血の糸 三
三
「…はあ、たいくつだ」
隼人が愚痴をこぼす光景を茜はたびたび目撃することがある。
そしてそれは決まって事件の進展がみられない時。
女性殺害事件が発生してから一週間が経過するが、犯人への足取りはおろか、手がかりさえ掴めない。
奔走する先輩刑事の傍ら、うつ術なく、机の上に管を巻いている新人たちの姿は、既に刑事課内の日常の風景と化している。
茜が微笑しながら問いかける。
「隼人さん、たまに言ってますよね退屈だって」
「だって退屈なのは退屈じゃん」
「でもわたしたち刑事ですよ。そんなフシダラな態度でいいんですか?」
「だって僕が警察官になろうと思ったのも実は退屈しのぎってとこなんだから」
「…どういうことですか?」
隼人が警察官になろうなどまだ壕も考えたことのなかった高校時代。
突然彼がその考えを一転させる事件が起こった。
他の人よりも劣る体、そしてその体を動かすのもあまり得意ではない彼にとって、手足を動かすよりも先に頭を回転させる方がなにかと得意であった。
そんな彼を場違いな刑事という職に向かわせた理由というのも、学校の授業を終わり自宅へと向かう路上で偶然出くわしたものである。
突然どこかで女性の大きな叫び声が高鳴った。
それを耳にした隼人はキョロキョロと辺りを見回す。
しかし彼の見渡す風景に変化など見られない。
聞き間違えかと思い、自宅への道のりを再び再開させる、すると遠くでまたそれがあがる。
声が真実だと確信した彼はその発生源である路地裏に向かって足を動かすことにした。
さっきも言ったが隼人は運動よりも勉学の方がすぐれていると言っても過言ではない。
しかしそれと同時にどこかで、人間とは本当にこうでいいのだろうか、という疑問も持っていた。
いくら脳内でご大層な思考、計算を巡らせても、それを実行できなければ無価値だと。
それは恋愛にしかり友人関係にしかり、理想では現実よりも何倍も輝かしいものを持っていてもそれを実現するキモである、行動、がない。
…そんなものになんの意味があるのだろうか、という。
声はだんだん近づいてくる。
路地裏の曲がり角を右に、そして遠くにある小さな煙草屋を発見する。
するとそこに何やら店員に向かって刃物をつきつけている男の姿がある。
きっとそこが声の出所だろう、と確信した彼は物陰に隠れその状況をそっと見守る。
しばらくその強盗と女性店員の押し問答が繰り広げられる。
すると男が店員を外へ引っ張り出し、彼女の首もとへ刃物を突きつけてしまう。
さすがの隼人もこの時ばかりは、脚を前へ動かさなければならない、と思った。
しかしその時、彼らの背後に何者かが現れる。
それは黒いスーツを着た二人組みの男性だった。
印象的な光景だったにも関わらず彼らの顔はよく覚えていない。
きっと鮮明に残る彼らの記憶がその、顔、に対してよりも行動に対しての方が大きかったからだろう。
片方の男が背を向ける強盗に対し何かを言い放っている。
振り向き、今度は強盗の方が何かを言い返している。
きっと、彼女を解放しろ、と交渉しているのだろうが、しかしその交渉も、すぐに決裂したと見え、再度その場に緊張感が走る。
すると交渉役をしていた男の隣にいるもう一人が、おもむろに前へと出た。
この後もしかしたら何かが起こる…こう隼人が心配そうに彼らを見守っていると、予想だにしなかった出来事がそこで起こったのだ。
突然男が手をポケットの中に入れある物を取り出した。
それは拳銃。
そしてそれを犯人の目の前にかざすと、有無をも言わぬ速さで撃ち放ったのだ。
静かな路地裏にけたたましい凶音が鳴る。
両手で耳を閉じ、思わずその場に座り込んでしまった隼人が、しばらくして再び静寂が戻ると立ち上がり彼らの方を省みる。
すると視界の先には驚くべき光景が広がっていた。
さっきまでは元気よく手足を動かしていた強盗だったが、その後地面に突っ伏したかと思うと、両手で肩を抑え、苦しそうに身悶えしているのだ。
その肩からは大量の鮮血が流れ出しており地面に大きな水溜りを形成している。
あまりにも突然の出来事に呆気にとられる隼人。
遠くへ逃げ出していた聴覚が次第に戻ってきたことにより、判断力も元に戻る。
今まで起こっていたその出来事がまるで架空の物語のようにしか思えなかった隼人だったが、しかしその時は不思議なことにその物語の中に足を踏み入れたいと思ってしまった。
いや今回はただ思っただけではない。
実際に実行に移したのだ。
自然と足が彼らのいる現場へと向かっていく。
先に交渉役だった男が撃った男に対してこう言い放つ。
「おい…なんで撃ったんだ?」
しかし相手は憮然とした表情。
「ったく…発砲の許可はおりてないぞ」
きっとこの人たちは刑事なんだ、と隼人はとっさにその状況を察知する。
それを証明づけるかのように、下げていたトランシーバーに向かって言葉を交わす交渉役の男。
「ただいま容疑者を確保しました……いえ、怪我をしています。我々の発砲により肩に怪我を負っています」
すると先に発砲を行った片割れが、近寄ってきた隼人に対しこう声をかける。
「…どうした?」
咄嗟のその質問に言葉を返せない隼人。
「目撃者?」
コクリと頷くが、しかしその後、両者の間で言葉が続くことはない。
男は憮然とした態度のまま、苦しんでいる強盗の傍らに座り込んでは、その光景を真剣な眼差しで見下ろしている。
まるで狩った獲物を目の前に捉え満足しているかのような雰囲気だった。
強盗は手足をバタつかせながら男に向かって必死に助けを買うている。
「…助けてくれえ」
が彼は目の前に撃った人間がいるにも関わらず、無視し手に握った拳銃を眼前に添えたままそれを回し凝視している。
隼人の鼻に火薬の臭いが充満している、地面に広がる真っ赤な水溜りが脳裏に鮮明にこびりついている。
凄惨で恐ろい事象だったけれども、彼にとってはなぜかそれが、自分の退屈をしのんでくれる物語の一遍のような気がしてならなかった。
もしかするとこの物語が思考的な自分を行動的な人間に転化してくれるのではないか、とこう思ったのだ。
この時もまだ自身が刑事になりたいとは微塵も思えなかった、がしかし、その時にかいだ臭い、見た光景、それがこれから先、寝てもさめても自分の脳裏から離れなかったことを自覚した彼が、己の体を無意識にそう動かしたのも実に納得できる理由に違いなかった。
血の糸 三