タキオンビーム

 そこはわりと評判のいいメンタルクリニックだった。
「野口さん、診療室にお入りください」
 妻らしき女性に付き添われて入って来た男を見て、医師はすぐに異常に気付いた。目の焦点が合っていないし、何かブツブツ言っている。できるだけ優しい声で「どうぞお掛けください」と言ったが、全く反応がなかった。
 妻に手足を誘導されてようやく椅子に座ったが、依然として視線が定まっていない。
 だが、医師が話しかける前に、男はいきなりしゃべり出した。
「うーん、花びらかな。ここのところはカエルみたいに見えるね」A
「えっ、何ですか?」
 男が医師の質問に答えないため、妻が代わりに話し始めた。
「最近、ずっとこうなんです。話がかみ合わないし、わけのわからないことばかり言うし」
「最近というのはいつ頃でしょう?」
 妻が答える前に男が割り込んできた。
「そうだなあ。夏休みの最後の日に、まだ宿題が終わっていないとかだろう」B
 妻がすまなそうに頭を下げ、医師の質問に答えた。
「さあ、超光速エンジン製作のメドがついたと喜んでいた頃ですから、一ヶ月くらい前からだと思います」
「ほう、ご主人はエンジニアなんですね」
「はい。仕事熱心で責任感の強い人です。そのストレスのせいでしょうか?」
「そうかもしれません。ちょっと検査してみましょう」
 医師は、インクのシミのようなものがついた紙を男に示した。
「さあ、野口さん。この模様が何に見えますか?」①
 だが、またしても男の返事はかみ合わないものだった。
「そういうことも、理論的にはあり得るだろうな」C
 医師はちょっと困った顔になり、紙をしまった。
 次に紙芝居の絵のようなものを男に見せた。机に座っている小学生ぐらいの女の子が泣いている絵だった。
「野口さん、想像してみてください。この女の子は何故泣いているのでしょう?」②
「事故と言うほどではないが、一度、うっかりしてタキオンビームに当たってしまったことはあったがね」D
 やれやれという表情を浮かべた医師は、次の瞬間、ハッとした。
「もしかして、野口さんと我々の時間がズレているんじゃありませんか?」③
「タキオンビームだよ。確かに研究所のデータを調べてみる必要があるな」E
 医師は男が少し前に言ったことを思い出しながら、それが答えになる質問をしてみた。
「野口さん、超光速エンジンの実験の際に、何か事故はありませんでしたか?」④
「ありがとう。そうなるといいね。まさに災い転じて何とやら、だな」F
「ええと、次は何だっけ。ああ、そうか。野口さん、そのタキオン何とかが原因じゃありませんか?」⑤
「いや、基本的に企業からの援助は断っているんだ。国立の研究所だからね」G
「うーん、次は褒め言葉だな。野口さん、もしかすると、これは世紀の大発見につながるかもしれませんね。ノーベル賞ものですよ」⑥
「すまんが、もう帰る。急いで研究所に行かなくては」
 男は立ち上がり、診察室を出てしまった。
 医師は仕方なく、次に男に言うべき質問を妻に言った。
「今後、この研究には、多くの企業から援助の申し出があるんじゃないですか?」⑦
(作者註:アルファベットと番号を合わせてみてください)
(おわり)

タキオンビーム

タキオンビーム

そこはわりと評判のいいメンタルクリニックだった。「野口さん、診療室にお入りください」妻らしき女性に付き添われて入って来た男を見て、医師はすぐに異常に気付いた。目の焦点が合っていないし、何かブツブツ言っている…

  • 小説
  • 掌編
  • サスペンス
  • ミステリー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-05-27

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