シューティング・ハート side story 黄昏の宰相 (改)

シューティング・ハート side story 黄昏の宰相 (改)



「どうでしたか、宰相。玄武帝は、目当ての女人にお会いになって、いかがでしたか」
 風呂から上がったばかりだろう。首からかけたタオルで汗を拭いながら、渋谷は寮の廊下にたたずむ佐久間に声をかけた。


 時は、少し遡る。


 玄武館高校の寮内にある談話室で、佐久間涼は一人、紅茶の入った紙コップを前に、窓の外を眺めていた。小さな外灯に照らされた寮の門が、月のない夜に浮かび上がっている。 数時間前そこに立ち、迎えの車に乗り込む善知鳥景甫を見送った。
 玄武館高校の寮は、伊和長市の北端、山に囲まれた湖の畔に3棟点在している。どの寮にも一年生から三年生までが入居し、三年間をそこで過ごす。寮から高校までは歩いて二十分程度。湖の対岸になるが、反して町の中心部からは遠く、麓までは外灯の少ない暗い坂を延々と歩くことになる。
 麓までの移動手段は主にバスだ。バスは一日数本。夕方には最終便が寮の前から出る。自転車を使う者もいるが、これはかなりの体力がいる。下りはブレーキ要らずであるが、登りは延々とこがねばならないからだ。
 佐久間は食事と風呂を済ませ自室に戻ったが、落ち着かなく、人気のある談話室へと逃げてきた。
 昨日の玄幽会定例会で、咲久耶東南部侵攻の篠塚に「一週間」という期限を課したが、一日で戦局が覆ることはなく、相変わらず香取省吾の率いる番長連合制圧は遅々として進んではいなかった。
 だが、佐久間の思考に引っ掛かっているのは、まったく別のことだ。
 玄武帝善知鳥景甫が呟く「夢の中の女」は、佐久間の脳裏にも浮かんでは消える。
 佐久間の陣取る窓辺の一角を遠目に、数名の生徒がラジオ番組を肴に洋楽談議に花を咲かせていた。テーマは‘70年代から’90年代ポップスか・・・。背にチェッペリンの「天国への階段」を聴きながら佐久間は混濁した思考の中にどっぷりと浸っていた。
 明日は日曜日。全寮制の寄宿舎は、帰省しない生徒がまばらにいるだけで静かだ。
「珍しいですね、宰相。あなたがこんな所に一人でいるなんて」
 親しげな口調に顔を上げると、穏やかな表情の青年が立っていた。
「渋谷さん、あなたこそ珍しいですね。週末は必ず帰省すると聞いていましたが、どうかしたのですか?」
 佐久間は驚いた表情を隠さず、立ち上がって礼を返した。
 渋谷宣和。玄武館高校3年生であり、寮全体の監督総長でもある。
「私は物理のレポートに悩まされましてね、最終のバスに乗り遅れたのですよ。まぁ、こういう静かな寮を満喫するのも悪くはありません。少しおつきあいしてもよろしいですか?」
 あくまで渋谷は、穏やかに敬意を表した。
 学年も寮内の肩書きも渋谷のほうが上である。だが、二人は「玄幽会」という別格の組織に属していた。伊和長市一帯を牛耳るこの組織の中では、佐久間が宰相、渋谷は軍師。佐久間のほうが上なのである。
 渋谷は義と礼を重んじる男だ。たとえ年齢が上とはいえ、組織に属する限り、組織の義に従う。決して高慢になることがない男だった。
 佐久間は軽くうなずくと、目前の席を勧めた。
「紅茶を飲んでおられるのですか。ブランデーでも注げば、良い香りがしますよ」
 禁酒の寮内で大胆な発言をする監督総長に、佐久間は苦笑した。
「私は、アルコールはまるでダメなのですよ。恥ずかしながら、洋菓子に入っているブランデーでさえ酔いますので・・・」
「ふむ・・・。もったいないですね。確か玄武帝は相当強いと聞きましたが・・・」
 一応周囲を憚りながらも、楽しそうに渋谷が笑う。
「えぇ、どうもそのようですね。だからと言って、酔われることもないようですが」
 答えながら、佐久間の視線は窓の外の暗がりに向けられる。何も照らさない外灯が二つあるだけだ。
 いつか誰かの会食の席で、ジュースと変わらない様子で飲み続け、アルコールが入っていたとわかってからも、まったく変化を見せなかった景甫の苦笑が脳裏に浮かんだ。
「酔わないというのは、虚しいものだな」
 そう呟いた薄い唇が、皮肉げだった。
 渋谷は少し息をつくと立ち上がり、ひとまず談話室の隅の自販機でコーヒーのボタンを押し、コーヒーが注がれる間、にぎやかな一群に話しかけて何かを渡した。
 佐久間を遠巻きに見ていた連中が、渋谷の一言に屈託なく応じる。渋谷の人望が見て取れるシーンだ。
「夏が近いとは言え、この山の中ではまだ温かいもののほうが心地よいですね。宰相もホットだったのでしょう。それが冷めるまで、何を考えておられたのかな」
 佐久間の前に座りくつろいだ渋谷が、コーヒーの香りを楽しむ。その間、何やら会話をしていた一群は談話室を出て行き、佐久間と渋谷が二人残された。
 人払いをする必要のある会話・・・。
 佐久間は、緊張ぎみに渋谷を見た。
 前玄武帝の代から軍師として中央司令を務める渋谷は、玄幽会のみならず、この玄武館高校でも、一目も二目も置かれるほどの人望を持っている。現玄武帝である善知鳥景甫よりも、玄武帝に近いとされていた男だ。
 そんな彼が、前玄武帝に反旗を翻し排除した景甫の下に属していることは、多くの幹部が不信に思うところだ。しかし佐久間はそれ以上に、この大柄で温和な男に敬意を表さずにはいられない。渋谷が自分と変わらないほどの忠誠心で景甫を補佐しているからだ。彼の力があればこそ、玄幽会は一大クーデターの後もさしたる内部紛争を起こさずにいるからだ。
 すべてが景甫を中心に進められている。だが、佐久間には一抹の不安があった。
「宰相。昨日の会議以来、あなたも、そして玄武帝もどこか上の空だ。どう関係があるのかはわからないが、どうやらキーワードは『魔女』のようですね」
 昨日の定例会で、景甫は確かにおかしかった。私的なことを口に出すような男ではなかった。というよりもまず、景甫が感情を表に出すことは至極珍しいことだった。
「何もかもお見通しですね。渋谷さん」
 苦笑で流そうとする佐久間に、渋谷は神妙な表情で付け加えた。
「いや、わからないから訊いているのですよ、宰相。私の知る限りでは『魔女』は、玄幽会に害をなす者ではない。先のことはともかく、『貴妃』や『不破公』ほどには関わらない者だと見ていたのですよ。もちろん玄幽会の勢力に・・・ということですが」
「どういうことですか、渋谷さん。『玄幽会の勢力には』というのは・・・」
 渋谷の真意を図りかねて、佐久間は眉をひそめた。渋谷の問いかけが、佐久間の不安を膨らませる。
 渋谷はコーヒーで口を湿らせると、まっすぐ佐久間を見た。穏やかな視線が、佐久間をなだめもせず、突き放しもせず、ただ淡々と見つめた。
「宰相。会議では、『魔女』と『真行寺万里子』とを同一視する意見があったが、私はこれに異を唱えますよ。『真行寺万里子』という女に直接会ったことはないが、伝え聞いている限りでは『魔女』のイメージとは正反対だ。神々しいほど美しく魅力的だが、その出自に似合わないほどの一般的な女性だと。かの『貴妃』は相当敵視しているようだが、まったく意に介さない強さはあるものの、だが極めて一般的な美しい女性だということですよ。我々のような、何がしかの組織に属する者とは別の世界にいる女性です」
 抑揚のない声が、ラジオから流れるイーグルスに重なった。
「渋谷さん。何故、そう言い切れるあなたが、会議の場で黙っておられたのですか」
 渋谷は、眉を歪めてにらんでくる美青年を笑って受け止めた。
「正直、驚いて声も出なかったのですよ。あのような玄武帝を見るのは初めてだったので。今夜も、玄武帝はどこぞの姫君の所でしょう、宰相」
「ええ。久世の燁姫からの迎えが参りましたので、門まで見送りに出ました。このところ景甫さまは、週末も寮で過ごされていましたので、燁姫さまも待ちわびておられるとか・・・」
「玄武帝の女性関係は多にして希薄。関係を持った女性ですら名を覚えられないというのは、本当ですか」
 佐久間は苦笑するしかなかった。
 本当なのだ。景甫は決して女の名を覚えようとはしない。誘われれば応じるし、身の回りの世話も勝手にさせておくが、どれほど女が尽くそうと名は覚えないのだ。
「久世の燁姫も、私がどういう方で、いつご関係を持ったか教えてさしあげるほどで、それを何度繰り返しても、景甫さまは『あぁ』と仰るくらいで、それ以上はまったく・・・」
「困った方だな」
 さすがにこればかりは困っている佐久間に、渋谷は同情して肩をすくめた。
「久世家といえば、名門の旧家。その姫君さえその扱いですか・・」
「申し訳ありません」
「何もあなたを責めているのではありません。宰相。もちろん、玄武帝を責めているのでもないのです。ただ、それを考えると、あの時の玄武帝の反応はますます気になる」
 渋谷は腕を組んであごを引いた。ほんの少し顔がこわばる。
「はたして、玄武帝は『魔女』に何をみつけられたのか・・・」
「・・・・渋谷さん?」
「誰の記憶にも残らない『魔女』のイメージ。黄金に輝く魔神と異名を持つ者の中に、玄武帝が見られたものは何なのか」
 佐久間は静かに耳を傾けながら、脳裏で考えた。
 景甫が眠れないほど毎晩のように見る夢。黄金に浮かび上がる女のシルエット。ひきつけられる半身。この感情を、景甫は『恋』だと断言した。
「そうですよ、宰相。間違いなく玄武帝は『魔女』に執着している」
「執着?」
「えぇ。もしその者に会えば、執着の意味するところはわかるでしょう。宰相。玄武帝は変わられますよ。久世の燁姫など問題ではない」
「変わられる? 景甫さまがいったいどう変られると言うのですか、渋谷さん」
 目を見開いて立ち上がった佐久間の美しい顔が、不安に満ちていた。渋谷はまず、静かに座り直すようすすめ、残りのコーヒーを飲み干した。
「宰相。私が変わられるというのは、極めてプライベートな部分のことですよ。下世話な話で申し訳ないが、私はあの方には、特別なパートナーがいてしかるべきと思っているのですよ。表で宰相があの方を補佐するのと同等の、裏の部分を支える者。私は古い人間なもので、あえて『女性』と言い切りたいが、この際かまいません。せめて、あの方の欠落した部分を補える人間が欲しい。それが『魔女』であるならば、私が探し出して玄武帝に引き合わせてもいい」
 佐久間は答えなかった。
 雲をつかむような話だ。いるのかいないのか分からない、伝説の女。
「渋谷さん。『真行寺万里子』という女性が『魔女』とまったく別人というのは、本当なのでしょうか」
「おそらくは・・・。しかし、一見の価値はある女性だということは付け加えておきましょう。玄武帝には良い刺激になるでしょう。ただし、引き合わせる時は、くれぐれも『貴妃』と『不破公』を避けられるように」
「わかりました。助かります、渋谷さん。『貴妃』と『不破公』に比べれば、景甫さまの地力はいま一つ不安です。もちろん内在する力量は未知数ですが、景甫さまが玄武帝になられてまだ数ヶ月。篠塚に任せた咲久耶東南部の成果も気になるところですが、中央司令として動かれている渋谷さんの力に頼るところが大きい。まだまだ玄幽会も大きくならなければならない今、渋谷さんのような方がいるのは心強い」
「お世辞はありがたく受けましょう。宰相。私はあの方に期待しているのですよ。一見平凡な方に見えて何か・・・引き付けるような何かを持っていらっしゃる。華のあるあなたを差し置いて申し訳ないが、玄武帝には何か、皇帝の名に相応しいものを備えているようだ。先の楽しみな方ですよ」
 渋谷は笑った。だから自分は軍師の地位に満足しているのだ。
 佐久間がそれに何かを付け加えようとした時、にぎやかな声が近づいてきた。
「おや、戻ってきたようですよ」
 渋谷は言うと、自分の紙コップと佐久間の飲み残した紙コップを捨てに立った。
「渋谷さん、買って来ましたよ。つまみもタンマリ」
 見ると数人の男子が腕一杯にコンビニの袋を抱えている。中身は飲み物とつまみ。
「渋谷さん、もうすぐ消灯時間ですよ」
 呆れながらつぶやく佐久間の肩をポンと叩き、渋谷は笑った。
「わざわざこいつらが麓まで使いに出た苦労を、無にしてはいけませんよ、宰相。さぁ、私の部屋へ行きましょう」
「しかし・・・」
「大丈夫、ノンアルコールですよ。さぁ、宰相。直に玄武帝もお戻りになる。たまには無礼講もいいでしょう」
「・・・なぜ、景甫さまがお帰りになると・・・」
 渋谷が笑って、佐久間にささやいた。
「久世の姫君など、問題にならないと言ったばかりですよ」
 事実、景甫は夜中の山道を徒歩で帰ってくると、渋谷の宴会に加わった。


 結局、玄幽会の咲久耶東南部侵攻は、見事に瓦解した。
 その痛手は決して小さなものではなかったが、反面、玄幽会内部に違う風が吹き始めたことに、少なからず気付いているものがいた。


 渋谷の問いに、少し肩をすくめて、佐久間は先日の一件を思い出した。
「さぁ、どうでしょう。肝心の『魔女』には会えませんでしたが、真行寺万里子には会いました。確かに美しいが、渋谷さんが言われたように『魔女』のイメージとはかけ離れた女でしたね」
「そうですか。『夜叉』にも会われたようで、いかがでしたか」
「あぁ、香取の妹ですね。真行寺万里子と一緒にいましたよ。中々手強い女のように見えましたが、渋谷さんは彼女をご存知で?」
 渋谷は少し誇らしそうな微笑を浮かべたが、すぐにいつもの柔らかい笑顔に戻った。
「この度の咲久耶東南部侵攻は失敗に終わりましたが、却って良かったのかもしれません」
「何故、そう思われるのですか」
 思わぬ言葉に、佐久間は渋谷の答えを待った。
 『負け』を『良し』といわれることには、少なからず抵抗がある。
 だが、渋谷は動じる様子もなく、柔らかい表情とは別格の力強い声で答えた。
「玄幽会が一度立ち止まって考えるには、ちょうど良いタイミングだと思っているのですよ、宰相。景甫様が玄武帝となられ、まだそれほどの時は経っていない中、前玄武帝やその腹心が『貴妃』や『不破公』の勢力に近づいているという話も聞こえてきます。どちらの方も一般生徒に多大な損害を与えているという。果たして、それらの勢力と同じくすることが、玄幽会にとってどういうことなのか、少なからず幹部の中からも疑問視する声が聞かれます」
「渋谷さんは、どう思われますか」
「さぁ、どうでしょう。ただ、今まで燻っていたものが表面化したということでしょう。このタイミングで真行寺万里子にお会いになったのも、選択肢を広げたという意味では意義あるものでしょう。あのように――」
 と渋谷は、満面の笑顔を廊下の端から駆け寄ってくる、人懐っこい笑顔を指した。
「野村などは、はっきりと言っていますね。同じ『付く』なら『バケモノ』よりも『女神』がいいと」
「渋谷さん、それは――問題なのでは」
 佐久間が咎めるように目を細めたが、渋谷は笑顔で返して野村を見た。
「野村、寮内の廊下は走るな」
「走りますよ、これは。渋谷さん、『不破公』が帰国しました」
 玄幽会幹部の末席に座する野村は、渋谷の傍に立つ宰相に一礼すると、満面笑顔で軍師を仰ぎ見て報告した。
「詳しいことは、また報告が入るでしょう」
「わかった。しかし、野村。お前はどうしてそんなに嬉しそうなのだ」
 子犬のようなキラキラした目を覗き込み、渋谷は真顔で問う。
「え、いけませんか」
 時折、要らぬ言動で周囲から怒られる野村は、無言の宰相を気遣いながら、渋谷に問い返した。
「現状で『不破公』が帰国すれば、何か変わるかなぁ・・・とか思いましたもので。変わりませんか?」
 尚も何かを期待するように渋谷を見つめ返す野村に、佐久間が厳しい視線を向ける。
「何を、変えたいのですか。野村」
 あまりにも整った美しい容貌から放たれる鋭い視線に、たじろぐ野村はそれでも前言撤回とはいかないようだ。
「え、えっと・・・。宰相殿、何かお気に障りましたでしょうか・・・」
「滅多なことを言わないように。景甫様の意向も確認せず、先走った物言いは、玄幽会の為にはなりません」
 諫められて、バツの悪い顔で肩をすくめた野村の視界に、異様な光景が入る。
「玄武帝・・・ですか」
 野村の視線の先を見て、佐久間は蒼ざめ、渋谷は大きく笑った。
「どうした、お前たち。そんな所で何を立ち話している」
 顔が隠れるほど幾つもの荷物を抱えて、景甫が近づいてくる。大小の違いはあるが、どれも派手な包装が施され、一見して贈り物だとわかる。
「お屋敷からのお使いの方は帰られたのですか。何か、変わったことでもおありですか」
 景甫が、善知鳥家からの使いと会っていたのは知っていた。あまり自宅から使者が来ることはない分、佐久間は少し心配そうな顔で、景甫の抱えている荷物をすべて引き取り、答えを待った。
 傍で聞いている渋谷と野村は、控えるようにして会話を見つめている。
 景甫が軽くなった両腕を撫でる。
「おじじ殿が風邪を引いて、おばば殿が心配しているから、今度の週末は家に戻れと家令からの伝言だ」
 養父母の要望というよりは、家令が気を利かせて使いを送ったのだろう。景甫が彼らを呼ぶように、養父母は高齢だ。家格の高さが浮世離れに拍車をかけるほど、物静かで穏やかな床の間の置物のような老夫婦だ。
「それは、心配ですね」
 何度も会ったことのある佐久間は、常に和服姿の小柄な一対を思い出しながら、景甫から引き取った荷物を見た。どれも派手な包装で、とてもではないが、あの老夫婦からとは思えない。
「これは、久世家の燁姫からの贈り物ですね」
 視線で示した一際大きな包みには、蝶の紋が付いている。
「燁姫からはこの一つ。他は、どなたからなのですか。お屋敷からですか」
 質問の意味がわからないとでも言わんばかりの怪訝な表情が返ってくる。何かを思い出しているのか、思い出すこと自体皆無なのか。
「景甫様?」
「家人は、どこかから僕宛に送られてきたものだと言っていた。渡される時に、何人かの名前を聞いたが、・・・忘れた」
「忘れた? この方々の名前すべてを、ですか」
 贈り物の数は、片手では足りない。
「・・・わからぬ。忘れた・・・」
 真剣に分からない様子の景甫を、途方に暮れた佐久間が諦めの表情で目を伏せ、渋谷が肩を揺らして笑う。
 最近、どんな誘いにも出掛けることがなく、贈り物も受け取ろうとしない景甫に、直接攻勢は無駄だと考えたのだろうか、女人方は景甫の実家に贈り物を送りつけたのだろう。
 幹部の中でも末席の野村は、目前の玄武帝と側近二人の様子に、暫し唖然と見つめていたが、つい、いつもの要らぬ一言が出てしまう。
「覚えられない数の女がいるなんて。さすが、モテる男は違いますね」
 軽い口調に、渋谷が野村の後頭部を弾く。我に返って景甫を見た野村は、無感情な視線に射すくめられるように震え上がると、そのまま後ずさりで廊下の端まで退くと、いつかのように平伏し、
「お許しください。二度と言いません」
 と大きな声で謝った。
 何事かと居室から出て来た者たちが、景甫の姿を見つけて慌てて廊下に膝をつく。
 途方に暮れる佐久間に代わって、渋谷が景甫に一礼する。
「玄武帝、お許しを。あの者に悪気はありませんので。それよりも、あの『不破公』が帰国したようです。直に詳しい報告が入るでしょう」
 さて、どうする。
 その場に居合わせた者が皆、景甫の次の言葉を待った。
 景甫はゆっくりと佐久間の方に視線を向け、一瞬気を抜くと、確かめるようにゆっくりと呟いた。
「そうだな。まずは、その荷物の処分を頼もう」
「処分・・・ですか。しかし、どなたからかわからないのでは、今度その方にお会いした時に、景甫様がお困りになるのでは――」
 佐久間は言いかけて止めた。言っても無駄なようだ。
 景甫はすでに聞いていない。
 スタスタと廊下の端まで歩き、平伏している野村の傍まで行くと、何か問い質しているようだ。どんな制裁が飛んでくるか気が気でなかった野村の顔が、次第に床からゆっくりと上がり、景甫を見上げて目を輝かせた。
 大きくため息をついて立ち尽くす佐久間を、渋谷が労うように近づく。
「宰相。それ以上は野暮ですよ。どのみち興味のない事柄のようですからね、あの方にとっては。ま、だからと言って、その女人たちが易々とあの方を手放すかどうかは、別の問題ですがね」
 佐久間の両腕に抱えられている荷物を半分請け負うと、渋谷はいたずらっ子のように肩をすくめてお道化た。
「本当に、渋谷さんも楽しそうですね」
 美しい眉をひそめて、佐久間がぼやく。
「はい。心配は、宰相にお任せいたしますよ。私は苦手ですので」
 ニヤリと笑う渋谷に流し目をくれて、佐久間は大きく天井を仰いだ。
「渋谷さん、玄武帝が直々に俺に任務くださいましたよ。極秘任務ですって」
 野村が喜び勇んで廊下を走ってくる。大声で叫んでいる時点で、すでに極秘とは言えないだろうが、野村は有頂天だ。
「玄武帝の期待に応えるのだな、野村。くれぐれも、ヘマはしないように」
 野村の頭をクシャリと撫でると、渋谷は改めて景甫の方を向いた。
 ゆっくりとした足取りで戻ってくる景甫は、先ほどとは少し雰囲気を変え、廊下に膝をついて控える者達の中を悠然と進む。
 玄幽会本部の上席、掲げられた玄武旗の下で悠然と座す、玄武帝の顔だ。
 景甫は、佐久間と渋谷の傍に立つと、少し見上げる角度の視線で渋谷の言葉を促した。言いたいことがあることを知っているというよりも、思っていることを言葉にしろと言っているようだ。
 渋谷は恭しく一礼をすると、端然と発した。
「玄武帝に申し上げます。『不破公』がご帰国となれば、おそらく早々に動かれるでしょう。お好きなお遊びは、賭博と玩具・・・でしたでしょうか。如何されますか」
「そうだな。・・・まずは、『貴妃』のご機嫌でも伺い、『不破公』にも敬意を表しよう」
「では、これまで通り、あの方々と歩調を合わせるのですか」
 動ずることなく問い返した渋谷に、景甫は静かに野村を見た。
「先ほど頼んだ事は、そんな風に聞こえたかい」
 含みを持たせた口調で、野村は破顔する。
「いいえ。しかし、極秘でございますので」
 後の方は渋谷に向かって首を垂れた。『極秘任務』がよほど誇らしいようだ。
 渋谷が苦笑で佐久間を見やると、佐久間もその視線に同調し、
「真行寺万里子と香取省吾の関係については、野村の『極秘任務』に任せるとして。では、まずは『貴妃』でございますね」
 と景甫に確認すると、まったく別の答えが返ってきた。
「いや、佐久間。まずは、お前達の手に持っている荷物を片付ければいい」
「ですから景甫様、片付けろと仰られても、これは景甫様への贈り物でございます。他の者が受け取るのは、憚られますが」
 慌てる佐久間に、景甫が気の抜けた肩を落として、面倒くさいと言わんばかりの大きなため息をついた。
「別に、気にすることはないだろう。それとも、皆に拒否する理由となるものでもあるのか」
 物憂げに見回す景甫に、周囲に控えの者たちの羨望の眼差しが帰ってくる。
「玄武帝、俺、片付けるのってとっても得意ですよ」
 と存在をアピールする野村。
「だそうだ、佐久間」
 景甫はそういい捨てると、とっとと自分の居室へ引っ込んでしまった。
 後に残ったのは、重石が取れた無邪気な一群だ。
 いつのまにか野村に感化されたように浮き足立つ部下達を見て、渋谷はヤレヤレと呆れ、その隣で佐久間は再度途方に暮れた。


                            完

シューティング・ハート side story 黄昏の宰相 (改)

シューティング・ハート side story 黄昏の宰相 (改)

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-05-30

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted