何でもない
何でもない話です。
雪
市内電車が駅で停まる。
幾人かの乗客と共に、雪が車内に流れ込む。
けれどドアが閉まると、それは発車を待つまでもなく暖房の熱に溶けた……。
がたりと揺れ、電車が動き出したのを契機に、となりに座るスミレは口を開いた。
「珍しいね。ここいらでこんなに降るなんて。この分だと、明日は――」
「積もらないよ」
二人の間は、僕の学生鞄でしっかりと区切られている。
けれどスミレは、何でもなくそれを乗り越えて、
「かける?」と、僕の顔を覗き込む。
「……やめとこう。そういう顔をするのは、決まって勝算がある時だから」
翌朝。
案の定、雪は積もっていた。
戸を開けて驚く雪の晨(あした)かな
――なんて漱石の俳句を、僕は思い浮かべる。
「おはよう」
スミレは、勝ち誇ったような笑顔だった。
「ああ。……全く君のせいで、酷いありさまだ」と、僕は的外れな不満を述べる。
「はしゃがないの?」
「まさか。高二だよ」
「だね。 行こっか」
けれどスミレの足取りは軽やかだった。
前を行くスミレに、
「はしゃいでるね」と僕は言う。
「分かる?」
「転ぶよ」
「平気。その時は、支えてくれるでしょ?」
「その距離じゃ、届かないよ」
「つまり?」
「……もそっと近う寄れ」
月
金貨のように真ん丸な満月が浮かんでいる。
「掴めそう」
スミレは無邪気に手を伸ばす。
僕はその小さな手に、指を搦めて真下に降ろす。
「駄目だよ。月はみんなのものだから」
「名月をとってくれろと泣く子かな」と、スミレは子供のように膨れっ面で言う。
「小林一茶」と、僕。
「……あまの――」
「三笠の山に出でし月かも。安倍仲麿、百人一首、三字決まり」
「……何でもお見通しだね」
「長い付き合いだから、ね」
「じゃあ、今私が、何て言って欲しいか分かる?」
月が綺麗ですね
そんな言葉が浮かんだけれど、僕はただ、無言でかぶりを振るだけだった。
「秋の夜の月の光は清けれど人の心の隅(くま)は照らさず」と、スミレ。
「後撰集。詠み人知らず」と、僕。
そんなことを、スミレが聞きたいわけでは無いことくらい、僕にも分かる。
スミレは、ふううっと息を吐くと、僕の搦めた指をほどき、早歩きで十数歩――僕より数メートル前に立つ。
彼女は、僕に背を向けたまま、
「進路は、どうする?」と、言った。
「僕は、進学だよ。地方の、一応国立大。スミレは?」
スミレは首だけ振り返り、
「就職、公務員。コネの力をなめんなよ」
「うらやましい」
「でしょ」
けれどもスミレは寂しそうに笑うと、再び空を見上げ、
「月は綺麗だね」と、まるで何でもないように言った。
月が綺麗と、月は綺麗。
僕はその微妙なニュアンスの違いに思考を巡らしながら、先ほどスミレの言った和歌を覚えず口に出していた。
秋の夜の月の光は清けれど人の心の隈は照らさず
花
僕は別れ花の中から菫を一輪選ぶと、棺を覗き込んだ。
彼女は、やはり眠っているようには見えなかった。
不自然なほど動かない。
肌も土気色だった。
ああ、本当に死んでるんだな、と僕は思った。
あるほどの花投げ入れよすみれ草
けれど僕は彼女の首の辺りに、それをそっと添えた。
棺の中の彼女は、まるでミレイのオフィーリアのようだった。
菫――
純潔
誠実
夭逝
――の象徴。
ハムレットに振られたオフィーリア。
僕は、自分の妄想を一笑に付した。
僕とスミレとはあの時以来――何より、僕はハムレットみたく『fat』じゃない。
告別式が済んで、タクシーの中。
ネクタイを弛めながらスマホを見ると、メールが一件。
メールにはメールでとも思ったけれど、今の僕は、誰かと話したい気分だった。
――うん、そう。今終わったとこ。
――今? タクシーの中。これから、空港。
――いや、行かないよ。あれは、親族だけだろ? 飛行機の時間もあるし。
――違うって。だから、幼馴染み。
――そう――単なる、ね。
――だから、何度も言ってるけど――
僕は、自分に言い聞かせるように言った。
「彼女とは、何でもない」
けれど僕は、漱石の次の俳句を思い浮かべていた。
君逝きて浮き世に花のなかりけり
何でもない
何でもない話でした。