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春乃

1 わたしと彼はみそ汁をすすった。えのきと油揚げが入っている。彼の歯が黄色いたくあんをぽりぽりと噛み砕くのを、わたしは口を開けたまま見ていた。
彼は言った。「お行儀が悪いですよ」そのときやっと、自分の手から箸がすべり落ちていたことに気付いた。手汗がひどい。



2 セミが鳴いている。ジワジワという鳴き声がわたしの耳に染み込む。わたしの足下にちいさな水たまりが、汗なのか涙なのかよく分からない液体で出来た水たまりが広がっていくのをじっと見つめていた。「もう止せばいいのに」と彼が言ったけれど聞こえないふりをした。まだ待つことにする。



3 ブタのかたちの蚊取り線香がほしいと言ったらそんなもん要りませんと返された。
さっきまであかあかとみずみずしかった西瓜がもう皮だけになってしまったのがなんだかむしょうに悲しくて、がつがつとこの果物を喰らっていたちょっと前までの自分を恥じた。「手を洗ってらっしゃい。もう寝る時間ですよ」
そういえば、今年はまだ一度も蚊に刺されていない。



4 朝目が覚めたらとなりに布団がなかった。遠くの方から包丁の音と魚が焼けるにおいがしてきて、ああそんなことはいいからここにいてくれと思った。
それでも彼は向こうに行ったまま、わたしにおいしい朝ごはんをこさえるのだろう。




彼の手がつめたいのはいやだ。でも熱いのもいやだ。
どうしたらいいんだろうか。








雨はもう上がっている。わたしは窓を開けて網戸越しに外の空気を吸い込んだ。
湿度が高くて、でもなんだかいいにおいがする。網戸をしめなおした。虫が入らないように。

これから眠る。夢の中であの人と会えたらどんなにすてきか考える。
でも多分彼は現れないだろう。そんな気がする。
彼は遠くへ行ってしまった。たぶん前よりも。

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メモ書きから

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