血の糸 一
一
「わ、すごい」
女刑事の茜は眼前に鎮座する死体を見上げ、思わずこう口ずさむ。
ここは繁華街に埋もれたビル。
もう何年も使われていないであろう、このほころびた空間で事件は起こった。
目の前には、まるで異世界のようにしか思われない不気味な光景が広がっている。
四方八方を埋め尽くしている赤の色彩は紛れもなく被害者の肉体から飛び出た血。
すると背後から男性刑事と思わしき男がここを訪れる。
「遅いですよ。隼人さん」
ボサボサに生え散らかった髪の毛は規律を重んじる刑事には似つかわしくない。
首元にかけただらしないネクタイもそうだし、ズボンに収まりきらない白シャツもそうだ。
一見大学生風の男は、先日茜と同期でここに配属になった新人。
眼前に広がる光景を息を切らしながら目にし、茜と同じく口を開いたまま、呆然と空を見上げている。
そして静かにこう嘆く。
「…すごいねえ」
その言葉も先に茜の発した言葉とあまり変わらない。
トボトボと彼女の傍らへ近寄ろうとしたその時、奥にいる老齢の刑事の男が汚らしいだみ声を発する。
「あぶねえぞ」
その声と共に隼人の両脚はそこでピタリと停止した。
薄暗い室内は、数メートル先の状況さえはっきりと視認できない。
ただ赤く輝いている壁のみ、窓のカーテンの隙間から差す、太陽の光を反射しその場にいる人間の視界の手助けをしている。
光源がないことに気づいた隼人がその声の主に向かってこう問いをかける。
「電気ないんですね?」
「…ねえよ」
すると窓に近づいた茜が閉められたカーテンを勢いよく開く。
外から入ってくる西日が部屋の中の情景をここにいる捜査員たちにハッキリと認識させていく。
…そこは薄暗い中で見た先の光景よりも、さらに凄惨でかつ陰湿である。
糸。
周囲に並ぶ柱や箪笥、それに壁に刺した釘などから、中央にいる被害者に向かってそれが無数に伸びている。
被害者である彼女の体は、まるで蜘蛛の巣に絡まった虫のようにぐるぐるとそれに取り巻かれている。
彼女の真っ青になった顔は、舌を突き出した苦悶の表情を天へと向けている。
隼人が彼女から目をそらし、苦しそうに吐き気をもよおすと茜が心配そうに声をかける。
「大丈夫ですか?」
その彼女の心配を他所に、現れた先の老齢刑事がふてぶてしい口調でこう言い放つ。
「放っとけ、俺たち刑事だ。こんなことでヘコタレてたら犯人なんて捕まらん」
茜は苦しんでいる隼人の様子を横目でただ心配そうに見つめている。
老齢刑事…白髪混じる無精ひげ、同じく頭にも白く短い毛、肌は黒く、年期の入った皺がよく目立つ。
まるで居酒屋に入店してきた客のように、その赤の糸をくぐり抜け茜の側にちかよる。
彼も今始めて被害者の様子を見たからか、口を開け、あっけらかんとした表情を二人に晒す。
それに対し隣から小さい声を醸し出す茜。
「…どういうことなんでしょうね、これ?」
すると老人がこう返す。
「俺に聞かれても困る。直接犯人に聞いてくれ」
と浮かない返事。
そしてこう続ける。
「…しかしケッタイな趣味だな」
「趣味ってもんじゃありませんよ。これはもう立派な芸術と言ってもいいと思います」
思わず、芸術、という言葉を口にしてしまった茜だったが、彼女の言うように、この死体は一種犯人の作った、作品、のようにしか見えない。
丁寧に何百本も巻きつられた糸もそうだし、被害者から飛び出した血を部屋中に塗りたくるのもそう、溜まったストレスを芸術として発散させたとしか思えない。
老人、勝紀が、むき出しになった両目を茜の方に向け、低い声でこう言い放つ。
「これをやった犯人…どんなヤツだと思う?」
彼の歯は、その浅黒く光る肌とは対照的。
口元がニヤリと不適な放物線を描く。
その態度に不機嫌な様子をあらわにした茜は、顔をそらし奥の部屋へと引き下がってしまう。
するとようやく気分を取り戻した隼人が、四つんばいになって何とか勝紀の元にたどりつく。
「よくなったか?」
「…まだです」
額にあふれている隼人の汗がボタボタと地面にこぼれ落ちる。
「何か心当たりないんですか?」
「…心当たり?」
「同様の事件とか、小説とかをマネしたとか」
「知るか、俺もはじめて見たって言っただろ、この、芸術、をね」
隼人は目の前の死体から放たれている血の臭いに再度吐き気をもよおし、そして呻いてしまう。
血の糸 一