恋という名の
私が総一郎の告白に頷いたのは、彼が裕福な人種であったからに他ならない。
おねだりをすれば何でも買ってくれたし、そうしなくても、欲しいものの前でため息のひとつでも零せば、翌日それは私のものになった。
でも、それもそろそろ限界が訪れようとしている。
私は、落ちているのだ。
底のない落とし穴を、どこまでも、どこまでも――
「総一郎さん、熱帯魚が死んじゃいそうなの」
いつものバー。カウンター席に隣り合って座る彼に、私はそう切り出した。
余計な飾りの一切ない薄暗い店内には、今日も物静かなジャズがゆったりと流れている。
「熱帯魚? あぁ、いつかプレゼントしたね。そうか、死にそうなのか」
「そうなのよ」
私が頷くと、「病気にでもかかったのかな……」と彼は首を傾げた。私はかぶりを振る。
「違うわ。餌を与えていないの」
彼は少し驚いたような目をして私を見る。そんな彼を、私はわずかな笑みをもって見つめ返す。
「ご飯をもらえないんだもの。弱っても仕方ないわよね」
飼い主に見放された、かわいそうな熱帯魚。しかし彼はいつものように落ち着いた微笑を浮かべ、
「そうか。じゃあ仕方ないね」
「……怒らないの?」
「君がそうするからには、何か理由があるんだろう? だから怒ったりしない」
理由なんてないわ――そう言ってやりたかった。
私はタンブラーを顔の前に掲げ、その向こうの彼を見た。グラス越しの彼は濁ったスピリッツで醜く歪んでいる。
いや、違う。
歪んでいるのは、醜いのは、きっと、私。
手首を軽く揺すると、アイスボールが清涼な音を立てた。氷に潰された彼の顔。それはひどく滑稽で、私は声を上げて笑った。
「総一郎さん。あなたは私を誤解しているわ。私はあなたが思っているほど出来た女じゃない。私が欲しいのはお金。あなたの心じゃないわ」
……だからもう、終わりにしましょう。
グラスの向こうで、彼はどんな顔をしているだろうか。
ほんの少しの沈黙のあと、彼は言った。
「僕の顔を見て言ってくれないか」
「お断りするわ」
「見られないのかい?」
「そんなことないわよ」
「じゃあ、そのグラスをどけて、僕を見るんだ」
彼の手が、私の指にそっと触れる。
「それとも、泣き顔を見られたくないのかい?」
「泣いてない」
「……君は強い女性だ。それは君の魅力のひとつだよ。でもね、これが最後だと言うのなら、ちゃんと理由を話してほしいんだ」
我慢強く、まるで子供のわがままを諭すように、彼は言う。
だから私は、
「そういうところよ」
つい、返してしまった。もう自分でも止められない。
「そうやって何でも分かったような口ぶりで! 私のことなんて何ひとつ分かってないくせに! あなたは物でしか人の気を引けないの? 物さえ与えておけば誰でも自分についてくるとでも思ってる? それは大きな間違いよ。そんなことじゃ、誰もあなたに好意を寄せたりしない。私のように、あなたを利用するだけ。分かる? 私はあなたを利用していたの。あなたは利用されてただけなのよっ」
あぁ、落ちていく。落とし穴を、どこまでも落ちていく。
まっすぐ伸びた道。私もまっすぐ進めると思っていた。知らなかったんだ。こんな深い穴があっただなんて。
「ごめんね」
彼は言う。そして私の指を包む手に力を込める。よけられたタンブラーの向こうに、彼の真摯な眼差しがあった。
「そんなつもりはなかったんだ。君が喜んでくれるなら、それでいいと思ってた」
「喜んでなんかいないわ。言ったでしょう? 私はあなたを利用しただけなのよ」
「僕は、君の笑顔が見ていたかった。笑っていてほしかったんだよ。なぜなら僕は、君の笑顔に惹かれたんだから」
「クサいセリフはやめて。寒気がする」
睨んでやると、しかし彼は優しい微笑みで、
「ごめんね」
ゆっくりと、私の指から手を離した。
そして名残惜しそうに私を見つめて、うつむいて、立ち上がった。
彼は何も反論せず、今、私の前から去ろうとしている。
「待ちなさいよ!」
知らず、私は彼を引き止めていた。
「なんで何も言わないのよ! なんで黙っていなくなろうとしてるのよっ」
肩越しに振り返る彼は、じっと私を見つめている。
「なんで一人で納得してるのよ! なんとか言ってみなさいよ! これじゃ私……私……」
私はいったい何を言いたいのだろう。彼にどうしてほしいのだろう。
ううん、そんなことは分かってる。分かってるんだ。
振り返った彼は、ゆっくりと私のもとに戻ってきた。大きな手が、私の肩に触れる。
「ごめんね」
その言葉に、今度は私が何も言えなくなる。
「ごめんね、もう一度、僕にチャンスを貰えるかな。僕はやっぱり、君といたいんだ」
私は、落ちている。
底のない落とし穴を、どこまでも、どこまでも。
ひどく歪んだ、恋という名の、落とし穴を。
恋という名の
三題噺「氷」「穴」「魚」