山の犬

山の犬

 
 面接からの帰り道、駅前でみどり色の犬を見た。

 犬は駅の出口から少し離れた生け垣の前に行儀よく足を揃えてお尻をつけている。首を傾げるようにして自分の前を通っていく人間を見上げていた。都内でも主要駅のひとつに数えられるここは平日の昼間でも人の出入りが激しい。
 風薫る五月、という言葉があるが、流れてくるのは人の間で蒸された濃厚な空気だけだった。野川達彦は買ったばかりのスーツをパリパリ言わせながら肩を回して、あくびをひとつした。少しだけ慎重に目を擦った達彦は再びツツジの生け垣に視線を送った。若葉色の犬は赤いツツジを背景にして、やはり同じ姿勢で座っていた。

 手首を持ち上げると就職活動用に購入した腕時計が袖口から覗いた。どんなに厳しい面接官でも文句のつけようがないシンプルでスタンダードな時計だ。空高く昇った太陽がぴかりとガラス盤を光らせて、達彦は目を眇めた。次の面接まであと一時間ある。
 犬はハチ公のように微動だにしないわけでもなかったし、何かを待っているわけでもなさそうだった。後ろ足で気持ちよさそうに耳を掻いた犬は、大あくびと伸びをした。
 生け垣の犬とロータリーのバス停前に立つ達彦の間には、教室の端から端くらいの距離があった。犬という動物は遠くが見えない。だが不思議なことに犬は達彦の視線に気づいてみどり色の尻尾をわさわさと振った。達彦にも犬が小さく「くうん」と鳴いたのが分かってしまった。
 駅舎からざわめきが聞こえてきた。出口から溢れ出した降車客の一団は、足を踏み出しかけた達彦の行く手をたっぷり三十秒は阻んだ。

 すだれのように隙間ができて向こうが見通せるようになった時、もう犬はどこにもいなかった。達彦はそれ以上探すことなく、もう一度時計を確認した。次の面接まであと三十分しかない。少し慌てて改札を通った達彦は電車が来るまでのわずかな時間、書き上げたエントリーシートとにらめっこをした。


 「野川」と声を出さずに話しかけてきたのは同じ専攻の坂倉だった。達彦は広げていたエントリーシートとルーズリーフのうち、前者だけをファイルに片付けて声の主のために場所をつくった。丸めて机の上に置いていたスーツのジャケットも椅子の背にかけ直す。身を屈めてすぐ隣に腰を下ろした坂倉は、達彦と同じようにどこぞの企業のエントリーシートと授業用のルーズリーフを並べて机に出した。坂倉が座ったことで中教室の最後列はスーツ姿の学生で満席となった。教授はこちらを一瞥した後、特に興味もなさそうに講義に戻り、一、二年生と思われる私服の学生に質問を投げかけた。彼にとっての語るべき相手とは単位欲しさに授業後半に闖入してくる就活生ではないのだ。
 真っ白なルーズリーフに日付を書き、黒板のあちこちに飛び地したチョークの筆跡を端から順に書き写していると、坂倉が小声で話しかけてきた。

「なあ先週の授業出てた? 俺、地銀の面接でさ」
「悪い。俺も出てないな。先週はほとんど何も」
「だよなあ」

  板倉は書きかけのエントリーシートを指先でとんとんと叩いた。達彦や坂倉だけではない。スーツを来て大学の授業に出てくる奴なんて皆そうだった。その証拠に彼らが熱心に見つめているのは教授や黒板ではなく、エントリーシートと会社概要の冊子、それからスマートフォンの画面である。

「野川、何社出してる」
「今のところ二十ぐらい。坂倉は」
「俺もそれぐらい。本命はどこよ」
「上商」

 これ以上はないというぐらい典型的で模範的な就活生の会話だった。話しながらも、坂倉は慎重に書類の空欄を埋めていった。大学名の欄には東京ではそれなりに知れた私立の名が記されている。
 達彦の第一志望は誰もが知っている大手の商社だった。採用倍率の高さを知る坂倉は「目標は高ければ高いほどいい」と慰めるような応援するような調子で言った。この大学から上商に通る者はほとんどいない。坂倉はペン先から目を離さずに尋ねてきた。

「ちなみに今何次選考?」
「次が最終」

 ささやくように答えると、坂倉はガタンと音を立てて身体ごと達彦の方を向いた。目を剥いている。周りの視線が集まって、おまけに教授もこちらを見たので坂倉は慌てて元の姿勢に戻った。俯いてルーズリーフに板書を書き取る真似をしながら、坂倉は興奮を抑えこむように、注意深く確認した。

「あの上商だよな? あそこの三次選考に通った奴、はじめて見た。お前やっぱり優秀だな。三次通ったらほぼ内定なんだろ。おめでとう、これで人生の勝ち組決定だよ」

 人生の勝ち組。坂倉の言う通り、達彦の内定はおそらく揺るがない。大手企業に就職して、地位と名誉と生きるのに十分すぎる収入を得る。未来は保証されていた。三年前、入学とともに上京してきた田舎者にとっては諸手を挙げる大出世のはずだった。
 しかし達彦は返事をするために、喉の奥にひっかかった唾を二回も飲みこまなければならなかった。

「まだ最終が残ってるから何とも言えないよ」

 前の席から出席簿が回ってきたので、自分の名前の横に丸印を付けて坂倉に回す。彼が書き終わったのと前後して講義が終わった。坂倉は真新しいビジネスバッグを机の上に上げて書類一式、ルーズリーフではない方を特に丁重にファイルにしまった。立ち上がって出ていこうとする彼に、達彦はふと言ってみた。

「そういえば、昨日みどり色の犬を見たんだ」

 坂倉は怪訝そうな顔をしながらも、とりあえず聞いてやろうという風に頷いた。しかしいつまで経ってもオチを言わない達彦に坂倉は痺れを切らして「みどり色の犬?」と聞き返した。

「そう。頭から足の先まで葉っぱみたいなみどり色の犬。駅前で見た」

 達彦が真面目に告げていることを知った坂倉は「誰かが面白がってイタズラしたんだろ。ペンキか何かで」と言いながら時計をちらりと見た。達彦が諦めて片手を振ると、坂倉も「じゃあ」とだけ言って教室を出て行った。



 滑り止めの企業の二次面接を終えて、コーヒーが飲みたくなった達彦は向かいのコンビニに入った。まだ五月だというのに店内にはもうクーラーがついていて、達彦はアイスかホットかで少し迷うことになった。結局アイスのブラックに決めた彼は、遅い昼食のためにサンドイッチもひとつ買った。
 袋をぶら下げて外にでると、みどり色の犬がいた。駐車場の端、隣の民家からはみ出した赤いツツジの下で前と同じようにお座りをしている。達彦は時計を見た。しかしよく考えれば今日はもう何も予定がない。
 近寄って行くと犬は太いみどりの尻尾を千切れんばかりに振った。
 胸元の毛と尻尾がふさふさの大型犬で、形だけで言えばゴールデン・レトリバーのようだったが、片耳は立ち耳で足は少しばかり短い。色を別としても達彦の知る犬のどれにも当てはまらなかった。

 見れば見るほど、見事な色だった。鼻先と舌だけは薄いピンクだったが、その他は耳も腹も尻尾も余すところなくみどり色をしていた。達彦は息を吐いた。チューブの絵の具のような単色ではない。腹の方は池の淵のように深く、大きな足の先はうっすらと黄色の混じった未熟な新緑の色をしていた。達彦はこの彩りを知っていた。
 そっと手を伸ばすと、犬は鮮やかな若竹色の頭をこすりつけてきた。人懐っこい犬だ。しゃがんで視線を合わせると、愛嬌のある黒い瞳がこちらを見つめてくる。目は普通なんだな、と思ったが、すぐに光の加減によって金色にも見えることが分かった。
 じっと目を合わせていると、犬は喜びに耐えきれないような様子で飛びついてきた。首輪こそしていないものの、一目でとても大切にされている存在だと分かった。黄緑の足の先まで泥はねのひとつもない。獣の臭いを嗅ぎながら大きな背中を撫でていると、遠ざかっていた記憶が蘇ってきた。

 達彦は持っていたサンドイッチをみどりの犬と一切れずつ分けた。駐車場の車止めに腰掛けて片方の手でサンドイッチを掴み、もう片方の手で犬の頭を撫でる。誰もいないのを良いことに、達彦は犬に語りかけた。
「俺の実家は田舎でさあ。山と池と田んぼしかない生活が嫌になって、わざわざ東京の大学を受けたんだ。もうすぐ上商に内定もらって東京の人間になる。大出世だろ?」

 犬は黄緑色の前足でサンドイッチを押さえて夢中でスライストマトを引っ張りだしていた。達彦は吐いた言葉の空虚さに愕然とした。思い描いていた未来の自分がどんどん色を失って、最後には灰色になってしまう。自分の後ろ姿が同じ灰色の街に溶け込む想像をして、達彦はぞっとした。助けを求めるように横を見ると、サンドイッチを食べ終わった犬は金の瞳でじっと達彦の顔を見つめていた。包み込むような眼差しだった。色の奔流が灰色の想像を押し流していく。
「近所の犬は鎖で繋がれてなくて、皆そこら中を自由に走り回ってた。あいつら俺の姿を見た途端、一斉に飛びついてくるんだ。ドロドロで臭いのなんのって。身体中ひっつき虫だらけでさ。そういうのも嫌だった」
 達彦はみどり色のたくましい首に顔を埋めた。

「そうやったんやけどなあ」
 獣の臭いに混じって、土臭く青臭いふるさとの香りが達彦の胸を満たした。犬は腕の中でいつまでもじっとしていた。



 その夜、達彦は夢を見た。
 野原に立っている。下を見れば田植えの済んだ水田がどこまでも広がっていた。達彦のいる場所は山の中腹で、これから伸びるぞ、と言わんばかりの草たちがさやさやと脛に触れた。
 眼前に広がるのは鮮やかなみどりの山々だった。昔と全く同じ姿で悠々と大地に腰を下ろしている。池の淵のような濃い色も若葉の新緑色も、すべてのみどり色が揃っていた。そんな山肌の至るところに赤い絨毯が敷かれている。ヤマツツジが咲いているのだ。

 わん、と元気な鳴き声がした。鳴いたところを聞いたことはないのに、達彦にはそれがあの犬の声だと分かった。ものすごい勢いでこちらに走ってくる音がする。みどりの身体は若草に紛れてしまって見えない。
 達彦は野原に寝そべった。見えない身体を撫でるように、萌えたばかりの草に触れる。優しい金の瞳も、ピンク色の鼻先も何もかも見えないけれど、犬は確かにそこにいて、達彦の帰りを喜んでいた。
 達彦は決めた。
 みどりの耳元に小さな声で囁くと、わん、と嬉しそうな返事が返ってきた。


 男が五人、横並びに座っている。スーツを纏った重役の身体は巨人のように重く大きく見えた。一番下座の係長だけが肩身も狭そうにチェアに浅掛けしている。ここの最終面接は重役への顔合わせみたいなものだから普通にしていれば内定は間違いない、と教えてくれたのは彼だった。
 達彦の領地は与えられた貧弱なパイプ椅子だけだった。鋭い視線にさらされながらも、背筋を伸ばして胸を張る。

「野川くん、就職活動はどうだった。やっぱり大変だったかな」
 立派な体格の重役が最終テストを兼ねた世間話を投げてきた。まともな受け答えをするだけで晴れてエリートサラリーマンの仲間入りだ。達彦はあらかじめ考えてあった言葉を淀みなく返した。
「少し前、みどり色の犬を見ました」
 ぎょっとした係長を尻目に達彦は言葉を続けた。
「俺、本当は山が好きだったんです。田んぼもツツジも泥だらけの犬も。何にもないところだと思っていたけど、本当はあそこに全部あったんです」
「つまり?」
 人事部長がイライラしたように言った。
「つまり、みどり色の犬を見たということです」


 大学を卒業した達彦は新幹線に乗った。それから電車を四、五本とバスとタクシーを乗り継いで四年ぶりにふるさとの土を踏んだ。鞄をぶらぶらさせながら土道を歩いていると、小型のリアカーにキャベツを積んでいたおばさんが「たっちゃん!」と言って駆け寄ってきた。
「戻ってくるのほんまやったんや!おかえり」
「道子おばちゃん。ただいま」
 達彦には道子の泥だらけの顔がとても美しく見えた。

「なんかエラい会社、通ってたのに断ったんやてね」
「内定はまだ出てへんかったんや。最終で落とされただけやで」
「それでもこんな田舎の役場に勤めることないんとちゃう? アンタ昔からよう出来たやん」

 わんわん、と犬の鳴き声がしたかと思うと、あぜ道を茶色の大きな犬が走ってきた。
「道子おばちゃん。俺、みどり色の犬見てん」
「へえ。不思議なこともあるもんやねえ」
 関心したような顔をする道子に達彦は嬉しくなって「やろ?」と笑った。

 達彦の元に辿り着いた犬がどろどろの身体でスーツに飛びついてくる。
「こら、やめなさい。汚れるやろ」
 犬を引き剥がそうとする道子を留めて、達彦は犬の頭を撫でた。
「ええねん。これで」
 帰ったで、と言って達彦はがっしりとした犬の首に顔を埋めた。山とツツジの匂いがした。

山の犬

山の犬

はてなブログの企画、短編小説「のべらっくす」の第八回に提出したものです。 お題は「緑」、5000字以下という制限で書きました。 みどりの犬と就活生の話。 よろしくお願いいたします。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-05-27

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