陳暦(ちんごよみ) 第一章 戦中のゴルフ場、大須演芸、夏の夜は、小遣い欲しさに、岩倉(1) (2)

陳暦とは簡単に表現すると古い話とゆう意味です。
ここで書かれている内容はすべて事実です。
内容についての質問は何でも承ります。

戦中のゴルフ場.


戦中にも名古屋市内にはゴルフ場があった。
昭和14年、名古屋市瑞穂区元(昭和区)内の石川橋の近くに萩山公園(記憶に間
違いがあれば失礼)があった、その一角がゴルフ場だった。
御剣小学校区内(後分校して淡路小)ではあったが辺鄙な所で「ひとさらい」がそこ
にはいる、と云った噂があった位怖く淋しい場所で子供が遊びに行く場でなかった。
公園の一角に50m四方の池があった、その池には「菱の実」が取れたので5,6人
で遊びながら行く、とそこえニッカポッカのズボンをはきそれぞれが棒を持った4,5
人のおじさんが走ってきて「おい、ぼうずその辺の池に落ちたボールを探せ」と偉そ
うに言う、「やだよ」とゆう、そのおじさん連は足早に行ってしまう、「それ」とば
かりに私達は腰までつかる泥沼の池へ入る、目的は今言われたボール探しだ、ちょっ
と冷たく寒い時もあるが一回で3,4個のボールは拾えたし、「ひし」の実も探せた
ので「寒い」と「又ボールがでた」と大喜びで持ち帰る。
ゴルフボールの中身は全部糸ゴムだった。
皮をはぎ巻いてあるゴムひもを苦労の末引き出し(輪ゴム位)、女の子の、
「ゴム飛び」にはかかせない道具で、妹に一本、と好きな女の子にプレゼントして大
変喜ばれた、しかもゴムをベンジンに混ぜ自転車のパンク糊を作る、なによりも貴重
なゴムだった。
ゴルフ場から天白まで何もない原っぱだったが今では住宅がびっしりで「天白区」ま
でできている。
(それからあのゴルフ場はどうなったのでしょう。)

20年7月終戦まぎわだったと思うが、B29が名古屋を空襲したが一機、萩山公園
に落とされたと聞き私達は早速5,6人で見に行ったが、そこにはB29の残骸と7人
のアメリカ兵の死体が並べられていた、驚いたのはその中に一人の女性の死体が並べら
れていたのにはみんながビックリした、と同時にいつまでも話題になった。
落下傘で降りてくるアメリカ兵を下から竹やりで突いて殺したのだったが、戦後B級
戦犯裁判で突いて殺した日本人数名が有罪の判決を受けたと新聞が伝えた。



大須演芸場(港座)の記憶。

「大須」の言葉の響きは名古屋人には心地よい「遊びに行く」とゆうここちいい遊び場
である。
観音様と映画館、演芸場、飲み屋、飲食店どちらも遊びの必需でここえ来れば何でも
ある場でもあった。
私が5歳の時名古屋駅新築のため一家が東京からやってきて日置に住んだのは昭和9年
だった。
大酒飲みの父親だったので飲み屋街の大須へ行くとゆう父に一緒についていけと、母が
私をついていかせるのだが、大須の観音さま裏街で馴染みの飲み屋の下で、そこの女将
と遊ぶんで二階へ行った父を待つ。
帰りは午前様だ、大須から日置まで歩くのだが途中父は酔っぱらっていて大手を広げて
市電を止める、「馬鹿野郎・・・」と運転手に怒鳴られる、大泣きしている私などいっ
こうにかまわず又市電を止める。
12年名古屋駅が完成とともに船原2丁目へ移り住んだ。
大須には思い出がまだある。
港座とゆう劇場があったような記憶がある。
大須観音前2分のところにあった、こちらと大須演芸場と混同していると思われる。

「かわべきみを」一座が一週間ごとに演目をかえて上演していた、かわべきみを一座は
劇団員12人くらいで結成された「喜劇」専門劇団だった。
カワベキミヲは戦後TVで活躍し、    などと共演した。

当時ではほかの劇団の出演もままならずこの劇団だけで出ずっぱりだった。

19歳の私はシナリオ作家になりたい一心で、ここえ通った。

近視だった私は一番前の席を取る、下手から役者が出てくると、塗りたくった白粉の匂
いと焼き魚の匂いがプーンとする、これが又程よい香りととらえた。

涙あり、笑いありの定番演目に一度はかわべきみをに弟子入りまで考えたこともあった。

大須中市場横の「泉亭」へ数百人の応募者のなかから私はバーテンとして採用された。
ここでの日課は北区からアイスクリームを自転車で2カートン運ぶことだった、重いが
以外に楽しかった。

夜は支配人、副支配人と麻雀を打つことだった、毎夜停電するので4角へ長いローソク
を立てて明かりの代用にするが朝方どの顔を見ても黒く特に鼻の孔は真っ黒でお互い笑
いの種だった。

麻雀も戦時中に覚えていたのでここではお互いの意思疎通に役立った。
ここも、当時東宝の重役だった小林氏の彼女だったとゆう喫茶店経営者に引き抜かれ、
映画館と映画館に挟まれた小さな喫茶店へ移った。


夏の夜はタップが楽しい。(ヤンマが大群で)

夜になっても蒸し暑さは続く、特に夏休み期間中の熱さは我慢できない、寝付かれないか
らだ。明かり一つない真っ暗な長屋前では縁台が置かれる、誰彼の区別もなく大人、子供、
男、女だれかがそこに座りうちわでささやかな涼をとる.
ラジオがないので「浪曲、落語、漫才」も聞けない、多くの子供には興味もない、縁台に
集まり花火(線香花火)で賑やかる。それも安く数が多いのでパチパチと派手にはぜ、や
がて火の玉に変わりポトッとはかなく落ちていくさまは当時流行の軍人に例えられたのだ
ろう、将棋盤で山崩し、はさみ将棋がローソクの明かり便りに始まる、「蚊」にひざ、足
元を攻められるので「香取線香」を一つたく、そこえ成田さんのお兄ちゃんが一枚の厚い
鉄板を曳いた木板を持ってきた、始まったのが「タップ ダンス」だメロデーは汽車の出
発から次第に早く、特急並みの速さにかわり次第に遠さかって行く音を足元で演じている、
高い靴だろう、面白い靴だと感心する。
ギターをポロン、ポロン悲しいメロデーで奏でる兵隊検査前のお兄ちゃんが誰とゆう当て
もなく姉ちゃんに向けて曳く、子供にもそのメロデーは涙を誘う余韻があることが判る、
「旅の夜風」だった。
映画の中の流行歌が流行る、ことにギターを自前持ち、奏でる事のできる若者は特別若い
女の子にもてもてだった。
夜の遊びは毎夜人が集まる、大人も子供も浴衣を着ている、たいていの人はその体から
「天花粉」の香りがする、タライで行水をした後の体だ、銭湯は銭がいる、夏の行水は水
を浴びるだけだからどの家も浴びた。
夏と云えば、近くに300坪位の原っぱがあった、夕方4時頃になると北から南へヤンマ
の大群が上空3-5m位のとこを飛ぶ、モチ竿にべたべた着いて、いくらでも取れるが時
期が夏休み2,3日前では面白みもない、3年位この情景があったが何故ヤンマが大群で
飛んだのか理由がわからない。
戦時中はどうだったのかも判らない夏の不思議な現象だった。


小遣い欲しさにネジきりバイト.

 昭和16年初め小学校5年だった。
小遣い銭欲しさにボルトのネジ切りを始め、ナットと組で1本3厘で1日でせいぜい20本
出来て6銭といったところだった。
近所の植木好きのお爺さんが、
「小使いは自分で稼ぐもんだ、汗水流して自分の手で仕事をする」
そうすることによってお金の大事さを知る、物の価値も知る、これは誰も教えてくれないのだ。
魚釣りが大好きだった、糸、釣り針、浮木などの道具は大人用を使うので高い、が餌をはじ
め何にしても金が必要だった、小学生の貰う小遣いは日に1銭が相場、毎日貰えるわけでも
ないから子遣い稼ぎだった。
6銭を貯めていくと週5日で30銭、云い稼ぎだった、ライスカレーなるものが12銭、し
のだ丼が8銭、酒好きな父の晩酌に5合で60銭の時代、30銭の値打ちは十分だった。
釣りは、毎週日曜日の夜3才ボラが数本釣り道具屋の前に並ぶ、Ⅰ本15銭で売る、魚屋よ
りは安い、しかも新鮮だ、並べると同時に売れる、売れるから又釣りに行く。
少年だった私はこのボラを釣りたくてネジきりの仕事をした、当時ボラ釣りの運上金は30
銭で港区の(川名不明)川で舟に2、3本の3本継の竿でゴッン釣り、餌に苦労するラセン
の道具で餌を団子にした吸い込み釣りがあった。
ゴッンとゆうのは太い針金で6巻ほど巻いたものの道具でそこえ餌を団子状につけてその下
へひっかけ針を3,4本つける、浮きがチョコンチョコン動く、同時に引っ掛ける釣り方だ。
このボラ釣りと同じようなのが「神戸」港での手元へレンガをつけて太い竿で釣る方法と同
じものがある。
1回の釣行で1円はかかるので子供ではとうていおぼつかない、のでコボ釣りに蟹江の善佐
川へ行く、船原から蟹江まで15キロはあるが、24インチの自転車で弟を乗せて道具を背
負って朝3時起きで、自分で飯を炊きおにぎりを握って出かける,が帰りの3時頃には後ろが
パンク、なおす銭がないので自転車屋で空気入れを借りて空気をいれるが、1銭払わねばい
けないが1銭もないので逃げる、月一回でも何かいめには自転車屋さんのおじさんもきずく
が何回も同じ店で逃げるが追われないとはきずいていないところがやはり子供だ。
性懲りもなく又日曜日には3じ起きで釣りに行く。


岩倉(麻雀覚える). (1)

昭和19年12月から始まった工場疎開、パラパラ粉雪がうっすらと舞っている、寒かった。
全て牛車での運搬だから時間がかかる、精密工場全ての工具、機械100台程の疎開が終わ
ったのは年末も迫っていた。
私の担当はハーバード-リンドナーとゆう日本に5台しかないドイツ製の精密機械でここに
3台あった。
この機械は種ホブを作る機械で20年8月には「郡上八幡」の山中へ疎開するため岩倉駅の
貨車へ3台の積み込みも終わって15日を迎えた、
犬山線岩倉駅は尾張一宮と犬山の分伎駅でどこをみても畑ばかり、駅裏に工場の寮があった、
そして100mも西へ行けば旧織物工場跡へ我が「名古屋裸子」が移転して今操業を始めた
ばかりだった。
30m四方の池があった、たくさんの「食用カエル」がブオ、ブオと昼間から泣いている。
暮れから寮での生活は楽しかった、初めての一人暮らし、いいえ高倉、稲葉の3人暮らしは
同じ年代だけに日々目新しかった。
しかも寮は新築で布団、蚊帳も真新しかった。
駅の前に民家を借りた「青木」さん(工場事務町)が麻雀を希望者に教えてくれるとゆうので
真っ先に希望した、ときには「空襲警報」も鳴ったがこんな田舎まではとたかおくくっていた、
でもサイレンが鳴ると窓は黒いカーテンで覆い、
手元はローソク4本で照らして毎夜のように麻雀を打っていた、当時のハイは大きく薄かった。
或る夜「ドカン」とえらい大きな音がした、打っていた麻雀パイも吹き飛んだ、誰も怪我はし
なかったが20m位の畑に油脂焼夷弾のかけらと燃えている一発の焼夷弾が落とされたのだった、
が誰もその時はきずかなかった。
岩倉駅踏切り脇の出来事でみんな鼻の孔を真っ黒にしてパイをにぎった。
まさか麻雀中の明かりが漏れたのではと思うが、ローソクの明かりが見えたとは思えない。

岩倉 終戦の日.(2)

昭和20年も明け寒い日が続いた、あいもかわらぬ「警戒警報」ついで「空襲警報」のサイレン
がけたたましくあちこちで鳴り知らせる、急いで畑へと走る。
麦畑に隠れるが何も起こらない、名古屋市内の方面で黒煙が上がるがこちらは田舎、いつものパ
ターンで「解除」のサイレンが鳴る前に工場へそれぞれが帰ってくる。
畑へ逃げるたび、トマト、キュウリ、瓜、サツマイモを取るので近隣農家からの苦情が絶えるこ
とはなかった。
暑い、全く暑い8月9日私は一週間の公休をもらって浜松へ帰ったが浜松も艦砲射撃でめちゃめ
ちゃで町の姿もない、禄にない帰りの汽車にやっと乗って14日岩倉へ帰った。
「明日午後0時15分に天皇陛下の玉音放送がある」
と井出寮長からの指示があった、「戦争が厳しいからもっと頑張れ」とでもゆう天皇陛下のお声
が放送されるのだと周囲が話す、谷口さんは云う「日本が負けた、その勅旨の放送だ」と、まさ
かとは思うが、今日午後2時頃グラマンが超低空飛行で「日本がポッダム宣言受諾した」
とゆうとんでもない厚い白い紙のビラが雨あられのように空から降ってきた。
空襲警報中だったので5枚も拾った、そこえサーベルを下げた巡査が来て「そのビラはデマだ、
拾うな毒が紙につけてある」と大声で拾い集めていた。
毒がつけてあるの一言でみんなビラから手を放した。
「もうみなさんは空襲の心配はありません」
とも書いてあった、絵も裏面にあった、がすぐ巡査が全部集めていった。
そして15日0時15分
玉音放送
雑音で聞き取りにくいが戦争は終わったとゆうことだ、「ポッダム宣言」が何者なのか判らないが
戦争は終わったと聞いてホットした、正直ホットした。
ちょうど3台目のリンドナーを貨車に積み込みが終わった時だった。
今から岐阜郡上八幡の山中へ3台のリンドナーと私達5人が疎開するとゆう日であった。
しかしその翌日から仕事が止まった。
女が危ない、男はどこかえ連れて行かれるなどいろいろ噂が飛ぶ、巡査は叫んでいた「日本はまだ
負けていないデマだ」と。
しかし誰もそれお信じない、以外冷静だった。

陳暦(ちんごよみ) 第一章 戦中のゴルフ場、大須演芸、夏の夜は、小遣い欲しさに、岩倉(1) (2)

まだまだ続きます、続いてお読み下さい。

陳暦(ちんごよみ) 第一章 戦中のゴルフ場、大須演芸、夏の夜は、小遣い欲しさに、岩倉(1) (2)

戦中の実話です。 経験にもとずいた内容で、表現に不適切なものもあるでしょうが当時の表現そのままで書きました。

  • 小説
  • 短編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-03-18

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