きみがいなければ

1.月曜日

 六月といえば、ジューン・ブライド。当然それに関係した商品を売る店頭には、あらゆる趣向を凝らしたブライダル商品が並んでいる。宝石店などは、ブライダル商品はもちろん、その予備軍である若いカップル向けの指輪だのピアスだのを取り揃え、立ち止まるカップルにキャッチセールスを行っている。
 そんな時期に、連続三件の宝石店強盗事件が起こった。どれも細い路地に面した小さな店だが、盗まれたのは高級品ばかりで被害総額は数十億円単位だ。
「すっげ―の」
 大学構内の図書館でゆったりと新聞を読んでいた安部保は、社会欄トップの記事に感嘆しながら、隣で不貞腐れている鶴田浩二に同意を求めた。
「見てみろよ、鶴ちゃん。三回ヤバイヤマを踏めば数十億が手に入るんだってさ。いいかもしんない」
 嬉々として言われても、鶴田にはまったく面白くない。
「お前やめろよな、そういうアブナイ発言は。いざって時に手錠がかかっちゃうよ」
 鶴田は冷たく言うと腕時計に目を落とす。
 授業はまだ一限目の途中だ。自分でカリキュラムを組む大学生は、必須でもない限り朝一番の授業は取らない。この時間帯の図書館は、学生がまばらだ。すでに登校しているとすれば、それは授業のある学生くらいだろう。
 鶴田も安部も、一限目は空きである。それなのに早くから図書館で人待ち顔をしているのは、二人ともカノジョが一限目に出席しているからだ。その彼女たちと一緒に朝食を食べるのが、月曜日の朝の日課だ。四人はこの席で待ち合わせをした後、二限目の授業前の腹ごしらえをする。
「今日はやけに不機嫌だね、鶴ちゃん。亀川さんと何かあったワケ」
 安部は言いながら鶴田の顔を覗き込むと、見るからに不機嫌という流し目が返ってくる。鶴田とその彼女である亀川都子(みやこ)は、どうもお互い素直になれないのか、よくケンカしている。
 理由は些細なことで、グチを聞かされる安部と、安部の彼女で都子の親友でもある斉藤智恵(ちえ)は、毎回二人を宥めすかしては仲を取り持ってきたのだ。
「せっかくBMW買ったんだから、その助手席にでも乗っけてあげて、たまには絵に描いたようなデートでもしてみたらどうなの。ベイブリッジの辺りに車を停めて、二人でボーッと海を眺めてさ。夜はホテルのレストランでフルコース食べて、ダブルにチェックインしてさ。月に一度くらい贅沢すれば?」
 大層な口ぶりでまくし立てたら、左頬にパンチを食らった。安部の身体がのけ反る。
「悪かったな、いつも庶民的な居酒屋で。第一そのBMWのお蔭でケンカになったんだよ。まったく」
 鶴田は噛み付くようなジェスチャーで、安部に咆哮をあげた。安部が左頬を気にしながら鶴田を見る。
「どうしてBMWでケンカになるんだよ。亀川さん、BMWの助手席に乗るの楽しみにしてただろ。智恵の次に可愛い笑顔でさ。あの笑顔が見れるならBMWのローンなんて軽いってほざいてたの、誰だよ」
 咎めるように言う安部から顔を背けて、鶴田は椅子に沈み込んだ。
「俺だってこんなのは予定外だよ。付き合い始めて何年になると思う。それなのにいつも肝心なところで気後れして、ケンカになるか笑って誤魔化すかだ。やっと・・・、やっとお前らのようなデートが出来るかもしれないと思ってたのによ」
 鶴田はそのまま突っ伏してしまった。
 訳の分からない安部は、処置なしとばかりに肩をすくめる。むやみに鶴田を怒らせると、後が怖い。何と言っても高校時代はボクシングで鍛えた鋼の拳だ。
 君子危うきに近寄らず。安部はおとなしく強盗事件の記事に戻った。
「なになに。管轄である坂北署では一連の強盗事件は同一犯の可能性が強いと見ており、付近の聞き込みを行っているが、今のところ手掛かり無し、か。でも、盗んだ宝石を売りさばくとなると、考えものだよな。アシがつく。ま、俺がさばくワケじゃないけどね」
 安部の目が強盗事件に飽きてテレビ欄に移った時、図書館の入り口付近で声がした。聞き覚えのある声だ。
 安部の顔が満面笑顔になり、鶴田が跳ね起きた。その顔が強張っている。
 おそらく一限目の英会話が終わったのだろうと入り口付近を見ると、思った通り英文科の奴らだ。
「お、やっぱ英文か。じきに智恵も来るな」
 待ちきれない様子で安部はソワソワしながら、鶴田の肩を叩く。
「亀川さんも一緒だろうけど、鶴ちゃんは冷静に対処しようね。亀川さんは女の子なんだからさ。優しく扱わなくちゃダメだよ。俺と智恵は食堂へ行って朝飯食うからさ。二人でじっくり話し合ってね」
 安部が諭す。鶴田が噛み付く矢先に可愛い声がかかった。
「保、待った?」
 声の主は英文科三回生の斉藤智恵である。少々太り気味のきらいはあるが、そこがまた魅力的だと安部はのたまっている。
「いつもゴメンね。三回生にもなって必須科目が一限目にあるんだもの。嫌になる」
 ふくれて見せる智恵を安部が笑う。
「いいじゃん、早朝デートができてしかも三食昼寝付きで一緒にいられるんだからさ」
「や――ね。保ったら、スナオなんだから」
 明るい笑い声を飛ばしながら、智恵が安部との二人の世界を楽しんでいる。その横で、智恵とは正反対の細身の美人が呆れていた。
 亀川都子。智恵と同じく英文科の三回生だ。
 図書館に入って来た時から、彼女の顔も強張っていた。決して鶴田のほうを見ようとはしない。
 鶴田と都子は交際を始めて一年半くらいになる。安部と智恵がテニス部の同期で付き合い始め、安部と同じ社会学科の鶴田が、智恵の親友である都子に交際を申し込んだというところだ。
 男子校時代、血と汗と涙と男に囲まれて過ごした鶴田に、世間一般の男女交際など望むべくもない。経験豊かな安部に、一から十まで教わったところで、右から左にこなしてしまうほど、鶴田は器用ではなかった。そして都子も鶴田が始めての恋人である。異性との付き合いは慣れていない。
 そんな都子の為にと鶴田はバイトに明け暮れて、この度念願のBMWを購入。これで少しは「絵に描いたような」デートができるぞと思った矢先にミスをした。
 鶴田はあえて仏頂面をして見せて、都子から視線を逸らせていた。
 安部と智恵は、二人の会話の区切りがいいところで鶴田を見た。
「それじゃ、鶴ちゃん。俺と智恵は水入らずで飯食うから、後は頑張ってね」
 軽い声が一層腹立たしい。
「お前、二限目の東洋文化史は出席するのか」
 どうでも良いことを言って誤魔化そうとする鶴田の肩を叩いて、安部は真顔になった。
「俺の出席日数のことは心配しないで、キミは亀川さんと仲良く出席してください。英文と社会じゃ、選択科目でない限り同じ授業はないんだ。その貴重な時間を二人で埋めてきてくれ」
 安部が言うと、智恵も都子の肩を叩いて、
「負けちゃダメだよ、都子。先手必勝なんだからね」
 などとけしかけて、こちらの反応も待たず行ってしまった。
「薄情なヤツだ」
 ボソッと呟く鶴田は、大きくため息をついて都子を見た。
「まだ、怒ってるのか」
 遠慮が窺える問いかけは、都子のお気に召さなかったようだ。
「別に」
 と冷たい答えを投げ付けて、都子も鶴田に背を向けた。
「待てってば、俺の話も聞けよ」
 図書館を出たところで追いついて振り向かせると、美人な分凄みの増した瞳で睨まれた。
「三枝さんが、わざわざ報告に来てくれたわ。本当に乗り心地のいいBMWだったって。土曜日は本当に楽しかったんですって」
 声は怒り加減を表すように低く、楔を一つ打ち込むようだ。鶴田は二の句がつげず、黙って都子が食堂のどこかへ落ち着くのを待った。
 一限目と二限目の間の食堂は、さすがに学生が多い。その中で、安部と智恵は屋外のテーブルに陣取って、遠く見える鶴田と都子を見守っていた。
「今度は何でケンカしてるの?」
 定食を頬張りながら安部が智恵に問う。智恵はさすがに顔を曇らせてパスタを巻いたフォークを置いた。
「都子の話だと、鶴田くんが先週の土曜日、三枝良美とデートしたんだって」
「土曜日って言ったら、鶴田がBMWを手に入れた日じゃないか」
「だから、そのBMWで学校へ来て授業を受けたまでは良かったんだけど、その後鶴田くんったら、ウチのクラスの三枝さんをBMWに乗せてドライブ行ったって」
 ぶっきら棒に話す智恵を、安部がぼんやり眺める。
「嘘だろう」
 まったく信じていない安部に、思わず智恵は噛み付いた。
「嘘じゃないわよ。その上、鶴田くんが腕を組んだとか、あげくには『鶴田くんのキスって優しいでしょう』なんて意味深なことを、今日の一限目に三枝さんがわざわざ報告に来たのよ」
 その時のことでも思い出しているのか、智恵はすこぶる機嫌が悪い。安部がマの抜けた顔になった。口元が笑ってさえいる。
「全部デタラメだよ。鶴田は見かけによらず女に優しいし不器用だし、ガサツだからよく誤解されるけど、二股かけるようなヤツじゃないぜ。そんなワケ分かんない女の言うことよりも、愛する俺の言うことを信じなさい」
 安部はそう言い切った。しかし智恵にとって今の鶴田は都子を不機嫌にしている元凶だ。いくら安部を愛していようと庇う気にはならない。
「私だってそう思いたいけど、都子はすっかり凹んでるのよ。だって、あんなにBMWに助手席に乗るのを楽しみにしてたのに、初乗りをあの大嫌いな三枝良美に横取りされたんじゃね」
 大きなため息をついて、智恵はまたパスタに戻った。
「そう言えば、以前にもそんなこと言ってなかったっけ。その三枝良美が亀川さんを敵視してるとかしてないとかさ。それに噂じゃ、そいつを嫌いなヤツって多いらしいね」
 巷の噂はまったく分からない安部が苦笑混じりに言った。智恵の膨れっ面が返ってくる。
「だって、彼女ったら男の子はホストか執事だとしか思ってないの。他人の彼だと欲しくなるタイプだし」
「それで『鶴田』なの?」
「違う。『BMW』なの」
 と二人が噂をしていると、鶴田と都子が辛うじて落ち着いている席に、枯れ木のように細く、高級ブランド品で身を固めた化粧美人が近づいて来た。
 都子の顔が鬼面になる。
「おはよう、鶴田くん。土曜日はとても楽しかったわ。ありがとう」
 都子の目前で鶴田の横に座りしな垂れかかっていく女を、いったいどうして都子が好きになれようか。
 鶴田は頬張っていたカレーを喉に詰まらせかける。
 英文科の名物、三枝良美は指に大きなダイヤのついた指輪をはめ、強い香水の香りをあたりに漂わせながら甘えた声を出す。
「鶴田くん、今夜は空いてるかな。良かったらドライブに行かないかしら。今日のような天気の良い日は、きっと夜景が綺麗で、ベイブリッジなんてオシャレだと思うんだけどな」
 おそらくコンタクトレンズでもしているのだろう。瞳がやけに光っていて、一層彼女の色気をキツくしていた。
 鶴田はしばし喉につかえたものを水で流すと、愛想笑いを浮かべた。
「ごめん。俺、今日はバイトなんだ」
「あら、残念。じゃ、明日はどうかしら。私、空けておくわ」
 相手の気分などまったく考慮に入れていないのがミエミエの台詞だ。鶴田は何も言い返せぬ様子で苦笑している。
 都子が堪忍袋の尾を切らせて、立ち上がった。
「お邪魔でしょうから、私はこれで」
 精一杯気取って言うと、すかさず良美が声をかける。
「学科の男の子が噂してたわよ。亀川さんがフリーならアタックしようかって。いつも私を送ってくれてる木原くんとか萩くんとか。今度付き合ってあげてね。亀川さんは車種で男の子を選ばないでしょ」
 含み笑いを抑えもせず、良美は勝ち誇ったようにそう言った。
 都子は黙っていた。言えばそれがどのような言葉でも、陰でどう言い換えられるか分かったものではないからだ。大学生ともなれば、コトは不純異性交遊にまで発展する。あずかり知らぬ事柄で陰口をたたかれるのはゴメンだ。
 都子は食べかけのトレイを持つと、さっさと行ってしまった。良美の脂ぎった笑顔は元より、鶴田のにやけ顔など見たくなかった。
「非常識ね。挨拶くらいしていけばいいのに」
 都子の印象を悪くしようと言っている傍で、鶴田も立ち上がった。
「俺なんかより、キミを助手席に乗せたがってる男は沢山いるだろ。そいつらを誘えよ。俺は予定が詰まってるから」
 精一杯穏やかに言って、鶴田はその場を離れた。良美がその背中を目で追う。
「BMWが目の前をコロガッてるのに、どうして軽自動車なんかに乗らなきゃならないのよ」
 その尖った唇を撫でる指先で、ダイヤが光った。

 都子は二限目のある教室へと向かっていた。歩くペースが凶暴的で周囲に視線を向けることなど知らないようだ。
「やっと追いついた」
 ホッと息をついて、鶴田は都子の腕を掴んで引き止めた。
「そんなに怒るなよ。あんなヤツの台詞を気にすることなんてないじゃないか」
 軽く流してしまおうとする鶴田を、都子は思いっきり睨んだ。
「悪かったわね。どうせ私は心が狭いですよ。あんなヒトにいいようにあしらわれて、彼氏だと思ってた人が、たった一度他の女とデートしただけで荒れまくる子供だわ」
 不似合いな大声が、人目を引き付ける。
 鶴田は都子を引き摺って、人気のない非常階段へ行った。そこはコンクリートの壁で四方が覆われており、しかも学生はエレベーターを利用するので、この階段が使われることはあまりない。
「お前が見かけによらず子供っぽいのはよく分かってるけど、なんで三枝のことになるとそこまで気を遣うんだ。放っておけばいいじゃないか。土曜日はたまたま三枝が乗せてくれって言ったから乗せただけだぞ。そりゃ、最初に乗せるのは都子だって決めてたけど、お前はあの日、他に用事があっただろ」
 都子が鶴田から目を背ける。鶴田の言い分が分からない訳ではない。
 鶴田がBMWを受け取りに行った土曜日と翌日曜日、都子は急用で故郷に帰っていた。都内にいて乗れなかったというならもっと悔しいが、いなかったのだからそれは仕方ないことだ。しかし、コトは『BMWの助手席問題』だけではない。
「自分だってバカみたいだと思ってるわよ。たかが助手席をとられたくらいで怒るなんて。でも、どうしてあそこまで言われるのかは分からないわ」
 綺麗な瞳が屈辱に耐えかねて涙を溜めている。
 どうしていいか分からないままに、鶴田は少し身体を傾けて都子の唇に接近した。いつもの軽いキスが、一層都子を苦しめた。
「三枝さんにも、こうしてキスしたの?」
「え」
「三枝さんが言ってたわ。『鶴田くんのキスは優しい』って」
 くぐもった声が辛うじて聞こえた。言い返さぬ鶴田のことをどう誤解したのか、都子は鶴田から離れて背を向けた。
「私が智恵と友達だからって、無理に付き合ってくれなくてもいいのよ。お荷物になんかなりたくないわ」
 抑揚のない声が遠くに聞こえた。何がどうなっているのか分からない鶴田は、ただ呆然とその細い背中を見送るだけだ。
「何で俺が、あの三枝とキスしなきゃならないんだよ。お前とだって、数えるほどしかしてないじゃないか」
 憮然としていると、いきなり背後で笑い声が起こった。
「さすがの鶴田くんも、可愛い彼女には弱いようだね」
 見ると、いつの間にいたのか、社会学科主任で鶴田のゼミの担当でもある山崎稔教授が立っている。
「山崎教授、何だって階段なんか使われるんですか」
「たまには運動になっていいだろう。興味深いシーンも見せてもらったしね」
 鶴田と同じ位置に立ち、山崎はニコリと笑う。
「キミはレポートを見ても思うのだが、肝心な所で一言足らないようだ。本当に言いたいことがね。今度彼女と話す機会があったら言うことだね」
「どう言うんですか」
「そうだな」
 山崎は考えるフリをして、意地悪く笑った。
「やはりこれしかないだろうな。『キミだけを愛している』とね」
「教授・・・。奥さん口説く時、そう言ったんですか。今時どんな顔でそんな台詞吐くんですか」
 真っ赤になった鶴田が、教室へ向かおうとする山崎を追いながら喚いた。山崎が高らかに笑う。
「そりゃあ、キミの精一杯に真顔で言うしかないだろう。大丈夫だよ。キミには単刀直入な言葉が一番似合っている」
「教授!」
 焦っている鶴田に構わず、山崎は教室に入り教壇についた。
 すでに都子は広い教室の端で授業の準備を終えている。鶴田は何となく近づきにくく、同じ社会学科が集まっている席の中に入っていった。

 東洋文化史の後は、都子にとって忍耐の時間であった。
 鶴田がBMWを購入したことはかなり有名らしく、自称カーマニアたちが、彼を取り巻いて放さない。結局二人は顔を見合わせることなく教室を出て、その後は別々の行動を取った。
 三限目が休講になり、都子と智恵は図書館でノート整理をすることにした。まったく口を開こうとしない都子をはばかって、智恵も無言でノート整理に励む。安部は鶴田と同じ社会学科の必須科目に出席しているはずだ。
 智恵につられて都子が参考文献に熱中していると、三枝良美が近づいて来た。
 都子の顔が強張る。
「こんにちは」
 愛想の良い笑顔が気持ち悪かった。都子は早々に耳を閉じている。
「三枝さんが一人でいるのなんて珍しいわね。男の子たちが探し回ってるんじゃないのかな」
 智恵がゆっくりとした口調で言う。あなたもこんな所にいないで探しに行けば良いのにと、遠回しに言ったつもりが相手にはどうも伝わっていないようだ。良美は都子の前の席に座ると、頬杖ついて居座った。
「いいのよ。たいして魅力もないのに付きまとわれて、いい加減うんざりしてたのよ。大きな車に乗ってるわけでなく、かといって高価なプレゼントをしてくれるわけでなし」
 そう言いながら、良美がダイヤの指輪を撫でた。とてもじゃないが、ちょっとやそっとで手に入るものではない。それが自慢でもあるように、良美は手を使って表現している。
「鶴田くんにプレゼントを望んだって無駄よ。BMWのローンで泣いてるもの」
 黙っていられなくなり、都子は低く呟いた。
「あいつなら居酒屋の飲み代くらいが関の山よ。きっとあなたのお気には召さないと思うわ」
「あら、鶴田くんならBMWだけで充分よ。背も高くてガッシリしてて結構スーツが似合いそうだし、顔も悪くないしね」
 良美は鶴田を褒めることで、都子を見下した。
 智恵がその間に割って入る。
「用がないのなら、向こうに行ってくれないかな。私達早いところこのノート整理を終わらせてしまいたいの」
 これだけはっきり言えば、いかな三枝良美でも分かるだろうと思いきや、これもあっさりとかわされてしまう。
「そうそう、用があって来たのよ」
 コロリと態度が変わって、一層騒がしくなってしまった。
「山崎教授のゼミに行かないかしら。湯川先生に聞いたんだけど、今度ブライダルファイブが東都ホテルで行うブライダルファッションショーがあって、それに女子大生を使いたいんですって。それでブライダルファイブのオーナーが山崎教授の知人で、この大学にもお呼びがかかってるってわけ。亀川さんなんてどうかなと思ってさ」
 ブライダルファイブは都子も知っている。今が旬のブライダルショップの中でも結構人気のある会社だ。ドレスのデザインが自分の好みなので、街中で店を見かけるとついウィンドーを覗いてしまう。
 ただ、隣で知らぬ顔をして立っている鶴田に気遣って、素通りしてしまうのだが。
 智恵が都子の代わりに身を乗り出した。
「その話って、直接山崎教授のゼミに行けばいいの? それとも学生課を通した話なの?」
「山崎教授の所へ行けばいいわ。三時にファイブのオーナーが来るから。私も呼ばれてるのよ、素材がいいからって」
 良美は最後の一言を強調した。智恵が咄嗟に晴れやかな顔をして見せる。
「じゃ、都子ならバッチリだわ。薄化粧でこれだけ美人なんだもの。ちゃんと化粧するとモデル顔負けよね。スタイルも細身だけど出るところは出てて、女性らしい体型だし。背も鶴田くんと並んで丁度いい高さがあるし。鶴田くんもきっと都子を見たいと思うわよ」
 暗に、良美が厚化粧だということと、鶴田は都子意外見ないということを言って、智恵は良美を無視して都子にモデルになるよう勧めた。
 良美は智恵の態度に憤慨して、一言何かを言い捨てるとそのまま退散して行った。
「気にしなくていいよ、都子。どうせ自分がそのショーに出るのを自慢したいだけだと思う。鶴田くんのことだって、勝手に言わせておけばいいのよ。あんな大きな指輪をくれるパパがいるんだから、それを捨ててまで鶴田くんを取るとは思えない」
「でも・・・、鶴田くんが三枝さんを選んだらどうするの」
 都子が小さな声で言った。智恵が安部のマの抜けた顔を真似る。
「鶴田くんは、あんな女を選ぶようなバカな男じゃないわよ。だって、保の親友だもん」
 ここまではっきり言われて思わず苦笑で受ける都子に、智恵がショーの話をせっついていると、いつの間にか傍に安部と鶴田が立っていた。
「何がどうしたの」
 安部がデレッと顔を伸ばして智恵に近づいた。智恵は良美がした話を聞かせた。
「へぇ、ウェディングドレスか。いいかもしんない」
 安部があっさり言うと、隣で鶴田が神妙な顔になっている。
「山崎教授はいいけど、話を持って来た奴が気に入らないな」
 都子の横顔が微かに動いた。
「何言ってるの、鶴ちゃん。亀川さんのウェディングドレス着たとこ、見たいと思わないのかね?」
 頭っから良美を気に留めていない安部が、鶴田の顔を覗き込んだ。案の定鶴田の顔が赤くなる。
「そりゃ・・・まぁ」
 見たくないわけがない。デートで時折見かけるブライダルショップの前で立ち止まる都子を見る度に、そのウェディングドレスを着た彼女の隣に立つのが自分であればと思う反面、本当に自分で良いのかと自問自答した挙句に一人勝手に凹んでそっぽを向いてしまう。
 都子ならきっと可愛い花嫁に仕上がるだろう。はっきりとした目鼻立ちがまだ幼い雰囲気を残しているのが、一転して大人っぽくなるだろう。見える限りでは肌も白く滑らかだ。見えない所はもっと綺麗かもしれないと、イケナイ想像をついしてしまいそうになる煩悩を抑えるように、鶴田は自分の口元を押さえた。
 都子は鶴田の反応をあまり良くは取っていないようだが、ショーのモデルを聞いてみる気にはなったようだ。
 安部がにんまりと笑って手を打つ。
「で、決まりだね。三時になったら、山崎教授のとこへ行こうぜ」

 行ってみると、山崎のゼミには彼の助手である湯川と見知らぬ中年男性がいた。
 大柄で恰幅のいい身体を高級スーツで包み、常に穏やかな表情を保っているという感じだ。
「紹介しよう。ブライダルファイブのオーナーをやっとる余(よ)越(こし)洋(ひろ)通(みち)だよ。私とは大学の同期でね。以来親友というわけだよ」
 山崎が笑顔を浮かべる。
 鶴田たちの挨拶が終わり、皆がパイプ椅子に落ち着くと、余越がにこやかに都子を見た。
「それで、出演してくださるのはそちらのお嬢さんですか?」
 余越の持って来たファイブのパンフレットをのぞいていた都子が顔を上げた。
「簡単なことですよ。ドレスを着て、会場を歩いてもらうだけでいい。モデルは二十人程度ですが、中々思うような方に会えなくて苦戦しているのですよ。貴女のような方に是非やっていただきたい」
 余越は眩しそうに目を細めて都子を見つめている。
「いつやるんですか」
 安部が問うと、余越が困ったように肩をすくめて、申し訳なさそうにした。
「突然なんだが、今週の日曜日だよ。前夜祭が土曜日にあるんだが、それにも出演してもらいたいんだ」
「それは、急ですね」
 鶴田が言うと、また余越が苦笑した。
「こちらとしては宣伝上多くの女の子に出演してもらいたいし、当初よりも出品作が多くなりそうなのでね。それで急遽山崎の所に頼みに来たというわけですよ。山崎には本当に助けられてばかりで恐縮なのだけど」
 申し訳無さそうに肩をすくめると、山崎は屈託なく笑って椅子に寄り掛かる。
「若い人に夢を与える仕事、とお前が言うのだ。出来ることがあれば手伝うよ」
「私たちは、湯川先生から聞いたっていう女生徒に誘われたんですけど」
 智恵の言葉に余越が一層笑顔を作る。
「ほう」
 余越が軽い流し目で湯川を見た。湯川が恐縮するようにおどおどと後ずさる。山崎教授の実の甥である湯川は、あまり面白くない授業をすることで有名だ。覇気に欠け、どこか陰に籠もったような三十代であるが、その羽振りの良さと教授の親戚ということで、学内では一応の面子は保っていた。
 当たり障りのない会話が続き、都子と智恵が余越と雑談を交わしていると、三枝良美が入って来た。
「あら、やっぱり来てたのね」
 馴れ馴れしい態度がその場の空気を濁したが、そんなことが分かるわけもなく、良美は湯川の傍に腰を下ろした。
「目ぼしい子は当たってみたわ。その気になったら、湯川先生の所へ行ってって言っといた」
 すでにしな垂れかかる雰囲気の良美に、余越が声をかける。
「キミがこのお嬢さんを紹介してくれたのかね。それで他の方々はどうだね。来てもらえそうかね」
「来ると思うわよ。だってウェディングドレスなんて、そうそう着れるものじゃないし、しかもショーに出れるなんて」
 いつもの調子で話す良美の手に、余越の視線が止まった。
「ほう、いい指輪をしているね。これはどこで買ったのかね」
 声のトーンに反応したのは鶴田と湯川だ。湯川など、急に視線を伏せて震えている。
 良美がまた見せびらかすように、手の甲を差し出した。
「もらったのよ。金額は知らないけど、相当値打ちモノだと思うわ」
 余越が良美の手を取って聞いている。
「そうだね。しかし、学生さんがするようなものではないよ。デザインが派手すぎるし、石も大きすぎる。キミのような華やかな人には却ってシンプルなものの方が似合うと思うのだが」
 話は良美の指輪一色になった。安部と智恵が興味無さそうにしている。鶴田は横目で都子を見たが、案の定都子の顔は強張ったままだ。
 安部が早々に立ち上がった。
「ほんじゃ、俺と斉藤は行きます。山崎教授の東洋文化史のレポート提出は来週でしたよね。俺、傑作を書きますから、単位のほうをよろしくお願いします」
「出席日数のギリギリの生徒は、相当頑張らんと無理だね。せいぜい本を読むことだ、安部くん。他人のものを写しても、すぐにバレるんだから」
 安部はおどけて返事をすると、智恵を伴って出て行った。
「それじゃあ、私も行きます。やはりショーはやめておきます。恥ずかしいから」
 都子が遠慮がちに言って席を立った。良美の指輪に見入っていた余越が慌てて立ち上がり、都子の方を向いた。
「いや、そう言わず出演してください。こちらとしては、一人でも素敵なお嬢さんにいてもらいたいのです。あなたならきっとドレスも宝石も映えるでしょう」
 とにかく連絡先だけでもとせがまれて、都子は携帯電話の番号を伝えると、早々に退散した。
 その後を追うように、鶴田も出てくる。
 廊下には誰もいない。
「出るのか、日曜日」
 彼女の顔色を窺うと、都子は避けるように歩き始めた。
「いい加減にしろよ。俺だってお前を真っ先に乗せたかったんだ。でも仕方ないだろ。あの時、俺が三枝を送らなかったら、あいつは雨の中で一時間もバスを待たなきゃならなかったんだ。それでも都子は放っておけばいいって言うのか」
 鶴田の知っている都子なら、理解すると思っていた。しかし、返ってきたのは冷たい拒絶である。
「聞きたくないのよ。どうだっていいわ。あなたの隣に座るのは、私じゃなかっただけだもの」
 思わず鶴田は乱暴に都子の腕を掴み、自分の方に強引に引き寄せた。
「いい加減にしろ」
 聞いたことのない怒声が間近に聞こえ、都子を脅えさせる。
「いや」
 顔を背け、両腕で鶴田を避ける都子の頬に涙が流れた。
 初めて見る泣き顔を見て怒りのやり場を無くし、締め付けられる胸の奥にやり切れない想いを押し込めるようにして、鶴田は都子から少し離れる。
「分かったよ。もう何も言わない、何もしないから、アパートまで送らせてくれ。一度でいいから」
 鶴田はそれだけ言って先に歩き始めた。その後ろ姿が苦しんでいる。
 都子はただ、引かれるようにその後をついて行った。

 黒いBMWの中はすべて都子好みだ。これを選んだのは二人だったが、鶴田は出来る限り都子の意見を聞き入れた。都子を乗せる為に買うのだからと笑って言った鶴田が今、無表情で助手席を開ける。
 助手席に座った都子はすぐに気付いた。
「これは」
 手元のCDを見つめる。運転席におさまった鶴田が力なく笑った。
「お前の好きなショパンだよ。いつも言ってただろ、たまには静かな曲がいいって」
 普段ロック系しか聴かない鶴田に、都子はよくクラシックを薦めた。特にショパンは都子のお気に入りである。
「これ、三枝さんと聴いたの?」
 都子は小さく問う。鶴田がゆっくりとアクセルを踏んだ。
「聴く訳ないだろ。それはお前のだ。大体あいつを乗せて走ったのは十分だぜ。音楽聴くどころか、話す暇だってなかったよ」
 鶴田はあえて運転に専念した。CDを見つめて俯いている都子が、もう一つ問う。
「キスのことは?」
 問わずにはいられない一言が、鶴田に届いた。
 鶴田の表情は変わらない。
「知らないよ。そんなこと」
 それ以上の答えはない。都子が何か呟いて、そのまま外の景色を遠い目で眺めた。
 都子のアパートの前で、鶴田は車を停める。このまま帰したくはない気持ちが、鶴田の表情を強張らせている。
「送ってくれて、ありがとう」
 都子は小さく言うと、ドアに手をかける。帰りたいわけではない。否。引き止めて欲しかった。しかしそれを口にすることは、今日一日鶴田を傷つけた自分には許されないことだ。
「本当にありがとう。・・・さようなら」
「それって、別れようって言ってるのか」
 鶴田が唸るように問う。都子はドアにかけた手を膝の上に戻した。
「分からないの。今はどう言えばいいのか分からない。ただ・・・」
「ただ?」
「今は何も考えたくないの。このままここに居座る自分なんて許せない」
 鶴田は都子の横顔を凝視した。何かが変わろうとしている予感がした。いままで何度もあったケンカとはまったく違う何かが、二人を変えようとしている。
 鶴田は言った。自分の心が届くように、真剣な表情で言った。
「明日はコンサートに行く予定だったな。図書館で待ってるから、もし気が変わってなければ来てくれ。ずっと、お前だけを待ってるから」
 都子の答えはない。鶴田もあえて聞かなかった。
 答えは明日、きっと出るはずだから。

2.火曜日

鶴田は待った。
 滅多に見れない鶴田のスーツ姿を安部が隣で囃し立てたが、そんなことなどまったく気に留めていないようだ。ただ一心に図書館の入り口を見つめている。
「鶴ちゃん、かなり本気だね。一線を越えてもいいと思ってんの?」
 無表情の鶴田に安部が苦笑する。ダブルのスーツが細身の身体を一層細く見せて、鶴田を小さく感じさせる。見ようによっては鶴田が臆しているようにも見えるのだ。
「鶴ちゃん、一つ賭けでもしないか」
 安部が軽い口調で言う。
「賭けって」
「だからさ、そうだな。もしここに亀川さんが来て、耳にお気に入りの青いイヤリングしてたら、鶴ちゃんの気持ちを行動で示す。もしイヤリングが青でなければ、今日はおとなしくアパートへ引き上げる。俺は負ける方に今日の東都ホテルのダブルを一泊、朝食付きってヤツを賭けるよ」
 安部がレポート用紙に『GO』と『STOP』を大きく書き込んだ。
 鶴田が、半分諦めた顔で椅子に沈む。
「お前も、キツイね」
 鶴田は冗談を言うように顔を歪めた。お互いの気持ちを確かめる方法は他にいくらでもあるのかもしれない。たが今の鶴田は、安部が智恵と接するように、都子に対して接したかった。都子が憧れていたデートコースを一度でいいから自分のエスコートで歩かせたかった。そして都子を力の限り抱き締めたかった。
 しかし、賭けは負けるだろう。都子のサファイヤのイヤリングといえば、彼女が失うことを恐れて、決して身につけようとはしない宝物だ。
 それを着けてくるとはとうてい考えられないし、おそらく安部はそれを承知で言ったのだから、結局今日のところは先週の埋め合わせが出来ればよしとしろと言いたいのだろう。
「安部が勝つのは分かってることだからさ。食事が終われば、おとなしく帰るよ」
 苦笑で鶴田は右ストレートをゆっくりと安部に繰り出す。それを安部が片手で受け止めて、笑った。
「さて、果たしておとなしく帰れるかな」
 そう言って指差す方向に、智恵が現れた。
「遅くなってゴメンね。授業が長引いちゃって」
 いつものように安部に近づく智恵しか視界に入らず、鶴田が項垂れた。やはり都子は来なかったのか・・・。
「保、見て見て。都子ったら、すんごく綺麗なの。都子にはブルーがよく似合うけど、今日はとびきりでしょ。サファイヤのイヤリングがポイントよ」
 智恵がはしゃぎながら、自分の後ろに隠れている都子を、安部に見せるように鶴田の前に引っ張り出した。
 安部がニヤリと笑って、目を丸くしている鶴田を見た。
「やっぱり青いイヤリングだね。鶴ちゃんの勝ちということで、俺が東都ホテルに予約しといてやるよ」
 安部がまるで賭けに勝ったように笑いながら、レポート用紙に書いた『GO』を大きな丸で囲む。勝ったはずの鶴田の方がたじろいだ。
「東都ホテルで食事するなんていいじゃない。あそこのスカイラウンジから見た夜景はバツグンよ。私と保もよく行くのよ。都子も目一杯楽しんでおいで。夢にまで見たデートコースなんだから」
 そう言って智恵は都子を鶴田の方へ押し出す。綺麗に化粧をした都子がほんのりと赤くなりながら、鶴田の前に立つ。恥ずかしそうに俯いているが、逃げることはないようだ。
「さて、揃ったところで出発しろよ。コンサートに行くんだろ、あの新品のBMWでさ。くれぐれも飛ばし過ぎるんじゃないよ、鶴ちゃん」
 色々な意味を含んで、安部が満面笑顔である。
 鶴田がその首をガッシリと羽交い絞めにして、照れくさそうに笑う。
「じゃあ、行ってくるよ」
 都子も、智恵に励まされるように笑顔で見送られ、二人は特に話をするわけではないが、それでも同じ速さで図書館を後にした。
 残った安部と智恵が、ハモるように大きく息をついた。
「やったね」
 安部が明るく笑って、智恵にOKサインを出す。
「何?」
 智恵が笑顔で問うと、ウィンクが返ってきた。
「何でもないよ。きっといい日になるさ」

 コンサート会場までのBMWの中で、二人は沈黙を楽しんだ。お互いがいつもと違う雰囲気なので、何を話せばいいか分からないし、話したところでお互いを褒める言葉しか出そうにない。
 都子はサファイヤに合わせた青い鮮やかなスーツに身を包んでいた。すっきりとしたデザインが、彼女のスタイルや白い肌に良く似合い、細く長い足を綺麗に揃えて座っている姿は絶品だ。時折信号に引っ掛かって止まっている間、鶴田は横目で彼女を見たが、どうも視線が首筋や胸元にいってしまうので、早々に自制した。これから聴きに行くショパン様に申し訳がない。
 都子も隣が気になるものの、やはり恥ずかしいのか、ジッと窓ガラスの向こうを見つめていた。
 ショパンのコンサートは、都子のお気に召した。うっとりと聴いているその横で、鶴田は静かに眠っている。その頭を都子の肩に乗せ、時折顔を上げて聴いているフリをするが五分ともたない。結局、演奏中のほとんどを都子の肩を枕にして過ごしたことになる。
「今度は、モーツァルトでも聴きに行こうか」
 ロビーに出て一息つくと、鶴田は都子を気遣ってそう言った。
 都子が笑う。
「私じゃない隣の人の肩を枕にしないって誓うなら、モーツァルトもいいわ」
「え、俺、知らない人に寄りかかってたのか?」
 自覚のない鶴田が青ざめる。これは相当ヒンシュクを買うものだ。都子が屈託ない笑顔で頷いた。
「たった一度だけね。私がすぐに引っ張ったのだけど間に合わなかったの」
 その時の鶴田の居眠りでも思い出しているのか、都子は久し振りに声を出して笑っている。
 鶴田が、その笑顔を見つめる。
「何か、顔についてるかしら」
 いつもより入念に化粧をしているのが気になっている都子は、少し不安そうに問うた。
 鶴田が赤面して視線を逸らす。
「いや、綺麗だなと思って」
 歯の浮く台詞が都子の耳に届く。暫しの沈黙は、思考が止まっているせいだ。
「それじゃ、行こうか。東都ホテルのスカイラウンジに予約を入れてあるんだ。時間が少し早いから、ベイブリッジの辺りをドライブして行こう」
 鶴田はそう言いながら、躊躇いがちに腕を出した。腕を組んで歩くかどうかは、都子に選んでもらいたい。無理強いは嫌だが、離れて歩くのは少々寂しい。
「そう言えば、腕を組んで歩くのも初めてね」
 都子は躊躇わず鶴田の腕をとった。肩が目線よりも上にある。
「手もあまりつながないな」
 改めて鶴田は認識する。軽いキスが数える程度というのは頭の中にあっても、腕を組んで歩いたり手をつなぐなどは、あまり考えたことはなかったように思う。
「そうか、こういう歩き方もあったのか」
「今日は、全部『初めて』ね」
 都子がお道化て言うと、さすがに鶴田は赤面して、大きな手で顔を半分隠した。

 ベイブリッジは先客が多く、結局素通りした。
 もうじき東都ホテルという辺りで、都子は見たくないものを見てしまった。
「三枝良美と湯川先生」
 苦手な女が大学講師と歩いている。
 湯川正光は山崎教授の甥っ子で、教授の助手でもあった。鶴田などは学科担当の講師とあって親しくしているし、選択科目で山崎の授業を取っている都子は、時折山崎のゼミに行くので顔くらいは知っていた。
 しかし、ブライダルショーの話にしても、湯川の授業を取っていない三枝良美が、どこでどう湯川と繋がっているのか分からなかった。
「湯川さんがどうかしたのか?」
 ハンドルを切りながら鶴田は問うが、都子はなんでもないと返して黙った。
 BMWをホテルの駐車場へ入れて、二人はロビーに入った。
「少し待っててくれ。安部に頼まれているんだ」
 適当に誤魔化して、鶴田はフロントへ向かう。安部は約束した通りの部屋を取っていた。代金も払ったということだ。一応の手続きを済ませ、鍵となるカードを受け取って胸ポケットにしまうと、鶴田は照れ隠しにサングラスをはめた。
「何一人で気取ってるの?」
 理由を知らない都子がからかう。心の底から笑っているのが分かった。鶴田も努めて明るく振舞おうとする。
「見栄っ張りとでも呼んでくれ」
 サングラスを指で下げて言った時、一人の男が目に入った。ホテルの従業員のような男と二人で何かを打ち合わせているようだ。
「あれ、どっかで見たような気がするんだけどな。誰だっけ」
 思い出せそうで、出せなかった。
「エレベーターがきたわよ」
 都子が促す。
 その男のことは、それきり忘れてしまった。

 都心を見渡せるようにガラス張りのエレベーターがゆっくりと上っていく。美しい夜景が段々広がっていくのを、二人は無言で楽しんだ。
 スカイラウンジは満足できた。各テーブルにはほのかなランプの光が揺らめいている。二人が案内されたテーブルは窓辺で、夜景が一望できた。ボーイが畏まってメニューを伺う。コース料理は、オードブルから最後の飲み物まですべて二品か三品のうちから選べるようになっていた。
「こういうのって、初めて」
 メニューが決まり、一息ついた都子が、ナフキンを膝にかけながら肩をすくめる。どうやら緊張しているようだ。
 鶴田も内心焦っているが、あえて引き立たせるように笑った。
「たまにはいいだろう。夜景を眺めながらフルコースなんて、そんなに頻繁には連れて来てやれないけどさ。安部とかはよく来るらしいけどね」
「知ってる。智恵からいつも聞かされてるから。昨日はどこへ行ったとか、何を買ってもらったとか」
「へぇ」
 デートといえば居酒屋で、飲み代くらいしか負担していない鶴田に比べれば、マネな安部はお抱えの魔法使いのようなもんだろう。
 鶴田は少し肩を丸めた。
「じゃ、土曜日のことは怒られて当然だな」
 BMWの初乗りは、鶴田にとっても手痛いミスであった。
「それはもういいわ。今日乗せてもらったから充分」
「これからだって乗れるよ。都子が望めばいつだって」
 いつになく優しい声になっている。都子が少したじろいで、赤くなった顔を伏せた。
 食事の用意が整い、オードブルの皿が来て、飲み物が注がれた。一応、『帰り』も考えて、ノンアルコール。鶴田がグラスを持って差し出す。
「乾杯」
 都子も笑ってグラスを差し出した。
「乾杯」
 照れながら言い返し、ゆっくりと食事を始める。
 次から次へと変わっていく皿に目が回り、鶴田がメインディッシュを前に休んだ。
「そう言えば、ブライダルショーに出演する話はどうなったんだ」
 グラスに口を近づけながら、鶴田は都子を見つめた。緊張が緩んできているのか、鶴田の目が少しとろりとしている。
「いい話だと思うけどな」
 できれば一目都子がウェディングドレスを着たところを見たい。都子が苦笑する。
「ブライダルショップを避けて通る人の言葉には思えないわ」
「? 俺がどうして避けて通るの?」
「知らないわ。でも私がウィンドーを覗いていると、決まってあなたはそっぽを向いてるわ。似合わないから止めとけって感じ」
 都子は鶴田から視線を逸らせてジュースに口をつけた。
「・・・そんなふうに思ってたのか。まいったな」
 傍を通るボーイに冷たい水を頼みながら、鶴田が笑う。
「あれは、似合わないって意味でそっぽを向いていた訳じゃないんだ。ただ、着せてやりたいと思っても、俺がそんなことしていいのかなって――」
「・・・鶴田くんの為に着てもいいってことなの?」
 都子は小さく問うた。
 鶴田は言葉なく、胸ポケットからあるものを取り出すと、目立たぬように都子に差し出した。
 それは安部が用意した、今夜の鍵である。
 都子がそれを手にしたまま動かなくなる。カード型の鍵には小さな文字で部屋の番号が打ち込まれ、出発日には明日の日付が入っている。今夜一夜限りの鍵である。
「嫌ならキャンセルするよ。無理強いはしたくない。食事が終わるまでに、考えて欲しいんだ」
 後は何も言えない。
 デザートとコーヒーを流し込んで、鶴田は黙った。都子はカードキーを膝に置き、ゆっくりと考え込むように手を動かしながら、じっと無言で視線を落としていた。
「出ようか」
 鶴田は立ち上がった。安部には悪いが、キャンセルすることにした。
「遅くなって悪かったな。アパートまで――」
 『送る』の言葉は出なかった。
 都子が鶴田の傍に立ち、そっとその大きな手に鍵を渡す。
「都子・・・」
「鍵を開けるのは、男の子の役目だと思う」
 一瞬視界がぼやける。俯いている都子の手が、鍵と共に自分の手の中にあった。
「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
 ボーイの晴れやかな声が、一層心地よく感じられた。鶴田は都子から鍵を受け取ると、彼女の背に腕を回す。
「行こう」
 都子は黙って頷いた。

 エレベーターがゆっくりと下りていく。先程一緒に乗っていたカップルが、さんざん見せ付けてくれた上で途中の階で降りていった。自分たちも、彼らからみれば同類だろうと思うと、何となく恥ずかしいのと怖いのが混同してしまい、都子は鶴田の腕から離れた。ガラスの向こうに輝くネオンも、眠る時間を告げるように細くなっているように見えた。
「やっぱり帰ろうかな・・・」
 心細くなって呟くと、突然身体が浮き、唇を塞がれた。
 鶴田の広い胸に押し付けられるように抱き締められ、激しいキスが思考を鈍らせる。エレベーターの下りていく浮遊感と、つま先さえも床から離れているせいで、都子は全身を鶴田に預ける形になっていた。
 実際は三十八階から二十二階に降りるまでの短い時間であるのに、二人にはそれが永劫のように長く感じられた。
 エレベーターが減速する。圧迫感を感じて、鶴田は都子をそっと床に下ろした。大切なものを扱うようにゆっくりと腕の力を抜いていき、一度唇を離した後、謝るように軽くキスした。
 エレベーターが止まる。
「帰さないよ」
 足元のおぼつかない都子を抱えるように支えて、鶴田は低く笑って脅した。
 都子が何か答えようとして、やめた。
 エレベーターが開き、思わず都子は鶴田に抱きついて絶句する。
 エレベーターの戸口に立っているのは、全身黒尽くめの大男である。纏っている雰囲気が尋常でなく、鶴田は咄嗟に都子を庇うように仁王立ちになった。
 しばし、エレベーターの中と外でお互いを見た。
「下へ降りるのだろう」
 大男が地の底から聞こえるような低い声で鶴田に問う。鶴田は黙って頷くと、都子を連れてエレベーターを出た。すれ違いざまに感じた殺気は、鶴田の背に残った。
 大男がエレベーターの中に消えると、都子が気を抜いて呟いた。
「怖かった」
 それが都子の印象であった。鶴田の胸に掛かる都子の手が、微かに震えてるのが分かった。鶴田は部屋へ向かいながら、やはり先程感じた殺気を振りほどけずにいた。
「ヤバそうなヤツ」
 何か嫌な予感がする。フロアは一見静かで何事もないかのようだが、どこかで誰かが焦っているような気がしてきた。
 カード型の鍵をかざしてドアを開ける。都子を先に入らせ、自分は後ろ手にドアを閉めかけて、止まった。
 湯川・・・。
 目の前の部屋から飛び出して来た、服装と足取りの乱れた男の後ろ姿は、確かにどこかで見たことのあるものだ。
「まさかな。こんな所で湯川に会うはずはない」
 鶴田はあえてそう結論づけてドアを閉じた。

「どういう心境の変化なんだ」
 窓際で、注文したワインを片手に立っている鶴田が、部屋の中を見た。都子が柔らかな椅子にちょこんと座って畏まっている。落ち着かない様子で、目前のダブルベッドを気にしているのが可愛かった。
「そのサファイヤのイヤリング、あんなに着けるのを嫌がってたのにどうしたの」
「そんなに似合わないかな」
 都子が不満そうに問い返す。鶴田が苦笑した。
「いや、そういう意味じゃないよ。ただ、意外だったからさ。よく似合ってると思うよ」
 そう答えると、都子が少し表情を崩す。
「これは昨日、智恵と相談してつけることにしたの」
「へ」
「このイヤリングはね、とっておきの日に着けようと思ってたの。でも、いざって言う時には何だか気後れして着けられなくて・・・。昨日智恵に電話して、このイヤリングにしていいかどうか訊ねたの」
 智恵との会話でも思い出しているのか、都子は楽しそうに肩をすくめる。
 一方鶴田は目がテンだ。
「それで、安部はそのことを知ってたのか? 今日、都子がそのイヤリングをして来るってことを――」
「知っていたと思うわ。だって、智恵の傍で私達の会話を聞いてたはずだから」
 鶴田が呆気にとられた。安部は知っていて賭けの話を持ち出したのだ。
「まったく、あいつには負けるよ」
 満足そうな微笑が漏れた。安部とは高校時代からの付き合いだが、まるで勝てる気がしない。鶴田は手に持っていたグラスを机に置いて、都子に近づいた。
 都子が硬直して息を呑む。
「怖いのか?」
「ん・・・。少し」
 そう答えながら、都子は瞳を閉じた。都子の座っている椅子の肘掛に手を乗せて、鶴田は身体を傾けた。
「山崎教授がこんな時のコロシ文句を教えてくれた」
 鶴田は囁きながら、都子の顔を軽く指で支え、近づいた。都子の唇が震える。
「何?」
「『キミだけを、愛している』」

 いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ。

 突然の悲鳴で鶴田は目標を謝りずっこけた。都子も瞳を大きく見開き、微動だにしていない。
「今の声、都子か?」
 辛うじてそう問う鶴田に、都子は激しく首を振った。
「違うわ、私じゃない。私、嫌だなんて言わないもの」
 と早口で言った後、都子はしまったと心の中で呟いて口を覆った。鶴田が言葉の意味をあえて問い質そうと思ったが、それどころではないようだ。
 どうやら声は廊下からのようだ。相当大きな声だったためだろう。そのフロアの部屋にいた者が次々と廊下に顔を出して誰何しているようだ。
「誰なんだよ、他人のコイジを邪魔するヤツは」
 ブツブツ言いながら、鶴田はドアを開いて怒鳴ろうとして、・・・止めた。
 目前の部屋のドアを開けたまま、ホテルの女性スタッフが座り込んで震えている。
「どうしたんだ」
 数名の見物人の見守る中で、鶴田は彼女に近づいて問う。都子も廊下に顔を出した。
 女性は口も利けないほど動転しているのか、ただ口をパクパクさせるだけで部屋の中を指差した。
「何かあるの?」
 彼女を支えている鶴田に代わって都子は気丈にもその部屋に入って行き、悲鳴を上げた。
「都子!」
 驚いて都子に駆け寄った鶴田が絶句する。
 そこにあったのは、一つの死体。衣一つ纏わず、その白い身体を青い絨毯の上に投げ出した女であった。
 都子の目がその女の顔から離れない。
 確かにうつ伏せている女は背中を見せているのに、その上についた頭は後頭部ではなく顔だ。首が一八〇度回転しているのだ。そして、その女は・・・。
「都子、見るな。出るんだ」
 鶴田は都子を抱えてその部屋から出た。さすがに青ざめているが、判断力を失うほどではない。
 部屋のドアを閉め、腰を抜かしている女性スタッフを無理矢理立ち上がらせる。
「このことをすぐに誰かに知らせて、警察に来てもらうんだ。いいね」
 そう言い含めて、その場に居合わせる数人に部屋に戻るよう言って、自分もまた部屋に入った。
「大丈夫か、都子。まさかあんなことだとは思わなかった」
 震える身体を一心に抑えようとしている都子を抱き締めながら、鶴田は呻いた。目の当たりにしたのは、惨たらしい死体であった。伏せていたのならまだ良かったのかもしれない。死に顔が安らかならばまだマシだった。
 しかし、死体は全裸で背中の上に顔。その死に顔はまるで魔物にでも出会い恐怖をこびり付かせたまま死んだという表情だ。
 そして、その女は・・・。
「三枝さんだったわ」
 鶴田の胸に隠れるようにうずくまり、都子は叫んだ。
 三枝良美。
「都子、忘れるんだ。今だけでいい、考えるな」
「でも、三枝さんなのよ。三枝さんが殺されてるのよ。どうして・・・・」
 混乱しているのだろう。同じ言葉を繰り返す都子を強く抱き締める鶴田の脳裏に、目前の部屋から逃げ出した湯川に似た男の影が浮かんで離れなかった。

3.水曜日

東都ホテルを管轄に置く坂北署の刑事課は、捜査を開始した。
 ホテルの夜は物々しいものとなった。多くの警察官が右往左往し、鑑識が死体の転がる部屋を隅から隅まで調べている。
「すっげ―。首がめっきり折られてるじゃないか。怪力だなぁ」
 刑事課勤務の室戸が、満面笑顔で感嘆符を打った。隣で上司の伊達部長刑事がしかめっ面で咎める。
「そんなことを楽しそうに言うんじゃない。大体お前は緊張感が足りないんだ。もっと、しゃきっとしろ」
 いつもの説教を聞き流しながら、室戸は全裸の死体に見入った。
「ま、ダブルの部屋だから、男がいたんでしょうね。それらしい痕跡がないってことは、男は殺すだけ殺して逃げたってことですかね」
 その後に『もったいない』と小さく付け加えると、鬼の上司の一睨みが飛んできた。ふと、死体の指に目を留めた。何かで強く擦ったような痕がある。
「何か、つけてたのかな」
 どうでもよさそうな声でそう言って、室戸は伊達を見た。伊達は一層不機嫌だ。
「いつまで女の裸を見てるんだ。他の者は、とっくに行ったぞ」
「行ったって、どこへ?」
「聞き込みに決まってるだろう。お前も行って来い」
「そう言えば、伊達さん。第二発見者で、警察がここへ来るまでの指示に参加してた大学生ってのは、どこにいるんですか。俺、ちょっと話がしたいな」
「この部屋の目前のダブルにチェックインしてるぞ。彼女と一緒にな」
「いい身分だな。邪魔してやる」
 時計の針が日の出を示しているのを確かめて、室戸は足取りも軽く出て行った。

 鶴田はダブルベッドの端に腰を下ろして、眠っている都子の寝顔を眺めていた。
 都子はつい先程まで警察の質問に答えていたが、その最中に夜食べた物を吐いてしまった。かなり興奮していたこともあり、気休めの胃薬を飲ませて寝かせた。警察もそれ以上都子に尋ねることはないと思ったのか、介抱を鶴田に任せて行ってしまった。
 鶴田もまた早々に尋問を受けたが、死んでいるのが同じ大学の学生であること意外は話さなかった。おそらく大学関係者としてもまた何か訊かれるだろう。今は何も言いたくない。自分でも何がどうなっているのか分からないからだ。
 ただ一つ、湯川に尋ねることがあるということだけは分かっていた。
 チャイムが鳴る。都子が薄っすらと目を開けた。
「どなたですか?」
 鶴田は至って丁重にドア口で訊ねた。刑事だという答えが返ってくる。
「尋問の続きはまたということだったでしょう」
 ドアを開けながら鶴田が迷惑顔をして見せたが、相手には通用しなかったようだ。
「まぁまぁ、そう言わず話しましょう。彼女の方はどうですか。吐いたって聞いてきたんだけど」
 室戸は遠慮なくズカズカと入ってきて、都子の寝ているベッドの横に椅子を一つ持って行くと、そのままそこへ居座った。乱れた服を調えている都子を、笑って眺めている。
「どうですか、まだ顔色が悪いようだ。無理もないですけどね、ああいう死体じゃ俺だって嬉しくない」
 あっけらかんとして室戸が言う。鶴田が都子を庇うようにベッドの端に座って威嚇した。
「むやみに怖がらせるのは止めてくださいませんか、刑事さん。相手は女の子なんですから」
「女の子をこんな所へ連れ込む方が感心しないね。ま、ベッドが乱れてないところを見ると、コトに至る前に事件が起こったって感じだな。ご愁傷様」
「関係ないでしょう、それとこれは。大体目前の部屋で殺人が起こって、しかも死体の方が同じ大学の学生だって分かってたら、こんな所には泊まりませんよ」
 鶴田が言い返す。
「そりゃそうだ。俺だって、こういう偶然は避けて通りたいよ。で、偶然がどこまでかってことだけどさ。何か気に掛かることとか、物音とか人物とかには思い当たらないかな。言ってくれるとこっちは手間が省けていいんだけどな」
 鶴田の言葉に動じた様子もなく、室戸が穏やかに笑っている。鶴田が仏頂面を背けた。
「気になる人物って・・・」
「そりゃ、変なヤツだよ」
「あの・・・」
 都子が遠慮がちに室戸を見た。
「私たちがエレベーターでこの階に着いた時、大きな男の人とすれ違ったわ」
「男? それってどんなヤツ?」
「黒尽くめで、背が高くて大柄な人です」
「ふ―ん。彼氏の方は覚えてないの?」
 鶴田を見る。子供っぽい表情の中で、瞳がキラキラと光っている。
「忘れてましたよ。そんなこと」
「ふ―ん。この階で殺人があって、そんないかにも怪しい男とすれ違ってて思い出さないなんて、変だね」
 鶴田は絶句した。湯川のことで頭が一杯だとは言えない。
「ま、いいけどさ。彼女・・・亀川都子さんだっけ。都子さんは、その男以外には覚えてないわけ?」
 背広の内ポケットから手帳を取り出す。その時、写真が何枚か落ちた。どれも高価な宝石を写したものだ。そのうちの一枚を見て、都子は顔色を変えた。
「その写真は?」
 見つめて都子が呟く。
「悪い。これ、強盗にあった宝石なんだ。近頃連続して三件の宝石強盗事件があっただろ。それって全部坂北署の管轄なわけ。これらは全部その被害にあった宝石。で、本当は殺人事件どころじゃないくらい忙しいんだけどね。この宝石がどうかしたの?」
 言いながら、室戸は都子に持っていた写真を渡す。情報は多い方がいい。都子は一通り目を通した後、鶴田を見た。
「これ、三枝さんがはめてたダイヤと同じ」
 都子は、最も高価な指輪の写真を一枚手にとって鶴田に渡した。
「昨日、山崎教授の所で話題になったでしょ。高価な指輪だって」
 鶴田はあの時の良美の指を思い出す。確かブライダルファイブのオーナーが絶賛した代物だ。
「そう言われれば、そうだ」
 では三枝良美は宝石強盗事件に関係しているとでもいうのだろうか。
「ふむ。被害者がこれを持っていたとはね。一石二鳥かもしれないな」
 良美の死体の指に擦った痕があったのを、室戸は記憶している。
「他には何か気づいたことはないかな。被害者が特に親しくしてたヤツとか、一緒にいるのを見かけたとか」
「あ」
「何。何かな、都子さん」
「三枝さん、私たちがこのホテルに入る前に湯川先生と一緒に歩いてたわ」
 都子は鶴田に言った。
「湯川と?」
 鶴田が眉間にシワを寄せる。
「湯川先生って、誰?」
 室戸が問い質すと、鶴田が都子を制して答える。
「大学の講師です」
「へぇ、講師と学生がね。珍しくはないが、興味深いものはある」
 どうでもいい口調で室戸は手帳に名前を書き込んでいく。
「本当に、湯川と三枝が一緒にいるところを見たのか?」
 鶴田が都子に問う。
「そうよ」
「見間違いじゃないのか。単にすれ違っただけなんだろ。こっちは車だったワケだし」
 咎められているようで都子が黙り込むと、室戸が鶴田の顔を覗き込む。
「何なの、彼氏くんは。その湯川って先生が被害者と一緒にいると困るワケ?」
「いや、そうじゃないけど」
「そうじゃないって感じじゃないけどな。ほれ、彼女が怖がってる。その湯川って先生に何かあるっていうなら、今言っといた方がいいな。どうせ隠し事なんてバレる為にあるものだからさ」
「なんでもないですよ。それより俺たちは、いつまでここにいればいいんですか。チェックアウトしないといけないんですけど」
 時計は確実に時を刻んでいる。すでに八時だ。
「チェックアウトの時間を延ばしてもらうよ。このフロアに泊まっている客全員にね。仮にも殺人事件が起こったんだ。協力してもらわないとね」
 室戸はあっけらかんと笑って見せて、都子にも言った。
「もう少し寝てるといいよ。外はうるさいだろうけど、気にしないでさ。昨夜ゆっくりできなかった分、せめて彼氏の傍にいてくれ」
 軽快な足取りで室戸が出て行くと、都子は鶴田の腕を掴んで引き寄せた。
「湯川先生が三枝さんと一緒にいたってことが、そんなにいけないことなの?」
「いや」
「でも、鶴田くん。一生懸命否定してたわ。私、もしかして言ってはいけないことを言ったのかしら」
 鶴田は答える代わりにベッドに寝転んで、目を閉じた。
「考えたって仕方ないよ。事件を解決するのは警察の仕事だ。一眠りしよう。今日は三限目があったっけ。出席できるといいな、湯川の文化思想史・・・」
 言っているうちに鶴田は眠ってしまった。都子もその横に寄り添うようにして目を閉じる。脳裏に浮かぶ三枝良美の死に顔を打ち消しながら、そのまま眠ってしまった。

 朝刊には間に合わなかったが、三枝良美の事件は学校中に知れ渡っていた。しかもその発見者が大学構内にいることも知れている。
 警察から解放されて二人で図書館まで来ると、安部が飛んで来た。
「鶴ちゃん、大変だったんだって」
 周囲を憚りながら安部は鶴田を捕まえて、隅の小さなボックスに連れて行く。残った都子を智恵が無言で支えた。
 安部は鶴田を椅子に埋めると、覆いかぶさるように小さくなった。
「東都ホテルで殺人事件が起こるなんて思わなかったよ。しかも三枝良美が殺されるなんてさ」
「俺だって、ああいう偶然は願い下げにしたかったよ。せめて都子にはあんな死体を見せたくなかったね」
「亀川さんも見ちゃったの。そりゃ災難だったね」
「それより、安部。湯川が三枝と付き合ってるなんて、聞いたことがあるか?」
「いや、知らないけど。まさか、湯川が三枝を殺したのか?」
「冗談。湯川に女の首を折るなんて芸当ができるとは思えないよ」
「げ、首を折ったのか」
 自分の首に手を当てて、安部が絶句した。鶴田が鋭い目を安部の首に向けた。脳裏に映っているのは、あの時目の当たりにした良美の死に顔だ。
「次の三限目は、湯川の文化思想史だ。その時訊こうと思ってさ」
「何を」
「昨日の、湯川のアリバイ」
 その答えに安部が呆気に取られる。
「いつから警察屋さんになったんだよ、鶴ちゃん。ヤバいことなら手を引いた方がいいよ。亀川さんも心配するだろうし」
 三回ヤバいヤマを踏んで数十億と言っていた男の台詞とは思えない。
「別にヤバくなんかないし、都子に害は及ばないぞ。ちょっと気になることを訊きに行くだけだからさ」
 鶴田はさっさと立ち上がり都子の所へ行くと、軽く肩に触れて、
「三限目が終わるまで、ここで待っててくれ。決して一人になるんじゃないぞ。いいな」
 言いたいだけ言うとさっさと行ってしまった。安部が智恵に苦笑して見せ、鶴田の後を追う。
「鶴ちゃん、ヤバくないって言ってそれで済めばいいけどさ。何だって警察のマネなんかしたくなったの。初めての夜を邪魔された腹いせか? それとも亀川さんに怖い思いさせた仕返しか?」
「両方だよ。悪いか!」
「いや・・・、悪くはないけどさ」
 安部はそれ以上言わないで、鶴田の後について三限目の教室に向かった。
 見送った智恵が都子を見る。
「都子、鶴田くんはどうしたって言うの」
 今一つ理解に苦しんでいるようだ。都子は鶴田の背を見送りながら、呟く。
「きっと昨日の事件のことで湯川先生に確かめる為に出席したんだと思う」
「昨日のことって? 湯川先生は三枝さんが死んだことに関係しているって言うの? 信じられない」
 智恵が大きく否定した。智恵の知っている湯川は、地味で決して人目につくようなタイプではない。まして三枝良美と関係があるとは思えないのだ。
「何か勘違いしてるんじゃないの?」
 智恵の大きくなった声を抑えるように、都子は図書館から連れ出して人気のない所へ隠れた。
「私は見たの。ホテルの駐車場へ車を入れる手前で、湯川先生と三枝さんが一緒に歩いてたの。その後は知らないけど、でも聞いてみる価値はあると思うわ。だから、鶴田くんは三限目の湯川先生の授業に出席するのよ」
 都子の真剣な顔に不安がよぎる。
「宝石強盗の犯人なんかと鉢合わせをしなければいいんだけど」
「宝石強盗って何よ。それと殺人事件が関係してるって言うの」
 信じられないともう一度喚いて、智恵が呆気に取られている。都子はそんな智恵の腕を掴んで、良美が指に嵌めていた指輪が盗品であることを説明した。
「智恵なら聞いてないかな。三枝さんがあの指輪を誰からもらったとか、誰と付き合ってたとか。クラスの子たちが話しているのを聞いてたら教えて欲しいの」
「教えてって言っても、三枝さんは女友達がいなかったでしょ」
「じゃ、誰なら知ってると思う? 木原くんとか萩くんとかは知ってるかな。よく一緒にいたでしょ?」
 早口で捲くし立てる都子を両手で制して、智恵は大きく首を振った。
「ちょっと待ってよ。そんなこと聞いてどうするつもりなの」
 段々焦ってくる都子が、智恵に宥められて一息ついた。
「まさか、都子。事件のことを調べようって言うの? だったら駄目よ。冗談じゃないわ。そんなことして危ない目にでもあったら、鶴田くんが暴れるじゃない」
「でも黙って見てられないわ。鶴田くんが湯川先生の方を調べるなら、私が三枝さんのことを少しでも知っておきたいの。少しでも鶴田くんの手助けがしたいのよ」
 都子の言葉に嘘はない。今にも飛んで行きそうな身体を押さえつけて、智恵の了解を待っている。智恵が諦めたように眉を動かして言った。
「分かった、協力するわ。どうせ保も鶴田くんと一緒に動くんだから、私だって黙っていられないし、私達が三枝さんの方から調べれば、鶴田くんの手間が省けるってわけだ。となれば即行動よ。掲示板へ行って、木原くんたちの取ってる授業を探そう。今日は必須がないけど、あの子たちは単位が危ういからきっと選択科目取ってると思う」
 言葉が終わらぬうちに、智恵は掲示板に向かって歩き出す。
「ありがと、智恵」
 都子が笑顔を浮かべて智恵の後に続いた。今更ながらこの親友には感謝する。彼女がいなければ、鶴田とはとっくにケンカ別れしていたし、こうして困っている時は迷わず手を貸してくれる。
「大好きよ、智恵」
 さっさと歩く智恵の腕を掴まえて都子が言うと、智恵が当然顔で答えた。
「どういたしまして。それより、昨夜はどうだったの」
 いきなりの質問。
「どうって」
「だから、鶴田くんとはどこらへんまでいったのか訊いてるの。キスの味は省くとして、ベッドには入ったんでしょ?」
 真顔で問う智恵に、呆然としてしまう。
「智恵、それどころじゃなかったのよ」
 真っ赤になって答えると、気の抜けた声が返ってくる。軽く頷きながら、
「そっか、それで鶴田くんってば機嫌が悪いんだ」
 納得。
「智恵!」
 喚いたところでどうなるものでもなかった。

 掲示板の前で時間割表を見ていたが、今日は選択科目が少なく、しかも単位を取りやすそうな目ぼしい授業はない。
「駄目だね。あのサボリ魔たちが取りそうな授業が一つもない。つまんないの」
 智恵がぼやいた。都子も同じ表情で掲示板を見つめる。せめて必須科目でもあればクラス全員が揃うので、誰でも捕まえて良美のことを問うこともできるのだが。
「何がつまらないのかね」
 突然聞き覚えのある声がすぐ傍から聞こえた。
「山崎教授」
「休講カードでも探していたのかね」
 気さくに話しかけてくる山崎の後ろに、ブライダルファイブのオーナーである余越洋通が立っていた。
 何でもないと空笑いで返すと、屈託のない笑顔が返ってくる。
「こちらとしては幸運だったよ。亀川くんを探そうと思っていたんでね」
「私ですか」
 都子がか細い声で問い返す。
「実はこいつがえらくキミを気に入ってね。ぜひ今週末のブライダルショーに出演して欲しいと言っているんだよ」
 山崎が苦笑しながら、余越に会話を譲る。
 先日、ゼミで会った際、携帯電話の番号は伝えたが、都子は着信を気にする方ではなく、またこのドサクサで履歴を見てもいない。余越は苦肉の策で、山崎を頼って大学まで再び来たというわけだ。
「ぜひお願いしたいのです。あなたに我が社のドレスを着ていただきたいのです」
「私は、あまり・・・」
 そんなことには関わりたくなかった。頭の中は殺人事件と良美の着けていた指輪のことで一杯である。しかし余越の方は乗り気で、都子に迫るように言葉を続けた。
「今、大変困っているんですよ。依頼していた女性が今朝殺されましてね」
「三枝さんのことですか?」
「そう。確かそんな名前だったな。彼女の抜けた穴を埋めたいのだが、適役がいなくてね。モデル会社にでも頼めばいいと山崎は言うのだが、私としてはどうしてもあなたに頼みたくてね」
 まぁ話だけでもと、都子は余越に誘われるまま食堂へ行き、山崎と智恵も付き合った。
「ショーは土曜日の前夜祭と日曜日の本番なのだが、どちらにも出演してもらいます。土曜日は会場である東都ホテルに一泊してもらうつもりでいるのだが、これはショーの関係者全員でね。日曜日の本番を前にショーの内容が外部に漏れては面白くないからね」
 山崎が隣で苦笑した。
「中々羽振りがいいではないか。そんなにブライダルショップという所は儲かるのかね。確か先日は会社専用のクルーザーを買ったのだろう」
「すべて宣伝用だよ、山崎。若い人達はそういうことには目ざとい。クルーザーなどは洋上パーティなどに使えば効果的だ。流行の集団見合い形式を取ってね。そうして出会ったカップルに我が社のドレスで結婚式をしてもらえばいいんだ。未婚の女性はすべて我が社のお客様だと思えばいい。ホテルの一泊くらい安いものだよ」
 ゆったりとした余越の口振りに智恵も都子も聞き入っている。
「確かに、とても効果的のようだね」
 山崎は苦笑のまま、コーヒーを飲んだ。
「若者に夢を与える仕事ということだね。学生時代から変わらないな、余越は」
 思い返すようにそう小さく言うと、余越が少し眩しそうに山崎を見た。
「前夜祭というと、どういったことをするんですか」
 智恵が問う。
「前夜祭は、日頃会社がお世話になっている方々だけを招いてショーに出す作品を見て頂く。本番は、記者や一般の人を呼ぶんだよ」
「じゃ、私も行っていいんだ。都子の晴れ姿を見てあげるね」
 既に都子の気持ちなどそっちのけで話が進んでいた。優先座席で見れる手配をしておくからと、余越は智恵の携帯番号を登録すると、
「それじゃ、金曜日に東都ホテルの方へ来てください。そのとき契約やショーで着ていただくドレスを選びましょう」
 余越は立ち上がって握手を求めた。都子が呆気にとられたまま応じながら、口が勝手に動いていた。
「余越さんは覚えていらっしゃいませんか。月曜日にもこの話が山崎教授のゼミで出たでしょう。その時、殺された三枝さんが指に嵌めていた大きなダイヤの指輪」
 余越の笑いが止まる。
「それが、何か?」
 余越が目を細めて都子を見つめた。都子がその視線に気後れして言葉を濁す。
「いえ、ただあんな高価なものだと、余越さんのように目の肥えた方ならどこで見かけても一目で分かるんじゃないかと思ったものですから」
「あれが、どこで売られていたか、私が知っていると思っているんですか」
「えぇ」
「そうだね。まぁ、滅多にお目にかかれないような高価なものだったから、どこかの宝石店の奥にでもしまっていたのではないかな。とすれば、いかに私が目ざといとは言え、見つけることはできないよ」
「そうですか」
「どうやらお役には立てなかったようだね」
 都子は黙って礼をした。余越と入れ違いに鶴田と安部が来る。まだ三限目が始まって二十分というところだ。
「どうしたの、授業は」
 智恵が安部を見ると、鶴田が山崎に近づいて礼をした。
「教授、湯川先生はどうかされたんですか。休講カードは出ていないのに、教室へ来ないんですよ。教務課に行っても、湯川先生からの連絡はないっていうし・・・」
 そこでハタッと鶴田は止まった。
「どうしたの、鶴ちゃん」
 安部が鶴田の顔を覗き込む。
「今の、誰だっけ」
「ブライダルファイブのオーナーの余越さんよ。ブライダルショーのことで、山崎教授の所で会ったでしょ」
 智恵が答えた。
「そっか、あいつか・・・」
 鶴田が手を打つ。
「どうかしたの?」
 と都子が訊ねるよりも早く、鶴田が言う。
「昨日、東都ホテルのロビーで見かけた男だ。どこかで見たと思ったら」
「別に不思議はないと思うけどな。だって今週末にファイブのブライダルショーが東都ホテルであるでしょ。その打ち合わせでもしてたんじゃないかな。それで、都子も出演することが決まったんだけどね」
 智恵が言った。
「へぇ」
 鶴田は心ここに在らずで答えた。
「それで、鶴田くん。正光の休講がそんなに気になるのかね」
 黙って聞いていた山崎が問う。
「えぇ、少しばかり」
「どうもただ事ではないという顔だが、今すぐ正光に用事でもあるのかね」
 悠長な声に鶴田は身を乗り出して大きく頷いた。
「できればすぐ連絡を取りたいんです。急いでるんです」
 切迫感に押されて、山崎が苦笑で懐から携帯電話を取り出す。たどたどしい指使いで、目当ての番号へ電話をかける。・・・が、応答はない。
「でませんか、教授」
 顔を曇らせて確認する鶴田に、山崎が首を横に振る。何かに焦っているのが山崎にも分かるのか、携帯を切り、山崎は立ち上がって鶴田を見た。
「正光のマンションに行ってみよう。一人暮らしだから、何か不自由なことでもあったのかもしらん」
「じゃ、俺が送ります」
 鶴田が答えると、都子が鶴田の腕を掴んだ。
「私も行くわ」
「俺たちも行くよ」
 五人は顔を見合わせて頷きあい、足早に食堂を出た。まるで何かに追い立てられるように。

 閑静な住宅地の一角に大きなマンションが建っている。
「でっけぇ」
 車から降りて、安部が一言呟いた。
「このマンションの十階だよ」
 言って、山崎がエレベーターに向かう。鶴田もそれに従いながら、ふと上を見上げた。
 人がいる。
 大きな男だ。黒尽くめで背の高い男。
「あいつ・・・」
 鶴田が立ち止まる。
「エレベーターはこちらだ」
 山崎はさっさっと行ってしまう。安部と智恵がそれに続いたが、鶴田は暫く立ち止まり、上を見上げていた。
「どうかしたの」
 寄り添って問うと、鶴田が指で示す。
「あそこ。十階だよな。さっき人が通ったんだ。昨日、東都ホテルのエレベーターですれ違った大男に似てたと思う」
「あの男に?」
 思い出すだけでも怖いのか、都子は呟いて一層鶴田に寄り添った。鶴田が自分の失言を謝るように都子の背に腕を回す。
「悪い。何でもないよ、きっと。都子が怖がることないって」
 努めて明るく言うと、山崎たちが待っているエレベーターへ向かう。
「マンションか。非常時にこれが止まると、逃げられないよね」
 マジマジとエレベーターを見回して、安部がぼやく。高所はあまり強くない。
「階段がなければ消防法とやらに引っ掛かってしまうよ。これとは正反対の端に階段があるから、非常時でもちゃんと逃げられる」
「ってことは、向こう側か・・・」
 鶴田が人影の向かった方向を思い描く。
 エレベーターが十階に着き、山崎を先導に湯川の部屋まで来た。
「ここは、さっき男が立っていた・・・」
 鶴田はそこから下を覗き込んで呟く。
「おかしいな、出て来ないぞ」
 何度かのベルに中からの反応はなく、山崎が首をかしげた。安部が困った顔でドアノブを回す。試しにと思ったら、開いてしまった。
「無用心だな。鍵をかけとらんではないか」
 山崎が説教じみた声で入って行き、安部がそれに続く。
「鶴田くん、何だか変だと思わない?」
 不安を抑えきれず都子が問うか問わずで中から悲鳴が聞こえた。安部の後ろにいた智恵のものだ。鶴田も都子も血相を変えて飛び込み絶句した。
 足元に転がる死体は湯川正光。三枝良美と同じ状態で、その背に顔をくっつけて横たわっている。死んでいるのは一目瞭然だ。目をカッと見開き、口から涎を垂らしている。手には力がなく、足は投げ出されたままだ。
「なんということだ」
 山崎が呻いて後ずさった。安部が智恵と同様硬直している。
「見るな、都子」
 鶴田が都子を抱えるようにして、その光景から背けた。都子はしかし、湯川から視線を背けることはできなかった。同じ状態でまた死体を見た。どうしてこんな偶然が続くのか、彼女は自問自答していた。
「また・・・」
 小さな声が鶴田に届く。
「まさか、あいつじゃ・・・」
 言っているよりも先に身体が動いていた。
「どこへ行くの」
 都子の叫びは届かなかった。鶴田は部屋を走り出ると、階段へ向かう。
「まるで虫けらのように、二人も殺しやがって」
 鶴田は走った。しかし、すでに誰もいない。
 結局人影は見つからず、死体の転がる部屋へと戻った。

4.木曜日

湯川殺害事件は、新聞の社会欄にデカデカと載った。湯川の死体に潰される形で残っていた宝石が、先日来話題になっている宝石強盗事件の被害にあったものだと判明したからだ。
 湯川の伯父である山崎は、尋問を受けた際、その宝石がなぜ湯川の元にあるのか問い質されたが、山崎は何も答えることができず、ただ沈黙を守った。
 鶴田と安部、都子と智恵もその場で尋問を受け、あらましを話したが、それだけでは納得がいかないという室戸刑事の進言で、翌日坂北署に出頭するよう連絡を受けた。
「どうしてこんなことになるんだよ」
 鶴田は大きく叫んだ。坂北署の刑事課だ。室戸が笑って鶴田を見ている。
「三枝が殺されて、今度は湯川だ。だからってどうして俺や都子が容疑者扱いされんだよ」
「容疑者扱いなんてしてないぞ。ただ、みっちり話を聞きたいからこうして呼んだんだ。容疑者扱いってんなら、迷わず取調室へ行くぞ」
 せめて婦警が運んでくるコーヒーを楽しめとでも言いたいのか、室戸は都子にコーヒーを渡すと、鶴田には婦警から受け取れと合図をする。鶴田が仏頂面でコーヒーを受け取って一口飲んだ。
「それで、訊きたいことは山ほどあるんだが、どこからにしようかな。ま、まずは三枝良美殺人事件から訊こうかな」
 青ざめた都子を覗き込み、室戸はお道化た顔で問う。硬直した都子の手からコーヒーが落ちかけたが、それは室戸の手で食い止められた。震える手からコーヒーを受け取ってテーブルに置き、そのまま室戸は都子の手を握っている。
「脅える気持ちはよく分かる。でも、こちとらこれが商売なんだ。人が二人も死んで、キミはその現場に居合わせてる。キミには目一杯俺に協力する義務があるんだ」
 室戸の手に力がこもる。青年の真っすぐ見つめる瞳が、都子の白い頬に赤みを取り戻させた。
 鶴田が吊り上げた目を剥いて、室戸の手を都子から引き剥がした。
「答える義務はあっても、てめえに触られる義務はない」
 ドスの効いた声が、都子の頬を真っ赤にする。鶴田はそのまま都子の手を握り、自分の上着のポケットに自分の手ごと突っ込んだ。
「だいたいあんたは、都子に馴れ馴れしいんだよ。他人の彼女にちょっかい出すのが刑事の仕事かよ」
「いいじゃないか。彼女、これだけ可愛いんだから、二人で分けたって充分楽しめるよ」
 真顔で言われて、思わず激怒する。
「いいトシして、とぼけてんじゃないよ」
 鶴田の顔が赤いのは『楽しみ方』がイケナイ想像になっているからだ。
「トシって、お前何歳だよ」
「一浪してるから、二十二だよ」
 ヤケクソ気味に答えると、
「なんだ。俺と十も変わらないじゃないか。他人をオジサン呼ばわりしないでくれ」
 室戸が勝ち誇ったような顔で笑った。
「とにかく、それだけ口が回るんだ。何も隠さずに話してくれよな。湯川のことなんて、お前が隠さず話してくれてたら、死ななくて済んだかもしれないんだからな」
 そう言われると何も言い返せない。言い負かされた形で鶴田が黙ると、室戸は一層晴れやかに笑った。
「よっし。じゃ、三枝良美が強盗事件に関係した指輪をしてたことについて、何か知らないか。もちろんお前たち二人以外のヤツにはまったく関係のないラブシーンは省くように」
 室戸は殺された良美と湯川の写真と、盗難にあった宝石の写真をテーブルに散りばめて、汚い手帳を構えた。
 鶴田が踏ん反り返って、話し始める。
 まずは、月曜日だ。
 ブライダルファイブ主催のショーがあると三枝良美から聞いて、山崎教授のゼミへ行った。その時、良美は指に嵌めていたダイヤの指輪をファイブのオーナーである余越が目に留めた。
「あの時、湯川の様子が少し変だったような気がする」
 鶴田が思い出すように、ゆっくりと付け足した。
 室戸が手帳から顔を上げる。
「変って、何がどう変なんだよ」
「どうって言われても困るけど。確か、三枝があの指輪をしていることを恐れるような・・・。誰の目にも留まって欲しくなかったって感じかな」
「ほう。都子さんもその時はその場へいたんだっけね。何か彼氏が言うようなことで気付いたかな」
 矛先を変えて、室戸が都子の顔を覗き込む。都子は答えられず俯いた。あの時は、そんなことを考えている余裕はなかった。頭の中は鶴田のことで一杯だったからだ。
「ま、いいや」
 あっさりと室戸が返し、話は火曜日に移る。
「さて、問題の三枝殺害事件だけど、エレベーターですれ違ったっていう男を、昨日湯川のマンションで見かけたのは、単なる見間違いじゃないのか?」
「いや、あいつだよ。きっとそうだ」
 鶴田は断固として言い張った。室戸の仏頂面に向かって挑んでいるようにも見える。
「お前さ、その男に何か恨みでもあるのか」
「なんで」
「どうしてもその男を犯人にしたがってるように見えるからさ」
「じゃ、そいつが犯人じゃないって、あんたは言うのか」
 自然、声が大きくなった。室戸が冷めた目で呟く。
「捜査ってのは、あらゆる可能性を考えてやるもんだ。先入観なんてものは害になる」
「ようし、じゃ、俺が見かけた男は、単なる通行人だって言うんだな」
 念を押すように言うと、室戸が首を振った。
「いや、湯川の死亡推定時刻は、お前らが駆けつけたのとほぼ同時。おそらくその男が犯人と見て間違いはない」
「じゃ、どうして」
「だから、俺が言いたいのは、湯川殺害と三枝殺害の犯人を、都合良くくっつけるのはやめろってこと」
 言いくるめるように室戸が言って、都子に笑いかけた。ひるむ都子を庇って鶴田が咆哮を上げた。
「そうは言っても、殺され方から言えば同一犯だろ。あんな殺し方をするヤツが何人もいる訳がない」
 鶴田の鬼面を室戸が笑う。
「そう。何人もいてもらっては困る。だから、これは同一犯の仕業だね」
 軽くそう返されると絶句するしかない。鶴田は背もたれに勢いよく沈んだ。
「あんたこそ俺に恨みでもあるのか。さっきから腹の立つことばっか言ってるけどさ」
「ただ、怒らせたいだけさ」
「なぜ」
「お前が彼女を庇って何も言わせないからだ。それならば怒りたいだけ怒ってもらって、彼女の代わりにすべてを話してもらうしかないだろう」
 室戸が鶴田の視線を正面で受け止める。
「それが、あんたの商売か」
「そうだよ。俺の商売だ」
「それに答える義務が、俺にあるのか」
「ある。人が死んだんだからな」
 迷いのない声が、鶴田と都子の胸に届く。
 暫し睨み合っていると、若い刑事が一人書類を持って入ってくる。
「室戸、宝石の鑑定と鑑識の報告書があがったぞ」
「それで」
 鶴田と都子には構わず、室戸は刑事から書類を一式受け取った。
「宝石は盗まれたもののうちじゃ、安値のものばかりだ。高額の加工品は、まったく見当たらなかったようだ。それから湯川の部屋から出て来たメモによると、湯川は宝石強盗事件の共犯らしい。犯行時刻と場所、盗んだ宝石の受け渡し場所が記されていた」
「共犯って?」
「主犯がいて、そいつから一旦盗んだ宝石を受け取ると、しばらく保管しておくんだ。ま、体のいいコインロッカーってとこかな。三枝良美が盗まれたダイヤの指輪をしていたのは、湯川が預かってた宝石を、何らかの形で見つけ出して頂いたってとこかな」
 さっさと結論づけて、若い刑事が得意顔をする。
「湯川と三枝のつながりが立証できるのか?」
 室戸が珍しく苦笑している。鶴田を言いくるめることはできても、この若い刑事の短絡思考を止める術は持っていないようだ。
「ちゃんと証言を取ってる。三枝が湯川のマンションで何度も見かけられているし、東都ホテルに三枝とチェックインしたのが湯川だって証言も取った」
「で、問題のダイヤ他諸々の高額のものは、湯川の部屋から見つからないのか?」
 刑事がお手上げポーズを見せる。
「駄目だね。犯人が持って行ったんじゃないかな。お前の自慢のレーダーで見つけてくれると嬉しいんだがね」
 言って刑事は室戸の手から書類を引ったくり、課長室へと入って行った。
「レーダーを動かそうにもデータ不足なんだよ」
 苦笑で流して室戸は鶴田を見た。
「湯川ってヤツは、宝石強盗に加担するようなヤツだったのか」
「さぁ、そんなヤツには思わなかったけど」
 咄嗟に鶴田が答えると、室戸が考え込む。
「そっか。この件に関しては、お前に訊くのは止めた。やっぱもう一押し山崎って教授をおしゃべりにしとくんだったな」
「山崎教授がどうかしたのか」
 聞きとがめて身を乗り出したが、あっさりと意地悪な笑顔ではぐらかされた。そのまま都子に話しが回る。
「さて、三枝の続きを都子さんに訊こうかな。三枝ってどんな子だったの?」
「どんなって・・・」
 少し脅えて鶴田の腕に隠れる都子を、室戸は笑って促した。
「そうだな。皆に好かれてたか、嫌われていたのか。親しい友人は誰か、いがみ合ってたのは誰か」
 都子は言いよどんだ。
「都子さんは、三枝良美とは同じクラスだろ。まったく付き合いがなかったなんてことはないだろ」
「・・・それは」
「現に、三枝はキミの彼氏を狙っていて、キミとはあまり良い関係ではなかった」
「・・・・・・」
 都子の反応をうかがう瞳が、光った。
「一応調べたんだけどね。キミの口から聞きたかったんだ。三枝良美の嫌われ方は、殺される対象になるほどのものかどうか」
 都子は、大きく瞳を見開いて絶句した。室戸が瞬き一つせず見つめ返す。
「・・・いいえ」
 都子は低く呟いた。
「あの人とはあまり仲も良くなくって、嫌な思いもしたけれど。あの人は本当に子供のように何でも欲しがって、自慢できればそれでいいって感じがあって、だから・・・」
「だから、殺人の対象にはならない、か」
 室戸が続けると、都子が頷いた。ため息が空しく響く。
「確かにそうだと思うね。そうでなければ、見るからに出所の問われそうな指輪なんてしてないよ。おそらく三枝良美は何かに溺れて、触れてはいけないものに触れてしまったんだ」
 そのまま室戸は黙った。
 彼の表情に微かな憤りがある。それが、殺人犯に対してのものか、殺された三枝良美に対してのものかは、鶴田にも都子にも分からなかった。

「よく分かんない奴だな。あの室戸って刑事は」
 鶴田は坂北署の玄関口で大きくため息をついた。室戸刑事がやけに自分に対して挑戦的で、都子に対して馴れ馴れしいのが気に入らない。しかし、それ以上に何か他の感情が胸のどこかに燻っていた。
 鶴田は、遠い虚空を見つめながら、BMWの方へ歩いて行く。都子がその後ろに従うように続いた。目を閉じれば死体が二つ転がっている。そして、その後ろにはあの時すれ違った大男が立っているのだ。無言のまま、その大きな手に死を握っている。耳には室戸の言葉が繰り返されていた。
 三枝良美は『都子にとって』殺人の対象となるような女だったのか、と。
「それじゃ、アパートまで送るよ」
 BMWの助手席を開けて、鶴田が都子を振り返る。視線が出会って二人は暫く無言で立っていた。何か、予感のようなものが、全身を走り抜けていく。
「どうしたんだ。気分でも悪いのか」
 呆然と立ち尽くしたまま、鶴田が辛うじて問うと、か細い声が返ってくる。
「傍にいて」
「え」
「一人になりたくないの。お願い、傍にいて」
 小さな子供が甘えるよりも寂しげに、都子は俯いたまま動かない。
 警官が数名玄関から出て来て、一目こちらを見て行ってしまう。
 鶴田は都子の腕を掴んで引き寄せると、助手席に座らせ、自分も運転席におさまってエンジンをかける。
 BMWが温まるのを待つように、暫くハンドルに突っ伏して、鶴田は低く響く声で問う。
「俺のアパートに来るか」
 言葉はなく、ただ都子は頷いた。

 室戸は自分のデスクについて、事件の資料を茫っと眺めていた。
「どした。さっきの二人が気になるのか」
 伊達部長刑事が笑いながら、隣に座る。室戸が素っ気ない答えで伊達をかわそうとするが、無視されるとチョッカイを出さねば気が済まない伊達は、居座る様子で腕を組んだ。
「お前はどう見てるんだ。殺人事件と宝石強盗事件」
「繋がっているとは思いますよ。現に湯川が盗まれた宝石を抱いて死んでいた。三枝は盗まれた指輪をしていた。要はこの二人がいったいどこへ行き着くか、だ。三枝が湯川と関係したのは分かってる。だが、湯川が誰の共犯であったのかは見当がつかない。単に三枝が湯川から宝石を貰ったとすれば、殺されることはなかったはずだ」
「殺人犯のことは二の次な訳かな」
 肝心な事柄から大きく外れているようで、伊達は咎めるように室戸を小突く。苦笑も出ぬまま、室戸は背もたれを軋ませて、背伸びをする。
「殺し方といい、現場からの去り方といい、素人じゃないでしょう。しかも素手で首を一ひねりなんて、滅多にできるものじゃない。ってことは、プロって考えた方が妥当かなと思うんですけどね」
「雇い主を探す以外ないってことだな」
「そういうこと。という訳で、俺は宝石強盗の方を当たってみます。伊達さんは山崎教授の方をお願いできませんかね」
「あの教授がどうか?」
「あの男は、知ってると思うんですよ。湯川の裏家業。それを聞きだせるのは、やっぱ伊達さんしかいないでしょうね」
 褒められたと思って伊達が満足そうに笑うと、室戸が上着を持って逃げる支度をした。
「やっぱ、亀の甲よりトシの功ってヤツでしょうね、伊達さん」
 室戸の二倍近くトシを食っている伊達は、思わず鬼面で立ち上がり、その拍子に腰に手をやり顔を歪めた。
「ほらね、年寄りには年寄りの持ち場ってものがあるんですよ」
 笑い飛ばして立ち去る室戸を、説教する気力はすでに伊達にはなかった。

 鶴田は冷蔵庫から缶ビールニ本取り出し、一本を都子の前のローテーブルに置いた。都子が小さく礼を言う。
「何がそんなに気になるんだ。あの刑事のことか」
 缶ビールを開けて鶴田はさりげなく問う。都子はただ首を横に振るだけだ。
 鶴田は大きくため息をついて、携帯電話を取り出し安部を呼び出す。
「おう、そっちはどうだ。警察は、あっさり帰してくれたのか」
 コール二回で出た安部が、電話の向こうでのんびりと構えていた。
『こっちは別に型通りってヤツかな。山崎教授はさすがに参ってたみたいだったよ』
「その山崎教授なんだが、何か言ってなかったか。湯川のこととかさ」
『いや、何にも答えられないって感じだったよ。よほどショックだったんじゃないかな。それより亀川さんがどこにいるか知ってるか? 智恵が携帯に連絡いれても返ってこないって心配しているんだ』
 言われて鶴田は即答できず、都子を見て『携帯を見ろ』と合図をする。都子がバッグから携帯を取り出すと、着信とメールが入っていた。
『もしもし、鶴田くん。都子に伝言があるんだけど、鶴田くんに言えば伝わるかな』
 いつのまにか安部の携帯は智恵に奪われている。鶴田が苦笑で受けた。
「伝わるよ。何?」
『明日の午後二時に、東都ホテルまで来て欲しいって、ブライダルファイブのオーナーが私に言ってきたの。ショーで着るドレスを合わせたいんですって』
「でも、斉藤。それどころじゃないだろ。都子は・・・」
言いかけたが、それ以上は言えなかった。智恵が電話口にいることを聞いた途端、都子は鶴田の手から携帯を奪った。
「智恵!」
『え、都子なの? 鶴田くんといたの? 鶴田くんったら何も言わないから、てっきり別行動だと思ってたわ』
 電話の向こうで、何やら慌てているのが分かる。安部も智恵につられているのか、慌てているようだ。『鶴ちゃんのアパートに二人でいる』と喚いているのが聞こえる。
 しかし今の都子には、そんなことどうでもいい。ただ一つ、智恵に答えて欲しかったのだ。
「智恵、お願いだから正直に言って」
『どうしたの。鶴田くんが無理矢理連れ込んだの?』
 都子の切羽詰った声につられるように、智恵は智恵らしい返答をした。
『嫌なら私が断ってあげるから、鶴田くんに電話を替わりなさい』
「そうじゃないの。私が頼んだのよ、一人は嫌だからって。ね、智恵、答えて。三枝さんが殺されたのは、私のせいなの?!」
『・・・はぁ?・・・』
 智恵の間の抜けた声が、携帯から聞こえる。都子を抱きとめる形で聞いていた鶴田も呆気に取られてしまった。
 しかし、都子は真剣だ。
「私、あの人のこと嫌っていたわ。あの人が鶴田くんに近づく度に、いなくなればいいのにって思ったの。だから私のせいで、三枝さんが死んだのかもしれない」
 まるで携帯にすがりつくように都子は叫んだ。その見開かれた瞳から、大粒の涙が溢れて止まらない。鶴田にあずけている細い身体が、小刻みに震えているのが分かる。
 おそらく三枝良美の死体を見た時から、心のどこかに燻っていたのだろう。彼女を嫌悪していた感情が、罪悪感という形で都子を責めていたのだ。
 だが、放心状態から戻った智恵は、『ばかね』と大きな声で諫めた。
『冗談も休み休み言いなさい。どうしてそんな結論が出てくるのよ。あの人が死んだ理由なんて私には分からないし、何をしたからって殺される道理はないわよ。だけど、それをご大層に都子が肩代わりしたって、全然何も解決しないわよ。犯人が捕まるわけじゃなし。今度そんなこと言ったら、すぐに飛んで行って、都子を殴るからね』
 大きな怒声が傍で聞いている鶴田の耳にまで届く。携帯を手にしたまま都子はまるで電撃でも受けたような表情で座り込んでいた。
 鶴田がその手から携帯を取り、細い身体を包むように抱いてくちづけた。
「ほらね。くだらないことばかり気にするから、怒られるんだよ」
 熱い声が耳元で囁く。都子は精一杯腕を伸ばして、鶴田の首に抱きついた。
「ごめんなさい」
 その声は、携帯の向こうにいる智恵にも届いた。
「斉藤、サンキュ。お前が都子の親友で良かったよ」
 都子を抱き締めたまま鶴田が笑ってそう伝えると、携帯の向こうで智恵の自慢の穏やかな声が聞こえる。
『都子の親友っていうのに、鶴田くんの親友の保の彼女っていうのも付けて欲しいな』
「了解。明日は二時に東都ホテルだな。必ず連れて行くよ」
『こんな時だからこそ、ね。それじゃ、ガンバってね』
 最後はややからかうように言って、智恵はさっさと電話を切った。鶴田が苦笑で携帯電話をしまう。
 暫く、音一つない部屋で二人はお互いを感じていた。都子は鶴田に身体を預けるようにしたまま、離れようとはしなかった。鶴田も離すつもりはなかった。
「明日、ブライダルショーのドレスを合わせに行くって、斉藤から伝言を受けた」
 囁くように言いながら、鶴田は都子の髪を撫でる。都子が鶴田に頬を寄せる。一筋流れた涙が笑っている。
「本当に、私が着てもいいの?」
 鶴田の唇を頬に感じながら、都子がうわ言のように問う。鶴田は静かに答えた。
「あぁ。そのまま教会へ行くのもいいかもしれないな」
 会話は途切れた。長いキスの後、鶴田は都子を抱き上げ、軽々とそのままベッドへ運ぶ。
カーテンから漏れる月明かりの中で、二人は同じ夢を見た。

5.金曜日

東都ホテルのロビーで、安部と智恵が待ち構えていた。
「よっ、ご両人。いい景色だねぇ」
 安部がはしゃいで鶴田の首にアックスボンバーを放つ。鶴田が正面から受け止めた後、安部の顔面に右ストレートを放ってクラッシュ寸前で止めた。
「何も、お前が浮かれることないだろ」
 自然笑ってしまう顔を極力押さえながら、鶴田が流し目を送った。安部が冷やかすように鶴田の頭を撫でる。
「これで、一安心ってとこかな。鶴ちゃん」
「馬鹿野郎。これから始めるんだよ」
 左ジャブを繰り出して、鶴田が照れ臭そうに笑った。拳を受けた安部も笑う。
 都子もまた、智恵の嬉しそうな攻撃をかわしきれずにいた。
「一日でこんなに肌が綺麗になるなんて凄いな。鶴田くんにどんなおまじないをかけて貰ったのかしら」
 智恵が都子の頬を軽く引っ張って、意地悪く問う。都子が耳まで真っ赤になって、両手で頬を覆った。
「智恵ったら、本当に意地悪ね」
「あら、これでも喜んでるのよ。都子が幸せそうだから」
 智恵は笑って都子の腕に手を回す。
「本当よ、都子。都子のそんな顔がずっと見たかったんだから」
 優しい声が都子に届く。智恵の気持ちが伝わって来た。
「ありがと、智恵」
「じゃ、行こうか。ファイブの余越さんが、四階の会議室にいるの。挨拶してそれから同じ階の衣装室でドレスを合わせるんだって」
 智恵が都子の手を引いた。さながら結婚式の介添えである。エレベーターの前で待っているのは、昨日よりも大きく見える鶴田と付き添いの安部である。
 都子は素直にその状況を澄んだ笑顔で受け止めた。

 この東都ホテルの衣装室には、余越洋通が経営するブライダルファイブが入っていた。今回のブライダルショーはホテルの宣伝ということもあり、出品されるものはすべてが高級でドレスに合わせた宝石やブーケなどの小物にも細心の注意が払われるという。
 ショーの本部には四階にある会議室が使われ、招待客のみに披露する前夜祭は五階「孔雀の間」で行われ、本番のショーは六階「鳳凰の間」で行われることになっている。
 まず、本部である会議室に行くと、余越自らが出迎えて都子に挨拶した。
「やぁ、やっと来てくれましたね。お待ちしていましたよ」
 穏やかな口調で言う余越に、都子が一礼する。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ、どうか存分に楽しまれるといい。さぁ、衣装室へ案内させましょう。ショーで着ていただくドレスは既に決まっていますが、他に気に入ったものがあれば着て見ていただいてもいいですよ。手当たり次第に試着するといいですよ。それから、待っている彼らにはこれを」
 言いながら、懐から名刺を一枚取り出す。
「これを使って何か飲むか食べるかしてください。女性の身支度は長いと相場は決まっていますからね。では、私は打ち合わせがあるので、衣装の方が整ったら連絡をください。ぜひ私も一目見ておきたいものでね」
 指先で社員らしい女性を呼ぶと、案内を命じて余越は会議室へと消えた。
「ワクワクするわね」
 智恵が社員に憚りながらも、浮かれて見せた。
 一方、余越の名刺を受け取った鶴田は安部と飲むか食べるかのどちらかを決めかねていた。
「俺、衣装室で亀川さんがドレスの着せ替えするのを見たいな」
「じゃ、この好意は無にするってことでいいのか」
 名刺をちらつかせたが、安部はすでに智恵と都子の間に入ってわいている。鶴田が苦笑でため息をつき、名刺をスーツの内ポケットに入れた。自分だって、安部同様悠長に茶なんぞ飲んでいたくない。
「俺も見てる」
「あ、そ。亀川さんは、やっぱ青のドレスがいいのかな」
「何を言っているの、保は。都子なら、何色でも大丈夫よ。肌も奇麗で細身だもの、ね。鶴田くんだって、そう思うわよね」
「そ・・・そりゃ、まぁ」
 つい口ごもってしまうと、都子が何を思い出しているのか、真っ赤になって俯いた。
「だよね。亀川さんって、骨組み細そうだし、色も白くって――」
 勝手に想像を膨らませている安部を、智恵が小突く。
「だから、保。そんなこと言わなくても、鶴田くんは知ってるでしょ」
「智恵!」
 焦って都子が止めるが、安部はすでに納得顔で鶴田の鼻の下を見る。
「そうだ、そうだ。忘れてた。・・・ねぇ、鶴ちゃん」
 首を傾げながら、安部が鶴田の顔を仰ぐ。
「? 何だよ」
「とても大切なことなんだけどさ」
「だから、何だよ」
「・・・キスマークが見えたりしないのかな」
 鶴田の幻の右が出たことは、言うまでもない。
 都子のドレスの試着は予想外に早かった。
 カラードレスは二色。淡いエメラルドグリーンに淡いピンクや黄色のコサージュが散りばめられた可愛らしいドレスと、スカイブルーのシルクで、肩を大きく開けて裾を長く引き摺ったシンプルなシルエットの大人しめのドレスだ。アクセサリーは必要ない。
 そして純白のウェディングドレスは、首の辺りは薄っすらとしたレースでできたシースルーで肩まで見え、スカートは膨らみが少なく後ろに長く引き摺るもので、細い身体をいっそう強調するようなすっきりとしたデザインになっていた。その分、ネックレスやティアラ、イヤリングなどに豪華なものを使うことにした。
 一通り身に着けて更衣室から出て来た都子が、大鏡の前に立つ。
「へぇぇぇぇぇ、すげ」
 安部が他には言葉も出ないという顔だ。その隣の鶴田など、絶句している。
「綺麗よ、都子。このままバージンロードを歩こうか」
 智恵が瞳を輝かせて褒めた。その智恵に同意するように、安部が腕を組んでうなずく。
「いいかもしんない。俺、新婦の父親やりたいな」
 都子に見とれている安部を見て、智恵が思わず膨れた。
「私も早くウェディングドレスが着たいな」
 ねだってみると、極上の笑顔が返ってくる。
「智恵には白無垢がいいよ。俺は、羽織袴が着たいんだ」
 二人の軽口を聞きながら、都子が数歩鶴田に近づいた。思わず鶴田は生唾を飲み込んでしまう。
「・・・変、かな」
 小さく問うと、言葉にならない困った顔が返ってくる。安部が鶴田の後頭部をはたいた。
「何を照れてるんだよ。はっきり言えばいいじゃないか。『綺麗だよ』とか『眩しいくらい素敵だよ』とか」
 と教えられてその通り言えるものではない。鶴田は真っ赤な顔を伏せたまま頭をクシャリと掻いて、
「似合ってる」
 とだけ言った。それで充分だ。都子が微笑んで、乱れた髪を少しだけ整えてやる。それでやっと鶴田が都子と視線を合わせた。
「ありがとう」
 幸せそうに笑う都子に、鶴田もまた笑顔で答えた。
 社員の連絡を受けて余越が衣装室へ来た時には、鶴田も都子も軽口を言うくらいにはリラックスしていた。
「これは素晴らしい。やはり私の思っていた通りだ。きっと招待客はあなたに夢中になるでしょう」
 悦に入る余越に、皆、苦笑で答えるしかなかった。都子は智恵に伴われてまた更衣室へと引っ込む。余越が鶴田に声をかけた。
「まだ夕食には早いし、都子さんは明日このスカイラウンジで前夜祭の立食パーティに出てもらうので、二日続けて同じものは欲しくないでしょう。どうですか。我が社のクルーザーが近くの港にあるのですが、そこでお茶でもご一緒しませんかね」
「しかし、ショーを前にお忙しいのではないですか。我々のことにはあまり気を遣われなくても・・・」
 遠慮がちに答えると、笑われた。
「気を遣うのも仕事ですよ。都子さんには我が社に協力していただく訳ですから」
 どうせクルーザーには自分も用事があるのだと、簡単に付け加えて、余越が時計を見た。
「都子さんの着替えが終わったら出発しましょう。玄関に私の車を回しますから、待っていてください」

 余越の7人乗りで着いた先は、大きな港の一角だった。
「あれが我が社のクルーザーですよ。近いうちに洋上パーティも計画していましてね。その時は是非お揃いで来てください」
 見上げるほどの大きさと長い船体に呆れながら、四人は余越の説明を聞いた。舳先が高くせり出し、見る限りでは最上部にヘリコプターが見える。その下に三層のデッキが見え、水面近くに下層の小さな丸い窓が幾つも連なっている。ヘリポートの真下は広いスペースがあり、そこでは洋上ウェディングも可能だという。
 宣伝を続けながら、余越は四人を上階のラウンジへ案内した。外観も見事だが、内装はそれを上回る調度類で飾られていた。思わず唸って周囲を見回している。
「すっげ。値段が分かんないや」
 安部が口を開けたまま、目を丸くしている。都子と智恵などは声も出ないというところだ。鶴田が隣で満足そうな顔をしている余越を見た。
「これだけのものを持っているなんて、凄いですね」
 余越が笑う。
「私のものではないよ。会社のものだ。すべては宣伝のためでね。私は時折こうしてここでお茶を飲むことくらいしか出来ないのだよ」
 それだって凄いと安部が感嘆し、給仕が飲み物を運んで来たのを受け取って、五人は座り心地が良すぎて困るソファに腰を下ろした。
 話題は専ら余越のビジネスと明日、明後日のブライダルショーに関することだ。
 余越と安部が白熱した議論を展開させている脇で、都子が小さくなって頬に手を置く。
 先程から微かに感じる波の揺れを、心細く感じていた。自慢ではないが、船にはすぐに酔う。
 鶴田がそれに気付いて手を差し伸べた。
「すみません、余越さん。ちょっと甲板に上がってもいいですか」
 余越と安部の会話が一時中断する。
「都子さんはどこか具合でも悪いのかね。顔色が冴えないが」
「そっか。都子。海が苦手だっけ」
 智恵が思い出したように言った。都子が苦笑で申し訳無さそうに目を伏せる。
「それは申し訳ないことをしました。すぐに帰りましょう」
 余越は慌てて立ち上がるが、鶴田が笑って余越を抑えた。
「大丈夫ですよ。外の空気を吸えば気分も変わります。こんなクルーザーに乗ることなんてないんだ。ゆっくりさせてください」
 笑顔で都子を見ると、都子もその通りだと笑顔で示す。余越が気を緩めて椅子に沈んだ。
「それならいいのですが、気をつけてください。都子さんには大事なショーがあるのですから」
 安部がウィンクで手を振る。心置きなく二人でどうぞと言っているのだ。鶴田が苦笑で手を振り返し、都子を伴ってラウンジを出た。
 海に面した甲板へ出ると、海風が二人を穏やかに迎えてくれた。
「大丈夫か」
 顔を覗き込んだが、都子はまだ酔ってはいないようだ。海風を気持ち良さそうに受けて、大きく深呼吸している。
「すごいわね。この船で洋上パーティだなんて、素敵だろうな。船酔いはつらいけど」
 高く見えるヘリのプロペラを仰ぎながら、夢でも見るようにうっとりと広い甲板を見渡す都子を、鶴田は自分の方へ引き寄せた。
「パーティはいいけど、浮気はしないでくれよ」
 お道化て言うと、都子が笑って鶴田の胸に寄り添った。
「それは私の台詞だわ。鶴田くんは誰にでも優しいから」
「いや、誰にでもってことはないだろ。ちゃんとお前にだけ優しいよ」
「そうかしら」
 都子は鶴田を見上げてた。
「私は大丈夫よ。鶴田くんしか見えないもの」
 優しい言葉が、昨夜の吐息を思い出させた。鶴田は都子の背中に回した腕に力を込めた。
「俺も、都子しか見えてないよ」
 囁きながらキスする瞬間、甲板の端から拍手喝采。
「お見事。スケコマシの彼氏くんの台詞だねぇ。いやはや、聞いてるこっちが恥ずかしい」
 惚けた声が近づいてくる。室戸刑事だ。鶴田が途方に暮れた顔で呟いた。
「何でいつも邪魔ばっかりするんだよ、あんたは」
 都子の真っ赤な顔も、心なしか膨れている。
 そんなことなど気にも留めないで、室戸は笑い飛ばした。
「日頃の行いの悪さだろ。若しくは彼女に思いとどまれっていう神の思し召しかもな。都子さん、いっそそいつなんてやめて、新しい男に乗り換えないか?」
 馴れ馴れしく近づいて来る室戸から、都子を隠すように背中へ回すと、鶴田が大きく吠えた。
「あんたなんかにやらないよ。何だってあんたがこんな所に来るんだよ」
 すこぶる不機嫌な声で問うと、室戸が少し肩をすくめた。鶴田の問いに閉口している訳ではないようだが、どこかやはり憚るところがあるという感じだ。
「変だぞ」
 鶴田が言った。鶴田の隣に立ってクルーザーの操舵室を気にする室戸が、咥えていた煙草を携帯灰皿で消す。
「お前らは、何でこんな所でラブシーンなんかしてるんだ」
「何でって、都子がブライダルファイブのショーに出演するからって、わざわざ余越オーナーが招待してくれたんだよ」
 不貞腐れながらも答えた鶴田を半分無視して、室戸は考え込んでいるようだ。
「ショー、ね。明後日のヤツか。なるほどな」
 笑顔とは裏腹に低く潜んだ声音の室戸に、鶴田の眉間にシワが寄ってしまう。
「本当に変だな、あんた。いったいあんたはどうしてこんな所へいるんだよ」
 気になって問い質すと、室戸が手で鶴田を制す。操舵室に安部と智恵の姿が見えた。余越もいる。
 都子が笑顔で智恵に手を振った。
 鶴田がつられて笑った時、室戸が呟く。
「笑ったまま聞け。いいか、顔色を変えるんじゃないぞ」
 笑顔のまま室戸は強く押さえつけた。
「先週までに宝石強盗事件が三件あったのは覚えているだろう。盗品のうち、ダイヤの指輪は三枝良美が殺される前に身に着けていた。そこで、ちょいと宝石店を調べてるうちに面白いことを見つけたんだ」
「なんだ」
「被害にあった宝石店は、ファイブ主催のブライダルショーにおいてスポンサーに立候補し、ファイブオーナーに秘蔵のコレクションを見せていたんだ」
「・・・・・・」
「もちろんスポンサー候補は三件ではないし、秘蔵コレクションを見た人物も保管されてる場所を知っている人物も余越だけではない。が、ちょっとクサイんだよね。でも盗品の隠し場所とかが分からないと、令状がとれないし、警戒されてはすぐ証拠隠滅されてパクれないってことにもなるんだよね」
 まるで世間話でもするように、室戸はまた一本煙草を咥えた。鶴田が次第に表情を無くし、室戸を見る。
「あんた、まさか――」
「おう、言ってみろ」
「まさか、都子にその証拠探しを手伝わせる気じゃないだろうな」
「おぉ、やっぱり馬鹿だったか、お前」
 拍手三回で室戸は呆れて見せた。
「お前さ、警察が善良な市民を危険に晒しちゃ駄目でしょ」
 澄ました横顔が頭に来る。鶴田は目を吊り上げたが、それも室戸に笑われる。
「ま、お前が調べてくれるなら、大歓迎だけどな。骨は拾ってやるからさ」
「それが刑事の言うことか」
 鶴田が憤慨して都子を連れてその場を離れようとすると、室戸は強引に都子を引き戻した。間近に迫る曇りのない瞳が、都子の瞳に迫った。
「これだけは覚えておいてくれ。もし万が一事件に関係するようなことが分かったらすぐに連絡して欲しいんだ。相手は、キミの知人を二人も殺している。これ以上被害を増やしたくない。それから、キミ自身が危険と隣り合わせだということを、決して忘れないで欲しい」
「黙れ。そんな状況なら、都子はショーに出さない。お前の為に、どうして都子が危ない目に合わなきゃならないんだ」
 室戸から都子を引き離し、鶴田は心の底から唸った。愛想笑いも限界だ。
 室戸は肩をすくめて世間話の終わりを告げる。その顔が、どこか謝っていた。
 鶴田と都子は船内に入ると、ラウンジの方へ向かった。窓を左に歩いている間、二人は無言で正面を見つめた。甲板に残した室戸の姿が、心の中で燻っていた。都子は鶴田の腕に寄りかかり、室戸の言葉を繰り返す。
 これ以上、被害を増やしたくない。
 ラウンジのドアが見えた辺りで、都子が立ち止まった。
「鶴田くん、私・・・」
 言いかけた言葉は、鶴田の腕の中でかき消された。
「言うな。お前に危険なことはさせたくない」
 しかし、細い身体を抱き締めている鶴田自身、何か押さえつけようのない感情に捕らわれていた。
 目前で二人の人間が殺された。その無残な死に憤りを感じないと言えば嘘だ。協力したくない訳ではない。だが、もし本当に室戸の言う通り余越が事件に関係しているとすれば、コトは都子にまで及ぶだろう。都子だけは三枝良美と同じ目に合わないと、一体誰が保証してくれる。
 鶴田は自分に言い聞かせるように、繰り返した。
「関係ないんだ。全然関係ない。だから何も考えるな。ショーにも出るな。いいな」
 窒息してしまいそうな都子が鶴田の背に手を回し、鶴田に身体を預けるように寄り添った。
「鶴田くんがそう言うなら、私、余越さんに断るわ。だから、心配しないで」
 甘い声が鶴田の耳に届く。しかし都子には分かっていた。鶴田の中で何かが燻っていた。これ以上被害を増やしたくないと言った、室戸の言葉が。
 その時、通路の端に人影があった。鶴田の視線が何気なく捉えた。
「あいつ・・・」
 鶴田の絶句が都子にまで伝わった。視界に入ったのは、黒服で身を包んだ大男だ。
「まさか、あの時の」
 火曜日の夜、東都ホテルのエレベーターですれ違った男。水曜日、湯川のマンションで見かけた男。
「都子、ここにいろ」
 都子の身体を引き離し、大男を睨む。大男はさして鶴田のことなど意に介さない様子で不適に笑い、姿を消した。
「今度こそ、逃がすかよ」
 そう唸って追いかけようとする鶴田の腕を抱えるようにして、都子はとめた。
「待って、鶴田くん。駄目よ、さっき室戸さんに危ないって言われたばかりだわ」
 じっとしていられない気持ちは都子にもわかった。しかし、脳裏に焼きついている二つの死体が鶴田と重なり、言いようの無い恐怖が襲う。
「駄目よ。行かないで」
「放っておけないだろ。都子はここにいろ」
 都子の腕を強引に引き離し、鶴田が走った。背後に都子の止める声が聞こえたが、それを振り切って影が消えた方に向かって全力疾走をする。
 遠ざかる影が悠然と笑って鶴田をかわしていくようだ。結局、入り組んだクルーザーの底部で、鶴田は迷ってしまった。動力の音だけが耳について、人の動く気配など感じられない。
 諦めて都子の待つ所まで帰ると、涙を溜めて顔を強張らせている都子の平手が飛んできた。
「都子・・・」
「相手は二人も殺した男なのよ。危ないって言われたのに、どうして追ってしまうの。もし鶴田くんに何かあったら、どうするの」
「――」
 騒ぎを聞きつけて、智恵と安部が駆けつけてきた。
「どうしたんだ、鶴ちゃん。亀川さんが叫ぶからびっくりして来たんだ」
 安部が息を切らしている鶴田を見る。鶴田は説明しようとして、止めた。安部の後ろから余越が近づいて来た。笑顔がこびり付いている。
「何かあったのかね」
 その声が『何もないだろう』と言っているようだ。
 鶴田が荒い呼吸を戻しながら毅然として余越に向かい、「ショーのことなんですけど」と言いかけた時、都子はすかさず彼の言葉を制するように、微笑で余越の前に出た。
「申し訳ありません。彼が急に怒り出して、驚いてしまっただけなんです。本当に気を遣っていただいてありがとうございます。ショーに出ること、楽しみにしています」
「都子!」
 反射的に都子を凝視した鶴田に、都子は間髪入れず笑顔を向けた。
「私にモデルは務まらないと思ってるんでしょ、鶴田くん。失礼だわ。余越さんが、ただ歩くだけって言ってくださってるんだから、簡単でしょ。そうですよね、余越さん」
 一方的に言葉を重ね、余越を見ると、余越は少し驚いて鶴田の顔を見る。
「その通りですが・・・。彼は、都子さんがショーに出ることが不満なんですか」
 確かめるように問うと、一瞬の沈黙の後、安部が大きく息をついて鶴田の後頭部をはたいた。
「独占欲が強いんですよね、こいつ。どうせ、亀川さんが自分以外の男の目に晒されるのが気に入らないとかなんとか、その程度の理由だろ? 広い心を持とうぜ、鶴ちゃん」
 あっけらかんとした笑顔で言い切られ、続けて智恵がため息をついて都子の腕を掴み、鶴田を睨んだ。
「心配して損したわ。悪ふざけはやめてよね、鶴田くん」
 智恵が鶴田に説教し、安部も同様に鶴田を睨む。
「困らせるのは二人だけの時にしてくれよ、鶴ちゃん」
 安部の軽口で緊迫した空気が凪いだ。余越が思い出したように鶴田に問う。
「先程甲板で話をしていた男がいたね。あれは誰かね?」
 声に変わりはない。そして頬の筋肉は笑っているのに、その目がどこか違っていた。鶴田が苦笑でかわす。
「このクルーザーに目を付けて上がって来た通行人ですよ。この船が誰の物かとか、値段はいくらくらいかとかって質問を延々とされたんです」
 鶴田の言葉に都子が同意するように頷きながら、余越に添うように近づいた。
「本当に素敵な船ですもの。今度は洋上パーティの時に招待していただきたいです」
 嘘などない笑顔が余越を見つめた。
「しかし、船は苦手なのでは?」
「大丈夫です。この船大きいですもの、あまり揺れませんし。それにほら、今何ともありませんから」
「そうですか、では、ぜひ招待しましょう。さて、そろそろホテルに帰りましょうか。私の用事も終わりましたのでね」
 余越は納得したのか、そう言って四人を促す。
 鶴田が車内の最後尾から都子を見つめたが、敢えて都子はその視線を逸らせて智恵と安部の話に興じた。余越の機嫌も良い様子で、三人の話題に相槌を打つ。
 何も言ってはいけない。言えばきっと無事ではいられないのだ。

 余越は東都ホテルの前で四人を下ろすと、軽く礼をして笑った。
「都子さん、明日はよろしくお願いしますよ。他の方も日曜日の本番には必ず来てください。お待ちしておりますよ」
 余越はそれだけ言うと、運転手に車を出すよう告げた。車がゆっくりとホテルの駐車場へと入って行く。ショーの打ち合わせはまだまだ残っているという。余越は今日からスイートルームへチェックインするということだ。
 何事もなかったように余越を見送り、その姿が完全に消えた途端、鶴田は都子を乱暴に引き寄せた。
「どういうつもりだ、都子。ショーには出ないって言ったじゃないか」
 都子は鶴田から目を逸らしている。
「何ナノ、鶴田くん。都子はショーに出たくないの? 都子、今ならまだ断れるわよ」
「違うわ、智恵。ショーには出るわ。鶴田くんが勝手に怒ってるだけよ。気にしないで」
「誰が怒ってるんだ。怒ってるのはお前だろ」
 鶴田が声を荒げるのを見かねて、安部が鶴田の腕を掴んで都子から引き剥がす。
「俺と鶴ちゃんは車を取ってくるから、智恵と亀川さんはここで待っててくれるかな」
「待てよ、安部。まだ話は終わってないだろ」
 噛みつかんばかりの形相で安部の力に逆らう鶴田を、安部はいつになく怒った表情で、鶴田の首根っこを羽交い絞めにする。
「鶴ちゃんが悪いのは分かってるから、大人しく引き下がろうね」
「なんだよ、安部」
「鶴ちゃんが亀川さんを怒らせたから、亀川さんが怒ってるんだよ。それくらい学習したらどうなの、鶴ちゃん。とにかく頭を冷やそうね」
 有無を言わせず安部は鶴田を引き摺って行った。
「保。せっかくだから一緒に夕食を食べましょうよ。美味しいイタリア料理の店を見つけたの」
 智恵の声に安部が後ろ手で了解の合図が返す。二人が見えなくなると、知恵が都子に迫った。
「何があったの」
 その表情が険しい。
 智恵の気迫に押されて、都子は少したじろいだ。
「何って。いきなりどうしたの、智恵」
 苦笑で流そうとする都子を、智恵が睨む。
「保も私も分かってるわよ。何かあったんでしょ? 何もなくて鶴田くんが都子を怒らせるわけないじゃない。何なの、危険なことなの?」
 迫る智恵に返す言葉はない。
 『なんでもない』と続けようとした都子が止まった。遠くこちらを伺うように、室戸が立っていた。
「都子、どこへ行くの!」
 都子が全速力で走り、室戸の元へ行った。
「お願いがあるんです」
 呆然としている室戸を見上げて、都子はすがりつくように訴えた。
「私はあなたに協力するわ。だからもし鶴田くんが危険なことに巻き込まれることがあったら、その時は助けて欲しいの」
 迫られている状態の室戸は、何度も瞬きをしながら、細い身体を受け止めている。
「都子さん、どうしたの。あいつが危険な目に合うかもしれないって言ってるの?」
 宥めるように笑って見せて室戸が問うと、都子は激しく頷いた。
「鶴田くん、あの大男を見つけると後先見ないで追いかけるわ。でも犯人は怪力だもの、勝てっこない。あのまま突っ走ったら、きっと殺されてしまう・・・」
 余越のクルーザーでの事を話した。神妙な顔で聞いていた室戸の目前で都子は溢れる涙を抑えようと黙ったが、それは一筋頬を流れてしまう。室戸が苦笑で流れた雫を指先で拭う。
「本当に彼氏が好きなんだね。その上、彼氏の暴走を止めたくて、自ら渦中に巻き込まれようとは――」
「・・・・・・」
「俺がキミの親父なら、『そんな男はやめなさい』って説教してると思うよ。ま、それでも好きなんだろうけどね、彼氏が」
 決して瞳を逸らさない青年が、穏やかに笑っている。
「室戸さん――」
 続けようとする都子の口を指先で軽く塞いで、室戸は頷いた。
「気は進まないけど、彼氏が危うくなったら必ず俺が彼氏に代わって打ちのめされてやるから、彼氏の心配はしなくていい。だがキミには誰もついてやれない。キミの心配をして彼氏が怒るのは当たり前なんだよ。それは、わかるね」
「・・・」
「だから危険だと思ったらすぐに逃げるんだよ。わかったね、約束だぞ」
 室戸に真っすぐ見つめられて、都子は少し目を見開いた。澱みのない視線が、強張っていた都子の心の隅を、ほぐすように温めた。自然に笑みが零れ、都子はしっかりと頷いた。

6.土曜日

鶴田は浮かない顔でBMWを停めた。ブライダルショーの前夜祭に都子が出演する為、東都ホテルの前まで送ってきたのだ。
 昨日から、二人はあまり話をしようとはしない。
 室戸に重ねて「身を守るよう」説教されて別れた後、智恵と安部と鶴田の四人で食事をした。
 智恵も安部もショーの事を気にしていたが、都子は「出る」と言い切った。それを鶴田は黙って聞いていた。その場でまた都子と言い争えば、話さない訳にはいかなくなる。
 ショーの主催者であるファイブオーナーの余越が、宝石強盗事件に関わっているかもしれない、と。
 本心を言えば、このまま都子を連れて帰りたいのだが、その台詞は喉まで出掛かって、都子に止められた。
「それじゃ、行って来るわ」
 笑顔でそう言う都子に、行くなとは言えなかった。鶴田は黙って引きつった笑顔を返した。
「楽しんで来い」
 そのまま車を降りようとして、都子は座席に戻ると、ジレンマに陥っている鶴田の腕を引き寄せて軽く頬にキスをする。間近で見る鶴田の間抜け顔が都子の張り詰めた気持ちを少し和らげた。
「私は大丈夫よ。だから、鶴田くんは無茶しないでね」
「俺が、何」
 辛うじて問い返す言葉は、都子の背中で閉められたドアの音に重なった。
「都子!」
 窓を開けて呼び止めると、笑顔で都子が振り向く。
「室戸さんのこと、信じてね」
「それは、無理だ」
 キッパリと答えた鶴田に苦笑すると、
「明日のショーは必ず来てね。必ず、よ」
 微かに脅えた声が鶴田の耳に残る。しかし、都子は鶴田の次の言葉を待たず、穏やかな笑顔を見せて東都ホテルへと入って行った。
 鶴田は息をついて、シートに沈む。見透かされ約束したとはいえ、危険を避けて通れるとは思っていない。
 室戸が言うように、既に二人殺された。しかも自分はその犯人を見ていながら、どうすることも出来ずにいたのだ。
 何でもいい。何か手掛かりが欲しかった。事件の解決に繋がる何かが。そうしなければ治まらない。たとえ室戸に何を言われようと、無関心ではいられなかった。

 都子は震える足に力を入れて、ロビーを突っ切った。ロビーラウンジの植木の陰に室戸と若い刑事が座っていた。鋭い視線を週刊誌とサングラスで隠しているが、ロビーの端から端まで見渡しているのがよく分かった。
 都子は二人に目礼して、エレベーターに消える。
「いい子だな」
 若い刑事がボソリと呟く。サングラスをずらし、夢心地で遠くを見た。思わず室戸が週刊誌で殴る。
「鼻の下を伸ばしてるんじゃねぇ。みっともない」
「言ってる室戸だって、目尻がタレてるじゃないか」
 負けずに言い返すと、もう一度殴られた。
「とにかく、だ」
 言いくるめるように、室戸が強く言った。
 何らかの動きがあるはずだ。都子の情報をアテにする訳にはいかない。
「でも、本当に余越なんですかね。他に容疑者っていないのかな」
 今度は思いっきり殴った。
「お前ね、昨日の会議で何を聞いてたんだよ。三件の宝石強盗事件に関する書類から引っ張り出した人物で、怪しいと残ったのは余越だけなんだ」
「でもさ、室戸。余越が一人でどうやって強盗するの? オッサンだよ。犯人だったとしても、他に共犯が沢山いてもいいと思わないか? それにさ、犯人っていうには、表立っての動きが多過ぎるよ。犯人ってさ、もっと影に隠れてないか?」
「――お前、やっぱり会議で寝てただろ。誰も余越の単独犯とは思ってないよ。あの怪しい大男と余越が関係しているだろうことは、昨日、都子さんから聞いてる。だからこうして張り込んで動きを見て、次の手を考えるんだ。わかったか」
 要らぬことは考えるなと付け足して、室戸は週刊誌に戻った。若い刑事も仕方なく黙って、張り込みという業務に戻った。

 都子は四階の衣装室へと行った。他の出演者も何人かいて、着付け係にドレスを着せてもらっている。都子も昨日試着した白のウェディングドレスに袖を通すが、昨日とはまったく違い、着心地が悪かった。このまま帰ってしまいたい、せめて傍に鶴田がいてくれればと思う心を留めて、着付け係の言う通りに動く。
 ドレスを着込んでティアラを着ける時、ふと都子は着付け係を見た。
「昨日着けてみたアクセサリーと違います。誰か他の方が選んだものじゃないかしら」
 イミテーションとは思えない輝きに目が眩む。これが本当のダイヤであれば、一体どのくらいの値段になるのだろうか。目の前に置かれたネックレスも、同じ輝きを放っている。
 着付け係が形ばかりの笑顔を向けた。
「今日は特別にこちらをしていただくよう、オーナーから指示が出ております」
 説明だけしてまた黙ってしまった着付け係を背に、都子は鏡に映る自分を凝視した。ドレスに高価なものを選んでいる為、これほどのティアラもネックレスも浮いて見えたりはしない。反対に都子の白い肌とダイヤが似合って、一層輝きを増したように思える。
 ただ、指輪だけが少々見劣りがするように見えた。
 それは着付け係も気にしたのだろう。おもむろに衣装ケースに向かい、何やらゴソゴソと底を探った。
 都子は肩をすくめてもう一度鏡を覗いた。
 どこかで見たことのあるティアラとネックレスのようだ。どこだったのか、思い出せないのだが・・・。
「これがいいわ」
 一人納得している着付け係が、小さなケースを手に帰ってきて、都子の指から見劣りする指輪を外した。
「それだけティアラとネックレスが豪華なのだから、指輪もこれくらいでないと駄目ね」
 そう言って嵌めてくれた指輪を見て、都子は絶句した。
 それは、殺された三枝良美がしていた大きなダイヤの指輪であった。連続宝石強盗事件に被害にあい、良美殺害以来行方不明だったダイヤの指輪。
 都子はもう一度鏡の中の自分を見つめた。見覚えがあると思ったのも道理だ。ティアラもネックレスも、室戸が見せてくれた写真の中にあったものだ。
 ではやはり、余越洋通は宝石強盗事件に関係しているのだ。ひいては湯川と良美の殺害事件にも。
 都子は自分の変化を着付け係に悟られぬよう、笑顔を作る他なかった。

 鶴田はBMWを走らせて、山崎の自宅へと向かう。山崎の自宅は寺で、鶴田は大学入学当初に何度か遊びに行ったことがあった。
 大きな山門をくぐり、回廊を左に見ながら住居となっている庫裏へ向かった。
「ごめんください」
 広いたたきで大きく叫ぶと、中から笑顔で婦人が出て来た。山崎の妻、芳子である。どうやら鶴田のことを覚えていたようだ。
「久しぶりですね、鶴田くん。お元気そうで何よりです」
 流暢な声が親しさを醸し出す。鶴田は深々と礼をした。
「ご無沙汰しています、奥さん。山崎教授はご在宅ですか?」
「住職なら、朝から阿弥陀堂でお経三昧ですよ。甥の正光が突然のことで、それを弔うのだと言っていました」
 芳子が涙を拭った。殺された湯川正光は、この寺とはあまり交流がなかったにしろ、甥は甥である。芳子もよく見れば鳴き疲れた痕があった。
「この度は、本当に」
 それ以上の言葉は出ず、鶴田はまた深々と頭を下げる。
 芳子が苦笑でたたきに降りた。
「先程、余越さんから連絡があって主人に繋いだんですけど、何か怖い顔で如来様を睨んでましたわ。昨日警察に正光のことを訊かれて、大分興奮していましたから、きっとお経は精神安定剤ね」
 軽く言いながら鶴田を招く。どうやら阿弥陀堂まで案内してくれるようだ。鶴田は小柄な夫人の後に続いた。夫人は歩きながら山崎と余越の話をする。学生時代からの親友で、どちらかが困っていれば、どちらかが助ける・・・そんな風に過ごしてきた四十年来の親友だという。そして、そんな二人に時折湯川正光が加わって、何やら楽しそうに話していたという。
「そういえば鶴田さんは、今付き合っているお嬢さんとは上手くいっておられるのですか」
 突然問われて、鶴田は赤くなった。無邪気な顔でこちらを見ている芳子が、鶴田の答えを待った。
「えぇ、まぁ、一応」
 苦笑で答えると、芳子が奇麗なシワを作って笑う。
「主人が時折大学の話をしてくれるのよ。中でも鶴田さんはお気に入りで、よく話題になるわ。貴方はとても素直に表情に出るから、お嬢さんと一緒にいる時は本当に幸せそうだと」
 そう言う芳子もまた極上の笑顔である。
 鶴田は思いがけない話に、目を見開いた。
「何故、教授がそんなことを――」
 問わずにはいられなかった。しかし、これは芳子にとって愚問であったのだろう。からかうように笑い、お道化た声で鶴田を見る。
「人が幸福そうな表情を浮かべていることを、喜ばない人がいるでしょうか。一生懸命人を愛している方がいて、もしその方が自分の知っている人だとすれば、それはとてもありがたいことです」
 山崎教授の好きな『素朴な言葉』が、優しく響いた。
 鶴田は黙って芳子の横顔を眺めるしかなかった。目に見えていなかった幸福を、言葉で示してくれたように感じた。
 自分が都子に向けた想いを分かってくれる人がここにもいるのだ。もしかすると他にもいるのかもしれない。そう考えて浮かんだ室戸刑事の顔が、何かに焦っていた。
「どうかしたんですか、鶴田さん」
 芳子が問う。しかし鶴田は答えられなかった。阿弥陀堂は目前に建っている。しかし、中から聞こえてくるのは、お経を読む朗々たる山崎の声ではない。
「まさか・・・」
 叫んで鶴田は阿弥陀堂の中へ走り込んだ。ほの暗い御堂の中、大きな阿弥陀如来増の前に、闇の塊があった。二度の殺人現場から逃走した大男が今、山崎の首を捻り上げている。
「貴様ぁ」
 鶴田はそのまま体当たりで大男を吹き飛ばし、山崎を奪うと、威嚇するように睨んだ。
「鬼が如来の足元で笑ってるんじゃねぇよ。これ以上、誰も殺させねぇからな」
 腕で支える山崎は力なく手足を投げしているが、微かに息はある。しかし、鶴田の脳裏に浮かぶのは、湯川と良美の無残な死体だ。
 そしてこの目前の大男に対する怒りは、決して拭いようのないものだ。
 芳子が駆けつけて悲鳴を上げる。鶴田までも手にかけようと思っていたのか、ずっと仁王立ちのままであった大男は踵を返して御堂を出た。
「奥さん、救急車と警察に連絡してください」
 鶴田は山崎を任せると、大男を追った。今度は逃がす訳にはいかない。
 鬱蒼とした木々と石畳が続き、両端に墓場が続く。
 鶴田は全速力で走った。クルーザーの中では不案内の為見失ったが、今度は自分の方が有利だ。じきに大男の車を捉えた。
「もう、逃げられないぜ」
 唸ってファイティングポーズをとると、黒いサングラスの奥で大男が笑った。
「どうやら死なねば分からぬようだな」
 低く呟く声が辺りを凍らせる。鶴田は拳に力を入れた。
「いくぜ」
 鶴田が動く。ワン・ツーを繰り返し放ちながら攻めるが、難無くかわされるのが分かった。
「坊や、後悔するのはもう遅いぞ」
 大男はそう言うと、鶴田の一瞬の隙をついて鶴田の首に両手をかけた。かわす間も無く吊り上げられてしまう。
「愚かだな」
 嘲るように笑った大男が、手に力を入れていく。まるで嬲り殺すようにジワジワと締め付けられ、鶴田は顔をしかめた。しかし諦めるわけにはいかない。
 鶴田は渾身の力を振り絞って足を蹴り上げた。
「ふざけるな!」
 大きく叫んだその蹴りが、大男の顎に炸裂する。いかに大男といえど、これには仰け反らざるを得ない。鶴田の首から大きな両手が離れ、鶴田は空中で一回転して着地した。ひどく咳き込んだが、悠長に首を撫でている時間はない。
 鶴田の蹴りで大男のサングラスが飛んだ。醜く歪んだ獣の目が、日の光の下に晒される。
「小僧・・・」
 大男は低く唸り、鶴田を睨んだ。それはすでに人ではない。鶴田が真顔で正面からその視線を受け止める。
 大男の手刀が襲ってきた。辛うじて避けたが、風圧で頬を切ってしまう。
「へぇ、空手か。面白いじゃねぇか」
 内心死を覚悟で自信に満ちた声を出すと、一層大男は凶暴になった。次々と繰り出される手刀を後退でかわしながら、鶴田は男を見据えた。目を背ければ負けだ。しかし、いずれは追い詰められる。
 背後に大木が立っている。「終わった」と心で叫び、鶴田は両腕でせめてもの防御姿勢をとった。
 大男は次が最後と拳に力を込めた時、遠くサイレンの音が聞こえる。
 人が来る。
 大男は思い直し、鶴田に恨みの一瞥を残して車に乗り込んだ。鶴田にはもう、追いかける力は残っていない。喉にかけられた殺意と男の目が、鶴田を激しく咳き込ませた。
 頬を流れる血を拭う力もなく、鶴田はその場へ座り込み、遠ざかる車を見送るしかなかった。

 前夜祭が始まった。
 五階「孔雀の間」には、招待客は百人程度いた。どの客も艶やかな出で立ちで、裕福であろうことは一瞥できた。
 会場に並べられた各テーブルにはボーイがつき、招待客はフルコースの料理を食べながら、その脇をモデルたちが明日のショーに出品する作品を見につけて歩くというものだ。
 ブライダルファイブのオーナーの余越が、簡単に挨拶をして、乾杯の音頭が取られた。
 そして、番号札をつけたモデルが順に各テーブルを回って、華やかなドレスと宝石を招待客たちに見せた。
 都子は最後なので、陰から会場を見ていたが、その表情は決して晴れやかなものではない。
 信じたくはないが、しかし、都子のつけているティアラもネックレスも指輪もそうであるように、今日モデルたちが身に着けているアクセサリーのほとんどが盗品なのである。どれもが宝石店の奥に秘蔵されていた高級品である。
 やはり室戸が言っていたように、余越は宝石強盗事件に関係していたのだ。そして一連の殺人事件にも。
 では、この前夜祭は何の為に行われているのか。
 都子には分かった。
 各テーブルをモデルが行き過ぎると、招待客はおもむろにペンを走らせて紙に何かを書き込み、それをテーブルについているボーイに渡している。おそらくそのモデルが身に着けている宝石の金額、その客の買値であろう。
 つまりこの前夜祭は、盗品のオークションなのだ。
 だから一般人も記者も入れない。ここにいるのは、これらが盗品であることを知っている裕福なハイエナと、招待客にのみ気を遣うボーイという名の人形と、モデルという名の飾り物である。
「どうかしましたか」
 余越が近づいて、都子に笑いかけた。しかし、その笑顔の奥には鬼面が見え隠れしている。
 都子は辛うじて笑った。
「緊張しているだけです」
 胸に手を当ててそう答える都子の指に、良美の着けていたダイヤの指輪が光った。
 余越のこめかみが微かに動く。
「そうですか。肩の力を抜いて、自然に歩いてくださればいい。そうして立っているだけで、貴女は美しいのだから」
 褒め称える言葉が怖かった。都子は余越から視線を逸らせ、会場を見た。
「招待客は、どういった方々なのですか?」
 何気ない問いを余越は笑って流す。
「とても著名な方々ばかりですよ。政財界においても、各方面においても」
 だから一介の刑事などには手が出せないのだと、心の声が言っている。
 司会進行役の声が、都子の番号を呼んだ。
「さぁ、貴女の番だ。笑顔でゆっくりと歩いて来てください。お客様が貴女に注目するようにね」
 都子は余越の声を耳に、瞳を閉じた。
 今は何も考えてはいけないのだ。自分の知ったことを室戸に伝えなければならない。事件が解決すれば、もう鶴田が危険な目に合うことはないのだ。
 その為には、自分はこのショーを乗り切る他ないのだ。
 震えを自信に変えて、都子は一歩静かに踏み出した。

「お前、本当に危ないヤツだな」
 山崎が襲われたことを知り、病院に駆けつけた室戸が、鶴田の顔を見て呆れ返った。
 たいしたことはないとは言え、頬には大きな絆創膏がベッタリ貼り付けられている。
「怪力を立証されてる犯人に一人で立ち向かうとはね。命があっただけでもめっけものだぞ。危うく俺が都子さんとの約束を破るところだったじゃないか」
 軽口を煩わしげに聞いていた鶴田が、仏頂面を向けた。
「都子がなんだよ」
 爆発寸前の声を室戸はため息で受け止めた。言えば、鶴田は黙っていないだろう。しかし、室戸は敢えて隠そうとはしなかった。
「お前を気遣って、俺に頼んだんだ。もしお前が危険な目に合うことがあれば、助けて欲しいって。彼女、自分が捜査に協力するから、お前を頼むってさ」
 言い終わらぬうちに、鶴田は顔を歪めて立ち上がった。
「まさか、都子を囮に使ったのか」
 怒気を含んだ声が、病院の廊下に響いた。室戸ははっきりと頷いた。
「そのまさかだよ。お前の安全と引き換えにな。だから、お前は無茶するな」
 鶴田の目がカッと見開かれ、怒りに震える拳が涼しげな目前の青年の顔めがけて繰り出される。
 室戸の微かな反応でかわされるであろうと思われた拳は、室戸の左頬を直撃した。
 全身で鶴田の怒りを受け止めて、それでも平然と立っている室戸の唇から血が流れた。
「いいパンチしてるじゃないか」
 苦笑で血を拭う室戸を、鶴田は見つめた。
「てめぇ、今ワザと殴られただろう」
「いや、避け切れなかっただけだ」
「嘘だ。俺が拳を振り上げた時、てめぇは咄嗟にサイドステップでかわそうとした。それを思い直したように俺の有効射程にまで身体を戻したんだ」
 冷静さを取り戻すように、鶴田はゆっくりと拳を収める。
 室戸が笑って首を振った。ここまで見破られては仕方ない。
「ま、どっちでもいいさ」
 晴れやかに言って、山崎の入っている病室を見た。
「山崎教授の意識がはっきりすれば、余越と事件の関係も分かるだろう。そうすれば令状がとれる」

 前夜祭という名の盗品オークションが終わり、場所はスカイラウンジに移った。
 招待客のほとんどはフルコースで満腹になった腹と、大金を渡して手に入れた盗品の宝石を抱えて家路についた。それでも数人は並み居る女子大生やOLに囲まれていたいらしく、残って酒をあおっている。
 モデルたちは身に着けていたウェディングドレスと宝石を脱ぎ、鮮やかなイブニングドレスに着替え、招待客との談笑を楽しんだ。貸切のスカイラウンジは、華やかなものになった。
 都子もその中で同じ大学の女生徒の一群に紛れていたが、余越が多くのモデルに囲まれているのを見越して、ラウンジから出た。
 ウェディングドレスの時と同様、カラードレス二着もそれぞれの色に合わせてエメラルドのブレスレットと、サファイヤのネックレスとイヤリングを身に着けた。どちらも以前室戸に見せてもらった盗品写真の中にあったものだ。
 早く室戸に連絡を取らなければ。
 携帯電話は取り上げられているが、隠し持っているテレホンカードがある。フロアの廊下の端に公衆電話があることは確認していた。
 周囲を見渡し、誰も廊下にいないことを確かめると、番号を押して坂北署の刑事課を呼び出す。
 電話はすぐに繋がった。
「亀川といいます。室戸さんに急いで伝えたいことが――」
 言葉はそこで途切れ、受話器のフックに大きな男の手がかかる。
 カードが飛び出し、引きつったような音を出す。まるで都子の代わりに叫んでいるように聞こえた。
 受話器を握り締め、背後に迫る大きな影を感じながら、都子は悲鳴を上げられぬまま、意識を失った。

 伊達からの連絡を受け、鶴田と室戸は東都ホテルへ急行した。ロビーラウンジに張り込んでいる若い刑事が駆け寄って来る。
「血相変えてどうしたんだ、室戸。山崎ってヤツは、駄目だったのか」
「まだ意識が戻らない。それより、余越はどうしている。都子さんから署に連絡が入ったが、すぐに途切れてしまったらしいんだ」
 鶴田はすでにエレベーターを呼んでいる。訳が分からず刑事は室戸を引き止めた。
「多分スカイラウンジだと思うよ。今日はこのホテルの三十六階より上はファイブの貸切なんだから外には出ないだろうし、さっき前夜祭が終わって招待客の大半が帰って行ったからさ」
 ゆったりと話す刑事を、彼が持っていた週刊誌で一発殴り、
「いいか、このホテルから出入りするものをすべてチェックするんだ。それから招待客のリストを手に入れろ。急げ」
 と指示を出すと、室戸はエレベーターに向かった。
 ガラス張りのエレベーターはゆっくりと昇って行きながら、美しい夜景を星屑の海に変えていく。しかし今の鶴田にも室戸にも、それを楽しむ余裕はない。
 ただ、焦りばかりが募る。
 鶴田は都子と乗った時のことを思い出していた。帰ろうかなと言った彼女の唇を塞ぎ、力の限り抱き締めた。細い身体が驚いて震えていたのをまだ覚えている。
「もう一度、殴らせてやろうか」
 鶴田の拳を見つめて、室戸が言った。
 鶴田は力なく首を振った。
「いや、この拳はあの大男の為にとっておくよ」
「無茶はするなよ。彼女の泣き顔なんて、一度見れば充分だ」
 鶴田が苦笑する。
「俺だって見たくねぇよ。もう、泣かせたくないんだ」
 決して。
 エレベーターがスカイラウンジのある三十八階を示して止まる。
「行くぞ」
 室戸が背筋を伸ばして先に立った。鶴田も真っすぐ前方を見据える。
 ドアは開き、目前で構えていたボーイが数人、二人に立ちはだかるように並んだ。
 室戸が警察手帳を見せる。
「坂北署の室戸だ。今すぐオーナーの余越さんに取り次いでもらおう」
 鶴田と十は違わないと言った室戸を、威厳が包んでいる。
 鶴田は一歩下がって状況を見つめていた。
 関係者以外立ち入り禁止とは言え、ことはブライダルショーである。取り次ぐくらいは造作もないのか、ボーイの一人が行ってしまった。
 室戸はその間、辺りを見渡す。この最上階はロビーが広く取られ、展望台としても好評の場所である。スカイラウンジはこのエレベーターからは正反対に位置し、ここからラウンジの様子を知ることはできない。
 程なく余越が笑顔で現れて、鶴田を見つけて手を差し出す。
「これは、都子さんの。どうされたのですか。こんな所へ来られるとは」
 鶴田はその手を取って握った。余越の顔が歪む。
「都子に急用ができたんですよ。時間は取らせません。すぐに都子をここへ呼んでいただけませんか」
 鶴田は明らかに威嚇している。余越が顔色を変え、鶴田から手を離した。
「それで、どうして刑事さんが一緒にいるんですか。都子さんに会うだけなら、貴方一人で来ればいい」
 余越が室戸を流し目で見つめ、問い質す。
 答えたのは室戸だ。
「この青年をロビーで見かけましてね。どこへ行くのか尋問したところ、恋人にどうしても伝えたいことがあってここまで来たのだという。だが、見て分かるようにどうも尋常とは思えなくてね。私が付き添いで来たという訳なんですよ」
 室戸が立て板に水式でスラスラ述べると、余越の顔も険しさを解く。
「確かに尋常ではないようですな。だがこちらとしても会社としての面子がある。明日のショーを控えて、わざわざモデル全員に部屋を取ったというのに、一人でも例外が出たのでは、苦労が水の泡だ。残念ですが、このまま引き取っていただきたい」
 目礼で踵を返す余越を、鶴田は引きとめようとするが、それは室戸に阻まれた。
「忘れるな。都子さんは余越の手の内なんだぞ」
 囁くように言いながら立ちはだかる室戸を押し退けることはできないまでも、だが鶴田は黙ってはいられなかった。
「山崎教授が殺されかけたんですよ、余越さん。教授は貴方の友人でしょう。心配ではありませんか」
 去りかけた余越が足を止める。凍りついた表情が、ゆっくりと二人を振り返る。
「山崎が? まさか・・・」
 鶴田の言葉を確認するように室戸を見た余越に、鶴田をエレベーターに押しやりながら室戸が答えた。
「えぇ、湯川先生や三枝良美さんを殺したのと同じ犯人でしょう。まだ、意識は戻りませんが、目覚めれば何か話してくれると思いますよ」
「山崎が・・・」
 余越は立ち止まったまま茫然と室戸を見つめていたが、室戸は笑顔一つ残したまま、鶴田を引き摺ってエレベーターに乗り込みドアを閉めた。
 ロビーに残った余越の周りに数人の男が集まる。
「大丈夫か?」「何故、刑事が?」「ばれているのか?」と小さな声で問い質す。
 そのすべてに「大丈夫だ」「心配ない」と答えながら遠い一群を見ると、容赦ない冷たい視線が向けられている。今日の招待客の中でも、『商品』に高値をつけた賓客だ。
 そのうちの一人が物陰から現れた男に目配せする。あの大男だ。何かを指示してそのまま何事もなかったかのように取り巻きを引き連れてその場を離れた。
 おもむろに近付いて来る大男。余越はガラスの向こうの夜景を見つめて、唸る。
「時間の問題、と言いたいところか」
 その声に答える者はいない。

 エレベーターの中で鶴田は室戸の胸倉を掴んだ。
「何故このまま引き下がる。せめて都子を連れ出せば――」
「落ち着け。モデルは都子さんだけじゃない。他にも人質予備軍はいるんだ。余越の脅しが分からなかったのか。下手に手を出せば、事態は深刻になるばかりだ」
 室戸の説明は納得できた。鶴田はエレベーターの中で座り込み、小さくなっていく表示を見つめた。
 室戸は試しに三十六階と三十七階を押してみたが、止まらない。どうやらエレベーターは、モデルや余越が泊まることになっているフロアには止まらないように制御されているようだ。その階へ用事のある場合は、一旦三十八階かもしくは三十五階まで上り階段を使うしかないだろう。しかし見張られているのは言うまでも無い。
「署に帰って至急対策を練ろう。付け入る隙はあるはずだ」
 室戸が鶴田に手を差し伸べる。鶴田は一瞥をくれて、ますます居座った。
「都子はどうする。人質だぞ。今夜中に殺されないっていう保証はどこにあるんだ」
「恐らく余越は都子さんに手を出すことはないと思うよ。自分の背中に火がついているのを、あいつは分かったはずだ。都子さんを盾に逃げるさ」
「それのどこが救いなんだよ。どこが」
 鶴田は喚いた。他にどうすればいいか分からなかったからだ。
「生きていてくれさえすれば、助ける方法はいくらでもある。忘れるな。まだ終わってないぞ」
 まだ生きている。
 そう繰り返しながら、室戸は遠く夜景を見た。鶴田も遠くを見つめながら、どこかに都子を感じた。
 そう、まだ生きている。
 鶴田は室戸が差し出す手を取った。
「都子はてめぇに協力して人質になった。なら、俺が必ず都子を助けだす。てめぇには、俺に協力する義務があるんだ。いいな」
 そう脅す鶴田を正面に、室戸が苦笑で、しかし確かに頷いた。

7.日曜日

スウィートルームのベッドで、都子は飛び起きた。とは言っても、手足がロープで縛られていて、起き上がることはできない。幸い白いイブニングドレスは裾が長く、足をすべて隠してくれていた。
 目の届く位置にデジタル時計があった。1時だ。いつの間にか日付が変わっている。
 ショーの本番まであと十時間。しかしショーに出ることはないだろう。いや、この部屋から生きて出られる保証もない。思えば室戸にかけた電話を切られた時、殺されると思った。今でも自分が息をしていることが信じがたい。
 昨日、鶴田の心配そうな顔が脳裏に残っている。
 自分をこのホテルの前まで送って来た時、鶴田は言いたかったのだろう。行くな、と。しかし選んだのは自分だ。この状況を誰のせいにするつもりもない。ただ。
「もう一度、会いたい」
 呟くと、涙が溢れる。それを止めるように枕に突っ伏すが、止まらない。唇を噛んでも無駄だ。
 ノックの音が三回鳴った。首だけ起こしてドアを見ると、ガウンを羽織った余越が大男を伴って入って来た。大男は紛れもなく、良美が殺された夜、都子と鶴田がすれ違った男だ。
「私を殺すんですか」
 思わず口に出す。
「そうしたくはなかったよ。正直、キミを気に入っていたんだ。キミは、殺されたあの二人とは親しかったのかね」
 ゆっくりと問う余越から、都子は目を背けなかった。
「いえ、三枝さんとは同じクラスというだけの知り合いです。湯川先生はただ学内の講師というだけで、授業は受けていませんから」
「そうか」
 都子の答えをどう受け止めたのか、余越は都子に近づきながら大男に合図をする。
 都子が息を飲み、目を見開くが、殺しの合図ではなかったようだ。大男の不満そうな顔に、
「この女に害はない。何も知らないようだ」
 と付けたし、部屋から出るように命じる。尚もその場に留まろうとする大男に向かって腹立たしげに再度部屋から出るようにと叱責する。余越の手が都子の裾に伸び、白い素足を撫でて上がる。
 都子は身を縮めて硬直するが、ザラザラとした無骨な手は、ゆっくりと白いドレスの裾を上げていく。
「私は、女性と楽しんでいるところを見物させる趣味は持ち合わせていない」
 躊躇していた大男も、白い太ももが露わになると、些かばつが悪い顔をして、無言で部屋を出て行った。余越はそれを確認すると、表情を無くし、都子の裾を元に戻して足を隠すと、ベッドサイドの椅子に深く腰をかけた。
 余越は少し考えていた。右手には、昨夜鶴田と握手を交わした時の彼の力が残っている。振り払うように指を動かしてもまとわり付く何かがあった。
「キミは、どこまで知っているのかね」
 敢えて小さな声で問いかけているのが分かる。周囲に気を配りながら、何かを探しているようだ。
 都子が黙ったまま次の言葉を待っていると、余越は自嘲気味に笑い、
「気付いただろうが、前夜祭は盗品の宝石を売りさばくショーなのだよ」
 と頭を抱えるように項垂れ、話し始めた。
「この盗品売買は、最初湯川が提案してきてね。その時は山崎も一緒だったしもちろん冗談から出たものだが、湯川は執拗にその話を私にしてね。自分も協力するからしてみないかと乗せられたのだよ」
 その時のことでも思い出しているのだろうか、余越は床を見つめながら訥々と語った。
 湯川は、山崎も知らなかったが、そうとう金遣いが荒く、しかもつきあう女といえば金食い虫のようなものばかりだった。それでとにかく金を欲しがったという。
「それ以外には女を引き止める手段を見つけられなかったのだろう」
 苦笑を漏らして余越が続ける。
 そして、余越もまたより多くの金を求めた。湯川の提案を実行する為の協力者は徐徐に増えていき、やり方も大胆になっていった。すでに余越一人の裁量でどうにかなるものではなくなっていた。それでも完璧な計画を立て実行していたが、ここで思わぬ人物が出て来た。
「三枝さん、ですか」
 都子が問うと、余越が呆れたような顔を見せて頷いた。
「あの女は計算外だったよ。しかも湯川の行動もね」
 湯川は三枝良美の気を引く為に、手元にあった盗品を見せてしまったのだ。そしてその中でも目に付くダイヤの指輪をねだられて、それを良美に贈ってしまった。
「山崎のゼミであの指輪を見つけ、正直湯川が理解できなくなったよ。自分もまた宝石強盗の共犯であることを、ヤツがどう思っているのかね。しかし、考えている余裕はなかった」
 その日のうちに、余越の態度を不審に思った良美が湯川に問い質し、強盗のあらましを聞きだした。一変して良美は脅迫者になる。
「盗んだ宝石を自分に寄越せとね。それから口止め料として一千万円だ。そうしなければ、私のことを警察に訴えると言った。私は笑ったよ」
 笑って余越は湯川に連絡を取り、このホテルに二人で来るように言った。そして湯川への見せしめの為、湯川の目前で良美を殺した。手を下したのは先程いたあの大男である。
「それで湯川も大人しくなると思っていた。どんな男であろうと、湯川は山崎の甥だ。その為だけに生かしておいたものを、奴は警察へ行くと言い出した。すべてのカラクリを知っている奴だ。私の一存では、もう守りきれなかった」
 そして、殺されたのだ。
 余越は先程から暗に『単独犯ではない』ということを殊更強調しているように思えた。盗んだ宝石を現金に換え、一方で殺人までいとわない人間を操る存在がいる。
 だが、発端はあくまでも余越と湯川のようだ。
「どうして私に、そんなことを教えてくださるんですか」
 都子の問いかけに、余越は惑うように首を横に振りながら笑った。滑稽というより他にないという笑いだ。
「私が事件に関わりがあると気付いた山崎も、殺されかけたようだ。あの大男の報告では、キミの彼氏に邪魔されてできなかったようだがね」
「鶴田くんが?」
 都子が息を飲み、余越を見つめた。まさか・・・。
 都子の気持ちを察するように、余越が微笑で首を横に振る。
「先程の男がキミの彼氏も殺そうとしたのだそうだが、それは出来なかったようだ。昨夜、キミを気遣ってホテルまで来たよ。確か、室戸とかいう刑事と一緒にね。それで考えたのだよ。キミは人質としては上物だとね。あの様子では、キミの彼氏と室戸という刑事はかなり親しいのだろう」
「・・・・・・」
「ということは、キミは警察に対して格好の餌になる」
 余越はゆっくりと立ち上がり、都子の耳元で囁いた。
「生きていたければ、私の言う通りにするんだ。わかったね。キミが私の切り札であるように、私はキミの命綱だよ」
「――どういうことですか?」
 意味が判然とせず、間近にある余越の目を見つめたが、答えは返って来なかった。
「さて、無駄話はこの辺で終わろう。キミには残念だがショーは欠席してもらうよ。少しでも長く生きながらえていたければ、私の言う通りにするんだ」

 坂北署の刑事課は全員集合していた。
 机に広げた東都ホテルの見取り図を凝視しているものの中に、伊達部長刑事と室戸と若い刑事の顔もあった。
「現在、人質になっているだろうと思われる亀川都子を含め、モデルは総勢二十名程度。皆三十六階と三十七階に分かれて宿泊しています。そしてエレベーターはショーが始まる時刻まで、この二つの階には止まらないよう制御されている」
 伊達が補足説明をしながら、課長の意向を伺う。
「自分といたしましては、何よりも余越洋通を任意同行の上、取調べたいと思うのですが如何でしょうか。このまま手をこまねいて見ている訳にもいかないでしょう。人質もそうですが、おそらく盗まれた宝石はホテルにあると思われます」
「しかし、今の段階では令状はとれないのだ。余越に手を出すのは早計過ぎる」
 課長が反対を唱え、伊達は黙った。
「前夜祭の招待客リストを見ても分かる通り、余越はあらゆる方面に通じている。もし証拠不十分となれば、吊るし上げを食らうのは、我々の方だ」
 課長は若い刑事が手に入れてきたリストと睨めっこをしたまま、冷たく言った。責任問題はたとえ部下の為したことでも上司たる課長に回ってくるのだ。近々栄転も決まっているこの課長は、少しでも危ない橋を渡る気はない。
「じゃ、出来ることって言ったら、東都ホテルを包囲して、ウミが出てくるのを待つことですね」
 室戸が軽口を叩くように言った。課長が苦虫をかじった顔をしたが、室戸は一向に構わない様子で続ける。
「今日はショーの本番だから、いかに余越と言えども隙ができると思います。それに本番には一般人や記者連中も来る訳ですから、人の出入りも激しいし人目は多い。ショーに出演するモデルたちに関して言えば、見物人皆が命の保証をしてくれてることになる。問題はただ一人」
「亀川都子さん」
 若い刑事が合いの手を入れた。室戸が頷いて先へ進む。
「それも、もし亀川都子がモデルとして出てくれば、特に問題はない。出て来ない場合については、その時考えよう。もう一つ問題の盗品ですが、ね。俺が思うに、もうあのホテルにはないんじゃないかと」
「どう言うことだ」
 課長が聞き咎めた。室戸がその手元にあるリストを指差す。
「その招待客。確かに政財界のお歴々なんですがね、言い換えれば警察が手を出しにくいって共通点があるんですよ。つまり、盗品を売る相手としては絶好の集団って訳だ」
 伊達が話しに口を挟む。
「まさか。盗品はすでに換金されているということなのか」
「かなぁと思って。誰だって、現金を握ってる方が安心するでしょ。それで前夜祭に仕掛けをして、宝石を現金に換える。それに出演していた都子さんが盗品に気付いて俺に連絡をした。そして、捕まった」
 都子に盗品の写真を見せたことを、室戸は後悔していた。
 こうしている間、鶴田は駐車場に停めたBMWの中で何を考えているのか。逸る気持ちを抑えてシートに沈む青年の横顔が目に浮かぶ。
「だから盗品に関しては別に動きましょう。もしこの考えが当たっているとすれば、かなりの人間が裏事情を知っているはずだ。となれば、盗難にあった宝石店もツルと考えたほうが妥当かな。調べてみる価値はあると思いますよ」
「ならば、最近の三件の宝石強盗について、もう一度当たろう。盗難保険についても調べろ」
 伊達は何人かの刑事に、すぐに動くよう命じた。
「で、お前はどう動くんだ。室戸」
 若い刑事が室戸の顔を覗き込むと、笑顔が返ってくる。
「大っぴらに余越を引っ張れないならば、ドサクサに紛れて進入して、混乱させるしかないかなぁ」
「そんなに単純でいいのかな?」
 若い刑事が真剣に小首を傾げている。
 その呟きを無視し、
「ここは先手必勝。動いたほうが、上層部のエライ方々にも好印象でしょう。カブが上がりますよ。課長」
 と、課長を丸め込むように真顔で言って、室戸は伊達に合図をした。
 伊達が咳払いで受ける。
「それではまず、ホテルを包囲して様子を見よう。私がホテル前で総指揮を執りましょう。室戸は、ショーの開始と共に速やかに人質を見つけ出し保護するように」
 それから入念に打ち合わせが行われ、課長抜きの計画が立てられて、刑事たちは方々に散った。

 坂北署の駐車場にBMWが停まっている。
 鶴田はシートを倒して目を閉じている。車内にはショパンが流れている。
 都子の一番のお気に入りだ。しかし助手席に都子はいない。
「大丈夫だ。必ず助け出す」
 うわごとのように呟くと、誰かがフロントを叩いていた。目を開けると室戸が紙袋を持って立っている。一緒に若い刑事もいた。
「捜査はどうなってるんだ。都子は助けられるのか」
 ロックを解除し、室戸が助手席に乗り込んでくると、鶴田は勢い込んで問うた。室戸が答える代わりに紙袋を渡す。まだ暖かいハンバーガーだ。
「食えよ。これから一暴れするんだ。空腹じゃ話にならん」
「悠長に何を言ってるんだよ。今日が本番なんだぞ」
 尚も喚く鶴田の口にパイを放り込んで、室戸が黙らせた。
「協力するって言っただろうが。ちゃんと突撃許可はもらってきた。ただ都子さんの命に関わることだ。気を抜かずに俺の言う通り動くんだ、いいな。分かったら、食え」
 そこまで言われて鶴田は渋々納得し、熱々のパイを食べ始める。正直腹は減っていた。
 後部座席に納まった若い刑事も、次々と袋の中のものを平らげていく。
 無言でハンバーガーを二つペロリと平らげると、室戸が苦笑で缶コーヒーを渡す。
「この曲、ショパンか」
 笑って問う室戸から、鶴田は照れ隠しの仏頂面を背けて、短くそうだと答えた。
「都子さんの趣味って感じだな」
「そうだよ。悪いか」
「いや、単純にお前に似合わないと思ってさ。て、――お前、そんなに怒りんぼで、よく女の子と付き合えるな。都子さん、嫌がらないのか?」
「ケンカばかりしてるよ」
「だろうな」
 至極当然という顔で納得する室戸に噛み付こうとすると、後部座席から若い刑事がにこやかにフォローする。
「大丈夫だよ、鶴田くん。室戸も嫁さん怒らせてばっかだから、キミのことは言えない」
 親指を立てて太鼓判を押す刑事の言葉に、改めて室戸を見た。
「え。既婚者なのか!」
 この年上の割りに童顔で、反面親父くさい青年が・・・。
「誰も『独身』だなんて言ってないだろ。成人男子なんだから、嫁の一人くらいいるさ。ついでにもうすぐ子供が生まれるぞ」
「子供・・・」
 真剣にショックを受けている鶴田に苦笑して、室戸はポテトを頬張った。
 ショパンのバラードが静かに流れる。
 本来ならば今日は都子の晴れ姿を見て、近い将来のことでも考えていただろう鶴田を、こんな所で一人で座らせてしまったのだ。謝って済むことだとは思っていない。
 その気持ちが分かるのか、鶴田は顔を正面に戻した。
「俺が都子を無事助け出すから、てめぇは少し手を貸してくれればいいんだ。都子が戻ってくれば他はどうでもいい」
 コーヒーを飲み干して笑って見せる鶴田を見て、室戸がいつもの顔に戻る。
「そうか。じゃあ、地上が満天の星空になる前にケリをつけよう」

 時計は九時を告げている。ショーの開始まであと二時間。
 東都ホテルの三十七階のスィートルームは、物音一つしなかった。
 リビングルームでは、余越が部屋の中央に設えられたリビングセットに座り込んでいた。隣の寝室にはまだ目覚めていない花嫁が横たわっているだろう。
 最後の切り札である。
 昨夜の室戸の口調からすれば、警察は殺人事件に自分が関わっていると感づいているのだろう。そして警察に目を付けられていることは、昨夜の騒動で周知の事実だ。
 あの大男の様子が怪しい。何か、余越の知らないところで動いている。
 盗品の宝石は昨夜のオークションですべて現金に換わり、既にベンツのトランクにぎっしり詰まっている。後はショーに皆の気が集中している頃合いを図り、駐車場まで下りればいい。
 準備は整っている。なのに、どうしたというのだろう。心の隅が焦っている。
 余越は、祈った。
「山崎、頼む。生きていろ」

 坂北署は東都ホテルの要所を刑事で固め、時を待った。
 鶴田のBMWがホテルの地下駐車場に停めてある。運転席では鶴田がハンドル越しに余越のベンツを見つめ、その隣で室戸はガムを噛んでいた。煙草を吸いたいのはヤマヤマだが、鶴田がそれを許さない。このBMWは都子の強い要望で禁煙車である。
 鶴田は煙草を吸わないが、ほどほどに嗜む室戸にはツライ時間である。時折内ポケットに手が伸びるが、吸うまでにはいかない。都子の要望とあっては、室戸も従わざるを得ないらしい。
 室戸は地下出入り口に待機している刑事を見ながら、手元の携帯で状況を把握していた。ホテルのロビーには刑事が張り込み、エレベーターはチェックされている。
 しかし今日はブライダルショーの本番ということもあり、人の出入りはいつも以上に激しい。どうやら、余越は混乱を見越して案内状を出しているようだ。あらゆる方面の記者やファッション関係者、これに一般客が加わるのだ。六階「鳳凰の間」でも、これだけ集まれば身動きが取りにくいだろう。
 内部の状況を聞きながら総指揮を取る伊達部長刑事の当惑顔が、イヤホンから聞こえる喧騒に見える。
「分が悪いかな」
 室戸がぼそりと呟く。
「いっそホテルのボーイにでも化けて、余越に張り付いてた方が効果的かもな」
資格やる気もないことを言いながら暇を潰しているのが、鶴田にも分かった。室戸は昨夜余越に身元をばらしている。他の刑事を送り込もうにも、時間的余裕はなかった。
 時計が十一時を告げようとしている。
「どうするんだ。このままここで待つのか」
 鶴田が問う。その声には室戸に敵対する調子はまったく含まれていない。否。絶対の信頼を置いていると言っても過言ではない声だ。
「どうするかな。ショーが始まると同時に突入とは思ってるけど」
 室戸がガムで風船を作って、割った。
「ひとまずショーを見に行こうかな。余越が最初、挨拶をするはずだ。その顔を見て今後を考えるよ」
 室戸は軽く言うとBMWを降りた。若い刑事が笑ってベンツの張り込みを引き受けた。
「そんなに悠長でいいのかよ」
 と続けながら、鶴田も車を出る。そう言えば、安部と智恵の車はまだ来ていない。ショーには来ると言っていたが、どうやら遅刻のようだ。
 都子が危険に晒されていることは、まだ話していない。言えば智恵が怒鳴るだろう。
 苦笑して鶴田は室戸の後に続いた。

 ショー開始の時刻だ。
 余越は舞台中央に立ち、朗々たる声で挨拶をした。室戸と鶴田は会場の端で静かに見つめている。
「では、じっくりとショーをお楽しみください」
 深々と礼をして、舞台袖に下がった余越に代わり、モデルたちがその初々しい笑顔と華やかなドレスを万人の前に披露していく。
 室戸が動く。何かが気に掛かるように、一点を見つめて移動する。鶴田もそれに続いた。

 その頃、分厚いメガネをはめた大柄のボーイが従業員専用エレベーターで大きな荷物を運んでいた。客用エレベーターはチェックされているとは言え、こちらはノーマークだ。
 大男は地下駐車場まで一気に降りると、目前のベンツに近づいた。
 若い刑事が近付いて来る。
「何をしてるんだ、お前」
 ボーイの手を掴もうとする刑事の腕が反対に強い力でねじ上げられ、そのまま打ちのめされて気絶した。決して小柄ではない刑事の身体を車の陰に隠し、ボーイは荷物を開けて中のものを取り出した。
 白いドレスを着て手足を縛られ、口をガムテープで塞がれた都子だ。
 ボーイは悠然と都子の身体を後部座席に乗せると、運転席におさまりメガネを外した。
 鶴田が拳を交えたあの大男である。

 室戸は走った。
 関係者控え室に入ったと思われた余越が、消えたのだ。
 無線機で伊達に連絡し、非常階段へ向かう。張り込んでいる刑事に誰が通ったか問い質すが、誰も通らなかったとだけ返ってくる。
「エレベーターはどうだ」
 無線機に怒鳴ると、エレベーター前で張り込んでいる若い刑事が大声で異常なしと告げる。
「ヤバイな」
 呟いて考え込む室戸を置き去りに、鶴田はエレベーターへ向かった。もうじっとしてはいられない。
 刑事が止めるのも聞かず、エレベーターに乗り込んでスイートルームのある三十七階を押す。
 室戸はまた別の道を取った。
 関係者控え室に戻り、ホテルの支配人を捕まえる。
「ここから急いで移動する場合、貴方ならどうする?」
 問いの意味が分からず、支配人は答えた。
「ここからですと、あのドアから従業員専用のエレベーターへ向かいます。業務用ですので速度もお客様用に比べれば数段速くなっておりますから」
 室戸は指差されたドアへと向かった。一歩出るとそこは冷たいオフィスのような場所だ。たちまち使用しない椅子やテーブルが重なる向こうに、エレベーターのドアがあった。表示は上層部を向いている。
 室戸は舌打ちすると、その場を離れて客用エレベーターへと向かう。業務用を待っていたのでは余越に逃げられる。
「どうしたんだ、室戸」
 叫ぶ刑事に、
「余越が逃げるぞ。ショーの関係者は外へ出すな。他を張ってる奴らにも連絡しろ」
 怒鳴ってエレベーターに入る。鶴田はすでに三十七階に着いているだろう。間に合えばいいがと祈るように唇を噛む。
 三十七階に着き、ドアが開いた瞬間、室戸は絶句した。
 スイートルームの前に男が二人横たわっている。
「何があったんだ」
 見ればどちらも余越の部下である。駆け寄って抱き起こすが、気を失ったままだ。スイートルームのドアが開いている。
 懐の拳銃を抜き、ロックを解除して進んでいく。
 先に来たはずの鶴田にまで何かあったのではと、焦る気持ちを抑えながらリビングルームを威嚇する。人の気配はない。そのまま進んでベッドルームのドア越しに拳銃を構えると、鶴田がベッドサイドに立っていた。
「いないのか」
 問いながら拳銃を収め鶴田に近づいて息を飲んだ。
 鶴田が手にしているのは、細く白いハイヒールだ。
「まさか、都子さんが履いていたものか」
 答えはない。
 室戸はそれ以上言わず、外へ出た。フロアの端にリネン室がある。そこへ行き、中を覗くとボーイが一人倒れていた。その後ろに業務用エレベーターがある。この階で止まっていたが、中に人はいない。
「やられたな」
 真顔で呟き無線機に呼びかける。おそらく余越は一旦地下へ行き、エレベーターを降りる時、三十七階のボタンを押しておいたのだろう。エレベーターは指示された通りここまで来ただけだ。
「伊達さん、聞こえますか。余越はすでにいませんでした。亀川都子も見当たりません」
 言って回線を開くと、怒鳴り声が聞こえた。
 この混乱をどこから修正すればいいか分からないというところだ。すでに皆がホテルに突入しているだろう。しかも室戸の連絡を受けて、すべてこの上層階目指しているはずだ。
「間に合わない、なんてことにはさせられないな」
 苦笑で呟くと、後頭部に衝撃を受ける。
「当たり前だ。まだ終わっていないんだ。俺が諦めてないんだから、俺に協力するあんたも諦めるな」
 鶴田はそう言って、業務用エレベーターに乗り込んだ。
「ヤツが逃げるとすれば、どこだと思う。空か? 海か?」
 目で急ぐように合図して、鶴田は問う。
「・・・クルーザーだ」
 室戸は答えて乗り込んだ。エレベーターは急降下していく。
 立ち止まっている暇はない。鶴田のBMWに向かい、乗り込もうとすると親しい声がかかる。
「どうしたの、鶴ちゃん。血相変えてさ。しかもショーに出てるはずの亀川さんがさっき余越さんとベンツで出て行ったけど、ショーの変更でもあったのか」
 智恵を横に安部が立っていた。鶴田が叫ぶ。
「安部。さっき出たっていつだ?」
「さっきって、今だよ。五分経ってない。どうかしたのか、亀川さんなんて口元おかしかったし」
 ガムテープとまでは確認できなかったのだろう。ただ呆気に取られているという感じだ。
 智恵が心配そうな表情で鶴田を見る。
「まさか、都子に何かあったの?」
 問われるが、答えることはできない。代わりに鶴田は笑顔を見せた。
「ここで待ってろよ。とびきり奇麗な都子を見せてやるから」
 それに続く答えは聞こえない。

 ベンツはクルーザーの前で止まった。
 余越が車から下り、手足のロープを解き、口を覆っているガムテープを剥がして都子を引きずり出す。
 裸足の都子は、痛みを感じながら地面に足をつけた。
 大男が都子を引き取ろうとすると、余越は厳しく制して指示を出す。
「トランクの金を船に積め。急げ」
 一瞬大男が躊躇するが、それには目もくれず余越は荒い仕草で都子を引き摺るようにして船の中に入って行った。
 そこへ一台の車が乗りつける。
「余越は?」
 降り立った黒ずくめの男が問うと、大男はクルーザーを示す。
「女と中へ入った。殺されると察しているようだ」
「そうか。お前は予定通り、余越を消せ」
 大男は無言で頷いて手に持っていたベンツの鍵を黒ずくめに投げ、そのまま船の中へと入っていった。
 余越は一心不乱に先を急いだ。
「どうするんですか、これから――」
 クルーザーの通路を上の階に向かいながら、都子は腕をとられたまま、余越の背中に訊いた。何かに追い詰められているように、余越に余裕はない。一層都子の腕を取っている手に力を込めた。
「急ぐんだ。今度こそ殺されるぞ」
「何を言っているんですか」
「あの大男は、私が雇っているものではない。山崎を殺そうとしたように、私の命も狙ってくるだろう。私が死ねば、キミも殺されるぞ」
「何故、余越さんが殺されるんですか」
 足にまとわりつく裾を払いながら、都子は余越の速度に合わせて走った。都子自身が狙われているのはわかる。だが、余越は犯人側の人間だ。
 何故。
「私が――」
「お前が、すべてを知っているからだ」
 突然陰から現れた大男が都子を突き飛ばし、余越の首元に手を伸ばした。
「逃げろ!」
 大男の大きな手から喉を守るように抗いながら、余越が叫ぶ。
「キミは、いきなさい!」
 壁に打ち付けた肩を庇い立ち上がった都子に、余越は叫ぶ。まるで藻屑のように抵抗することを許さない大男の力が、余越を締め上げたまま海へ突き落とそうとしている。
 都子は咄嗟に通路に設置された消火器を取り、素早くピンを抜くと思い切り大男に向けてレバーを握った。
 白い噴煙が大男の視界を遮り、息が切れる。
 咳き込んで、手の力が緩んだ瞬間、消火器を振り回して大男の足を払うようになぎ倒した。
「貴様・・・」
 余越の首から外れた両手で虚空を掴み、憤怒の形相で都子を睨んだ大男の顔面に、残った消化剤を噴射した。膝を痛めて片膝立ちになりながら身悶える大男を尻目に、喉を押さえながらも辛うじて立ち上がる余越の腕を引き上げ、都子は先を急いだ。
「走ってください。必ず助けが来ますから」
「彼氏かね」
「はい。必ず来ます。だから、諦めないで」

「よぉし、そこまで。お前ら、手を後ろに組んでくれるかな」
 余越のベンツから幾つものトランクを下ろしていた男二人に、数台の車が取り囲むように急停車し、中から降り立った刑事がすべて、拳銃を構えて威嚇する。
「ご苦労だね。でも、素人だよね。もう少し上手く逃げることを考えようか」
 お道化た室戸の軽口。その頭上から争う声が聞こえる。
 鶴田が反射的に船に乗り込んだ。
 次々と到着する警察車両が、ベンツを取り囲むように停車する。
「こいつら捕らえて、伊達さんに連絡。ショーの関係者すべて身柄拘束って言って!」
 室戸が鶴田の後を追いながら、駆けつけた刑事に指示を出す。威勢のいい声が返って来た。
 クルーザーの中を上へ向かって走りながら、鶴田は心の中で一身に祈った。
 生きていろ。
 海を眼下に見ながら走ると、白い靄の中でうずくまる大きな背中が道を塞いだ。
「お前・・・あの時の・・・」
 東都ホテルのエレベーターですれ違った男。湯川のマンションから立ち去った男。そして、山崎を絞め殺そうとし、鶴田と拳を交えた男。
 大男は多少右足を引き摺るような様子を見せながらも、ゆっくりと立ち上がり、鶴田の方を向いた。顔に白い粉がかかり、右目は開けられないようだ。だが・・・。
「いつかのヤツか・・・。行かせはせんぞ」
「お前こそ。今度は思うようにいかないよ」
 鶴田が構えて息を整えると、背後からそれを邪魔された。
「鶴田、お前は余越を追え」
 室戸が鶴田を押し退けて立ちはだかる。
「こいつは、俺の客だから。お前は先へ行くんだ」
「だけど、こいつは強いぞ。大丈夫なのか? あんた」
 真剣に心配すると、頭に手刀が飛んできた。
「バカヤロウ、俺を誰だと思っているんだ。刑事だぞ。一応鍛えてるんだよ、これでも」
 わかったらさっさと行けと突き放され、鶴田は意を決して大男の横をすり抜ける。
「行かせるか!」
 と叫んだ大男が鶴田に掴みかかろうと咆哮を上げて、止まった。
「だから、お前の相手は俺なんだってば」
 室戸が正面から大男の両腕を封じる。余裕の表情を浮かべて、室戸は大男を見据えた。
「会いたかったぜ、でかいの」
「死にたいと見えるな」
「今、そのでかい顔に、鶴田につけた傷の三倍のものをお返ししてやるよ。でないと、彼女に言い訳できないからな」
 殴られてやる気はないようだ。その声には、やたらに自信があった。
 鶴田は二度と振り返ることなく、先を急いだ。

 太陽が降り注ぐヘリポートまで上がると、余越と都子は歩を緩めながら海側の先端へと向かう。ヘリはなく、広い平面が青い空に映えている。
 後ろを追ってくる者はいない。
「何故、私を助けようとしたんですか」
 荒い息を整えるように肩を上下に動かしている余越に、都子は尚も腕をとられた形でしたがっていた。先程、余越が大男に捕まった時、明らかに余越は都子を逃がそうとしていた。
 生きなさい、と。
 余越は暫し都子の顔を見返しながら無言でいたが、やがて自嘲気味に笑って目を逸らした。
「キミを助けようとしたのではない。ただ、私なりの始末の仕方を考えただけだよ」
「始末?」
「山崎は、私の一番大切な友だ。あいつがいたから、私はここまでやってこれた。どんなに辛く苦しい時も、山崎の変わらない態度は、私の救いだった。それなのに私は、あいつを裏切り、危険な目に合わせてしまった。――キミを巻き込んだことも、申し訳なく思っているよ」
「何故、私にモデルをさせようと思ったんですか? 他にももっと適役はいたはず。ましてこの事件に気付かずに、貴方を追い詰めなくて済む子は、沢山いたはずです」
 もし都子でなければ・・・三枝良美や湯川正光と面識のない者であれば、もっと違った形があったかもしれない。
「確かに・・・」
 余越は小さく呟いて、ヘリポートの端に立った。眼下の遥か下の海が、波打っている。
 無防備に落ちれば、命の保障はない。
「確かに、キミ以外のお嬢さんであれば、こんな追い詰められ方はしなかったかもしれない。だが、私はこういう末路を思い描いていたのだろう。友人を傷つけ、いつの間にか深みにはまってしまった自分に、始末をつけたかったのかもしれない」
 惑うように瞳を半分閉じる。あいている手で都子の頬に手を当てると、まるで許しを請うように目を細めた。
「キミは不幸の匂いがしない」
「え?」
「キミを傍に置いておけば、きっと最悪のことから逃れられると思っていたのだよ。勝手な話ではあるがね。山崎との繋がりもあり、またあの真っすぐな目の彼氏との繋がりもあるキミならばね。そしてあの刑事。だが、もう充分だ」
 今度は首を垂れて、都子から離れた。
 挙げた視線の先に、鶴田が立っている。
「余越さん、都子を返してもらおう」
 息を切らしながらも、屹然と余越を睨み鶴田は構えた。余越が余裕のある微笑を浮かべて半歩後退する。
「キミが来たということは、警察も到着したということかね」
「そうだ。あんたの頼みの綱の大男も、今頃捕まってるよ」
「そうか。ありがとう。山崎に、すまなかったと伝えてくれ」
 最後の言葉は傍に立つ都子に向けられた。余越の身体が力を抜き、大きく揺らいで遥か下の海へ向かって落ちる。
「駄目よ、余越さん。死んでは駄目」
 咄嗟に余越の腕を掴んだ都子の身体も、引き摺られるように甲板から海へズレ落ちる。
「馬鹿野郎。何やってるんだ」
 反射的に都子の身体を抱えて押し留め、片方の手で余越の手首を掴み、鶴田が大きく叫んだ。
 余越の身体が舳先から落ち、宙に浮いている。鶴田が余越の手首を握り踏ん張った。都子も手を貸すが、用を成さない。大柄な余越を一人で引っ張り上げるには、力が足りないようだ。
「放しなさい。キミ達まで落ちるぞ」
 余越が言った。
「うるせえ、黙ってろ」
 歯を食いしばって余越の手首を握る手に力を入れる鶴田の身体も、甲板から大きく海へ落ちようとしていた。
 都子は祈るように両手で余越の手を掴み、大きく助けを呼んだ。その瞳から零れた涙が、遥か海を下に揺れる余越の頬に落ちた。
 鶴田が諦めかけた時、その腕が伸びた。
「セーフかな」
 余越の襟を掴んでとめた室戸が、笑顔で鶴田と都子を見る。余越の身体が甲板に戻った。
「遅いぞ」
 睨む鶴田も、大きく息を吐きながら笑みが零れた。
 引き上げられた余越に、遅れて駆けつけた若い刑事が手錠をかける。
「あの大男は捕らえましたよ。それから、山崎教授も意識を回復したそうです」
 そう言うと、余越は力の抜けた顔で微笑した。
「良かった」
 それがどういう意味なのか、誰も問わなかった。直に応援もかけつけて、すべてコトは収まるだろう。
 室戸が笑う。
「どうやら、これ以上お前に殴られなくて済みそうだな」
 そう言って右手を出すと、鶴田も笑って右手を出す。
「室戸さんが来てくれなかったら、今頃――」
 都子が言いかけると、室戸が左手で都子の口を塞いだ。
「その台詞は、俺にくれるものじゃない。後でじっくり彼氏に言うんだね」
 ニコニコと笑顔で触れる室戸に、鶴田は握っていた右手を離して都子を背中に隠す。
「だからてめえは馴れ馴れしいって言うんだよ。都子に触れるな」
「調子が出たな。そうだ、言い忘れてた」
「何だよ」
「都子さん、白いドレスが似合ってるよ。今度教会で着るときは呼んでくれ。その時、隣でマヌケ面さげて立ってるのがお前だといいがな、鶴田」
 室戸はおどけてウィンク一つすると、二人に背を向けた。
「あんたこそ、いい親父になるんだな」
 鶴田が苦笑で見送った。その腕に寄り添う都子が、鶴田の頬に手を当てる。大男に切られた傷に絆創膏が貼られている。
「この傷、ひどいの?」
 一転して、今にも泣き出しそうな瞳になった都子に間近で見つめられ、鶴田は言葉を失った。
「鶴田くんが大男に殺されかけたって聞いて、心臓が止まるかと思ったわ」
 鶴田が生きていることを確かめるように、都子は鶴田の胸に耳を当てる。少し早い心臓の音が、規則正しく聞こえる。確かに生きている。
 鶴田は優しく細い身体を抱き締めた。
「俺だって、死ぬかと思ったよ」
 苦笑でぼやき、愛しい肢体を感じる。都子も素直に鶴田に寄り添った。
 遠く室戸が二人を見返す。
「そこの善良な市民二人。事情聴取に付き合えよ、送ってやるから」
 邪魔しているのはミエミエだ。
 鶴田が「最後まで邪魔する気だな」と悪態をつく。しかしその表情は穏やかだ。
「行こう、都子。安部と斉藤が待ってるんだ。とびきり奇麗なお前を見せるって約束したんだ」
 そう言って一歩踏み出すと、都子がドレスの裾を少し持ち上げて足先を見つめた。
「痛いと思ったら、裸足のまま連れて来られたんだわ」
 今まで忘れていたと、細い足先を見て都子が笑ったが、急に足をすくわれて小さな悲鳴を上げる。目前に鶴田の横顔があった。
「このまま教会に行くのもいいかもな」
 細い身体を抱き上げて少し戸惑った後、照れくさそうに笑う鶴田の首に、都子は素直に腕を回し深くくちづけた。
 白いシルクのイブニングドレスの裾を、海風がもてあそぶ。
 後日、余越は山崎を、山崎は余越を庇いながらも、事の真相をすべて話した。大男を雇っていた者の詮索は、これから始まるだろう。
 そして、鶴田と都子の平凡な毎日が始まるのも、これからである。



                          完

きみがいなければ

きみがいなければ

  • 小説
  • 中編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-05-30

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
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