信がない。
 だから、私は、その時、初めて、明確に意志を持って、心の内でインマヌエルに語りかけたのだ。届け、届けと願いながら。

 インマヌエル、お願いです。
 あなたの慈悲深い、美しい心を持って、どうか私を殺して下さい。

 相変わらず、真っ白い光を発しているインマヌエルが、唇を噛むのが見えた。私の心が、届いたのだろう。神々しい救世主は、人間らしい表情を時折見せる。
 美しい人だな。
「お願いです、インマヌエル。」
 私は肉声で、再度、インマヌエルに語りかけた。
「私は私として、この世に存在する自身がない。だからと言って、これから先、記録官の自分を装ったまま、この世の憂さをただ見続けるのも苦痛だ。その上、状況を変革する為に行動するような気概も気力もない。だから願いが叶うなら、この幸福な時のまま、あなたの手の内で死にたい。」
「それが……人の子の……願いだと……、」
 インマヌエルの心の言葉は聞こえないが、酷く戸惑っているのはよく分かった。それにしても、「人の子」なんて、ここまできて何とも他人行儀だ。私は幼子が甘えるように、彼の白い光に一層強く縋る。インマヌエルは私の母、私の父、私の心。
 インマヌエルの白い光の手が、応えるように、私の背を支えてくれる。暖かい人だ。人々の希望の為に来た、美しい人、インマヌエル。私は幸福だ。
「幸福……なのか、それが、お前の……、」
 私は彼の肩口で、何度も深く頷いた。
 彼は心を決めたように、深い呼吸をひとつ、した。それから、愚図っ垂れた幼児のように縋りついたままの私を、その真っ白い慈悲の腕で抱き締めた。
 インマヌエルの腕がきつくなるたびに、私のただ無駄に成長した肉体は、本当に幼児のそれに戻っていくようだった。心臓は確かに締め付けられて、息苦しさはあるものの、それは全く苦痛ではなかった。
 私はこの世界で生きる適性がなかったのだ。だから、記録官になり切ってきた。「私」であることを、誤魔化すことで、生きているつもりになってきたのだ。だが、インマヌエル、彼に出会ったことで、幸福を知ることができた。私が「私」であることの幸福。私が「私」として存在できることの幸福。見えるものに、聞こえるものに、または形ないもの、見えないものに、心動かされることの幸福。……

 だんだんと肉体の感覚はなくなっていった。私は肉体を失って、身軽な精神体にでもなったような気分だった。呼吸をする感覚も、もうなかった。
 美しい緑が茂る、明るい風景を、そんななかで、見たような気がした。その森の奥には、大きな大きな木があって、茂った葉の間から、木漏れ日が静かに注いでいる。
 生命の、森……。
 瞬間、鋭く刺すような痛みを感じた。私が人生で感じた、最後の痛みだった。
 インマヌエル、私は、幸福でした。

 ………………

 某日、中央政府管轄記録室にて。
 勤務中の記録官一名、変死。四肢切断と圧迫による心臓破裂。四肢は強い力でねじ切られたような切断部。現場は夥しい出血量。記録室に入室するにはICチップが必要であり、不審人物の侵入した形跡はない。現場検証後、室内のクリーニング及び機器点検を開始予定であるが、かなりの時間を要する模様。その間、記録室業務は停止する。なお、後任記録官は未定である。


 聞こえる、
 聞こえる、
 聞こえる、
 …………

 聞こえる。

 遠い、遠い、遠くで……
 雷鳴が、聞こえる。

 聞こえる。

 あの子が、泣いている。何も知らず、ただ世界に目を輝かせていた、あの子が。

 見えるか、
 見えるか、
 見えるか、
 …………。

 あの子の目は、もはやただ輝いてばかりでは、なくなってしまった。あの子はもう、ここへは帰って来られない。我々のもとへは、戻っては来られないのだ。
 遠い暗雲は、あの子の嘆き。もう知らぬ頃には戻れない、あの子の深い嘆きの証。
 あの子は、あまりにも多くを、知りすぎたのだ。

 あの子は人の嘆きを知った。
 あの子は人の絶望を知った。
 あの子は人の諦観を知った。
 あの子は人の命を知った。

 この森にはもう、あの子を受け入れ、和ませてやる力はない。あの子は生命と夢の子。そして、人の子。我々は、人の子を手助けしてやることはできない。あの子もまた、もはや我々の、我々による手助けを求めないだろう。

 悲しい……
 悲しい……
 寂しい……
 寂しい……
 …………

 だが、見よ。あの子と我々の意思は、時に強く共鳴する。あの子が、もう暫くは、我々を顧みることはないとしても。

 あの子の声が聞こえる。強い後悔の慟哭が、この地にまで伝わってくる。我々の手を離れて、多くの声を聞き、多くのものを見た、あの子の慟哭は、あまりにも痛い。

 痛い、
 痛い、
 痛い、
 …………。

 遠い雷鳴が、暗雲を引き連れて、ゆっくりとこちらへやって来る。やがて、我々の上にも、悲劇の心を連れて来るだろう。
 あの子の嘆きが、深いのだ。

 望まれて生まれた筈のあの子が、
 生命の為に生まれた筈のあの子が、
 何も望まれることはなく、
 生命を断ち切らねばならなかった。
 人の子は愚かだ。あの子に望んだ、たったひとつのことが、ただ生命の終焉とは……。
 そうして、あの子の悲しみは、いったい誰が思いやるというのだ。

 悲しい、
 悲しい、
 悲しい……。
 あの子は人の肉を切った。
 あの子は人の鼓動を止めた。
 あの子は人の呼吸を封じた。

 そうして、望まれたからだ。

 我々のあの子を、人の世に、出すべきではなかった。人の世は、あまりにも暗く、愚かしい。あの子はあんなにも、明るく純粋な眼をしていたのに。今はもう、明るいばかりではいられない。人の世は、あの子を傷つけた。醜く腐りかけた腕で、あの子に縋った。その癖、本当にはあの子を、分かろうともしなかったのに。だが、もう遅い。
 我々は、人の世には介入することができない。そして、もうあの子に、我々の緑の腕を差し伸べることはできないのだ。
 だが、もう遅い。

 あの子が人の世の泥沼に嵌り込んでいくのを、我々は見守る他はないのだ。

 遅い、
 遅い、
 遅い、
 …………。

 あの子はもはや、我々の声を、進んで受け取ろうとはしないだろう。
 あの子はもはや、人の願いをばかり、想おうとはしないだろう。
 そうしてあの子は、生命の力を完全に失うことはないまま、あの子自身の足で立つだろう。
 我々は、あの子を信じよう。

 信じよう、
 信じよう、
 信じよう、
 …………

 あの子の心が導く未来を。
 我々の、明るかったあの子の心を。

 豪雨を連れた雨雲が、すぐそこまで来ている。あの子の嘆きの音がする。人の世に轟く、あの子の痛ましい慟哭。あまりに純粋な、あの子の慟哭。

 インマヌエルは救いの子。
 人の世が願った、救いの子。
 だが、彼にはもう、人の言葉をばかり、聞くことはできないだろう。
 インマヌエルは無防備すぎた。淀み濁った人の世に存在するには、あまりにも、無防備すぎたのだ。

 轟け、
 轟け、
 満たせ、
 満たせ、
 …………
 全ての悲しみ、
 全ての怒り、
 全ての絶望、
 そして、…………。


 雨。
 …………
 …………

 あなたは、インマヌエルを、探しているの、
 …………
 災難だったな、あの女は処分したから安心して傷を癒せ、
 …………
 誰だ、誰だ、誰だ、………いったい悪いのは誰だ。私はもうずっと、ここにいる。身体は縛り付けられていて、動かない。薄汚い天井ばかり、見ている。もうずっと、生まれた時からここにいる。違う、生まれたのはここじゃない。汚い集落だ。どこにも希望がなかったから、希望を探そうと思った。希望が駄目なら、せめて絶望しないように、と。なら、ここはどこだ、希望か、絶望か。私は誰も、探してなどいないよ。希望がないことを知っていたから、絶望だけ避けようとしたんだ。今だって、誰も探しやしない。この世界なんて、いったいなんだっていうんだ。私にはもう、見てごらん、あの薄汚い天井しか残されていない。
「ベッドを起こしますよ、お昼を食べましょうね。」
 誰だ。この女は、いつも来る女だ。私は身体を起こされて、女を見た。
「今日はいいお天気ですよ。」
 女が笑いながら、皿から液体を掬って私の口元へ差し出す。縛り付けられた私は為すすべなく、 女を見返す。
「いつものお食事ですよ、ゆっくり呑み込んでくださいね。」
 私は何も食べたくなどない。女がいつも、無理やり喉もとへ液体を流し込む。噎せ返ることさえある。だが、女はずっと笑っている。身体が自由にならなくて、振り払うこともできない。私は殺されているし、殺してしまいたいし、何もかもが醜く見える。
「あらあら、本当に悲しいことがあったのね。そんなにお泣きになって。」
 女が私の顔を拭う。触らないでくれ。もう何もしないでくれ。私は私を殺せなかった。

 悲しいのか。

 誰かの声がした。四隅の見える汚くて狭い部屋には、私と女の他にいないはずだった。

 お前は、あなたは、君は、あんたは、……悲しいのか。

 ごく近くだ。少年のような、青年のような、若い男の声がする。上体を起こされているから、よく見える。足元の、上の方だ。白い、人影だ。

 私は、ボクは、俺は、……悲しい。人の世が、悲しいんだ。

 その声は、女には聞こえていないようだった。
「あら、なにかそっちに面白いものでもありましたか、」
 私の視線を追って、人影の方を見る。だが、女には何も見えないらしく、不思議そうにして、私に目を戻す。

 人の願いとは、いったいなんだ。俺はたぶん、それを知るためにここに来た。いろんな人に会っ  た。だが、分からなかった。私は人の願いを聞いた。その願いを叶えることが私の力であり、本  望であったはずだった。だが、人の願いを叶えたはずの私は、ほんの少しも満たされるどころ  か、悲しみの歪みを深めただけだった。

 私にしか見えない白い人影が、私にしか聞こえない声で喋っている。

 私はもう、自分がなんのためにここにいるのか分からない。ボクは生まれて、人に呼ばれたから こそ、俺はここに来たんだ。私は人の願いを叶えたのに、この空虚はいったいなんだ。

 人影は絶望の表情をしていた。私は人影が浮かんだ空間を、じっと見ていた。すると、突然、口の中に冷たい匙が突っ込まれてきた。私は噎せ返った。
「あらあら、ごめんなさいね、大丈夫かしら、」
 側にいた女の仕業だった。
 私は噎せ返って辛くなった胸で、荒く呼吸した。こんなことは単なる生理現象で、思考する脳や心のうちの作用とは、なんの関係もないことだ。つまらないことだ。

 教えてくれ、私とはいったい何なのだ。ボクは、俺は、私は、いったいどうすればいい。この世界で、いったいどうしたらいいというのか。

 白い人影の沈んだ眼が、私を静かに見下ろして言う。私の世界は、もうずっと醜い。そうだ、天井ばかりになる前から、ずっと醜くて、卑怯で歪んで腐って、悪臭が止まらない。私は人殺しだ。自分を殺せないくせに、ずっと、人殺しだ。いったいどうして、人に道を示せるというんだ。

 私はある絶望した人に出会った。その人の願いを引き出して、私はその人の命を絶った。私は  彼の願いを確かに叶えたはずだった。だが、世界は何も変わらないばかりか、一層悲しくなった だけだった。私は悲しいのだ。人の存在が、悲しいのだ。そんなとき、ここで同じ悲しみの匂いがした。だから、ここに来た。お前も、あなたも、……やはり、悲しいのだと、思った。

 人影が、美しい涙を落とす。
 美しい人は、私に近づいてはいけない。私は人殺しで、人でなしで、醜いのだから。美しい人は、この世では生きていけない。私が殺してしまうからだ。あの、美しい娘も、私が……。
 処分したから…………
「あらまあ、大変。」
 私の口はだらしなく、いくらか流し込まれていた流動食を消化不良のまま嘔吐していた。酷い臭いだった。女は張りついた笑みのまま、私の胸から腹にかけてぶちまかれた吐瀉物を片付けている。
「本当に、そんなに泣かなくてもいいのよ、大丈夫ですからね。」
 女が清潔な布で、私の顔を拭う。泣いているのは、私ではないよ。あの浮かんだ人影だ。悲しんでいるのは、私ではない。あの、人影だけだ。嘔吐も落涙も、すべてが単なる生理現象で、思考とはなんの関係もない作用だ。私は、悲しくなどない。
「……なし……な……い」
 久しぶりに言葉を喋ろうとしたが、どうにもうまくいかないらしい。言葉を喋ることは、なんて気力のいることなんだろう。
「ええ、ええ。分かりましたよ。お食事はもう止めにしましょうね。あとで栄養を入れに来ますからね。」
 女が見当違いなことを言っている。二度と剥がせないような、完璧な笑みで。私を狂ったと思っているのだろう。だが、違う。私は私を知ったのだ。自分の略奪を見て、自分の人殺しを見て、自分の卑劣で汚い様を、見たのだ。

 私には、悲しんでいるように、見えた。

 人影が言った。女はさっさと片づけを済ませて、食事のカートを押して部屋を出て行った。私はなぜか、あの白い人影を見ていると、縛りつけられた身体がもどかしかった。自由に動きたかったし、気力を振り絞ってでも、自由に喋ってみたかった。そんな衝動は、初めてだった。
 すると人影が、小さく頷いたように見えた。人影は静かに息を吐き出すようにして、ゆっくりと汚い床の上に降り立った。
「私には、もう人の願いが分からない。人の願いを叶えることが私の役目であり本望であるなら、こんなにも満たされないことがあるはずはないのだ。私は人の願いを、確かに叶えたのだから。」
 年齢不詳の白い男は、浮遊をやめると、随分人間らしく見えた。喋りながら、女が戻し忘れて起こされたままの私の上体に近付いてきた。そして、私の身体を固定していた頑丈なベルトに、線が細く美しい白い手を、ゆっくりとかざしていった。すると、ベルトのロックが、小さな音を立てながら、次々に外れた。
「ボクは何も考えなかったし、考える必要もなかった。俺はいろいろなものを見たし、いろいろなことを感じた。そして私は……私も、考えたのだ。もし私の使命が間違いないとすれば、私が叶えた人の願いは、真の願いではなかったのではないか、と。人の言葉を聞いたのは、間違いだったのではないか、と。」
 白い男は次々に、私の身体に手を翳していった。足、腕、首、……そして最後に、下腹部に手を翳した。その白い手は、暖かく、私は世界が醜いことを忘れかけた。
「だが思念で語る言葉さえ、真の望みであるとは限らないのだ。私は確かに、あの男から、そういう心の言葉を、受け取ったのだから。」
 呼吸が楽だった。私は手指を動かした。それだけでもう、全身が繋がっている感覚がしていた。私は、自由だった。
「それなら、いったい、私はどうして、人の真の望みを知ることができるだろう、」
 無垢な瞳だ。そう思った。白い男は年若くも見え、年嵩にも見える。だが、どちらにしても、その無垢な瞳は変わらない。
 私は黙ったまま、その憂うような表情を見返していた。
「もし真の望みを知ることができなければ、私はいったいどうしたらいい、」
 人の望みのままに生きるのは不可能だ。人の言葉通りに生きようとすれば、相手の意のままに扱われて、いずれ殺されていく。
「人の願いのために来た私が、人の望みを知ることができなければ、どうしていいか分からない。私の存在価値は、いったいどこにあるんだ。私は、何のためにここに来て、何をすればいい、」
 この男は「過去の民」だろうか。なんだか遠い昔の言葉のようだ。唐突に部屋に現れて、奇妙な力を使った。今の私には、能力のあるとないとで、区別をする理由がよくわからない。
 私は年若い青年のような表情の男に、蘇った気力で言葉をかけた。
「他人の言葉など待っていたら、この醜い世界を生きることはできない。人はみんな醜い。この世界で生きる人間は、みんな醜い。あなたの如き美しい人は、この世界では生きていけないよ。いったいどこから来た、」
 男は眉を寄せて首を小さく横に振った。私の問いに答える代わりに、感情を揺らして言った。
「美しくなどない。私がしたことは人殺しだ。生命の森を知っているからと言って、命を奪っていいはずはない。人殺しは、美しくない。そうだろう、」
 彼の眼には、人間らしい涙が溜まって、溢れて、落ちる。
「人殺しを憂えるうちは、充分に美しい。」
 私は真っ直ぐこちらを見ている、その男の眼を見て言った。
「私はもう、何人も殺したが、一度も悲しんだことなどない。全部、自分が生き延びるためだけに殺した。他人の望みばかり追おうとするあなたとは違う。」
 私の言葉が終わらぬうちにも、白い男の表情は苦悩の色を一層深くしていく。なんの衒いもなく、大粒の涙を流して首を振る様は、まるで小さな子供の駄々だった。
「ボクが生命の森で生まれた時、すべてのものが明るくて、とても嬉しかった。初めて目にしたものも、耳にした音も、触れたものも、発した声も。生まれたことが、生きていることが、ボクは嬉しくて堪まらなかった。ボクは死ぬことなんて、考えたこともなかった。生きている人が、本当に死にたいはずないんだ。人殺しをして、何も思わないはず、ないんだ。」
「ここはあなたのいた世界とは違う。残念だが、生まれて喜ぶ人間なんていない。」
「そうじゃない、」
 彼は叫ぶように言って、白い両手を私の頬に伸ばした。
「あなただって、こんなに泣いているのに。」
 私の涙腺は、もう壊れているのだ。勝手に流れて、流れ続けて、ある時になると、ふっと止まる。 これはただの生理現象だ。私の心とは、何の関係もない。
「そんなふうに言わないで。これはあなたの心だ。」
 私の思考を読んだのか。気力を使って喋らなくていいなら、「過去の民」と会話するのは慣れてしまえば楽なのかもしれない。
 白い男は、相変わらず、大粒の涙を流して、首を横に振る。
「過去の民なんて、本当はいないんだ。命あるものは皆、生命の森で生まれた。みんな、本当はひとつだ。」
「あなたの言うことが本当だとしたって、生命の森なんて誰も見たことがないのだから、信じようがないよ。」
 彼の両手を、頬からそっと剥がしながら、私は言った。
「この世界で生きるのに、心なんかいらないんだ。感情なんて持ったら、邪魔なだけだ。生命の森なんて、この世の人間には要らないものだ。」
「それなら、どうして、ボクは、俺は、私は……生まれて、ここにいるのだろう、」
 彼は泣き止まなかった。だが、私のように涙腺の故障などではなく、飽くまでも感情的だった。
「生命の森を信じるのは、過去の民だけだ。あなたの存在を価値あるものにできるのは、私ではなくて、過去の民だ。」
 喋っていて、私は、はっと思い出した。過去の民たちが待望していた、彼らにとって価値のある存在。まさか……
「インマヌエル、」
 私の口にした言葉に、彼は瞠目する。
「インマヌエルは……救い主……、」
「やめてくれ、もう、その名で呼ぶのは……、」
 インマヌエルが、殆ど慟哭するように言って、頭を抱える。
「私は人の望みを叶えることもできない。人に必要ともされていない。誰も救うことはできない。何も、できないのだから。」
 インマヌエル。
 私はあの日も、その人物について警戒するための監視を、していたのだ。あの平和な星の宮で。占売りの娘は、美しかった。私を、あの娘は、何と言ったか。忘れもしない。私は、そんな人間ではないよ。占売りの娘は、私のために死んだ。
 私が……、
「私が、あの時、……占売り娘のテントを崩壊させたのは……私、」
 あの夜のことが、次々に思い起こされる。私は、インマヌエルを探していた。星の宮を監視するためだ。私はサンクトゥスだったのだ。紛れもない、人殺し集団の、サンクトゥスだったのだ。だが……
 あなたは、インマヌエルを、探しているの、
 …………
「インマヌエル、」
 私は目の前の、白い男の肩に縋った。
「私は、……私は、過去の民、なのか、」
 彼は涙の止まらぬまま、目を伏せて、静かに首を振って言う。
「過去の民なんて、この世にはいない。みんな、ひとつだ。忘れてしまっただけだ。生命の森を想うことを、忘れてしまっただけなのだ。」
「あなたの言うことが本当ならば、人間は皆、能力者だということになる。」
 インマヌエルは、その肩口に縋る私の手に触れる。
「能力ではない、叶える力だ。」
「叶える、力……、」
「本当は誰しも持っているはずの、生命の力。それが、叶える力だ。願いは叶えることができる。私はだから、叶うことの実感を与えるために、ここに来たはずなのだ。」
 インマヌエルは救い主。彼と話をしていると、自分が醜い人間であることを忘れそうだ。本当に、インマヌエルは救い主、だ。
「だけど、インマヌエル、あなたは人間の望みを叶えたのに、そんなに苦悩している。あなたの望みは、いったい何だ。他人の望みより、あなたの望みを叶えればいい。そんなにも苦悩しないように。」
 インマヌエルは、人間らしく、ゆっくりと深い呼吸を、ひとつ、した。
「私の……ボクの……俺の、……望み、」
 不意を突かれたようなインマヌエルの表情は、幼さの残る少年のようだった。
 私は、あの占売りの娘を思い出す。盲いていた、美しい娘。私が殺した、私のために、私の代わりに、微笑して、死んだ娘。黄金の朝陽を背にした、娘がその身で象った十字が、はっきりと思い起こされる。
「私は、あの娘を、助けたかった……、」
 呟いた瞬間、インマヌエルが先刻手を翳した下腹部の奥から、はっきりとした感情が、込み上げてきた。私は堪らず、嗚咽した。
 ずっと、忘れていた。これが、悲しみ。
 もし私がテントを破壊しなければ、娘は死なずに済んだ。もし、あの夜、違う通りを歩いていてあの娘に会わなければ……。だが、本当は、あの幼い日、私がサンクトゥスになど、入らなければよかったのだ。自分の身の安全ばかり考えて、その為に、美しい一人の娘を殺してしまった。
 インマヌエルは側に立って、暫く私をじっと見ていた。やがて、無言のまま、そっと身体をこちらに寄せた。インマヌエルの白く暖かい腕が、私の肩を抱いた。
「インマヌエル、インマヌエル、」
 ついさっきまで、少年のようだと思っていたインマヌエルに、私は小さな子供のように縋って泣いた。
「感情は贅沢だ。あの娘は死んでしまって、もう泣くこともできない。笑うこともできない。私のせいで死んだのに、私を恨むことさえ、死んだらもうできない。私は自分で死ぬこともしないで、生きて、泣いている。贅沢だ。」
 インマヌエルの手が、私の背を撫でる。そうして、私の耳元で、静かに囁いた。
「優しい人。」
「どうして……、」
 あの娘と、同じ言葉だった。優しい人間が、人殺しを重ねて、普通に生きていられるはずはない。自分の身の安全ばかりに、気を配っていられるはずはない。
「たった一人の娘のために、そこまで悲しむことができるなら、あなたは充分、優しい人だ。少なくとも、その娘にとっては。」
「違う、そうじゃないんだ。あの娘には死ぬ理由なんて、どこにもなかった。あの時、死ぬべきだったのは、私だ。」
「その娘は、あなたに何と言って死んだ、」
「あなたと同じだ。人殺しの私を見て、優しいと言った。それから、辛いと言って泣いた。そして、微笑って、死んだんだ。」
 インマヌエルがいなければ、私はこんなにも真摯に、自分の罪と娘の死とを見ることはできなかっただろう。私は、こんなにも、インマヌエルを、求めていたのだ。
「それでは、その娘は、きっとあなたに、生きて欲しかったのだろう。」
 インマヌエルの穏やかな声が、暖かい腕が、子供のようになった私を、抱き締める。こんなにも安心して感情を露わにしたことが、今まであっただろうか。だが、ずっと、こんなふうに泣きたかった。
 泣きたかった。
「ありがとう。」
 インマヌエルが呟いた。
 私はその時、確かに、見た。大きな木だ。枝を広げてどっしりと立つ、緑豊かな大樹。
 そこは、明るい森だった。作りものなんかじゃない。呼吸する、本当の、森だった。
「あなたと話したお陰で、私は人の望みでなく、自分の望みを、知ることができた気がする。」
 インマヌエルは、もう涙を流してはいなかった。光射すような、美しい微笑だった。

 インマヌエルは、もう救い主ではない。だが、生命の森の子だ。優しい人に、悲しめる人に、心動 かせる人に、生命の祝福を。この世界がどうなるとしても、どこにいても、あなたが生命の幸福  を、忘れずにいるように……。

 インマヌエルは、そんな思念を残して消えた。
 私は彼の力によって、心身の自由を得た。すぐにでも、この医療施設を出ることになるだろう。だが、サンクトゥスに戻ることは、もうできない。
 この醜く淀んでいるはずの世界が、今は何故だか少しだけ、明るく見えるのだ。

パートⅤ

それは誰かが見た
夢であったのかもしれない。
だが、全ての生きるものの心には
帰るべき故郷があるのだと
どうして信じられないことがあるだろう。
生命の力は、美しい朝、
明るい陽の光に導かれて
生まれてくるのだ。
幸福、幸福、幸福、と
…………
遠く近く響き合う息吹の音が
誰しもに、
聞こえるはずだ
…………

 インマヌエル、
 インマヌエル、
 インマヌエル、
 …………

 多くの……多くの声が、私を呼ぶ。

 インマヌエルは、救い主。
 どうか助けて下さい。
 救って……、
 インマヌエル、
 インマヌエル、
 インマヌエル、
 …………

 違う、違うよ、そうではないのだ。私はもう、救世主にはなれない。あなた方の救世主には、なれそうもないのだ。

 インマヌエル、
 助けて、
 インマヌエル、
 …………

 思念を送り返してみたが、人々は私の言葉を、受け取ることができないようだった。人の世はこんなにも、生命の森から遠く離れてしまったのだ。こんなにも、自らの叶える力を、信じられなくなってしまったのだ。

 美しい森から森へ
 生命を繋げよう
 今こそ 今こそ
 この世界を覆す
 美しい森から
 世の反映を

 多くの人々の声のうちから、澄んだ歌声が浮かび上がってきた。私はその微かな影を含んだ声に、興味を惹かれた。そこで私は、その歌の持ち主に対し、意識を澄ませて語りかけた。

 どこだ、どこにいる、あなたは誰だ、

 すると、その声はすぐに応答してきた。

 誰……これは……まさか、インマヌエル、本当に……。

 あなたは誰だ、どこにいる、私は人と話がしたい。

 インマヌエル、……インマヌエル、お待ちしておりました。わたくしは、……私たちは、ここにいます。星の宮です。いつの日か、貴方がこの世へ下ってくださると、ずっと……信じておりました。貴方の救いを……

 女は熱した調子で、思念の言葉を送り続けてきたが、私はその意味を聞くことはせず、ただその思念の流れてくる方へ向かって飛んだ。女は、星の宮奥地の広場にいた。噴水の側に腰かけていた。すぐ傍に、竪琴の亜種だろう大きな楽器を置いていた。印象に残る、銀の髪をしていた。私がその場所に降りると、すぐに気がついて立ち上がった。焦点の定まらぬ眼は盲いているようだが、まっすぐにこちらに顔を向けている。

 インマヌエル……、

 女は迷いなく駆け寄って来て、私の足元に跪いた。

 その御姿、……ずっと……ずっと拝見したかった……救い主、インマヌエル……。

 こちらを見上げた眼には、涙さえ浮かんでいた。私は、小さく横に首を振った。歓喜した女の、救世主への信頼は、あまりにも純粋で無垢に思えた。私は膝を折り、眼の位置を女と合わせて語りかけた。
「私はもう、救い主ではないよ。インマヌエルは、人の世に堕ちた。」

 イン……マヌ……エル、

 女は私の言葉に、一瞬、動揺を見せたが、すぐに持ち直して言葉を続けた。

 ……わたくしたちは、ずっと、貴方を待ち望んでいたのです。わたくしたちは、もう疲弊しています。ここで飼い慣らされて、心から望んだ振りをして生きることに、疲れたのです。全てから、貴方が解放してくれると……

 女は思念で話すことをやめなかった。困惑を振り払うかのように、次々に言葉を思念に乗せた。

「インマヌエルは人の願いを知ることはできても、もう叶えることはできない。」
 私はゆっくりと言いきかせるように、女に向かって語った。
「私は人々に願われて、生命の森で生まれた。人々の願いのために、人の世に降り立ったが、ついに人の真の願いを知って叶えることはできなかった。」
 女の表情が、絶望に堕ちていくのが見える。私は人間にそんな表情をさせるために、この世界に来たのではなかった。だが、私が私のことについて語るのは、今、必要なことだった。
「人がインマヌエルに望むことは、破滅や終焉でしかないのか。そうではない、そんなはずはないだろう、インマヌエルは人に望まれた願いの子、希望の子であったはず。私は人の世の幸福のために生まれたはずなのに、人の未来を断絶することしかできなかった。」

 インマヌエル……、やめて、やめて、……貴方は……貴方はわたくしたちの救い……救世主、インマヌエル……

 片膝をついた体勢から、バランスを失ったように、女は両膝を地に倒して崩れた。

 貴方がいなくては、わたくしたちの未来は闇に落ちます。ただ貴方の救いだけを希望に、こうして日々を生きてきたのに。

 女の長い銀の髪が、まるで長閑な陽光を反射して煌めいた。救世主としての私に対する希望を、この無垢な女は生命の糧としてきた。だから、こんなにも必死に、その希望を失わぬように縋ろうとするのだ。
「本当なら、人間が願いのためにつけたインマヌエルという名も、私にはもう相応しくないのだ。もう、あなたの望むようなインマヌエルは、どこにも存在しない。」

 …………。

 女は思念に乗せる言葉もなく、こちらをしばらく見ていたが、やがて力なく、地面に細身の上体を伏せるように崩れた。銀の髪が身体の上に散らばり、その肩は小刻みに震えていた。
「それで、あなたはどうするのだ。インマヌエルという希望が消えた後、あなたは、」
 私は女に問うた。女はまるで声帯を失くしたかのように、思念でしか喋ろうとしなかった。

 ……殺して……もう……生きていたくない……殺して……。

 私は小さく息をついた。
「それはあなたの真の望みではないはずだ。インマヌエルは救世主ではなくなったとしても、もう誰も殺したりしない。救世主ではなくなったとしても、人が真の願いに向かうことを、いつも望んでいる。」

 インマヌエルなくして、真の願いなど持っても、無意味なことです。叶う筈は……ない……。

「そうではない。人は願いを、叶えることができる。生命の森の力は、全ての人の中に、今はただ眠っているのだ。」

 希望を失くしては……もう……生きてはいけない。

「そうではない。人は希望を、自ら生み出すことができる。インマヌエルに頼る必要など、ないのだ。」

 どうして……もう、やめて……ずっと……ずっと、待っていたのに、……わたくしの……、

 私には、女が泣くのを止めることはできなかった。だが女の言う通りに、黙ってしまうわけにはいかなった。今の私には、話すことが必要だった。女が肉声で喋ることをしないので、私も今一度、思念に言葉を乗せてみることにした。

 過去の民と呼ばれる人たちが生命の森の存在を信じているなら、森の記憶を呼び戻すのも、そう難しくはないはずだ。あなたがそんなに絶望することはない。

 いや……もう……何も聞きたくない……。

 地に這いずったまま、耳を塞ごうとした女の両手を、私は捕まえて制した。

 この声は思念だ。耳を塞いでも聞こえるのは、分かっているだろう。心を閉ざしてはいけない。あなたにはきっと、生命の森の力を留めておく器がある。私は遠くにいたのに、あなたの声は、一層よく聞こえたのだ。

 女は少しだけ身を起こして、私の方を見た。何か不安げな、躊躇うような表情をしていた。思念の言葉は、流れて来なかった。

 声を、使いたくなったか、

 私の問いかけに、女は大きく頭を振った。

 いいえ、いいえ。話す声など、もう何年も前に失いました。この声帯を使うのは、ただ歌うときだけ。

 私は手を延べて、女の顔に掛った銀の髪を、そっとどけた。両の眼から流れた涙の跡が、陽を浴びて光っていた。

 失ったわけではないだろう。あなたが声を使わなくなったのは、この世に絶望してからだ。即ち、私を信じ始めてからだ。そうなのだろう、

 …………。

 女は何の言葉もなく、ただ私から顔を背けた。女は世界に絶望し、心を閉ざした。その代わりに、救世主への憧憬を、生命の糧としたのだ。

 もう、大丈夫だ。人は希望を自ら生み出すことができる。あなたもそうだ。だから、他に縋ることなく、あなたは立つことができるし、人と自由に言葉を交わすことができる。

 いや……いや……話したくない、声なんか、使いたくない。

 女は小さな子供のように、何度も頭を振った。

 いや……話したくなんかない、人間なんか、……わたしの言葉なんて、誰にも聞こえない……届かない……聞いて……くれない……、

 女の眼から、再び傷ついた涙が零れる。今度は倒れまいとするように、上体を支えた両腕は、哀れなほど激しく震えていた。
 私は透き通る銀髪に手を触れて、震える身体をそっと抱き抱えた。
「大丈夫、もう何も怖いことはない。あなたの声は、よく聞こえる。話ができる声と言葉が戻ったら、私が一番に、あなたの話を聞こう。」
 呼吸の調子が著しく乱れている女の背を、私はゆっくりと撫でた。救世主ではなくなった私がすべきことは、人にまず自らの生命の賛歌を思い出させることだった。

 コワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイ…………………、

 女の思念は、殆ど理性を失っていた。
「怖くない、怖くない、怖くない、…………、」
 私は女の背を撫でながら、その耳元でゆっくりと言って聞かせた。その何度目かで、女の手がはっきりと、私の肩口に縋った。細身の身体を、私の胸の方へ、力が抜けたように預けていた。私はそのまま、その身をそっと抱き締めた。女の過呼吸は収まり、静かで、深かった。
「あなたの声は、遠くにいてもよく聞こえる。そして、あなたには肉声でも思念でも、確かなものを聞き取る耳がある。その眼は盲いているとしても、多くのものを視ることができる。」
 私を見上げた女の顔は、初めて目にした時より、いくつも幼く見えた。
「もう、大丈夫だね。声と言葉が戻ったら、一番に話をしよう。」
 すっかり少女のように見える女は、暫くこちらをじっと見ていたが、やがて小さく一つ、頷いた。
 私はその顔についた幾筋もの涙の跡を手で拭ってやり、それから、細い首筋、喉元に、触れた。生命の力は、人に分け与えることができる。しかし、これは単なる分割ではない。人の中に眠ったままでいる生命を誘発し、呼び覚ます作業だ。
 私はこの動作のひとつひとつに、私の願いを、込める。
 女は私の触れた喉元に、暫く両手を当てていた。

 温かい……。

 女の思念の言葉が聞こえた。
「もう話す言葉が戻っている。あなたは自由に話せるはずだ。」
 私は女に向かって言った。女はまだ不安げにこちらを見ていた。
「大丈夫。歌うときと、同じようにすればいい。」
 私は手を取って、女を勇気づけた。深い呼吸の後、女の声がした。
「イン……マヌ……エル……、」
 よく通る、芯のある声だった。
「わたしの……声が……聞こえ、ますか、」
 私は強く頷いて答えた。
「聞こえる。」
「よかっ……た、……よかった。」
 女は再び、泣きだした。

 泣いてばかりの人だ、あなたは。

 私は試みに、思念で語りかけた。反応はすぐに返ってきた。

 こうまで泣いたのは、本当に久しぶりです。あなたがいなくては、わたしは泣くことなんて、もう一生ないものと思っていた。

 私は女の頭を、そっと撫でた。女は不思議そうに、私の方を向いた。
「インマヌエル、」
「私の望みは、人が自らの真の願いに気づき、そのために行動を起こすことだ。人頼みではなく、自らが、生命の力で動くこと。たとえ今、人の世が淀み荒んでいるとしても、心からそれを望んだ人間など、いるだろうか。もしいるとすれば、それは生命の力を、忘れてしまった人だ。だから、人が自らの真の願いに気づき、そのために行動を起こせば、人の世は生命の力に満ち溢れ、真実の明るさを取り戻すことができるのだ。」
 女は依然、怪訝そうに首を傾げていた。
「わかるか、私の言っていることが、」
「わたしは……」
 女は考えながら、ゆっくりと、自らの声で語り出した。眼には涙が浮かんでいた。
「わたしは……人の真の願いが、全て善いものであるとは、まだ信じられません。だけど、あなたに生命の森を見せてもらったら、呼吸が軽くなって、こんな世界が、いつもより何倍も明るく見えた。もし人間の全てが生命の森に繋がっているとすれば、貴方の言っていることは正しいのかもしれない。そして、わたしは、貴方を信じたい。」
「既に救世主でもない私を、」
「信じる。わたしは今、貴方に生かされた。だから、貴方の想いを、考えを、信じる。」

 ありがとう。

 私には、目の前の若い女の純粋さが、本当に有難かった。初めて見たときの落ち着いた雰囲気が、生命の抑圧からきていたものだと、今ならよく分かる。
「あなたになら、私の生命の森の子としての力を、安心して授けていくことができる。」
「生命の……森の子、」
「生命の森の子は、人に生命の力を分け与えることができる。」
「インマヌエル、わたしは……、」
「大丈夫だ。あなたには、そのよく届く歌がある。あなたは生命の力を持って、その歌を続けていけば、それでいい。」
 この比較的穏やかな星の宮を中心に、生命の歌が広がっていく。私が女に与えた森のイメージは、既に彼女の中で成熟しているだろう。それが、旋律に乗った言葉を介して、他の多くの人々の中にも、広まっていくのだ。
「インマヌエル、だけど、わたしには、そんな力は……、」
「あなたの歌には力がある。歌だけじゃない、言葉そのものもそうだ。だから、必ず、人々に届くだろう。森の子の力も、その後押しに、きっとなる。」
 女は、まだ少し戸惑っていた。それもそうかもしれない。過去の民などと呼ばれ、どんなに感度がよくても、やはり人の世で生きて来た人の子であるには違いないのだ。
「私は人の世に、少しでも明るくあって欲しいのだ。生命の森を忘れずにいて欲しいのだ、人の世に堕ちたインマヌエルとして、生命の森の子として。あなたに力を貸してほしい。私の願いを成就に近づけるために。」
「インマヌエル、」
 女は再び思案しながら、ゆっくりと言った。
「貴方が、わたしを必要としてくださるなら。わたしには力があると、本当に信じてくださるなら、貴方の行動を、わたしは信じる。わたしも貴方に、力を貸したい。」
「ありがとう。」
 私は嬉しさのあまり、女に殆ど飛びつくように抱きついた。そのまま口づけて、生命の森の子の力を、彼女に分けて移した。
「インマヌエル……、」
 女の頬が、紅潮していた。自分に何が起こったのか、どうやら自分でもよく分かっているようだった。
「よかった、これで生命の明るさが、ひとつ、約束された。あなたはこれで、生命の歌い手だ。」
 星の宮という場所は、静かで明るかった。だが、ここもまた明るいばかりでないということは、もう既に分かり切っていることだった。人の世は一時も、平和でいることはないのだ。多くの人が蠢いて、各々に好き勝手な望みを持つ。だが、真の望みを諦め、見ぬ振りをして暮らすうちに、生命の光は錆びついて、世界を淀ませていく。
たとえどんな状況であっても、死をばかり望む人が、ひとりでも減るように。
 そのために、森の子の力が必要なのだ。

 ほら、見てごらん。
 人々の心のうちに
 一人、また一人
 生命の森が、輝き出す。
 それは大きな変革ではないかもしれない。
 だが、それは確かな
 生命の賛歌の一節だ。


 この世界が息を吹き返す為には、まだ少し、仕事が足りないようだ。

 自分がいったい何者なのか、俺にはもう分からなかった。そもそも、自分というものは何だろう。肉体の内側でひとりごとを言っている「俺」は、外側の誰かと喋ったりしている「俺」と同じ人物なんだろうか。外側の誰かが見た「俺」は、どんなふうなんだろう。内側にいる「俺」はどんなふうだろう。分かるような、分からないような、知らなくてはいけないような、知らなくてもいいことのような……。いずれにせよ、思考するだけ無駄なことのような気もする。
 俺は今、ここにいる。だけど、ここって、いったいどこだ。俺は今までどこにいて、ここはどこで、これからどこに行けばいいんだ。目の前には、ヌメヌメした感じの光体が見える。触ろうとすると光は生き物のようにうねって手から逃れた。俺の手は光を捕えることはできなかった。手を動かす感覚が、頭の中にはあったが、手がそこに存在しているのか、よく分からなかった。この光と俺は、本当に別の個体なのだろうか。何が正解で何が間違いか分からない。でも、これはきっと混乱した意識ではない。なんとなく、そんな気がした。俺の意識は今、ふらふらと飛んでいるが、きっとこれは無意味なものではないのだと思う。そう思っていると、なんだか落ち着いて、いろいろなものが、見えてくる。
 遠くに星があった。大きな星、小さな星、いろいろな大きさの星があった。そのうちの全部が、真っ二つに割れた形をしていた。ひとつも完全な球の形はしていなかった。そこにあった星の全部が、少しも光ってなんかいなかった。まるで死んだ星だった。俺はそれを見ても、特別に心が動かなかった。それは目の前に現れた、間違いのない事実に違いなかった。感情よりも前に、存在している事実だった。
 そんな星のなかにいた。
 俺はふと、そんなことを思った。俺はあの死んだ星のうちのどれかにいて、誰かと喋って、混乱したり、笑ったり、満足したり……それから、何かを強く求めていたから……。
 すごく、懐かしいものを見つけた気がしたんだ。あの時、あのディスプレイの緑を見て、そこにしか本当がないような気がしたんだ。他の誰も、人間のうち誰も、望んでいないのは、なんとなく分かっていた。でも俺には、そこが懐かしくて仕方ない場所に思えたんだ。それで……。
 だんだんと意識の在り処がはっきりしてきたような気がする。俺は死んだ星のうちのどれかにいて、学校に行って、エリートに会って、機械を壊して、いつもビリで……。これが正解なのかどうか、自信はなかった。でも、いくつかのはっきりした風景が蘇ってきたように見えた。俺はあのとき、楽しかったのかもしれない。なんだか可笑しくて、少し笑えるんだ。
 それよりも前の俺は……どこにいたのかな……。
 学校より前の風景は、見えてこなかった。でも代わりに、声が聞こえた。それは子供の声だった。

 ボクと一緒にいたよ。

 俺はこのふらふらした空間のどこかに子供がいるのかと、辺りを見回して姿を探した。だけど、周りにはただ、くらくらしそうな世界があるだけで、人間の姿は見えなかった。
「…………」
 俺は声を出すことができなかった。そもそも、自分の口や喉がどこにあるのか、全然分からなかった。

 ボクと君は一緒にいたんだよ。

 また声がした。いったい何者なんだろう。

 ボクは君で、君はボクだ。ずっと一緒にいて、ずっと離れ離れだった。

 いったいどういうことだか分からない。子供の姿は見えないが、不思議とそれが重要なことだとは思えなくて、不安はなかった。
 この子供と俺が同じ人物なら、俺は俺ではなかったんだろうか。

 ボクはボクで、君は君だ。でも、ボクは君で、君はボクなんだ。そして、それがとても自然なことなんだ。君が体験してきたことは君のものだ。でも、それはボクとも共有できるものだ。反対に、ボクの知っていることは君には分からないけど、それもまた、君とボクで共有できるはずのものだ。

 なんだかよく分からない。そもそも俺は、どうしてこんなところにいるんだろう。戻りたいと思った場所は、こんなところではなかったのに。

 ボクたちは、もう帰れないよ。もう扉は閉ざされた。後戻りはできない。だけど、君の戻りたかった場所は、ボクたちの故郷は、消えてなくなったわけではない。見えなくはなってしまったけど、いつも近くにあるんだ。

 気が沈んだ。あのディスプレイで見た緑の森に続く道は、どう探しても見つからないのか。それなら俺は、いったいどうしたらいいんだろう。どこへ行けばいいんだろう。何者になったらいいんだろう。

 何者かになる必要なんてないよ。ボクはいつもボクで、君はいつも君だ。その上で、ボクたちは統合できる。ボクはそのためにここに来たし、多分、君がここにいるのも偶然じゃないんだ。

 俺は……俺じゃなくなって、今まで見てきたらしい風景も、全部なしになって、そうやって消えていくんだろうか。

 統合は消滅ではない。ボクは君の一部、君はボクの一部。もともとはそれが普通だったし、自然だった。ボクたちが分かれたのも必然だったけど、その必要ももうなくなったんだ。だから、自然に返る。

 自然に……。
 俺は自分の眼が、どこにあるのか分からなかった。それでも何か、気持ちの膿が眼の傍へ集まって、溢れていくような感じがしたように思った。その時、ディスプレイじゃない、本当の呼吸している森を、見たような気がしたんだ。俺は思い出す。この世界は、見える事実だけで完成しているわけじゃない。

 自然に返ろう。

 返ろう、生命の、緑の森に。

 返ろう。

 …………。

 ああ、俺はどこに行くんだろう。
 身体が細かく千切れて、あちこちに分散していくみたいだ。俺はだんだん、ここからいなくなっていく。でも、きっと、それが全てじゃない。

 大きな呼吸をする。
 新しく存在が生成していく。
 だが、全てがリセットされたわけじゃない。
 それは新しくもあり、古くもあるのだ。
 どこかで歌が聞こえた。
 それはただ強く純粋な、信頼の歌だった。
 ボクは……俺は……少し、笑った。

 私は、こうして私になる。

 何故、こんなことになってしまったのだろう。いったい何が間違いだったのか。いつからこんなことに、なってしまったのか分からない。サンクトゥスとの接触を受け入れた時か、それとも、「過去の民」の力を利用しようとしたことが、そもそも間違いであったのか。
「我々は世界の神である。この世界は我々、サンクトゥスのためにあり、我々こそが世界の真理である。攻撃性を持った過去の民は、我々人間に害を及ぼすものだ。過去の民を収集し、選別し、管理駆除することは我々に課せられた使命であることを忘れてはならない。」
 ベネディクトゥスの演説は、私の思惑とは無関係だ。いつから、この世界はサンクトゥスのものになった。ドーム型に分割した世界を統治するのは統轄の役目だ。統轄の一族が、代々この世界を見守ってきたし、よりよい発展のために思考してきたはずだ。それが、何だ、この様は。
 広場には多くの人間が集っていた。その昔、聖職者の正装とされていた法衣を、サンクトゥスもそのまま兵士の式典用の正装として利用している。壇上で演説するベネディクトゥスを見る兵士の眼は、どれも同じように歪んでいる。こういう人間たちには、本当に信じるものなど、ないのではないだろうか。
 ベネディクトゥスが演説を終えると、割れんばかりの拍手に会場は沸く。いかにも慇懃じゃないか。だがベネディクトゥスは、いかにも満足げに胸を反らして、澄ました顔をして壇を降りる。まるで自分が本当に神にでもなったように。
 サンクトゥスという結社が、いったい何の目的で中央政府に近づいてきたのか、私は知らない。私が「過去の民」を中央政府に集めようと計画していた折に、狙い澄ましたように接近してきた。今、思えばだが……。私はあまりに愚かだったのだ。
 サンクトゥスのそもそもの起源は、信仰や宗教に由来するらしい。だが、団体の辿ってきた明確な経緯は、中央図書館の歴史書を紐解いても検索できない。そんな得体の知れないものに、気を許すべきではなかったのだ。
 私がサンクトゥスの協力により、「過去の民」を中央ドームに集め始めて間もなく、ベネディクトゥスの交代劇が起こった。今のベネディクトゥスと統轄である私は、個人として何の対面も果たしたことはないのだ。私が対面して契約を交わしたベネディクトゥスは、今演説を終えて壇を降りて来たこの男に、暗殺されたと伝え聞く。
 ベネディクトゥスの男の狡賢い眼が、牽制するようにこちらを見る。私は形ばかりの、役立たずの統轄だ。サンクトゥスの集会にまで、こうして参加することを求められる。中央政府の議会も、今では全て、このサンクトゥスに牛耳られている。中央の幹部も、殆ど全てが、サンクトゥスの暴力に脅えて屈服させられている。だが人、人間が死と痛みを恐れたとして、どうして責めることができるだろう。誰でも……。
 これが神の所業だろうか。昔、サンクトゥスの起源であったという共同体が信じたのは、人間にとって慈悲深い神であったというが。現在のサンクトゥスは、どこの誰が見ても、ただの人殺し集団だ。暴力で屈服させる、気に入らなければ殺す。私もまた、形骸化することで、サンクトゥスの暴力に屈服している。醜い。だが、民たちにとってみれば、中央政府統轄である私とサンクトゥスを統制するベネディクトゥスとに、そう大した違いを見ることはできないだろう。私はこの気候の狂ってしまった世界と、ドームに分散した民たちを、明るい幸福に、導きたかっただけなのだ。それにしても結局は、私もただの人殺し集団と同じ類の人間に違いない。
 集会が終わる。兵士たちがバラバラと散開する。私は退席を促される。卑屈に笑って、席を立つ。酷く、疲れていた。私は統轄の住居として設けられた邸宅へ、帰っていく。卑屈に、笑ったままだ。
 大きな門を通って、奥地へ入って行く。今や形骸化した統轄だが、邸宅の豪華さは変わらない。統轄は代々、世襲制だ。私は父が死んだとき、統轄の地位を得た。まだ二十にもならない頃だった。
 あの頃は若かった。中央政府管轄の図書館へ通って、多くの書物を読んだ。「過去の民」に関する記述は魅力的だった。遠い昔、人の世は開放されて自由だったという。誰もが自由に歌い、笑い、不思議な力を操る。現在の「過去の民」は、その太古の人類の純粋な末裔であるとされている。その記述に触れた時、私は確かに、明るい夢を見たのだった。奔放な力を持った太古の人類の末裔である「過去の民」がエネルギーを集束させれば、この世界の乱れた気を正し、異常になった気候も正常にすることができると、殆ど自然に、信じたのだった。だが、それはあまりに青臭い夢だったのだ。殆ど十年以上もかけて、やっと悟ることができた。だが、もう遅い。私は間違ったものに援軍を頼み、この世界を余計に醜くしてしまっただけだった。
「お父様、お帰りなさい。」
「お帰りなさい。」
 形骸化した統轄にはあまりに不似合いな、豪奢な邸宅の扉を開けると、子供たちが出迎えてくれる。娘も息子も、まだ十にも満たない。私の返す微笑は、卑屈なものになっていないだろうか。統轄は世襲制だ。もし、私が今死ねば、次の統轄には幼い息子が召し上げられるのかもしれない。まだ世界の醜さを知らない子供たちに、私は言葉なく笑う他なかった。
「お帰りなさい。ベネディクトゥス様は、今日もお元気でいらっしゃったの、」
 妻は殆ど、サンクトゥスに染まり込んでいる。この邸宅で子供たちとの幸福を守る為には、サンクトゥスに従っていることが一番簡単なのだ。世界がどんなに醜く爛れていこうとも、今の状況では、サンクトゥスの側についてさえいれば、無駄に迫害を受けることはないのだから。
「ああ……。」
 私は妻にも笑い返したが、それがどんなふうに映る微笑だったのか、自分でもよく分からない。
 このまま傀儡のような統轄として生きていることに、なんの意味があるのだろうか。守ろうとしたものも、守るべきものも、明るかった夢も、今は随分遠い。世界の幸福も守れず、邸宅の幸福も信じられない。だからといって、この現実を覆す力は、私にはない。強大な力を持った何者かが現れて、ある日、この世界を崩壊させ、空間ごと無に返す。そんな夢を、時折、見る。目覚める前、私は安心している。だが、目覚めれば、何の変わりもない現実が待っている。私にはもう、この現実は手に余るのだ。こんなところまで、来てはいけなかった。
 統轄は形骸化している。この世界はサンクトゥスが回していて、統轄がすることも、できることも何もない。私はこれから、自室に籠って時を過ごすだろう。サンクトゥスによる邸宅の幸福を信じている妻とも、ただ純粋で幼い子供たちとも、できるだけ顔を会わせたくなかった。纏わりついてくる子供たちに、私は曖昧な笑いを浮かべて応える。
「お父様は、お疲れなのよ。あなたたち、こっちへいらっしゃい。」
 妻は子供たちを、私から引き離す。私がどんな気持ちでいるのか、知っているのかもしれない。知っていながら、この邸宅の平和を守る為に……。
 私は妻にも笑いかけ、書斎にもなっている自室へ潜り込んだ。かつては世界を知る為に必死に書物を読んだ、作りのいい椅子に深く腰を掛けた。気だるい身体が、程よく沈み込む。大きく開いた窓からは明るい光が差し込んでいる。ここ最近で、夜は眠りも浅くなった気がする。私は殆ど半目になって、意識を空に投げ出す。眠るか眠らないか、この状態が今は一番安らぐのだ。意識は現実から遠くなるが、これは眠りではない。
 …………
 ………………
 ……………………
 遠くから歌が聞こえた。
 私は椅子から跳ねるように立ち上がった。
 現実から乖離させた意識に触れた音の連なりが、私の久しく忘れていた感情を揺さぶったように思った。私はその微かな音楽を耳にして、美しいと感じたのだった。
「星の宮……。」
 何の根拠もないが、そこへ行かなくてはならない。私は不意に、そう思った。それがこの世界のためなのか、それとも単に私自身のためなのか、それは分からなかった。星の宮へ行けば、何かがある。 そう、思ったのだ。
 私はそっと自室を出た。妻や子供たちに見つからないように、盗人のように足音を殺して外へ出た。余計な使用人などを雇っていないことは、この場合、幸いだった。

 星の宮には、攻撃性のない盲の「過去の民」だけが集められている。以前、サンクトゥスの幹部たちに連れられて、歓楽街へ出向いたことがある。歓楽街はサンクトゥスの幹部と一等兵が、得意顔になって溜まり場にしている場所だった。私は些か、気分が悪かった。だがその時も、ただ卑屈に笑っていた。そして今は、盲いたものには攻撃性がないという話も眉唾になった。つい最近、星の宮で起きた、盲いた者による能力暴発の事件は、形だけの為政者の耳にも入っている。あの事件より少し前から、サンクトゥスは星の宮内に「過去の民」の救世主が現れるのではないかと、確か警戒していた筈だ。それも今はどうなったことか……。
 もう、どうでもいい話だ。世界は私の手には負えない。
 それにしても、こんなにも星の宮を求める衝動が、今になって出てくるとは、どういうことか。私自身、全く分からなかった。頭の中で、何か自分とは別の生命体が生まれ、それに操られているような意識の距離を感じていた。
 この惑星の大地はもうずっと前から、人類を拒絶している。人間たちは地下を整備し、自分たちに都合のいいドームを形成して棲み始めた。だが本当は、それこそが間違いの始まりだったのかもしれない。人類は滅びるべきだったのだ。この狂った惑星の翳りとともに。間違いを正すには、この間違いを正すには……正す力が、私のどこにあるというのだろう。
 星の宮はドーム内に設けられた人工湖にある浮島だ。私は統轄権限で、浮島へ続く跳ね橋を降ろすことができる。この広大な人工湖には本物の水が貯めてある。水色はあまりに濁っていて、淡い水色のホロを被せている。見た目だけ誤魔化すことで、いかにも平和な星の宮を演出する。滑稽な話だ。今は全てが、サンクトゥスに追従する為の手段のように思えて仕方がない。跳ね橋が降りていくのを見ながら、私は腹の底が悪い虫に食い潰されていくような心持ちがしていた。この虫は、もう暫く前から私の腹の底に棲みついていて、何かの折ごとに暴れ始める。人類は感覚をすっかり麻痺させている。よく落ち着いてみれば、ここはこんなに腐ったような水の臭いがするじゃないか。多くの血を流して、自らを腐敗させてきた証拠だ。
 私は橋を渡る。星の宮は盲の者たちを収容して住まわせるための施設と、種々の店を集めた歓楽街がある。浮島ひとつで、街を形成したような様相だ。あと数分のうちで、私はあの街の門へ辿り着く。ふと気がついてみると、長らく腹の底に居座っていたあの忌まわしい虫が、忽然と消え去っていた。腐敗した水の臭いを、私も確かに、忘れ去って暮らしてきたのじゃなかったか。
 私は自分が、何か大きな目的の為に星の宮へ来たのではないか、と思い始めていた。だが、その目的が何なのか分からなかった。堅牢に設えられた星の宮への門は、やはり統轄権限で簡単に開けることができる。この世界は、私が拘って関わり続けた世界は、なんとも滑稽なものじゃないか。統轄という肩書さえ持てば、どこにでも侵入を許す。どんな内容の相手でもいい。たとえ傀儡でも構わないのだ。
 だが、この心身の落ち着きはなんだろ。星の宮へ入ってから、どこか清々しいような心地がしていた。ドーム内の天候は人工的に管理されたものだ。星の宮内でも、例外ではない。本物の、美しい晴天ではない。それなのに、何故だろう、ここへ入ってから、これまでにこびりついてきた醜い汚れが、だんだんと削ぎ落されていくような快感の確信があった。
 遠い……遠くから、歌が聞こえた。
 あの……歌だ。
 私は、その歌の聴こえる方へ歩いた。昼間の歓楽街には、殆ど人はいなかった。だがそれでも、何人かの人間に、私は幾度かぶつかった。歌の聞こえる方へ、ただ歩くことしかできなかった。

 多くの願い 多くの望み 全ての夢が
 みんな同じ 大きな木
 希望は繋ぐ 希望は輝く
 やがて 叶う
 多くの心が 満ちる大地に
 生命の森のうた

 より強く確信を持って、私のもとに届く。その歌は、盲の者たちを収容する施設から聴こえた。薄暗い回廊から見えた、白むほど明るい中庭に、その歌い手を見つけた。その女は、印象的な銀の髪をしていた。噴水ホロの傍に腰かけていた。細い身体つきをしていて、脇に置いた大きな楽器をゆっくりと歌に併せて爪弾いていた。私は何も考えないまま、その女に接近していた。相手はすぐに私に気がついて、音楽を止めてこちらを見た。やはり盲いているらしい眼は焦点が揺らいでいたが、こちらを見る動作はまるで迷いがなかった。
「あなたは誰、」
 女は私に問うたが、私は言葉なく、棒のように立っていた。だが女は、察して確認するように言った。
「この歌が、聴こえたのですか、」
 私は呆けたように女を見たまま、頷いた。女は、ひとつ、安堵したかのような息を漏らした。
「そう、ではきっと、これもお導きですね。」
「……お導き、」
 女の言葉を、私は馬鹿になったように繰り返す。これはどういう現象だろう。ほんの数時間前まで私はサンクトゥスの集会の席にいて、統轄の地位に絶望して、邸宅から逃げ来たというのに。それが全部、嘘だったように感じる。
「あなた、この世界の……、」
 女は驚いたように息を呑んだ。やはり「過去の民」だ。私の意識を読みとっているのだろう。私が「過去の民」をサンクトゥスに収集させている統轄だと知って、さぞ私を憎悪していることだろう。私は身動きもできないまま、女をじっと見続けた。自分が今、どんな表情をしているのか、想像もつかなかった。
「そう、……そうなのですか。だけど、この歌が聴こえてここに来たのなら、きっと今、この世界はあなたの意思ではないのでしょう、」
 私の、意思……。
 そうだ、全く、その通りだ。
 私が望んだのは統合だった。略奪や虐殺なんかじゃなかった。だが、何を言い訳したところで変わらない。中央政府統轄たる私はこの世界にとって、サンクトゥスに組している醜い存在でしかない。私の意思が、そもそもどんなものであったにせよ……。
 女はゆっくりと、首を横に振った。
「少し前まではわたしも、喋る言葉はみんな不純で無意味なものだと思っていた。でも、この歌は生命の歌。何の願いも持たない人には響かない。あなたがここに来たということは、あなたに言葉がある証です。」
「言葉……なんて……、」
 私は泣いていた。いや、その前に、笑っていた。滑稽に、卑屈に、面白く、笑っていたのじゃなかったか。
 女は立ち上がって、私に歩み寄った。
「言葉が有用なこともあります。願いが形になれば、より強く世界へ響かせることができる。」
 願いとは何だ。私の希望も意思も願いも、今となってはもう、無意味なことではないか。もう私の現実は、私の手には負えないのが事実なのだ。
「果たしてそうでしょうか。わたしたちが信じるべきは、身体の外にはない。あなたの判断は些か早計ではないでしょうか。……わたしも、あの方に会えなければ、きっと分からないままでした。」
 女が細い腕を伸べて、私の肩に触れた。
 暖かい……。
 私はとっさに、その手を採った。女の暖かい手を、両手で包むようにして握った。
「大丈夫。あなたの望んだことは、全て叶いますよ。だから、形にして。あなたがあなた自身を信じれば、願いを叶えることができる。信じて。」
「信じる……なんて、もう……。」
 女の手に触れていると、私は統轄という人格から、解き放たれていくようだった。自然と膝が折れて、私は女の足元へ跪くような形になっていた。私は「私」という人間が、こうも簡単に人の前で泣き崩れることができるとは思っていなかった。
「たとえ、私が始めに、この世界の統合と平和を願っていたとしても、サンクトゥスの暴走をここまで野放しにしてしまったのは私の罪。私があまりに愚かだった為に、この世界は死んでしまった。同時に、私の希望も願いも死んだ。だから、」
「いいえ、」
 女は私の手を握り、私の顔を覗き込もうとするように、自らも膝を折った。
「あなたの願いも、この世界も、まだ生きています。生命の森を想う人が少しでもいるなら、まだ完全に死んでしまったりはしない。」
「死んだも同然でしょう。取り繕ったって駄目だ。私はこの世界を信用できない。この世界に生きる人々も、信じられない。自分自身なんて、一番悪い。信じられるわけがない。それに、生命の森は過去の民の特権でしょう。私にはもう、何もない。過去も現在も未来も。」
「いいえ、そうではありません。生命の森は全ての生命の源。願いを叶える力の源です。人間には誰でも、願いを叶える力がある。」
「…………。」
 私は言葉が出なかった。今、何を話しても、女との会話は平行線を辿るような気がした。女の歌や暖かい手に何か動かされるものがあったのは事実としても、決着のない会話を続けることに意味を見いだせなかった。
 だが、女は黙らなかった。
「わたしはあの方から、生命の森の力を分け与えられた。生命の歌を、授かったのです。その歌を聴いたあなたは、他の人よりずっと、生命の森の近くにいる筈です。そんな方が統率者であったことは、この世界の幸いです。」
 私がこの世界の幸いなら、きっとこんなに酷く醜い世界にはならなかった筈だ。女の言葉は、やはり私には響かない。何を言われても、無意味な慰めにしか聞こえなかった。
「やはり……、」
 女は寂しげに沈んだ声で言って、下向いたままの私の肩をゆっくりと撫でた。
「やはりわたしでは力不足のようです。あなたの生命の記憶を、呼び覚ますことはできない。森の姿を、見せてあげることはできない。」
 私はただ、肩や背に触れてくる女の手の感触だけを愉しんでいた。この世界も生命の森も、もうどうだっていいことのように思える。願うことも、絶望することも、ただ疲れるだけだった。やりたくもないことをやって、嘘笑いを卑屈に浮かべて、そんな生命に何の意味があるというのか。きっと今も、どこかの集落でサンクトゥスが無益な殺戮を繰り返している。だが、何もできない。異常になった天候は、これから先もずっと変動せずに生命を拒絶し続ける。だが、何もできない。サンクトゥスは統轄と中央政府の陰で、この世界を支配し続ける。だが、何もできない。個人の望みや願いなんて、何の意味もない。大きな組織による暴力だけが、支配する世界なのだから。私という人間など、無意味なものじゃないか。
「いけない、そんなふうに想っては……、」
 女の声は、半ば焦燥を含んでいた。
 だが、それも…………。
「インマヌエル、来て。わたくしだけでは、駄目。希望が闇に落ちる前に、来て、インマヌエル。」
 インマヌエル……。どこかで聞いたな。そうだ、昔、どこかで読んだ、「過去の民」の伝説の……。

 インマヌエル、来て。
 わたくしたちの願いの子、生命の森の子、
 インマヌエル、来て。

 女の思念か……。言葉が、妙にリアルに頭に響く。軽薄になった意識が、支配されていくようだ。「過去の民」の思念を直接に受信するのは、これが始めてだった。少し、頭痛がする。しかし、心地よい。
「ここにいるよ。」
 女のものではない声が、すぐ傍で聞こえた。私は声の主を見た。白い、光だった。光を纏った美しい青年が、そこに立っていた。
「インマヌエル……、」
 女が言った。驚いている様子はない。この若者が、救世主インマヌエル……。
 インマヌエルは、私のすぐ傍で屈みこんで言った。
「インマヌエルはもう、あなた方の、人間のための救世主ではないよ。インマヌエルはただ、願いの子、生命の森の子になったのだから。」
 なんのことだか、意味がわからない。
「インマヌエル、助けて、彼の希望を救って。」
 女は私を抱き抱えるようにしたまま、白い姿のインマヌエルに切実そうに訴えている。
 インマヌエルは私を見ていた。落ち着いた、しかし邪気のない、透き通った眼差しだった。
 しんじ……る…………。
「生命の歌に感応した人の子か。」
 信じ………………る……。
「人の子よ、私はもう、人間の願いを叶えることはない。それは必ずしも、正しい行いではないことを知った。そして、私自身の願いのあることを知った。だから、もう私は人間のための救世主ではない。」
 信じる……。
「だが、私が人の願いによって生まれたことは、動かざる事実だ。インマヌエルは人の願いのために、生命の森で生み出された。私は人の幸福の姿を願う。そして、人が生命の呼吸を思い出せば、自らの生命の力で幸福の姿を描くことができると信じる。」
 白い青年の姿をしたインマヌエルの言葉は、絶対的な響きを持っていた。声は確かに、青年の口から発されていたが、言葉はまるで真っ直ぐに、こちらの心の内に入り込んでくるようだった。
「人の子よ、分かるか、人は皆、生命の森と繋がることができるのだ。そうして、生命の呼吸を取り戻せば、自らの願いを、自らの力で、叶えることができる。救世主になど、縋る必要はないのだ。」
「自分で……なんて……、」
 気がつくと私は、インマヌエルに向けて言葉を発していた。もう何も、喋りたくなどなかったのに。
「手に余る……あんな肥大化した望みなんて、もう願うことも馬鹿らしい……力の及ぶ筈もない……、」
 私の声は、私の耳にさえ遠かった。だがインマヌエルは、私の言葉を受けとめるように、ゆっくりと大きく頷いた。
「私もかつて、この世界に希望を抱き、やがて人々に失望さえ感じ、最後には自身の存在に絶望した。だがそれでも私が私として統合し、ここにいるのは、私が私自身の願いを持ち、それを自覚しているからだ。人の子よ、お前の願いは何だ。」
 インマヌエルの殆ど無垢な眼差しが、まっすぐに私に向けられている。
「私の……願い……、」
 願いなど、もう……。
「もう、願わない……。」
 もう私は、何も…………。
 私は口の中で言った。インマヌエルの純粋な眼を、見ていることができなかった。インマヌエルから目を逸らすと、この世界が余計に遠いものになっていく心地がした。もう自分の呼吸があるかどうかさえ、実感が不確かだった。それも、どうでもいいことではあるのだが。
 その時、すぐ耳元で、声が聴こえた。
 女の、歌だった。
 女の暖かい手が私を撫でている。私は再び、自分の身体がそこにあることを思い出す。
 女の柔らかい声が、素朴な旋律を歌っている。息混じりの、美しい歌だった。
 心を…………。
「私は……、」
 私は再び、インマヌエルを見た。両眼から、涙が溢れているのが、はっきりと感じられた。
 女は歌い続けていた。私はインマヌエルの白い光に向かって、上体を傾けた。
「私は、ずっと……、」
 手を伸べて、インマヌエルの美しい光の手に触れた。
 この世界の統合と平和を……。
 インマヌエルの手は温かかった。女の手と同じだった。その手に触れていると、私は自分が、醜いことを知る前に戻っていく心地がした。これまでに知った、全ての恨み、妬み、嫉み、悲嘆、憤怒、敵意、失望、絶望……苦しみの根源が、剥がれ落ちて溶解していくようだった。
 大きな大きな、緑の木……。
 そのイメージは、私の喜びの感情を呼び覚ました。
 大きな大きな、緑の木。私は、そこで生まれたのだ。私だけではない、人間は皆、遥か昔に、その大きな木々の傍で……。
 自分の中に浮かんだそんな思想を、私は自然に受け入れていた。脳だけではない。心と言うのはあまりに曖昧だ。身体全体に、美しい緑の森のイメージが広がっていく。呼吸できる喜びが、広がっていく。こんな醜い世界でも……。
「私は……、」
 私はインマヌエルの眼を見た。その眼は変わらずに、私を静かに見つめていた。私はインマヌエルの手を、はっきりした確信を持って握りしめた。
「この世界が、大きな平和であることを願った。本当は過去の民もサンクトゥスもない、ひとつの世界であることを願った。」
 インマヌエルの表情が、ふと緩んだように見えた。
 生命の森の木漏れ日が、私の中で揺れる。
 私は、呼吸がずっと楽になっていくのを感じた。
「人々が明るい心持ちで、希望を捨てずに、自然に生きていられる世界。」
 そうだ、始めて「過去の民」の記述を読んだ時、どんなにかその生きた姿に憧れたことだろう。人間が人間として、自分自身として、生きていることの幸福。そんな幸福のためには、変わってしまった惑星の気候も、民を分断するドームの集落も、邪魔になるだけだと、確信したのだ。
 そうしてそれは、こんなふうに、明るい確信だったのだ。
「この世界の統合と平和を、私は望む。」
 生命の出来得る限り自然な姿を、私は望む。
 私はインマヌエルに、まっすぐに向かっていた。女の歌が止まった。インマヌエルが私を見返しながら、ゆっくりと頷いた。
 インマヌエルは、相変わらず、白い光に包まれていた。だが、途轍もなく人間らしい微笑を浮かべて、言った。
「ありがとう、あなたが何故、生命の歌に導かれてここへ来たのか、よく分かった。あなたはこの世界を統べる者。そして、新しい器だ。」
 インマヌエルは、彼の手を握り締めたままだった私の手に、そっと口づけた。そして、ほんの少しの間、銀の髪の女と目で何かの合図を送り合ったように見えた。
「始めよう、ここから。」
 インマヌエルは、私と女の両方を視野に入れながら言った。私には何の事だかよく分からなかった。インマヌエルの表情は、幼い子供のように純粋で明るかった。
「幸い、彼女のお陰で、ここにはいい気が戻りつつある。きっと、ここからなら始められる。」
 銀の髪の女は、少しの困惑した様子もなく、インマヌエルを見つめ返している。
「私の長い旅は、きっとこの日のためにあったのだ。」
 私は自分に対して、少し笑った。こんな明るくて尊い表情をした人になら、無条件に心身を預けても差し支えないではないか。さながら幼子が母を信じでもするように。
「私の言っていることが分かるか、」
 私はインマヌエルに向かって、正直に首を横に振った。
「分からぬままで先へいくことは怖いか、」
 インマヌエルの作り出す、空間ごと支配する空気は、私を生命ごと安心させた。きっと、すぐ隣でインマヌエルを見返す女も、同じような感覚を持っているのだろう。
 私はインマヌエルに向かって、再び首を横に振った。インマヌエルは心から安堵したように、大きな吐息をひとつ、漏らした。
 そうして今一度、私に向かって問うた。
「私を、信じることができるか、」

 インマヌエル、
 インマヌエル、
 インマヌエル、
 …………
 ………………

 多くの声が、聴こえた。あるものは遠く、あるものは近く。あるものは不安と恐怖の中で、あるものは喜びと感動を持って。
 私は意外なほど落ち着いた心持ちでその声を聴きながら、一層強く白い光を放って見えるインマヌエルに向かって、答えた。
「信じる。」
 私は、……信じる。
 インマヌエルの白い光が、空間を満たしていく。白く、温かい光だ。
 インマヌエルが、私を抱擁している。銀の髪の女も、私のちょうど背中側から、そっと覆うように重なる。
「ありがとう、」
 声が聴こえた。インマヌエルの声か、女の声か、それとも別の人間の声か、はっきりとは分からなかった。
 そうだ。生命の光は、こんなにも明るく、温かい。

 ……………………

パートⅥ

 真っ白な温かい光の奥から、大きく茂った緑の森が迫って来た。その森は、単なるイメージというのには、あまりに現実感が如実だった。遠い昔に自然観察教育で、緑のサンプルスメルを嗅いだことがある。だが、そんな人工のものより、ずっと生きたものの香りが、身体中に染み渡る。どこからか吹いた風が、木々の枝を揺らしている。木漏れ日の影も、連動して揺れる。葉の擦れ合う音がする。
 遥かな昔、当然のように享受できたもの。忘れ去られたもの。失われたもの。生きているということの意味を、生命の意味を、人類は捨てて来たのじゃなかったか。
 生命の森から、風が吹く。美しい緑の香りを含んで、颯爽と吹く。
 多くの魂が戻るべき場所。そして、生まれてゆく場所。
 今一度、思い出そう。本当に願ったことは何だったか。本当に愛したことは何だったか。本当に、心から尊んだものは、なんだったのか。
 生命の歌が、聴こえる。
 私と、私たちと、全員で、…………帰ろう。

 円い まるい 丸い まるい
 まあるい
 …… …… …… ……
 ある明るさが
 誰でも知っている明るさが
 遠く とおく
 拡がった夜の遥か向こうから
 躍動を伴い
 だが、極めて静かに
 そのときがきたことを
 そのときが、存在していたことを
 そうして、教えている

 風が吹く
 そうやって、言葉が生み出され
 歌が生まれる
 交わされる意識が
 表情を生む
 なんの屈託もない
 風が吹く
 緑の腕が香る
 温かな脈動を覚える
 声が声になる
 朝と夜とが繰り返す
 果てしない時空の彼方
 明るさに触れた生命は
 呼吸を思い出し
 その眼に映す
 全てが正常を正常に戻す
 全てを自然に返す

 この世でたったひとつの生命が
 緑の腕に抱かれて眠る
 静かなる安堵の息
 光を映す白き額
 それは真っ白な無垢であり
 すべてを包括する闇である
 この生命は世界に望まれたもの
 緑の腕は そっと
 彼に寝返りを打たせる
 白い光が
 明るい光が
 祝福の呼吸を
 彼に与えますように

 その球体は、静かな躍動であった
 全ての生命の力が
 奔放な許しを得た
 いのちは開放される
 誰でもが言葉を知る
 そうして、安堵の息とともに
 朝と夜とを繰り返す
 その球体は世界だった
 いのちを包み、見守り、支える、
 美しい世界だった

 知っているか、と
 誰かが訊いた
 …………
 だが、誰も答えなかった
 そこにいるか、と
 彼は訊いた
 …………
 だが、誰も答えなかった
 随分遠くまで来たような気がした
 だが、大して歩いてはいなかった
 応答を求めるたび、
 彼の足は気だるくなった
 すぐ近くに、多くの誰かがいるはずだった
 だが、人らしい反応を
 得ることができなかった
 生命への疑念が
 いつか彼の心に生まれ、
 やがて身体を満たす
 ここにいるはずの
 多くの誰かに出会うために
 彼はやってきたはずだった
 だが、ここまでの道のり
 彼が誰かの生命を感じることはなかった
 生まれたいのちは巣立った後に
 重く垂れ込める雲のような
 疑念をしか抱けないのだろうか
 彼は泣きたい気がしたが
 それがどういう動きなのか分からなかった
 彼はいっそ、笑い出したかったが
 それもまたどうしたものか分からなかった
 より健やかな生命のために
 多くの生きた呼吸に触れるべきだと
 彼は人間の理性で思った
 そこに明確な使命が存在しているとすれば
 ともかくも
 それを果たしてみるべきだと
 彼は理性のうちで(・・・・・・)
 決断したのだった

 多くのいのちのことばのうらのいみの……

 言葉を得ることが
 有用であるとは限らない
 その言葉が単なる記号なら
 記号は単純な形式で
 生命の言葉を伝えない
 記号化された世界は
 生命を冒涜する
 理性に頼り切りになれば
 人はその冒涜に気がつかない

 笑い方は忘れてしまった
 泣き方も忘れてしまった
 自分の存在さえ、朦朧としていた
 仕掛けられたシステムのように
 与えられたはずの使命を遂行した
 彼はそこにいなかった
 忘我のままで
 理性と形式だけで
 役割だけで
 そんなふうに、ただ遂行したことが
 少なくとも、
 彼にとっての正解であるはずはなかった
 彼は多くの誰かのために来た
 誰かを救う力を持っているはずだった
 だが、それもまた欺瞞だった
 誰かが誰かになっていなければ
 彼が誰かを救えることはない
 彼はその死に祝福を与えたが
 そんなことは慰めにもならなかった
 薄暗い空間には
 いのちが光とともに包括していた
 闇を想わせる血の臭気が満ちていた
 それは鼻腔だけに留まらず
 彼の身体に、
 内臓に、細胞に、
 絡まり、
 締め付けて
 やがて、嘔吐を催す
 ……………………
 こんなことは間違いだ、と
 彼は強く確信する
 皮肉なことに
 そんなふうにして、
 人は人の感情を思い出す
 取り消せない時間
 修正できない大きな間違い
 悔やみ、嘆き、憤怒し、
 そんなふうにして、
 やがて、………………

 こんなはずではなかった
 生命は元来、
 光と闇を包括している
 こんなはずではなかった
 白い光の使者として
 世界に望まれた生命だとしても
 それは変わらない
 こんなはずではなかった
 自らの手が汚れて
 己の自我を知る
 こんなはずではなかった
 こんな醜い自我があればこそ
 彼は彼として
 誰かは誰かとして
 感情を謳歌したのではなかったか
 こんなはずではなかった
 けれど……、

 ……………………

 彼はそんなふうにして、
 醜い自我を受け入れた
 まだ、歩き続けなければいけない
 自我を含んだ彼は
 そう直感していた
 これは旅路の途中だった
 彼は彼のために
 生きようと思った
 誰かに望まれたからではなく
 自分という自分のために
 いのちの旅路を
 続けていこうと思った

 そうして彼は彼の道を見つける
 だが、それは理性による確信ではなかった
 それでも
 よりはっきりとした
 明るい直感だった
 それは以前よりずっと
 軽く、しかし確かな足取りを
 彼に齎した
 誰かに望まれている姿を
 彼はもはや志向しようとしなかった
 彼には彼の呼吸があった
 それは必ずしも
 望まれていた姿から
 かけ離れたものではなかった
 彼は自分を生んだこの世界と
 自分に望みをかけたこの世の人々を
 愛していた
 だからこそ、今の姿に満足していた
 生命の姿を
 人間は思い出せる
 正常な感情のうちに

 時は満ちた
 彼には声が聴こえていた
 それはずっと求め続けていた
 多くの誰かの声だった
 そのうちの誰が
 もっともよく彼を知る人であるか
 彼には分かっていた
 理性も知識も記号も
 彼にはもう、必要がない

 すべてをとうごうするもの、インマヌエル

 彼は彼のいのちによって
 その願いを叶えるだろう
 誰かの望みのためではなく
 彼自身によって
 この世界は統合される
 人々はお互いの生命の言葉に
 響き合い、変質し、
 進んでいく

 それは明るい
 あかるい
 確信的な預言の果て

 白い しろい
 拡がる
 ひろがっていく
 光が
 この世の隅々まで
 あらゆるものが形態を失う
 だが溶解したのではない
 存在は確かなままで
 姿の輪郭を失う
 あるひとつの歌を伴って
 その白い光は
 この世に満ちる
 旋律は風になり
 世界という空気を揺らす
 輪郭を失った人々の
 生命の肌に触れる
 それは輪郭を持つより前の
 原初のいのちを思い出させる
 肉の輪郭を失った人々には
 光も歌も風も
 より直接的に届く
 人間は数々の大いなる間違いの末に
 ついに生命を思い出す

 あまりに長い道程だった
 多くの尊い生命が
 塵芥のように扱われた
 だが多くの修正できない過ちより
 今、生命を思い出したことは
 より明確な必然ではないか
 光が、満ちていくのだ
 生命の中核から
 世界中を統合する

 円い まるい 丸い まるい
 まあるい
 …… …… …… ……
 生命の揺り籠が揺れる
 緑に香る風が通り抜ける
 葉擦れの音がする
 人の子の生命の歌が
 遠く とおくから
 聴こえてくる
 響いてくる
 ひとつだけではない
 いくつもの声が
 だんだんと、聴こえてくる
 人々は醜い地上で
 生命を望み始めた
 いのちあることを
 見つめ始めた
 ひとつの世界に
 醜さと美しさのあることを
 闇とともに光のあることを
 見つめ始めた
 光と闇と
 そのどちらを退けることも
 正当とすることも
 本当ではないのだと
 ここにきて、ついに
 気が付き始めた

 生命の森が騒めく
 人の世の願いによって
 インマヌエルを生んだ森が
 …………

 円い まるい 丸い まるい
 まあるい……
 小さな光の球が
 緑の腕から旅立っていく
 幾つも 幾つも
 歌の呼ぶ方へ
 いのちの方へ
 平和の象徴のように
 飛び立っていく
 人の世で
 人の子が歌う
 生命の賛歌が
 美しい生命の光を
 呼び寄せ、定着させ、育てる
 望みは人の子が自ら叶える
 希望は人の子が自ら生み出す
 だが、生命の森は
 目覚めた生命に
 祝福を与え続ける

 インマヌエル
 汚れなき願いの子として
 生命の森はその子を生んだ
 その子が人の世の願いによって
 世界を救うことを信じて育み
 やがて、巣立たせた
 もう遥か昔のような気がする
 森は彼らの子を見守った
 インマヌエル
 今や その名は
 内容を変質させていた
 彼は彼になり
 願いは彼のものだった
 森は彼に生命の力を与えることができる
 だが、彼の自我に干渉することはできない
 彼らは悲しんだが
 しかし、それでも 
 依然として彼らの愛し子を見守った
 インマヌエル
 彼に生命の森の力があることは
 彼が生命の森の子であることの証だった
 森は多くの生命の欠片を
 人の世に送り出した
 緑の風が吹くなかで
 あるべき場所に
 生命が返っていく
 いのちが、もどっていく

 森は彼らの子を探した
 しろい 白い 真っ白になった
 人の子の世界を見渡して
 だが、彼らの子は
 そこにはもはやいなかった
 彼らは生命の歌の根源を探った
 より強い、いのちへの志向が
 そこからは感じられた
 だが、彼らの子は
 そこにもはっきりとは
 存在していなかった
 しかし、代わりに
 ふたつの生命が
 いのちを歌っていた
 それは彼らの願いであったが
 既に世界の願いに等しかった
 あの子だ
 森は確信する
 インマヌエルはどこにもいない
 もう二度と
 形態を持つことはないだろう
 彼は確信したのだろう
 人の子は、自らの力で、
 人の世を、支えることができる
 彼は、だから
 ふたつの生命を励まして
 そんなふうに
 形態を失った
 だが、それは消滅ではない
 森は彼らの愛し子の呼吸を想った
 彼の愛した人の世と人の子らのなかに
 その呼吸を、
 想った

 白い しろい
 世界はいつか
 正常な呼吸を取り戻すだろう
 過ちは修正できない
 だが、修復を目指すことはできる
 人々は望みに向かう力を思い出す
 インマヌエルの残した希望の子らが
 その世界を支えるだろう
 繰り返される醜さのなかに
 憤りを、悲しみを
 忘れるな
 どんな醜い感情のうちでも
 それが自らの生命であることを
 忘れるな
 そうした苦悩の感情のうちから
 やがて、真実の光が生まれ出でる
 それは人の世を見つめた末の
 統合の光
 世界はいつか
 落ち着いた正常な明るさを
 取り戻すことができるだろう
 世界から目を逸らすな
 いのちを想え
 生命の力は、自ら望みを、
 叶える力を持つ
 だからこそ
 記号に頼らず、言葉に頼らず
 生命を想え

 生命の森は
 光を愛する
 人の子を愛する
 人の世を、愛する
 それは彼らの愛し子が
 信じて止まなかった世界
 彼らの特別な愛し子を通じて
 その世界は再び
 彼らとの絆を
 確かなものにしたのだ

 ……………… 

 光のうちに
 意識が立ち上がると
 明るい あかるい
 まぶしい
 眩しかった
 通り過ぎて来たこれまでの昨日と
 別段、変わりはないように思えた
 だが、いつもよりずっと
 呼吸が楽にできたように思えた
 明るい あかるい
 そんな目覚めだった

 この世は醜い自我で満ちている
 世界を急激に変化させることはできない
 だが、人間には
 憂う力がある
 希望を持つ力がある
 未来を想う力がある
 どんな苦境のなかにあっても
 正常な呼吸によって
 存在することができる

 返ろう、自然に

 人の世は繋がった
 インマヌエルが助け
 生命の森が繋げた
 やがて
 世界は大きな統合を望むだろう
 ひとつの大きな平和の世界を
 見つめるようになるだろう
 願いは統合され、
 より大きなエネルギーを放つ
 世界はそうして
 動き始める
 これはこの世界の序章である
 いのちを想う、始まりである
 歌が響く
 彼らは呼吸を思い出す
 病んだ世界はこんなふうにして
 快方に向かうのだ

 目覚め、眠り、歌い、
 歓喜し、悲嘆にくれ、憤り、
 悔やみ、憂い、愛する、
 誠実にいのちを見つめる、
 健やかな魂に
 生命の祝福を


                                                 完

過去の民

過去の民

異常な気候、ドーム型のまち、不思議な能力を持つ人々……。そして、人間はいつも、救いを求めている……。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-05-31

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. パートⅠ
  2. パートⅡ
  3. パートⅢ
  4. パートⅣ
  5. パートⅤ
  6. パートⅥ