大切なきみに
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わたしはね、お兄ちゃん。お兄ちゃんの妹でよかったよ。
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桜子の病気は日々、彼女の身体を蝕んでいく。
十六という若さは進行も早く、すでに桜子は自力で起き上がることすら困難な状態だった。
俺が兄としてできることは、毎日病室に顔を出して、あいつの話し相手になってやることくらいだった。
親父もお袋も彼女の前ではけして泣き顔を見せない。いつも馬鹿みたいににこにこ笑って、どうでもいいような話に花を咲かせている。
そして桜子も泣かなかった。自分がいまどんな状態なのか知らないはずがないのに――これからどうなってしまうのか知っているはずなのに、白い部屋で、いつも笑っていた。
だからこそ、俺も弱音を吐くわけにはいかなかった。両親と並んで、テレビドラマやお笑い番組の話をしてあいつを笑わせた。
その日、いつものように薬品の臭いが充満する廊下を突っ切り、病室のスライドドアを開けると、桜子はベッドに横になっていた。自分で起きられないのだから当然なのだが、こちらに首を回そうともしない。
寝ているのかなと思ったが、まさか、とも思った。慌てて駆け寄って呼吸を確かめる。胸のあたりがゆっくりと上下しているのを見て、ほっと息をこぼす。そのまま備え付けのパイプ椅子に腰を下ろし、寝ている妹を眺めていた。
「なぁ、桜子」
寝顔にそっと呼びかける。
「俺は嫌だよ。お前がいなくなるなんて考えられない。考えたくもない。ずっとお前といたいのに……」
「……わたしもだよ」
油断していた俺は、驚いて立ち上がった。
「起きてたのか。あはは、人が悪いな、桜子は」
無理して笑ってみせたが、桜子には通じなかった。彼女はこちらに首をめぐらせて、じっと俺の目を見つめた。
「わたしだって、ずっとお兄ちゃんといたい。死にたくない」
「そんな冗談、笑えねーよ」
「冗談? 死ぬのが冗談なの? だったらこの病気も冗談? わたしは今すぐ家に帰れるの?」
「そ、それは……」
桜子の瞳はいつになく真剣で、俺は返答に詰まってしまう。こんなとき、なんて返してやればいいのだろう。自分の学のなさに改めて辟易しながら、俺は彼女の視線を受け止めてやるくらいしかできなかった。
すると桜子は急に力を緩め、「わたしはね」と乾いた唇を開いた。
「わたしはね、お兄ちゃん。お兄ちゃんの妹でよかったよ」
それは今までにない、悟りきったような笑みで。
まるで自分の死を当たり前のように受け入れる笑みで。
俺はもう本当に、何も言えなくなってしまった。
だってそうだろう? きっと治るよ、なんて見え透いた嘘、こいつを傷つけるだけじゃないか。そりゃあ嘘に嘘を重ねてこいつに生きる希望を持たせてやるのもいいさ。だが、それがバレたときどうするっていうんだ。桜子は俺を恨むだろう。激しく憎むだろう。そして悔恨と憎悪を胸に抱いたまま、絶望のうちに死んでいくのだ。そんなことが俺にできるわけないじゃないか。
「覚えてる? わたしがよく近所の子たちにいじめられてたとき、お兄ちゃんはいつも助けに来てくれたよね」
もちろん覚えているさ。でもたしか俺は目だけ開けた紙袋を頭からかぶって、謎の覆面ヒーローを演じていたつもりだったんだがな。
「知ってたのか」
「分からないはずないよ。声も服もお兄ちゃんだったもん」
あははと笑い、それから思い出したように「あのねあのね」と目を輝かせる。
「わたしね、ポトフが食べたい」
「ポトフ? なんでまた?」
「さっきテレビの料理番組でやってたの。すっごく美味しそうだったんだよ」
この一年、病院食しか口にしていない桜子にとって、それはどれほど魅力的に映っただろうか。俺は一瞬神妙な顔つきになり、慌てて笑顔を形作った。
「料理なんてしたことないけどな。分かった。お前のために、今度腕によりをかけて作ってやるよ」
桜子はうふふと笑って、「楽しみだなぁ」と何度も繰り返していた。
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桜子の容態が急変したと病院から連絡があったのは、翌日の昼だった。
学校から自転車で急行した俺より早く、親父とお袋がすでに到着していた。
部屋には物々しい機械がいくつか増え、医者やら看護師やらが慌しく出入りしている。
その間を縫うように妹のもとに駆け寄ると、彼女は蒼白な顔で荒い呼吸をみせていた。
「心の準備をしてください」
壮年の医者が言った。
両親はみっともないくらいぼろぼろと涙をこぼし、桜子の手を取って大声で呼びかけている。
「……お、にい、ちゃ……」
俺に気づいた桜子は、苦しそうに俺に視線を向けた。
「しゃべらなくていい。すぐに良くなる。俺も親父もお袋もここにいるから安心しろ」
自分でも何を言っているのか分からない。ただただ悲しくて、いつかこんな日が来ることを知っていたはずなのに、覚悟していたはずなのに、それでもどうしようもないくらい、胸が張り裂けてしまいそうなくらい悲しくて。泣いちゃいけないのに、俺の視界に映る桜子はぐにゃぐにゃに歪んでいた。
「おにい、ちゃ……ポトフ……食べ……」
苦しげに、たどたどしく、いっそ笑っちゃうくらいに。
そうだよな、桜子。これが最後じゃない。まだ、また会える。また笑いあって、どうでもいい話をしようじゃないか。
俺は桜子に背を向けて、廊下へと歩き出す。
「おい、どこに行くんだっ?」
親父の声に振り返り、言ってやった。
「ポトフを作ってくる」
泣いてるやつがいたら助けてやるのがヒーローってもんだ。そうだろう? だったら俺は、あいつのために作ってやる。
だから桜子、俺が初めて作る料理を、もしも味が悪くても残さず食べろ。そして「まずいよー」って笑ってくれ。
「おにい……」
苦しいはずなのに、苦しくて苦しくてたまらないはずなのに、桜子は微笑んだ。
「わたしはね、お兄ちゃん……。お兄ちゃんの、妹で、よか……」
微笑んで、心から幸せそうに微笑んで、桜子は、瞳を閉じた。
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夜、家に戻った俺は、桜子の部屋の前に立っていた。
返事がないことを知りながらノックをし、数秒置いてドアを開ける。
主のいない部屋は広く、寒々しく、空虚だった。とりあえずベッドに腰を下ろす。
ふと気になって机に目を向けると、きちんと整理された教科書や参考書に混ざって、一回りほど大きな本が挿されていた。
手を伸ばして取ると、それは料理のテキスト本だった。ぺらぺらめくってみる。するとドッグイアが手に当たり、そこでページを止める。
そのページはポトフを解説したものだった。
不意に思い至る。
「あいつ……本当は俺に作ってくれるつもりだったんじゃ……」
でもそれができなくなった。叶わなくなった。だから俺に。
「ありがとうな、桜子……」
俺は笑った。
笑って、泣いた。
大切なきみに
三題噺「初」「思い出」「ポトフ」