ファミリーライフ

ファミリーライフ

 十年ぶりの我が家は当時と何も変わっていないようで、その実ところどころ老朽化が進み、十年の重みを思わせた。
 見上げた木造家屋の二階にはかつて自分の部屋があり、今は何に使われているのかカーテンが閉められていた。裏手に回れば父の教える空手道場があるはずだ。父はまだ近所の子供たちに教えているのだろうか。和也は人知れずため息をこぼした。

 十年前。高校卒業を間近に控えていた和也は、真剣な表情で父と対峙していた。
 和也の隣には恋人、明美の姿があった。
 テーブルにはぐつぐつと音を立てる鍋があり、その向こうでは父が眉間にしわを寄せてこちらを見据えている。
「駄目だ」
 長い沈黙のあと、父は重い口を開いた。
「単に付き合うというのなら構わん。だがな、まだ社会にも出ていないお前が結婚などと、いささか早すぎる」
「そんなのどうとでもなるよ。俺たちは二人で力を合わせて生きていきたいんだ」
「どうとでもなる? なるわけないだろう。お前は社会の辛さや怖さを知らないからそんなことが言えるんだ」
 父は頑なに、首を縦には振らなかった。
 横では明美がうつむいている。涙を必死に堪えているのだろう。
 部屋に入ってきた母がカセットコンロの火を止めた。
「和也、明美さん、鍋ができたわ。今日のもつ鍋はお父さんが腕によりをかけて作ったのよ。みんなでいただきましょう」
 この鍋は、和也が彼女を紹介すると聞いて、父が朝早くから仕込んだものだった。ただ、それは和也の恋人を歓迎するものであり、彼の伴侶を迎え入れるものではなかった。
 重い空気がたちこめる中、父が言った。
「では空手で勝負しよう。お前が勝てば結婚を認めてやる。だが、負けたときは私の言うことを聞いてもらうぞ」
 和也は頷き、立ち上がった。

「けっきょく負けちまったんだよなぁ」
 インターホンを押し、十年後の和也は苦笑した。
 父は強かった。彼の身体に指一本触れることすらできないまま、完膚なきまでに叩きのめされた。
 悔しさと恥ずかしさ。居たたまれない屈辱を胸に抱き、和也は明美の手を取ってそのまま家を飛び出した。
 玄関に向かう途中、もつ鍋の良い香りが鼻腔をくすぐり、泣きたくなった。
『はい』
 インターホンから優しげな声が聞こえた。母の声だった。
「あ、あの、俺、和也だけど……」
 しどろもどろに応える和也に、母は『いま行くわ』と通信を切った。
 数秒して玄関の引き戸が開き、母が顔を出した。会わなかった年月だけ歳を重ねた姿。髪にはだいぶ白いものが混じり、しわも深くなっている。
「おかえりなさい、和也」
 母はそう微笑んで、和也の後ろに目を向ける。
「それから……明美さんも元気そうで」
「お久しぶりです、お義母さん」
 多少のぎこちなさを残したまま、明美も笑顔を返した。
 今日こうして実家に帰ってきたのは、明美と母が連絡を取り合ったからだった。和也から無理やり家の連絡先を聞き出した明美が電話したのである。
「さあ、中に入ってちょうだい。大したもてなしもできないけれど」
「自分の家で、もてなしなんていらないよ」
 母の背を追うように、玄関をくぐる。なつかしい香り。廊下を進み、すぐに居間の前にたどり着いた。
 ドアをノックした母が、中に声をかけた。
「お父さん、和也と明美さんが帰ってきましたよ」
 この奥に父がいる――和也は身体が一瞬で強張ったのを感じた。
 父との約束を破り、明美をつれて家を飛び出した自分を、彼はどう思っているのだろうか。ドアを開けた途端、灰皿のひとつも投げられるかもしれない。いや、あの父のことだ。自らの拳でもって襲い掛かってくるだろう。彼は強い。あのときのように、まるで手出しできないまま床に叩き伏せられるかもしれない。
 母の手によってドアが開かれる。握った手に力をこめる。だが――
「おかえり、和也」
 そこにいたのは、目を細めて微笑む、知らない老人だった。
 いや、それは父だ。肩が下がり、すっかり痩せ細った父。
「よく帰ってきてくれたね。あぁ、明美さんも久しぶりだねぇ。元気にしてるかい」
 その声には張りがなく、十年前まで感じていた威圧感や恐怖感はすっかり削げ落ちてしまっている。
 言葉を返せないでいる和也を、母が「さあ、座ってちょうだい」と促した。
 テーブルを挟んで向かい合う和也と父。その中央では、あのときと同じように鍋が湯気を上げていた。
「和也、そして明美さん。あのときはずいぶんとひどいことを言ってしまった。本当にすまなかった」
 これが。これが、あの父なのか。
 思考には常に筋が通り、間違ったことはけして許さない厳格だった父。鍛錬を怠らない、引き締まった身体を持っていた父。
 それが、ここまで変わるものなのか。
「道場は続けていらっしゃるんですか?」
 明美が訊くと、父は弱々しく首を振った。
「五年ほど前にたたんだよ。生徒の数がめっきり減ってしまってね。今はちいさな劇団の稽古場として場所を提供しているよ」
「……親父」
 和也が父を見据える。
「勝負しよう」
 そして答えを待たずに居間を出ていった。

 ひょっとしたら、父には変わってほしくなかったのかもしれない。
 威圧的で、厳格で、曲がったことが大嫌いで。反発しようにも力ですら敵わない。
 そんな父だからこそ、その背中は大きかった。
 道場で対峙する二人。道着がないので着替えないままである。
「行くぞ、親父」
「あぁ、かかっておいで」
 畳を蹴る和也。十年経っても形は忘れていない。腰を落とし、左手を前に逆の手を胸に溜める。移動は腰と肩。細やかな動きでフェイントと牽制を仕掛け、視線はまっすぐ相手の目から離さない。
 和也のすばやい正拳を、しかし父は難なくかわす。だが、それは想定内。返す手で父の胸に掌底を突き出すと、彼は肩を入れるようにして二の腕で防御した。
 あれ、と思う。ガードが軽い。
 そのまま力任せに手のひらを押し出すと、父はふらりとよろめいて転倒してしまった。
 初めて見る父の姿。そしてそう追い込んだのは、他でもない自分で。
「あはは、強くなったなぁ、和也。私の負けだ」
 腰をさすりながら、ゆっくりと起き上がる父。
「……なんでだよ」
 道場に、和也の押し殺した声が響く。
「なんでだよ、なぁ、なんでなんだよ、親父……」
 俺が強くなったんじゃない。親父が弱くなっちまったんだ――声にならない声。
「なんで負けて笑っていられるんだよ。なんでそんなに丸くなっちまったんだよ……」
 声に嗚咽が混じり、顔を上げていられない。
「なぁ、和也」
 和也の肩に、父の手が触れる。それは優しい重さで。
「これからまた、家族をしようじゃないか。当たり前の家族をしよう」
 声にならない。言葉が出ない。
 だから和也は、何度も、頷いた。
「さぁ、母さんと明美さんが待っている。戻ろう。今日は私がもつ鍋を作ったんだ。みんなで食べよう」
 何度も、何度も、頷いた。

ファミリーライフ

三題噺「死闘」「リセット」「もつ鍋」

ファミリーライフ

「お前が勝てば結婚を認めてやる」

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-05-30

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