Ray 02

Ray 02

「おまえさあ、死ぬつもり?」

 暗い地下道で、声がした。誰もいないと思っていたからびっくりした。たまに車が走りすぎるだけで、足元をきちんと照らしてくれる明るい街灯もないようなこの地下道を独り歩いていた。たしかに、次に車が走ってきたら、飛び込んでもいいかとも思ったりしていた。どうせ生きていたって何もいいことないんだし。
 ただ、細く湿ったその薄汚れた歩道の、前を見ても後ろを見ても人なんていなくて、ぼくは何かの音を聞き違えたんだと思った。ため息をついて、けど、次には心は決まっていた。汗ばむ掌、車道と歩道とを仕切る、途切れることのない腰の高さほどの柵に手をかけて、ぼくは跨ごうとした。
「だからさ、死ぬのかって聞いてんだよ」
 やっぱり声だ。
「誰?」
 小さな声でそう返すと、声のしたほうに目をやる。一方通行のこの道路の、車が入ってくる左側だ。だけど誰もいないんだ、そこには。確かに声はしたのに。そしたら一台、車が走ってきた。ライトが二つ、近づいてくる。そのライトが近づいてきて、ふっと一瞬見えたんだ。ぼくのすぐ横に立っているこの男が。
「なんだ、死なないのかよ」
 通り過ぎた車を見送ると、男はそう言った。あの車のライトに照らされたあとからずっと、傍に男がいる。ただ、いるとはわかっているけれど、あまりよく見えない。この薄暗い灯りのせいなのか。だけど、声はしっかりと聞こえる。
「どうせ死のうと思ってんだったら、俺に命を預けてみない?」
「え?」
「二十九日だけでいいからさ。なんだか、初めての仕事はあんたがいいと、思ったんだ」


 かつて、[レイ]は消滅した。志垣という男がこの世界を自分のものにしようとした。志垣の影は本体と入れ替わり、その野望から、影と人間、[レイ]の生存数を操った。その結果、人間が消えていった。そんな野望を止めようと立ち上がった[レイ]が、志垣と共にこの世界から消えた。
 [レイ]というのはある使命のもと存在する。生きる気力を失った人間の代わりに、その足元、足元だよ、そこにある影が、生きないんだったら本体の代わりに影が生きると言った。そんな影と人間本体とを入れ替わらせることを始めた。その入れ替わる全ての行程を補うのが[レイ]の仕事だ。[レイ]は、影が表の世界で生きたいと初めて思った時、この世界に突如存在として生まれた。
 ちなみに[レイ]は人間ではない。影でもない。かといって光でもない。見えるのは、影からのみ。人間からは見えない。微かな存在ぐらいなら、感じる人間もいるかもしれないけれど。見た目は人間と変わらない。
 そんな、一度過去にこの世界から消滅した[レイ]の中で、どうして俺だけ[レイ]として存在するのか。それはあの、志垣の野望にある。頭のいい男だったらしい。人間の時も、影の時も。そして、この男は影を人間に完全転換に成功し、存在のわからないこの[レイ]さえも作り出すことに成功した。それらの薬や機械は全て排除された。この世界から。たぶん、全部のはずだった。だけど何処かに何らかの状態で残っていたんだ。だから今、新しい[レイ]の俺がここにいる。


「二十九日だけ命を預けるってどういう意味だよ?犯罪とかそういうのに巻き込まれるのはごめんだ」
「詳細を聞きたければ自宅に戻れ。そこで待ってる」
 まただ、声だけ聞こえる。
「ぼ、ぼくは死ぬんだ」
「いいさ、死ぬなら死ねば。けど、死ぬ前にちょっと、この世界を楽しまないか?」
「楽しむ?」
「とにかく待ってるよ」


 ここからは、完全に俺が話を進めよう。さっき俺が声をかけたのは、この世に生きる価値を見いだせなくなって死のうとしていた一人の男だ。たぶんあいつは、あのまま自宅に戻るだろう。半信半疑で、何が起こるのかわからないこれからを想像もできずに。唯一気になっていることと言えば、俺が何ものなのかっていうのと、世界をどうやって楽しむっていうんだ?ってことだ。
 二十分ぐらいしてからだろうか、マンションのエレベーターが動いた。一階から一気に八階まで動いた。ヤツだな。気配でわかる。エレベーターからまっすぐに伸びた廊下には、何軒ものドアが並んでいる。ファミリー層向けの大型マンションだ。他にも同じような棟が並んでいる。この棟はその一番端にある。ヤツの住む部屋のドアはエレベーターを降りてからから三つ目だ。俺はその前で待っていた。エレベーターのドアが開いて、案の定ヤツが出てきた。けど俺のことが見えるはずはない、こいつはまだ人間だからだ。だけど答えは決まってる。自宅に戻ったってことは、死ぬよりも、俺の誘いにノったってことだ。
 ゆっくりと自宅のドアに向かって歩く男はとてつもなく暗い。人生終わった顔してる。だけど待てよ、俺が変えてやる。俺は何気に空を見上げた。いい天気だ。雲一つない夜の真っ黒な空に大きく浮かび上がる満月。きれいだよ、今日のあんたは。月に向かって微笑むと俺は大きく手を伸ばした。月の光が俺の身体を通り抜けるような感覚を覚える。俺自身、初めてなんだ。[レイ]として存在することの意味を、今から実証してやる。大きな光が、歩いて来たさっきの男を大きく包んだ。一瞬何が起こったのか分からず身体を丸めるようにして蹲った男は、そのまま光が消えるのを待つと、そっと顔を上げた。
「やっと逢えましたな」
「誰?」
「二十九日、俺に命を預けてくれんでしょう?」
 ニヤリと笑うと、男は気付いたようだった。
「さっきの声の人?」
「そうですよ」
「ど、どういう意味だよ、あれ」
「まあまあまあ、話は家の中でしませんか?ここでは近所迷惑になる」
 そう言うと、なんとなく頷き、ヤツはデニムパンツのポケットから部屋の鍵を取り出すとドアの鍵穴に差した。ゆっくりとドアを開けて振り向く。
「え?あれ?」
 そこに俺はもういない。ヤツはきょろきょろと辺りを見回した。
「こっちだよ」
 声のする、玄関の中に顔を向けたヤツはまた驚いた顔をした。
「いつの間に入ったんだ」
「悪いね、どんなものも通り抜けることができる」
「そういう冗談に付き合うつもりで戻ったんじゃないんだけど」
 そう言うから、俺は一気にヤツに向かって歩きだした。避ける間のないヤツの、体を一気に通り抜けて見せた。
「ひゃああ!」
 声を上げてまたヤツは座りこむ。
「言ったでしょうよ、通り抜けることができるって。ほら、早く中に入ってよ。話が進められない」
 邪魔な、その男の体をまた通り抜ける様にして歩いて、俺はそのまま玄関の中に入った。なんとか立ち上がったヤツも俺について家の中に入るとドアを閉めた。その後、ガチャリと鍵を閉める音がした。
「用心深いんだな」
「だ、誰も、信じてないから」
「へえ。じゃあなんで俺の話にはノッた?」
「あなたはちょっと違う気がしたから」
「まあーーーーー、当たってるわな」
「何なんですか?あなたは」
「[レイ]だ」
「[レイ]?」
「ちなみにだけど、あんたとっくにもう本体と変わってるよ、影さん」
「・・・え?」
 男は、ゆっくりと自分の体に触れると、玄関脇に設置されている鏡をそっと覗いた。そして笑ってみたりしかめっ面をしてみたり、表情を変えると、今度は髪をひっぱたり、自分で自分をつねってみたりした。
「あんた面白いな、やっぱ珍しいんだ?」
「当たり前だ、いつもは本体の足元で引っ付いてるだけで、とにかく日常を見ているしかできない」
「その、影と人間を入れ替えるのが俺の仕事だ」
「ほんとに、[レイ]なのか?噂では聞いたことがある。かつてそうやって、影が人間として生きることができたって。でも俺たちは信じたことはない。知らないから。何人か、本体として生きたことがあるって言ってる影もいるけど、誰も信じないよ。ホラふいてばっかの影も多くいるからさ」
「だけど、今日自分自身で実証された。どう?居心地は」
「最高だよ、そりゃ。いつもはもっと、足元から見上げてるだけで。こうすればいいのにって思っても、この人間の本体ってのはすぐ失敗するんだ。見てられなかったんだよ」
「だろ?期限は二十九日だ。次の満月まで。それまでにおまえが人生を変えるんだよ」
「どうやって?」
「それをこれから相談しようってんだろ?本来の[レイ]の存在理由はそれだから。」
「そ・・・れ?」
「影と人間を入れ替えて、その間にその人間自体の人生を変えるんだ。そして三十日後、おまえが影に戻った時には違う人生が始まってる。そうやって命を自ら落とすやつを減らすのが[レイ]の、最初に生まれた頃本来の役割なんだ。もう何百年も前のさ。」


 そうだ。俺はかつて滅びた間抜けな[レイ]とは違う。大事な根本をしっかりと見進めていくために神が最後の[レイ]である俺に委ねたんだ。この世界の悲しい現実を。ただ、皮肉にも、この姿形で生また。世界を手にしようとした志垣の残した何かから俺は生産され、そして志垣を殺したあの[レイ]に、俺は瓜二つなんだ。



 そして話はこの悲しい男に戻そう。名前は阿津恵司。34歳。元商社マン。そこそこ腕のいい営業担当だったらしい。婚約もしていた。同じ商社に勤める女性。だけど彼はその全てを失った。仕事のミスを全て背負わされたのだ。会社は責任を取って自主退社させられた。当たり前のように婚約者からは婚約解消を申しだされた。信じていた彼女にさえも裏切られた。長野で暮らす両親には伝えてないらしい。そんな、人生の終わりの一部始終を、親にとって恥になるような子の失態を、伝えるわけにはいかない。そして彼が選んだのは、事故で死ぬという結末だった。
「つまんねえな、自分のミスじゃないのに死ぬとかさ」
「ぼくもそう思ってた。何かできることあるんじゃないかって」
「さすが、世の中人間より影のほうが頭がいいって[レイ]になった時に瞬間感じたんだけど、当たってんだな、それ」
「目を付けてもらえたことには感謝するよ、[レイ]。だけど、たった一ヶ月で俺の何をどう変えるつもりなんだ?」
「復讐する」
「復讐?」
「ただ、悪い意味に取らないでくれるかな。真実を世に公表するっていうだけだ」
「どうやって?」
「[レイ]ってのはね、誰にも見えないんですよ」
「わかってるよ」
「どんな場所にも、どれだけ頑丈に鍵がかけられた場所でも入口のない空間でも、どこでも入れるんですよ」
「だから、なんなの?」
「とことん、調べましょう。調べてやりましょうよ、俺が」
「できるかな、そんなこと」
「あんたは情報をくれればいい。それと、これからどういう風に未来を作るか、それはやっぱり、あんた自体が決めるもんだ」
 影は、ただ影として存在するだけでない。自己の意思がある。それに加えて、人間本体の考え方や性質、生きてきた全てを把握している。だからこそ、人間自体の更生には影の存在が必要不可欠なんだ。

 そんな話を延々と、気付くと外が明るくなるまでしていた。俺は俺で、初めてのことで。影も影で、初めてのこと。何をどう進めるのか、細かく案を出し合った。だが、人間ってのは不便なもんだ。夜中中起きていると眠気というのに襲われるらしい。阿津は眠りについた。[レイ]は寝ることもなければ食べることもない。今この世界で俺の姿が見えているのは唯一、影と人間とを俺が入れ替えたこの男だけだ。

 すぅっと、マンションの壁を抜けて空へ上る。全てを見下ろせる高さを何気なく飛ぶ。空が薄らと色を付け始めていた。阿津のいる棟の横には小さな公園があり、そしてまた棟が現れる。整備された景観のいい街だけど、何処か人あたりが冷たい。まだ人通りの少ないこんな時間、その公園から伸びる道路を走る女性が目に入った。他に誰もいない。なのに、逃げるように走っていた。何から逃げているんだろう。気になって彼女の目線まで俺は下降した。俺の存在が見えない彼女は、ただひたすら走って、公園の中に入ると息を切らしながらゆっくりと歩き始めた。そして足が止まった瞬間、俺はその目の前に降り立った。

 涙って、これのことか。

 空をゆっくり見上げる彼女の目から、たくさんの流れるものがあって。触れてみたいと思った。俺は、流れるそれを左手の中指で掬うように指を頬に押し当てた。彼女は何も気づいていない。見えていないからだ。ただ、俺の指には、なんとも言えない感触が届く。なんだかわけのわからない重いものだ。
 そこからは、どうしてそんなことをしたのか。自分でもよくわからない。俺も空を見上げて、まだかすかに白く残る満月を見上げた。まだ、いける?間に合う?大きく手を伸ばして、消えそうな満月の小さな光を集めた。

 だって、こんなことする必要ないのに。どうしたんだろう、俺は。

 かすかな光を集めるだけ集め、彼女に浴びせた。それが何を意味するのか。そうだ。彼女の影と本体とを、入れ替えたのだ。

 突如目の前に現れた俺を見て、彼女は瞬時に驚いた。声も出ないほどだ。表情でわかる、動きも止まっていた。だけど、涙だけは止まらなくて、俺はまたその頬に指を押し当てた。
「涙・・・」
 そしたら彼女は怯えるように、二、三歩後ずさりした。今度は確実に触れた俺の指がじわっと濡れる。
「どうしましたか?」
 問いかけた俺に、答えるはずもなく。彼女は小さく頭を下げると、俺の横を通り抜けていった。あぁ、なんだかよくわからないけれど、今俺はもう一人、俺の存在を知る人を作った。振り返って走り去る彼女を目で追う。その後目を閉じた。感覚だけでわかる、彼女はそのまま、阿津とは別の棟の自宅に戻った。
「ここの、住人か」



 連絡には携帯電話を使う。便利だ、これ。どういう仕組みになってんだろう。電波ってのは、[レイ]の声を拾う。
「もしもし、[レイ]?昨夜はなんだか興奮して、眠った気がしなかったよ」
「そうか?俺がマンションから抜け出る頃はよく寝入ってたけどな」
「夢にまで出てきたよ、キミが。ぼくは、ぼく本来のこの人間はどう変われるんだろう。楽しみでしかたないんだ」
「それはよかった。楽しまないか?と誘った限りはそう感じてもらえなければ意味がない」
 そう話しながら、俺はもう瞬時に阿津のマンションに飛んでいた。すぅっと部屋の中に入ると、携帯を耳に当てながらパンをかじる阿津と目があった。
「今日はおまえのいた会社のビルに行ってくる」
「会社に?」
「おまえをハメたやつらの素性を暴いてくる。ここで携帯繋げたまま待機してろ」
「なんだか不思議なんだけど」
「なんだ?」
「[レイ]が普通の人間に見えないのはわかるよ。でも、携帯とか、例えばその着ている服とか、この世界の物だろ?なんでそれは見えないの?」
「俺が手にしてるからだ」
「それだけ?」
「そう、それだけ」
「やっぱり不思議だ、[レイ]って」
「じゃあ例えば冷蔵庫を開けて何か取り出したとしたら、触れた冷蔵庫も消えるの?」
「うるさいな、あんた」
「ちょっと、興味があって」
 やっぱりパンをかじりながら、阿津はいろいろ聞いてくる。
「冷蔵庫には触れない、すり抜ける」
 そうやって、実際に俺はドアが閉まったままの冷蔵庫から水の入ったペットボトルを取り出した。そして阿津の座るテーブルに置いた。
「おお」
「触れたものが消えるか見えるまま扱うか、なんてのは俺の手次第だ。それで答えになったか?」
「十分です」
「じゃあ、行くから、俺」
 呑気に阿津は、俺に手を振った。鼻で笑うようにそれを見ると、俺はすぅっと空へ向かって飛んだ。飛びながら、携帯をワイヤレスのモードにして、イヤモニを耳に設置した。その瞬間、キーンと嫌な音がした。
「は?」
 イヤモニのせいかと思って外してみたけれど、違う。再度キーンと音がした。下だ。地上で、だ。誰かが呼んでる。探すのは、音のする発信元。何処だ。ふわふわと体を移動させながら、目に入ったのは阿津の住む棟の隣の棟だ。

 俺は、ニヤリと笑った。彼女か。

 瞬時に移動した。阿津の隣の棟の、ここは六階だ。ある部屋の中に俺は居た。シンプルな、センスのいい落ち着いた部屋。そして俺の目の前に、昨日の彼女が居た。
「こんにちは」
 声をかけてきたのはあちらからだ。
「昨日は、どうも」
 涙を流していた彼女とは、少し表情が違う。落ち着いていて、和やか、というんだろうか。
「どうして本体と入れ替えたのか教えてもらえますか?」
「はあ、気付いた?」
「はい。あなた、[レイ]ですよね」
「ですよ」
「[レイ]は消滅したんじゃ?」
「残念ながら、ここに存在します」
「目的は?」
「目的?」
「わたしを入れ替えた目的」
「さあ」
「理由もなく、入れ替えるの?」
「自分でも、よくわからなくてね」
「なんなのそれ。それよりどうしてあなたは消滅しなかったの?」
「わかんないね、気付くと存在してた」
「前より優しい顔にはなってるけど」
「前より?って、どういう意味だよ」
「前に会った時はもっと、冷たい表情をしてた」
「は?俺はそんなの知らない。昨日生産されたばかりなんだ、俺は」
「生産?何言ってんの?14歳の時に一度あなたに会って、こうやって会話した。結局人間化されずに影に戻ったけど」
「ちょっと待て。それって、人間化って、例の志垣の居たころの」
「志垣?それが何かは知らないけど、もう十年以上前、あなたがわたしを入れ替えたんだから」
 そうか、こういう出逢いもあるのか。俺はまたニヤリと笑った。
「ほら、その笑い方、それは変わってない」
「あの[レイ]は消滅したよ」
「あの[レイ]?」
「すべての[レイ]は消滅した。もう十年以上前の話だ。だけど今、何故だか俺は新たに生存している。それも昨日できたばかりだ。ただ、俺も自分で驚いてる。過去に存在したある重要な[レイ]に姿形がそっくりなんだ」
「似てる、だけ?別人なの?」
「みたいだね、悪いけど俺はあんたのことは知らない」
「どうでもいいけどどうして、また影のわたしがこっちの世界に来なきゃいけなくなったの?もう、過去を生産してこの人間はきちんと生きてる」
「生きてる?昨日あんなに逃げるように泣いてたのに?」
「あれは・・・ちょっと、あって」
「ちょっと、とは?」
「何もない」
「今ちょっとあったって言ったのに、何もないって嘘は通用しないでしょう?」
「うるさいな、彼氏と別れただけ」
「はあ・・・失恋てやつ」
「それだけ。そんなことで一々入れ替えられてちゃ何も人生進めないんだけど?」
「それは悪かったね、ただ・・・」
「ただ、何よ」
「涙が、気になったんだ」



 14歳の頃に一度[レイ]の手でこの世界にやってきたことのある影だった。彼女の名前は伊吹悠美。彼女の言うことはわかる。どうして影と本体を入れ替えたのか。何度も言うが、自分でもさっぱりわからない。気になったのはとにかくあの涙で。触れたあの感触が、頭の中をざわつかせるくらいに気になったんだ。とっさに俺は空を仰いでた。まだ、間に合うのか?影と入れ替えるのに必要な光は集まんのか?満月はそこに居んのかってね。

 そんなことを考えながら阿津の居た会社に飛んだ。イヤモニを再装着しながら。

 その日は夜に、阿津の部屋でまた話をした。見た目には満月かと思う、満月が書けていく周期で言うと月の16日。まだ見るのが二回目だというのに、癖のように月を見上げる。それから阿津の部屋に入った。
「まず確認だ、阿津、おまえは元に戻った後、どういう生活をしたい?」
「どういう?・・・」
 ゆっくりと考える。その表情は真面目だ。俺は答えが口から出るのを待った。
「きちんと再就職して、できることなら村木さんと結婚したい」
「村木ってのは婚約してた人?」
「そう、村木佐世子」
「ああ、会ったな、今日」
「ほんとに?」
「ややこしい話なんだけど」
「うん、何?」
「おまえをハメた上司のやつと付き合ってる」
「ハメ・・・小國さん?」
「そう。簡単に結論を言うと、あの時の仕事をミスするように仕込んだのも、小國。そしておまえの婚約者の村木佐世子も狙っていた」
「村木さんまで?どうして」
「嫌いだったみたいだけどな、おまえのこと」
「そんな理由だけで?」
「けっこう仕事できたんだって?」
「それほどでも、ないけど」
「邪魔だったことは間違いない、自分でも気づいてんだろ?」
「まあ、その辺は」
「決定的なのは村木佐世子だ」
「どうして?」
「以前から目を付けてたみたいだ、だけどおまえら同期なんだって?付き合いだして、そのまま婚約をした。それが気に食わなかったみたいだ」
「でも、結婚式で祝辞を貰う予定で声をかけてたんだけど、とても喜んで引き受けてくれてて」
「表上はね」
「そんな・・・」
「おまえが問題を起こして会社を辞めて、その後村木佐世子は詫びを入れに行ってる、式も無しになったしな。迷惑をかけたと話をしに」
「村木さん・・・」
「その時に声をかけたようだ。慰めるフリで心に入り込むっていう、独特の手口でしょうが?人間の」
「それで村木さんと、付き合ってるなんて。俺をハメたやつと・・・」

 阿津は大きな取引を契約していた。会社にとって有利な取引だ。新しい取引先で、なかなかOKの出ないことで有名な海外の会社だ。日本で商品を扱うに伴っての仲介を阿津が任された。商品自体は人気の商品で、東京だけでも多くの店舗から依頼が来ていた。その、発注数を、小國が細工した。予定よりも何倍もの発注をかけたのだ。取引先はもちろん大喜びだ。もともと契約で出ていた以上の数の発注が届いたことになる。工場の人数を増やして大量に生産をしている。通常、大量生産された場合、単価が落ちることもあるが、この時小國はわざと単価値をそのままでいいと申し出て発注した。それによって生まれるのが、抱え過ぎる在庫と、弊社の予定外赤字。自身の勤める会社の、そんな危機を追ってまで村上佐代子が欲しかったのか、真意はわからないけれど。責任を取って阿津は会社を自主退社という形でクビになった。阿津が会社を辞めた後、危機は免れている。小國の手柄だ。国内でさばききれなかった商品を、他国に商談で持ちかけたのだ。もともと人気の商品であるそれは、早々に問題解決に至る。きっと最初からそのつもりだったんだろう。別に、阿津が辞めることもなかったかもしれない。売り上げは、逆に多く上がることになるのだから。

「そこまではどうやって調べたの?」
「過去のやりとりの経緯は全てシステムに残ってる」
「そんなはずは・・・だってシステムがすべての証拠となってぼくはクビになったんだ。発注ミスも何もかも、全てぼくのIDで登録されてるし。弁解の余地なんてなかったんだ」
「馬鹿か、おまえは。わざとそうやっておまえのIDで小國が打ちかえてるんだ」
「だってそんなの、システムを調べてもらったけど出てこなかった」
「それが甘いんだ」
「どういうこと?」
「suppress systemを知らないだろ?」
「suppress system?」
「やりとりの経緯の一部を切り取って別のサーバーに落としてある。それを知ってるやつはほぼゼロに近い。社長であれ知らないだろう」
「そんなことがある?」
「システム管理の林田努を知ってるか?」
「ぼくの、同期だ」
「彼が、作った」
「え?あいつ頭いいな」
「林田が何をしてるっていうんだよ?」
「林田努は、金になりそうな問題を作ってはその課の責任者に声をかけ、手を組んでる」
「まさか」
「問題はできるだけ起こしたくないからね、話しにノった責任者と手を組み、林田がシステムを操ってる。今回もそうだ。もともとおまえが発注したデータを全て隠しシステムに移して、間違ったデータを入れたものを正規として目の見えるところに入れた。だから、おまえがもともときちんとやりとりしていた証拠が全て抹消されたみたいになってんのさ」
「林田が、そんなことを・・・」
「そこからが林田のやり口なんだけど。手を組んだ責任者たちは上手くデータを入れ替えてくれてると思ってる。だけど実際には、消されたわけではなく、suppress systemに移動されただけだ。消されたと思っていた情報があるとなると、それを口外されたら責任者たちはどうなる?こぞってクビだ。そこを使って林田は上層部をゆすって金を取ってる。suppress systemを開くことができるのは実際問題林田だけ。だから誰もそれを暴けないんだ」

 リビングのソファで、灯りは付いているのに暗く感じる。事実を知った男の真意がそのまま表れてるような部屋の暗さだ。阿津は怒っているのか泣いているのか、わからない表情をした。
「それで、ぼくは、どうしたらいいんだろうか」
「suppress systemを公開する」
「どうやって?」
「おまえがだ」
「そんなのできないよ」
「しなきゃおまえは、ミスをして会社をクビになった男のまま一生終わるけど?」
「そんな・・・」
「これでもシステムの全てを今日見てきた。おまえには、会社に乗り込んで社長の前でシステムを公開してもらう」
「できるかな」
「どうせ死ぬつもりだったんだろ?だったら、楽しんでから死のうぜ。あわよくば、生きるっていう選択もあるけどな」
「ゆっくり、頭を整理してからでもいいかな」
「もちろん、あと二十七日ありますから。ただし俺は誰にも見えないから、常に林田努を監視してなので、動くのはおまえ一人でやってもらうことになるけどな」
「一人で・・・」
「今更お前が社長に掛け合ったところで話は聞いてもらえないだろう。システム課へのおびき寄せは、俺がマスコミでも装って電話で入れるよ。ラッキーなことに、俺は誰にも見えないけれど声だけは拾ってくれるからね、携帯電話が」

 かつて、何百年も前から存在していた[レイ]は、どうやって問題を解決してきたんだろう。人間、生きている年月や環境、性別や国籍、いろんな境遇によって抱える問題が違う。また生きたいと希望を持って本体が笑えるように、どれだけの影が入れ替わり、戦ってきたんだろう。

 そう言えば伊吹悠美は、過去に何があったんだろう。マンションの一室のドアが開いて、内側に付けられた電気のスイッチがONになる。
「え!?」
 声を上げたのは伊吹悠美だ。
「何・・・してんの?勝手に入らないでよ」
「悪い、お邪魔しております」
 悠美の部屋のベッドを背もたれにするようにして、俺は床に座っていた。足を投げ出して。ベッドに頭を乗せるようにして、のけ反っていた。人間にはここから天井しか見えないんだろうけど、目を瞑るとその先の夜空が見えるんだ、俺には。[レイ]ってのは、こんなに月を見ていると安心するもんなのかと感じさせられる。
「いつの間に入ったの?」
「あんたが風呂に入りに行った後、ぐらい?」
「覗いた?」
「なんで覗くんだよ」
「だって見えない先の場所まで見ることができるんでしょ?その目は」
 ドアを閉めると、立ったままで悠美は俺にそう聞いた。
「あんたさ、前の[レイ]とは随分仲が良かったみたい?いろいろ詳しいよね」
「ちょっと、興味があって聞いたりしてただけよ」
「ふーん」
 意味ありげにそう言った俺に警戒心を抱いたのか、持っていた衣類を俺に投げると言い放った。
「早く出てって」
「ひどいな、歓迎してくれないんだ?」
「勝手に表れて。勝手に本体と入れ替えられて。困るのよ」
「そう?それは悪かったね。次の満月まで我慢してよ、悪いけど。ただ・・・」
「何よ」
「呼ぶの、やめてくれる?」
「呼ぶ?呼んでない、わたしは一切」
「嘘。心ン中で呼んでるよ、俺のこと」
「呼んでないってば」
「そう、ならいいけど。呼ばれたらまた来るよ」
 そう言って俺は瞬時にそこから消えた。

 嘘ばっかり。逢いたいって呼んでるくせに。耳障りなくらい、音がするんだ。俺の耳の奥の方で、キーンって。金属音のような、でも泣いてるみたいな音。それの発信されてるところを探すとさ、どうしてもここなんだよ。伊吹悠美、あんた自身からなんだよ。



 その後も、阿津は悩んでいた。悩むというか、勇気がないと言っていた。
「死ぬほうがよっぽど勇気がいるんじゃないの?」
「案外、生きるほうが勇気がいるんだよ」
「難しいね、人間って」
「死んだら終わりでしょ?だけど、こんな、大きな役割を背負わされて、上手く行ったとしても失敗したとしても、きっと変に注目されてしまう」
「いいじゃん、ヒーローだよ?一気に」
「確かにある部分ではそうかもしれないけど、それによって今回ぼくが味わったみたいな世界に落ちる人物も出てくる」
「例えば?」
「小國さんもそうだし、林田はもちろん。他にも、関わってきた人たち・・・たぶんみんな」
「でもみんな悪いことやってんだろ?それで、おまえみたいに被害にあったやつもいんだろうよ?」
「そうだけど、いいのかなって。こんなことして」
「じゃあどうする?別に止めたっていい。ただ、お前の望む生活がそれで手に入るんなら」
「望む生活・・・」
「ただ、死ぬってのはやめてくんないかな」
「どうして?」
「次の満月が来たら、おまえからは俺が見えなくなる。本体が元の人間に戻って、状況に支障がない限りの全ての俺と影の記憶は削除される。だけど、俺からは一生見えてるんだよ。おまえの生きてる姿が。死ぬまで一生」
 阿津は真剣な目で俺を見た。
「そう、だよね。そっちからはずっと見えてるんだ」
「せっかくこうやって逢ったのに、死なれるのだけは辛いだろ?」

 街を歩いても。別に誰も俺を見ない。見えてない。交差点の信号を無視して歩いても、車は俺を通り過ぎていく。物だと判別していない。存在、しているだけなんだ、俺は。だけど、俺からはこの世界が見えていて。かつて[レイ]がたくさん存在していた頃なら、こんなに辛くはないのかもしれないけれど。一人ってのは、なんだか辛いな。
「おまえさ、一人で生きてんじゃないんだからさ」
 自分からそう阿津に声をかけたけれど。たぶんこれは、俺が欲しい言葉だ。



 その夜も、音がした。耳の奥で、キーンと。ゆっくりと浮かび上がるように姿を見せた、悠美の部屋に。今日は驚いてはなかった。昨日俺が座っていたベッド脇の床に座って、現れる俺をじっと見ていた。
「お呼び?」
「呼んでない」
 そう言われて思わず笑った。そして俺は、悠美の隣に腰かけた。
「聞きたいことあんだけど?」
「何?」
「前に[レイ]に何してもらった?14歳の時」
「何って?」
「何かあったから、影のあんたが本体を救ったんでしょ?」
「自殺を、した」
「自殺?」
「いじめにあってた、中学で」
「いじめか」
「遺書を書いて。いじめたやつの名前全部書いて」
「ほぉ、やるじゃん」
「死んでその人たちが苦しめばいいって思ってた」
「うん」
「そしたら[レイ]が、わたしと本体を入れ替えて。手首を切った後だったけど、これは遺書としてではなく、生きてる間に大人たちに見せるべきだって言った。満月の、夜」
 そう言うと、悠美は左手首の傷を俺に見せた。大きな傷だ。
「これ、この深さ、完全に死んでるだろ?」
「死ななかったの。自分の体を真っ赤にしながらわたしの手首を必死で押さえて。死のうとしたのが満月の日でラッキーだったよって言いながら救急車を呼んで、笑顔でわたしを助けてくれた」
「[レイ]が?」
「びっくりした、あの時。救急車が来て、たくさん人が入ってくるのに誰も[レイ]が見えてないの」
「そりゃそうだ」
「その時初めて気づいた。わたしも、影じゃなくなってるって。本体と入れ替わってるって」
「それで、いじめたやつらはどうなった?」
「いろいろ。学校辞めてったり。その後どうなったのかなんてわからない。両親もわたしにそんな話は一切しなかったし。きっと耳に入れたくなかったんだと思うから」
「でも今ここで生きてるってことは、それなりに良い方向に向かった、ってことか。失恋したことを覗いて」
「それは、ほっといてよ」
 俺はニヤリと笑った。そしたら、悠美がやけにじっと俺を見ていた。
「戻ってきたのは、わたしに逢いに来てくれたからではないの?」
「だから、間違わないで、俺はあの時の[レイ]とは違うから」
「わかってる、けど」
 俺は、ゆっくりと立ち上がろうとした。ここにいると不思議な感覚になる。
「あなたは、本当に[レイ]なの?」
「[レイ]だよ」
「唯一あの人と違うのは、そこなのよ。こんなに似てるのに」
「そこ?」
 そしたら悠美は、何かの呪文みたいに言葉を発した。
「影のために、そいつらに手を貸すためだけに、この世に姿を作った。必要とはされてる。だけど、こちらから何かを必要とすることはない。人間みたいに、誰かと心を通わせたり、愛情を持ったり、そんなことはない。そもそも感情がない。何も食べない。何も飲まない。寿命は基本、ない。必要あれば姿を作り、必要がなくなれば消えていく。泡のように出来上がって、空気のように、消える。それが[レイ]」
「何だよ、それ」
「あの人が言った。[レイ]が」
「前に居た、[レイ]?」
「そう。だけどあなたは違う」
「何が?」
「感情が、ある、よね」
「感情?」
「あなたに逢って、あの人にそっくりで。でも違うと思ったのは、冷たさがなかったこと。人間にとても近くて。人間なのかもと思ってしまう。でも実際、急に消えたり現れたり、やっぱり[レイ]なんだ、って思い知らされるんだけど」
「そんなに違うの?俺って」
「違う」
「自分ではぜんぜんわかんないんだけど?何かと比較するにも、今[レイ]ってのは俺しか存在しないから」
 悠美は、きちんと座り直すと、俺をじっと見た。
「話すけど」
「うん、何を?」
「14歳の時、わたし[レイ]のことが好きだった」
「はあ?」
「言ったけど伝わらなくて、あっちには感情がないから。なんだそれって笑われた。それで、キスしていい?って聞いたの」
「キス?」
「感情も何もないなら、せめてキスをしてもいいかなって。相手は人形みたいなもんだから。だけどわたしは好きだった。キスをしたいと思った」
「キスって・・・」
 たぶん、あれだ。俺は自分の指を唇に当てた。
「そう、それ。今あなたにもしていい?」
「なんで?」
 悠美から返事はなく、ゆっくりと俺に近づくと、悠美は俺の唇に自分の唇を押し当てた。少し当たったと思うと、一度離れて、今度は大きく触れた。俺が初めて涙に触れた時に似ている。唇が離れると、悠美は顔を上げなかった。そして床についた俺の手にあれが落ちた。
「涙・・・」
 悠美はふと顔を上げると、それを手で拭った。
「ちょっと待って」
 悠美の手を掴むと、悠美と目があった。瞳から流れる雫。涙だ。俺はそれをゆっくりと、あの時のように指で触れた。ほら、やっぱり。今唇が触れた時と同じだ。
「なんで泣くの?」
「わかんない」
「あのさ・・・」
 辛そうな表情の悠美をじっと見つめると、俺は顔を近づけた。そして今度は俺が、悠美の唇に唇で触れた。さっきよりもっと長く、もっと深く。
「なあ、これがキス?」
 悠美は、泣きながら小さく頷く。
「もう一度したいって思うのって、やっぱり俺って変なのかな?」
「どうして?」
「[レイ]として、変なのかな」
「それならきっと、変だよ」
「だけど、やっぱりしたいんだけど」
 そのまままた、俺は悠美の唇を唇でふさいだ。



 感情ってのは何なんだろう。悠美にしても、阿津にしても、まだ二日しか一緒に居ないのに、次の満月にはもう俺のことを知らなくなる二人なのかと思うと、変な感覚に襲われる。それがまたおかしいんだ。怖いというか。そういう風に思うのが変なんだ。俺は[レイ]なのに。唇に残った感触は、あの日の涙と同じ熱さで自分の体に残る。

 なあ、[レイ]って一体何なんだよ。



 その後阿津は、suppress systemを公開することを決めた。覚悟を決めてくれたからには、俺も動く。だけどなかなか話は進められなかった。何度となく社長にアポイントメントを取りつけようとするが断られる。当たり前だ、嘘か本当かわからない、どこのマスコミともわからない電話一本、信じるはずもない。
「何か社長を動かす決定的なものがほしい。何か思いつかないの?」
「そう、言われても・・・」
「あんた腕のいい営業マンだったんだろう?頭使えよ」

「あ・・・」
「なんだよ」
「いっそのこと、林田の名前を使って社長を呼び出してみたらどうかな」
「まあ、言ってみ?どういうことだよ」
「システムの管理のことで大事な話があります、実際に目で見て欲しいのでシステム課に来てください、みたいな連絡を入れるんだ、社長に」
「ふーん、そこにおまえも居合わせてて暴露するってことか」
「無理かな」
「いや、社長があの場所に行かなければ何もはじまらない。それで言うと、ちょっと無理はあるけれどやってみる価値はあるかもしれない。電話なら任せとけよ、少しくらいなら声を変えられる」
「そんなこともできるの?」
「[レイ]をなめんな」
 ニヤリと笑うと、阿津もニッコリ笑った。初めて会った時とは全然違う。
「なあ、阿津、楽しいか?」
「楽しいよ、[レイ]」
「ならよかった。生きようぜ」



 まずは秘書に電話を入れた。
「システム課の林田です、ちょっと新しいシステムの導入を考えておりまして。お忙しいのは重々承知なのですが、一度直接見て、社長の意見をお伺いしたいと思っているのですが」
「少々お待ちください」
 保留音が流れる。林田がトイレに向かったタイミングでシステム課の電話を使った。姿は見えないとはいえ、電話が動いているのはおかしい。見られてはいけない。早く、早く戻ってくれ。そう願いながら、秘書からの返事を待った。
「お待たせしました、十五時からなら大丈夫とのことです。時間になったらお伺いします」
「ありがとうございます、ではお待ちしております」
 慌てて電話を切った。ほんの少しの差で、林田が部屋に戻ってくる。システム課は二名で稼働しているが、実際は林田が全て任されて動いている。もう一人の社員は林田の後輩で他部署のエラーやチェックで席を外している事の方が多い。そんななので、阿津が侵入するのも簡単だろう。正面からは会社内に入れないので、非常階段を使って外から中に入らせる。もちろん施錠は俺が内側から解く。あとは、もと居た会社だ、阿津のほうが詳しい。
 十五時少し前に阿津が待ち合わせた非常階段の入り口にやってきた。俺はそこで阿津と合流した。
「セキュリティは今俺が軽く切ってある、早く中に入れ」
 頷いて阿津が社内に侵入した。見られてはいけない。システム課に一番近い倉庫に隠れることにした。システム課の倉庫で、バックアップを取ったデータファイルやHDD、ディスク等を大量保管している。だがここにあるのは全て、林田が手を加えた後の、嘘の混じったデータたちだ。
 少しして社長秘書がシステム課のドアをノックした。
「はい、どうぞ」
 林田が返事をして、社長秘書がドアを開ける。そしてそこに見えた社長の姿に林田は驚いた。
「社長、どうなさったんですか?」
「どうなさったって、どれだね、新しいシステムというのは。あまり時間がないので早く見せてくれるか」
「どういう、話でしょうか?」
 知るはずもない林田がそう返事をする。そこへ、阿津が声をかけた。
「わたしが説明させていただきます」
 顔を見るなり、林田が声をだした。
「阿津?何してんんだ?クビになった男が」
「社長、見ていただきたいものがあります、お時間は取らせません」
 そう言って阿津は林田の後ろにあるパソコンに手をやろうとした。
「何をするんだ、大事なシステムに。社長、こいつ先月大きなミスをして自主退社した部外者です、すぐに警備員を」
「待ってください、社長!どうしても!どうしても見ていただきたいものが」
 その時ふっと、林田の動きが止まった。阿津にだけ、見えていた。[レイ]の俺が林田の後ろに回っていた。そして手にナイフを持っている。もちろん誰にも見えない。だけど、林田本人だけが、その背中に当たる何か、を感じ取っているはずだ。
「社長!事件です、これは!俺の後ろにいるやつをどうにかしてください」
「後ろ?誰もいないじゃないか」
「います、いますよ!」
 林田はそう叫ぶけれど、俺の姿が見えるはずもない。感覚で誰かがいると思っているだけなんだ林田は。恐れからかあまり動けなくなる林田を押しのけて、阿津がsuppress systemに手を伸ばした。
「やめろ、阿津!何をするんだ!」
「すべてを社長に見ていただく。おまえがやってきた数々の不正を」
「不正?」
 それを聞いていた社長が、携帯を取り出すと慌てて何処かへ電話をかけた。
「今すぐにシステム課に来てくれ」
 阿津は、手際よくsuppress systemのキーボードを操っていく。パスワードの入力画面が出た。
「無理だよ、それは俺にしか開けない」
 自信満々に言う林田をよそに、阿津はあるパスワードを入れた。午後一番に林田が変更したばかりのパスワードだ。入力してエンターキーを押すと、何やら画面が開いて一覧が表示された。日付から始まる表を目でやると、不正内容、関わった指図をした責任者名、そしてクビになった人物名。どのような経緯でシステム修正をしたのかをまとめてあった。そしてそこから発生した報酬金額が書かれている。眼鏡をきちんとかけると社長はそれを横から覗きこんだ。
「林田くん、これは何だね?」
「それは、何でしょうか、わたしにはさっぱりわかりませんが。こいつが、阿津が仕組んだんじゃないですか?」
 俺は、林田の背にぴったりとくっついたまま、ナイフの先をグッと先ほどより押し付けた。
「ひぃぃぃ!」
 声を上げながら動けない林田を見ながら阿津は言う。
「林田さん、これでいくと、ぼくをクビにした時の不正処理は林田さんが担当して、その後、小國さんからもらった報酬は二百万ということで間違いないですか?」
「知らない、知らないよ」
 そう言っている間に、上層部の人物が何名か集まっていた。
「小國くんも呼んでくれ、今すぐだ」
 社長が声をかけて、誰かが慌てて電話を入れた。最上階にあるシステム課にどんどん人が集まってくる。そのうち、林田は警備員に取り押さえられた。そして何気に阿津が、部屋の隅の天井を見上げた。俺はそこでニヤリと笑いながら浮いていた。少しして小國が現れると、suppress systemのデータを見て弁解を始めた。
「社長、これは何かの間違いです。阿津の不正の指図をしたなんて、私がそんなことするはずないじゃないですか」
「へえ、村上さんとのことも頼むって言って、もともと百万で取引しようとしていたのを二百万に自ら増やしたのは小國さんじゃないですか。阿津がいなくなればこれで全て自分のものにできるって。せっかく協力したのに、分が悪くなると嘘つくんですね」
 醜いもんだ。自分を守るためにそれぞれが他人の不正を口にだす。
「待ってくれ、この二つ前の件だが、これは林田のほうから話を吹きかけてきた」
 そこに居合わせた別の人物がまた、別件に関して不正を口にだす。
「それは金ならいくらでも出すって専務から言い出したんですよ?」
 林田もまた口を開く。
「とにかく、全員第三会議室へ連れて行ってくれ。それと、弁護士を今すぐ呼ぶように」
 社長は、警備員と秘書にそう指示をした。
「阿津、くんと言ったかね。無茶なやり方は正当ではないが、きみも話を聞かせてくれますか?」
「はい、ぼくでよければ」
 そう言って阿津は俺の方を見上げた。俺は小さく頷いた。


 小さな騒動になったその日、阿津は遅い時間に帰ってきた。
「身の潔白が証明されたよ」
「そうか、良かった」
「ありがとう、[レイ]」
「よかっただろ?俺に命預けて」
「ほんとに」
「それとあと・・・」
「なんだ?」
「村上さんに逢った」
「あぁ、婚約者の」
「無理やり、小國さんと付き合ってたらしくて。俺との婚約も、破棄しないと会社に居られなくすると脅されてたみたいで」
「なんだそれ、どこまで卑怯なんだよ」
「とにかく、よりは戻ったんで」
「あのさ、よりが戻るっていうのは、あれ?裸で抱き合うことを言うの?」
「え?」
「さっき帰りに何処だっけ、なんか派手な建物に入ってって、裸で抱き合ってたでしょうが?」
「なんで?」
「いや気になって。全ては任せた、と会議室には行かなかったけど、やっぱその後おまえがどうなるのかって思うでしょうが。したら村上佐世子と何だか知らない建物に入って行って、えっと、三〇二号室だっけ?あの真っピンクの部屋、目がチカチカしたよ。あそこでふたりで・・・」
「あああああああああああ!いい!それ以上!言わなくていい!なんで見てるの?そういうとこ。侵入してたの?俺からは見えなかったけど?」
「あぁ、建物の屋上から見下ろしてただけだからな。あそこの建物はみんな同じようなことしてんだな」
「見たものは仕方ないけど見なかったことにしてよ」
「なんで?」
「セックスしてるとこなんて、見られて嬉しいやついないでしょ?」
「セックスって言うんだ?」
「知らないの?」
「知らないね」



 俺は馬鹿だからさ。知らないことが多過ぎて。なんでも知ってるみたいに存在してるけど、[レイ]に関しては感覚でわかる。だけど人間に関しては、わからないことが多い。
「なあ、セックスってどんなの?」
 問いかけると、悠美は大きくむせた。
「そんなこと聞く?」
「ちょっと興味あって。裸で抱き合うんだろ?」
「知ってんじゃん」
「それで何が楽しいの?」
「楽しいっていうか、愛し合ってたら自然とそうなるでしょ?」
「愛し合ってたら、か。愛し合ってたら俺と悠美でもできるってこと?」
「そんなこと真顔で言わないでくれる?わたしの気持ち知ってるくせに」
「なんで怒んだよ」
 それで俺は、じっと悠美を見た。顔から順に視線を下に下ろすと頭をどつかれた。
「痛っ」
「今透視したでしょ?服の下」
「なんだよ、裸で抱き合うってどういうのかなと思って」
 背中を向けるようにしてまた悠美は大きな声で怒った。
「やめてよ、見ないでよ。この十年以上どんな気持ちで[レイ]のこと忘れようと努力したかわからないあなたに、同じ顔してそういうことされたら、どうしていいかわからなくなるでしょ?」
 あまりに声が大きかったので、ドアの向こうから声がした。
「悠美ちゃん、どうかした?」
 母親の声だ。
「何もない、電話してるの、友達と」
「そう」
 スリッパで歩く音が遠ざかっていく。俺は目を瞑って音の遠ざかっていく方を見た。母親はその後キッチンに戻った。隣のリビングではテレビを見ながらソファで父親が笑っていた。
 目を開けると、また悠美の部屋の風景が見える。背を向けたままの悠美を後ろから抱きしめた。
「俺がこういうことしたい場合はどうしたらいい?」
「こういうこと?」
「この着てる服脱がせたい」
「なんで?」
「触れてみたい、悠美の全部」
「いやだ」
「じゃあ俺が先に脱ぐよ」
 抱きしめていた手を離すと、俺は着ていたTシャツを一気に抜いだ。何気なく後ろを振り向くと、そんな俺の姿を見てまた悠美は向こうを向いた。そんな悠美の背中をもう一度抱きしめる。
「キスっていうのならいいの?この間したでしょ?」
「だめ」
「なんで?」
「だめだから」
 そういう悠美を、俺は無理やりこちらを向くようにチカラを込めた。自然と見える表情は、いつもと違う。優しく、そして戸惑っていた。手に取るようにわかった。
「触れたい」
 そう言って俺は、悠美の首元に手をやった。体にぎゅっと力を込めると、悠美は目を閉じた。それを見て俺は、悠美にキスをした。服の上から、肩や、背中や、胸や、ゆっくりと触れてみた。触れたいと思ったそれに、触れるたびにまた変な感覚に襲われる。俺はそのまま悠美を床に押し倒すと、キスをしたまま服をめくり上げた。素肌に触れるとますます体が熱くなる。
「愛してるってこういうこと?すごく、もっと触れたいんだけど」
 キスの合間にそう言うと、また悠美の目から涙が流れた。
「ずっとね、好きだったの。[レイ]のこと忘れたことないの」
「それは、別の[レイ]?」
「ううん、今は目の前の[レイ]」
 着ているものを全て剥ぎ取ると、また手に雫が触れた。涙ではない。
「これは?なんでここも濡れてるの?」
「愛してるから」
「じゃあ、ここに、俺が入れたいって思ってるのも愛してるから?」
「たぶん。そうだと嬉しい」
 怒ってるとか、泣いてるとか、そういう時と違う吐息を感じる。聞いたことのない感情が気持ちいい。心も身体も全てが気持ちいい。ねえ、これって何なの?


「なんだよ[レイ]も女とそういうことやってんじゃん」
 次の日、朝早くにパンをかじりながら阿津が俺にそう言った。
「やったって、あれだよな?これがセックスだろ?」
「中学生みたいな質問すんなよ。あ、中学生でもいまどき知ってるか。幼稚園レベルだよ、それ」
 今日から阿津は元の会社に戻ることになった。周囲の目も厳しいだろう。だけど、社長にかわれて戻ってこないかと誘いがあった。断るわけにいかないと、阿津は目を輝かせた。
「今度こそがんばるよ。村上さんとの婚約ももとに戻ったから。ありがとう、[レイ]」
「あと数日しか一緒に居られないけどね」
「それは俺もだ、本体にあとは任すしかないから。俺は静かに影に戻るよ」
 悠美からは相変わらず呼び出しがかかる。どうして彼女からだけは、音が届くのかわからない。ただ、あのキーンとした音に悲しみは消えた。心地よく、全身が溶けそうになるんだ。そして俺は悠美の部屋に瞬時に飛ぶ。また、裸で体を重ねるために。

「やっぱりあなたは変だよ」
「変?なんで?」
「人間と変わらない」
「変わるでしょう?あと数日でさよならだし」
「それ、それなんだけど」
「何?」
「満月が来ても、このままいるわけにはいかない?」
「どうして?」
「本体と入れ替わってしまったら、[レイ]のこと見えなくなる」
「それは無理だな」
「だって、こんなに好きなのに」
「それをやってしまったら、過去の二の舞になる」
「どういう?」
「影であるあんたが一生人間でいたいと願ってしまう。それは志垣の時と同じだ。悪いけど、あんたはあくまで影で、俺は[レイ]だってことだ」
「だったらなんで抱いたの?」
「どうしてだろう。欲しかった、悠美のことが」


 数日後、あれから二十九日が経った満月の夜。まずは阿津を、本体に戻した。何もなかったように阿津はマンションに戻り、後から訪れた村上佐世子と食事を取っていた。俺が阿津を見守ったのはそこまでだ。泣きそうだった。これでもう、あいつは俺の手を離れたんだから、と心に言い聞かせた。どうしてこんなに辛いんだろう。一人になるのが怖いんだろう。
 次は悠美だ。正直、悠美の言う通り、本体に戻したくはなかった。好きっていう感情を教えてくれた。だけどその夜、嫌がる悠美を無理やり、本体に戻した。


 初めての[レイ]の仕事は達成感のあるものだった。どうして俺が存在することになったのかは、わからないけれど。だけどそれはのちに明らかになった。すべて処分されたはずだった志垣の作った機械や薬や、その一つが実は残されていたのだ。かつて志垣を殺した[レイ]の手によって。[レイ]も何処かで気になっていたんだ、悠美のことが。いつか、どこかのタイミングで、いつかまた[レイ]として悠美の前に現れたい。そう願った。それが俺を作り出した。姿形を自分そっくりにして。悠美が見て、すぐに自分だと気づくように。
 その後悠美にも逢いに行かなかった。その間に三人の人間の手助けをした。どれも違うパターンの仕事で、終わるたびに切なくなるんだ。感情を持つ[レイ]というのはどうしたもんなんだろう。自分のこの新しい性質の[レイ]を恨んだ。だけど、これが有ったから悠美とも出逢えたんだ。

 キーンと、切ない音が届いたのはあれから何か月後だろう。どれだけ逃れようとしても逃げられないくらいひどい雑音で、俺は我慢しきれなくなって音の発信元に飛んだ。そこに悠美がいることはわかっている。何処だ、ここは。病院?静かな夜の病院だ。寝静まる院内に、灯りが付いているのはナースステーションの一角だけだ。迷わず俺はある一室に飛んだ。すぅっと部屋に入ると、そこには悠美が眠っていた。すぐ隣のベッドにいる小さな赤ちゃんの手を取ったまま。

 子ども?

 ベッド脇には[伊吹悠美ベビー]と書かれている。伊吹、ってことは結婚はしてない?苗字はそのままで、子どもだけ産んだってこと?そしてベッドの傍らに置かれたメモに目をやる。

[玲衣]

「れい?」

 声に出して読むと、赤ん坊が目を開けた。まだ何も見えていないであろう、産まれて数日の赤ん坊が。その手が俺の方に向けられた。

「聞こえんのか?俺の声」

 大きく欠伸をすると、赤ん坊は手をますます伸ばそうとした。それを手に取ると、眠そうに目を閉じながら、その子は少し笑った。そして安心したようにまた眠りについた。母親の隣で。

Ray 02

Ray 02

以前UPした「Ray」の続編になります。 「Ray」 http://slib.net/35837

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-05-26

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted