あのころ

 駅の北口を出てすぐの横断歩道を渡り、突き当たった本屋の左脇のゆるやかな坂道を上る。50メートルほどその坂を登ると、”カフェ・リリー”と看板を掲げている小さな喫茶店にたどり着く。店の前はピンクや青のペチュニアと、オレンジ色のマリーゴールドのプランターで華やかに彩られている。店の外壁は煉瓦づくりのようなデザインになっており、窓は内側からレースで飾られているのがわかる。

 今日の午後2時にそこで待ち合わせてお茶を飲もう、と由梨と約束していた。店の入口の右脇に立って、腕時計で時刻を確認する。ちょうど予定の時間の5分前だ。
 空はよく晴れている。西側からの日差しが強くて眩しい。七月の風に揺れるプランターの花の傍に、小さな黒板がイーゼルに立てかけてある。そこには「季節のハーブティー」や、「本日のおすすめスイーツ」など、いくつかの品物の名前が書かれていた。黒板の前まで寄り、少しかがんでそれらを読んでいると、後ろのほうから声がした。

 「しーちゃん?」

懐かしいあだ名で呼ばれて振り返ると、白いカーディガンに淡いピンクのワンピース姿の女が立っていた。

「由梨、久しぶりね。」

私が微笑んでそう言うと、女の顔もぱっと明るくなった。

「そうだね、本当に久しぶりだね!何年ぶりかな?10年くらいかな?」

由梨とは保育園から小学校まではいつも一緒に遊んでいた、いわゆる幼馴染だったが、中学に入るとほとんど会わなくなった。
それでも、彼女の大きな目をさらに大きくさせて喋るところや、艶のある黒髪と白い肌は昔とちっとも変わらないな、と思う。手足が細く、ワンピースもよく似合っているので、雑誌からそのまま出てきたモデルのようだ。私は最近買った紺の薄手のジャケットを着て来たけれども、やっぱりこれじゃなくてあっちのチュニックにすれば良かったかな、と自宅のクローゼットの中を思い出した。

「ごめんね、待たせちゃったかな?」
「ううん、私も今来たところだから。」
「そっか、よかった。今日は来てくれてありがとう。早速中に入ろう。このお店、紅茶がすごく美味しいんだよ。」

由梨がそう言って、先に入口へと進んだ。紅茶か。私は普段コーヒーしか飲まないから、紅茶のことはあまりよくわからない。
 
 店内は、外の暑さをさっと吹き飛ばしてくれるほど涼しい。照明は明るすぎず、落ち着いた雰囲気の店だ。イスとテーブルは木製の艶やかなアンティーク調のもので、店内にはクラシックが流れている。彼女はそのまま店の奥の方へ進み、あまり人目が気にならない、少し灯りが暗めの席を選んで座った。
 
 私も席に着くと、いらっしゃいませ、と店員がこちらに声をかけつつ、水を持ってきてくれた。とても喉が乾いていたので、私はすぐにグラスの水に口をつける。二人とも紅茶とケーキをそれぞれ注文し終えると、由梨の左手の薬指に指輪がきらりと光っているのを見つけた。

「あれ、由梨。ひょっとして、結婚してるの?」
「あっ、ううん、籍はまだ入れてないの。」
私がそう尋ねると、由梨は左手の薬指の指輪を隠すように右手で覆って言った。
「彼が今、仕事で忙しいみたいだから、それが落ち着いたら籍も入れるし、式も挙げる予定だよ。そのうちしーちゃんにも、式の招待状を送るね。」

由梨が早口で言う。なんだ、まだ籍を入れていないのか。指輪をもう少しよく見たいけれど、由梨の手が邪魔で良く見えない。

「相手、どんな人なの?」
「年は3つ上なんだけど、とても優しくて、素敵な人。うちのママも彼を気に入ってくれていて、私も彼もすごくホッとしてるの。」
由梨は照れながら笑った。私が聞きたいのは、そういうことではない。
「仕事は?何やっている人なの?」
「医者なんだ。私、医療事務の仕事やっているんだけど、同じ病院で働いているの。」
「あら、じゃあ社内恋愛なのね。」
「うん、まあ、そうね。でも知り合ったのは、趣味で見に行ったクラシックコンサートがきっかけなの。私がコンサート中に具合悪くなっちゃって、たまたま隣に座っていた彼が助けてくれたの。」
「へえ。それで趣味も職場も偶然同じで、意気投合したって訳か。」

医者と結婚か。勝ち組だな、この子は。

「しーちゃんは?何の仕事やってるの?」
「私は都内の商社で働いてる。今はまだだけど、そのうち海外でも働きたいなって思っているの。」
「へえー!海外?すごーい!世界を飛び回ってバリバリ働くんだ!」
「今はまだ、当分は日本で働くだろうけどね。」
 
すごいな、やっぱりしーちゃんは相変わらずかっこいいな、と由梨はなぜか少し興奮気味だ。

「あ、でも、忙しいのに急に呼び出したりしてごめんなさい。この間実家に帰ったら、しーちゃんが私の職場の近くで働いてるってママから聞いたら、昔を思い出して懐かしくなっちゃってさ。すごく会いたいなって思ったの。」
「ううん、いいよ。私も気分転換がしたかったから、ちょうど良かったよ。」
 
 単に懐かしくなっただけではないだろう。今回私を呼んだのは、結婚報告がメインだったのだろう。
お互いの近況を報告しているうちに、注文したものが運ばれてきた。由梨はローズヒップティーとアップルパイ。私はアイスティーとガトーショコラ。
 「いただきます」と一旦手をあわせてから、由梨がアップルパイを一口食べる。もぐもぐと口を動かしながら私と目を合わせ、ふふっと笑った。それを見て、私もガトーショコラの欠片を食べてアイスティーを飲む。既にアップルパイを飲み込んだ由梨はフォークを置き、私がストローからアイスティーをすすっている様子を見ていた。

「紅茶、飲まないの?」
「まだちょっと熱いから、冷めるのを待っているの。」

そうだ、昔から由梨は猫舌だったな。そう納得していると、由梨が続けて話を始めた。
 
 「しーちゃんとは久しぶりに会ったはずなのに、大人になったしーちゃん見ても違和感ないなあ。世界でバリバリ働くなんて、私が小さい頃に想像していた将来のしーちゃんそのものだもん。保育園のころから、しーちゃんは逞しかったし。懐かしいな。いつも一緒に遊んでたもんね。」
「そうね、砂場で泥団子作ったり、木登りしたり、コオロギを捕まえたりして。」
「木登りはしーちゃんだけだよ。私怖くて登れなかったから。小学校に上がってからも、毎日通学路で道草食ったりしながら通ってたよね。」
「それで学校が終わると、私はいつも由梨の家に行って遊んだなあ。」

由梨と思い出話をしているせいか、アイスティーを口に含むと、由梨の家でよく二人で飲んだレモネードの味を思い出した。

 私たちが遊ぶ場所は、大抵は由梨の家だった。由梨があまり外遊びするのを好きではなかったし、私の家では兄のゲームがあるだけで、小学生の女の子が遊べそうなものがなかったからだ。
 由梨の家には、なんでもあった。私の家にはなかったような最新のパソコンや、時計がついていてタイマーを設定できるパネルのついた冷蔵庫なんかがあった。由梨は当たり前のように、その冷蔵庫からアイスやケーキを出しては私に分けてくれたけど、そんな甘いものが冷蔵庫に常備されていることが、私にとっては珍しかった。
 そして、由梨自身もなんでも持っていた。私が欲しいと思っていたおもちゃは、一通り彼女が持っていた。私が親にねだっても買ってもらえないそのおもちゃたちを、彼女はいつも貸してくれた。
 テレビで新しいおもちゃが宣伝されれば、数日後には彼女の家で実物を見ることができたし、世間でハムスターが流行れば、彼女の家ですぐに遊ばせてもらえた。

「そうそう、飼っていたハムスターで一緒に遊んでいたら一匹脱走しちゃって、二人で部屋中探し回ったよね。見つけてもすばしこいから、私じゃすぐに逃がしちゃうし。あの時は、ほんとにどうなることかと思った。でもしーちゃんがすぐ捕まえてくれたんだよ。」

ハムスターは由梨が親にねだったものだから、彼女の部屋で世話されていた。自分専用の部屋を持っているのも、小学生の私に
とっては羨ましいことだった。彼女の部屋はおもちゃで溢れていたけれど、他にはそれらを収納する大きな透明ケースと、クローゼットと、ベッドと、勉強机と、低めの丸テーブルが置かれていた。ほとんど毎日由梨の家で遊ぶと同時に、彼女の部屋にも出入りしていたため、部屋のどこに何があるかはよく知っていた。
 
 「学校では、しーちゃんは勉強も運動もできたよね。私にたくさん漢字とか算数とか教えてくれたし。運動会のリレーにも選ばれたよね。しーちゃんすごく足が速くて、かっこよかったな。」

私たちの学校は子供の人数が多くなかったため、全学年がひとクラスずつしかなかった。由梨はクラスでそれほど目立った子ではなかったけれど、愛想が良く、他の子供たちよりも従順だったため、先生からは気に入られていた。クラスのちょっとした雑用や、生き物の世話などをよく任されていた。女子から仲間はずれにされていたわけではなかったが、その内気な性格のせいか、男子からはよくからかわれていた。

 「それに引き換え、なんで私は男の子にからかわれちゃうんだろうって思ってた。でも、しーちゃんがいつも助けてくれたよね。勉強ができなくてのろまだとか、先生に取り入っているだとか、ささいなことでからかわれて私が言い返せなくなると、しーちゃんがビシッと男子に反撃してくれるの。すごく心強かったな。だって、しーちゃんの方が頭だって良かったし、何を言っても説得力があったし。あんな男子たちよりも、しーちゃんの方がずっとかっこよかったなあ。」
 
 由梨はアップルパイにも、もう十分冷めているはずの紅茶にも手をつけないまま、うっとりしている。私はもう、ケーキを半分ほどまで食べてしまった。
 学年が上がっても、相変わらず私たちは由梨の家で遊んだし、彼女はからかわれ、私は彼女を庇っていた。しかし6年生の終わり頃になると、変化が起こった。彼女をずっとからかっていた男子の一人である亮太が、彼女に告白したのだ。卒業式の2週間ほど前のことだ。私はとても驚いたが、好きだったからからかっていたのかと思えば、納得はできた。

「告白されちゃったときは、びっくりしたよ。嫌われてると思ってたもん。でもね、嬉しかったんだ。亮太くん、私に指輪までプレゼントしてくれたんだよ。指輪っていっても、雑貨屋さんに売っているような、おもちゃみたいなものだったけど。」

ああ、思い出した。金色で、透明のビーズで少し飾られた、あの指輪か。

「男の子からプレゼントもらうなんて初めてで、嬉しくて、誰にも見せないうちに部屋の秘密の宝箱にいれておいたの。なくしちゃいけないなって思ったから。」
 
 私は黙ったまま、皿の上のガトーショコラをフォークで小さく切り分ける。由梨は、顔を少しうつむかせて続けた。

「でも、卒業式の日につけようと思って箱の中を見たら、なくなってたんだ。あれ、どこに行っちゃったのかな。」

ガトーショコラを口まで運ぼうとした私の手が止まり、それをそのまま皿へ戻すと同時にアイスティーを飲む。うつむいたままの由梨から、視線を感じた。店内に流れていたクラシックが一曲終わり、また別の曲が流れ始めた。
 
 由梨が誰かに言わずとも、亮太が彼女に告白し指輪をプレゼントしたことは、あっという間にクラスに知れ渡った。由梨が秘密にしていようとも、彼女がどこに指輪をしまっているのか、私にはすぐにわかった。
彼女のベッドは、部屋に入ってすぐの左の壁側にある。そのベッドの下には、彼女が幼い頃から集めたおもちゃたちが詰まったプラスチックケースが、3つほど収納されていた。3つ並んで置かれているうちの真ん中のケースを引き出すと、奥の壁際の方に小さな赤い木箱を見つけることができる。遊んでいる途中で由梨がトイレに行っている隙に、私はその木箱を取り出して中を開けた。その中には彼女が大事にしていた手紙や、私が海で拾って彼女にあげた綺麗な貝殻が入っていた。そしてそれらの他に指輪が一つ、大切に仕舞われている。それが、亮太がプレゼントしたものだということは、すぐにわかった。指輪を取り出し、自分の着てきたコートのポケットの中に入れ、素早く木箱とプラスチックケースを元の状態に戻した。その直後にすぐ彼女はトイレから戻ってきたが、私がベッドの下を漁ったことに、どうやら気付いていないようだった。
由梨は、なんでも持っている。私の欲しいもの、憧れるもの、全て。
どれほど彼女より勉強ができてスポーツができても、私の心に生まれる黒い霧を晴らすことができなかった。私が絶対に買ってもらえないようなブランドの可愛らしい洋服を彼女が着ていたり、ゴールデンウィークに海外へ家族で旅行した土産を彼女からもらうたびに、心の霧は濃くなった。

その上彼女は、私の好きな人まで自分のものにしようというのか。そんなこと、させない。

「指輪なくしちゃったから、亮太くんにはごめんなさいって言ったんだ。まあ、今となっては亮太くんも、そんなこと覚えていないだろうけどね。」

由梨は顔をあげて紅茶を一口飲み、アップルパイを食べ始めた。
 
 私たちは二人とも地元の公立中学校に入学したが、私は所属した陸上部とその朝練のため、由梨と毎日一緒に行き帰りすることはなくなった。クラスも離れ、友達もそれぞれ見つけ、お互いの距離は離れていった。中学卒業後は、完全に違う道に進んだ。彼女は市内の高校に入学し、私は隣の市にある進学校に入学した。
 小学生の時に見つけてしまったこの黒い芽にずっと向き合えず、地元での成人式で由梨と顔を合わせるのが怖かった。それでも、いつかは由梨に話をしなくてはならない。こんな卑怯な過去を置き去りにしたまま、大人になりたくない。だから、成人式は最初で最後のチャンスかもしれない、と思っていた。
しかし、その時私が彼女に会うことはなかった。彼女にとっては不幸なことに、遠方に住む祖父の葬式と重なってしまったのだ。
だから今日、こんな形で自分の過去の罪と向き合わねばならないとは思っていなかったし、そんなことはもう忘れたつもりにしてしまっていた。
 
 そんな自分の狡さを前に私は何も言えないまま、皿の上に残されたガトーショコラを見つめていた。由梨は紅茶を飲みながら、高校ではどうだったのか、進学した大学での生活は楽しかったのかなどを私に質問しながら話を進める。彼女は私が一つ話をするごとに、やっぱりしーちゃんはすごいなあ、と私を褒める。
 由梨が紅茶を飲み終え、私もケーキを食べ終えたところで、由梨が腕時計で時刻を確認した。

「あ、もうこんな時間になったんだ。そろそろお会計しようか。」

由梨がそう言うので私も腕時計を見てみると、時刻は午後4時を過ぎようとしていた。もうそんなに時間が経っていたのか。
そうだね、と彼女に同意して私は席を立ち上がった。彼女も「ごちそうさまでした」と手をあわせてから席を離れた。
 
 店を出ると、日差しはまだ弱まっていなかった。少し熱気を帯びた風がふわっと吹いて、由梨のワンピースのスカートが揺れた。

「しーちゃん、今日は本当にありがとう。久しぶりに話が出来て、すごく楽しかった。」
「私も。久々にしーちゃんなんてあだ名で呼ばれて、すごく懐かしくなったよ。」

そっか、と由梨がくすくす笑う。

「私はこれから駅に向かうんだけど、しーちゃんは?」
「私は、坂の上にあるコンビニにちょっと寄って行こうかな。」
「そっか。じゃあ、ここでお別れだね。」

お互いに、またね、と言い合ってからくるりと向きを変えて、由梨が坂を下り始める。私はまだ、去っていく彼女の後ろ姿を見ていた。
 
 まだ、伝えていないことがあるではないか。

「由梨!」

少し距離が開いてから私が呼び止めると、きょとんとした表情をしながら彼女は振り返った。

「結婚、おめでとう。幸せにね。また、今日みたいにお茶を飲もう。」

そう言うと、彼女はにっこり笑って大きく頷き、少し手を振って、再び歩き始めた。

 私も坂を登り始める。コンクリートの照り返しを感じながら、ふっと大きく息を吐いた。少しだけ、胸の奥が軽くなったような気がした。

あのころ

あのころ

彼女との再会で蘇る、子供の頃の小さな罪と、それに向き合えなかった大人の私。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-05-24

Copyrighted
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