私の読む「土左日記」

私の読む「土左日記」


 私の読む「土左日記」


 男の日記というものは、漢文体を使い毎日の行事・政務を記入しているだけのものである。これを女が書いたらどうなるか、と想像して女文字、即ち仮名書きで日記を書いてみた。そういうことから私の土佐における国守の任務を終えて京の都へ帰る道中を日記にしてみることにする。
 都へ帰任する出発の日は、承平四年十二月二十一日の戌の時である。(午後七時過ぎである)そのことの次第を簡単ではあるがここに記録したい。
 ある人、(実は紀貫之)国守として土佐の国に赴任して四、五年経たであろうか、このたびその任が解かれ後任島田公鑒国守と事務引継をすっかりすませ、後任国守から渡される事務引継が滞りなく終了した旨の「解由状」をももらった。これは京に戻ったときに官に提出して私の国守の役が終了するのである。
 これで私の土佐の国における総ての役目が終わったことになりやっと住み慣れたが国守官舎を引き上げて、水路京に戻るために出発点の港に向かった。あの人やこの人知る人知らぬ人まで港に見送りに来ていた。 この数年来、ごく親しくつきあい心を通わせ、たがいに信じあってきた人々
別れが辛くて思うのか、なんとかかんとか喧しくお互いしゃべっているうちに夜も更けてしまった。

十二月二十二日
 和泉の国までの航路がどうか平穏無事であるようにと願をかけた。藤原時実が馬には乗らぬ船旅だが「馬の鼻向」と言って送別会を開いてくれた。身分の上下無く集まった者達は振舞酒に酔ぱらって乱れた姿でじゃれあっている、海辺で騒ぐ輩のはく息は魚の腐ったにおいを一面に漂わせていた、「鯘る」魚が腐ったことを言うのだが、酒飲みがみだらに騒ぐ「戯る」も同じようなことだ。

十二月二十三日
 八木泰典という人がいるが、このような人物は国府の役所に勤めてなかったと思うが、いかめしくりっぱな様子で餞別を持ってきた。国守(私の)の人柄や治政の仕方がよかったせいであろうか。だいたい国の人達は国守が交代して前の国守が国を去るとき見送りなんかに来ないものであるが、前の国守に世話になったと心に思っている者は人の眼を気にもせずに見送りに来てくれた。場合によっては感心したことでもないのだが。 

十二月二十四日
 国分寺の住職の講師が別れの挨拶に来られた。上級の職員も下の者も総て、子供までが酒に酔って、文字を全然知らない者達でも両手を広げて「一」の字を書きまたふらふらした足で「十」のじを書くように踊り狂っている。

十二月二十五日
 新任の国守島田公鑒から館に来ないかとの文があり、ご馳走になりに出かけた。昼夜にわたって酒を飲みながら談笑しまた管弦を引き出して演奏をした。明け方まで過ごした。

十二月二十六日
 昨日に続いて国守の館に滞在する。つづけてもてなしをうけた。ここの主が喧しく言って従者にいたるまでに、贈物を戴くことになった。
 声高らかに漢詩を謡った。この屋の主人の島田、客人である私、そしてそのほかの人々が和歌を次々と詠んだ。漢詩についてはここには書かないが、和歌についてはまず館の主人である新任の国守の歌を披露しよう
「都出でて君に会わんとこしものをこしかひもなく別れぬるかな」
(都を出てあなたに会おうとしてはるばる土佐の地まで来ましたが着任と同時にあなたは去ってしまう、寂しいものだ。)
と謡ったので、帰任する前の国守貫之は次の歌を詠んだ。
「白妙の波路を遠くゆきかひて我に似べきは誰ならなくに」
(白波が立ちさわぐ海路を、はるばると私と入れ代りにお出でになって、やがてまた私と同じように無事任期を終えて帰京なさるのは、他のどなたでもございません、あなたですのに。だから、お気を落されることなど、けっしてございませんよ)外の来客達もそれぞれ歌を詠んだのであるがこれといってここに記載するほどのものはなかった。 とこうして新任の国守と私は館から外に出てお互いに手を取り合ってろれつのまわらぬ言葉で相手の健康を祈り、前途の昌運を祝福する言葉を交わした。彼は内に入り私は港へと帰っていった。

十二月二十七日
 出発点である大津港を出航して浦戸に向かった。国守交替に関する公の諸事や、家事の整理、送別の宴など諸行事が、いろいろとあった中でも特に京で生まれてこの地に共に来た娘が、この土佐の地で急に亡くなった。この何日間の、出発のための忙しい準備を私は口を出すこともなく静かに見守ってきた。娘の遺品が片付けられるのを悲しい気持ちで見守った。京へ帰るのは嬉しいが娘が共に帰らないのが悲しいのである。そこに居合わせた人々も同じ思いであるのかこの間にその中の一人が一枚の紙に歌を書いて私に手渡した。
「都へと思ふものの悲しきは帰へらぬ人のあればなりけり」
(いよいよ都へ帰るのだと思うのに、あまり嬉しそうでないのは、いっしょに都へ帰らぬ亡き児がいるからだったのですね。)
また、ある人は
「あるものと忘れつつなほ亡き人をいづらととふぞかなしかりける」
(まだ生ぎているものと思って、うっかり死んでしまったことを忘れては、またしても亡き児を「あの子はどこいら?」と尋ねたりするのが、いかにも悲しいことですよ)
 そんなことを思いまたしゃべっている内に、鹿児崎という処で後から追ってきた国守の兄弟とその他大勢乗り組んだ舟が横につき、酒肴を積んできたから一献捧げたいとのこと、共に舟を岸に着け浜に降り立ったところで彼らはお別れが辛くてたまらないと言う。国府の館で働く人達の中で、ここにまで見送りに来てくれた人達は情誼に厚い様子だと京へ帰る人達一行も言いもするし、それらしいそぶりが見えもする。私もそう感じた。さてこの追いついた一行は、「口編みも諸持にて」(漁師たちが網をいっしょに持つように)という諺のように、皆が智慧をしぼり合い、苦心を重ねて、私に宛てた和歌をこの海辺で担いだしてくれた。
「惜しとおもふ人やとまると葦鴨のうちむれてこそ吾は来にけり」
(お名残り惜しいと思うあなたが、もしかしたらお帰りにならず、留まって下さるかと思って、葦鴨が群がるように、こうして大勢うち連れ立って、私どもはお引き止めに参ったのでございますよ。)と詠ったので私は大変歌のできを誉めて、さらに歌を詠った。
「棹させど底ひもしらぬわたつみの深き心をきみにみるかな」
(船の棹をさして探っても深さがわからぬほどに深い海、ちょうどそのように深いあなたがたの御親切を、しみじみと感じています)
 と受け答えしているうちに、舟の船頭は我々が別れを惜しんで悲しんでいるのも知らず、自分だけが酒を十分に飲んでしまい早く舟を出航させようと「さあ潮が満ちてきましたよ、いい風も吹いてきましたよ」と大声で呼ぶものだから、我々も舟に戻ろうとする。ちょうどその時見送りの人の中から送別の漢詩を謡う人有り、また一人は西の国の人であるのに「甲斐歌」を謡ってくれた。「こんなにみんなが歌を謡ってくれるので、、漢詩に「清哀蓋動二梁塵一」また「歌扇動二梁塵一」と言う言葉通り船室の塵も歌に感じて飛び散り、「響遏二行雲一」のように空行く雲もためらってしまってゆらいでいる」とつげった。
 今夜は浦戸泊まり。藤原時実、橘季平二人の外何人か追ってきた。

十二月二十八日
 浦戸を出航して追い風にのって大湊に向かう。この間にも、私の前の国守の子供山口千峯がやってきて、酒と、おいしそうな肴を舟に入れてくれた。船のまにまに食べては飲んで過ごす。

十二月二十九日
 大湊泊まり。国府庁の医師が遠い所を、わざわざ出向いてきて、一年中の病気を治し、毒気を払って、延命の効があるとされる、屠蘇、白散それに酒を添えて持ってきてくれた。私に厚意をもっていたように思われる。

元日
 大湊に止まっている。「白散」は一晩だけのことだからと船室の外に差し挟んでおいたら風に吹かれて飛んでしまいよう飲まなかった。里芋の茎を乾した「いもじ」、「あらめ」、齢を固める意味で「歯固」、正月三ヶ日に長命を祈って食べる祝の食物も今年は食べられない。このようなものがない国、船中であるから。前もって用意もしておかなかったらしい。ただ、土佐の名物である塩漬にし、おもしを加えた鮎「押し鮎」の口だけを吸うて次々と回してゆく。このように口を吸っている人達を押鮎はもしかしたら、何とか感じるところがあるのかな。「今日は都のことばかりが思い出されることだ。あの小家の門のしめ縄につけてある鯔の頭や柊などは、どんな様子かしら」従者達が都を思い出してしゃべるのを聞いていた。

正月二日
 さらに大湊に停泊する。国分寺の住職の講師から食料と酒が届けられた。

正月三日
 同じ大湊に停泊。「風、波がもうすこしこの地にいて」と私を惜しんでのことなら気がかりのことだ。
 
一月四日
 風が吹きすぎて出発できない。私の下で使えてくれた正行が、酒に、美味しそうな食物を持ってきてくれた。このように物を持って来てくれる人にそのまま、貰いっぱなしにもしておけないで、心ばかりの返礼をさせる。しかし船中のこととて、ろくな物もない。貰い物多くあり船中は景気がよいようであるが、返礼にろくな物がないのでひけめを感ずる。

一月五日
 風が強く波も高いのでなおこの大湊に停泊。ひっきりなしに人が訪れてくる。

一月六日
 昨日と同じ

一月七日
 七日がきたのにまだ同じ港にいる。今日は「白馬の節会」の七日である。参加したいと思ってもどうしょうもない。波立つ沖の白波を見ている。ある人池という名のついている所に住んでいるが、その人から贈物が届いた、が、池にはつきものの鯉はなくて鮒をはじめに川魚、海魚、その他魚以外のいろいろな食べ物が長持ちに入れられ担がれて届けられた。なかの若菜が特に、今日が邪気を払う「七日の若菜の節」である事を、はっきり知らせてくれた。歌が添えられてあった。
「あさぢふの野辺にしあれば水もなき池に摘みつる若菜なりけり」
(私の家のある所は「いけ」とは申すものの、実は浅茅の生えている野原ですから、水もない池で摘んだ若菜なのですよ。)
まことに気の利いた言いっぷりですね。この「いけ」というのはところの名前である。家柄もよく教養の高い婦人が夫に従い、都から下って、住みついていたのだそうである。この長持ちに入った食べ物は私たちだけでなく船頭から子供にまでのくだされ物で、みんなたらふく食べて、船子どもは腹をうって喜び、船中の人々はもとより海をまで驚かして、まさに波を起させてしまいそうな騒ぎとなった。こんな騒ぎの間にも来客があった。この日、お供に檜の白木で折箱のように作った「わりご」を持たせて来られた人は、名は何といったかちょつと忘れたが、まあそのうちに思い出すだろう。この人は歌を詠みたいと思って私に教示を願ってきたものだった。話す内に「波が高くてお困りでしょう」と心配そうにして詠んだ歌
「ゆくさきに立つ白波の声よりもおくれて鳴かん吾やまさらん」
(あなた方が帰ってゆかれる船路の先々に立つ白波の音よりも、後にとり残されて泣く私の声の方がはるかに大きいでしょう)
大声で詠まれた。いただいたごちそうに比べて歌の出来はあまり感心したものではない、同席した者は口先ではほめているけれども誰一人返歌をする者がなくこの歌をすばらしいと口先ばかりでほめ、ただごちそうをほおばっている。返歌をしなくてはならない者がいたが、私である、その私も、「すばらしい歌」と口先ぱかりでほめ、ただごちそうをだけ食べていて夜が更けてしまった。この歌の作者は「ちょっと中座を」と言って立ち上がって座から去った。ある人の子供が、小さな声で「私がこの歌の返歌を致します」というのに、驚いて私は「偉そうなことを言って、詠めるんか、詠めるのなら早く詠みなさい」
「待ってください、中座した人の帰りを待ちます」中座した人は夜が更けたのか帰ってしまったらしい。座には戻ってこなかった。
「さてさてどんな歌をお前は詠んだのかな」
興味を持って聞くと、この子供はさすがに恥ずかしく思ったのか言わない。さらにさあ言いなさいと言うと、やっと自分の詠った歌を示した。
「ゆく人もとまるも袖のなみだ川みぎはのみこそぬれまさりけれ」
(京へ帰ってゆく人も、この国に残る人も、共に別れを悲しむ涙で袖をぬらし、その涙は川のように流れている。その涙川の水量が増しては岸がぬれまさるように、傍にいる自分らまでがつい貰い泣きして、いよいよ深くぬれまさることだ。)
「よくもこんなに上手に詠んだものだなあ」
子供がかわいいためだろうか、まったく思いがけないことだ。
「子供の歌とあっては、何ともしようがない。上手でも、返歌とするわけにはゆかぬ。年寄の作とするのがいいだろう。いい悪いにも彼から便りがあれば返歌として送ってやろう」と言って置いておいた。

一月八日
 都合のよくないことがあって、なお大湊に停泊する。日が船子にとっての悪い日なのだろう。今夜の月は海の中に沈んだ。これを見ていて私は、在原業平君の 
「山の端にげて入れずもあらなん」(山の空との境をなす陵線がどんどん逃げて、月をどうか西の山に入れないでほしいものだ。)という歌があったと思い出す。もし彼が海辺で詠んだならば、「波立ちさへて入れずもあらなん」(波が立ちさわぎ、じゃまをして、ぜひとも月を海の中に入れないでおいてほしいものだ。)とよんだかもしれない。いまこの歌を思い出してわたしが次の歌を詠んだ。
「てる月のながるゝ見ればあまのがわいづる港は海にざりける」
(照る月が流れるように移って、やがて波間に沈んでゆくのを見ると、天の川の流れ出る河口は地上の川と同じように、まさしくこの海であったのだなあ。)
一月九日
 早朝、大湊より奈半港を目指してこぎ出した。ここと向こうが国の境であるので見送りに来てくれた大勢の人の中に、藤原時実、橘季平、長谷部幸正たちは私が、国司の官舎を出発した日からこのかた、次々と停泊地に追ってきてくれた。この人達は本当に情愛深い人達である。この人達の心はこの海よりも深いものである。
 ここから私らは沖合に向かう、お互い送る者送られる者の船は離れてゆく、見送る船の人達がだんだん遠くなってゆく。漕ぎ離れてゆくのにつれて、海辺で見送ってくれている人達の姿も小さくなった。また、私たちを見送るために、さらに沖へ漕ぎ出た船の人も、私たちの船からは、まったく見えなくなってしまった。岸辺での見送りの人にも、沖合まで見送りにこぎ出した船の人にも、言いたいことがまだまだあったが、もうどうすることも出来ない。そんなわけでこの歌を口ずさんで気持ちを整理した。
「思ひやる心は海をわたれども文しなければ知らずやありなん」
(あの岸にいる人達のことを遥かに思う心は、船から岸へと海を渡ってゆくけれども、その切ない心を告げる手紙がなければ、その上踏みゆく術もないのだから、岸辺の見送りの人達は私たちの気持を知らないでいることだろうか)
 そうこうするうちに宇多之松原を過ぎてゆく。松原の松の木は何本あるのだろう、どのぐらいの年月樹木は生きているのだろう、枝から枝へと鶴が飛び交っている。面白い光景に船の中の人が感動のあまり詠んだ歌は、
「見渡せば松のうれごとに住む鶴は千代のどちとぞ思ふべらなる」
(ずっと松原を見渡すと、どの松の梢にも鶴が楽しそうに住んでいるが、その鶴は、松を千代も変らぬ、永久の親しい友達だとかたく信じているらしくみえる。)
実際の松原はこんな歌どころではないもっと美しい景色だった。
 このように美しい風景を眺めながら船は進んでゆく、やがて山も海もみんな暮れ、夜が更けて西も東も分からなくなった。天気のことや船の針路は船頭に任せているのだが、男でも馴れぬ船旅は心細く、まして女の子は船底に頭を互いにひっつけあって声を殺して泣いている。このように船客の男も女もみな心細く、悲しんでいるのに、船頭の舵取りは舟歌なんかを歌っていて平気なものである。彼の謡う歌は
「春の野にてぞ音をばなく。若薄に手切る切る摘んだる菜を、親やまぼるらん、姑やくふらん。かへらや。
昨夜のうなゐもがな、銭こはん。虚言をして、おぎのりわざをして、銭ももてこず、おのれだにこず。」
(春の野で声をあげて泣くことだ。若薄で手を切り切り・苦労してやっと摘んだ菜を、今頃は親がむしやむしや食っているだろうか、それとも姑が食べているだろうか。帰ろうか。
ゆうべの娘っ子に逢いたいものだなあ。銭を取ってやろう。うそをついて、掛買をして、銭も持って来ず、姿さえ見せぬ。)
この他に沢山の歌を謡ったが書かない。このような歌を船客は聞いて喜んで笑う、海は荒れるが心はおかげで落ち着いた。
 このようにして船は進み、港に到着した。一行の中でじいさん一人とばあさん一人特に気分を悪くして食物も召し上らないで寝込んでしまった。実はこれ、私たち夫婦であるが。

一月十日
 着いた港は奈半の港である。今日はここに停泊する。 

一月十一日
 朝早く出航して室津の港を目指す。船客はまだ眠りにふけったままであるので海の有様は知らない、ただ、寝ころんだまま月を見て船は東に進んでいるということが分かる。そうこうしている内に夜が明けてきた、みな起き出して手を洗い、決められた朝の行事を行って終わった頃に昼となる。
 今ちょうど「羽根」という処にきた、子供がこの名前を聞いて
「羽根という処は鳥の羽のような処ですか」
と言う。まだ何も分からない子供の言うことであるから、聞いた大人達は笑った。そこにいた女が歌を詠んだ
「まことにて名に聞くところ羽ならば飛ぶがごとくに都へもがな」
(本当にこの子供が尋ねたように、「はね」という名で聞くここが鳥の羽であったら、鳥が空を飛ぶように、早く都へ帰りたいものですね。)
と詠った。男も女もみんな、どうかして早く京へ帰りたいものだ、と思うことは同じであるから、この歌はそんなに上手くはないが、まことに自分たちの心の内を謡っていると、この船旅の忘れられない歌となってしまった。
 この「はね」という処を問うてきた子供のことから、つい、亡くなった子供のことが思い出される、このことはどんな時でも忘れることが出来ない;。今日は特に子供の母親が嘆き悲しむ、土佐の国に下ったときと今京に上るときと人数が一人足りないことを、私が勅を得て編纂した古今和歌集の中に取り上げたよみびとしらずの歌に「北へゆく雁ぞなくなるつれてこし数は足らでぞかへるべらなり」(数は足りないままで帰ってゆくようだ)とあるのを思い出して、歌を詠んだ。
「世の中に思ひやれども子を恋ふる思ひにまさる思ひなきかな」(世の中にあるいろいろの嘆きや悲しみを、あれこれと考えてみるけれども、亡き子を恋い慕う親の嘆きにまさる嘆きはないものだなあ。)
と何回も口ずさんで亡き子を偲んだ。

一月十二日
 雨降らず。分時、惟持の乗った船が遅れた。奈良志津を過ぎて室津に到着。

一月十三日
 明け方に少し雨が降る。暫くして雨は止む。女達はこの雨を利用して体を洗おうとそれぞれ人に見えないところに降りてゆく。海を見て一首
「雲もみな波とぞ見ゆる海人もがないづれか海ととひて知るべく」
(空の白雲もみな、海の白波とまったく同じに見える。この辺に漁夫でもいてくれるとよいのになあ。どちらが海だか尋ねて知るために)
と詠んでみた。さて、十二夜なので月が満月に近く、趣きが深い。船に乗船した日から女の人は紅の濃い、美しい着物を着ないことにしている、それは海神に魅入られるのを恐れてである。葦の陰で隠れて着替えをしているからか「何の悪しきことがあろうか、かまうことはない」と、たいして役にも立たぬ葦の蔭ではあるが、それにかこつけて自分たちの隠し所の老海鼠と貽貝の肉と交ぜ鮨や、飽で作った鮨をうっかり、衣のすそを脛のあたりまでたくし上げて、海神に見せてしまった。

一月十四日
 明け方からの雨で、出航せず室津に停泊したままである。
 この船の船主である私は十四日の「節忌」であるのでそのしきたりに従うことにした。だが、肉類を交ぜない精進日の食物なんかが船旅のことであるはずがない、正午過ぎに舵取りの船頭と彼が昨日釣った鯛と米とを、銭がないので物々交換をし。精進落をすることが出来た。他の人もこのように舵取り船頭と物々交換をして精進落ちをしたのか、舵取り船頭がまた鯛を持ってやってきた。米、酒、などが次々と現れた、船頭はほくほく顔である。
一月十五日
 正月十五日に小豆を交ぜた粥を食べると、一年中の邪気を除くとされているのであるが、残念なことに今日はその十五日だというのに、恒例の小豆粥を煮ない。その上天気が思わしくなく停泊するほかない。今日でもう出発してから二十日あまりもたってしまった。意味もなく日を送る船中のひとたちは、海を何となく眺めている。女の子が歌を詠む
「立てばたつ居ればまたゐる吹く風と波とは思ふどちにやるなん」
(風が立つとそれにつれて波も立つし、風がおさまると波もまた自然におさまる。してみると、吹く風と立つ波とは仲のよい友達ってわけかしら。) 何のわきまえもない子供の詠んだ歌としては、いかにもふさわしい。

一月十六日
 風も波も収まらないので、さらに同じこの室津の港に停泊する。ひたすらにもう海の波が収まり早く室戸崎という崎を渡ってしまおうと思うだけである。だが風波がにわかに収まる兆しもない。この海を見て歌を詠んだ
「霜だにも置かぬ方ぞといふなれど波の中には雪ぞ降りける」
(ここは暖国で、霜さえも置かぬ土地だと話には聞いているが、それどころではない。今見ると、波の中には、雪がまっ白に降っていることだ)
この歌は、白氏文集に「誰云南国無二霜雪一 尽在二愁人鬢髪間一」とあるのに拠ったものである。
 さて、今日で船に乗ってから二十五日が経った。

一月十七日
 空にかかったどんよりとした雲もなくなって、夜明け方の月がたいそう美しく、冴えわたっているので。船を漕ぎだした。沖へ出るに従って、空が海に映し出され空も海も同じ景色になった。なるほどまあ、それで「昔の男」で、聞き噛りに聞いたのだが唐の詩人賈島の「棹穿波底月、舡圧水中天」(棹は穿つ、波の上の月を。舟は圧そう海の中の空を)棹はつきさす、波の上に浮ぶ月を。船はおしつけて進む、海の中に映る空を、という読みであろうが、よく言ったものだ。そこでまた歌を一首
「みな底の月の上より漕ぐ舟の棹にさはるは桂なるらし」
(海上に映っている月の上を通って漕いでゆく私らの船の棹にさわる藻は、たぶん月の中に生えているという、あの桂なのであろう。)
この歌を詠ってさらに
「影見れば波の底なる久方の空漕ぎ渡るわれぞわびしき」
(映っている月光を見ると、空は海面に映りまるで空が波の上にあるようだが、ちょうどその大空を漕ぎ渡って行くような気がして、私はわびしくてたまらない。)
こんな事をしている中に夜が明けてきた、だが、船頭が「黒い雲が出てきた、風が吹いてくるのだ、室津へ引き返そう。」と言って舟を反転させた。湊に帰り着く前に雨が降ってきた、悲しいことである。

一月十八日
 室津に停泊する。海が荒れているので舟は出せない。この停泊地である室津の港は、はるかに見渡す山々の景色も、近くに見る浦々の情景も、た
いそう趣き深く、絵のように素敵だ。しかし、天気のために動けない我が身が苦しくて、折角の景色を眺めても何の感興もわいて来ない。男達は気晴らしのためなのであろうか、漢詩などを吟じている。舟を出航できないので為すことなく、むだに時を過しているので、ある男が詠んだ。
「磯觸りのよする磯には年月をいつともわかぬ雪のみぞふる」 
(荒波のうち寄せる磯には、波がまっ白に砕け散っていて、いつが季節であるとも時節はずれの雪ばかりがしきりと降っていることだ。)
この歌は、めったに歌をよまぬ人の珍しい歌である。また一人詠む
「風による波の磯には鶯も春もえ知らぬ花のみぞ咲く」
(吹く風のために波のうち寄せる磯には、うぐいすも春もまったく知らない白い波の花ばかりが、盛んに咲いていることだ。)
この歌、まずまずの出来ばえだと思って聞いて、この船旅の長である私も、土佐を出てから、船旅が遅々として進まないいらいらした毎日の気ばらしにと詠む
「たつ波を雪か花かと吹く風ぞよせつゝ人を謀るべらなる」
(立つ波を雪かしら、花かしらと見まがわせて吹く風が、その波をば磯にうち寄せ、うち寄せして、見る人をあざむいているようである。)
 右三首を人々があれこれと批評するのを、ある人がじつと聞き耳をたてて、自分も詠んだ。その歌は三十七文字で詠み上げていた。この場にいた人達はみんな詠まれた歌があまりにもひどいものなので、おかしさをがまんしようにも、しきれなくて笑ってしまった。歌の作者はひどく機嫌が悪くて、ぶつぶつと文句をいう、まねをして創ろうとしてもとてもまねできるものではない。歌の型にちゃんとあてはめて、なだらかに吟誦することは難かしかろう。歌の出来た直後でさえこのように吟誦しにくいものであるから、まして後日になれば、詠みあげることも、書くこともできなくなってしまうであろう。

一月十九日
 日が悪いので、船出航せず。

一月二十日
 昨日と同じような理由で船出航せず。一行の人々はみな切ない気持を訴えため息をつく。出発してからの日数を数えようと、指を使って
「今日は何日、二十日、三十日」
と指を折ってゆくがその指も足りなくなった。悲しいことだ。夜になっても眠ることが出来ない。十五日も過ぎたので月の出が次第におそくなっている、二十日の、夜ふけの月が出た。月は山の端から出なくて海の中から現れた。こんな月の出を見てか、むかし、元正天皇の養老元年十七歳で唐の国に渡った阿倍仲麻呂という人を思い出した。仲麻呂は、いよいよ日本に帰るという日に、船に乗る港で、唐の国の人が別れを惜しんで送別の宴を催してくれた。さかんにむこうの国(唐)の漢詩をつくって詠ってくれた。それだけでは名残りおしく、なおあき足りなかったのであろうか、二十日の月が出るまで宴が続いたのであった。この二十日の月の出を見て仲麻呂の君は
「私の国では、このような歌が神代の昔からあります。神様の歌でありましたが今では身分の上下なく今日のように別れを惜しむ送別の宴のように悲しみあり喜びあるときにこの歌をつくって吟誦するのです」
と集まったかの唐の国の人々に言って詠った歌が「あお海原ふりさけ見れば春日なる三笠山にいでし月かも」
(青々とした海原を遠く見渡すと、今しも月がさし上って来た。この月はかつて自分が見たところの、故郷の春日にある三笠山にさし出た、あの月と同じ月であるのだなあ。)(私は元の歌の「天の原」をこの今見る美しい「あお海原」に置き換えてここに記す。)
 唐国の人は言葉が分からなかったことだろうが、この歌を漢字で、歌の大体の意味を書きあらわして、わが国の言葉を習い伝えて、知っている人に漢詩にしてもらったら、歌の意味を理解し得たのであろうかみんなは思いの外賞賛してくれた。唐国と我が国では言葉が違うけれども、月の光は同じであろうから人々の心も同じであろう。
 さて、私はこの昔のことを思い浮かべてうたをよんだ
「都にて山の端に見し月なれど波よりい出て波にこそ入れ」
(都では出るのも入るのも、常に山の稜線に見た月であったが、ここではその同じ月が、波から出て、なんと、また波に入ってゆくことだ。)

一月二十一日
 卯の刻(午前六時)頃に出航する。室津で出航を待っていた他の人々の船もみな出航する。この光景は静かな春の海に、ちょうど時ならぬ秋の木
の葉が散っているようであった。並々ならぬ祈願のおかげによってであろうか、風が吹くこともなくすばらしい日和になってきて船は漕ぎ行くのである。好天にめぐまれて船を進めてゆく間に下働きに付いてきた子供がおりその子が舟歌を歌った。
「なほこそ国の方は見やられる、わが父母ありとしおもへば。かへらや。」
(今となってもやはり、故郷の方を自然に見てしまう。わが父母がそこに住んでいると思うので。カエラヤ。)
と謡うのを見ると哀れである。こんな歌を聴きながら船は進むと、黒鳥が岩の上に群れをつくっている。その黒鳥の島に白い波が打ち寄せている。
舵取りの船頭が
「黒鳥のもとに、白い波が寄せている。」
とつぶやく。この言葉どうと言うことはないのだが、風流めいた秀句をいうように聞えたのだ。船頭という身分に合わない言葉なので、妙に頭に残ってしまうのであった。
 このように船は進む、船主である私は波を見ていて考えた。土佐の国を出た時からずっと海賊が襲ってくるだろうという噂があるのを心配する上に海難が恐ろしくて、頭が白くなってしまった。七十、八十という老齢は、海に(そうなるべき理由が)あるものだったのだなあ。海上の恐怖や苦労は人をして急に年をとらせるものだ
思わず歌が出てきた
「わがかみの雪と磯辺の白波といづれまされり沖つ島守り」
(私の髪においた雪のようなこの白髪と、磯辺にうち寄せるあの白波と、一体どちらがいっそう白いか、判定くれ、沖の島守よ。)
揖取よ、島守に代って答えよ
一月二十二日
 夕べの停泊地甲浦から今日の泊まりの地へ向かう。遠く遙かに山々が見える。歳が九歳ばかりの男の子が、歳よりは小さく見えるのだが、、この子供が船と一緒に進むように見える山々を見て不思議に思ってか歌を詠む。
「漕ぎてゆく船にて見ればあしひきの山さへゆくを松は知らずや」
(漕いでゆく船の中で見ていると、船はもとより、山までもいっしょに動いてゆくのだが、それを、あの山の松は知らないのであろうか。)
幼い子供の歌とは思われない出来である。今日は海が荒れ模様で磯に雪が白く降り、波の花が美しく咲いている。歌を詠む
「波とのみひとつに聞けど色見れば雪と花とにまがひけるかな」 
(耳では明らかに波の音だけが聞こえてくるが、目で風景を見る段になると、白い波を、雪と花との二つに見誤ってしまう。)

一月二十三日
 一日中曇っている。この辺に海賊が出没するというので、神や仏に祈りを捧げて無事を祈る。

一月二十四日
 昨日着いた日和佐に今日も留まる。

一月二十五日
 船頭達が
「北風の吹く様子が、思わしくない。どうも、荒れ模様になりそうだ。出航は出来ないな」
海賊が出てくるのではないかという声が絶えず聞こえてくる。

一月二十六日
 ほんとかどうか分からないが、海賊がやってくる、というので夜中に出航する。道中の安全を祈るために、神仏に幣を奉る場所があるというので、船頭に命じて幣を差し上げさせたところ、幣は東の方に向かって散っていったので、船頭が祈願して、幣を奉るその言葉は
「この幣の散って行く先に、この船をすぐさま進めさせてください」
この言葉を聞いてある女の子供が
歌を詠む
「わたつみの道觸の神に手向けする幣のおひ風やまずふかなん」
(船路の安全を守って下さる神様に捧げた幣を東の方に吹き散らした追風よ、どうか絶えず吹き続けて、早くこの船を都に着くようにさせてくれ。)と詠んだ。
 この間にも好い風が吹いているので、船頭は意気揚々として船に帆を上げなどして満足げである。こんな船上の賑やかさを聞いて子供も婆さんも、一日も早く都に帰りたいとぱかり思うからであろうか、大変に喜んだ。このお婆さんは淡路のお婆さんというのだが、早速この情景を歌を詠んだ、
「追い風の吹きぬるときは行く船の帆手うちてこそうれしかりけれ」
(追風がこうして吹いて来ている時は、どんどん進んでゆく船の帆綱が、帆をはたはたとはたつかせるが、ちょうどそのように、私らもさかんに手をうって嬉しくてたまらないことですよ。)
といって、天候のことに関して、神仏に祈願する。

一月二十七日
 風が吹いて、海が荒いので出航できない。だれもかれも、ひどく嘆息する。男達の慰めのため、漢詩で「遠いはずの太陽も目に見えるのに、都は見ることもできないので、いよいよもって遠い感じがする」という意味で「日を望めば都遠し」などと詠っている、その詩句の大意を聞いて。ある女は歌を詠む
「日をだにも天雲近く見るものを都へと思ふ道のはるけさ」
(遠いはずの太陽でさえも、こうして大空の雲近くに見ることができるのに、都は目にもうつらない。早く都へ帰りたいと思う、その道のりの、なんとまあ遙かに遠いことか。)
これを聴いて吾も詠う
「吹く風の絶えぬかぎりしたちくれば波路はいとどはるけかりけり」
(吹く風が止まぬ限りは、必ずそれにつれて波も立ってくるので、いつまでも船出ができず、都への波路はいよいよ遙かに思われることだ。)
一日中風が止まなかった。忌みきらう時にするおや指の腹に、人差指を当てて弾く仕草を思い切りして寝る。
 
一月二十八日
 夜通し雨が止まず、今朝もまだ降っている。

一月二十九日
 出航する。うららかな日照りで、漕いで行く。指の爪が長くなっているのを見て、切りたいと思い日にちを勘定してみたら今日は子の日だから切らない明日の丑の日を待つことにした。一月で子の日であるので京でする「子の日の遊び」とか「小松引き」とかいって、野に出て若菜を摘み小松をひいて、その根の伸びるにちなんで、人の寿を祝うことを思い出していた。「海の上だから小松引きもできないな」と話していたら、ある女の人が歌を書いて見せてくれた。
「おぼつかなけふは子の日か海人ならば海松をだにひかましものを」
(いっこうにそれらしい気配も感じないが、一体今日は子の日なんだろうか。もし私が漁夫だったならば、小松にちなんで、せめて海松なりとも引いて、子の日らしい気分を味わったであろうものを。)
と書いてあった。海上での子の日の歌などというものは、どんなものであろうか、ふさわしくも思えない。私は次のように詠った
「けふなれど若菜も摘まず春日野のわが漕ぎわたる浦になければ」
(子の日はまさしく今日なのだが、小松引き
はもとより、若菜も摘まない。なぜなら、若菜の名所である春日野が、私が漕ぎわたってゆく浦にないので。)
こんなようにして船は進んでいった。
 景色のすばらしくよい所に船をつけて、
「ここはどこか」
と尋ねてみると、
「土佐の泊」
と返事がきた。
 昔土佐とかいった所に住んでいたという女がこの船に乗っていた。その女の言うことには
「以前に私がしばらく住んでいた所の余波、言わばそこを偲ぶよすがとなるようですわ。まあ懐かしい。」
と言って詠んだ歌
「としごろを住みしところの名にしおへば来よる波をもあはれとぞみる」
(ここは私が数年もの間往んでいた所と同じ名を持っているので、この泊はもちろん、うち寄せて来る波までも、しみじみと懐かしく眺めおります。)
と詠む。

一月三十日
 雨風吹かず。海賊は夜に襲ってくることはしないものだと聞いて、夜中に船を出して俗にいう阿波の鳴門を横切る。夜中なので西も東も陸地が見えない。乗船の男も女も必死に神仏を祈ってこの難所と聞いている鳴門の渡りを渡りきることが出来た。午前四時頃から、六時頃までの間に淡路島と沼島の間を通過し、和泉の国の多奈川の沖を通ってやっとの思いで和泉の国の灘の港に到着した。今日は、神仏の加護もあって海上に波はなし。土佐国府の庁舎を出発して、今日で三十九日になる。今はもう和泉の国に来てしまったから、海賊は物の数でもない。十二月廿二日に「和泉の国までの航路がどうか平穏無事であるように」と願をかけたのが成就したのである。

二月一日
 朝の間に雨が降る。お昼頃に雨は止んだので、和泉の灘港を出発する。海上は昨日と同じで風波共になし。黒崎松原を眺めながら船は北上する。黒崎というから、地名は黒く、松の色は青く、磯に打ち寄せる波は雪のよううに白く、船の櫂は紫がかった赤色の蘇芳、と五色には黄色の一色足りない。そして、今日は箱の浦というところから浜辺づたいに、船にひき綱をつけて曳っぱってゆく。こうして船は進むところで歌を一首。
「玉匣箱の浦波たゝぬひは海を鏡とたれか見ざらん」
(箱の浦に波一つ立たぬ今日のような日は、その静かな海面をたれが鏡と見ないことがあろうか、皆そう見ることであろう。)
また船主である私は
「とうとう、この月(二月)にまで入ってしまったことだなあ」
と愚痴を言うと、そこらにいた者達も同じように嘆くので気ばらしに、
「ひく船の綱でのながき春の日を四十日五十日までわれはへにけり」
(曳いてゆく船のひき綱のように長い春の日を、四十日五十日までも、私はつらい船旅で過してしまったことだ。)
この歌を聞いた人達は
「何だって、こんなに平凡で技巧に乏しい歌なんだろう」
と、批評しているにちがいない。
「船主さんが、苦心して詠まれたすばらしい歌だと思っているのだもの。お恨みなさるといけないから。」
と、こそこそ言っただけで、だまってしまった。急に波風が立ってきたので、ここで泊まることにした。

二月二日
 雨と風が止まない。一日中夜を徹して天候が回復するようにと神仏を祈り続ける。

二月三日
 海の様子が昨日と同じ。出航できず。風が吹いて波が岸にうち寄せ返る。これを見ながら詠む歌「麻を縒りてかひなきものは落ち積もる涙の玉を貫かぬなりけり」
(麻を縒ってせっかく糸につむいでも、何のかいもないのは、いたずらに日のたつことを悲しんで、こうして絶えず落ちつもる涙の玉をこぼれないように、その糸で貫きとめることがでぎないからなのですよ。)
この歌は船中の女達が暇をもてあまして糸を縒っているのを見て思い立って歌に詠んだところがあった。
 こうして今日は暮れた。

二月四日
 船頭が
「今日も、風雲の様子が非常に悪い」
と言って、船を出さなかった。しかし、一日時間が経っても風も波も立たなかった。この船頭は、天候をもよう見定めることのできないたわけ者だわい。
 この停泊している浜には、いろいろな綺麗な貝や石などが沢山見られた。それを見ている中に、土佐で亡くなった女の子が頭に浮かび、今京に帰ろうとしている船上の人が詠む
「よする波うちもよせなむわが恋ふる人忘れ貝降りて拾わん」
(浜辺にうち寄せてくる波よ、どうかあの忘れ貝をうち寄せておくれ。そうしたら、恋い慕う人を忘れることが出来るというその忘れ貝を、私は船から下りて拾おう。)
これを聞いて、私は絶えられなくて、苦しいことの多い船中の憂さばらしに。
「忘れ貝拾ひしもせじ白珠を恋ふるをだにも記念とおもはん」
(波が忘れ貝をうち寄せてきても、私は忘れ貝なんか、けっして拾いはすまい。むしろ、あの美しい石でも拾って、白珠のようなかわいいあの子を、こうして恋い続けている私の気持ちを、せめてあの子の形見と思おう。)
と詠む。娘のためには親までが分別を失いまさに子供のようになってしまいそうだ。
「まさか、珠のように綺麗な娘でもなかったろうに、と、他人はかげ口をきくことであろうか。」しかし
「死んだ子は顔だちがよかった。」
死んだ子ほど惜しまれるのあまり、美しかったように思われる。とよく言われるが。
 ある女が、同じ処で停泊を続けるのを嘆いて
「てをひでて寒さも知らぬ泉にぞ汲むとはなしにひごろへにける」
(手をひたして、しかも寒さも感じないこの名ぱかりの泉、その和泉の国に、泉を汲むというわけでもなく、いたずらに畿日もすごしてしまつたことだ。)

二月五日
 今日やっと和泉の灘の港を出発して小津の港を目指す。松原が見渡すかぎりはるばると続いている。あれこれと辛かったことを思って詠む歌
「ゆけどなほ行きやられぬは妹が績む小津の浦なる岸の松原」
(いくら行っても、なおいつまでも通りすぎてしまうことがでぎなくて、うんざりするのは、この小津の浦にある岸の長い松原であるよ。)
 こうして船は進む。
「船を早く漕げよ、今日は日和が好いから」
せきたてると、舵取り船頭や船員達が言うには。「船主様から御命令だぞ。朝のはげしい北風が吹き出さぬさきに、北に向って引綱を早くひっぱれ。」
この言い方が歌の詠みのように聞こえるが、船頭達の普通の話し方である。船頭達はいちずに私たちが詠う大和歌を言っているのではない。ところが、この言葉を聞いていたある人が
「ほんとに不思議に歌のような言い方をするなあ」と言いながら、船頭の言った言葉を紙に書いてみると、おやおや、三十字余りになっていた。
「今日は波が高くならないように」
と、船中の人の祈りが届いたのか、風も吹かず、波も高くならずにすごせた。
 丁度、鴎が群れ遊んでいる側を通過した。京の都に近づいているのを喜んで、ある子供が歌を詠んだ。
「いのりくる風間ともふをあやなくも鴎さへだに波とみゆらん」
(海上の平穏を祈り続けてきたかいがあって、風の絶え間ができたと思って喜んでいるのに、いったいなんだって鴎なんかまで、立ちさわぐ白波のように見えるのだろう。)
と詠む歌を聞いている中に、石津という処の松原が美しく、浜辺が遠くまで、ながながと続いている。そうこうするうちに住吉の沖を通過する、歌を詠む
「今見てぞ身をば知りぬる住之江の松よりさきにわれはへにけり」
(今眼の前に住吉の松を見て、しみじみとわが身の程を知ったことだ。年久しいものの例にひかれる住の江の松でさえまだ青々としているのに、自分ははや白髪となって、松より先に老いてしまった。)
ここで、亡くなった女児の母である私の妻が歌を詠む
「住之江に船さしよせよ忘れ草しるしありやと摘みてゆくべく」
(住の江の岸に船をさし寄せてください。忘れ草がほんとうにその名の通り、亡き児を忘れるというききめがあるかどうか、摘み取ってためして行きたいから。)
という。歌の中で亡き我が子を忘れたいと言っているが、そうではなくて、亡き子を思う気持ちを少し休めて、また亡き子を偲ぶ新しい力を得ようとしているのである。
 このようにして岸の景色を眺めている間に、思いがげなく、急に風が吹き出して、漕ぎ手の船頭達が必死に漕いでも船は後へどんどんさがっていって、あぶなく、風が船を海中にうち沈めてしま
いそうだ。船頭が言うには
「この住吉神社の祭神は欲しい物のある時は、いつもこうして波風を立てなさる神ですよ、何か欲しい物がおありになるのですよ」
と。神様も最近は当世風な口のきき方だなあ。船頭の心がそういっているのだが。
「幣をさしあげなさい」
と船頭が強要するので、彼が言うままに幣を差し上げた。
 だが、幣を神に奉ったのだが、肝心の風が止まず、吹きに吹いて、波は立ちに立った。
船頭がまたも言う
「幣では神様が御満足なさらぬので、したがって御船も進まないのである。神様がこれはいい物だとお喜びになる物を奉りなさい」
「なにがいいだろうか」
「大切な眼だって二つあるから珍らしくもない、たゞひとつある鏡を奉ろう」
と海に投げ入れたが、貴重費である鏡、何とももったいない。だが、投げ入れた物が鏡だったから、たちどころに海は鏡の面の如く静かになった。そこで歌を詠む
「千早振る神の心を荒るるうみに鏡を入れてかつみつるかな」
(荒れ狂う海に鏡を投げ込んで、海がたちどころに鏡のように静かになったのを見たと同時に、一方では神様の物欲しげなみ心を、鏡に物を映すようにまざまざと見てとったことである。)
 とても海の澄むという住の江とか、憂きを忘れる忘れ草とか、優雅な名を持つ岸の姫松などという神ではありはしない、目前にまざまざと鏡に映った神の心を見た。船頭の心は、そのまま神様のみ心というわけだったのだ、この野郎、神にかこつけて、何かと物を欲しがる、いやしい奴らだ。

二月六日
 澪標の処を出発して、淀川の河口に入った。
船中の人々みんな、女老人すべて感極まって神仏に祈念する時のように額に手を合わせて、大喜びである。あの船酔いで苦しんだ淡路の島の老女殿都が近づいたと喜んで、船底から上に顔を出してこのように言うのだった。
「いつしかといぶせかりつる難波潟あしこぎ避けてみ船きにけり」
(いつ到着するのかと気にしていた難波潟に、葦を漕ぎ分けていよいよみ船はやってきた)
考えもしなかった人が詠まれたので、誰もがへんに思った。そんな中に私も居て、
「あんなに船酔いが激しかったにもかかわらず、良くできた事よ」
と、そっと口に出した。

二月七日
 今日、淀川河口に船ははいり川を漕ぎ上る。川の水かさが低くて、船の進行が困難である。川を上るのが大変である。こういう時に、船主である病いがちな私、もともと無風流なで。歌を詠むといったような風流なことはさらさら知らないことだが、淡路の老女の歌を読んで、都が近くなって気も晴れ晴れと、心が浮き立ったためでもあろうか、やっとのことで、下手な歌を苦労してひねり出した。それは
「きときては川上り路の水をあさみ船もわが身もなづむけふかな」
(せっせと先を急いで、ようやく此処までやってはきたものの、今度は川をのぼってゆく水路の水が浅いために、船も行きわずらうし、わが身もまた病のために悩み苦しむ今日である。)
これは体調が優れないので、こんな詠み方をした。一首では思う事が満足に詠みきれないのでもう一首詠む
「とくとおもふ船なやますはわがために水の心のあさきなりけり」
(少しでも早くと思う船を行き悩ませるのは水が浅いからで、それはまた、私に対する水の思いやりが浅いからでもあつたのだ。)
この歌は、都が近くなってきた嬉しさについ詠んでしまったものである。淡路のおばあさんの「いつしかと」の歌よりもまずい。
「いまいましいことだ。詠まなければよかったのに。」
と悔しく思う中に夜になり寝てしまう。

二月八日
 なお、川上り難航する。鳥飼の御牧という処で泊まる。今宵は、私、例の持病が起こって、大変苦労する。ある人が新鮮な魚をもってきてくれた。お米を返礼として渡す。男どもが、ひそひそと話しているらしい
「わずかな餌で、大きな獲物をとる」
と。
 こんなこと度々あった。
今日は私の精進日であるので、魚は役に立たぬ。

二月九日
 船が進まずじれったいので、夜の明けぬうちから岸から船を曳いて川を上るが、川の水が少ないので船底が川底についてしまい、ただもう、いざるようにしか進まない。そうこうするうちに船は、和田の泊まりというところで、米や魚を乞う者達があり、乞われるままにそれらを与えた。
 さらに船を曳き上ると、渚の院を見ながら上ってゆく。この院は昔を振り返ってみると興味があるところである。院の裏の丘に松の木の枝折り戸があり、中の庭に梅の花が咲いている。それを見ながら人々は、
「この院は、むかし有名なところであった。故惟喬親王のおんときに故在原の業平中将が『世の中にたえて桜の咲かざらば春の心はのどけからまし』という歌を詠んだところである。」
 さて今、今日ここにいあわせた人が、場所がらにふさわしい歌を詠んだ。
「千代へたる松にはあれど古への声のさむさはかはらざりけり」
(千年もの長い年月を経た老松ではあるが、昔のままの澄んだ涼しい松風の音だけは、今もなお変らないでいることだ─院そのものはすっかり変りはててしまっているのに。)
またある人が詠む
「きみ恋ひて世をふるやどの梅の花むかしの香にぞなほにほいにける」
(昔の主君(惟喬親王)を恋い慕って、長い年月を経てきたこの古い院の梅の花は、親王御在世の、昔のままの清い香で、今もなお匂っていることだ。)
といろいろと詠いながらも都が近づいて来るのを喜んで船は上ってゆく。こうして河をさかのぼって(都に上って)ゆく人々の中に。都から下向した時には、同行の人は誰もみな子供はなかった、それなのに、赴任していたその国(土佐)で子を生んでいる者どもが、たがいに居合わせている。この人達は船が泊まると子供を抱いて下船乗船する。これを見ていて、妻は悲しみに
「なかりしも有りつつ帰る人の子を有りしもなくてくるがかなしさ」
(土佐に赴任した時には子供のなかつた人々も、今はそれぞれ生れた子供をひきつれて京へ帰るのに、以前からあった子供まで亡くしてしまって帰京することの、なんと悲しいことよ)
と言って涙を浮かべている。私もこの歌を聞いて何とも言うことが出来ない。このような亡き児を慕い嘆くということも,またこのような内容の歌をよむということも、何も好きだからということで、するというわけのものでもあるまい。このように歌を詠むということはかの唐土でも、わが日本でも、心中の思いに堪えかねた時にするしわざだとかいうことだ。
 今夜は鵜殿というところで泊まる。

二月十日
 差支えることがあって、川をのぼらない物忌みなどのためである。

二月十一日
 雨が少し降ったが止んだ。そうしてまた船は上ってゆく、東の方に山が横たわっているのを見て、尋ねてみると
「石清水八幡宮ですよ」
と答えた。これを聞いてみんなは喜んで、それぞれ手を合わせて拝み始めた。山崎の街が見えてきて、嬉しくて嬉しくてたまらない。そこで天台宗。権僧正壱演の開く所の相応寺のほとりでしばらく船を止め、入京の諸準備についての相談してとりきめをする。この寺の岸に柳の木が沢山あった。この柳の影が川に写すのを見て歌を詠む
「さざなみよする文をば青柳の影のいとしておるかとぞみる」
(さざ波が寄せては作る水面の模様をば、青柳が水に映っている枝影の糸でもって、織り出しているのかと見ることだ)

二月十二日
 山崎に泊まる

二月十三日
 なお山崎にいる。

二月十四日
 雨が降る。京へ車をとりにやる。

二月十五日
 今日、車を京からひっぱってきた。船中の生活がくさくさするので、船を離れてある人の家に移る。この家の人達私が来たのを喜んでくれ、主人として客をもてなしてくれた。この家の主人の、またそのもてなしのよいのを見るにつけて、あまりの厚遇に、かえって気の毒な気持ちがした。いろいろと返礼の贈り物をする。この家の人のたちいふるまい感じがよくて、礼儀正しいのに感心する。

二月十六日
 今日の晩方、京へのぼる折に見ると、山崎の店の小櫃の絵看板も、曲の店の大鈎の提看板もまえと変わりなかった。
「それらを売る人の心は昔のままであるかどうかわからない」
ということもある。
 こうして京に向かうところ、京の入り口近くの鳥坂で、少しばかりの宴を催してくれた。わざわざしてくれるには及ばないことだ。京を出て任地の土佐へ発っていった時に比べると、任を終えて京に帰ってくる時の方が、人は何かと、好意を示してくれるというものだ。この人達にも返礼の贈り物をする。夜になるまでには京に着こうと少々急ぎもしたが、とうとう月が出てきた。桂川の久世渡しを月の明かりを頼りに渡った。だれかが
「この川は飛鳥川ではないから淵・瀬が昔と少しも変っていない」
といって詠んだ歌。
「久方の月におひたる桂川底なる影もかはらざりけり」
(月の中に生えている桂、それと同じ名を持つ桂川は淵瀬はもとより、水底に映っている月の光までも昔のままで、以前と少しも変っていないことだ。)
またある人は
「雨雲の遙かなりつる桂川袖をひでても渡りぬるかな」
(長い旅路の間、天雲のように遙かに遠い所と思っていた桂川を、今まさに、その流れに袖をぬらして渡ってしまった。)
またある人は詠む
「桂川わが心にもかよはねどおなじ深さにながるべらなり」
(桂川はべつに私の心に流れ入っているわけでもなく、また私が思っていた程にも通じ合っていたわけではないけれど、その深さだけは、私の帰京の喜びの深さと同じ程度に、深く流れているようだ。)
 京へ帰れた嬉しさに、歌も続々と詠われた。夜がふけてから京にはいったので、あちこちの町すじや風物なども見分けがつかない。だが京に帰ることが出来て本当に嬉しい。わが家に着いて、門を潜ってみると月が輝いている夜なので付近の状況がよく分かる。土佐にいる頃時々噂に聞いていた以上に、話にもならぬほど、ひどく壊れいたんでいる。家を守ってくれと預けておいた人の心も、この家と同様に荒れているのだったのかな。隣家との境に設けた中垣こそあるものの。一軒の家のようであるので、先方から希望して、預かってくれているのだ。そのくせ実は、京との連絡ある度ごとに、必ず金品を贈ってきた。今夜は入京の日でもあるから、従者どもにも「このざまはいったいどうしたのだ」と、大声でいったりするのを、ひかえさせる。このように壊れた状態であるが、お礼の志はしようと思った。ところで、池みたいに地面がくぼんで水が貯まるようになったところは、もと池であったのが、荒廃してしまったものである。周りには松もあった。、自分が不在の五、六年のうちに、こちらは千年もたってしまったのであろうか、一部分はなくなってしまっていることだ。今は、生い茂っているのもある。大方荒れてしまっているのを見ると「悲しいこと」と人々は言う。こう思い思いしていると、この家で生まれ土佐でなくなった女の子と、共に帰れなかったことがますます悲しくなってくる。同船して、いっしょに帰ってきた人々もみな、子供が寄り集まって、わいわい騒いでいる。こんなにして悲しみがますます増してくるのを小さな声で親しい人と話ながら歌を詠む
「むまれしも帰らぬものをわがやどに小松のあるを見るがかなしさ」
(この家で生れた子さえも、あちらで死んでいっしょには帰って来ないのに、このわが家の庭に、留守の間に新しく生えた小松があるのを見るのが、いかにも悲しいことだ。)
と詠む。なお飽きもせずに書く
「みし人の松の千歳に見ましかばとほくかなしきわかれせましや」
(死んだあの子が、千年も経るという松のように、いつまでも生きながらえていて、常に身近かに見ることができるのであったならば、どうして遠い土佐の国で、あのような永遠の悲しい別れをすることがあったろうか、そんな筈はなかったのに。)悔しいことが多いけれど、とても、すべてを書き尽すことはできない。とにかくこんな日記は早く破り捨ててしまおう。

私の読む「土左日記」

私の読む「土左日記」

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-05-29

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著作権法内での利用のみを許可します。

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